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中国にとって日本人「戦犯」とは何か ──一貫して政治利用する中国共産党 [A級戦犯]

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中国にとって日本人「戦犯」とは何か
──一貫して政治利用する中国共産党
(「神社新報」平成17年7月11日号)◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「戦後60年」の今年(平成17年)、中国や韓国で「A級戦犯」(昭和殉難者)を祀る靖国神社への風当たりがいよいよ強まり、小泉首相の参拝を阻止する外交攻勢は、日本の政治家をも巻き込んで激しさを増している。

 しかし中国共産軍が「八路軍」と称して蒋介石の国府軍の指揮下にあったとはいえ、交戦国はあくまで国民党政府であったし、東京裁判後に政権を樹立した共産中国は「A級戦犯」との直接的接点はない。

 にもかかわらず多年にわたって多数の「戦犯」を拘束し、政治的に利用し、いまも政治的な批判を加えている。

 中国にとって「戦犯」とは何なのか。あの戦争とは何だったのか。三人の「戦犯」を通して考えてみたい。


▢ 「山西独立軍」を創設した城野宏
▢ 共産党軍と戦って「禁固18年」

 北京の西南、山西省。面積は日本とほぼ同じだが、石炭、石灰石、石膏など地下資源の埋蔵量は桁違いで、採鉱、製鉄、軍事産業から軽工業まであり、独立した経済が可能だった。

 日本の敗戦まで30年間、ここを支配していた、日本陸軍士官学校卒の知日派軍閥・閻錫山(えんしゃくざん)は、蒋介石とは対等で、共産党とは相容れなかった。

 終戦とほぼ同時に、国民党政府と共産党軍との内戦が始まった。このとき閻錫山軍と提携し、毛沢東軍と戦った多数の日本人たちがいた。

▽日本復興をにらみ

 中心人物の城野宏は大正2年、長崎の生まれ、東京帝国大学で中国語を学んだ。東大で中国語を学んだ第一号という。

 日中対立が激化していた当時、驚くべきことに、文官養成の最高機関たる東大法学部に中国語のできる中国研究者はいなかった。日本人の中国観は偏り、ときに正確な知識もなしに蔑視していた。

 城野は徴兵で中国に渡り、昭和16年、中華民国山西省政府の顧問補佐官として民政・警察・軍隊を主管、日本軍とともに共産軍と戦った。

 一緒に戦う中国人は敵の砲撃から身をもってかばい、「俺たちは友人なのに、なぜ戦わねばならないのか」といって泣いた。

 大東亜戦争終結。部隊幹部に日本の降伏を告げると、彼らは涙を流し、「いつまでもともに行動してくれ」と手を握った。

「祖国復興・山西独立」をスローガンに、山西独立軍が創設された。

 目的は、来るべき日本国家復興をにらみ、三国志よろしく蒋介石と毛沢東を競わせて、その中を絶ち、省内の重工業をおさえ、同省を日本の供給基地として確保することだった。

 共鳴した日本軍残留部隊1万5000に中国人兵士が結集、さらに閻錫山の軍隊六万と合作、毛沢東軍と対峙した。

 最終的には50万の兵力を誇ったが、蒋介石軍が共産党軍の勢いに押され、しかも降参するたびにそのまま共産党軍に変貌する。三国志の構想は崩れた。

 当時の読売新聞が、省都・太原を死守する日本人中将今村方策との会見記事(米シカゴ・トリビューン紙)の翻訳を載せている。今村は、共産軍の包囲下にあること4カ月、和平か抗戦かの岐路に立っていた。

