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基本を忘れた女系継承容認論──小嶋和司教授の女帝論を読む [皇位継承]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年12月31日)からの転載です


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基本を忘れた女系継承容認論
──小嶋和司教授の女帝論を読む
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 今年最後のメルマガです。

 今日は小嶋和司東北大学教授(故人)の憲法論をご紹介します。以前、政教分離論について取りあげたことがありますが、今回は女帝論について、です。

 報道によると、羽毛田宮内庁長官が10月上旬、野田首相に「女性宮家」創設を「火急の件」として提案したのをきっかけに、政府は検討を開始し、年明けには個別に有識者のヒアリングを行うようです。まさに急ピッチの展開です。

「女性宮家」創設は、およそ過去に例のない女系天皇容認につながる、日本の文明の根本に関わる一大事です。

 女帝を認めるべきか否か、基本をあらためて学んでみることにします。


▽1 女系継承を認めなかった宮内庁

『小嶋和司憲法論集2 憲法と政治機構』(昭和63年)に、「『女帝』論議」と題する22ページの論考が載っています。私が知るかぎり、小嶋先生唯一の女帝論です。初出は『公法の基本問題』(田上穣治先生喜寿記念、昭和59年)です。

 小嶋先生がこの原稿を書いていたころ、国会では女性天皇に関する行われていました。先生はそのことを論考の冒頭に記録しています。

 昭和58年4月4日、参議院予算委員会で、寺田熊雄議員が皇室典範第1条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」は「男女差別をうたった象徴的な規定」「男女差別撤廃条約に違反しないのか」と政府に迫ったのでした。

 寺田議員は裁判官出身の社会党議員でしたが、興味深いことに、当時の内閣法制局長官も宮内庁次長も、いまの宮内庁とは異なり、女系継承を認めない立場でした。

 角田禮次郎長官は、「男系の男子が皇位を継承するのがわが国の古来の伝統で、その伝統を守るということで現在の規定ができたと承知している。現在政府として皇室典範改正の考えはまったくない」「女系の方が天皇になられたことはいっさいない」「男女差別撤廃条約は批准していない」などと答弁しています。

 また、山本悟宮内庁次長も、「現在は皇太子殿下をはじめ、血統の近い男子の方がおられるわけで、直ちにこの問題について云々すべき必要性はないと考える」と述べました。

 小嶋先生の論考は、「質問者は納得しなかったごとく、ある新聞はこれを『すれ違い』論議と報道していた」と付け加えています。

 寺田議員が問題視したのは、皇室典範の男系男子継承主義と(1)男女平等原則、(2)国際条約との関連であり、政府側の答弁は、(1)女系継承はない、10代の女性天皇は臨時例外的だという歴史論、(2)男女差別撤廃条約は批准しておらず、皇室に男系男子が途絶える状況はないという現実論でした。


▽2 表面的知識で重大事を論じる浅薄

「女帝」論議の始まりは、もちろんこのときではありません。

 小嶋先生の論考によれば、先生個人が「女帝」問題に最初に接したのは、「法律時報」(昭和24年)に掲載された公法研究会の「憲法改正意見」でした。

 憲法第2条は「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と規定していますが、「改正意見」は、女帝容認は規定と矛盾しない、民主主義の原則から女帝を認められるべきだ、憲法本文に明記する必要がないほど当然のことだ、と述べていたのでした。

 これについて、小嶋先生は2点、指摘しています。

 第1点は、女帝制が憲法第2条と矛盾しないと断定した点について、です。現行憲法の規定は「皇位ハ皇男子孫、之ヲ継承ス」(明治憲法第2条)とはなっていない、「なるほどと思った」と先生は率直に書いています。

 しかし、第2点目として、「民主主義の原則から女帝を認める」とする点については、先生は納得できなかった、と振り返ります。民主主義を democracy の字義通り、国家意思を民意で決定することと解するなら、女帝容認の根拠とはなり得ないし、男女平等原則のようなものまで含む広義の用法なら、およそ天皇制や皇位の世襲制は平等原則の例外で、平等原則を持ち出すのは合理的ではないからです。

