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神饌になった南蛮菓子「金平糖」──靖国神社創立130年とザビエル来日450年 [靖國神社]

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神饌になった南蛮菓子「金平糖」
──靖国神社創立130年とザビエル来日450年
(「神社新報」平成11年8月16日号から)
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 先月(7月)上旬、2万灯を超える灯籠の飾り付けなど、みたままつりの準備で大わらわの靖国神社を訪ねました。同社では金平糖(こんぺいとう)が神饌として神前に供され、参拝者に授与されると聞いたからです。

 はて、金平糖といえば、もともとはポルトガル語で、たしかキリスト教の宣教師が信長の時代に日本に伝えたのではなかったか。それがなぜ、よりにもよって、外国との戦争で非命にも戦陣に散った戦没者をまつる靖国神社で献饌されるようになったのか──。

 知りたがりの虫がうずき出しました。それはキリスト教の裏面史とつながっているのでした。


▢ザビエル来日から450年
▢日本宣教はなぜ企てられたか

 南蛮菓子の金平糖が日本に伝わったのは、いうまでもなくキリスト教伝来と関わっています。そこでまず「最初の宣教師」フランシスコ・ザビエルの来日を振り返ってみます。

 折りしもいま(平成11年)、全国6都市を巡回して「来日450年」を記念する「大ザビエル展」が開催されています。先月は東京・池袋の美術館が会場となりました。展覧会は残る3都市で12月まで開かれる予定といいます。

 展覧会のほか、記念行事は各地で催されています。日本のカトリックにとって、450年前のザビエル来日の意義は大きい。西暦2000年の「大聖年」とも関わっているからです。

 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は5年前に「使徒的書簡」を発表し、イエス・キリスト生誕から二千年目に当たる西暦2000年を「大聖年」と位置づけました。「すべての人が救いの力にあずかることができる」ような「解放」の年とすべく準備が進められているのです。

 ユダヤ教やイスラム教、東方教会やプロテスタントとの関係改善または和解、さらには6月のケルン・サミットで決まった低開発国の「債務帳消し」のためのキャンペーンなどはその一環のようです。

 日本国内でも「大聖年」に向けた記念行事が目白押しで、その幕開けは平成9年の「26聖人殉教400年」のミサでした。

 天正15年(1587年)に豊臣秀吉がバテレン追放令を出して以後、日本はキリスト教禁教、鎖国へと導かれました。9人の宣教師をふくむ26人のキリシタンが長崎で処刑されるのは慶長元年(1597年)で、それから400年後、「殉教の地」に教皇特使を迎え、記念のミサが行われたのです。

 それではわずか38年のあとに迫害と殉教の悲しい結末を招くことになるザビエルの日本宣教はなぜ企図されたのでしょうか。ザビエルは「東洋の使徒」とも呼ばれ、最果ての地に神の福音と西洋の新しい文化をもたらした「平和の使徒」として描かれるのが常ですが、そうした理解だけで十分なのかどうか。

 生い立ちから振り返ってみると、ザビエルは1506年、フランスとスペインにまたがるバスク地方のナバラ王国に、貴族の末っ子として生まれました。

 パリ大学に留学中、イグナチウス・ロヨラと運命的な出会いを果たし、修道士への道を選びます。34年8月15日、ロヨラら同志7名がパリのモン・マルトルの聖堂で「清貧」「貞節」「聖地巡礼」の誓いを立て、これがのちの修道会イエズス会に発展します。

 40年、ポルトガル国王ジョアン3世の要請によってイエズス会のインド宣教が企てられます。国王は東洋の国々をキリスト教に改宗させることが自分の義務と考えていました。

 ザビエルがインド西海岸のゴアに到着したのは42年です。ゴアは1510年にポルトガル第2代総督アルブケルケに攻略されたあと、教皇パウロ5世によってカトリックのアジア伝道の中心地と定められていました。

 その後、ザビエルはマレー半島のマラッカに渡り、「アンジロウ」という名前の日本人と出会います。知識欲が旺盛で、理解力にすぐれたアンジロウとのめぐり合いは、ザビエルに日本行きを決意させました。

 ザビエルはジャンク船に乗り、ちょうど450年前の天文18年(1549年)8月15日、鹿児島に上陸します(『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』など)。


▢日本人を高く評価したザビエル
▢武力征服が宣教の隠れた目的

 フロイス「日本史」(ザビエルの同志ルイス・フロイスが書き残した克明な記録)の完訳者として名高い京都外国語大学の松田毅一教授によると、ザビエルはするどく日本人を観察し、じつに高い評価を与えていました。

 来日の翌年、鹿児島からゴアに出された長い手紙にザビエルは、

「私たちが知り得たかぎりではこの国の人々はいままでに発見された国民のなかで最高で、日本人よりすぐれた人々は異教徒のなかでは見いだせないだろう」

 と述べ、富よりも名誉を重んじる「キリスト教の諸地方の人々がけっしてもっていないと思われる特質」を指摘しています。

 また、フロイスに対しては、

「日本人は、文化・風俗および習慣において、多くの点ではるかにスペイン人に優る」

 とまで語ったといいます。

 ザビエルは天文19年に上洛します。日本宣教の勅許を願い、学僧と法論を交わしたい、というのが前々からの希望でしたが、後奈良天皇との謁見は果たせず、比叡山では門前払いを受けます。そのころの都は戦乱で荒れ果て、天皇は史上もっとも悲惨な境遇にあられました。

 翌年、ザビエルは日本でもっとも繁栄する山口の領主14代大内義隆に拝謁します。インド総督の使節として絹の衣をまとい、総督の親書をたずさえ、望遠鏡やオルゴールなどの珍しい品々を奉呈すると、義隆は布教を許可し、廃寺となっていた大道寺を宿舎として与えました。この大道寺が日本で最初のキリスト教会とされます。

