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「殉教の地」長崎に異論あり──カステラを食べ損ねた話 [キリスト教]

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「殉教の地」長崎に異論あり
──カステラを食べ損ねた話
(「神社新報」平成11年9月13日)
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 ポルトガル人宣教師フロイスが430年前(平成11年時点)、日本に伝えたのが最初といわれる南蛮菓子の金平糖(こんぺいとう)がいまでは靖国神社の神饌になり、非命にも戦陣に散り、戦禍に斃(たお)れた英霊たちのよき慰めになっている、と前回、ご紹介したら、

「カステラはどうなんだ?」

 と読者から指摘を受けた。春と秋の例大祭などに同社で授与される、桜の枝と白鳩と鳥居があしらわれ、脳裏に浮かんできた。同社の説明では、

「神饌ではなくて、土産物として社頭でお頒けしている」

 とのことだが、今年も終戦記念日には頭が割れそうになるほど蝉時雨がさんざめき、5万人の参拝者で埋め尽くされた境内の片隅で、文明堂が出張販売していた。

 こうなれば、とことん追及するしかない。カステラの元祖といったら、どうしたって長崎丸山遊郭の入り口、思案橋と見返り松がある、粋な「山ノ口」の、店構えも古風な福砂屋だろう。

 というわけで、さっそく長崎に飛んだ。


▢ 貿易と信仰をめぐる駆け引き
▢ キリシタンが破壊した神社仏閣

 長崎はカトリックにとって忘れがたい「殉教の地」である。いま記念館と記念碑が建つJR長崎駅正面の「西坂の丘」で、26人のキリシタンが処刑されたのは、慶長元(1597)年のことである。

 一昨年(平成9年)2月には、長崎県立体育館に教皇特使を迎え、6千人が参列する「殉教400年」のミサが行われた。

 分からないことがいくつかある。

 たとえば、「殉教」のいきさつだが、上智大学中世思想研究所が編集に携わる『キリスト教史5』は次のように説明する。

 日本でのカトリック布教はポルトガルの「布教保護権」(教皇がスペイン・ポルトガル諸侯に与えた。異教世界を植民地化し、支配し、交易するための独占的権限)のもとに進められたのだが、ポルトガルとスペインとの境界線は確定していなかった。

 1494年のトリデシリャス条約で決まった境界線は、日本列島の四国を通過することから、その後、スペインの日本進出の気運が高まった。

 そこで宣教師ヴァリニャーノは従来通り日本宣教がイエズス会に委ねられるのが妥当として上申した結果、1585年のグレゴリウス13世の勅書で、イエズス会にのみ託されることが明確になった。

 ところが、フランシスコ会が進出して、禁教下の日本で公然と活動し、目立った活動を控えていたイエズス会との協調を欠いた。

 さらに文禄5(1596)年、四国に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員の言葉から誤解が生じ、事態を悪化させた。

 秀吉は、宣教師がスペイン国王の手先として日本征服をもくろむと非難し、6人のフランシスコ会士、3人のイエズス会士ほかが長崎で十字架刑に処せられた──というのである。

 これではよく分からないから、もう少し詳しく時代状況を眺めてみる。

 近代の代表的キリスト者(プロテスタント)で、新聞人でもあった徳富蘇峰によれば、九州の大名にとって、重要なのは貿易であった。大名はキリスト教をエサに貿易を釣ろうとし、宣教師は貿易をエサにキリスト教を釣ろうとした。

 駆け引きがもっとも赤裸々に展開された舞台が、平戸である。

 なにしろ種子島に漂着したポルトガル船は、中国で2500両で仕入れた品物を日本で売りさばき、12倍の利益を上げた。それを聞いたポルトガル船が先を争って日本に来航した。やがて天然の良港である平戸が知られるようになる。