 これは法曹界の議論ですが、政界でも「女帝」問題は取りあげられます。一例として、先生は昭和29年11月18日付の東京新聞が伝える自由党憲法調査会の「憲法改正要綱」をあげています。

「皇室典範を改正し、女子の天皇を認めるものとし、その場合その配偶者は一代限り皇族待遇とする。ただしその場合摂政となることを得ぬものとする」

 けれどもその当時、小嶋先生は「別段の問題を感じなかった」といいます。古代の日本にも、海外にも、女帝は存在するからです。

 しかしやがて先生の考えは変わります。それは明治の皇室典範、憲法の起草について学ぶようになったからです。現行制度が決められた趣旨はもちろん、世界的な制度の類型を知らずに、たまたま表面的な知識をもって、重大な問題を論じ、結論することの浅薄さを自省したと先生は書いています。

 そして、小嶋先生はそのあと、論考の大半を、明治の皇室典範・憲法の制定過程の説明に費やしています。


▽3 火急の件ながら否定された女統容認論

 小嶋先生の論考によれば、明治9(1876)年、憲法草案起草の勅語が元老院に下されますが、当時、女帝問題はそれこそ「火急の件」でした。

 というのも、明治天皇に皇男子はなく、皇族男子は遠系の4親王家にしかおられなかったからです。もっとも近縁である有栖川宮熾仁(たるひと)、威仁(たけひと)両親王は霊元天皇から出る五世の孫で、じつに10等親でした。徳川幕府は朝廷不繁栄政策をとり、皇位継承者以外の皇子は臣籍降下される一方、4親王家が温存された結果でした。

 しかも、古代の大宝令に「五世の孫、皇親の限りにあらず」とあるのを基準としたため、4親王家の存続も問われることになりました。

 もし4親王家の皇族性が否認されれば、女帝を認めるほかはありません。そこまでいかなくても、遠系男子と近系女子のいずれを選ぶのか、が問われる状況でした。

 元老院への勅語は「広く海外各国の成法を斟酌し、もって国憲を定めんとす」とあり、第一次草案では、ポルトガル憲法第50条にならって、尊系優先の立場に立ちつつ、女帝を容認する内容になっていました。

 しかし2年後の11年に成立した「日本国憲?」は、女帝を否認しました。ところが、13年の「国憲」では、「女統」すなわち女系天皇までをも認め、「若し止むことを得ざるときは女統入りて嗣ぐことを得」と明記します。

 その後、「国憲」案について意見を求められた東久世通禧ら4議官は、女統容認案の削除を要求しますが、女帝を否認したのではありません。

 女統否認の理由は、こうです。

 皇女が他人に配した場合、その子孫は当然、姓が異なる。たとえば将軍家茂に嫁した皇女和宮のような場合、子孫は徳川氏であって、皇族ではない。女統を認めれば、異姓の子に皇位を継承させることになり、万世一系の皇統に反する。万策尽きた場合のやむを得ない選択肢とはいえ、将来、多大な弊害を生むことだろう。

 結局、女統容認の「国憲」案は伊藤博文らに握りつぶされます。その理由について、伊藤は右大臣岩倉具視宛の書簡に、「各国の憲法を取集焼き直し候までに、しかしてわが国体人情にはいささかも注意いたし候ものとは察せられず」と書いています。

 岩倉は11年3月、憲法調査制定のための特別機関の設置をみずから建議し、そのテーマのひとつに「女帝、男統、女統」を掲げました。建議は実現しませんでしたが、15年12月、伊地知正治宮内省一等出仕が「女帝、男統、女統」について意見を述べています。

