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朝鮮王族の子孫を祀る高麗神社/公と私──宮内庁長官の苦言をめぐって [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.20
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第20回 朝鮮王族の子孫を祀る高麗神社

▼古代朝鮮・高句麗の遺民たちの神社

 埼玉県南西部の日高市に高麗(こま)神社という神社があります。
koma_jinja01.gif
 JR高麗川駅、西武池袋線高麗駅、高麗川郵便局、高麗小学校、高麗中学校、こま武蔵台団地、高麗川カントリークラブ……この辺りはものの見事に「高麗」だらけです。それもそのはずで、この地方は古代朝鮮・高句麗から亡命してきた遺民によって開かれた歴史を持ちます。

 いまから1300年以上も前の668年、朝鮮半島北部から旧満州・中国東北部を広く支配する強国・高句麗が滅亡しました。唐と新羅の連合軍の前に屈したのです。そのころ東アジアは、日本も含めて、激動の時代でした。

 それから約50年後、ここに「高麗郡」が置かれます。『続日本紀(しょくにほんぎ)』という古い歴史書には、霊亀2(716)年にいまの静岡、山梨、神奈川、千葉、茨城、栃木に住む高麗人1799人を武蔵国に移住させ、はじめて高麗郡をおいたことが記録されています。

 神社を建てたのは高句麗の遺民たちです。まつられているのは高麗王若光(じゃっこう)で、王族の子孫といわれます。若光は祖国を失った遺民たちをよく導いた功績が評価されたようで、「王(こきし)」という姓を天皇から賜った、とやはり『続日本紀』に記されています。宮司の高麗文康さんはその末裔で、60代目といわれます。宮司さんの姓もまた「高麗」です。


▼「建国の祖」に与えられた麦

 興味深いのは神饌(しんせん)です。先代の宮司さんから聞いたのですが、お祭りのとき、氏子たちは1軒当たり1升の精白したムギバツ(麦の初穂)を神前にささげるそうです。かつては決まった日に、農家が小麦をもって参詣し、あるいは小麦粉を練ってゆであげた小麦粉餅を神前に供えたようです。

 神社の神饌といえば、たいていはお米です。ところがこの神社はお米ではなくて、小麦である、というところが興味深いのですが、それでは、なぜ小麦なのか。どうやら古代朝鮮の神話と関係があるようです。

 高句麗の建国神話には、「建国の祖」朱蒙の物語が描かれています。母国・扶余(ふよ)を発ち、建国の旅に出る朱蒙に、母・柳花は五穀の種を与えます。ところが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れてしまいます。旅の途中、木陰に休んでいると、2羽の鳩が飛んできました。「母が麦を届けてくれたのだ」と思い、朱蒙は一矢で2羽を射落とします。ノドを切り裂くと、はたして麦の種が見つかりました。

 日本の天孫降臨神話では神から与えられるのは稲ですが、高句麗では麦なのです。


▼長い時を経て日本の聖地に

 中国の歴史書『三国志』の『魏志』高句麗伝には、高句麗には良田がなく、田を作っても口腹を満たすほどの収穫はない、と書かれていますが、それは高麗郡も同じで、この地方では古来、畑作と養蚕が盛んに営まれたといわれます。

 『三国志』にはまた、高句麗では10月に天を祭る「東盟祭」という祭りが都で行われていた、と書いてあります。神話学者によると、岩屋に祀られていた穀母神と建国の祖である朱蒙東明王の降誕を祝う祭りだといいます。王みずからが行う国家的な盛大な祭りで、着飾った貴族たちが練り歩きました。岩屋の神をお迎えし、都の郊外の水辺にお遷しして、神事が行われたようです。

 高麗神社は高麗川のほとり、自然豊かな高麗丘陵に鎮まっています。高句麗の遺民は失われた祖国の神話を思いつつ、この地を自分たちの新たな聖地に選んだのでしょうか。

 最後に強調しておきたいのは、このような深い歴史を秘めた神社が長い時を経て、日本の社会に根を下ろし、日本の聖地になっていることです。神社では折りしもいま、高麗郡建郡1300年記念事業が行われています。皆さまもどうぞお詣りください。
http://www.komajinja.or.jp/


