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寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御 ──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 13 [大嘗祭]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2019年10月18日)からの転載です

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寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御
──荷田在満『大嘗会便蒙』を読む 13
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『大嘗会便蒙』下 大嘗会当日次第

▽13 寅の半刻にまで及んだ回立殿への還御

レ、子の一の刻、神祇官、内膳膳部等を率い、主基の膳屋に還り、神饌を料理す
大嘗宮地図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
 悠紀のときと同様である。


ロ、次に主基寮、御湯を供す

 これもまた小忌の御湯という。


ワ、御湯殿以下、一に悠紀の儀のごとし
回立殿内図@大嘗会便蒙@御大礼図譜.png
 御湯殿の儀で、祭服を召し替えなさることは、悠紀の儀との同様である。ただし、御冠は改めなさらない。

 次に御手水を供する。陪膳は悠紀のときと同様である。役送は勧修寺右中弁と烏丸左少弁清風とが勤められる。

 次に采女が時を申すことは悠紀と同様である。


ヰ、主基の嘗殿に還御す

 この道もまた大蔵の官人が2幅の布の単を敷く。ただし、回立殿から大嘗宮の、北の鳥居の内までは悠紀のときの道と同じである。

 北の鳥居を入って、行き当たりの袖垣と鳥居との中央から東へ折れて敷く。袖垣の東の端と悠紀殿の縁の端との中央から南へ折れて敷き、正中の鳥居の前から西へ折れて敷く。鳥居と主基殿の東の縁の端との中央から南へ折れて敷く、南の柴垣と主基殿の南の縁との端との中央から西へ折れて敷く。南階の中央に当たって北へ折れて、階下まで敷いて、この上を渡御がある。

 宮内輔が葉薦を敷き、掃部寮のこれを巻くより以下、路地の供奉ならびに渡御が終わって、大蔵、宮内以下、鳥居の外に出て、関白、外陣の西壁の下に著座しなさるまで、悠紀のときに少しも変わることはない。

 今年はこの還御が丑の刻(斎藤吉久註=午前2時)におよんだ。


ヱ、小忌の郡官、各著座。大臣、南鳥居内、西辺東南、納言以下、同鳥居外、東面北上

 悠紀のときに準じて知るべきである。すなわち納言以下の座は、右大臣の座の巡からやや西に当たる。


ヲ、大忌の公卿、移著の儀なし。

 これは小忌の人に対していうのである。昔は、このあいだに小忌の人が悠紀の幄の座を起って、主基の幄の座に移り就いた。いまは幄がないけれども、小忌の公卿は主基の座に改め就くのである。

 ただし、大忌の公卿は座を改め就く儀はない。これは小忌の人に対していうことである。昔も大忌の幄は、悠紀、主基の別がないため、移り就く儀がないからである。


ン、次に大忌の公卿、庭中の版位に就きて、手を拍つ

 悠紀のときと同様である。ただし、このたびは醍醐大納言は西の方にあり、清閑寺中納言はその東に少し退いて就かれる。また、この前に、開門のことは悠紀のときと同様である。ここに書かないのは、悠紀のときに準じて略したのである。


あ、寅の一の刻に御膳を供し、四の刻にこれを撤し、回立殿に還御す
大嘗宮内図@大嘗会便蒙.png
 いずれも悠紀のときと同じである。今年はこの還御が寅の半刻(斎藤吉久註=午前5時)におよんだ。

(斎藤吉久註=『昭和大礼要録』(大礼記録編纂委員会編、昭和6年)によると、昭和天皇が主基殿の儀で、御告文を奏上されたのが午前2時18分、回立殿から頓宮に還御されたのは3時10分と記録されています。
 宮内庁の『平成大礼記録』によると、平成の大嘗祭では、天皇が主基殿内陣の御座に就かれたのは1時04分、神饌御親供ののち御拝礼、御告文奏上をされたのは2時40分、主基殿を退出されたのは3時24分でした)


い、次に采女、南戸に進み、還り申すのことあり

 この采女も、時を申す采女と同じである。還申の詞は「あさめもとり、ゆふべあかつきのみけ、たひらかにつかんまつりつ」と申すという。


う、勅曰云々

 云々はかくのごとくという心で、この勅はよしとのたもう御ひと言である。


え、采女、称唯して退出す

 称唯は答えである。その詞はうう。


 次回は節会です。



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