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宮中新嘗祭が「米と粟の祭り」である理由 [宮中祭祀]


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宮中新嘗祭が「米と粟の祭り」である理由
(令和4年11月20日、日曜日)
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台湾総督府のパイワン族リポートを読んで、もっとも衝撃的で、なおかつ得心したのは、粟を神聖視するパイワン族が稲作を禁忌していることだった。首狩の習俗を持つ台湾先住民にとって、米は文字通り、敵対する敵の作物なのである。

そのことはいまの日本人には理解が難しい。農家が田んぼも畑も作るのがふつうだと考えるからである。けれども、かつてはそうではなかっただろう。ヤマとサトは別の文化圏であり、粟と米はそれぞれを象徴する主要作物だったに違いない。ここが重要である。

つまり、なぜ日本の天皇は、祭りをもって第一のお務めとされ、もともと文化圏が異なる米と粟を神前に捧げ、直会なさるのか、である。

いや逆に、天皇というお立場だからこそ、米と粟の神事をなさるのではないか。つまり、天皇が衣食住や信仰、文化の異なるさまざまな民たちをまとめ上げる国民統合のお役目を一身に担っているからであり、であればこそ米と粟による新嘗の神事が「皇室第一の重儀」と位置付けられるのではないかと理解され、あらためて得心するのである。

神嘉殿の新嘗祭でもっとも重視されるのは、いうまでもなく、神饌行立、神饌御親供である。米と粟がそれぞれ甑で蒸され、ひとつの御飯筥に並んで納められ、天皇は御飯(おんいい)を竹折箸を用いて、手づから供饌される。天皇がなさる、天皇にしかできない祭祀の重要さはここにあるということだろう。だから、秘儀とされる。

パイワン族にとっては粟オンリーであり、稲作民にとっては米オンリーである。つまり、ふつう民の立場では「米or粟」だが、天皇にとっては「米and粟」なのである。だとすれば、神饌の調理法も供饌の方法も同じでなければならない。

パイワン族の場合、粟の祭祀に用いられるのは粟餅である。日本でも、たとえば『常陸国風土記』に登場する粟の新嘗は粟餅が神に捧げられていたのかもしれない。今回、私の実験でも、蒸し上がっておにぎりにして食べるより、すりこぎで餅についた方がはるかに美味しく感じられた。

しかし宮中新嘗祭では、延喜式以来、いまは甑で蒸しただけの粟の御飯(おんいい)である。なぜなのか、その調理法はおそらく米の御飯と同等・同格に捧げられる必要性に発したものだろう。神饌は人間の食べ物ではなく、神の食べ物だからである。味は無関係だ。

粟の御飯はその昔はもち粟100%が用いられたのかもしれない。米の御飯もまたもち米100%だったのではないか。だとすれば、甑で蒸すという調理法こそふさわしい。

しかしいまは米も粟もうるち種が混ぜ合わされる。新嘗祭のために献納される米や粟がもち種とは限らないからだ。いやむしろ、うるち種の方が多いのだろう。米はまだしも、粟だとうるち粟だけなら、ポロポロになってしまう。
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地方から献納されることの意義は最大限、優先されなければならない。だが、ポロポロでは祭祀が成り立たない。ポロポロ感を抑えるためには、逆に、献納されたうるち種にもち種をあとから加えることになるが、それでも限界があるのだろう。

実際、宮内庁掌典職OBの証言によれば、粟の御飯を供饌される際、竹折箸では扱いにくいため、陛下がたいへん苦労されるらしい。私の実験でもそのことは容易に想像された。けれどもそれは米の御飯と粟の御飯を同列に扱うことの結果である。

米の御飯と粟の御飯は、皇祖神ほか天神地祇に捧げられる、あくまで神饌として、同等に扱わなければならない。つまり、天皇は一視同仁、米の民と粟の民を同等に思し召され、この国を統治されるという、もっとも重要な天皇の精神がここに凝縮されているのである。

パイワン族は粟を神聖視し、米作は禁忌され、敵視された。けれども、天皇無敵なるゆえに天皇は米と粟をひとしく神々に捧げられる。だとすれば、新嘗祭・大嘗祭は「稲の祭り」ではなく、「米と粟の祭り」でなければならない。

最後に蛇足ながら、パイワン族の祭祀では粟の酒と粟の餅が捧げられる。宮中新嘗祭の酒、すなわち白酒・黒酒は両方とも米が原料だが、延喜式で現在の製法が確立される以前は、もしかすると米と粟だったのではなかろうか。

それにしてもである。いまの日本では粟の酒はない。粟の祭祀も宮中以外にはほとんど見出せない。どこへ消えてしまったのだろう。なぜ消えたのだろう。

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