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殉教、拉致、教科書検定、政教分離。 [天皇・皇室]

殉教、拉致、教科書検定、政教分離。


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉と〈〈 読書感想文 〉〉


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


「読売新聞」10月8日、「殉教のキリシタン家老親子、司教・住職が宗教超え慰霊祭」
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_07100804.htm

 大分合同新聞によると、教皇庁による2人の列福を受けての慰霊祭でした。カトリック大分司教区は、日出町(ひじまち)にある処刑場跡を、信仰を顕彰する公園として整備する計画を進めているそうです。
http://m2.i-bunbun.com/news/read.cgi?1190732400=119076921131313=1

 町では教育委員会などが後援する「ザビエルの道」ウォーキング大会なども行われています。今年は来週の日曜日です。
http://www.town.hiji.oita.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::2204&TSW=upqqbef


「読売新聞」10月8日、「金総書記『日本人拉致被害者はもういない』……南北会談で」
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20071008it12.htm?from=top

 日朝関係改善について、金総書記は「福田首相の出方を見守る」と述べたようですが、さて、首相はどう答えますか。


「琉球新報」10月8日、「文科省、議事録HPで公開。教科書検定審」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-27903-storytopic-1.html

 文科省が、来年度から使用される教科書の検定を最終決定した今年3月30日の教科用図書検定調査審議会の総会議事録をホームページ上で公開しました。

 議事録には、日本史の申請本を審議した第2部会が、「近・現代史を中心として、南京事件の犠牲者数、沖縄戦の実態などの記述について、現在の学説状況に照らして、修正を求めました。また国旗・国歌問題、イラク戦争などに関しても、事実関係に即した記述への修正を求めました」とあります。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/tosho/gijiroku/001/07100406.htm


「newsclip.be-Bangkok. Thailand」10月7日、「深南部で殉職の警察大尉、タイ王妃が葬儀主宰」
http://www.newsclip.be/news/20071007_015703.html

 先月、タイ深南部で殉職した警察大尉の葬儀が、仏教寺院で、シリキット王妃の主宰で行われました。

 タイは人種的には大半がタイ族で、95パーセントが仏教徒といわれるタイですが、タイ深南部はかつてイスラム教徒の小王国があった地域で、武装したイスラム教徒による独立運動が続いています。

 憲法は信教の自由をうたう一方で、国王は仏教徒であり、宗教の擁護者であることを定めているようです。今年の夏、新憲法制定に関連して、仏教団体が仏教の国教と規定するよう要求していましたが、シリキット王妃が政教分離が望ましいという考えを示し、仏教団体が要求を取り下げるということがありました。
http://www.newsclip.be/news/2007813_014551.html

 それであって、王妃が主宰する葬儀がお寺で行われています。政教分離に反しないという判断があることはもちろんでしょう。


「クリスチャン・トゥデイ」10月8日、「ローマ教皇、バチカン人事の一新を完了」
http://www.christiantoday.co.jp/international-news-1182.html

 記事によると、儀典長、機関紙「オッセルヴァトレ・ロマノ」の編集長などの顔ぶれが代わりました。イギリスのカトリック雑誌は全教皇時代の人事を一新させた、と解説しているようです。


〈〈 読書感想文。昨日に引き続き、『靖国戦後秘史──A級戦犯を合祀した男』毎日新聞「靖国」取材班。今日は第二部について 〉〉
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 昨日は、序章と第1部「A級戦犯を合祀した宮司」を取り上げました(第1章とあったのは第1部の誤りです)が、今日は第2部「A級戦犯を合祀しなかった宮司」を取り上げます。

 第2部は第4章と第5章からなり、第4章は「白い共産主義者」という意表を突くタイトルで、筑波宮司の人間に迫ります。冒頭は次のように始まります。

「靖国神社には国家神道の戦前・戦中から今日まで、途中、民間の宗教法人になりはしたものの、一貫して軍国主義的性格を変えずに突っ走ってきたようなイメージがある。とくに軍人気質のまま宮司になったような松平永芳氏の登場は、その印象を決定づけた。A級戦犯合祀によって、いったん法的、政治的に断罪された軍国主義指導者たちの名誉回復を図り、戦後日本社会が決別したはずの皇国史観を再興普及する拠点としての役割をあらわにしたからだ」

 これは完全な作文というべきものです。

 まず「国家神道」です。取材班のいう「国家神道」とは何でしょうか。「途中、民間の宗教法人になり」とあるからには、それとは対照的に、国家が管理する国家の宗教、つまり国教という意味なのでしょうか。

 戦前の靖国神社が軍の管轄にあったことは事実ですが、組織上、あるいは財政上、一体だったわけではありません。いわんや国教だったわけではありません。日本では明治以来、宗教に関する基本法がなく、ようやく昭和14年に宗教団体法が成立しますが、ここでは神道、仏教、キリスト教が公認されています。国家神道が国教だとするなら、信教の自由を認めた憲法に違反するでしょう。

