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イセヒカリ、聖職者の政治参加、A級戦犯合祀 [天皇・皇室]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年10月8日月曜日)からの転載です


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉と〈〈 読書感想文 〉〉


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


「時事ドットコム」10月7日、「六本木ヒルズで昔ながらの稲刈り」
http://www.jiji.com/jc/p?id=20071007191821-5604503


 昨日、六本木ヒルズの屋上庭園の水田で、恒例となった稲刈りが行われたそうです。さまざまな国々の人たちによって刈り取られたのは、伊勢神宮ゆかりのイセヒカリです。

 イセヒカリについてくわしいことを知りたい方はこちらをどうぞ。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/isehikari_tanjou.html

http://homepage.mac.com/saito_sy/otomodachi/Personal44.html
 

「ノムさんの時事短評」10月5日、ミャンマーの騒乱について
http://www.nomusan.com/~essay/index-jubilus.html


 昨日は上記のURLをお伝えしましたが、これだと直接開けないようなので、ワンクリックでそのまま開けるURLを以下、お知らせします。
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2007/10/071005.html

 今日のノムさんの時事短評には、「 カトリック教会の教会法と社会教書に従い、司祭と修道士はいかなる政党政治にも、そして現在の抗議行動にも関わらない」と明記するミャンマー司教協議会の声明文が載っています。
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2007/10/071008.html

 カトリックの教義(カテキズム)では、政治に直接介入することは聖職者ではなく、信徒の役目である、と教えています。ミャンマーの教会は教義をかたくなに守っているということなのでしょう。

 ところが、ノムさんの時事短評によると、日本のカトリック新聞はこれを正しく伝えていません。日本の司教様方がバチカンの教義に反して政治的暴走をこの40年間、続けてきたことからすれば、司教協議会の機関紙としては、正確に報道することができない、ということなのでしょうか。


 以上、本日の気になるニュースでした。


〈〈 読書感想文。『靖国戦後秘史──A級戦犯を合祀した男』毎日新聞「靖国」取材班。今日は序章と第1章について 〉〉

 著者から本が送られてきたので、お礼代わりに、以下、忌憚のない書評をさせていただきます。

 A級戦犯の合祀とは何だったのか。毎日新聞の取材班は、合祀を実行した松平・靖国神社宮司の人間性にスポットを当て、探究しようとしています。従来のジャーナリズムの靖国論は、永田町中心のアプローチがほとんどでした。神社側の人となりに光を当て、ジャーナリズムの基本に立って、多くの関係者に取材し、資料にあたり、探ろうとする試みは新鮮で、好感が持てます。しかし、その目的が十分に達成できたのか、はまた別問題です。

 本は三部構成で、第1部はA級戦犯を合祀した松平宮司、第2部は合祀しなかった筑波宮司を取り上げています。両者の人間性を対比させることによって、A級戦犯合祀の核心に迫ろうとしたものと思われます。人間に迫るというのは、ジャーナリズムの手法としては成り立ちうるし、読み物としては面白いですが、歴史解明の手法として、とくにこのテーマについて、成功したといえるのかどうか。

 第1部の第1章は、松平宮司の祖父である越前藩主・春嶽から説き起こします。春嶽は国学に心酔し、強烈な尊皇思想の持ち主でした。松平宮司は福井時代、春嶽をまつる神社に日参し、「祖父のようになりたい」と語っていたのでした。しかし取材班は、春嶽なら合祀に踏み切っただろうか、と問いかけます。ふたりの違いを強調したいのでしょう。

 次に取材班が取り上げるのは、松平宮司の義父です。義父はB級戦犯として罪に問われ、ボルネオで銃殺刑になっています。壮絶な最期でした。取材班は、義父の悲劇、屈辱が戦争裁判否定に執念を燃やす動機の1つとなった、と断定しています。

 さらに取材班は、松平氏が宮司就任前、師と仰ぎ、交流した、皇国史観の提唱者・平泉澄・元東京帝大教授に言及します。軍国主義に突き進んだ戦前の東京帝大国史学科の雰囲気を伝える多く残し、歴史学者であると同時にアジテーターだった、と解説し、平泉氏と松平氏との長い交流を紹介しています。

