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20キロ圏の神社が消える?──「文藝春秋」昨年8月号掲載拙文の転載 [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2012年4月1日)からの転載です


 陛下の術後のご容態が芳しくないようです。

 3月30日の宮内庁発表によると、同月7日と20日の2度にわたる胸水穿刺にもかかわらず、胸水の貯留がなお認められ、しばらくご静養を延長されるもようです。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h24-0212.html#k0330

 メディアの報道では、抜きとれられた胸水は2リットルを超え、少しの散歩でも息が荒くなるご様子、といわれます。

 医師団が今回、心臓外科手術を決断した理由・目的は「Quolity of Life」にある、と伝えられますが、現状では、いわゆるご公務やテニスなどのスポーツはまだしも、激務とされる宮中祭祀への復帰はかなり厳しいのではないかと心配されます。

 マスコミは、手術後も、大震災追悼式のご臨席など、陛下のご公務が続いていることを指摘していますが、それどころか、昨年11月の御不例以来、祭祀のお出ましはほとんどありません。

 御拝が恒例となっていた、2月11日の建国記念の日に検査入院が行われ、2月17日の祈年祭の日に手術のためのご入院となり、3月20日の春季皇霊祭・神殿祭に時刻に胸水穿刺の御治療が行われ、それでいて、翌日に国賓のご会見が設定されるという具合です。

 ご健康上、やむを得ず、御代拝にせざるを得ないとしても、御所でお慎みになる機会さえ設定されないのは、歴代天皇が第一のお務めとして最重要視した祭祀がいかに軽んじられているか、ということでしょう。

「皇太子同妃両殿下の時代から、祭祀を大切にしてこられた」(宮内庁HP)という陛下であれば、どれほどおつらいことでしょうか。

 さて、今日は、「文藝春秋」昨年8月号に掲載された拙文「20キロ圏の神社が消える」を転載します。

 被災地の復興が遅々として進まないなか、郷土の精神史のシンボルである神社はますます困難な状況に置かれています。

 なお、若干の加筆・補正が加えられています。


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20キロ圏の神社が消える?
──「文藝春秋」昨年8月号掲載拙文の転載
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1、「氏子を守る」と津波に呑み込まれた宮司

 福島第一原発から北方約七キロの海浜に、双葉郡浪江町請戸(うけど)地区という古い漁村がありました。大津波で、全世帯403戸がほぼ壊滅したといわれます。

 真っ青な太平洋に臨む、広い浜辺には、荒波を鎮め、豊漁をもたらす神として、少なくとも千数百年の昔から漁民たちの崇敬を集めてきた苕野(くさの)神社がありました。毎年2月下旬に行われる安波(あんば)祭は、下帯姿の若者たちに担がれた樽御輿が冷たい冬の海に入り、大暴れする勇壮さで知られました。

 宮司は57代目、昭和13(1938)年生まれの鈴木澄夫さんですが、悲しいことに、巨大地震発生および大津波の襲来以来、行方が知れません。

 江戸時代から続く、ナマコ壁の酒蔵が跡形もなく倒壊するほどの烈震で、宮司宅の屋根瓦はすべて落ち、狭い道路をふさぎました。「津波が来る。早く逃げよう」。総代たちが必死に避難を誘いましたが、昔気質の鈴木宮司は頑として応じません。「氏子が一人でも残っているうちは、逃げるわけにはいかない。氏子を守るのが神職の務めだ」。道路が大渋滞し、混乱をきわめるなか、情け容赦なく襲ってきた大津波に、宮司も照美夫人も呑み込まれたといいます。

 それから数カ月、大阪に嫁いだ3女の倉坪郁美さんは「歴史ある神社をぜひとも復興したい」と語ります。しかし、延喜式神名帳に記載されるほど由緒正しい村の鎮守の再興には、幾重もの壁が立ちはだかっています。


2、テレビは映らず、電話は通じず

 福島県内3040社の神社を包括する福島県神社庁のトップ・足立正之庁長は大地震発生のその日、宮司を務める霊山(りょうぜん)神社(伊達市霊山町)の社務所で、夫人や娘さんと、翌日に予定されていた崇敬者夫人の五十日祭の準備に追われていました。

 ようやく準備が整った矢先、突然、震度6弱の激しく長い揺れが襲いました。舗設し終えたばかりの祭壇や神饌(しんせん)があたり一面に散乱し、壁が落ちました。外に出ると、灯籠が倒れ、境内に地割れが走っていました。

