「国の儀式」とされた今上陛下「結婚の儀」──歴史的に考えるということ 6 [戦後皇室史]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年5月19日)からの転載です
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「国の儀式」とされた今上陛下「結婚の儀」
──歴史的に考えるということ 6
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新たな情報を盛り込みながら、戦前・戦中から皇太子(今上天皇)御成婚までの歴史をあらためて振り返ります。
アメリカは戦時中から、「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたようです。
なぜそう考えたのか?
▽1 海外神社、「国体の本義」、靖国神社、教育勅語
明治以降、日本人が住む外地には、台湾神宮(明治34年)、樺太神社(明治44年創建)、朝鮮神宮(大正14年創建)、南洋神社(昭和15年創建)、関東神宮(昭和19年創建)など、多くの神社が建てられました。
昭和12年に文部省がまとめた「国体の本義」には、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」とありました。
東条内閣は、宮内省の官僚が唱えた、天照大神以前の神々を否定し、天照大神信仰に統一する官僚的な合理主義的神道論を正統とする神道論を打ち立てています。
朝日新聞は戦時中、「戦争美術展覧会」「聖戦美術展」「大東亜戦争美術展」「陸軍美術展」など、国民の戦意を高揚させるイベントをいくつも手がけました(『朝日新聞社史』)。
昭和14年1月には靖国神社を主な会場とする「戦車大展覧会」を、陸軍省の後援で主催し、戦車150台を連ねた「大行進」が東京市中をパレードしたことさえあります。
明治23(1891)年秋に発布された教育勅語は、学校の式日などに奉読することとされ、昭和になると奉安殿の建設が促進されました。教育勅語の1節、「これを中外に施してもとらず」は「わが国で実践しても、外国で実践しても道理に反しない」と理解されてきました。
▽2 神道指令の発令。教育勅語の非神聖化
もともと日本の神道は血縁共同体や地域共同体の信仰であり、布教の概念がありません。全体的に統一的な教義もありません。世界宣教などあり得ません。
戦前、長期にわたり靖国神社の宮司を務めた賀茂百樹は「神ながらの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未然に防止し、平和を保障するのが最上である」(「私の安心立命」昭和9年)と平和を訴えています。
けれども、「あなたには私のほかに神があってはならない」「全世界に行って、福音を述べ伝えなさい」と教えるキリスト教に絶対神と救世主イエスがあり、聖書があり、教会があるように、日本の「国家神道」には天照大神と天皇、教育勅語、靖国神社がある、とアメリカ人には見えたのでしょうか?
ポツダム宣言には「軍国主義」が世界から駆逐されるべきことが主張されています。「軍国主義者」が日本国民を欺き、世界征服の野望を推し進めたという理解です。アメリカ国務省が「神道の廃止」を戦略政策に掲げ、占領軍が「神道、神社は撲滅せよ」と叫び、靖国神社の「焼却」が噂されたのはその結果でしょう。
昭和20年10月、最高司令官マッカーサーの覚書に対して、上智大学のビッテル神父が「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」と答申し、靖国神社はひとまず守られました。
しかし、12月15日、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の禁止に関する件」という長い表題の付いた日本政府への覚書、いわゆる神道指令が発令され、国鉄の駅に飾られた門松や注連縄をも撤去させられるなど、神道的な宗教慣例が禁止されました。