「飛行機が数百機あれば敵の交通線を遮断できるが、残念ながらそれがない」

「中国共産軍が全中国を占領すれば、日本も必ず同じ運命をたどる」

 そばにいた城野少将が強くうなずいた──と記事にある。

▽国交正常化の模索

 やがて共産軍との直接対決、半年以上の攻防戦、市街戦の末、山西独立軍は24年4月に降参、4000人が「捕虜」になり、うち140人が太原監獄に収容された。

 最後まで刃向かった城野らは「罪が重い」(周恩来)とされ、監獄の待遇は悪かった。6畳ほどの部屋に20人ばかりが詰め込まれた。

 31年、城野は太原特別軍事法廷で「禁固18年」の刑を受ける。

 中国側は「反革命分子」として裁くか、「日本帝国主義の侵略分子」として裁くか、迷ったのではないか、と城野は推理する。「反革命分子」なら銃殺刑は免れない。

 けれども当時、中ソ対立から日本との国交正常化を模索していた中国は、「国民党に協力し、共産党・人民解放軍に銃を向けた」「日本帝国主義の侵略分子」と見なす「寛大な処理」をする。

「戦犯」の政治利用である。


▢「思想改造」された藤田茂師団長
▢ 供述書で「反天皇」闘争を宣言

 終戦間際、ソ連は突如、満洲に攻め込んだ。

 日本の降伏後、さらに中共軍、国府軍が進駐、両軍による内戦が展開され、ふたたび満洲は戦場と化し、暴行・略奪の悪夢が横行する。

 にわか作りの「偽八路軍」は日本人を襲撃し、中共軍は在留邦人を一網打尽に検挙、民衆裁判で多数の日本人を処刑した。その犠牲者は3500人ともいわれる。

 朝鮮戦争勃発直後の50(昭和25)年7月、スターリンの提案で、シベリアに抑留されていた満洲国政府指導者ら969人が毛沢東に引き渡された。「北京政府の主権が国際的に認められ、国連に承認されるため」(ソ連外相)の道具とされた。

 満洲の日本軍は陛下の御命令に従って自発的に武装解除したのであり、「捕虜」ではない。ところがソ連は「軍事捕虜」と位置づけ、抑留した。そして今度は「戦犯」の烙印が押された。

▽周恩来の深謀遠慮

「戦犯」は遼寧省・撫順戦犯管理所に収容された。

「民族協和」「王道楽土」のスローガンに従い、満洲では治外法権が撤廃され、日本人にも適用される法体系が整備され、日本人が入れる監獄も作られた。

 皮肉にも作った本人らが収容され、「思想改造」をうけた。のちに「天皇制軍国主義思想から抜け出し、新しい人間に生まれ変わった」と評価された。

「戦犯」管理は周恩来が指揮した。「戦犯の人格を尊重し、侮辱したり、殴ったりしてはいけない。死亡者、逃亡者を出してはならない」。

 過酷なシベリア抑留とは天と地。国際法に基づいて処遇され、城野の太原監獄とは違って、日本式の食事が一日三食与えられた。「一人ひとりの人格を尊重する。思想面から教育と改造をおこなう」が政策だった。

 50年秋、朝鮮戦争が激しさを増し、撫順が戦火にさらされた。「戦犯」たちは米国の勝利を確信していたが、中国人民解放軍の参戦で米軍は後退、やがて停戦。

「戦犯」たちは衝撃を受けた。「日本が勝てなかった米国に中国は事実上、勝利した」。

 このときから「戦犯」の態度が変わる。「献身的に世話する職員を尊敬するようにさえなった」というのだが、むしろ「あきらめと受容の心境」ではなかったか。

 翌51年9月、49カ国がサンフランシスコ平和条約に調印。翌年から連合国関係戦犯の赦免・減刑が具体的に動き出す。

 けれども冷戦まっただ中、条約に調印しなかったソ連との戦犯赦免交渉は遅れ、「竹のカーテン」を隔てた中国との交渉はさらに遅れた。

 朝鮮戦争の休戦後、撫順では「学習」が始まった。「ダモイ(帰国)」の夢は破れ、米軍による解放の希望も消えて、嵐のような「認罪」運動が起こった。「自白すれば罪は軽く」のチラシが貼られて、「逃げ場」はなくなった。

