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岡田東京大司教様、靖国神社にお詣りください──国に命を捧げた信者たちが待っています [靖国神社]

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岡田東京大司教様、靖国神社にお詣りください
──国に命を捧げた信者たちが待っています
(「正論」平成19年5日号から)
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 岡田武夫東京大司教様、(平成19年)2月下旬に日本カトリック司教団が発表した「信教の自由と政教分離メッセージ」を拝読しました。

 今回の司教団メッセージは戦後60年の「非暴力による平和への道」に次ぐものでした。450年にわたる日本キリスト教史を振り返って迫害を強調し、とくに戦前、教会が戦争協力を迫られた歴史を反省したうえで、信教の自由の尊重を訴え、目下進行中の憲法改正の動きに対して「政教分離原則をなし崩しにする」と強く牽制しています。

 臨時司教総会が可決承認した、権威あるメッセージですが、残念なことに、そこから浮かび上がってくるのは、宗教的な魂の平安より世俗社会の自由と平和を優先させる政治性、バチカンも採用していないはずの絶対的平和主義、教会を過度に「被害者」の立場に置く、きわめて偏見に満ちた歴史理解などです。

 誤った歴史認識と理解のうえに立って、「もう戦争も迫害もこりごり」とばかりに、靖国反対、改憲反対の政治的メッセージを信者に送ることは、古来、宗教的共存を実現してきた日本の多神教的文明に無用の混乱をもたらし、迷える羊をますます迷いのなかに追い込むものと危惧されます。

 最大の矛盾は、神への信仰を世俗の憲法で守ろうとする姿勢で、これは教えに殉じた殉教者への冒瀆(ぼうとく)となりませんか。

 杞憂であれば、と願いつつ、以下、謹んで申し上げます。


1、キリシタン「迫害」には理由がある

 司教団メッセージは、「信教の自由」の価値を訴えるために、近世の国家的なキリシタン迫害・殉教から書き起こしています。しかし、その背景に何があったのか、説明は不十分で、むしろ教会の内的要因に蓋(ふた)するものといえます。

 キリシタン時代の「迫害」は日本の宗教史上、苛酷なものですが、大航海時代の教会の世界宣教は、ポルトガル、スペイン両国の武力による「世界二分割征服論」という荒々しい野望が秘められていました(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店、1977年など)。教会法に基づいた異教の地への侵略と征服こそ、禁教・弾圧を招いた第一の原因でしょう。火種は教会内部にあります。

 司教団メッセージは近代の「神社参拝強要」の歴史を語り、信教の自由の尊重を謳い上げますが、戦国時代末期の教会の布教こそじつに荒っぽいもので、九州のキリシタン大名の領地では南蛮貿易に目がくらんだ領主によって領民が強制的に改宗させられ、神社や寺院が焼き払われました。

 教皇は日本を潜在的なポルトガル領と認め、実際、長崎地方はイエズス会に寄進されています。宣教師たちは奴隷制を持ち込み、日本人を明、朝鮮、南蛮に売り飛ばしていたといわれます(松田毅一『豊臣秀吉と南蛮人』朝文社、1992年など)。明らかに侵略です。

 禁教・迫害にはカトリックとプロテスタントの宗教戦争の影響もありました。

 島原の乱のとき、幕府の要請によって、原城に立てこもる一揆勢を沖合から砲撃したのはプロテスタント国のオランダです。オランダは南蛮貿易の独占をはかって、カトリック国の侵略的意図を吹き込みました。一揆はポルトガル追い落としのチャンスでした。

 幕府がポルトガル船の来航禁止を決めたとき、バタビアのオランダ総督府では盛大な祝賀会が催されたといわれます。貿易と布教を天秤にかけ、貿易で信仰を釣ろうとした教会の布教戦略の敗退です。

 こうして禁教の時代が始まりますが、近世の殉教史が日本宗教史上もっとも苛酷なものであったとしても、世界に例を見ないほどに残虐だったわけではありません。

 もっと悲惨な例として、ほかでもないヨーロッパのキリスト教諸国とその植民地で数十万人から数百万人が処刑された陰惨な宗教裁判、魔女裁判があげられています(松田「キリシタンの殉教」=西川孟『日本キリシタン史』所収、主婦の友社、1984年など)。