12月28日には宗教法人例が公布・施行され、靖国神社は国家管理を離れて、宗教法人となりました。
他方、教育勅語は、翌21年10月、文部省が奉読と神聖的取り扱いの停止を通達し、日本国憲法施行後の23年6月には排除、失効確認の国会決議がなされました。
▽3 宮中祭祀を存続させた依命通牒第3項
ところが、占領後期になると、GHQの政策は変わります。「神道の廃止」は採用されなくなり、神道指令の「宗教と国家との分離」は「宗教団体と国家の分離」に解釈が変更されます。
22年5月に日本国憲法が施行されますが、24年11月には松平恒雄参議院議長の参議院葬が参議院公邸で行われ、26年6月の貞明皇后が大喪儀は旧皇室喪儀令に準じて、準国葬として行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。10月には吉田茂首相が靖国神社に参拝することも認められています。
占領軍内部の神道研究が進み、みずからの「国家神道」理解を修正せざるを得なくなったものと推測できます。20年11月の靖国神社の臨時大招魂祭に参列したCIE部長のダイク准将らが「荘厳で良かった」と感激したくらいですから。
翌27年4月の平和条約の発効で、日本は独立を回復し、神道指令も失効しました。けれども、靖国神社は民間施設にとどまりました。
宮中祭祀も「皇室の私事」から脱することができませんでした。
祭祀をつかさどる掌典職は21年4月に官制廃止となり、天皇の祭祀の法的根拠である皇室祭祀令は22年5月、日本国憲法の施行に伴い、廃止されました。また、皇祖神を祀り、私幣禁断の社である伊勢神宮は宗教法人となりました。
皇室祭祀令に代わって、祭祀が存続した根拠はむろん、「皇室令及び附属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒(昭和二十二年五月三日宮内府長官官房文書課発第四五号依命通牒)」でした。
▽4 国会図書館が所蔵する唯一の『宮内府関係法令集』
国立国会図書館に、依命通牒が掲載された、当時の『宮内府関係法令集』が所蔵されています。
同図書館に納本されている唯一の『宮内府関係法令集』で、深い緑色の固い表紙に複写禁止を示す「×複写」の紙片が張られ、背表紙に「宮内府関係法令集 昭和22年12月4日現在」と表記されています。厚さは4センチ弱で、全部で四百数十ページ。各ページの紙は変色して赤茶けています。
「はしがき」には、「一、この法令集は、昭和二十二年五月三日現行の法令のうち、宮内府の事務に必要なものを選んで収録した。二、この法令集の第一部には、皇室及び宮内府に関する法令を、第二部にはその他の法令を掲げた」などと記され、最後に「昭和二十二年五月 宮内府長官官房文書課」とあります。
「目次」を見ると、「第一部」に「日本国憲法」「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令」「皇室典範」「皇統譜令」などが並び、20本の法令のうち17番目に、「皇室令及び附属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒(昭和二十二年五月三日宮内府長官官房文書課発第四五号依命通牒)」が載っています。
「奥付」には「昭和廿二年七月五日 印刷納本 宮内府關係法令集(第一分冊)」「非売品」とあります。
依命通牒の第3項には「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること。(例、皇室諸制典の附式皇族の班位等)」と明記されています。
皇室祭祀令の廃止後も宮中祭祀が存続できたのは、この依命通牒があるからです。皇室喪儀令が廃止されたにもかかわらず、貞明皇后の大喪儀が喪儀令に準じて斎行されたのは第3項があるからです。
もうひとつ、指摘したいのは、依命通牒が「法令集」に掲載されているのは、「昭和二十二年五月三日現行の法令のうち、宮内府の事務に必要なもの」として選ばれたということです。
なお、国会図書館には、現行の『宮内庁関係法規集』が「平成19年11月1日現在」版から「平成24年11月1日現在」版まで、計6冊、所蔵されていますが、これらには依命通牒は掲載されていません。
