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宮中祭祀をめぐる今上陛下と政府・宮内庁とのズレ──天皇・皇室の宗教観 その4(「月刊住職」平成27年12月号) [宮中祭祀]

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宮中祭祀をめぐる今上陛下と政府・宮内庁とのズレ
──天皇・皇室の宗教観 その4(「月刊住職」平成27年12月号)
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「月刊住職」平成27年9月号から、皇室の信仰、昭和天皇の仏教観について、歴史的検証を試みた。すでに筆者の任務は終わっているようにも思うが、引き続き現代編を書くよう編集部から要請されたのを受けて、再び押っ取り刀を手にとることにする。


▽1 現行憲法を起点とする非宗教主義

 天皇・皇室の宗教観を考えることは、〈天皇とは何か〉を考えることにほかならない。皇統は神代にまで遡り、「葦原千五百秋(ちいほあきの)瑞穂の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾皇孫(いましすめみま)、就(い)でまして治(し)らせ」(日本書紀)と皇祖神より国家の統治を委任されたというお立場なら、そもそも宗教性は否定できない。

 さらに順徳天皇(第84代。在位1210~21)の『禁秘抄』に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあるように、歴代天皇は祭祀をなさることが第一のお務めと信じられ、仏教に帰依された多くの天皇もまた祭祀を厳修されたのだからなおさらだ。

 ところが、世俗化が進んだ現代では、天皇の宗教的側面が否定され、現代人の天皇観は歴史と伝統から切り離れたものとなり、祭祀は驚くべきことに宮内庁当局にすら軽視されている。

 たとえば、御即位10年を記念して宮内庁が編集した記録集『道』には、即位礼当日、祭服を召され、賢所大前の儀に臨まれた両陛下のお写真こそ口絵の冒頭に載っているが、本文には宮中祭祀に関する記述らしいものが見当たらない。公式記録から外されているのである。

 その代わり、繰り返されているのが「日本国憲法」である。

 憲法上、天皇の祭祀はあくまで「私的行為」である。17年になって、宮内庁のHPに宮中祭祀が載るようになったが、平成の祭祀簡略化やいわゆる「女性宮家」創設の主導者と目される渡邉允元侍従長などは雑誌インタビューで「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」と言い切っている(「諸君!」2008年7月号)。

 政府も同様で、小泉内閣時代に皇位継承制度を検討し、「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と結論づけた皇室典範有識者会議の報告書は、さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討したと説明しているが、皇室自身の天皇観、つまり天皇=祭り主という観点は完全に無視された。

 皇室の歴史と伝統ではなく、70年に満たない現行憲法を出発点とする非宗教主義が社会を席巻し、その結果、何が起きたのかといえば、宮中祭祀の改変であり、歴史に例を見ない女系継承容認論、いわゆる「女性宮家」創設論、つまり悠久なる皇室の制度を日本国憲法流に変革する革命的というべき試みであった。

 今上陛下は即位礼正殿の儀で「(先帝の)御心を心として」「日本国憲法を遵守し」と述べられた。伝統と憲法の両立を、陛下は折に触れて何度も繰り返し表明されているが、政府・宮内庁当局はそうではなく、「憲法の遵守」だけをつまみ食いしている。このズレは何だろうか。そこには皇室の祭祀について、じつに厄介な誤解と偏見以上のものがある。


▽2 稲と粟の祭りは国民統合の儀礼

 日本の皇室を考える際、最大のキーワードは価値多元主義である。それは亜熱帯から亜寒帯まで気候の幅が広く、四季折々に美しさと厳しさとを見せてくれる日本列島の自然の多様さと通じているだろう。自然と共存する人々の暮らしも多様であり、山の民には山の民の、海の民には海の民の信仰が息づいてきた。

 そのような多様なる民を多様なるままに統合し、争いのない平和な社会を保つためには統治者は何をすべきなのか。天皇が祭り主であり、祭祀が第一のお務めであるなら、天皇の祈りは多神教的、多宗教的でなければならない。

 キリスト教世界に君臨するローマ教皇なら一神教の典礼で十分であろう。世界を創造した絶対神以外に神は存在しないのだから、当然である。天帝の息子=天子たる中国皇帝は、ただひとり天を祀る。天壇に登ることが正統性の証明である。けれども日本の天皇は皇祖神を祀るだけではない。「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(養老令)とされたのだ。

 カトリックは第二次大戦後になって、ようやく諸宗教容認に踏み出した。第二バチカン公会議は「諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言し、教皇ベネディクト16世はトルコのブルー・モスクで祈り、今秋(平成27年秋)、訪米した教皇フランシスコはグランド・ゼロで、諸宗教の代表者たちとともに祈りを捧げた。