 イエズス会の宣教師ヴィレラは

「神社やお寺は天狗だ」

 と笑い、

「改宗すれば珍しいものを進呈しよう」

 と誘った。無知な民衆は欲に任せて改宗し、平戸に教会が建てられた。

 永禄4(1561)年、些細なことでポルトガル船員と平戸の町民とが仲違いし、刃傷沙汰に発展、船長ら14人が殺害された。

 平戸の領主・松浦隆信は貿易の利が失われることを恐れ、キリスト教保護をあらためて表明したが、宣教師トレーは本心でないことを見抜いて、容易には応じなかった。

 そのとき現れたのが松浦氏のライバル、大村の領主・大村純忠である。

 純忠は、教会建設、税金免除などの好条件を示し、領内の横瀬浦にポルトガル船の入港を求めた。トレーが快諾したのはいうまでもない。

 純忠の目的はもちろん貿易で、6万石の小大名はたちまち九州屈指の富裕大名となる。だが、朱に交われば、で永禄6年、重臣26名とともに受洗する。

 その日、兄・有馬義真の出陣の門出に、魔利支天堂の神像の首をはね、神社に放火して、そのあとに十字架を立てて先勝を祈った。戦に勝つと、神社仏閣をことごとく破壊し、祖先の位牌さえ火中に投ずるにいたる。

 宣教師は満足したが、領民は驚愕し、内乱となる。

 この内乱を煽ったのがライバルの松浦氏で、その結果、ふたたび平戸が貿易で潤うことになる。

 隆信は平戸にフロイスを招いたが、隆信の目的があくまで貿易にあることを知るフロイスは、あえて船を港外に停泊させる。隆信はそれまでの冷淡な態度を陳謝するが、フロイスはなお荷揚げを拒む。

 結局、隆信は宣教師の平戸居住、教会建設を承諾し、ようやく貿易の果実を得る。

 しかしその後も隆信の冷淡は変わらなかった。家臣は反抗的で、しばしば宣教師と衝突した。やがて宣教師はポルトガル船を大浦領内に移動させた。隆信は軍艦50隻で追跡し、力尽くで引き戻そうとするが、逆に撃退される。

 宣教師の妨害で平戸は敬遠され、元亀元(1570)年に純忠が長崎を開港するに及んで、長崎が南蛮貿易とキリスト教布教の中心地となる(徳富蘇峰『近世日本国民史』)。


▢ 26人が処刑された理由
▢ きっかけはスペイン船漂着

 天正8(1580)年、大村純忠は長崎・茂木をイエズス会に寄進する。同会は長崎に本部を置き、長崎は軍事力を伴う自治都市となった。住民はすべてキリシタンであった。

 京都外国語大学の松田毅一教授によると、天正10年の本能寺の変のあと、天下人となり、13年に関白となった秀吉は、大阪城でバテレン一行を引見する。

 おりから島津氏が九州の全域を掌握しようとしていた。キリシタン大名の大友は崩壊寸前で、長崎は島津氏が支配していた。大村、有馬は島津の敵ではなかった。島津氏の九州制覇はキリシタンにとって死活の問題でもあった、という。

 大阪城の秀吉のもとに伺候したバテレンたちを、秀吉は歓待し、布教を許可する允許状を2通も与えた。

 翌14年12月、秀吉は九州に軍旗を進める。

 この九州征伐の帰途、秀吉は

「20日以内に国外に退去せよ」

 とバテレン追放を命じる。15年6月19日付の文書には、

「日本は神国であり、邪法をもたらしたのはよくない」

「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」

 などとある。

 九州のキリシタン大名の領内では、領民の多くが事実上、強制的に改宗させられ、神社仏閣のほとんどが破壊されていたのだ。

 天正16年、秀吉は長崎・茂木・浦上のイエズス会領を接収し、直轄地とする。

 26人の処刑のきっかけは、文禄5(1596)年に起きた、スペインの豪華船サン・フェリペ号の四国漂着である。

 このとき1人の船員は、世界地図を示し、奉行にスペインの強大さを誇る。奉行が多くの領土を得た経緯を問うと、船員は、

「バテレンを派遣してキリスト教徒を作り、その後、スペイン軍が攻め込む」

 というような発現をする。

 秀吉はこの直後、積み荷の没収を命じ、2か月後には大阪・京都の宣教師とキリシタンの死刑を命じる。

 26人の処刑後、船の積み荷の返還と処刑囚の遺骸引き取りを求めてきたフィリピン総督への返書に、秀吉はこう書いている。

「往年、バテレンが当国にきて異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので予はそれを禁じた。しかるに貴国より来た僧侶は帰国せず、異国の法を説いてやまぬので誅戮(ちゅうりく)せしめたのである。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲しているという……」

 カトリック布教の危険性を秀吉は確信していたものらしい(松田『南蛮のバテレン』など)


▢ 諏訪神社のキリシタン合祀説
▢ 小説『沈黙』の舞台に鎮まる神社

 長崎・諏訪神社の松本亘史禰宜の10数年にわたる研究によると、その後、意外にも、長崎ではキリスト教はかえって盛んになる。

 開港後に建てられた「岬の教会」は、慶長6(1601)年に改修され、「被昇天のサンタマリア教会」と改称される。東洋一の規模を誇り、日本宣教の中心に位置づけられたという。

 慶長10年、全国の信徒数は75万を数えた。キリスト教隆盛のなかで、慶長14年、長崎の諏訪・森崎・住吉の3祠が破却される。

 徳川幕府は慶長17年、禁教令を発令し、キリシタン弾圧が始まる。慶長19年秋、長崎の諸教会は破壊され、キリシタンは壊滅的打撃を受ける。宣教師が追放され、元和8(1622)年にはキリシタン55人が西坂で処刑される。

 諏訪神社がのちに初代宮司となる青木賢清によって再興するのは、寛永2(1625)年である。

 興味深いのは、森崎神社である。

 諏訪神社は相殿に森崎神社と住吉神社を祀っているが、森崎神社はいま県庁がある森崎の地にかつて祀られていたということ以外は不明の、謎の神社だ。

 純心女子短期大学の越中哲也教授は、森崎の地にあった「被昇天のサンタマリア教会」が破壊され、その跡地に建立された社祠だとする、注目すべき説を12年前(昭和62年)に発表している。

 越中教授は、

①破壊後、祟りを恐れて、同社が建立された

②かつての教会を偲んで、信徒が社祠形式に改めて祀った

③諏訪・住吉の2社が勧請されたとき、すでに教会跡に祀られていた祠を、長崎の氏神と解釈して合祀した

 ──と推測している。

 けれども、異論もある。異論の主はほかならぬ諏訪神社の宮司である。

 長崎岬の突端の森崎は人の住まない森で、開港以前は神社はなかった、と推論する越中教授に対して、上杉千郷宮司は、神社の創建は人家の有無とは無関係だ、と反論するのである。実際に、漁師が信仰する森崎社が渚に鎮まっていたとする記録もあるという(「神道文化」創刊号など)。

 もっとも興味深いのは、上杉宮司の体験談である。

 昭和57年、御鎮座360年の社殿改修で本殿の遷座祭が執行されたとき、御船台に納められた森崎神社の御霊代は諏訪・住吉両社とは異なり、宮司1人では捧持できないほど大きく、重かったというのである。

 もしかしてヨーロッパのキリスト教史と同様、まず森の中の神社があり、それが破却されたあとに教会が建てられたのではないか。その教会が禁教で破壊され、今度はキリシタンが追憶、慰霊、鎮魂の目的で祠を置き、やがて諏訪神社再興のときに相殿に祀られたとも十分に考えられる

 キリシタンの神社は突拍子もないものではない。

 上杉宮司、松本禰宜と訪れた、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台ともいわれる外海町黒崎には、海を望む山中に枯松神社がひっそりと鎮まっていた。

 宣教師ジワンを祀るとされ、殿内には「サン・ジワン神社」と刻まれた石祠がある。周辺には「祈りの岩」と呼ばれる磐座(いわくら)があり、古くからの聖地であることをうかがわせる。

 上杉宮司は

「神仏習合により栄えてきた神社が、切支丹をも内包する懐の大きさ」

 を強調する。キリスト教は自分たちの信仰を唯一絶対と信じて、異教の神々を冒涜し、信仰を踏みにじったが、日本人はキリシタンの信仰を神道形式で400年間、守ってきた。

 森崎神社はその歴史を暗黙裏に語っているのかも知れない。

 さて、忘れてはいけない。肝心のカステラだが、キリシタンの取材に夢中になっているウニとうとう食べ損ね、念願の福砂屋のカステラを手にしたのは、福岡空港の売店であった。

 創業は諏訪神社再興と時を同じくするというだけあって、昔懐かしい手作りの味がした。

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