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針を供養する日本人 [天皇・皇室]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月9日金曜日)からの転載です


 和歌山市の淡嶋神社で、2月8日のきのう、針祭(針供養)が行われたそうです。この神社には医薬の神様として知られ、裁縫の技術を伝えたとされる少彦名命(すくなひこなのみこと)がまつられており、江戸時代からこの針供養が行われてきたと伝えられます。

 お祭りは、一年の間に神社に納められた、折れたり、さびたりした縫い針をお祓いしたあと、針塚に納め、塩をかけ、土に返し、針の労をねぎらい、人々の裁縫技術の上達を祈るのだそうです。

「針の労をねぎらう」

 というところに、すべての物に魂が宿っていると考える日本人の素朴な宗教的感性が感じられ、ほっとさせられます。

 このように日本人は、針や人形、あるいはクジラなどの動物を供養し、感謝を捧げ、その霊を鎮めるという文化を大切にしてきました。しかし、モノや動物にさえ魂が宿っていると信じ、慰めようとする日本人が、その価値ある伝統文化を最近はないがしろにしているのではないか、と思えてならないのが、いわゆる靖国問題です。

 一命を国に捧げた国民に対する慰霊・追悼あるいは感謝は国がまず捧げるべきもののはずですが、明治以来、日々、慰霊の祭祀を捧げている靖国神社に首相が参拝することさえ、憲法の政教分離規定に反する、と主張され、きびしく批判されています。

 厳格な政教分離主義の本家本元と一般には考えられているアメリカでは、「全国民の教会」と呼ばれるワシントン・ナショナル・カテドラルで、キリスト教儀礼による国民的な追悼式典がしばしば行われていますが、日本では国民的式典は無宗教でなければ認められないかのような硬直した議論が、ほかならぬキリスト教指導者など宗教者たちによって主張されています。

 キリスト教国家がキリスト教儀礼にもとづいて国民的式典を行うのは許されるけれども、異教国家が異教儀礼にもとづいて国民的式典を行うことは許されないということなのでしょうか。もしそうなら、あまりにも独善的といわざるを得ないでしょう。

 しかし、意外なことに、たとえばカトリック教会の歴史を振り返ると、キリストの福音を述べ伝えるためにヨーロッパから海外に飛び出した宣教師たちが、異教世界の宗教的伝統を重んじ、異教文化に由来する国民儀式に参列することを認めていた時代もあります。

 16世紀に中国で布教活動を開始したイエズス会の宣教師たちは、当時の布教活動の常識に反して、中国語を学び、中国語で説教するなど中国文化に適応する政策をとり、天壇で行われる皇帝の儀礼に参列することや、孔子崇拝、祖先崇拝を、宗教儀礼ではなく国民儀礼として認めました。その結果、中国での布教はこの時期、大きな成功を収めることができたのです。

 それは日本や中国のような文明的に発達した多神教的異教世界で、「私のほかに神があってはならない」とする一神教信仰を広めていくためのすぐれた知恵といえるでしょう。

 それなら、今日、日本の教会指導者たちが靖国神社への首相参拝などを批判して止まないのは、この知恵をむざむざ捨ててしまったということなのでしょうか。いいえ、そうではありません。なぜならバチカンは、戦前も戦後も一貫して、靖国神社の国民儀礼を認めているからです。どういうことなのか、その詳細については、いずれあらためてご説明します。

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