櫻井よしこさんにとって天皇の祭祀とは何か? ──「祈りの存在」の伝統とは何か? 7 [女性宮家]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年6月10日)からの転載です
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櫻井よしこさんにとって天皇の祭祀とは何か?
──「祈りの存在」の伝統とは何か? 7
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「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを始めました。皆様、ご協力のほどよろしくお願いします。
〈https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB〉
さて、以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋です。一部に加筆修正があります。
第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む
第2節 「祈りの存在」の伝統とは何か?──知的探求がうかがえない櫻井よしこさんの反対論
▽7 櫻井よしこさんにとって天皇の祭祀とは何か?

「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」
「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」
これが1659年にバチカンの布教聖省が宣教師に与えた指針で、やがて20世紀になると、日本の信徒には靖国神社参拝が認められ、中国では孔子廟での儀式参加が許されました。
さらに第2バチカン公会議では、異教世界の価値を明確に認めるようになりました。
「カトリック教会は、これらの宗教の中にある真実にして神聖なものを何も拒絶することはない」(「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」)
強烈な唯一神信仰を捨てたカトリックは、そのルーツが異教儀礼だとしても、国民的儀礼、国家的儀礼ならば、唯一神への信仰には反しないと正式に教えているのです。信教の自由を侵さないし、したがって政教分離問題を招かないことになります。
日本では、昭和7年に有名な上智大学生靖国神社参拝拒否事件が起きました。事件の内容は、今日、教会指導者が理解しているところとはまったく違うのですが、それはともかく、当時、日本の教会は、信者が異教儀礼に由来するような行為を公的に認められた場合の対応について照会し、これに対してバチカンは、靖国神社の儀礼参加を国民的儀礼として許したのでした。戦没者への敬意は宗教儀礼ではなくて、国民の義務だという判断でした。
これが今日、広く知られるようになった1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」ですが、戦後、1951年に出されたバチカンの新しい指針もこれを確認しています。
「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。日本政府は明確に言明してきたし、この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使ドハーティ枢機卿は昭和12年に参拝したのだ」
異教儀礼に由来する靖国神社の国民的儀礼への参加が許されるどころか「信徒のつとめ」とされるのなら、もともとが国民的あるいは国家的な儀礼である天皇の祭祀ならなおのこと、キリスト教の信仰に反し、信教の自由を侵すことにはなりません。
逆に、稲作民の稲と畑作民の粟を捧げる天皇の祭祀は、稲作民、畑作民それぞれの信教の自由を保障する機能を持つものといえます。
「空飛ぶ教皇」と呼ばれたヨハネ・パウロ2世は、精力的に世界中を飛び回り、ローマ教皇として初めてイスラム教のモスクを訪問し、黙祷しました。
カトリック教会は、独善性を捨てるのに、きわめて長い年月と莫大な犠牲を要しましたが、日本の天皇はまったく異なり、千年以上も前から、毎日欠かさず、あらゆる神々に祈りを捧げ、多様な宗教が平和的に共存する社会を実現してきたのです。
これが、天皇が古来、「祭り主」とされる意味であり、「しらす」という意味なのではありませんか?
論より証拠、明治以来、側近たる侍従や祭祀に携わる内掌典として、キリスト教徒が近侍していることが知られています。唯一神の信仰と矛盾しないことは明らかです。
昭和59年4月17日の参院内閣委員会で共産党の内藤功議員が、もし異宗教の信者である侍従に御代拝させることになれば、違憲の疑いがある、と宮内庁に質問したことがありますが、天皇の祭祀が宗教的活動でないとすれば、まったく問題にはなりません。
櫻井よしこさんは、天皇の祭祀とはいかなるものと考え、御公務と定義すべきだと主張しているのでしょうか?
以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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櫻井よしこさんにとって天皇の祭祀とは何か?
──「祈りの存在」の伝統とは何か? 7
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第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む
第2節 「祈りの存在」の伝統とは何か?──知的探求がうかがえない櫻井よしこさんの反対論
▽7 櫻井よしこさんにとって天皇の祭祀とは何か?

「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」
「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」
これが1659年にバチカンの布教聖省が宣教師に与えた指針で、やがて20世紀になると、日本の信徒には靖国神社参拝が認められ、中国では孔子廟での儀式参加が許されました。
さらに第2バチカン公会議では、異教世界の価値を明確に認めるようになりました。
「カトリック教会は、これらの宗教の中にある真実にして神聖なものを何も拒絶することはない」(「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」)
強烈な唯一神信仰を捨てたカトリックは、そのルーツが異教儀礼だとしても、国民的儀礼、国家的儀礼ならば、唯一神への信仰には反しないと正式に教えているのです。信教の自由を侵さないし、したがって政教分離問題を招かないことになります。
日本では、昭和7年に有名な上智大学生靖国神社参拝拒否事件が起きました。事件の内容は、今日、教会指導者が理解しているところとはまったく違うのですが、それはともかく、当時、日本の教会は、信者が異教儀礼に由来するような行為を公的に認められた場合の対応について照会し、これに対してバチカンは、靖国神社の儀礼参加を国民的儀礼として許したのでした。戦没者への敬意は宗教儀礼ではなくて、国民の義務だという判断でした。
これが今日、広く知られるようになった1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」ですが、戦後、1951年に出されたバチカンの新しい指針もこれを確認しています。
「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。日本政府は明確に言明してきたし、この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使ドハーティ枢機卿は昭和12年に参拝したのだ」
異教儀礼に由来する靖国神社の国民的儀礼への参加が許されるどころか「信徒のつとめ」とされるのなら、もともとが国民的あるいは国家的な儀礼である天皇の祭祀ならなおのこと、キリスト教の信仰に反し、信教の自由を侵すことにはなりません。
逆に、稲作民の稲と畑作民の粟を捧げる天皇の祭祀は、稲作民、畑作民それぞれの信教の自由を保障する機能を持つものといえます。
「空飛ぶ教皇」と呼ばれたヨハネ・パウロ2世は、精力的に世界中を飛び回り、ローマ教皇として初めてイスラム教のモスクを訪問し、黙祷しました。
カトリック教会は、独善性を捨てるのに、きわめて長い年月と莫大な犠牲を要しましたが、日本の天皇はまったく異なり、千年以上も前から、毎日欠かさず、あらゆる神々に祈りを捧げ、多様な宗教が平和的に共存する社会を実現してきたのです。
これが、天皇が古来、「祭り主」とされる意味であり、「しらす」という意味なのではありませんか?
論より証拠、明治以来、側近たる侍従や祭祀に携わる内掌典として、キリスト教徒が近侍していることが知られています。唯一神の信仰と矛盾しないことは明らかです。
昭和59年4月17日の参院内閣委員会で共産党の内藤功議員が、もし異宗教の信者である侍従に御代拝させることになれば、違憲の疑いがある、と宮内庁に質問したことがありますが、天皇の祭祀が宗教的活動でないとすれば、まったく問題にはなりません。
櫻井よしこさんは、天皇の祭祀とはいかなるものと考え、御公務と定義すべきだと主張しているのでしょうか?
以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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