SSブログ

朝鮮語抹殺政策と漢字抹殺政策 [韓国・朝鮮]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月14日水曜日)からの転載です

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝鮮語抹殺政策と漢字抹殺政策
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


seoul2.gif
 朝鮮日報が韓国の国語学者・李煕昇氏の自叙伝を紹介しています。
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2007031402688

 李煕昇氏は日本による朝鮮語抹殺政策のシンボルといわれる1942年の朝鮮語学会事件の渦中の人です。

 昭和13年の第三次朝鮮教育令によって朝鮮半島ではそれまでとは異なり、内地人と朝鮮人が机を並べて勉強できるようになりました。一方で、朝鮮語が「必修」から「随意科目」となりましたが、とくに日本人校長の学校では朝鮮語の授業が続いていたといわれます。

 朝鮮総督府の機関紙「毎日申報」は漢字ハングル混じりで終戦まで発行されていたし、ラジオの第二放送は朝鮮語が用いられていました。朝鮮総督府が編纂した朝鮮語辞典もあります。最近では、在朝鮮日本人に対する朝鮮語奨励政策までが実施されていたことが知られています。これが今日、韓国で「日帝の国語抹殺政策」といわれる実態でした。

 朝鮮語の辞典を共同編纂したために逮捕された、といわれるのが朝鮮語学会事件ですが、朝鮮語の禁止が事実でないのですから、辞典編纂を理由とした検挙・投獄はあり得ません。

 日本には江戸以後、百数十冊以上の国語辞書(節用集)が確認されていますが、もともと朝鮮には朝鮮語辞典がありませんでした。漢字辞典と漢字の文書があればいいという発想だったからです。

 ある歴史事典は、事件について、こう説明しています。

「女子高生の日記に『日本語を使い処罰された』とあったのに端を発して、教員が検挙され、学会にまで弾圧がおよび、言語学者が裁判に付され、拷問のため獄死した。朝鮮語の使用か禁止される状況で、苛酷な弾圧を受けた」

 しかし、韓国研究院発行の雑誌「韓」は昭和52年にこの事件を特集し、判決文(予審終結決定書)を載せていますが、そこには、主犯格の被告について、高麗共産党や民族宗教団体との関連、ベルギーの世界弱小民族大会に朝鮮代表して出席し、朝鮮独立要求の議案を提出していたことなどが記されています。

 拷問の末の「自白」がどこまで事実を反映しているのか不明ですが、同被告は戦後、北朝鮮の要人となっています。

 一方、同じ雑誌に掲載されている李煕昇(梨花女子専門学校教授)氏の回想はじつに興味深いものです。

 ──事件発端の日記の記述はいたずら書きに過ぎず、刑事仲間の間には立件の断念を勧める者もいたが、朝鮮人の刑事が事件にもっとも熱心に取り組み、もっとも苛酷な拷問を容疑者に加えた。

 ほかならぬ朝鮮人が無実かも知れない同朋を攻め立てている構図は背筋の寒くなる思いがしますが、いまやそれが日帝批判に姿を変えています。

 今度の李煕昇氏の自叙伝は事件をどのように描いているのでしょうか。東亜日報の書評は、

「事件で同志たちが死んでいったことは個人の苦難であり、韓国文化にとっての試練だった」

 とじつに大仰に訴えています。

 しかし朝鮮語学会が起きたのは、朝鮮人が朝鮮の言語文化を大切にしてきたからではなく、その逆の現実があったからでしょう。そして、同様の誤りを韓国人は戦後も繰り返しています。

 それが漢字の抹殺です。ハングルの価値を称えるあまり、二千年近くに及ぶはずの漢字文化を韓国人は自分から捨ててしまいました。その結果、いまや韓国人大学生の5人に1人は自分の名前を漢字で書けないのです。

 朝鮮日報の社説がそのことを嘆いています。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/03/14/20070314000014.html
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。