 カトリックのローマ教皇庁は、1936年に「祖国に対する信者のつとめ」という指針を発表し、国家神道神社での国家的な儀礼と宗教としての神道の礼拝を区別し、靖国神社の儀礼惨禍を国民的儀礼として許可しています。神道形式による国家的儀礼への信者の参加を信徒の義務として認めたのです。それはあるはずもない国教としての国家神道を容認しているのではありません。

 つぎに「軍国主義」です。

 アメリカ政府が戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉と誤解し、「国家神道」の中心施設と考える靖国神社を標的としたことは事実でしょう。そのため占領後、焼却処分の声があがり、昭和20年暮れには、いわゆる神道指令が発せられ、「国家と教会の分離」が拡大解釈され、神道に対する差別的な圧迫が加えられ、駅の注連縄や門松までが撤去されたのでした。

 しかし、そのGHQも占領後期になると、緩やかな分離主義に解釈変更し、神道撲滅政策も緩和され、事実、昭和26年には松平参議院議長の参議院葬が神式で行われ、吉田首相の靖国参拝も認められます。靖国神社=軍国主義という見方がまったくの偏見に過ぎないことをGHQは理解したのでしょう。

 あの時代を「軍国主義」の時代と見るならば、「軍国主義」の推進者は靖国神社ではなく、メディアでしょう。

 愛知大学の江口圭一教授は、『日本帝国主義論』で、「強調されねばならないのは、この両大紙(朝日と大阪毎日・東京日日)が新聞社としての能力・機能のほとんどすべてを傾注して(満州)事変の支援につとめ、事変そのものを自己の不可欠の構成部分に組み込み、戦争を自己の致富の最有力の手段として、この制覇を成し遂げたという事実である」と、毎日新聞の前身を名指ししています。

 それはそうでしょう。当時の新聞が数々のイベントを手がけ、国民の戦意高揚を図っていたことはよく知られています。

 それなら靖国神社はどうでしょうか。雑誌「正論」9月号掲載の拙文「靖国問題を問い直す9つの視点」にも書きましたが、戦前、30年にわたって靖国神社宮司の地位にあった賀茂百樹は軍国主義どころか、平和を訴えています。晩年、病床で口述した「私の安心立命」(昭和9年)には「神ながらの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未然に防止し、平和を保障するのが最上である」とあります。

 賀茂宮司ばかりではありません。70年前、上海戦線での皇軍の暴状が伝えられたとき、今泉定助ら神道人たちが必死で抑えようとしたことが知られています。

 だとすれば、いまさら「軍国主義」のご本家から靖国神社が「軍国主義」呼ばわりされる筋合いはないことになります。

 取材班はどのような具体的事実を根拠に、「一貫して軍国主義的性格を変えずに突っ走ってきた」と書いているのでしょうか。それは単なる「イメージ」だとしても、取材班は誤解に満ちた「イメージ」を認めているのでしょうか。「イメージ」とは誰の「イメージ」なのでしょう。

 「A級戦犯合祀」についても、事実の誤認があるでしょう。「法的、政治的に断罪された軍国主義指導者たち」の「名誉回復」を図ったのが「合祀」であるという理解は間違いでしょう。

 これも「正論」掲載の拙文「知られざる『A級戦犯』合祀への道」に書いたことですが、戦犯の赦免・減刑は国民の強い要求を受けて、平和条約に基づいて、日本政府が勧告し、連合国側が決定したことに始まります。

 「戦後日本社会が決別したはずの皇国史観を再興普及」もヘンです。皇国史観=神道でも、皇国史観=靖国神社でもありません。この本の第1部では、平泉澄、松平宮司の皇国史観一派のいわば謀略説が語られていますが、平泉人脈が靖国神社に関わるようになったのは松平時代以後と私は聞いています。戦前・戦中から、主流派の神道人は平泉一門をむしろ一種の教条主義と見ていたようです。

 事実誤認、もしくは根拠に乏しい推断はまだまだあります。

 「戦前の靖国神社は、護国神社や海外の新興神社などを従え、国家神道の頂点に位置していた」

 「A級戦犯の祭神名票が神社に送られてきたのは66年。それから4年間、神社内で手続に付されることなく、放置された」

 「筑波宮司が合祀を見送った理由は推測がつく。判断の根っこに、戦争指導者を簡単に許すことはできないという素朴な正義感があったことは確かだろう」

 「戦前の軍国主義との決別についてGHQに提出した報告書では、神社の変質をみずから認めている」

 第2部の第5章は、「世界平和を目指した靖国」と題して、戦後の娯楽化路線を引いた「オカルト権宮司」についての紹介に始まります。「飛び抜けてユニークな神職が権宮司を務めていたこと自体、終戦直後の混沌とした状況をうかがわせる」というのですが、そうでしょうか。

 取材班が認めているように、「神道にはもともと統一的な教義がない」のです。宗教法人法上は、神職は、僧侶や神父と同様に、「教師」でしょうが、もともと神職が氏子を教え導くという構造があるわけではないでしょう。