 松平宮司がリオープンさせた遊就館の展示パネルを担当したのは、平泉史学の継承者でした。松平氏が師事した皇国のイデオローグの言説は戦後も変わらず、松平氏は師の教えを実践する絶好の立場にあった、と取材班は解説します。

 松平氏を鶴の一声で宮司に推薦したのは、石田和外・元最高裁長官でした。保守派の重鎮で、英霊にこたえる会の会長でもありました。しかし松平氏は最初は宮司就任に難色を示していました。その松平氏が説得を受け入れたのは、石田氏との話し合いで、宮司就任が、戦犯合祀→東京裁判否定→日本精神復興の年来の夢が実現できると気づいたからだろう、と取材班は推測しています。

 昭和天皇の合祀反対姿勢は知っていたが、「法の番人」である石田氏が「国際法上、問題なし」とのお墨付きを得て、「これは行ける」と思ったのではないか、というのです。そして、松平氏は意気込んで、靖国神社に乗り込んだに違いない、と取材班は書いています。神社のトップ交代は、リベラルな筑波宮司の時代から、保守的で厳格な松平時代へと転換させた。靖国神社を保守勢力側の橋頭堡として位置づけ直す方針転換の思惑が籠められている、と取材班は分析します。

 さらに、石田氏を靖国神社に結びつけた戦前、右翼テロに参画した右翼・民族派の評論家であることを、取材班は明らかにしています。この論客が石田氏を口説き、松平宮司を誕生させ、合祀を成し遂げた。松平宮司誕生は戦後、民主主義化した神社を苦々しく思っていた勢力が打ち込んだくさびだという見方もできる。A級戦犯合祀は松平個人ではなく、擁立した社会勢力によるものと考えずにはいられない、と想像をふくらませるのです。

 取材班は人間に光を当て、人間の側からA級戦犯合祀に迫ろうとしました。その手法が逆に、宮司の個性によって合祀が導かれたという新たな神話を作り上げる結果になったのではないか、と私には見えます。

 GHQは戦時中、靖国神社をシンボルとする国家神道が侵略戦争を導いた、靖国神社の職員が侵略戦争の共同謀議に加わっていた、と本気で考えていたようですが、それと似たような陰謀を平泉氏に始まり、松平氏を中心とする皇国史観一派が推し進めたのがA級戦犯合祀であった、という謀略論のように、私には読めてしまいます。話としては面白いですが、そのようなことはあり得ないでしょう。

 まず、A級戦犯合祀の最終的決断を行ったのは松平宮司であることは間違いないとしても、それには独立回復前後からの世論の強い支持や国際社会の戦犯赦免の決定、政府の援護政策という一連の前提があります。

 例の富田メモには「松岡(洋右(ようすけ)外相)、白取(白鳥敏夫か)までもが」とあり、昭和天皇の不快感を示しているといわれますが、国会図書館の新資料集によれば、厚生省が、終身刑をうけ、受刑中に亡くなった白鳥を含むA級戦犯12人(14人ではない)の祭神名票を神社に送ったのは、富田メモから20年もさかのぼる昭和41年2月であり、判決前に病死した松岡らをも含めて合祀検討会が神社で行われたのは42年5月です。合祀が認められたのは44年1月の検討会ですが、神社側は慎重に、これを保留としたのでした。

 それだけの歴史の蓄積を軽視して、A級戦犯の合祀を松平宮司の個性にのみ帰せられるべきものではありません。戦犯合祀について、これまでいわれてきたのは総代の一人だった青木一男・元大東亜相の存在ですが、取材班は青木氏についてはどうも取材していないようです。皇国史観陰謀説は話としては面白いですが、点と点を強引に結びつけ、結論を急いでいる印象が否めません。神道=平泉流の皇国史観ではないでしょう。平泉人脈が共同謀議をこらし、合祀その他を推進したかに見えるのは、むしろ人脈の乏しさではないのでしょうか。むろん神道=軍国主義でもありません。神道人が上海戦線における皇軍の暴走を必死で食い止めようとした歴史さえあります。

 しかし取材班は、第1部第3章でさらに松平氏の個性に踏み込みます。

 「靖国神社の中興の祖といわれたい」。松平宮司の意気込みは並大抵ではなく、A級戦犯合祀に続いて、神職の定年制、社有地売却、複式簿記導入などに取り組み、そして遊就館を再開させました。