 天文20年、日本をあとにしたザビエルは翌年、中国・河南沖の孤島サンシャン島で病没します(松田『南蛮のバテレン』など)。

 ところで、カトリックの世界宣教は、教皇アレキサンデル6世が1493年の勅書でポルトガル、スペイン両国王に対して、新たに領有した地方に宣教師を送り、カトリック信仰の弘布を勧告したことに始まります。

 キリシタン史研究の第一人者、慶応大学の高瀬弘一郎教授によれば、カトリックの世界宣教はスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的がありました。

 キリスト教の布教は、航海、征服、植民、貿易という世俗的な事業の一環として進められました。イベリア2国による「世界2分割征服論」という荒々しい野望とカトリックの勢力拡大という宗教活動が、教皇の名のもとに一体化して推進された、と高瀬氏は述べています。

 とくにマゼランの世界一周達成以後は、両国のあいだで、香料を産する東南アジアのモルッカ諸島をめぐる争奪戦が展開されました。

 日本に対する両国の関心は銀だったようです。その点、ザビエルが離日後、両国王に対して日本の征服は不可能だから断念するように進言する手紙を書いていることは注目されます。

 しかし1575年、教皇グレゴリウス13世の大勅書によって、日本はじつに「ポルトガル領」と認められています(高瀬『キリシタン時代の研究』など)。

 松田氏によれば、かつてイエズス会の本部があったローマのジェズ教会には、ザビエルの切断された右腕とロヨラの遺骸が安置されています。聖堂の左側には天使が悪魔を踏みつけている大理石の彫像があり、悪魔には

「カミ、仏、阿弥陀、釈迦」

 とラテン語で刻まれているそうです。

 カトリックは異教の神々を「悪魔」と同一視しました。そしてたとい武力によって異教徒を改宗させ、領土を奪い取ったとしても、それは神の御旨にかなったことと考えられたのです。

 ジェズ教会の、せめて写真でも、「ザビエル展」に出品されていないかと期待して出かけたのですが、どこにも見当たりませんでした。そのかわり「26聖人殉教図」や踏み絵はあります。過酷な迫害は正視に耐えませんが、禁教・迫害を導いた背景の説明はこれまたほとんどありません。「ヨーロッパとの出会い」「異文化交流」は説明されていますが、「侵略」も「征服」も語られていません。


▢最初はフロイスが信長に献上
▢靖国の献饌は昭和50年代から

 金平糖に話を転じましょう。

 最初に文献に現れるのは織田信長の時代のようです。フロイスは永禄12年(1569年)、6〜7000人が働く建設中の京都・二条城で、といっても堀橋の上という如才ない場所で、工事を監督している信長に謁見し、布教許可を願い出ました。このときガラス瓶入りの金平糖1瓶とロウソク数本を贈った、とフロイスは手紙に書いています。

「これなるは南蛮菓子にござりまする」

「何と申すものか?」

「コンフェイトと申しまする」

 という会話が交わされたかどうかは分かりませんが、金平糖の語源はポルトガル語で「砂糖菓子」を意味する「コンフェイト, confeito」だといいます。金平糖は「日本侵略」の文字通りの「アメ」だったのでしょうか。

 時代はくだり、江戸時代の文学者・井原西鶴が書いた『日本永代蔵』という浮世草子(小説)があります。今風にいえば、

「こうすればあなたも百万長者になれる」

 といった類の事例集です。その巻之五に金平糖を作った男の話が載っています。

 製法が知られないため、輸入品を「唐目1斤銀5匁」で買い求めていた金平糖が近年、値下がりし、広く出回るようになったのは、この男がゴマつぶを種とする製造法を編み出したからである。男は長崎の町人で、2年間の苦労の末、製法を見出し、たちまち大金持ちになった、というのです。

 その後は家庭でも作られるようになったようですが、近代を経て昭和初期には逆に忘れられた存在になりました。寺田寅彦の随筆に、最近はキャラメルやチョコレートに押されて駄菓子屋でも見かけなくなった、とあります。

 ところが数年ののち、金平糖は兵隊の携帯食として再浮上します。考案したのは陸軍糧秣本廠に勤務していた川島四郎主計大尉(のちに少将)といわれます。

 経緯はこうです。昭和10年前後、日本はソ連が日露戦争の雪辱を期して満蒙奪回のために侵攻することを予想し、防衛のためにモンゴル砂漠を突破し、シベリア鉄道を寸断する作戦を立てました。このために新しく考案されたのが金平糖入りの乾パンでした。

 それまでの軍用乾パンは歌ガルタほどの大きさで、かたくて食べにくかった。それを麻雀牌ほどに小さくし、甘味をつけるために金平糖が加えられたのです。

 素っ気ない乾パンの袋からなつかしい金平糖が出てくる。荒涼たる砂漠を行軍するオッチャン兵もインテリも歓喜の涙を流した──と川島は書いています(『食糧研究余話』など)。

「創立130年」を迎えた靖国神社によると、春と秋の例大祭に50台の神饌に混じって金平糖が献饌されるようになったのは、意外にも新しく昭和50年代で、菓子のひとつとして煎餅やおこしなどとともに三方に積み上げられ、撤下後、参列者にわかたれます。

 もしかしたらそれ以前に供されていたかも知れないともいうのですが、はっきりしたことは分かりません。とはいえ、十分な糧秣もなく病や飢えのため、悲運にも斃れていった英霊のよき慰めであろうことは間違いありません。

 それにしても、金平糖はよくよく戦争と縁があります。

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