 したがって「国家による迫害」を過度に強調すべきではありません。論より証拠、秀吉によるキリシタン26人の処刑後、かえって教勢が拡大し、長崎に東洋一の「被昇天のサンタマリア教会」が建てられ、全国の信徒数は75万を数えるようになったといわれます。

 他方、近世の日本がキリスト教文化を受け入れていたという歴史もあります。

 京都・祇園祭に登場する函谷鉾(かんこぼこ)の正面を飾る前掛けのタピストリーは、16世紀にヨーロッパで製作されたもので、オランダ商館長が将軍徳川家光に献上し、のちに京都の豪商の手にわたったといわれます。

 山鉾巡行を描いた18世紀半ばの木版画にこの前掛けが確認できますが、そのデザインは旧約聖書のイサクの嫁選びがテーマであることが20年ほど前に明らかになっています(梶谷宣子、吉田孝次郎『祇園祭山鉾懸装品調査報告書−−─渡来染織品の部』祇園祭山鉾連合会、1992年など)。

 鎖国・禁教の時代に、そして幕府が社寺の祭礼をきびしく統制していた時代に、京都の町衆は年に一度の八坂神社の祭りでキリスト教美術を鑑賞していたのです。〈http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/gion_matsuri.html

 司教団はこうした歴史の真相を追究することなく、みずからの好戦的布教方法の誤りを省みることもなく、日本の多宗教的文明への理解を欠いたまま、「中央集権化の妨げになると考えられ、排斥された」ともっぱら被害者を装った教会史を描いています。一面的といわざるを得ません。


2、戦前の方が政教分離は厳格だった

 司教団メッセージは、明治政府の弾圧が欧米の批判を受けたこともあって、憲法に「信教の自由」を盛り込んだが、「安寧秩序を妨げず、臣民の義務に背かない限り」という条件付きだった、と戦前の信教の自由の不完全性を述べていますが、これも一般常識論的な歴史理解にとどまるものです。

 26人の処刑後、キリスト教が盛んになった一方、長崎では諏訪・森崎・住吉の三つの神社が破壊されました。キリシタン武将による贈収賄事件などをきっかけに、幕府は禁教令を発し、今度は逆に教会が破壊され、多くの信者が処刑されました。

 めまぐるしい興亡のあと再建された諏訪神社には、本殿に同居するかたちで森崎神社がまつられています。謎の神社で、以前、長崎岬の突端、森崎の地に鎮まっていたこと以外、詳しいことは分かりませんが、「キリシタンをまつる神社」ともいわれます。

 キリスト教がヨーロッパに浸透していく過程で、聖なる森を破壊し、教会を建てたように、キリシタンによって森の中の神社が破壊され、その地にサンタマリア教会が建てられ、禁教後、今度はその教会が破壊されたものの、信者はその跡地に教会をしのぶ祠(ほこら)を置いた。やがて諏訪神社の再建時に同じ本殿にまつったのではないか、とも想像されています。

 森崎神社の御霊代(みたましろ)が諏訪神社、住吉神社とは異なって並外れて重いことに注目し、もしかしたら教会の遺構に関係するものではないか、と語る関係者もいます。

 当時の長崎はほとんどが信者でしたから、神社信仰にかたちを変えて、篤い信仰を守ったのかも知れません。森崎神社の祭神は国生み神話の男女二柱の神ですが、カトリックは救世主と聖母を信仰し崇敬します。

 長崎にはほかにもキリシタンの神社が知られるし、つい最近まで神主を呼んでキリシタンの祭祀が行われていた事例もあります。司教団が批判するほかならぬ神道が、その多神教的大らかさゆえに、信者の信仰を守ってきたと見ることもできます。〈http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/nagasaki_suwa_jinja.html

 時代がくだり、250年後、開港した長崎にフランス人による「日本二十六聖人」教会(大浦天主堂)が完成し、浦上の農民たちが見物にやってきました。潜伏していたキリシタンです。