 同じころ、福島市の中心街に位置する福島稲荷神社の宮司でもある丹治正博副庁長は、社務所内で、書類という書類が飛び散る、猛烈な揺れを体験していました。窓の外では本殿が右に左にしなっています。「宮司さん、(末社の)鳥居が倒れました。灯籠が倒れました」。若い職員の悲痛な叫びです。

 揺れが収まると、ビル街からビジネスマンたちが、寒さに震えつつ避難してきました。「大鳥居には近付かないでください」。余震が心配でした。緊急自動車が何台も、けたたましいサイレンを鳴らし、走り去っていきます。私立大学の校舎が倒壊したのです。やがて夜の帳が下りました。市内は真っ暗。神社の一角だけは停電を免れました。津波が沿岸部を無慈悲に襲う映像をテレビが映し出します。丹治宮司は息を呑みました。


3、30社以上が流失もしくは全壊

 3月18日、足立庁長は大地震後はじめて、県神社庁に登庁します。相変わらず電話は通じず、丹治副庁長とは携帯メールで辛うじて連絡がとれる程度でした。情報が閉ざされた状況のなかで、被害の概要が分かってきたのは、じつに大地震発生から半月後でした。

 丹治副庁長によると、福島県内3040社のうち、約1800社が何らかの被害を受けました。鳥居、狛狗(こまいぬ)、灯籠など境内の工作物や祭器具、事務機器などの損壊は、全県下で確認されたといいます。

「会津地区」と「中通り地区」では、主要建物の一部損壊が広範囲にわたって発生したものの、全壊は報告されていません。とくに被害が集中するのは「浜通り地区」、相馬・双葉・いわきの三支部で、福島第一原発から半径20キロ圏内の警戒区域内の約200社については、原発事故によって立ち入り調査ができず、被災の実態すら分かりません。しかし、少なくとも30社以上が流失、もしくは全壊したと考えられています。

 足立庁長は「双葉支部管内は全域が壊滅し、支部それ自体が消滅した」と天を仰ぎます。

 生活の困難は被災者も神職も同様で、福島県内約600人の神職のうち、避難生活を余儀なくされているのは1割にあたる60人。神社が失われ、祭器具も流失し、装束(しょうぞく)すら持ち出せず、着の身着のままで避難した神職は、神明奉仕の術(すべ)を喪失しただけでなく、衣食住すべてを失って、生活困難に陥っています。

 なかでも、公務員や教員などの職を持たず、神明奉仕のみに徹してきた、若い専業神職たちは、生活の糧(かて)を完全に絶たれて、悲惨な状況に置かれています。

 いわき市の北東端、久之浜(ひさのはま)は地震、津波に加え、火災による被害を受け、町の中心はほぼ壊滅、多くの犠牲者を出しました。町の氏神・諏訪神社の高木優美(まさはる)禰宜(ねぎ)は昭和60年生まれ。諏訪神社は被害を免れたものの、兼務社数社は流出もしくは半壊。しかも、本務の市内神社から解雇され、無収入状態に陥りました。それでも「神社を復興したい」と若いエネルギーを燃やし、わが身を省みずに、支援物資輸送、瓦礫撤去などの支援活動に東奔西走し、郷土再生プロジェクトの中心を担っています。


4、被災地のために一日も早い神社再興を

 3月25日、県神社庁は被災神社復興のために災害対策本部を正式に設立しました。足立庁長らはこの時点では、神社の復旧・復興が当然、行われるべきだし、可能だ、と考えていました。原発事故の深刻さ、長期化についての理解が十分ではなかったからです。

 足立庁長と丹治副庁長は二人でくり返し話し合ったといいます。「震災復興は往々にして目に見える建物や町の復興がすなわち復興だと考えられている。けれども、再建されなければならないのは、戦後の日本人が失った大切なもの、精神的存在としての人間の生き方である。大震災をひとつの契機として、人間の心の面に主眼を置いた復興を考えなければならない」

 丹治副庁長には苦い思い出がありました。16年前の阪神・淡路大震災で、若い神職たちが全国から神社復興支援のため集まりました。ところが、ある文化人から予想外の強い批判を浴びました。「自分たちの神社の復旧ばかりで、被災者のために何もしていない」。一般誌に何度も掲載された酷評に、まだ若かった丹治副庁長は強く反発したものの、反論の術はありませんでした。

 全国に約8万社ある神社は、それぞれの土地に固有の、多様な信仰を伝えています。現代の宗教法人法上によれば、代表者は神職たる宮司ですが、村の鎮守といわれるように、歴史的に見れば、氏子たちによる地縁共同体の精神的拠点です。教えを広めることを第一義と考える仏教やキリスト教なら、布教活動の一環として被災者への支援活動も大いにあり得るでしょうが、神道はそうではないのです。地域の心の支えであり続けてきた神社を復興させ、伝統の祭りを一日でも早く復活させることが被災者と被災地のためであり、自分たちの使命だ、と丹治副庁長は強く思うのでした。