宮内庁HPに掲載されている「関係法令」も同様です〈http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/hourei.html〉。
いつの間にか、消えたのです。
▽5 克服できなかった「祭祀は皇室の私事」
結局、占領中は「宮中祭祀は皇室の私事」とする法的位置づけを修正することはできませんでした。
昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長は次のように証言しています。
「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」
過酷な圧迫の時代は去ったけれども、宮中祭祀は私的信仰として認められるという占領期の限界が見てとれます。
もう1点、忘れないうちに指摘しておきたいのは、占領期という特殊な状況下でさえ、依命通牒第3項によって宮中祭祀が存続し、貞明皇后大喪儀が斎行されたのに、昭和から平成への御代替わりでは素直に依命通牒に従い、旧皇室令に準じて行うことができなかったことです。
平成3年4月25日の参院内閣委員会で宮内庁の宮尾盤次長は、「(依命通牒は)現在まで廃止の手続はとっておりません」と答弁していますから、依命通牒第3項は生きていることになります。
ところが、生かされていないのです。なぜでしょうか? どこかにウソがあります。
▽6 公文書館が公開する資料
さて、敗戦・占領・独立を経て、宮中祭祀は大きな節目を迎えます。皇太子(今上天皇)御成婚です。画期的なことに、賢所大前での神事を含め、政府はこれを「国事」としたとされます。
宮内庁のHPには「皇太子明仁親王殿下のご結婚の儀式は、昭和34年4月、皇居において行われました。結婚の儀・朝見の儀は同月10日、宮中祝宴の儀は同月13日から3日間、それぞれ国事行為たる儀式として行われたのをはじめ、これを中心として一連の儀式・行事が行われました」とありますが、もう少しくわしく見てみます。
昭和33年11月27日、仮宮殿で皇室会議が開かれ、皇太子殿下(今上陛下)と正田美智子さん(いまの皇后陛下)との婚姻が承認され、同日、宇佐美毅宮内庁長官は記者会見で婚約を発表しました。
翌年34年1月12日に勅使発遣の儀が行われ、同14日には正田邸で納采の儀があり、同日、皇太子殿下は宮中三殿に成約を奉告され、同時に、伊勢神宮と畝傍山陵で奉告の儀が行われました。
2日後の1月16日、政府は「国の儀式」として、結婚の儀、朝見の儀、宮中祝宴の儀を行うことを決定しました。
3月16日に正田邸で告期の儀が行われました。
4月10日に宮中三殿で結婚奉告の儀、さらに賢所大前で結婚の儀、宮殿で朝見の儀などがあり、4月13日から3日間、宮中祝宴の儀が行われました。
国立公文書館は21年の秋に、天皇陛下御在位20年慶祝行事の一環で、特別展示会を開催しました。いまも公文書館のHPには再構成された「デジタル展示」が掲載され、このなかに御結婚の儀を国の儀式として行うことを決めた文書もあります〈http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/gozaii/〉。
▽7 上奏文書に「国の儀式」
以下、デジタル文書館の資料をできるだけ忠実に再現したいと思います。事実として、何が起きたのか、考えたいからです。
資料は4点あります。
1点目は、岸総理から昭和天皇への上奏文書で、内閣の事務用箋に筆文字で、以下のように書かれ、昭和天皇が承認されたことを示す、赤い印が押されているのがうっすらと見えます。
皇太子結婚式における国の儀式について
右慎んで裁可を仰ぐ。
昭和三十四年一月十六日
内閣総理大臣 岸 信介(内閣総理大臣印)
2点目は、閣議の資料です。やはり筆文字です。
総甲第一号 起案昭和三十四年一月十四日 閣議決定昭和三十四年一月十六日
上奏昭和三十四年一月十六日
御下付(朱印)昭和〃年一月十六日
内閣総理大臣(花押) 内閣官房長官(花押) 内閣参事官(朱印)