 当時の日本は世界に冠たる法治国家ですが、ちょうど26人が列聖したばかりで、欧米人は日本をキリスト教が邪教視される「暗黒の国」と見ていました。そこに降って湧いたキリシタン「復活」とそれに続く弾圧の再来が欧米人の目にどのように映ったかはいわずもがなです。

 しかし浦上の全村民が信者だったという驚きの事実の理由は何か、どのように信仰を守ってきたのか、を考えるとき、司教団の「信仰を表明して立ち上がった」という記述は納得できるものとはいえません。

 司教団メッセージは、明治憲法が「信教の自由」を盛り込んだけれども限界性があった、と説明しますが、それどころか、明治時代から昭和にかけて、日本にはまともな宗教行政の枠組みすらなかったというのが実態でしょう。何しろ宗教に関する基本法さえありませんでした。新宗教法の制定は以前からの懸案であったにもかかわらず、手つかずのまま放置されていました。

 それでも政府は世界の大勢にならって「国家は宗教に干渉せず」を基本姿勢とし、信教の自由の徹底をはかり、意外にも今日以上の厳格な分離政策を布いていました。

 たとえば、大正12年の関東大震災後に行われた東京府市合同の追悼式は、神道にも仏教にも偏しない「宗教的儀礼を抜きにした」無宗教形式で行われ、このため「行政は宗教に無理解」と宗教界が強く反発し、軋轢(あつれき)が生じた、と当時の新聞に書かれています。

 今日、東京都慰霊堂の慰霊法要は完全な仏式です。戦前は政教分離が不完全で、戦後になって確立された、という司教団メッセージの歴史理解は間違いです。


3、戦前の「迫害」は司教団の妄想である

 昭和初期に教会が弾圧と迫害にさらされていた、といわんばかりの理解も誤りです。

 当時のカトリック新聞によれば、貞明皇后がハンセン病療養所など教会の社会事業を支援されていたし、皇室と教皇庁との交流もありました。教皇庁は斎藤実首相に、朝鮮総督時代、教会の布教に貢献した、として最高の勲章を授与しています。昭和8年には長崎の大浦天主堂が国宝に指定されました。

 大司教様がおられた埼玉の浦和教会は公有地(師範学校付属小学校跡地)の一部払い下げを許可されて建てられました。それ以前は宣教師が知事舎などでミサを行っていた、と教会のホームページに書かれています。これは逆に優遇です。〈http://www.urawa-catholic.net/rekisi.html

 軍部による陰湿な個別の嫌がらせはともかく、ナチスによるユダヤ人虐殺やアメリカでの日系人迫害のような、日本の信者や教会が政策的に弾圧・迫害を受けたという事実は、日米開戦後でさえ、ないはずです。

 国家と国家神道が一体となって戦争に邁進するなか、神社参拝が強要され、教会は靖国神社参拝の是非をめぐって問題を突きつけられた、とする司教団の歴史理解は、妄想以外の何ものでもないでしょう。

 たとえば、迫害の象徴として司教団メッセージは昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件を取り上げていますが、事実認識は大学当局と異なります。

 まず司教協議会社会司教委員会が一昨年、まとめた小冊子「非暴力による平和への道」を見ると、こう説明されています。

 ──明治政府は靖国神社を、宗教を超越したものと位置づけ、崇敬を「強制」しようとした。教会は、事件をきっかけに軍部と世論による迫害を受け、存亡の危機に陥った。
 これを回避するため、参拝は教育上の理由で行われ、敬礼を愛国心と忠誠の表現と公式に理解し、靖国神社の本質的な宗教性にふれず、宗教的参拝を儀礼として容認するという過ちを犯した。
 教会は神社参拝を奨励し、戦争協力への道を歩んだ。

 しかし、大学の当事者はそうは見ていません。渦中の人だった丹羽孝三幹事(学長補佐)の回想(『上智大学創立六十周年─未来に向かって─ソフィアンは語る』上智大学ソフィア会、昭和48年、非売品)などには、次のように描かれています。