 いまや諸宗教協力を積極的に推進しているバチカンだが、その祈りはあくまで唯一神に捧げられる。

 だが天皇の祈りには世界に稀な多神教性、多宗教性がある。それは皇室第一の重儀とされる新嘗祭を見れば分かる。

 毎年11月23日の夕刻から翌日にかけ、天皇は特別の祭服を召され、宮中の聖域の奥深く、宮中三殿の西隣に位置する神嘉殿で、古来の作法に従って、あまたの神饌を皇祖天照大神ほか天神地祇に供され、みずから召し上がる。

 なかでも重要とされる神饌は、その年に収穫された新米・新粟を炊いた米の御飯(おんいい)・御粥(おんかゆ)、粟の御飯・御粥、および新米をもって醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の神酒である。神人共食の儀礼は夕(よい)の儀と暁の儀の2回、繰り返される。

 なぜ米と粟なのであろうか。新嘗祭といえば、しばしば稲の祭りと考えられているが、誤りである。

 新嘗祭は古くから民間でも行われている。最古の記録は元明天皇(第43代。707~715)の詔を受けて編纂された風土記のひとつ、『常陸国風土記』のなかの筑波郡の物語だが、稲の新嘗ではない。粟の新嘗の晩に人々が忌籠もりし、神々と交流したと記されている。

 粟の新嘗に関する学術研究はきわめて少ないが、東南アジア島嶼地域に連なる焼き畑農耕文化と指摘される。たとえば台湾の先住民にとって、粟は儀礼文化には欠かせない、とくに重要な作物で、人々は粟の神霊を最重要視し、粟の酒と粟の餅とを神々に供えたという(吉田集而ら『酒づくりの民族誌』)。

 当然だが畑作民は粟の新嘗を行い、水田稲作民は稲の新嘗を行う。けれども天皇は稲と粟の複合儀礼を行われる。

 天皇一世一度の新嘗祭が大嘗祭で、古い記録には神事の作法が生々しく記述されているが、米と粟に軽重の差はない。つまり稲の儀礼ではなく、稲と粟の儀礼なのだが、案外、理解されていない。

 大嘗祭について、政府や宮内庁は「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」(宮内庁『平成大礼記録』など)と定義している。しかしこの理解では稲作以前の歴史や非稲作民とは無関係な儀礼ということになる。

 稲作民による稲作信仰が源流なら、特定の宗教儀式であり、憲法の政教分離原則に反するし、したがって国の行事としては行えないという論理になる。実際、真田秀夫内閣法制局長官が「大嘗祭は神式のようだから、憲法上、国が行うことは許されない」と国会答弁している。

 だが逆に天照大神から稲穂を授けられたという神話に基づく稲作儀礼なら、稲の新穀を大神に捧げれば十分で、粟を供する必要も、天神地祇に供する必要もない。

 つまり稲と粟の多神教的祭りは特定の宗教儀礼ではなく、国民統合の国家儀礼であり、だからこそ多神教的、多宗教的なのであろう。教義も牧師も信徒もいない宮中祭祀は特定の宗教とはいえないはずだし、宗教儀礼でないなら憲法の規定を侵すことにはならない。

 バチカンは1936年の指針で、「国家神道の神社」の儀式も「愛国心のしるし」で「社会的な意味しか持っていない」なら「信徒が参加することが許される」と認めている。それかあらぬか、実際、カトリック信徒の女性が天皇の祭祀に奉仕していると聞く。唯一神の信仰を侵さないとの確信があってのことだろう。

 多宗教性の痕跡はほかにもある。明治の神仏分離で仏教的要素が排除されたいまなお、神道以外の要素が指摘される。

 新嘗祭に登場する白酒・黒酒のうち、黒酒は米を醸し、久佐木(くさぎ)という植物の根の焼灰を加えて造る。詳しい製法が延喜式に記述されているが、「易と五行説を援用して、精緻なまでの配慮のもとに構想された神酒」との指摘がある。

 延喜式には「その年の星と天皇の御生年の星との関係から、吉とする方角に生える木を採れ」とあり、久佐木は「恒山」とも表現されている。中国の名嶽・北嶽である。北は神の座すところである。

 原料は米の総量1石(10斗)に対して、加える水の量は5斗。現在の醸造法なら総米100に対して汲水130だから、あまりにも少ない。だが易学的には「土気成数10」と「土気生数5」を合わせ、酒が造られ、土気完成を見ると理解できる。

