SSブログ

1 神々のいない、西尾幹二先生の東宮批判 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 1 神々のいない、西尾幹二先生の東宮批判
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

koukyo01.gif
 今号も、月刊「WiLL」誌上で展開されている西尾幹二先生の東宮批判を取り上げます。今回は6月号の論考を読もうと思います。

 西尾先生の論考には、3つのポイントがあるように思います。信仰、皇位、徳の3つです。

 まず信仰です。論考は、天皇の存在は日本国民にとって信仰問題である、という指摘から始まっています。信仰の問題だからこそ、歴史や伝統の意識が時代の進展とともに薄くなるにつれ、無関心という最大の敵に直面するとも説明しています。

 先生の指摘それ自体は間違いではありませんが、先生のいう「信仰」とは、あくまで国民の視点で皇室制度の意義を説明する人間の側の論理にとどまります。別ないい方をすると、先生の解説には神々の意思が欠落しています。

 先生は、日本の神話は荒唐無稽な作り話だとみんな思っている。これこそが天皇の存立の基盤を危うくしている根本問題である、といいます。天皇は神話とつながり続けているが、天孫降臨神話のほかに王権の根拠を持たない基盤の弱さ、とも指摘しています。

 しかし先生の論考には、神話以上に重要な、生きて働きたもう神々の存在への言及がありません。先生が指摘するように、皇位は世襲ですが、世襲たる皇位は皇祖神の神意に基づくことを先生は見落としています。

 皇位が皇祖神の神意に基づき、世襲によるのであれば、先生が指摘するように、天皇統治は徳治主義とは無縁です。

 ところが、先生は「天皇は徳が高いに越したことはないが、道徳とか人格とかいった人間尺度の問題から解放することがむしろ本来のあり方とされる」といいつつ、「皇太子ご夫妻」とりわけ皇位を継承するわけでもない妃殿下に徳を求めようとしています。まったくの矛盾です。

 さらに先生は、「意識して努力して近づこうとしない限り、伝統はするりとすり抜けてどこかへ落ちてしまう」として、皇后陛下の「伝統的な徳」を例示し、妃殿下にも「国母」になっていただくための努力を要求し、論理矛盾を拡大させています。

 先生は「ほとんどすべてを失った戦後の皇室が伝統を回復したのは、この意識的な努力のおかげであった。皇后陛下のお果たしになった役割の大きさは筆舌に尽くしがたい」「昭和天皇亡き後、平成の時代に、皇室を、そしてこの国を持ちこたえさせてこられたのもこの方のおかげである」と力説しています。

 しかし皇后は皇后です。皇后が皇位を継承するわけではありません。皇室の伝統でもっとも重要なのは祭祀であり、天皇の祈りです。天皇はつねに人が見ないところで「国平らかに、民安かれ」と祈っている。「国民と共感共苦する」どころか、命を共有しようとされる。先生のいう「徳」とはその結果です。

 むろん先生が祭祀の重要性を理解していないわけではありません。むしろ、皇室の内部に異種の思想が根付き、増殖し、排除できなくなってしまう事態を恐れ、皇太子妃殿下が宮中三殿に「いっさい立ち入らない」のはそのことと関連があるとお考えのようです。

 しかし以前にも指摘しましたが、妃殿下の拝礼がないのではなく、昭和50年代に側近の越権行為によって、皇太子妃のみならず、皇后、皇太子の御代拝の制度が廃止され、いまなお回復されていないところに問題があります。

「国難」は妃殿下の「傲慢(ごうまん)」の罪に由来する、と断じる、先生の批判は、君臣の別をわきまえない身のほど知らずであると同時に、論理的にも誤りです。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。