 ──軍縮の時代が到来し、軍は将校を失業対策に配属した。上智大学の配属将校は、昭和7年5月、課外授業は学長の許可を要するという規則を破って、学生を靖国神社に参拝させた。面白半分の個人プレーである。
 信者の学生が非キリスト教形式の拝礼を拒否し、将校が憤激したのを、翌日の新聞は「参拝拒否」「軍部激怒」と書き立てた。しかし文部省は軍に批判的だったし、丹羽幹事と陸相との面談で事態は収拾した。
 ところが10月になって事件はぶり返され、「邪教」「売国奴」「スパイ」という批判が教会に対して浴びせられる。軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのだ。
 そもそも濡れ衣だったから、支援者は少なくなかった。不穏な動きがあれば、信者の警察署長から情報が伝えられ、神道や仏教関係者が見舞いにきた。軍内部からも極秘資料が届けられた。
 宮様師団長のお耳に達するところとなり、事件は急速に解決する。

 大学の公式資料が描く真相は、軍縮時代の将校の権限逸脱、メディアの虚報、軍部の政治工作への利用です。事件を解決させたのが、今日の司教団が批判的に見る皇室の権威だったとは、何という皮肉でしょうか。

 たしかに配属将校が引き揚げ、後任者が決まらない事態となり、卒業生は幹部候補生となる特典を失うなど、学生にとっては深刻でした。志望者が減った大学も困難な状況に置かれましたが、戦争の時代の「国家による宗教統制」と見るのは曲解です。

 決定版ともいえる『上智大学史資料集』全六巻(上智大学、1982〜95年、非売品)は、当事者である学生の証言をふくめ、多くのページを割き、事件の一次資料を網羅していますが、「弾圧と迫害」の事実を読み取るのは不可能です。


4、靖国参拝は宗教儀礼ではなく国民儀礼

 よほど居心地がよかったのか、退役後、引き続き職員として大学に勤めた将校もいたほどで(『上智大学五十年史』上智大学出版部、昭和38年)、「軍部の迫害」とはほど遠いものでしたが、信者にとって神と人間の信仰上の問題をはらんでいたのも事実です。

 キリスト教は一神教ですから、敬虔な信者であればあるほど、唯一神以外の神への拝礼はあり得ません。事件の本質は、日本のような多神教的、多宗教的異教世界で一神教信仰を守りつつ、祖国に対する国民の義務をどのように果たすべきか、という信仰問題でしょう。神社参拝は信徒にとって宗教行為なのか否か、神社は宗教か否か、いわゆる神社問題が問われたのです。

 国家の宗教政策問題としてとらえる司教団メッセージは一面的で、信仰問題を神不在の政治論にすり替えるものといえます。

 信仰上の疑問を解くため、事件のさなか、シャンボン東京大司教は鳩山一郎文相に、学生らの神社の儀式への参列は愛国心と忠誠を表すものなのか、それとも宗教に関するものか、書簡で回答を求め、文部省は「神社参拝は教育上の理由に基づくもので、学生らの敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」と答えました。

 このように参拝は愛国的行為であり、敬礼は宗教的意義を有さない、という公式回答を得て、信者の信仰問題は解決されました(田口芳五郎『カトリック的国家観』カトリック中央出版部、昭和7年など)。

 この判断をバチカンは追認しています。日本の教会は、信者が異教儀礼に由来するような行為を公的に求められた場合の対応について照会し、バチカンは靖国神社の儀礼参加を国民的儀礼として許したのです。戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民の義務だという判断です。これが最近、広く知られるようになった1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」です。

 司教団メッセージは、当時の教会がこの指針に基づいて、政府から命じられた神社の儀式は宗教的なものではなく、天皇への忠誠心と愛国心を表す「社会的儀礼」であるとして、信者の神社参拝を許容し、戦争協力の道へ向かった、と述べていますが、これは明らかに読み違えでしょう。

 指針は、国家神道神社での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝との区別を認めています。靖国神社は軍の管理下にあり、一般神社は内務省の管轄です。公立学校などでは宗教教育と宗教儀式が禁じられています。靖国神社の儀礼は、非宗教的な国民的儀礼だからこそ参加が許されたのです。

 指針は同時に、他の宗教に由来するものであったとしても、社交の範囲で、葬儀や結婚式など私的な儀礼への参加を許可するとともに、議論を避けて指針に素直に従うべきことを強調しています。