法制局長官
内閣官房副長官(朱印)
愛知国務大臣(花押) 坂田国務大臣(花押) 寺尾国務大臣(花押) 伊能国務大臣(花押)
藤山国務大臣 三浦国務大臣(花押) 倉石国務大臣 世耕国務大臣(花押)
佐藤国務大臣(花押) 高碕国務大臣(花押) 遠藤国務大臣(花押) 山口国務大臣(花押)
橋本国務大臣(花押) 永野国務大臣(花押) 青木国務大臣(花押)
別紙内閣総理大臣請議
皇太子結婚式における国の儀式について
右閣議に供する。
なお、本件は日本国憲法第七条の儀式に関するものであるので、閣議決定の上は、上奏することといたしたい。
指 令 案
「皇太子結婚式における国の儀式について」は、請議のとおり。
3点目は、宮内庁の資料のようで、宮内庁事務用箋に仮名タイプで記されています。
皇太子結婚式における国の儀式について
一 皇太子明仁親王殿下の結婚式における結婚の儀、朝見の儀及び宮中祝宴の議は、国の儀式として行う。
二 右の諸儀を行う時期は、昭和三十四年四月中旬を目途とし、場所は、皇居とする。
三 儀式の日時及び細目は、宮内庁長官が定める。
最後は参考資料です。資料は2つで、1つは儀式一覧表で、もうひとつは参照される条文です。事務用箋ではなく、資料1はわら半紙にペン書きされ、資料2は仮名タイプです。資料1は結婚の儀の期日が抜けていますので、期日が決定される前に作成されたものと考えられます。
資料一
皇太子明仁親王殿下の結婚儀式一覧
挙 行 案 旧皇室親族令附式事項
諸儀名 説明 期日
一 成約
1 神宮神武天皇大正天皇貞明皇后山陵に勅使発遣の儀 天皇が神宮山陵に成約報告のため、お使を命ぜられる。 昭和三十四年一月十二日 神宮神武天皇先帝先后山陵に勅使発遣の儀
2 納采の儀 皇太子のお使が后となる方の邸に至って、いわゆる結納を行う。 一月十四日 納采の儀
3 賢所皇霊殿神殿に成約奉告の儀 皇太子が宮中三殿に成約を奉告される。 同日 賢所皇霊殿神殿に成約奉告の儀
4 神宮神武天皇大正天皇貞明皇后山陵に奉幣の儀 天皇のお使が神宮山陵に御幣物を奉り、成約を奉告する。 同日 神宮神武天皇先帝先后山陵に奉幣の儀
勲章を賜うの儀
贈剣の儀
二 告期の儀 天皇のお使が結婚の儀を行う期日を后となる方に伝える。 結婚の儀の約二週間前 告期の儀
贈書の儀
三 結婚諸儀
賢所皇霊殿神殿に結婚奉告の儀 皇太子に代って東宮侍従が結婚の儀を行うことを宮中三殿に奉告する。 月 日 賢所皇霊殿神殿に結婚奉告の儀
○2 結婚の儀 皇太子、同妃が結婚の誓をされる。 同日 后氏入宮の儀
賢所大前の儀
3 皇霊殿神殿に謁するの儀 皇太子同妃が皇霊殿神殿に結婚を奉告される。 同日 皇霊殿神殿に謁するの儀
(皇太子妃に勲章を賜う) 同日
○4 朝見の儀 皇太子同妃が天皇皇后にあいさつをされる。 同日 参内朝見の儀
5 供膳の儀 皇太子同妃が初めてお膳を共にされる。 同日 供膳の儀
6 三箇夜餅の儀 皇太子同妃にお祝いの餅を供する。 同日から三日間 三箇夜餅の儀
○7 宮中祝宴の儀 皇太子同妃の結婚御披露の祝宴 約三日間 宮中饗宴の儀
四 神宮神武天皇大正天皇貞明皇后山陵に謁するの儀 皇太子同妃が神宮山陵に結婚を奉告される。 結婚の儀後適宜の月日 神宮神武天皇並びに先帝先后山陵に謁するの儀
備考 ○印は国の儀式として行うものを示す。
資料二
参照条文
日本国憲法
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
十 儀式を行ふこと。
▽8 政府の資料に「国事」はない
以上の資料によれば、巷間、賢所大前の儀を含めて、皇太子御成婚は「国事」とされたといわれているのは、結婚式の諸儀式のうち、結婚の儀、朝見の儀および宮中祝宴の儀が「国の儀式」として行われたことを意味していることが分かります。
つまり、政府の資料には「国事」という表現はありません。閣議の資料には「憲法第7条の儀式に関する」とありますから、天皇の国事に関する行為の1つとしての「儀式」であり、「国の行事」としての儀式=「天皇の国事行為」としての儀式と考えられていることが想像されます。