 のちに伊藤博文に報告されたその意見には、「皇国帝系は男統一系なるゆえに万世無窮、皇統連綿たり。もし女統を立つ、皇統直ちに他系に移る。ここにこれを皇統を滅絶するという」とあります。

 このような議論の過程で、12年に皇子・嘉仁親王(のちの大正天皇)が誕生になり、このため女帝認否問題の緊急性は去りました。けれども、その後も皇男子はお一方にとどまり、議論の必要性が完全になくなったわけではありませんでした。

 小嶋先生の論考には当然、言及されていませんが、小泉内閣時代に皇室典範有識者会議が設置され、その後、悠仁親王殿下ご誕生で議論が下火になった状況とよく似ています。


▽4 井上毅に影響を与えた島田三郎の女帝否認論

 明治18(1885)年に宮内省が起草した「皇室制規」案も、女帝のみならず女系継承を容認するものでした。「皇位は男系をもって継承するものとす。もし皇族中男系絶ゆるときは皇族中女系をもって継承す」とされたのです。

 小嶋先生は、これについて、冒頭で説明したように、昭和58年に山本悟次長は「現在は皇太子殿下をはじめ、血統の近い男子の方がおられる」という理由から、女帝論議の必要性を否定したけれども、明治の時代はそうではなかった。それには理由がある、と批評しています。

 そして小嶋先生は島田三郎の女帝否認論に言及します。

 島田は民間の言論団体・嚶鳴社の人で、女帝否認論は『雄弁美辞軌範』に掲載されました。島田の論は女帝否認論に対する反対論を想定し、それに反論するという形式を採っています。小嶋先生の説明にあるように、その論は典憲制定に決定的役割を果たした井上毅に影響を与えました。

 女帝否認「反対」論の根拠は、2つです。すなわち、(1)歴史上、女帝は存在する。いまさら男統に限るのは慣習の破壊である。(2)男女同権の時代になった。女帝否認は歴史の後退である、というものです。

 これに対して島田は次のように論破します。

 女帝即位の実情は今日とはきわめて異なる。歴史上の女帝は推古天皇から後桜町天皇まで8人おられる。推古天皇は敏達天皇の皇后である。即位後直ちに厩戸皇子を皇太子とされた。時を待って御位を太子に伝えることを予定しており、摂位に近い。明正天皇だけが7歳で即位し、皇太子がなかった。海外の女帝とは歴史が異なる。

 小嶋先生は島田の論に接し、反省の必要を自覚したといいます。冒頭に説明した寺田議員の「むしろその方(女帝容認)が伝統だ」は誤りなのです。やがて島田の指摘は井上毅が採用するところとなります。

 女帝即位の古例は、当然の帰結を伴っていた、と小嶋先生は論を進めます。女帝は即位後、配偶をおかず、帝子誕生の可能性を持たなかったのです。

 女帝制の議論は、皇統維持の方策の1つとして、でしたから、皇子出生の否認とリンクする「古例」は模範とはなりません。井上はここに注目したと小嶋先生は説明しています。


▽5 ヨーロッパ王室の女系継承との混同

 島田の第2の反論は、外国の女帝の例、とくに配偶者問題に対するもので、ヨーロッパでは外国の皇親を迎えることができるが、日本ではそうはいかない、などと反駁したのですが、小嶋先生はこの論では現代人を納得させることはできないだろうと指摘したうえで、井上毅はそのような見解から女帝を否認したのではないと説明しています。

 島田が想定した女帝否認「反対」論では、古くは男統に限り王位を継承していた国がいまは男女同じく継承している、という一般論ですが、個別の検討が必要で、井上はこれを行っているのでした。比較法的に見て、男系に限る国もあれば、そうではない国もあるのでした。

 井上は、宮内省が立案した、女帝容認の「皇室制規」を批判して、「?具意見」を伊藤博文に提出します。ヨーロッパの女系相続とわが国の女帝即位とが往々にして混同され、同一の見解が下されている、と女帝を否認したのでした。

