日中戦争勃発から70年、興亜観音の例祭 [戦争の時代]
以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年5月15日火曜日)からの転載です
「国平らかに、民安かれ」
とひたすら絶対無私の祈りを捧げるのが天皇第一のお務めであり、11月の新嘗祭こそは皇室第一の重儀とされますが、ちょうど70年前の昭和12(1937)年の秋、昭和天皇はどのような思いでこの祭りを親祭になったのでしょうか。
日中戦争のきっかけとなる盧溝橋事件が起きたのは同年7月でした。政府の不拡大方針にもかかわらず、戦線は拡大しました。翌年の歌会始で、天皇はこう詠まれ、平和を祈られました。
静かなる神のみそのの朝ぼらけ世のありさまもかかれとぞ思ふ
いわゆる南京虐殺が起こったされるのはまさにこのとき、12年の暮れでした。
中支派遣軍司令官の松井石根大将は「昭和の聖将」ともいわれる人物だったようです。中国革命の父・孫文を敬愛し、中国文学に親しみ、
「アジア人のアジア」
を信条としました。その松井が戦争の指揮を執らなければならなかったのは、何という皮肉な巡り合わせでしょうか。
南京入城後、松井は戦陣に散った日中双方の将兵の御霊(みたま)を慰めたいと祈念し、血潮に染まった激戦地の土を集めさせ、これを持ち帰って、瀬戸焼にして高さ一丈の観音像を建立しました。これが熱海・伊豆山の興亜観音です。
松井自身の筆になる「縁起」には、
「支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。じつに千載の悲惨事なり。……観音菩薩の像を建立し、この功徳をもって永く怨親平等(おんしんびょうどう)に回向し、諸人とともにかの観音力を念じ、東亜の大光明を仰がんことを祈る」
と書かれています。
中国、韓国からも多くの寄進を受け、14年の冬、興亜観音は落慶しました。
退役した松井は文子夫人とふたり、山麓に隠棲し、21年3月に、いわゆるA級戦犯の1人として巣鴨拘置所に収監されるまで、読経三昧の晩年を過ごしました。
東京裁判が始まり、松井は南京虐殺の責任者として絞首刑の宣告を受けました。23年12月23日、午前零時、松井ら7人の処刑が巣鴨拘置所で開始されました。土肥原賢二、松井、東条英機、武藤章の4人が絞首台の前に並びます。
「松井さん、万歳をやってください」
と東条が声をかけます。
「天皇陛下、万歳!」。
松井の発声に3人が唱和しました。
東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴が行われ、皇太子(今上天皇)の誕生日に死刑が執行されました。復讐裁判といわれる所以です。不思議なことに、処刑の責任者であったアメリカ軍のH・ウオーカー少将は3年後、同じ12月23日の午前零時、朝鮮半島で事故死しました。
7人の遺体は横浜・久保山火葬場で荼毘に付され、遺骨の大部分は太平洋にばらまかれました。遺族は遺骨の引き取りを願いましたが、許されませんでした。しかし一部はひそかに持ち出され、観音像の下に納められたともいわれます。
34年、観音像のかたわらに自然石の「七人之碑」が建てられました。題字を揮毫したのは元首相の吉田茂です。裏面には7人が処刑の直前に手鎖のまま書いたという署名が刻まれています。
「あとのことは頼むよ」
という最後の言葉を残して松井が伊豆山を去ったあと、3人の子供を育てながら、苦労して観音像を守ってきたのは伊丹忍礼・妙真夫妻です。
46年の冬、過激派が「七人之碑」に時限爆弾を仕掛けました。碑は吹き飛んだものの、隣に立つ「BC級戦犯」の碑で導火線がショートし、観音像は大破を免れました。導火線は碑に刻まれた「南無妙法蓮華経」の「法」のところで切れていました。
「ドイツにいい接着剤があるというので、取り寄せて、母が破片の1つ1つをつないだんです」。
両親の遺志を受け継ぎ、清貧の日々を送る3人姉妹の長女・妙徳さんが、引き込まれそうな優しい笑顔で語ってくれました。
松井の辞世の歌に次の2首があります。
天地も人も恨みず一すじに無畏を念じて安らけくゆく
世の人に残さばやと思ふ言の葉は自他平等に誠のこころ
興亜観音は今日も、慈愛のまなざしを中国大陸に向け、合掌しています。
さて、5月18日、今週の金曜日ですが、午後1時から興亜観音の例祭が行われます。関心がおありの方はどうぞご参列ください。
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/