 参考文献=「高麗神社と高麗郷」(高麗神社社務所、昭和6年)、三品彰英『古代祭祀と穀霊信仰』(三品彰英論文集第五巻、平凡社、昭和48年)、『三国志?』(世界古典文学全集24B、筑摩書房、昭和57年)、『続日本紀1』(新日本古典文学大系12、岩波書店、1989年)など



(((((((( 高麗神社こぼれ話 )))))))))))


 もう10年も前になるでしょうか、先代の宮司さんが「親父のころ」の話を聞かせてくれました。

 「親父は2つ、嫌だと思ったことがある、といっていた。1つは、村の駐在所に特高警察がいたことだ」。どうやらお詣りする人たちを警戒していたようです。先々代の宮司さんは、それがよほど気に入らなかったようで、戦後は「戦争に負けたのはともかく、特高警察がいなくなったのはよかった、と親父がいっていた」そうです。

 もう1つは「朝鮮人は各警察署ごとに『協和会』に入らされ、警察署長が引率して参拝にやってきた」ことでした。「警察は親父に、『立派な日本人になるよういってくれ』と頼んだ。そういわれるのが親父は嫌で嫌で仕方がなかった」そうです。

 ところが面白いことに、そのころ警察に連れてこられた在日の人たちがいまも参拝にやってきて、「昔はいやだったが、いまはここに来るとホッとする、というんだ」と先代の宮司さんは話してくれたものです。

 「彼らからすると、オレは朝鮮人だと思うんだな。だから、韓国の国旗を贈られたことがある。社務所に飾ってくれ、っていうんだ」

 年間1000人に上る留学生や研修生のほか、外交官や経済人もお詣りにやって来ます。境内には駐日大使が参拝記念に植えた韓国の国花ムクゲの木があり、民団中央本部から贈られた魔除けの神像チャンスンが立っています。

 このごろでは、ヨン様主演のドラマ「太王四神記」の影響で、日本人の参拝者がさらに増えているんだとか。

 そんな人波の絶えない境内に、慎ましく寄り添って立っている2本の杉があります。昭和17年に朝鮮最後の皇太子・李王垠(ぎん)殿下と方子(まさこ)妃殿下がお手植えになった杉の木です。

 高麗神社は、各地の古社がそうであるように、様々な歴史を伝えています。




(((((((( 公と私──宮内庁長官の苦言をめぐって )))))))))))

▽1 「プライベートな事柄」

 23日、皇太子殿下のお誕生日会見に注目が集まりました。10日前、羽毛田(はけた)宮内庁長官が、「ご参内の回数が増えていない」「実行を伴っていただきたい」と殿下に異例の苦言を呈されたからです。殿下がどう発言されるのか、関心は高まりました。

 宮内庁の発表によると、「1年間のご印象」「ご結婚15周年のご感想」など5項目の質問のあと、関連質問として、記者が「ご感想」を求めたのに対して、殿下は「両陛下の愛子に対するお心配りは、感謝している。参内の頻度についてはできるだけ心がけたい。家族のプライベートなことがらなので、これ以上は差し控えたい」とお答えになりました。

 重ねて記者から、「(19日に)両陛下にお会いになった際、この話題はあったのか、直接、国民にご説明されるお考えはないか」と質問がありましたが、「家族内の事柄なので」と繰り返され、多くを語られませんでした。
http://www.kunaicho.go.jp/koutaishi/denkakaiken-h20.html


▽2 「愛子さまに会いたい」

 発端は、一昨年12月、天皇陛下がお誕生日会見で、「残念なことは、愛子が私どもと会う機会が少ないことです。いずれは会う機会も増えて……」と述べられたことでした。
http://www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h18.html

 2カ月後、殿下はお誕生日会見で、「陛下の愛子に対するお気持ちを大切に受け止めて、これからもお会いする機会を作っていきたい」と答えられました。
http://www.kunaicho.go.jp/koutaishi/denkakaiken-h19.html

 報道によると、長官は何度も殿下に直接、改善を申し入れたようです。しかし参内は増えず、むしろ減ったようです。陛下の皇太子時代には週に一度の参内があったそうで、東宮の「年に2、3回程度」は少なすぎます。長官発言の波紋が広がるなか、19日に参内されたときも、殿下お一人だったと伝えられます。

 陛下は何を望まれているのでしょう。おそらく「孫に会いたいが会えない」という寂しさを訴えておられるというのではなく、皇位の本質に関わる大きな問題なのだろうと推察します。そして、それがどうやら伝わらないのです。