 井上は島田の論とこれを補う沼間守一の論を全文、引用していますが、無批判に採用したわけではなく、歴史上の女帝すべてについて血統、即位・退位の事情、史家の解説などを逐一検討したうえでのことでした。

 そして、井上はこう述べるのでした。

 今度の起草(宮内省の「皇室制規」)は、わが国の女帝即位がじつは摂位に類することに立脚せず、ヨーロッパの例に倣い、男系無きときに女系を血統とし、皇女から皇女の皇子に皇位を伝えることを明言している。これはイギリスと同じ結果をもたらす。

 つまり、プランタジネット朝からテューダー朝へという王朝の交替です。源某が皇夫となり、女帝との間に皇子があれば、正統の皇太子となり、即位することになれば、皇位は女系に移ることになる。もっとも恐るべきことと思われる。

 井上の女帝否認論は、小嶋先生が指摘するように、女帝制は必然的に女統をもたらすという論に基づいています。


▽6 採用されなかったロエスエルの女系継承容認論

 明治19(1886)年6月10日、伊藤博文宮内大臣は三条実美に「帝室典則」草案を提出します。内容は、「皇室制規」をほぼ踏襲しつつ、女帝・女系継承の可能性を否定するものでした。井上毅の意見が採用された結果です。

 同年末から井上は憲法および皇室典範の第一草案の起草を開始し、翌年1月21日、「国法上の相続は文武の大権を統授して、これを施行するために十分なる能力あるを要す」「女性並びに重篤の不能力者は国法上の相続権利より除外せらるること疑いも容れざるに似たり」と考えたうえで、ヘルマン・ロエスエルに意見を求めました。

 ロエスエルは「そもそも皇女は政務を執るの能力を有せざるものにあらず」として女系継承の容認をも勧めたのですが、井上がその意見を採用することはありませんでした。その一方で、皇族女子の摂政就任の可能性を草案に規定しました。

 21年、皇室典範草案は憲法草案に先立って、枢密院の審議に付されます。参考のため配布された、井上による説明文には「皇統は男系に限り、女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり……本条皇位の継承をもって男系の男子に限り、しかしてまた第23条において皇后、皇女の摂政を掲ぐるものはけだし先王の遺意を紹述するものにして、いやしくも新例を創むるにあらざるなり」と記されていました。


▽7 世襲君主制が前提とする基本は「王朝」

 ここで小嶋先生は、昭和58年当時の国会の議論にもどり、内閣法制局長官や宮内庁次長の説明は大きく間違ってはいない。しかし説得的ではなかった。それはなぜか、と問い、女帝否認を説明する座標軸が正当でないからだと指摘します。

 先生によれば、日本では、君主制というと、「上御一人の支配」と考え、君主ひとりに注目してしまう。皇室に関する法律であるべき皇室典範が「皇位継承」を冒頭に規定するのはその現れである。けれども、これは世襲君主制が前提とする基本を忘れている、というのです。

 すなわち、王朝の概念です。

 明治15年12月23日、ロレンツ・フォン・シュタインは「帝室家憲意見」を日本政府に提出しました。そこでは君主制の基本について、「およそ立憲政体国憲法の第一主義は、国君たるべき者すべて位を継ぐの権利を有するがために、帝室の眷属に属附せざるべからずということなり。そのこれに次ぐ者は最初にいかなる約束によりて国君が帝室の一眷属たるべきやを確定せざるべからざることなり」と説明しています。

 この「帝室の眷属に属附」するというのは、先生によると、支配王朝の所属者、つまり「王族」であることを意味します。君主政体は、君主の支配政体である、というより、王朝の支配政体である、と考えるからこそ、このことが「第一主義」とされるのです。

 したがって、次に重要なことは、「王族」とされることの条件の確定となります。そしてシュタインは「帝室家憲」には「家族法および継位法」についてのものと「帝室の財産」についてのものとが必要だと教えたのです。