 発酵ののち、ひとつの甕から1斗7升8合5勺、二つの甕を合わせれば3斗5升7合の酒が得られる。これも3+5+7=15で、やはり「土気成数10」と「土気生数5」の組み合わせによって土気が完成するのである。

 土気は四季を支配する。生命は土気の作用で生育する。豊穣を祈り、収穫を感謝する祭りは強く土気を意識した祭りとなる。神酒もまた土気を意識して造られなければならないのだ(岩瀬平「山口県神道史研究」所収論文)。

 それなら、陰陽五行説や麹が伝わる前の神酒はどうだったのか。私は粟の酒が黒酒の原形ではなかったか、胚芽の糖化力を利用した酒ではなかったかと想像している。畑作地域には大正期まで粟酒があったようだし、平安期の伊勢神宮には麹を使わない火無浄酒(ほなしのきよさけ)があったという記録が残っている。

 皇居内の水田で稲作を始められたのは昭和天皇だが、今上陛下はその精神を引き継がれ、粟も栽培される。けれども宮中祭祀の多神教的、多宗教的理念はいよいよ危機に瀕しているように見える。


▽3 無神論者長官が破壊した皇室の伝統

 本誌が読者のもとに届くころには、今年(平成27年)の宮中新嘗祭は終わっている。宮内庁のHPには「両陛下は宮中の祭祀を大切に受け継がれきた」とあるが、今年も「お出ましの時間を短縮」(平成23年11月宮内庁発表)という簡略新嘗祭が行われていることだろう。

 数年来の簡略化は「ご健康問題」が理由とされ、「担当医師の判断に沿い」と説明されているが正確ではない。

 平成20年暮れの御不例を受けて、宮内庁は翌年1月、具体的なご公務ご負担軽減策を打ち出したが、じつのところご公務は逆に増え、一方、文字通り激減したのが祭祀へのお出ましだった。

 天皇の祭りは昭和40年、50年代以降、側近たちによって、密室のなかで、一方的に改変された。それは現代の官僚たちが日本古来の多神教的、多宗教的原理を見誤った結果ではなかったか。

 明治維新以来、皇室が先頭に立って推進された日本の近代化は、価値多元主義を否定する、キリスト教世界由来の一元主義を国家的に受け入れることだった。軍隊、官僚制、学校、税制、憲法、議会制度などなど、そして「文明の衝突」が起こるべくして起きたのだ。

 アインシュタインは「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」(日本印象期)と近代日本を賞賛する一方、伝統的美意識の喪失に警鐘を鳴らしたが、その警告は現実化し、やがて日本はほとんど世界を相手に戦争し、未曾有の敗戦という歴史的屈辱を味わった。天皇制の敗北であり、昭和天皇に戦争責任ありと考える人も少なくない。

 天皇の祭祀が近代法として整備されたのは明治41年の皇室祭祀令で、大日本帝国憲法および皇室典範(旧)の制定からさらに約20年後のことだった。

 最大の転機は70年前の敗戦である。日本国憲法の公布・施行に伴い、すべての皇室令は廃止された。しかし宮中祭祀の形式はかろうじて守られた。「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理」とする宮内府長官官房文書課長の依命通牒が発せられたからである。

 ところが敗戦にも勝る転機が訪れた。昭和43年、侍従次長に昇格した入江相政は独断で、新嘗祭の「簡素化工作」に着手し、翌秋、侍従長に駆け上がると「四方拝は御洋服、テラスで」と祭祀改変に躍起となった。慣例を完全に無視し、依命通牒を反故にしたのである。

 さらに無神論者を自任する富田朝彦次長(のちの長官)が登場すると、祭祀の改変はいよいよ本格化した。側近の記録によれば、50年8月15日の長官室会議以降、平安期以来の石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なる毎朝御代拝は形式が非宗教的に変更された。その基準は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法の政教分離原則で、側近の侍従は祭祀に関わるべきではないとされた。

 価値多元主義の核心である天皇の祭祀を無理解なまま「宗教」と決めつけ、宗教の価値を尊重しているはずの憲法を根拠にこれを否定する。無神論者長官の登場は、信教の自由を保障する憲法の目的を大きく外れて、あたかも宗教を信じない自由を国家が援助、助長、促進する効果を生むという最大の矛盾をもたらし、皇室の原理を崩壊させたのである。

 その後、事態が表面化し、社会的批判を浴びてもなお、宮内庁の態度は頑なだった。神社本庁は抗議の質問書を突きつけ、宮中祭祀を担当する掌典長は神社関係者の主張を明確に認めたが、その後、入江はさらなる簡略化を進めた。