5、自然への畏れを忘れた民族は滅びる

 4月に入ると、福島県神社庁は特別メッセージ「東日本大震災に寄せて」と、足立庁長による激烈な長文のエッセイ「東日本大震災による福島県の諸状況」を立て続けに発表します。県神社庁が独自に、対外的な情報発信をするのはきわめてまれでした。

 特別メッセージは「自然への畏れを忘れた民族は滅亡する。畏れこそが神様への祈りの原点である。神様に祈ることで人間はふたたび大いなる力を得、幾多の困難を克服してきた」と、祈りの大切さを冒頭で訴え、天皇の祈りと全国津々浦々の神社での神祭りの意義を確認するものでした。


6、神社庁長の異例な政府批判

 足立庁長のアピールには、原発事故と避難政策によって、父祖伝来の郷土が失われ、住民の心の支えである神社が消滅することへの強い危機感が表明され、とりわけ政府の無策ぶりを厳しく非難する、きわめて異例のものでした。

 足立庁長が口を極めて政府を批判する一番大きな理由は、「自分たちはこのまま故郷を追われた放浪の民となってしまうのか」という、県民すなわち氏子崇敬者の苦悩が身につまされるからでしょう。

「大地震、大津波、原発事故の三重苦で、瓦礫の片付けどころか、遺体の収容や行方不明者の捜索すら許されず、復旧への足掛かりを得ることすらできない。原発事故は終息の見通しが立たず、生活再建などとうてい考えられない。不安と焦躁ばかりが募り、心身の休まらない苦悩の日々が続く」(前掲エッセイ)

 ところが、政府はあろうことか、県民の心のよりどころさえ奪おうとしているのでした。

 3月25日に政府は、被災者生活支援特別対策本部長・環境大臣より、「東北地方太平洋沖地震における損壊家屋等の撤去等に関する指針について」という通達を、被災した福島・青森・岩手・宮城・茨城・栃木・千葉の7県知事に発しました。

 原形をとどめていない住宅ほか、用をなさない建造物や車両・船舶などについて、たとえ所有者が不在であっても、所有者の意思が確認できなくても、県や市町村の判断で処分してもよい。そのために当該の土地に立ち入ってもよい。霊璽(位牌)やアルバムなど、所有者個人にとって価値のあると認められるものについては、作業の過程で発見され、容易に回収することができる場合は一律に廃棄しない、という内容でした。

 足立庁長は、この通達が引き起こすことの重大性を、声を大にして訴えます。祖先たちが大切に守ってきた郷土の聖地が失われかねないからです。

「かりに福島第一原発から半径30キロ圏内が国有地化され、強制集団移住の事態となれば、この圏内に鎮座する神社は消滅することとなる。避難先に神社の仮境内地を確保されることはおよそ考えられない」(同前)

 つまり、この通達が実施されると神社存続の危機につながるのでは、と危惧するのです。

 神社の信仰は多くの場合、土地と結びついています。それぞれの土地に、土地をつかさどる神がおられる。軽々しく神様の引っ越しをすることはできないのです。

 現行の宗教法人法は、儀式行事を行うことを目的のひとつとし、礼拝の施設を備えていることを宗教法人としての要件としていますが、地震と津波で礼拝施設を完全に破壊され、儀式を斎行するための施設や祭器具などを完全に喪失しただけでなく、原発事故によって境内への立ち入りさえ困難になった被災神社について、「宗教法人格の保有を、はたして国は今後も認めてくれるのか」と足立庁長は案じています。

 宗教法人法第81条は、1年以上、宗教活動が行われない、礼拝施設の滅失したあと、特別の理由がないのに、2年以上、施設を備えない。1年以上、代表役員・代務者を欠いている、などの場合、裁判所は解散を命ずることができると規定されていますから、とくに20キロ圏内の被災神社は宗教法人格を失いかねません。毎年、作成しなければならない財産目録および収支計算書すら、いまは揃えられないのですから。

 なかでも急を要する課題は、もっとも神聖に取り扱われるべき神社の御霊代(みたましろ。御神体)についてです。個人の思い出としての位牌やアルバムは廃棄しないけれども、郷土の精神史のシンボルである神社の御霊代は瓦礫として扱っていいというのは、完全に矛盾しています。


