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白鳥と化して飛ぶ穀霊 ──京都・伏見稲荷大社の起源説話 [神社]

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白鳥と化して飛ぶ穀霊
──京都・伏見稲荷大社の起源説話
(「神社新報」平成8年6月10日)
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 明治天皇の御陵・伏見桃山山陵は京都・伏見区のほぼ中央に位置し、東山三十六峰の南端・古城山の南斜面にある。400年前、秀吉が築いた伏見城の本丸址に当たる。

 北西600メートルのところには桓武天皇の柏原陵があり、平安京が開かれたときの天皇と、近代になって首都が東京へ遷されたときの天皇の御陵が隣り合っているというのは、何か歴史的な因縁めいたものを感じさせる。

 さらに北へ3キロ、稲荷山の西麓に鎮座するのは伏見稲荷大社である。全国に約4万社あるといわれる稲荷神社の総本社であることは、いうまでもない。『山城国風土記』逸文に同社の起源説話が描かれているが、そこには1羽の白鳥(しらとり)が登場する。

 狐ならいざ知らず、稲荷信仰と白鳥とは意外な組み合わせのようにも見えるが、そうではない。白鳥とはじつは穀霊の化身なのである。


▢ 「白き鳥と化成りて飛び翔りて
▢ 山の峯に居り伊禰奈利生ひき」


『山城国風土記』逸文には、こう記されている。

「伊奈利(いなり)というは、秦中家忌寸(はたのなかつえのいみき)らが遠つ祖・伊侶具(いろぐ)の秦公(はたのきみ)、稲粱(いね)を積みて富み裕(さいわ)いき。
 すなわち餅(もちい)を用いて的(いくは)となししかば、白き鳥と化成(な)りて飛び翔(かけ)りて山の峯におり、伊禰(いね)奈利生(なりお)いき。ついに社の名となしき。
 その苗裔(すえ)にいたり、先の過(あやまち)を悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に植えて祷(の)み祭りき。いま、その木を植えて蘇(い)きば福(さきわい)を得、その木を植えて枯れば福あらず」

 前段の解釈は、富豪となった秦伊呂具が持ちを的にするなど、米を粗末に扱ったために神罰が当たったとするのが一般的だが、帝塚山大学の山上伊豆母先生は、そうではないという。

 原文は遊び半分とは書いておらず、豪族の驕り高ぶりと解するのは封建時代の教訓的なこじつけだというのだ(「帝塚山大学論集」38号、82年9月)。

 餅が真っ白な鳥に化身して大空を舞い、やがて緑なす山の峯にとどまり、稲が生える。古代のロマンを感じさせずにはおかない物語だが、山上先生はこの白鳥は単なる霊鳥ではなく、穀霊だとして、「穀霊白鳥」と名づけている。

 鳥が穂をくわえて運び、稲がもたらされたという伝承は、民俗学では「穂落とし神」と呼ばれる。

 柳田国男は『海上の道』に、千葉・大通寺、三重・伊勢神宮および伊雑宮、沖縄・久高島の例を挙げている。

 千葉・市原市米原(よねはら)の曹洞宗・長粳山大通寺は応永7(1400)年の開基とされる古刹で、地名や山号がいやでも稲作との関連を想像させる。

 かつては100坪ほどの稲田があり、仙鶴がもたらしたとされる稲籾の大きさが卵ほどもある赤米が栽培されていたといわれる。

 ただ住職は、私の取材に対して、開山のときに奥州水沢の女仙人から長粒のウルチ米をもらい受け、これが地名になったのが真相だといい、

「鶴が稲をくれたなんてあるはずがない」

 と怒っていた。

 鎌倉中期成立とみられる神道五部書のひとつ、『倭姫命世記』には、垂仁天皇27年のこととして、皇大神宮の朝夕の御饌を奉るのにふさわしい地を求めて巡行する皇女・倭姫命の物語が記されている。

 昼夜、鳴き続ける鳥があったので臣下を遣わすと、葦原に1茎で1000穂の霊稲があり、白真名鶴が稲穂をくわえて鳴いていた。

「鳥でさえ田を作って大神に奉っている」

 命は稲を御料とし、この千田の地に伊雑宮を建て、真名鶴を大歳神として佐美長神社をまつる。

『日本書紀』によれば、命によって天照大神をまつる祠(内宮)が「傍国(かたくに)の化怜(うま)し国」伊勢国に建てられ、斎宮が五十鈴川のほとりにおかれるのは、2年前の垂仁天皇25年である。

