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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国  第8回 おわりに [靖国神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第8回 おわりに
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[1]「不参拝」明言の首相に期待する中国

 このシリーズを書いているさなかに特別国会が開かれて、政権は長年続いてきた自民・公明両党から、民主党が国民新党、社民党と参議院工作のために連立を組んだかたちに交代した。

 新しく首相の座に就いた鳩山党首に対し、中国新華社通信はただちに歓迎のメッセージを発した。そのなかには、次のような文面があった。

 「中国政府は、鳩山新首相が『自分は首相になっても靖国神社には参拝しない』とかねてから明言している首相だから期待が持てる。彼の指導のもとに、新しい日本に生まれ変わることが出来ることを期待している」

 中国が、まるで靖国神社の英霊たちが中国侵略の主導者であったかのような論理を作り出し、靖国神社を日本軍国主義の拠点であるかのように批判していることを、日本人はよく知っている。

 そしてこれは中国政府が本気でそう思っているから発言しているのではなく、国内をまとめ、中国国内の指導部や国内情勢に不満が集中するのを避けるため、国内宣伝用に靖国神社を仮想敵に擬しての発言であることをも、我々も知っているつもりだ。

 国内に大きな不満を抱える大衆を擁する中国政府は、大衆の不満をぶつける目標物の一つに日本を利用している。これは韓国など近隣のアジア諸国がよくやる手段である。


[2]もっとも安心できる攻撃対象

 だがその中国も、これから自国が経済的に発展をしていくために、日本とのより深い交渉も必要である。大衆が攻撃する相手であっても、その対象は選ばなければならない。そこで靖国神社がその対象として選び出されたのだろう。

 彼らとて、日本の過去の軍事脅威を本気で恐れ、非難をするつもりなら、命令されて現地に駆り出され、国の手足となって戦闘をして戦死した兵士たちよりも、生きて帰還した兵士、いや、彼らを徴兵して戦地に向かわせて攻撃するように戦略を練り、彼らを差し向けた日本の国およびその責任者を責めなければならないことぐらいは知っている。

 だが、日本国やいま生きている日本国民は、これから中国が自国のために利用したいと思う相手なのだ。理屈から思えば、靖国神社の英霊などよりはるかに警戒しなければならない対象なのだが、敵にしては中国自身も困るのだ。

 だとすれば、大衆の現状に対する不満のガス抜きのため、攻撃すべき対象として、日本でもっとも安心なのは、もうすでに、死んでしまって、物理的には反撃しない日本の英霊たちである。

 幸いなことに、日本国内には、マスコミや進歩的文化人といわれる者などを中心に、国のために亡くなった人に対して、理屈がわかっているのかいないのか、同じようなことを平然という人がいる。

 敗戦直後にアメリカ占領軍の権力と強力な圧力や洗脳教育を利用して力を得て、それ以来、占領開始直後のアメリカ軍の主張であった靖国神社を軍国主義の中心だ、との主張を続けているグループである。


[3]マスコミに乗せられる首相

 もっともこんな環境を作った張本人のアメリカは、とうの昔に前言を翻して、靖国神社批判などは一切しない。靖国神社に参拝して表敬する外国の軍隊のなかでも、もっとも多いのは、国別にみるとアメリカ軍なのだ。

 靖国神社を批判する勢力は、敗戦までは率先して日本軍事拡張論の先棒をかつぎ、日本を戦争へ誘い込む大きな「功績」をあげたマスコミである。

 彼らはつねに流れる時流の先端に立って、とんでもない方向に社会を引っ張っても平気な顔で、時流が変わるとまた新しい勢力の先棒をかつぐ。

 鳩山首相はこれまで、そんなマスコミなどの宣伝に乗せられて、自分が国の首相になって日本国の長い権利や義務を引き継ぐ立場になってからも、「靖国神社の英霊に対して敬意を表さない。そんな国の首相としての行為はしない」と発言した。

 またあるときは、靖国神社に代わる、無宗教式の戦没者追悼施設を作るなどと、たとえ作っても、ほとんど誰も参拝しないような国立施設建設構想を述べたこともある。

 我々にとってははなはだ困った首相であるが、中国は、そんな首相なら、大いに利用してやろうじゃないか、と思っているのだろう。

 どうしてこんな歪(ゆが)みが出たのか?


[4]独立国としてのプライド

 戦後の自民党政治の最大の欠陥は、敗戦でゆがみ、卑屈になった国内の状況を、健全にすっきりさせ、発展させていくという解決法を避け、問題点を国の立場で明確化せずに、あいまいのまま放置し、目先の世俗の利権のみを追い続けるところにあった。

 占領中に押し付けられたさまざまな変革は、わずかではあるが従来のやり方に付け加えた方がよい知恵も混ざっていたとは思う。

 だが、日本は長い歴史を誇る独立国である。

 みずからの生き方を、占領軍の命令によって変えさせら、甘んじて屈辱の中に生きることはプライドが許さない。たとえば法律なども、条文の中身は同じでも、日本国民の代表者が日本の国会の場で、再度決め直すぐらいの決断があってほしかった。

 いわんや、英文を和訳したような憲法という基本法をどうするのか?

