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小泉参拝を批判する大新聞の論理不足──首相の思いと朝日新聞の社説 [靖国問題]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です

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 今年も終戦記念日が近付いてきました。今年こそ小泉首相の靖国神社参拝があるのではないか、と注目が集まっています。

 そんな折、先週の三日ですが、小泉首相は、「小泉内閣メールマガジン」に「戦没者の慰霊」と題して、戦争と平和、被爆者と戦没者への思いを語りました。

「二度と悲惨な戦争を起こしてはならない、今日の平和と繁栄は戦没者の犠牲の上に築かれている。政治家としての原点でもあるこの思いを抱きつつ、広島・長崎の式典、全国戦没者追悼式に参列します」とエッセイは結ばれています。

 これに対して、翌日の朝日新聞は、社説で「嘆かわしい論法」「なんともお粗末」と首相の考えを一刀両断にしています。

 なぜこうも意見が対立するのか、どこが違うのか、私にはむしろジャーナリズムの論理不足を感じます。両者を比較し、くわしく読んでみましょう。

 朝日の批判は、まず「靖国神社参拝」に向けられています。社説は首相のメルマガを「参拝にこだわり続けた首相なりの最終答案」と位置づけ、「参拝にあらためて意欲を示した」と書いているのですが、ここがまったく違います。

 なぜなら、首相のメルマガには、「就任以来、年に一度、靖国神社に参拝しています」とは書いてあります。また、先に引用しましたように、「広島・長崎の式典、戦没者追悼式に参列します」とは書いてありますが、「今年も靖国神社に参拝します」とは書いてありません。

 朝日の批判は勇み足というべきではありませんか。とすれば、もうこれ以上、追求しても、あるいは追及しても、仕方がないことですが、靖国参拝を議論する論理について、もう少し見てみます。

 首相の論理は次のように展開されています。

 まず「戦争で亡くなった方々を追悼するのは、どこの国であれ、自然なことだ」と原則論を述べたあと、憲法19条(思想・良心の自由)にふれ、靖国参拝の話題につなげ、参拝批判者に対して「中国が反対しているから参拝はやめた方がいい、中国の嫌がることはしない方がいい、ということになる」「思想・良心の自由をどう捉えるのか。戦没者に対して敬意と感謝の気持ちを表すことは悪いことなのか」とたたみかけています。

 そして、自分は日中友好論者であると断言し、自分の首相就任後、日中貿易が倍増し、中国がアメリカを上回る貿易相手国になっていることを強調し、自分は中国首脳と会う用意があるのに、靖国参拝を口実に会談を拒否する中国の理不尽さを批判しています。

 これに対する朝日の社説の批判は、次の5点にまとめられます。
 
 第1点は、問題の「すり替え」だという指摘です。「(戦没者を追悼することが)悪いとはいっていない。参拝に反対、あるいは慎重な考えをもつ人々を、あたかも追悼そのものに反対するかのようにすり替えるのはやめてもらいたい」と首相の論理を批判しています。

 第2点は、中国の反対を理由として参拝を批判しているというのは「はなはだしい曲解」だという批判です。中国や韓国の反発にどう答えるかは欠かせない視点だが、それは反対理由の1つに過ぎない。首相の論法はむりやり中国に限定し、偏狭なナショナリズムをあおるようなもので、一国の首相としては避けるべきだ、というのです。

 第3点は、戦争を計画・実行し、指導した人物を祀る神社に首相が参拝することの意味を首相は語ろうとしていない、という指摘です。戦争の過ちと責任を認め、その過去と決別することが戦後日本の出発点であり、首相の靖国参拝はその原点を揺るがせる、だから参拝に反対するのだ、と社説は訴えています。

 さらに4点目として、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感をいだき、参拝をやめたという側近の記録が明らかになっている、首相にはさらに慎重な判断が求められている、と指摘しています。

 第5点は、首相が憲法20条の政教分離を素通りして、19条の思想・良心の自由を引き合いにするのは強引な解釈である、19条は国家からの個人の自由を保障しているのであり、権力者である首相の自由を定めているのではない、と指摘しています。

 以上の5点から、終戦記念日に行われると取りざたされる6度目の参拝にはもちろん反対する、と社説は述べています。

 さて、それでは両者の言い分を読み比べて、どう判断したらいいのでしょうか。

 まず1点目です。社説がいうように、戦没者を追悼することと、靖国神社に参拝することとは違います。

 しかし明治以来、国家が激しく激突する近代という時代に、国に一命を捧げた戦没者に対する慰霊・追悼の場として中心的に機能してきたのが靖国神社であり、戦後、民間法人となってかも国家的祭祀が国に代わって日々、行われてきた、そして国民の多くが靖国神社を戦没者慰霊の中心施設と認めてきた、というのもまぎれない事実です。