 ところが、明治典範は教示に従わず、皇位継承資格は「祖宗の皇統にして男系の男子」と述べるにとどまり、「皇族」身分の要求は皇位継承順位の規定に間接的に述べられただけでした。

 さらに、小嶋先生によれば、明治の典範は臣籍出身の后妃も「皇族」とし、皇位継承資格者としての「皇族」と待遇身分としての「皇族」とを混同させ、本質をぼやけさせてしまったのです。


▽8 厳格に父系の皇族性が要求される

 ともあれ、女帝問題も、「多第一主義」に関わる「帝室の眷属」形成原理と関連して考察する必要があるとして、先生はきわめて重要なポイントを指摘します。

 女帝制を容認するゲルマン法系制度とこれを否認するわが制度では、子が「皇族」身分を取得する条件が異なるというのです。つまり、ゲルマン法系では(1)父および母が王族であること、(2)父母の正式婚姻の子であること、が要求されます。

 生まれてくる子が王位継承資格を否定されるような婚姻は皇太子には許されません。イギリス王エドワード8世がシンプソン夫人との恋を成就するために退位したのはそのためです。国王はイギリス本国および各自治領の立法議会に特別立法で婚姻を認めるよう要請しましたが、拒否されました。

 余談ですが、イギリスでは目下、王位継承を男子優先から長子優先に変更する改革が進められていますが、当メルマガが何度も伝えてきたように、王位継承順位第2位のウイリアム王子の一般女性との婚姻で、王位継承の大原則は現実において破られています。

 さて、日本の場合ですが、父母が王族であるゲルマン法系とは異なり、厳格に父系の皇族性を要求しています。ここに女帝認否問題の核心があります。

 小嶋先生はここでふたたび寺田議員の女帝容認論に話をもどします。寺田議員が言及した「男系」制をくつがえさない女帝制が不可能ではない、というのです。

 1つの方法は、古例のように配偶を認めないというものです。しかしこれは島田が批判したように、非人間的なだけでなく、現行憲法第2条の「世襲」原理との適合性が疑われると小嶋先生は指摘します。

 もうひとつの方法は、配偶を認めるものの、皇族身分は否認するというやり方ですが、これも第2条との適合性が疑われる点で同じです。

 子に皇族身分を認める女帝制は、皇配もまた皇族である場合に限られますが、それには(1)女帝より皇配の方が皇位継承順位が下位であること、(2)皇統に属する遠系の男子が多数いること、の2つが必要です。

 以上のように先生は指摘し、「こうまでして女帝の可能性は実現されなければならないのか」と問いかけ、「女帝制の問題には、わが天皇制の基本に関わる底深い問題がある」と述べています。


▽9 主権在民主義は皇位継承原理を変えられない

 小嶋先生は現行憲法を出発点とする、次のような批判を予想します。

「現行憲法典は主権在民を宣言し、民主主義原理に立つ過去との間の『正統性』の継続を切断した。天皇制のあり方についても、伝統的な王朝形成原理の尊重は必要でなく、『国会が議決した皇室典範』は、現天皇を出発点として、新しい皇位継承法を定めうる」

 この批判について、先生は3つの問題点を指摘します。

(1)批判論は、憲法体制の「正統性」の切断を根拠に、伝統的な皇族性形成原理を尊重する必要はないと説くけれども、憲法は世襲的天皇制を規定しており、伝統の価値を尊重している。それとも伝統とはまったく無縁に、政治制度的合理性を評価しているのか。伝統的価値を否定して、特定血統の世襲制に政治制度論的合理性を説くことは困難なように思われる。

(2)「正統性の切断」は論者の設定であり、根拠は「主権」在民の宣言である。けれども「主権」の観念は強力だが、多義的で、論議は慎重を要する。「主権」在民の宣言は特定の政治制度を要求してはいない。