 國學院大学の中西正幸先生は、神宮の神嘗祭はこの「白真名鶴」の伝承にまでさかのぼることができると指摘する(國學院大學日本文化研究所編『神道事典』)。

 沖縄の伝承に登場するのは、白鳥ではなく鷲である。

 柳田によると、沖縄本島の東南・久高島に白い小甕に入って、五つの種子が流れ寄ってきたが、シラチャネすなわち稲種だけが欠けていたので、アマミキョが祈ったところ、鷲が飛んでいって300日後に戻ってきた。これを植えた田が三穂田だという。

 アマミキョ(阿摩美久)は琉球の開闢神である。久高島は古代神事イザイホーで知られ、「神の島」といわれる民俗の宝庫でもある。


▢ 死者の霊魂が赴く「稲荷山」
▢ 古墳を祭場とする祖霊信仰


 伏見稲荷大社は寛元3(1245)年に火災に遭うまで、稲荷山の山上に鎮座していたといわれる(『山州名跡志』など)。

 白鳥が飛んでいって山の峯に稲が生えたとする創祀伝承からすれば不思議はないが、稲作が平地の水田で始まったというのならまだしも、なぜ山の峯なのか?

 京都大学の渡部忠世先生は、古代の稲作は、

①山岳・丘陵地の畑と山間小湿地、
②小河川の河谷盆地、
③河川中流域の扇状地、
④海岸平野、
⑤デルタ上部、
⑥デルタ沖積地

 ──というように展開したと説明する(『稲の大地』)。

「耕して天に到る」(『資治通鑑』)のではなくて、稲作は山間で発生し、平地に降ったというのだが、だとしたら伏見稲荷大社の起源説話は、①の段階の古い稲作の発生を暗示しているのだろうか?

 同社では4月12日には水口播種祭、6月10日には御田植祭、10月25日には抜穂祭が斎行される。奉仕するのは大阪・三島講の奉耕者たちだ。約3アールの神田は社殿の裏手、稲荷山の谷間にあり、山の峯に稲が生えたとする説話を思い起こさずにはいられない。

 京都産業大学の所功先生は、御田植祭がいまのような形態で執行されるようになったのは昭和以後だ(「“耕す文化”の再生」=「大いなり」平成8年4月号所収)と書いているが、同社によると、「中世に斎行されていたことを示す記録もある」。

 ただ、場所や祭りの形態までは分からないらしい。

 起源説話は稲荷信仰の古層に潜む「山の神」信仰が示されていると見た方が、むしろ自然のようだ。

 大谷大学の五来重先生によると、「稲荷山」と呼ばれる古墳が全国に120以上あるという。

 食物の神とくに稲霊である宇迦之御魂(うかのみたま)神を崇拝する稲荷信仰の根底には、食(け)の根すなわち「ケツネ」は祖先のたまものとして与えられるとする祖霊信仰が潜んでいる。

 古代において死者の霊が赴く他界は山であり、人々は古墳を祖霊が鎮まるところと定めて祭祀を執行した。こうして「山の神稲荷」の信仰が発生する(上田正昭ら『京の社』)。

 米の生産装置である稲田は大がかりな土木工事が必要で、一朝一夕にしては築き得ない。まして米作敵地ではない日本列島での稲作は祖先の汗と涙の結晶の果実であると人々が考えるのは実感だったろう。

 注目すべきことは、感謝の祈りを捧げる対象としての祖先は特定の祖先を想定していないことである。したがって、祭場となる古墳の被葬者がたとい自分たちと縁もゆかりもなかったとしても、問題にはならない。

 死霊は祖霊へと昇華し、さらに神霊へと神格化していくのだろう。

▽ 「お塚」とは何か

 伏見稲荷大社には、全国から数多くの稲荷講の人たちがお詣りにやってくる。

 本社に参拝したあと、講員はそれぞれ「商売繁盛」を願って建てられた赤い千本鳥居のトンネルをくぐり、三ノ峯、二ノ峯、一ノ峯とめぐり、1時間以上もかけて、1万基あるという石垣や神狐に囲まれた「お塚」に詣でる。

 この「お塚めぐり」のことを、ひとびとは「お山する」と表現する。「大祓祝詞」を奏上し、「大般若経」を唱和するのだが、信仰の拠点であり、磐境信仰を思わせる「お塚」とは、そもそもいったい何だろうか?

 京都大学の上田正昭先生は、稲荷山の二ノ峯には4世紀半ばごろの古墳、三ノ峯には竪穴石室古墳があり、中国の古代銅鏡を模した鏡や勾玉などが出土しているという(上田氏ら前掲書)。

 ただし本格的な発掘調査が実施されたことはないようである。

 大岩山南麓から伏見桃山丘陵にかけては黄金塚古墳と呼ばれる古墳群が分布しているという。そのいくつかは秀吉による伏見城築城の際に破壊されたようだが、やはり祖霊信仰との関連が見えてくる。

 伏見稲荷大社の創祀は、和銅年間(8世紀初頭)とされている(『二十二社註式』など)。しかしそれはあくまで秦氏による本格的な社殿の創建であって、それ以前におそらく「山の神稲荷」、祖霊稲荷の信仰が成立していたのであろう。


▢ 八尋白智鳥と化す倭建命
▢ 馬韓地方の鬼神との類似


 なぜ穀霊や祖霊と白鳥とが結びつくのだろうか?