 遊就館は宝物遺物の保管所から「大東亜戦争は避けられなかった」という松平史観を世界に発信する宣伝拠点に生まれ変わった、と取材班は解釈します。呼び物の1つは人間魚雷「回天」で、その司令官は義父でした。個人的な思い入れ、と取材班は指摘します。

 国家護持法案が成立しなかったことで、神社は財政基盤づくりに迫られました。松平宮司は「宗教として自活力をつけたい」と周囲に語っていました。

 国家護持に反対する松平宮司は、①靖国神社の社名、②本殿のたたずまい、③神道祭式の3つを変えない、とする松平三原則を打ち出しました。その理由は徹底した政治不信にありました。「内閣が代われば神社の性格がどう変わるか分からない。国家から金をもらうと宗教は死んでしまう」。真っ先にA級戦犯合祀の決行も国には期待しないという意思表明でもあった、と取材班は指摘します。

 中曽根参拝のエピソードは政治家嫌いの真骨頂でした。首相参拝を宮司が出迎えなかったのは、このときだけで、「いずれ国にお返しする」が本来の立場とされる同社の宮司としては異彩を放っていました。

 松平宮司が次々と改革を断行していったのは、筑波宮司の「平和路線」を脱し、構造改革することだった、と取材班は見ています。「生涯のうちでもっとも意義あることは、A級戦犯の合祀である」。戦後教育を批判する同志の会合で松平氏は本音を吐露していたのは、ちょうど平泉門下生たちが新しい歴史教科書づくりの運動を発展させていく時期と重なると取材班は指摘します。

 松平宮司にとっての靖国改革は、祖父・春嶽の尊皇思想の実践だったが、その春嶽蔵は一面的だった。また、父・慶民が宮内相としてGHQ改革を受け入れれるという汚名をそそぐのは自分しかいないと信じ込み、靖国改革に打ち込んだ。個人的宿縁が改革の源泉となった、と取材班は分析するのです。

 この辺で拾い読みはやめますが、この本の最大の特徴は、くり返しになりますが、「松平宮司が戦犯を合祀した」と見定め、宮司の個性を負っていることです。そして、そのことによって、大きな見当違いをおかしているように、私には見えます。

 取材班も指摘しているように、「明治天皇の思し召し」によって創建されたのが靖国神社です。したがって、宮司個人の意思で「戦犯を合祀」すること自体、本来的ではありません。実現させたのは戦後、「宗教法人」となったからです。

 取材班は序章の冒頭、「問題の根源である民間宗教法人への改組」から60年がたった、と書き起こしています。しかしこれは「改組」と表現されるような神社の積極的意思の結果だったのでしょうか。戦前の宗教団体法に代わって宗教法人令が出されたのは昭和20年暮れ、これが改正されたのは翌年2月ですが、その附則に「靖国神社は宗教法人令による法人とみなす」とありました。 しかも「6カ月以内に地方長官に届出」なければ「解散したものとみなす」とされていました(「神道史研究」昭和46年、渋川謙一論攷)。「改組」という言葉を使うなら、神社がみずから「改組」したのではなく、GHQが勅令を使って、有無をいわせず「改組」を迫ったみるべきです。

 選択の余地もなく、やむなく宗教法人になった靖国神社ですが、そのことにより代表役員としての宮司の権限は強まりました。松平宮司のアナクロな個性がA級戦犯を合祀したのではなく、戦後体制の柱である宗教法人法の枠組みが合祀を決行させたと見ることもできます。

 松平宮司以前の靖国神社がA級戦犯合祀に慎重だったのは、「国家的性格を失った宗教法人のままでは忍びがたい」という考えが筑波宮司の諮問機関・調査会の一致した考えだったからと聞きますが、同様の思いは、永田町では与党よりむしろ野党に根強かったといわれます。取材班は国家護持法案が社会党、共産党などの反対で五たび廃案となったと書いていますが、事実ではないようです。廃案となったのは政局化したからだと私は聞いています。

 取材班は取材の醍醐味によって、松平宮司の人間性をあぶり出すことには成功したのでしょう。しかしA級戦犯合祀とは何だったのか、という肝心のテーマには、少なくても序章と第1部を読む限りでは、迫りきっていないという感想を持ちました。

タグ:天皇・皇室
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