▽3 絶対無私の祈り

 たとえば、当メルマガvol.5(11月13日発行)の「天皇・皇室の一週間」をご覧いただければ一目瞭然ですが、毎日のようにお出ましが続く、陛下の過密スケジュールには驚くばかりです。
http://www.melma.com/backnumber_170937_3896982/

 ところが、11月22日、秋篠宮殿下がお誕生日会見で、前年に続いて両陛下のご公務のご負担についてふれられました。
http://www.kunaicho.go.jp/akishino/akishino-kaiken-h19.html

 そのことが直接的に影響したのかどうか、直後からお出ましのニュースはめっきり減りました。

 代わって12月中旬からほぼ1カ月間は、寒さが日増しに募るなか、陛下は祭祀と儀式の多忙な日々を過ごされました。祭儀のいくつかがこの時期に集中しています。

 順徳天皇が「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす」(「禁秘抄」1221年)と書き残されたように、祭祀こそは天皇本来の「ご公務」であり、天皇第一の務めですが、これほどの激務はありません。深々と冷える夜間、宮中の神域で、陛下は高齢で、療養中にもかかわらず、気の抜けない厳粛な祭祀を奉仕されました。

 それは「国平らかに、民安かれ」という絶対無私の祈りです。


▽4 家族的な温かみ

 この天皇の私なきお務めと微妙な関係に位置するのが、皇室の子育てです。

 たとえば、私の手元に、ヨーロッパの事情にも詳しいジャーナリストの広岡裕児さんがお書きになった『「皇室・王室」がきちんと分かる本』(2002年)があります。その第2章は「皇室・王室の子育てと教育」で、「戦後様変わりした皇室の子育て」について歴史的に説明されています。

 広岡さんによると、もともと宮中には乳人(めのと)が乳を与える制度があったが、これを破って最初に母乳で子育てをされたのが香淳皇后だった。これは社会への挑戦だった。お手元で子育てもされようともしたが、元老の反対でできなかった、とあります。

 戦後、皇后陛下(当時は皇太子妃)がはじめてお手元で子育てをされました。広岡さんは、宮廷記者会がまとめた『天皇』(昭和30年)を引用し、当時の皇太子殿下(今上陛下)が「親兄弟と離れて暮らすことは寂しい。自分の子供は手元に置いて育てたい」とご学友にしみじみ語られたことを紹介しています。

 さらに広岡さんは、「普通の家庭を築くことは大正天皇も望み、昭和天皇も望んだ親子三代にわたる願いであった」「いや、明治天皇もまた、心の中では孫たちが来るのをとても楽しみにしていた」として、次のような秩父宮殿下の言葉を引いています。

「明治天皇はあまりにも政務に御熱心であり、国家のことに全身全霊を打ち込まれたので、子や孫たちとの家族的団欒を完全に犠牲にされたと考えるほかはない。……ただ畏敬という以外に何か人間的温かみの残るものを持ちたかった気がする」

 広岡さんの文章を読むと、古代からの乳人制度は封建的で、温かみのないものであって、旧弊を打ち破ることに現代的な大きな意味がある、と訴えているかのように聞こえます。しかし、果たしてそうでしょうか。


▽5 先帝の葬列に加わらない理由

 かつて天皇は父君、母君陛下の葬列に加わられることもありませんでした。変わったのはやはり戦後です。

 占領末期の昭和26年、貞明皇后が崩御されたとき、その大喪儀は諸事簡素化されたばかりでなく、葬場殿の儀は昼間、行われることとなり、昭和天皇はみずから亡き母君の葬列に加わる新例を開かれました。

 たとえば大正3年の昭憲皇太后の大喪儀では、葬場殿の儀は東京・代々木練兵場で夜に行われています。大正天皇は鹵簿(ろぼ)には加わらず、御名代として閑院宮殿下を遣わされ、天皇は葬場に先行されてお出迎えになりました。

 貞明皇后大喪儀の際の変更は、占領軍による「民主化」の一環かと想像されます。しかしそれでも、最近の例でいえば、昨年11月の高円宮さまの5年式年祭に、陛下は参列されませんでした。「皇室の慣例」と説明されています。

