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日本の文明自身の「皇太子妃問題」 ──西尾幹二先生の東宮批判に対する竹田恒泰氏の反論 [西尾幹二]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2008年8月12日)からの転載です


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日本の文明自身の「皇太子妃問題」
──西尾幹二先生の東宮批判に対する竹田恒泰氏の反論
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 当メルマガはvol.41から、雑誌「WiLL」に掲載された西尾幹二先生の東宮批判を検証しています。今号は、同誌7月号に載った旧皇族・竹田恒泰氏の反論を取り上げます。


▽1 本質はお世継ぎ問題か

 竹田氏の反論で興味深いのは、西尾先生が「皇太子妃問題」の本質を学歴主義と見るのに対して、そうではなくてお世継ぎ問題だと考えていることです。お世継ぎ問題の圧力が1人の女性に集中する「現行制度の欠陥」にほかならない、というのです。

 古来、機能してきた側室と宮家という両輪が近年では機能しなくなっている。したがって皇室典範を改正し、一定の皇族を確保することが必要だ、と竹田氏は訴えています。

 たしかにお世継ぎ問題が妃殿下に精神的重圧をもたらしたであろうことは間違いないでしょう。けれども、いみじくも西尾先生が、妃殿下のご病気とは別に、小和田家の不可解な動きについて指摘しているように、「妃殿下問題」は妃殿下だけの問題ではありません。

 いつの時代にも皇位継承は「綱渡り」でしたが、とりわけ今日において、男系男子による皇位継承が絶えないような制度上の整備が急務であることは間違いありません。

 けれども、東宮家がお世継ぎ問題で苦しんだ背景には、同じ「WiLL」7月号の渡部昇一・日下公人対談で指摘されている「一夫一婦制」や「恋愛結婚制」、それから皇太子の婚期の遅れがあったことも見落とされるべきではありません。けっしてお世継ぎ問題が本質とはいえないと思います。


▽2 多神教文明と一神教文明の相克

 それなら何が問題の本質なのか?

 竹田氏が指摘するように、西尾論文には「明らかな誤りや、勝手な憶測や妄想を前提とした記述も多い」でしょうが、それでも多くの読者の共感を得ているのは、一定の妥当性があるからです。

 西尾先生は「皇太子妃問題」を、近代社会の能力主義とは異質の存在であり続けたはずの皇室に、皇太子殿下の御成婚によって「学歴主義とクロス」した結果と見ていますが、正確にいうならば、伝統と近代との相克ではなくて、多神教文明と一神教文明の相克なのだろうと私は考えています。

 異なる文化を受容し、統合するのが日本の多神教文明であり、その中心に位置するのが天皇の祈りです。古来、皇室は海外文化受容のセンターであり、近代以後は文明開化の先頭に立たれ、欧米の進んだ文物を受け入れてこられました。

 皇位を継承する祭り主はあくまで天皇お一人であるにもかかわらず、天皇は皇后とともに、あたかもヨーロッパ王室のキングとクイーンのように、「一夫一婦制」的に「両陛下」と呼ばれるのは、ヨーロッパのキリスト教文化を受け入れた結果でしょう。


▽3 多神教文明の力を発揮できるか

 日本の皇室がいま苦難の中にあるのは、皇室が受け入れた欧米の近代主義が「あなたには私のほかに神があってはならない」という一神教文明の産物だからです。寛容な多神教文明と排外的な一神教文明の相克は熾烈です。

 妃殿下が宮中祭祀に「出席されない」、あるいは拒否しているといわれるのも、身も心も欧米化し、日本的なアイデンティティを失った結果なのでしょう。

 しかし、そのことは妃殿下だけの問題ではなく、日本人一般にいえることです。西尾先生が指摘する学歴主義も効率主義も日本人の血となり、肉となっています。

 つまり、「皇太子妃問題」は日本の文明自身の問題なのだと私は考えています。大らかに受容する日本文明本来の力を発揮できれば、問題はやがて克服されると私は思います。カギを握っているのはむろん天皇の祭祀です。

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