 司教団が主張するように、社会儀礼としての異教施設表敬さえ認められないなら、司教団が強調する「諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言した第二バチカン公会議の精神をかえって逆に否定することになり、昨年暮れ、宗教対話を求めてトルコのブルー・モスクを表敬し黙祷した現教皇様は、さしずめ異端分子となってしまいます。

 さらにいえば、靖国神社などでしばしば行われる戦没者追悼の黙祷はほかならぬキリスト教に由来するといわれます。また、伝統的には白だった喪服の色を欧米風に黒に変え、広く社会に浸透させたのは遺族の靖国神社の儀礼参加だとも聞きます。欧米のキリスト教的儀礼文化を受容している靖国神社を、司教団はなぜ否定しようとするのでしょうか。〈http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html


5、中国で成功したイエズス会の適応政策

 司教団メッセージは言及していませんが、1936年の指針が注目されるのは、同じ布教聖省が1659年に宣教師に与えた指針を冒頭に引用していることです。

 布教聖省が日本の信者らの懸念を払拭するため引き合いにした300年前の指針は、中国に布教する宣教団に与えられたものでした。信者の異教的儀礼参加の是非論は昨日、今日に始まったことではありません。そしてこれが、異教文化を排除しない教会の布教戦略の出発点でした。

「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」
「キリスト教信仰はいかなる国民の儀礼や習慣をも、それが悪いものでないかぎり、退けたり傷つけたりせず、かえってそれらが無事に保たれるように望んでいる」

「この賢明な原則」と古い指針を表現し、これを想起するのは有益である、と1936年の指針は述べています。

 それなら、17世紀の指針はどのような状況で出されたのでしょうか。

「日本最初の宣教師」ザビエルは、「いままでに発見された国民のなかで最高」と日本人を絶賛しました。そのザビエルが日本宣教の志半ばで中国大陸に渡ったのは、日本人があこがれをもつ中国に布教することが先決だ、と考えたからといわれます。

 こうして16世紀末、中国宣教を開始したイエズス会は、現地語を学び、現地語で説教し、儒者の身なりや中国流の礼儀作法を採り入れ、絶対神デウスを「天」「上帝」と表現し、さらに中国皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝に参加することを認めました。中国人が尊敬するインテリ層から布教しようという戦略でした。

 当時としては画期的な、この適応政策は功を奏し、イエズス会による中国宣教は大成功を収めました。イエズス会士は皇帝の臣下となり、高級官僚に取り立てられ、信者は増え、キリスト教は公許を得ます。

 しかし、その成功ゆえに、遅れてやってきた他の修道会の嫉妬と反感を買い、人間くさい陰湿な対立抗争を招きました。対立する修道会が適応政策をとらず、そのために迫害を受け、中国から追放されたとあればなおのことです。そしていわゆる典礼問題が発生し、孔子崇拝の儀礼参加の是非がバチカンで論争になりました。結局、イエズス会は敗北し、やがて解散させられます。

 しかし20世紀になって、適応主義は蘇ります。日本の教会に対しては1936年に靖国参拝が認められ、中国に対しては39年に孔子廟での儀式参加が許されたのです(矢沢利彦『中国とキリスト教』近藤出版社、1972年など)。

 司教団は、国家神道時代の国家による宗教統制や教会の戦争協力という誤った視点で上智大学生事件以後の歴史をとらえ、1936年の指針の有効性を見直そうとしていますが、もっと広く教会の世界布教史から考えるべきです。政教分離問題ではなくて信仰問題として、国家政策論ではなくて布教戦略論として考えるべきです。

 司教団メッセージは、1960年代に開かれた第二バチカン公会議以後、教会は諸民族の文化・伝統を尊重する態度に変わったと主張していますが、中国でのイエズス会の適応政策、そして1936年の指針こそ時代の先取りではなかったでしょうか。

 バチカンが靖国参拝を認めたのは、日本政府の宗教統制に受け身的に迫られた結果ではなく、数世紀間におよぶ教会の積極的布教戦略の成果でしょう。初期のイエズス会は、異教文化を否定する布教が文明的に発達した日本や中国などでは通用しないことを見抜き、バチカンも理解したのでしょう。