 神職には神職の神道があり、氏子には氏子の自然発生的な神道がある。その多様性を認めるのが神道です。神職にもいろんな信仰があり、ユニークな信仰を単純に「オカルト」と決めつけ、「オカルト権宮司」の存在を「混沌」と断定することはできません。

 第5章で取材班は、国会図書館の新資料集に言及し、A級戦犯の合祀が1958年に厚生省と神社の打合会で、はじめて正式な議題に上ったことなどを明らかにしています。「人知れず開かれていた」「戦犯への視線が厳しい世論に配慮して目立たないように」とあります。

 しかし世論が、A級戦犯に対して厳しい視線を向けていたとする根拠は何でしょうか。戦犯者全体に対する世間の冷たい目が終戦直後、あったのは事実として、昭和30年代にA級戦犯合祀を密かに行わなければならないほどの「厳しい視線」だったのかどうか。

 昭和27年4月10日付の朝日新聞は、元A級戦犯弁護人二十数名が全戦犯被告の釈放を求めて政府に申し入れることを決めた、と伝えています。二日後には、弁護団が巣鴨拘置所でA級戦犯らとはじめて懇談したことを伝えています。講和発効前日の27日には日弁連の加藤代表らがA級戦犯と会見しています。30日には木村法相がBC級戦犯の赦免を言明します。

 こうして、日本の独立回復と前後して、戦犯の釈放に向けた動きが始まります。

 さらに30年春には例大祭に合わせて、ひめゆり部隊の3人が合祀されます。ひめゆり部隊の合祀こそA級戦犯合祀の先駆けでした。

 30年4月5日の朝日新聞「読者応答室から」は、「ひめゆり部隊の乙女たちが靖国神社に合祀されるそうですが、その基準は?」という問いに対して、「戦後は同神社に調査部を設け、資格調査を行っている。しかし基準は戦前通りで、軍人軍属で戦地勤務が原因となって死んだ者、となっている。ひめゆり部隊は軍人軍属ではないが、軍に協力中戦死したのであり、あとで軍属と認められた。なお同神社では将来、戦犯刑死者や終戦当時の自決者の合祀を考慮しています」と解説しています。

 30年9月1日の朝日は、アメリカのダレス長官が、A級戦犯を近く、釈放することを言明したと伝えています。ところが翌日の朝日によれば、A級戦犯の釈放は「なぜ同時にできぬ」というBC級戦犯の不満を呼びました。これに関連して、日弁連の戦犯釈放特別委員長・林逸郎氏は「A級の人たちは以前から『われわれはBC級の人のあとに』といっていたから、かえって心苦しいだろう」とA級戦犯の心理を代弁しています。

 取材班が書いているように、「戦犯への視線が厳しい」のではなく、BC級戦犯に対するA級戦犯の遠慮があったのではないかと私は想像します。新資料集の打合会資料(33年9月12日)に「まずBC級を合祀」とあるのはその意味でしょう。

 それではなぜ、どのようにしてA級戦犯が合祀されるようになったのか、新資料集は明らかにされていません。取材班は、しかし、筑波宮司時代の靖国神社がカタツムリの歩みにも似た対応を続けたことがはっきりした、A級戦犯の取り扱いはつねにためらいながら、行きつ戻りつして、その経過は松平宮司とは明らかに大きな落差がある、と指摘しています。

 取材班の取材は謎を謎のままに終わらせていますが、「正論」10月号掲載の拙文「昭和天皇の『不快感』は本当か」にも書きましたように、厚生省との検討会で合祀が決まったあとも神社側が「保留」とし、慎重な態度を続けたのは、宮司の諮問機関・祭祀制度調査会の不同意があったからです。

 委員の一人だった葦津珍彦は宗教専門紙の連載に、「国家護持ができてのちに、公に国民のコンセンサスの上で決すべきだ」と書いています。「国家護持の目的こそ第一義であり、国家的性格を失った宗教法人のままであることは忍びがたい」というのがその精神で、調査会の一致した考えだったといわれます。宮司の個性ではなく、組織が防波堤となったといえます。

 その結果、「宮司預かり」とされたのですが、筑波宮司が亡くなり、新たに宮司になった松平氏が合祀を決行します。取材班はふたりの宮司を対比させ、A級戦犯合祀の謎に迫ろうとしたのですが、結局、「人物」という視点では迫りきれなかったようです。

 なぜ取材班は陰謀説に走り、見当違いと思えるような本を書いてしまったのでしょうか。取材班が試みたように、記者たちの人間性に迫るほどの時間的余裕は私にはありませんが、想像するに、政治部記者中心の取材体制に根っこがあるのでしょう。日常的に権謀術数が渦巻く永田町を取材する感覚で、靖国神社を取材したのではないか、という疑問です。

 時間的制約がある中で、多くの関係者に取材し、資料を渉猟したことには敬意を表しますが、政治部的発想では限界があります。新聞社という組織の仕事として挑むからには、社会部のほか、文化部の記者も動員して、宗教的な素養を十分に踏まえたうえで取材したなら、もっとバランスのいい、深みのあるリポートが書けたのではないかと残念な気がします。

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