 したがって、戦没者追悼と靖国参拝はまったく別であるとは言い切れません。だからこそ靖国参拝がテーマとなるのです。参拝反対は靖国神社における慰霊・追悼の歴史と伝統を否定する結果になるでしょう。

 第2点目。首相が中国の反対を引き合いにしているのは、たとえば、ということなのではありませんか。社説が、「むりやり中国に限定し」と書いているのは言い過ぎでしょう。

 首相の論法を「偏狭なナショナリズム」というのなら、靖国批判を執拗に繰り返している中国の論法は何でしょうか。健全とはとてもいえないのではありませんか。社説には中国への批判はありません。

「侵略し、植民地支配した中国や韓国の反発にどう答えるか」という問題設定も、どこまで実証史学的になり得るのか。相手の政治性に故意に目をつむるのなら、偽善となるでしょう。

 中国の靖国参拝批判が火を噴いたのは20年前、中曽根首相の「正式参拝」後ですが、この背景には中国国内の権力闘争があり、親日派の胡耀邦を追い落とそうとする保守派が歴史問題を利用したことが明らかになってきました。

 いまも対日重視派の胡錦涛と強硬派の江沢民との対立があることが知られていますが、こうした中国事情について朝日の社説は目を向けようとしないように見えるのはなぜでしょうか。

 ときあたかも11日付の人民日報は「参拝停止こそ民意」と題する社説を掲げ、小泉首相に参拝中止を呼びかけています。

 第3点目。靖国神社が一般戦没者とともにときの指導者を合祀していることは事実です。首相はこの点についてたしかに触れていません。社説のいうとおりです。しかし「侵略」戦争を「計画・実行」した指導者と見る見方は一方的過ぎませんか。

 また、靖国神社が東京裁判で絞首刑となった7人、公判中に病死した2人、受刑中に死亡した5人を合祀しているのは、国がこれらの人々を一般戦没者と同様に公務死として認定したからです。とすれば、両者を分けて論じる必要もないことになります。

 戦争の過ちと責任を認め、過去と決別することと靖国神社に首相が参拝し、慰霊・追悼することとを一緒くたにしていますが、歴史批判と慰霊とは別なのではありませんか。

 かつて、昭和27年に日本が独立を回復するとき、5月3日の独立式典の前日、昭和天皇の御臨席のもと戦没者追悼式が行われましたが、天声人語は「独立式典に先立って慰霊するのが順序。結構だ」という見識を示しました。慰霊は慰霊、歴史批判は歴史批判なのです。

 過去と決別するのに、過去に関わるものを全面否定しなければならない、というのはまさに革命の思想ですが、それなら、大本営発表を垂れ流し、国民を戦争の狂気に駆り立てた大新聞こそ、いまからでも遅くはありません。解体して、再出発すべきでしょう。

 第4点目。社説は、驚くべきことに、昭和天皇ではなく徳川侍従長の発言ではないかと疑念が呈されている富田メモを、「昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を抱き、参拝をやめた」と断言してしまっています。客観性、実証性をつらぬくジャーナリズムとしては致命的誤りといえます。

 第5点目。首相は憲法19条を引き合いにして、戦没者をどのようなかたちで哀悼するかは個人の自由だ、と語っていますが、いかにも言葉足らずです。いやしくも国を代表する首相が靖国神社を参拝するのに、個人を持ち出すのは適当ではありません。国に殉じた戦没者を慰霊・追悼するのに公人が個人的な資格で行う国がどこにあるでしょうか。

 しかし首相がそのような論理を持ち出さざるを得ないのは、政教分離に関する歪な解釈と運用が横行しているからでしょう。

 たとえば政教分離主義の本家本元であるアメリカでは、ワシントン・ナショナル・カテドラルというキリスト教会で国の慰霊行事が行われています。靖国批判に余念のない韓国では国立墓地で宗教者による宗教儀礼が行われています。

 日本でも、たとえば東京都慰霊堂では都の施設で宗教者による宗教行事が行われています。阪神大震災10年の式典ではモーツアルトの宗教曲が歌われています。ブッシュ大統領が小泉首相の案内で金閣寺をお詣りしたとき、靖国批判の急先鋒であるキリスト者たちは何の反対もしませんでした。

 なぜ靖国参拝ばかりが厳格な政教分離原則を適用されなければならないのでしょうか。
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