 もし異教世界での戦没者追悼の文化・伝統を社会的儀礼としても認めないというのであれば、否定と排除の論理を振り回し、力ずくで一神教化する以外に世界布教の道は失われ、教会が新大陸の異教文明を破壊した愚かな歴史を繰り返すことになります。ローマやケルトの文化を吸収しながらヨーロッパに浸透していったキリスト教の歴史を自己否定することにもなります。


6、結局、制定されなかった神社法

 司教団メッセージは、昭和戦前期の宗教統制を批判しますが、逆に、この時期、キリスト教会は法的に認められた、というのが正しい見方でしょう。

 日本初の宗教基本法たる宗教団体法が成立、公布されたのは戦時体制下の昭和14年です。最初の法案が議会に提案されて以来、じつに40年の歳月を経て、名前も改まり、非常時の波に乗って国会を通過したのでした(杉山元治郎『宗教団体法詳解』昭和14年)。

 同法は第1条で「本法において宗教団体とは教派神道、仏教宗派およびキリスト教その他をいう」と定め、「弾圧と迫害」どころか、キリスト教を公認しています。

 一方、神道については「教派神道」とあるだけで、宗教団体法は神社を宗教団体としては認めませんでした。これは教会が主張するように、「宗教法人とはせず、宗教を超越したものと位置づけた」(前掲「非暴力による平和への道」)からでしょうか。そうではなく、当時の政府には、神社は神社法によって位置づけようという考え方があったのでした。

 当時の帝国議会の議事速記録には、プロテスタントで、戦前から国政に参加し、戦後は衆院副議長を務めた杉山元治郎議員と、荒木貞夫文相、木戸幸一内相の次のような質疑応答が記録されています。

杉山「神社を宗教団体法の外に置いているが、神社法を制定するのか、神社は宗教だという人もいるが、宗教ではないという人もいる。神社は宗教以上のもの、超越したものと位置づけるために宗教団体法には包括しなかったのか。特別の神社法を制定しようということなのか」

荒木「神社が宗教であるか否か、議論があるが、神社は『国家の宗旨』であり、宗教の外にあるとされている。神社法の制定によって定められる」

木戸「昭和四年以来、神社制度調査会を設けて、慎重に研究している。神社法の制定は慎重に考慮すべき点があり、議会への提案は未定である」

 戦時体制下の議会にキリスト教徒の議員がいて、率直な議論が交わされ、官報に記録されていたことこそ、迫害の不在の何よりの証明ですが、ともあれ神社法制定は困難でした。浄土真宗は神社非宗教を主張し、逆にキリスト教は、神社は宗教だと見ていました。神社側にも多様な意見がありました。文部省と内務省にも姿勢にズレがあり、結局、神社法は制定されませんでした。

 日本の教会が主張するように、戦前の政府が宗教を超越したものとして神社を位置づけたのではなく、行政上の位置づけに成功しなかったというべきでしょう。そしてそのツケは、宗教行政の混乱となって、いまも続いています。

 さて、戦後です。司教団メッセージは、戦後、国家神道が解体され、靖国神社は一宗教法人になった、と時代の変化を指摘しますが、司教団の国家神道論は根拠があるのでしょうか。

 戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定し、ポツダム宣言には「宗教・思想の自由は確立せらるべし」の項目があります。ところがGHQはこれらに公然と違反して日本の宗教に干渉しました。

 それは「国家神道」に対する誤解と偏見があったからです。アメリカは戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、これが「侵略」戦争を導いた、と理解し、国務省は「国家神道の廃止」を方針としていました。

 その中心施設と考えられていた靖国神社は、アメリカ軍の東京進駐後、「焼却」が噂になっていました。それを救ったのは、戦時中、上智大学の院長だったビッテル神父のマッカーサーへの進言です。

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う義務がある」(『マッカーサーの涙─ブルノー・ビッテル神父にきく』朝日ソノラマ編集部編、昭和48年)。進言は明らかに1936年のバチカンの指針を踏襲しています。

 神父の助言で靖国神社は救われましたが、昭和20年の暮れには、いわゆる神道指令が発布されました。「目的は宗教を国家より分離するにある」と規定しつつ、実際は拡大解釈で日本の民族宗教である神道に対して差別的圧迫が加えられました。