 こうした一見、「温かみのない」ような「慣例」は何に由来するのか、といえば、「天皇に私なし」ということに尽きるものと思われます。「家族的団欒」はむろん大切で、人の子であれば肉親の情はやみがたいでしょうけれども、つねに国と民のために祈られる天皇のお立場には私情を差し挟む余地はないのです。


▽6 殿下の葛藤

 メディアはしばしば皇室を「天皇家」と呼びます。けれども日本の「ロイヤル・ファミリー」はけっして私的な「ファミリー」ではありません。皇族には姓がありません。私的な「家」であることを否定したところに、皇室の存在意義があると日本人は信じてきたのです。

 ご結婚のとき「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします」と語られたという皇太子殿下は、良き夫、良き父親になろうとし、良き家庭を築こうとされておられるようです。家庭の崩壊が指摘される現代において、東宮が社会の模範となることは価値があるのですが、療養中の妃殿下を気遣われ、マイホームを志向されればされるほど、かえって皇室の伝統的価値から遠ざかっていくことにならないかと危惧されます。

 陛下のご心配はそこにあるのでしょう。陛下ご自身、お手元で子育てをされたご経験がおありであるだけに、そして老境にあって、やはり療養中の身であられるだけに、ご心配が募るのでは、と拝察します。

 古くは公(おおやけ)とは皇室を意味したといいます。古来、公に徹されてきた皇室が、今日ではそれとは相矛盾する私的価値をも追求しなければならない。現代の皇室の苦悩と葛藤には胸が痛むばかりです。



(((((((( 読者の声 )))))))))))

 SK様から

 近頃の、韓国、中国などの露骨な日本歴史への干渉は目につきますが、占領下から引き続いている隠蔽された米国による日本精神、歴史の軽視教育に影響された世代の一員として、小生、皇室のことは敬すれども、天皇・皇室についてはよくわからない状態でした。 

 何となく皇室を一部の偏った見方から取り上げる週刊誌、TVや、どうも意図的に貶めて実態の理解から距離を持たせようと胡散臭く感じられる新聞記事等とは異なり、いろいろな視点から情報を整理、統合されている貴メールマガジンをいつも、興味深く拝読しております。

 第16号の17条憲法などの記事を参考に中村元氏の「聖徳太子」を読み、特に「日本の文化」や「ものの考え方の基盤となっている生き方」など、皇室が源になっているものが多いことを、感じました。第18号の記事で以前広島に住んでおりました時に、宮島の近くに神武天皇東征の時の石碑があったことを思い出しました。貴台の書かれておられますように、いろいろな土地で日本の歴史伝承が生きていること同感です。

 ぜひ、貴台のこのシリーズがますます多くの方々に読まれ、正しい知識が広まり偏見や誤謬に満ちた記事が恥じて消滅することを願っております。


(((((((( 「天皇・皇室の一週間」 )))))))))))

2月23日(土曜日)

□両陛下が東宮御所をご訪問になり、殿下の48歳のお誕生を祝う夕食会に出席されました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080223/imp0802232105012-n1.htm

□皇太子殿下は48歳のお誕生日をお迎えになりました(読売新聞)。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080222-OYT1T00872.htm

 お誕生日に先立って行われた会見は宮内庁のホームページに載っています。
http://www.kunaicho.go.jp/koutaishi/denkakaiken-h20.html

2月19日(火曜日)

□皇太子殿下が参内されました。宮内庁長官の「異例の発言」後、初のご訪問となりました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080219/imp0802192225000-n1.htm

2月18日(月曜日)

□両陛下が、都内で開催中の横山大観展にお出ましになりました(asahi.com)。
http://www.asahi.com/culture/update/0218/TKY200802180075.html

2月16日(土曜日)

□高円宮久子さまが島根県奥出雲町にお出かけになり、玉鋼の製造工程を見学されました(山陰中央新報)。
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?
storyid=500394006

2月8日(金曜日)

□両陛下は皇居でルクセンブルク首相、アルバニア首相夫妻、欧州議会議長とそれぞれお会いになりました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080208/imp0802081253000-n1.htm


(((((((( お知らせ )))))))))))

 2月18日に発売されました「別冊正論」第9号「論戦布告─今こそNOと言える日本へ」に拙文「靖国合祀『日韓のすれ違い』」が載っています。
 お買い求めのうえ、お読みいただければありがたいです。
http://www.sankei.co.jp/seiron/etra/no09/ex09.html
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