(3)批判論には非論理性が内在している。新制度が新正統性に基づき、旧正統性による正統化を要しないと考えるのはかまわないが、旧制度の転覆をすべて是認するとか、すべての新制度も是認すべきものとなると考えるなら、主観的な変革志向を「正統性」切断の名で弁護しているに過ぎず、「正統性の切断」を根拠とする女帝容認論はこの例である。


▽10 憲法制定過程の議論は男帝制を支持している

 小嶋先生は、憲法に関わる制度を議論するとき、2つの類型があるといいます。(1)憲法は何を要求しているかという憲法問題、(2)憲法がある範囲で制度選択を立法に対して認めているとき、特定の制度が適当かどうかという立法論的議論、の2つです。

 先生は、女帝問題は(2)に属しているけれども、憲法制定過程の議論を振り返ると、男系制を支持していると考えられる、いくつかの史実を紹介しています。

(1)GHQの民政局は、占領直後から明治憲法体制の問題点を検討したが、男系制は批判の対象となっていない。

(2)アメリカの国務・陸軍・海軍三省はさらに積極的に日本の政治制度改革を企画し、その結論は21年1月11日に秘密指令としてマッカーサーに送られた。天皇制存否の決定を日本国民の選択に委ねさせ、維持する場合の条件も示されているが、皇位に就く者は男性名詞で表現され、性別は従来のとおりとされた。

(3)マッカーサーが憲法草案の起草を民政局に命じたとき、草案に盛るべき内容を示した「マッカーサー・ノート」には、「The Emperor は、国の元首の地位にある。His succession は dynastic である」とある。現王朝を前提とし、王朝に属する者が王朝にふさわしいルールで継承すべきことが要求されている。

(4)民政局による憲法草案起草において、男帝制への批判はなく、天皇は the Emperor と表現されている。草案起草者による「説明書」には過去の天皇制に対する批判を多面的に指示しているが、男帝制が前提で、そのことへの批判はない。

 ところが、です。王朝交替の歴史を持たず、現王朝所属者の継承を当然視する日本政府当局者は、dynastic を単に「世襲」と訳したのです。皇室典範も同様で、「王朝」観念がその後の憲法論に登場することはありませんでした。

 小嶋先生は、憲法制定史上の事実が憲法解釈の決定力にはならず、決定的な法源とはならないと指摘することを忘れてはいません。

 とはいえ、「比較法的および歴史的に十分な知識を思考座標として『世襲』制の要求をみるとき、それは単に世々襲位することではなく、継承資格者の範囲には外園があるとしなければならない。……憲法第2条は『王朝』形成原理を無言の前提として内包しているとなすか、それとも『国会の議決した皇室典範』はそれを否認しうるとなすかは、憲法上の問題とすべきである」と先生は述べています。

 そして、結論を急ぐ気持ちはないが、断ったうえで、結論如何では立法論として賢明とも思えぬ女帝制しか許さぬものとなること、問題提起しておく。「世襲」が憲法典による決定である以上、その解釈に当たって「主権」在民の宣言が国会に何らの決定権を与えないこと、を小嶋先生は指摘しています。


▽11 男女不平等撤廃条約は各国の政治制度を変革し得ない

 最後に、先生はもう一度、国会の議論にもどり、男女不平等撤廃条約との関わりについて、「気になること」を2点、付け加えています。

(1)世界には、女帝を認めない、いわゆるサリック法の伝統に従う国々もあるが、条約案はそれをも否認するのか。女帝の可否は、各国民が持つべき政治制度の問題である。伝統的な国際法思想は、各国民が持つべき政治制度についての自己組織権を各国民の「主権」の中核的内容としてきた。条約案は国家と国際社会の関係について革命的変革をもたらし、否認するものなのか。

(2)男女差別の撤廃は「人権」保障に関わる問題である。しかし皇位継承権はおよそ「人権」ではあり得ない。論者はこの基本を忘れていないか。


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