(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』、田中正明『“南京虐殺”の虚構』などを参照しました)
「国平らかに、民安かれ」
とひたすら絶対無私の祈りを捧げるのが天皇第一のお務めであり、11月の新嘗祭こそは皇室第一の重儀とされますが、ちょうど70年前の昭和12(1937)年の秋、昭和天皇はどのような思いでこの祭りを親祭になったのでしょうか。
日中戦争のきっかけとなる盧溝橋事件が起きたのは同年7月でした。政府の不拡大方針にもかかわらず、戦線は拡大しました。翌年の歌会始で、天皇はこう詠まれ、平和を祈られました。
静かなる神のみそのの朝ぼらけ世のありさまもかかれとぞ思ふ
いわゆる南京虐殺が起こったされるのはまさにこのとき、12年の暮れでした。
中支派遣軍司令官の松井石根大将は「昭和の聖将」ともいわれる人物だったようです。中国革命の父・孫文を敬愛し、中国文学に親しみ、
「アジア人のアジア」
を信条としました。その松井が戦争の指揮を執らなければならなかったのは、何という皮肉な巡り合わせでしょうか。
南京入城後、松井は戦陣に散った日中双方の将兵の御霊(みたま)を慰めたいと祈念し、血潮に染まった激戦地の土を集めさせ、これを持ち帰って、瀬戸焼にして高さ一丈の観音像を建立しました。これが熱海・伊豆山の興亜観音です。
松井自身の筆になる「縁起」には、
「支那事変は友隣相撃ちて莫大の生命を喪滅す。じつに千載の悲惨事なり。……観音菩薩の像を建立し、この功徳をもって永く怨親平等(おんしんびょうどう)に回向し、諸人とともにかの観音力を念じ、東亜の大光明を仰がんことを祈る」
と書かれています。
中国、韓国からも多くの寄進を受け、14年の冬、興亜観音は落慶しました。
退役した松井は文子夫人とふたり、山麓に隠棲し、21年3月に、いわゆるA級戦犯の1人として巣鴨拘置所に収監されるまで、読経三昧の晩年を過ごしました。
東京裁判が始まり、松井は南京虐殺の責任者として絞首刑の宣告を受けました。23年12月23日、午前零時、松井ら7人の処刑が巣鴨拘置所で開始されました。土肥原賢二、松井、東条英機、武藤章の4人が絞首台の前に並びます。
「松井さん、万歳をやってください」
と東条が声をかけます。
「天皇陛下、万歳!」。
松井の発声に3人が唱和しました。
東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴が行われ、皇太子(今上天皇)の誕生日に死刑が執行されました。復讐裁判といわれる所以です。不思議なことに、処刑の責任者であったアメリカ軍のH・ウオーカー少将は3年後、同じ12月23日の午前零時、朝鮮半島で事故死しました。
7人の遺体は横浜・久保山火葬場で荼毘に付され、遺骨の大部分は太平洋にばらまかれました。遺族は遺骨の引き取りを願いましたが、許されませんでした。しかし一部はひそかに持ち出され、観音像の下に納められたともいわれます。
34年、観音像のかたわらに自然石の「七人之碑」が建てられました。題字を揮毫したのは元首相の吉田茂です。裏面には7人が処刑の直前に手鎖のまま書いたという署名が刻まれています。
「あとのことは頼むよ」
という最後の言葉を残して松井が伊豆山を去ったあと、3人の子供を育てながら、苦労して観音像を守ってきたのは伊丹忍礼・妙真夫妻です。
46年の冬、過激派が「七人之碑」に時限爆弾を仕掛けました。碑は吹き飛んだものの、隣に立つ「BC級戦犯」の碑で導火線がショートし、観音像は大破を免れました。導火線は碑に刻まれた「南無妙法蓮華経」の「法」のところで切れていました。
「ドイツにいい接着剤があるというので、取り寄せて、母が破片の1つ1つをつないだんです」。
両親の遺志を受け継ぎ、清貧の日々を送る3人姉妹の長女・妙徳さんが、引き込まれそうな優しい笑顔で語ってくれました。
松井の辞世の歌に次の2首があります。
天地も人も恨みず一すじに無畏を念じて安らけくゆく
世の人に残さばやと思ふ言の葉は自他平等に誠のこころ
興亜観音は今日も、慈愛のまなざしを中国大陸に向け、合掌しています。
さて、5月18日、今週の金曜日ですが、午後1時から興亜観音の例祭が行われます。関心がおありの方はどうぞご参列ください。
http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/
(朝日新聞法廷記者団『東京裁判』、田中正明『“南京虐殺”の虚構』などを参照しました)
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