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「教会の外に救いなし」 ──「祈りの存在」の伝統とは何か? 6 [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年6月9日)からの転載です


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「教会の外に救いなし」
──「祈りの存在」の伝統とは何か? 6
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 さて、以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋です。一部に加筆修正があります。


第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む

第2節 「祈りの存在」の伝統とは何か?──知的探求がうかがえない櫻井よしこさんの反対論


▽6 「教会の外に救いなし」
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 しかし、ここに根本的な誤りがあるのではないでしょうか。学問が未熟なのです。未熟な学問が皇室を窮地に陥れているのです。

 鎌田先生は神社祭祀の専門家でしたが、宮中祭祀の専門家ではありませんでした。両者は似て非なるものです。そのことを先生はどこまで掘り下げていたのでしょうか?

 大嘗祭を「稲作儀礼」とする説明は明らかに、いわゆる天孫降臨神話が念頭に置かれています。皇祖天照大神が天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に際して稲穂を授けられたとする物語です。

 けれども、天皇の祭祀がこの信仰に基づく稲作儀礼であるならば、皇祖天照大神を祀る伊勢神宮の祭祀が1年365日、稲の祭りであるのと同様に、皇祖神を祀る賢所で、皇祖神に稲の新穀を捧げれば十分です。

 ところが、実際、天皇は大嘗宮(新嘗祭なら神嘉殿)で、皇祖神ほか天神地祇に、稲のみならず粟の新穀を供えられ、みずから召し上がるのです。

 新嘗祭のひと月前、10月に行われる神嘗祭(かんなめさい)も、同様に神前に新穀が捧げられますが、もともとは伊勢神宮の祭りで、天孫降臨神話に基づくとされ、新嘗祭とは異なり、賢所で行われ、主として米の新穀が供されます。歴史も新しく、賢所神嘗祭は明治4年に始まりました。

 祀られる神、祭場、祭式、神饌が異なるのです。なぜ天神地祇なのか、なぜ大嘗宮(神嘉殿)なのか、なぜ粟なのか、です。少なくとも新嘗祭、大嘗祭はけっして稲作儀礼ではありません。

 天皇の祭祀が稲作儀礼であるという理解なら、以前、原武史明治学院大学教授(当時)が、もはや農耕社会ではない現代において、農耕儀礼である宮中祭祀の廃止を検討したらどうか。皇太子は格差社会の救世主として行動すべきだ、と問題提起したように、宮中祭祀廃止論も十分な説得力を持ち得ます。

 稲作信仰だとすれば、「皇室の私事」とされるべきだという主張も十分、あり得ます。政教分離規定に反するという法的判断もあながち間違いとはいえません。

 けれども、後述するように、宗教的な儀礼ではなくて、複数の宗教的ルーツを持つ国家的儀礼だということなら、どうでしょうか。判断はまったく変わってくるはずです。信教の自由を侵すこともありません。

 たとえばバチカンは、かつて「教会の外に救いなし」を基本的原理とし、異教徒や異端者と激しく敵対しました。けれども、数百年来、異教世界の儀礼や慣習・習慣について、信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、むしろ尊重するように、と信徒に教えています。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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