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1 常識人の声が祭祀を正常化する [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年7月14日)からの転載です


 当メルマガの読者登録件数(melma!)が、おかげさまで2700を超えました。「歴史」のジャンルでは、堂々の1位です。

 当メルマガはこのところ、宮中祭祀簡略化問題を取り上げてきました。文明の根幹に関わると同時に、国民一人一人の暮らしと直結する大きな問題である、と私は考えています。天皇の祈りこそは、多様なる国民を多様なるままに統合してきた文明の中核だと思うからです。

 ご高齢で療養中の今上天皇にとってご負担の軽減は急務ですが、軽減とは名ばかりで、ご公務の日程は増えるばかり、その一方で天皇第一のお務めである祭祀は無原則に削られています。こんな馬鹿なことがあるでしょうか。

 正常化には皆さんの力が必要です。宮中祭祀に関する理解が深まり、現状についての問題意識が共有できるように、拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』がより多くの方々に読まれること、メルマガの読者がさらに増えることを願っています。このメルマガの末尾にある評価も忘れずにお願いします。


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 1 常識人の声が祭祀を正常化する
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▽天皇制形成の再現
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 さて、当メルマガはこのところ、渡邉前侍従長が「在任中、ご負担の軽減を何度もお勧めした」(「諸君! 」昨年7月号インタビュー)ことを取り上げ、批判してきました。

 前侍従長はインタビューで「象徴的なのは、陛下の1年が祭祀で始まる」と指摘し、祭祀の重要性を語っています。まったく仰るとおりなのですが、それなら毎朝御代拝はどうなのでしょう。その伝統を破壊したのが、宮内官僚自身ではないのでしょうか。

 天皇の1日は祭祀で始まります。それが毎朝御代拝です。明治以前は文字通り、天皇ご自身の御拝から1日は始まりました。

 橋本政宣東京大学史料編纂所教授の論文「天皇の毎朝御拝と臨時御拝」は、「後水尾院年中行事」にもとづき、早朝に起床されたあと、御所で手水をされ、御湯殿で行水をされ、さらに御所で御直衣を召され、御清手水の儀のあと、御拝の臨まれる、と説明しています(「古文書研究」第54号)。

 毎朝御拝の起源は明らかではないが、9世紀末、宇多天皇のころには行われていた。その作法は即位後、白川神祇伯から伝授されることになっていた。石灰壇(いしばいだん)での御拝に続いて鏡御拝(かがみのぎょはい)が行われていた。鏡御拝は天皇として「御心クモリナカランコト」を祈り求めるのが本意ではなかったか。大嘗祭が天皇制の形成なら、毎朝御拝・鏡御拝はその再現というべきものではないか、と橋本教授は指摘しています。


▽全体性を欠く説明

 明治になって都は東京に遷りました。天皇が御拝なさる石灰壇の設置はなく、毎朝御拝は側近の侍従に、潔斎のうえ、烏帽子・浄衣に身を正し、宮中三殿につかわして、拝礼させる毎朝御代拝に代わりました。

 この毎朝御代拝は決まった祭儀があってもなくても、雨の日も風の日も欠かさず行われ、御代拝のあいだ、天皇は御座所で慎まれ、祈りのときを共にされると聞きます。

 ところが、すでにご承知の通り、昭和50年8月15日の長官室の会議で、侍従がモーニングで庭上から拝礼することと変えられたのでした。憲法の政教分離原則に基づく過剰な自己規制です。

 祭祀は天皇の私的な活動とされ、宮内庁のホームページには毎朝御代拝はいまや説明すら載っていません。「天皇の御代拝」ではなく「侍従の代拝」という位置づけなのだろうと思います。祭祀の伝統は破られているのです。

 前侍従長の祭祀に関する説明がいかに一面的で、全体性を欠いているか、お分かりいただけるでしょう。


▽学者ゆえに尊からず

 宮中祭祀について前侍従長に助言したという神道学者についても言及しましたが、これに関して、当メルマガをお読みになった読者が、「学者ゆえに尊からず」「侍従長ゆえに尊からず」という趣旨の感想を述べておられました。

 専門家と称する人の見方が正しいとは限らないし、高級官僚の意見が正しいとも限らない、という意味なのでしょう。この祭祀簡略化問題の経緯を見れば、まさに仰るとおりだと思います。

 同時に、私が強く思うのは、専門家なるものの危うさです。専門的な知識をもった人たちの意見は傾聴に値する、と考えるのが普通ですが、その逆もあり得ます。

 今日、学問の分野はどんどん細分化されています。一方、行政は縦割りです。しかし天皇はすぐれて総合的です。多面的、多角的にアプローチしなければ、知識は一面的にとどまるだろうし、一面的な理解だけでは、焦眉の課題である、文明の根幹に関わる祭祀簡略化問題に対する問題意識さえ望めないかもしれません。

 知識がないよりある方がいいに決まっていますが、井の中の蛙(かわず)になりがちな専門家よりも、深い知識はなくとも、当たり前の常識と感性を備えた、ごく普通の人たちこそ望まれているのではないか、と私は考えています。

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