 そして平成の御代替わりでは、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」を対立的にとらえ、従来通り行うことが憲法の趣旨に反すると考える儀式については国の行事ではなくて、皇室行事として挙行することとされ、皇室の伝統が破壊された(拙文「宮中祭祀を『法匪』から救え」=「文藝春秋」2012年2月号)。

 皇位継承後、今上陛下は皇后陛下とともに、祭祀の正常化に努められたといわれる。しかし御在位20年を迎えて、側近たち主導の祭祀改変が再び始まった。陛下のご高齢とご健康を名目に、昭和の先例を根拠とする、悪夢の再来である。

 争わずに受け入れるのが天皇の至難の帝王学だが、昭和天皇がそうだったように、今上陛下もまた最大の抵抗をなさったらしい。

 渡邉元侍従長の説明では、18年春から宮中三殿の耐震改修が行われるのに伴って祭祀の簡略化が図られた。工事完了後も側近は、ご負担に配慮し、簡略化を継続しようとしたが、陛下は「筋が違う」と認められなかった。ただ、「在位二十年になったら考えてもよい」と仰せになったことから見直しが行われたとされる(渡邉『天皇家の執事』)。けれどもご負担軽減は名ばかりだった。


▽4 憂慮される次の御代替わり

 心配されるのは、やがて訪れる御代替わりである。いまのままでは悪しき先例が踏襲されるだろう。

 懸念は早くも現実化している。宮内庁は2年前(平成25年)、「御陵および御葬儀のあり方」について、御陵の規模の縮小、御火葬の導入など、検討結果を公表した。

 指摘すべき問題点は3つある。

 1点目は、宮内庁の検討が「皇室の行事である御葬儀」についてであり、「国事行為たる大喪の礼について検討したのではない」と明言されていること。つまり、政教分離の厳格主義に基づく、国の行事と皇室行事との分離挙行という昭和の先例踏襲が宣言されているのだ。

 2点目は、皇室典範有識者会議も皇室制度有識者ヒアリングも検討過程が公開されたのに、今回は非公開であること。3点目は「両陛下の御意向を踏まえ」と説明する当局の姿勢である。

 有識者会議は皇族方の意見に耳を傾けず、羽毛田信吾長官は議論の行方を憂慮された寛仁親王に向かって「皇室の方々は発言を控えていただくのが妥当」と口封じに及んだ。それなのに今度はなぜ「御意向」なのか。

 本誌読者は土葬から火葬への転換を神道的御葬儀の仏式化などと単純に考えるべきではない。本質は皇室制度に関する明文法的基準の喪失である。

 明治人は長い年月をかけて宮務法の体系を構築した。敗戦後、苛烈な神道指令下にあって皇室令は廃止されたが、依命通牒によって祭祀の伝統は「皇室の私事」の名目で守られた。

 独立回復後、きちんとした法整備を図るというのが当時の政府の方針だったが、その後、政府はその努力を怠り、宮内庁は法的基準を破棄し、非宗教化させたのである。

 入江侍従長は「東宮様(今上陛下)御発議で、皇族の総意」による昭和天皇の祭祀の簡素化を画策したらしい。側近らの責任追及を回避し、法的基準に代わって祭式改変を正当化するものが「御意向」であり、「医師の判断」なのである。次の御代替わりも同じご都合主義が採用されることは間違いない。

 鎌倉節長官の指示で、宮内庁内で皇位継承に関する非公式検討が開始されたのは平成8年のようだが、明治人のように時間をかけ、慎重に新しい法的基準を作成するまでには至っていない。

 陛下の側近といえば傑出した人格者揃いと世の人々は考えるだろうが、実態はまるで異なる。今上陛下は皇后陛下以外、支援者のいない困難な現実のなかで、おひとりで皇室の伝統と尊厳を守ろうとされているかに見える。

 今上陛下は平成2年11月、大嘗祭をお務めになり、歌を詠まれた。

父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ

 陛下は宮中祭祀の重要性を片時もお忘れではない。だが当局は現行憲法第一主義に固まり、祭祀は蹂躙されている。だとして政府・官僚批判で解決できるかといえば、そうもいきそうにない。

 皇后陛下にはイスラム過激派による石仏破壊を詠まれた厳しい御歌がある。

知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず

 異教文化否定の蛮行を非難することはたやすい。だが、同様の非道を私たち自身が冒していることはないか。近代主義にどっぷり浸かり、長い皇室の歴史と伝統を深く理解しようとしないのは、われわれ国民も同じかも知れない。

(一部敬語敬称略。参考文献=拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』、私家版電子書籍『検証「女性宮家」創設論議』など)

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