 明治22年広島生まれ、44年陸軍士官学校卒の第59師団長、藤田茂・陸軍中将は社会主義経済、マルクス経済学の勉強を始めた。

「日清・日露、第一次大戦は結局、自分の欲望を満たす侵略戦争だと知った」
「大東亜戦争の八紘一宇、聖戦にも疑問を持ち始めた」
「捕虜を殺し、過酷に使役した自分たちの軍国主義思想には良心のかけらもなかった」
「満洲事変は中国侵略戦争であることは明らかである」。

 54年1月、「戦犯」の罪状調査が本格的に始まった。審問と調査に基づいて起訴状が作られた。死刑70名、無期以下110名。

 しかし周恩来は命じた。「1人も死刑にしてはならない」。

 周恩来は未来を見据え、「侵略戦争で罪を犯した者が反省し、その体験を日本人に話すことは、中国共産党員が話すより効果的」と考えていた。

 56年4月、中国政府は寛大な「戦犯」処理の方針を発表した。「数年来の中日両国人民の友好発展を考慮する」「戦犯の大多数が改悛の情を示していることを考慮する」。

 同年六月、柳条湖に近い劇場を改修し、最高人民法院特別軍事法廷が開かれた。傍聴席が連日、1400人の中国人で埋まった。

▽人民を納得させる

 住民「屠殺」、糧食略奪、強姦など七件の罪状で起訴された藤田は、すべての「罪」を認め、最終陳述では天皇の「戦争責任」に言及し、供述書に「自分に罪行を犯させた裕仁に対し、心よりの憎悪と闘争を宣言する」と記した。

「極刑は免れない」と腹を決めていた藤田だが、判決は「禁固十八年」。

 日本に帰れる。「不幸のどん底から幸福の先端まで走った」。

 裁判長に促されて、「感謝しています。被害者の方々は納得されないでしょう」と感想を述べ、絶句した。

 しかし本当に「感謝」したのは中国側だった。「極刑」を望む人民を納得させるには「思想改造」の成果が必要だった。

 帰国した「戦犯」たちは「中国帰還者連絡会」を組織した。目的は「中国侵略に参加し、幾多の罪業を犯した者が人道的反省の上に立って侵略戦争に反対し、平和と日中友好に貢献する」ことだった。

 中帰連初代会長は藤田で、終生、その地位にあり、「中国が期待したとおりの後半生」を送ったといわれる。


▢ 満洲国最高官吏だった古海忠之
▢ 日本政府とのパイプ役を期待され釈放

 撫順に収容され、「財政金融面で中国人民を搾取した」などと「認罪」しながらも、藤田とは異なる後半生を送ったのは満洲国の高級官僚だった古海忠之である。

 明治33年、京都生まれ。三高、東大法学部を卒業後、大正13年、大蔵省に入省。昭和7年、満州国の財政・金融を日本の大蔵省で引き受けてほしいという要請を受け、10人ほどの官僚が同国政府に派遣されたうちの1人だった。

 満洲国の予算や政策は国務院総務庁次長の古海が立案した。事実上の総理だったという。

▽「池田さんによろしく」

 終戦直後の20年9月、新京でGPUに逮捕され、10カ所のラーゲリを転々とした。中国に身柄が引き渡されたのは、中国の意向が強く働いていた、と古海は見ている。

 日本と手を握っていかないと国の発展はない、と中国は考えていた。その点、蒋介石も毛沢東も同じで、そのため早々と日本総軍や関東軍の幹部たちを日本に帰した。

 ところが中国の一般大衆は納得しない。とくに関東軍が無謀を働いた華北では、日本の軍国主義者を建前として罰する必要が生じた。すでに日本軍の幹部は帰国していたため、ソ連抑留者から戦犯容疑者が引き渡された──というのである。