7、いまも復興できない淡路島の神社

 足立庁長が政教分離問題に言及するのは、神社界が経験した過去の苦い経験に基づく、それ相当の理由があります。

 淡路島の北部・淡路市(津名郡一宮町)に鎮座する伊弉諾(いざなぎ)神宮の本名孝至宮司によると、平成7年1月の阪神・淡路大震災で、兵庫県神社庁津名郡支部内の神社189社のうち3分の1が被災し、とくに20社が深刻な被害を受け、被害総額は数十億円に上りました。しかし震災から16年経ったいまでも、「復興できない神社が支部内に4、5社ある。社殿は仮設のプレハブのままで、祭りは神事のみ細々と行われている」と嘆きます。

「当時、伊勢神宮の遷宮によるトラック3台分もの古材が下賜され、全国から多額の義援金も提供された。しかし神社復興のリーダーがいないとか、氏子同士が遠慮し合う場合、神社再建は難しい」

 本名宮司が指摘するのは、それだけではありません。「神社への偏見がある」といいます。

 平成8年夏、兵庫県は文化財と歴史的建造物の復旧に対して、「復興基金」による最高500万円の補助を決め、8月に申請を受け付けました。ところが県神社庁にも知らされず、神社は半年間ものあいだ、蚊帳の外に置かれていたのです。

 神社関係者が県や町に照会して、行政の担当者があわてて説明に来るという始末で、その後、12月の二次申請に向けた作業に急いで着手するという事態になり、震災直後から支部長の職に就いた本名宮司(当時は禰宜)は「はなはだ遺憾」と唇を噛みました。

 たしかに現行憲法は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(20条)、「公金は、宗教上の組織の使用、便益もしくは維持のために支出してはならない」(89条)と定めていますが、実際には緩やかな分離政策が採られています。

 たとえば、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む東京都慰霊堂は、公有地にあり、年2回の慰霊法要が都内の5つの寺の持ち回りで行われています。長崎の二十六聖人記念碑は長崎市の市有地に立地していますし、小泉内閣以降には首相官邸で「イフタール」というイスラムの断食明けの食事会が行われました。

 しかし、宮中祭祀や神社となると、政教分離の厳格主義が頭をもたげてくるのです。

 同様のことは平成16年の新潟県中越地震でも起きました。長岡市の蒼柴(あおし)神社の境内にある約80基の灯籠が地震で倒壊したままの惨状をしばらくさらしていました。

 2年前の地元紙の報道によると、市民から「長岡のシンボルを復活させて」という声が上がっているのにもかかわらず、復興できずにいるのは、不況で住民らの寄付が集まらないことのほかに、文化財に指定されていないために県の基金が活用できないからだと記事は伝えています。新聞記者の取材に、市は「政教分離の観点から神社への助成はできない」と語っています。

 けれども文化財に指定されていない宗教施設が、公金によって速やかに復興されるようになった事例がないわけではありません。

 たとえば、長崎・新上五島町の江袋(えぶくろ)カトリック教会です。明治に建てられた長崎県内最古の木造教会でしたが、惜しくも4年前に火災で焼失し、わずかに一部の柱や壁が残るだけとなりました。

 文化財に指定されていなかったことから復興が危ぶまれましたが、約2カ月後、町は全焼した教会を文化財に指定し、信徒の信仰のよりどころである教会再建に弾みがつきました。


8、氏子が一人でも残るなら

 被災神社の存続について、福島県神社庁は「氏子がひとりでも避難せずに残っているあいだは、厳として御鎮座あるべきだ」との指針を示していますが、足立庁長らは「氏子・住民の強制的な避難が国策的に展開されるなら、神社存立に非常に難しい判断を迫られる」と不安を募らせます。

「30キロ圏内の国有地化、住民の強制集団移住ともなれば、氏子は離散を余儀なくされる。古代からの歴史ある氏子区域は消滅し、氏子共同体の意識も失われる。神社の再建はまったく不可能となり、住民たちの士気も消沈してしまうのではないか」(足立庁長)

 大震災発生から4カ月を超えたいま、希望の光が見えないわけではありません。

 南相馬市鹿島区(旧相馬郡鹿島町)・御刀(みと)神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のときに勧請されたと伝えられる古社ですが、津波のため社殿がすべて流出しました。けれども、若い神職たちの協力で境内の清掃が行われ、全国的な協力のもと、仮社殿の建設も進められました。森幸彦禰宜は「地域が忘れられてはならない。忘れさせられてはならない」と、ツイッターで被災地のいまを発信し続けています。

 足立庁長は被災地の神社復興の困難を百も承知で、「福島県民は、かならず再起する」と言い切ります。


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