 日本弱体化のため、国民が国民として互いに協力し合う共同体意識を否定し、個人のわがまま勝手ばかりを助長する、占領行政の精神姿勢のもとになったのがこの憲法だ。

 憲法問題、教育問題、日本文化への誇りを回復させる問題、家族や家庭の見直し、国を愛する心、義務を果たす心、教育の在り方など、見直しすべき点は多いが、少しも手をつけられないで、60年になろうとしている。


[5]日本自身の仕事

 今回は靖国神社の問題に的を絞ったのでそれらの点には触れないが、さまざまな解決すべき課題があるのに、そんな問題解決には消極的で、日本の国は烏合(うごう)の衆のような状態で独立回復後も歩んできてしまった。そのために、日本はいつまでたっても戦後体制から抜けきれない。

 独立国としての誇りを取り戻すことに手を抜いて、あらゆる問題をあいまいのままに先送りした政治姿勢。そんな空気が日本の国から活力を抜き去った。それをしようとしなかったために、政治は惰性に陥って、政権交代に追い込まれてしまったのだとも言えるのではないか。

 今回、私が取り上げた靖国神社への対応にしても、国家護持そのものへ真剣に取り組もうとしないから、無用な混乱ばかりをいつまでも引きずって、国はまとまりの大切さも、先輩たちの苦労も知らぬ国民で、その社会としてのまとまりのなさで、日本自身が苦しむ結果が次々に積み重ねられてきた。

 日本は大東亜戦争を起こしてそれに敗戦した。それは紛れもない現実である。だが、日本国はそこから何を学ぶべきなのか? なぜ負けたのか? どうしてこんなに大きな犠牲が出てしまったのか?

 過去の日本の姿勢のどこが欠陥で、変えねばならないものだったのか? どこが変えてはならないものだったのか? それらをしっかり学んで、そこから新生日本の道を目指す、そんな努力をどこまで冷静にしたのだろうか?

 これは日本自身がやらねばならないものであり、日本自身の仕事なのである。

 世界の国々は、長い歴史の中に幾度かの敗戦の悲劇を経験し、それを機会によりしたたかな国、より知恵のある国に生まれ変わっている。だが有史以来、初めての敗戦を経験した日本は、検討すればどれだけ大きな成果が得られるのかわからないのに、それもせずに今までだらだらやってきてしまった。


[6]日本国の行うべきこと

 日本には建国以来の長い一貫してきた歴史がある。そこには世界に比較する相手がないほどの長い文化の蓄積がある。そんな国の蓄積してきたものは大切にしなければならない。

 歴史のなかには、この国のために命を失わざるを得ない人もたくさんあった。靖国神社はそんな人々を、忘れることのないようにまつる日本独特の組織であった。

 国は靖国神社を維持することにより、国自身の軽率な行動で、悲劇の祭神を増やすことがないようにいつも心し、安らかなる国「靖国」を目指し、国の責任者は、靖国神社で英霊たちの御霊に接して、神社の祝詞にも必ず出てくる「平(たいら)けく安らけき」浦安(うらやす)の国を目指す誓いを思い出し、国民は、いまある自分らの生活の基礎には、英霊たちの尊い犠牲の積み重ねがあることを自覚してきた。

 天皇陛下は靖国神社に行幸されて、悲しくも国のために死なねばならなかった彼らに対して慈しみの情をいよいよ深め、国民にこの種の犠牲者が出ることのないように祈られた。こんな機能を靖国神社は果たしてきた。

 私は靖国神社の英霊たちこそ、身をもって靖国=平和の尊さを実感された方々だと思っている。

 世間には靖国神社が、まるで「かたき討ち」を誓うような場所であり、参拝者は英霊を死に至らしめた相手に対して報復を誓いに集まる場所であるかのように宣伝に努めている者もいる。

 だが、靖国神社へ参拝する人の姿を見れば、それがまったくの偏見であり、日本人の国民性とはまったく違うことははっきりしている。

 靖国神社の英霊たちは、厳しくも悲壮な最期を迎えるにあたって、靖国神社に祀られて、そこから一本の将来が明るく伸びていく姿を見ようと亡くなられた。一日も早く靖国神社がそんな聖なる国の施設に立ち返ることを待っておられると思う。


[7]最後にお断り

 この文章は、5年前、それまで30年以上奉職していた仕事を後輩たちに譲って退職し、自由な立場に立つことになった私が、かつては奉仕していた仕事の関係で、発言を控えていた私の意見を、率直かつ勝手に書き並べたものです。

 たとえば、神社界や靖国神社などに奉仕をされる方々のご意見と、私の勝手なこの説とはおのずから違う主張を含むものであり、必ずしも重なるものではありません。したがって、この文章の責任はすべて私個人にあることをお断りしておきます。


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

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