 奉天の軍事裁判では、古海をよく知りもしない満洲国皇帝の溥儀が古海の罪状を証言した。「軍国主義者」「帝国主義者」を処罰する裁判は映画「寛大なる裁判」に記録され、中国各地で放映された。

 古海は「禁固18年」の刑を受け、古海が満洲国国務院総務院主計処長時代に建てた撫順監獄に入れられた。

 あと半年の刑期を残して釈放後、3カ月間、中国国内の見学旅行に招待された。最高級のラシャの新品を着せられ、山西から長安、上海、蘇州、江州、北京へ。ホテルは最上の部屋。国賓待遇の大名旅行だった。

 撫順監獄での釈放式典のあとには周恩来との対面が待っていた。周恩来は日中関係改善を考え、中国の政策を詳細に説明した。

「池田(勇人)さんによろしく伝えてください。岸(信介)さんはちょっと困ります」

 古海にとって、岸は通産省と満洲時代の先輩、池田は後輩だった。

 帰国を前に、中国政府と日本関係者が送別会を開いた。その席で古海は表明した。

「刑期中、一所懸命、左翼の勉強して、帰国したら共産党に入党し、左翼革命を起こす使命を感じたこともあったが、いま帰国するに際して、その意思はサラサラございません」

 嫌な顔の一つも見せるだろう、と期待していたのだが、反応は違っていた。

 中国は日本政府や財界などとのパイプ役を期待していたのだ。それまで中国は日本の左翼との付き合いしかなかった。それでは日中友好は促進できない。中国は現実を理解していた。

 古海は満洲の民族協和は「見果てぬ夢」だと回顧する。

 相手の民族性を理解せずして協和はあり得ないが、日本人は他民族に対する感覚が鈍感で、ひとりよがり。しかも民族的な優越感と相まって裏目に出た。民族共和に努力しながら、善意がかえって理解されず、実を結ばなかった。

 満洲国の歴史は、侵略的事績と理想国家建設の事績との矛盾する事績が、縄のように絡み合っていた。しかし世界の列強が侵略的に植民地獲得に専念していたとき、満洲に理想国家をあえて創ろうとし、短期間であるにしても近代的国家の形を整え、急発展したことは、日本民族の誇りである──。

▽犯罪者といえない

 中国の「戦犯」裁判は正当とはいいがたい。シベリアの強制労働のような過酷さはないが、心理的な脅迫や暴力の中で、撫順の「戦犯」たちが針小棒大に「認罪」したことは想像に難くない。

 あの戦争をファシズム戦争と断ずるのは一方的すぎる。イタリア語の「ファッショ」は「結束」、「ファシスト」は「結束した同盟者の集まり」を意味するが、当時の日本は逆に「結束」を失い、戦争の泥沼にはまっていった。

 資本主義の最終段階に到達した日本帝国の指導者がファッショ化し、資本主義の矛盾を解決するために、中国「侵略」を始めたというような事実はない。満洲事変は日本政府の意思に反して、関東軍が引き起こしたのであった。

 日本の指導者は無能で、情勢を展開できなかったが、犯罪者ではない。侵略主義者でもない。好戦国が平和国に襲いかかったという一方的な見方はできない。

 天皇の名において「侵略」が正当化されたわけでもない。逆に天皇の精神的権威は「征服」の野望を許さなかった。

 しかし撫順の「戦犯」たちによる玉石混淆の供述書は、日本人自身による「侵略」戦争の重要な証言として北京に保管されている。

 中国「侵略」を日本の当事者が認め、中国が「寛大」に対処したとする「歴史」の証拠は、共産中国の対内的・対外的な歴史カードの「武器」となっている。

(参考文献=城野宏『祖国復興に戦った男たち』、古海忠之『忘れ得ぬ満州国』、新井利男、藤原彰編『侵略の証言』、満蒙同胞援護会編『満蒙終戦史』、葦津珍彦『明治維新と東洋の解放』など)


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