宮内庁のHPが「国事行為たる儀式」と記述しているのは、そのためでしょう。
ともかく、占領期以来、祭祀は「皇室の私事」とされてきたことからすれば、賢所大前での結婚の儀が、「国の行事」とされたことは時代を画するものでした。
また、皇室親族令に準じて行われているのは、依命通牒第3項に沿ったものと思われます。
ただ、惜しむらくは、皇太子御成婚の全体が「国の行事」とされず、諸行事が因数分解され、「国の行事」とそうでないものとに二分されたことです。
のちに昭和から平成への御代替わり当時、政府が、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことが憲法の「政教分離」原則に反するとして、国の行事と皇室行事とを二分し、挙行したことの先駆けのように見えます。
皇太子御成婚は、占領期にゆがめられた宮中祭祀を、正常化に向けて大きく前進させたはずなのに、逆にその後の揺り戻しの出発点ともなっているようにも思えます。
そして、実際、この10年後、揺り戻しは祭祀簡略化という形で、起きたのでした。敗戦・占領という苦難の時代に宮中祭祀の命綱となった依命通牒が、側近中の側近の手で反故にされたのです。
つづく。
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「国の儀式」とされた今上陛下「結婚の儀」
──歴史的に考えるということ 6
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新たな情報を盛り込みながら、戦前・戦中から皇太子(今上天皇)御成婚までの歴史をあらためて振り返ります。
アメリカは戦時中から、「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉で、靖国神社がその中心施設であり、教育勅語が聖典だと考えたようです。
なぜそう考えたのか?
▽1 海外神社、「国体の本義」、靖国神社、教育勅語
明治以降、日本人が住む外地には、台湾神宮(明治34年)、樺太神社(明治44年創建)、朝鮮神宮(大正14年創建)、南洋神社(昭和15年創建)、関東神宮(昭和19年創建)など、多くの神社が建てられました。
昭和12年に文部省がまとめた「国体の本義」には、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」とありました。
東条内閣は、宮内省の官僚が唱えた、天照大神以前の神々を否定し、天照大神信仰に統一する官僚的な合理主義的神道論を正統とする神道論を打ち立てています。
朝日新聞は戦時中、「戦争美術展覧会」「聖戦美術展」「大東亜戦争美術展」「陸軍美術展」など、国民の戦意を高揚させるイベントをいくつも手がけました(『朝日新聞社史』)。
昭和14年1月には靖国神社を主な会場とする「戦車大展覧会」を、陸軍省の後援で主催し、戦車150台を連ねた「大行進」が東京市中をパレードしたことさえあります。
明治23(1891)年秋に発布された教育勅語は、学校の式日などに奉読することとされ、昭和になると奉安殿の建設が促進されました。教育勅語の1節、「これを中外に施してもとらず」は「わが国で実践しても、外国で実践しても道理に反しない」と理解されてきました。
▽2 神道指令の発令。教育勅語の非神聖化
もともと日本の神道は血縁共同体や地域共同体の信仰であり、布教の概念がありません。全体的に統一的な教義もありません。世界宣教などあり得ません。
戦前、長期にわたり靖国神社の宮司を務めた賀茂百樹は「神ながらの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未然に防止し、平和を保障するのが最上である」(「私の安心立命」昭和9年)と平和を訴えています。
けれども、「あなたには私のほかに神があってはならない」「全世界に行って、福音を述べ伝えなさい」と教えるキリスト教に絶対神と救世主イエスがあり、聖書があり、教会があるように、日本の「国家神道」には天照大神と天皇、教育勅語、靖国神社がある、とアメリカ人には見えたのでしょうか?