 靖国神社が一宗教法人となったのは翌年ですが、そうしなければ解散したものとみなされるというせっぱ詰まった状況下でのぎりぎりの選択でした。

 しかし占領後期になると、GHQの対応は変わり、神道指令の「宗教と国家の分離」は「宗教団体と国家の分離」に解釈が変更されます。

 占領中の宗教政策を担当したGHQ職員のW.P.ウッダードは、「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている」とのちにある論攷に書いています(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4、昭和31年所収)。アメリカが敵視した国家神道の幻影がもはや消えています。

 緩やかなアメリカ型の政教分離主義に解釈変更されたからこそ、昭和26年、貞明皇后の御大喪はおおむね皇室の伝統に従って行われたし、カトリック信者だった有名な永井隆博士の公葬が長崎市葬というかたちで浦上天主堂で行われました。同じ年、吉田茂首相は6年ぶりの首相の靖国参拝を果たしました。

 かつて神社焼却を強硬に主張したGHQは首相参拝を認めたのです。その後、長崎市の市有地にイエズス会が二十六聖人記念館および巨大レリーフを建設することも認められました。

 とすれば、司教団メッセージは「教会は国家に拘束されてはならない」と述べて、現憲法が完全分離主義の立場をとっているかのように理解していますが、間違いでしょう。ウッダードが指摘したように、絶対分離主義は宗教の否定につながります。

 ちなみにアメリカでは、「全国民の教会」と位置づけられるワシントン・ナショナル・カテドラルで、しばしばホワイト・ハウスの依頼によって公的な追悼ミサが行われ、歴代大統領や政府高官が参列します。イギリスでは毎年11月に戦没者追悼記念碑セノタフで政府主催の式典が行われ、国教会のロンドン司教が短い儀式を行います。

 これらは日本の司教団の論理に従えば、政教分離違反となるのでしょうか。イスラムや仏教を信じる国民にとって、両国には信教の自由がないことになるのでしょうか。


7、戦後、バチカンが再確認した適応政策

 信者の靖国神社参拝を祖国に対する義務として許可した1936年の指針は、靖国神社が宗教法人となり、第二バチカン公会議を経験したいまとなっては、「そのまま現在に当てはめることができない」と司教団は無効性を主張しています。

 偏見をもって歴史を回顧し、バチカンの指針を「もう古い」といって有効性を否定する司教団の判断にバチカンは同意しているのか、といえば、そうではありません。

 1951年、布教聖省は1936年の指針を確認する新たな指針を与えています。「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使は(昭和12年に)参拝したのだ」。「数世紀間」という表現に、異教文化の排除から容認へという世界宣教史の変遷が明確に感じられます。

 バチカンの指針を見直すべき権限は、当然、バチカンにあります。そしてバチカンが70年前の指針を見直し、神社参拝を禁止した、とは聞きません。

 時代の変化は無論ですが、異教の文化・伝統を尊重し、戦没者慰霊を国民儀礼として容認し、参加を許可する1936年の指針の精神は、第二バチカン公会議以後、逆に重要性を増している、と考えるべきでしょう。

 ところが、日本の司教団は戦後の新しい指針についてまったく触れず、そのうえ公会議を根拠にして戦前の指針を切り捨て、改憲阻止という政治行動に突き進もうとしています。まるで反バチカン的分派活動であり、聖職者の召命からの逸脱ではありませんか。

 かつて聖書と讃美歌を手に特攻機に乗った若者もいます。そのようにして祖国に一命を捧げた兵士たちが、靖国神社には生前の思想・信条などの別なく合わせ祀られています。神社は国民的慰霊の場であり、戦死者との魂の交感の場です。カトリック教会はむろん死者との交流を認めています。

 岡田大司教様、どうぞ靖国神社にお詣りください。教皇様がイラクで落命したイタリア人兵士を「わが息子」と呼び、追悼したように、日本の教会の立場を代表して、国に殉じた信者たちを追憶し、主なる神に感謝を捧げ、平和を祈るのは、大司教様のつとめのはずです。

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