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天皇の祭祀は奥深い聖域で行われる──日本教育再生機構広報誌の連載から [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 天皇の祭祀は奥深い聖域で行われる
 ──日本教育再生機構広報誌の連載から
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 日本教育再生機構広報誌「教育再生」の連載(昨年7月)から転載します。なお、一部に加筆修正があります。



 皇室の祭祀は古くは、歴代の天皇が鎮まる御陵などで行われたといわれます。

 いまでもその名残がうかがえます。

 たとえば六月下旬から皇太子殿下がタイ、カンボジア、ラオス三カ国を訪問されましたが、ご出発前とご帰国後、皇祖天照大神が祀られる賢所のほか、昭和天皇・香淳皇后が鎮まる武蔵野陵(むさしののみささぎ)・武蔵野東陵に参拝されました。

 殿下のみならず、天皇皇后両陛下の外国ご訪問の場合なども同様です。

 天皇の祭りは、現在はおもに宮中の奥深い神域、宮中三殿で行われます。宮中三殿は、先述した賢所(かしこどころ)、歴代の天皇・皇后などが祀られる皇霊殿(こうれいでん)、天神地祇が祀られる神殿の総称です。

 明治二年三月に明治天皇が京都から賢所とともに東京に移られ、かつての江戸城は皇居と定まり、賢所が遷座(せんざ)されました。

 記紀神話に、天照大神が天孫降臨に際して宝鏡を授けられ、「この鏡を私と思って、拝しなさい。同じ床、同じ屋根の下に祀りなさい」と命じられたとされる「同床共殿」の神勅(しんちょく)に由来しています。

 けれども当時の宮中三殿は数年後、皇居の建物すべてを焼き尽くした大火によって焼失しました。

 現在の宮中三殿は明治十五年に宮殿とともに造営が始まり、二十二年に遷座されました。明治の宮殿は空襲で類焼しましたが、三殿は関東大震災など幾多の災禍を免れ、今日に至っています。

 天皇の祭りの多くはこの宮中三殿で行われます。

 たとえば毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)は、天皇が毎日、側近の侍従を潔斎(けっさい)のうえ、烏帽子(えぼし)・浄衣(じょうえ)に身を正させ、宮中三殿に遣わし、天皇に代わって、三殿の内陣で拝礼させます。平安初期、宇多(うだ)天皇の時代に始まった石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)が起源とされます。

 けれども、昭和五十年九月以降は、侍従はモーニング・コートの洋装で、拝礼場所も三殿の南庭上から、と変更されています。「侍従は国家公務員なので、神道という宗教にタッチすべきではない」という政教分離原則の厳格な解釈・運用の結果といわれます。

 このほか、陛下が一年の最初に行われる元旦の四方拝(しほうはい)も、場所が変更されています。

 本来は、まだ明けやらぬ早暁、御装束を召された陛下は、宮中三殿の西に位置する神嘉殿の前庭にお出ましになり、屏風二双で囲まれた拝座で、伊勢神宮、山陵、および四方の神々を遥拝されます。

 七世紀、皇極天皇の時代に始まったともいわれる重儀ですが、昭和四十四年暮れ、当時の入江相政(いりえ・すけまさ)侍従長は昭和天皇に「四方拝はテラス、御洋装で」(『入江日記』)と提案したのでした。

 四方拝が庭上で行われるのは「庭上下御」といって、天皇がみずから地上に降り立って謙虚に神々を仰ぐ崇敬の誠を示しているといわれますから、重大な変更でした。

 なお、皇室第一の重い祭祀といわれる十一月下旬の新嘗祭は、正確にいうと、宮中三殿ではなく、三殿の西に位置する神嘉殿で行われます。
タグ:宮中祭祀
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