『古事記』は、倭姫命から草薙剣を授けられて東国征伐に出発し、これを果たし終えた倭建命が大和への帰還を目前にして病没し、「八尋白智鳥(やひろしろちどり)となって飛び去ったと描いている。その御陵は白鳥御陵(しらとりのみはか)と称される。

 倭建命の場合は千鳥であるが、ふつう白鳥といえば、コウノトリやサギ、ツル、ハクチョウも含まれる。

 都会の雑踏では望むべくもないが、広大な自然のなかで大地の緑にも、大空の青にも染まらずに、悠然と飛ぶ姿は感動的でさえある。白鳥が飛翔する優美なさまに、古代人がこの世のものならぬ霊力を感じたとしても不思議はない。

 天理大学の金関恕先生によると、3世紀の南朝鮮・馬韓地方では、農耕神として鬼神がまつられたという。

 鬼神信仰は稲作の伝来とともに日本列島に伝わり、弥生人は村々でこれをまつった。死者の霊魂は海の彼方の父祖のクニへ移り、子孫を加護してくれる。鬼神はそうした祖霊と考えられた。春になると、祖霊は渡り鳥に守られて戻ってくる。渡り鳥そのものが祖霊の化身と信じられた。祖霊の力で万物は新たな息吹を得、山や野に緑が蘇る。

 祖霊はまた穀霊でもあった。春が到来して稲籾も芽吹く。弥生人は穀霊は翼を持った人間の姿をしていると考えた。穀倉を兼ねた神祠に男女一対の祖霊像がまつられ、木の鳥をあしらった背の高い竿(鳥杵。そと)を並べて聖域とし、鳥装の司祭が祭儀を執行した(『弥生文化の研究8 祭と墓の装い』)。

 鳥杵は大阪や島根の遺跡から出土しているほか、梅光女学院大学の国分直一先生によると、朝鮮半島ではいまも鳥杵の風習が残されているという。

 山口・下関の忌宮神社の特殊神事「スホウテー(数方庭)」は、鳥霊信仰の名残を伝えているという。

 8月中旬の1週間、毎夜、繰り広げられる祭りでは、境内の「鬼石」の周囲を男女が太鼓や鉦、笛に合わせて舞い踊る。男たちが抱えているのは天にも届く竹竿で、先端には鳥の羽根と幟と鈴が取り付けられる。

 ただ、羽の色は白ではなく黒だ。

 同社の創建は神功皇后が新羅遠征のあと、仲哀天皇の神霊をまつったときとされ、鬼石はこのとき大軍を率いて進攻してきた新羅の敵将の首を埋め、上を覆った石といわれる。スホウテーの竹竿は朝鮮半島の鳥杵とつながる可能性が強いという(谷川健一編『日本の神々2』)。

 なるほどスホウテーと鳥杵は音も似ている。同様の幟舞は下関市のほかの神社にも見られるが、南方から伝えられたともいわれる。

 さて、京都・東山は古来、葬送の地として知られる。その名も「鳥辺野」。古くは阿弥陀ヶ峰北山麓から稲荷山の北側までの広い地域を指した。

 地名の由来は伏見稲荷大社の起源と関わっている。『山城国風土記』逸文は、餅が鳥と化して飛んでいった森が「鳥部」だと記している。

 平安遷都以後、葬送地となり、中世になって『徒然草』に、

「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる習い」(第7段)

 と記されるほど、代表的な葬地となった。

 穀霊白鳥にはやっかいな問題がある。

 春に祖霊を運んでくるならば、南国から渡ってくる渡り鳥でなければならないはずだが、夏鳥には白鳥はない。白鳥は留鳥のツルをのぞけば越冬のために北国からやってくる冬鳥ばかりだ。

 山上先生に聞いてみた。

「穀霊の活躍する季節を限定して考えるべきではない。渡り鳥かどうか、ツルかサギかもこだわるべきではない。古代人は白鳥を見て神聖な穀霊だと素朴に考えた」

 古代人が動物分類学や生態学の高度な体系的知識を持っていたわけではないだろう。清浄さや神聖感を思わせる白い色、白い鳥の組み合わせには、近代的な知識を寄せ付けない鮮烈なイメージの世界が広がっている。

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