ポツダム宣言には「軍国主義」が世界から駆逐されるべきことが主張されています。「軍国主義者」が日本国民を欺き、世界征服の野望を推し進めたという理解です。アメリカ国務省が「神道の廃止」を戦略政策に掲げ、占領軍が「神道、神社は撲滅せよ」と叫び、靖国神社の「焼却」が噂されたのはその結果でしょう。
昭和20年10月、最高司令官マッカーサーの覚書に対して、上智大学のビッテル神父が「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」と答申し、靖国神社はひとまず守られました。
しかし、12月15日、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の禁止に関する件」という長い表題の付いた日本政府への覚書、いわゆる神道指令が発令され、国鉄の駅に飾られた門松や注連縄をも撤去させられるなど、神道的な宗教慣例が禁止されました。
12月28日には宗教法人例が公布・施行され、靖国神社は国家管理を離れて、宗教法人となりました。
他方、教育勅語は、翌21年10月、文部省が奉読と神聖的取り扱いの停止を通達し、日本国憲法施行後の23年6月には排除、失効確認の国会決議がなされました。
▽3 宮中祭祀を存続させた依命通牒第3項
ところが、占領後期になると、GHQの政策は変わります。「神道の廃止」は採用されなくなり、神道指令の「宗教と国家との分離」は「宗教団体と国家の分離」に解釈が変更されます。
22年5月に日本国憲法が施行されますが、24年11月には松平恒雄参議院議長の参議院葬が参議院公邸で行われ、26年6月の貞明皇后が大喪儀は旧皇室喪儀令に準じて、準国葬として行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。10月には吉田茂首相が靖国神社に参拝することも認められています。
占領軍内部の神道研究が進み、みずからの「国家神道」理解を修正せざるを得なくなったものと推測できます。20年11月の靖国神社の臨時大招魂祭に参列したCIE部長のダイク准将らが「荘厳で良かった」と感激したくらいですから。
翌27年4月の平和条約の発効で、日本は独立を回復し、神道指令も失効しました。けれども、靖国神社は民間施設にとどまりました。
宮中祭祀も「皇室の私事」から脱することができませんでした。
祭祀をつかさどる掌典職は21年4月に官制廃止となり、天皇の祭祀の法的根拠である皇室祭祀令は22年5月、日本国憲法の施行に伴い、廃止されました。また、皇祖神を祀り、私幣禁断の社である伊勢神宮は宗教法人となりました。
皇室祭祀令に代わって、祭祀が存続した根拠はむろん、「皇室令及び附属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒(昭和二十二年五月三日宮内府長官官房文書課発第四五号依命通牒)」でした。
▽4 国会図書館が所蔵する唯一の『宮内府関係法令集』
国立国会図書館に、依命通牒が掲載された、当時の『宮内府関係法令集』が所蔵されています。
同図書館に納本されている唯一の『宮内府関係法令集』で、深い緑色の固い表紙に複写禁止を示す「×複写」の紙片が張られ、背表紙に「宮内府関係法令集 昭和22年12月4日現在」と表記されています。厚さは4センチ弱で、全部で四百数十ページ。各ページの紙は変色して赤茶けています。
「はしがき」には、「一、この法令集は、昭和二十二年五月三日現行の法令のうち、宮内府の事務に必要なものを選んで収録した。二、この法令集の第一部には、皇室及び宮内府に関する法令を、第二部にはその他の法令を掲げた」などと記され、最後に「昭和二十二年五月 宮内府長官官房文書課」とあります。
「目次」を見ると、「第一部」に「日本国憲法」「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令」「皇室典範」「皇統譜令」などが並び、20本の法令のうち17番目に、「皇室令及び附属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒(昭和二十二年五月三日宮内府長官官房文書課発第四五号依命通牒)」が載っています。
「奥付」には「昭和廿二年七月五日 印刷納本 宮内府關係法令集(第一分冊)」「非売品」とあります。
依命通牒の第3項には「從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること。(例、皇室諸制典の附式皇族の班位等)」と明記されています。
皇室祭祀令の廃止後も宮中祭祀が存続できたのは、この依命通牒があるからです。皇室喪儀令が廃止されたにもかかわらず、貞明皇后の大喪儀が喪儀令に準じて斎行されたのは第3項があるからです。
もうひとつ、指摘したいのは、依命通牒が「法令集」に掲載されているのは、「昭和二十二年五月三日現行の法令のうち、宮内府の事務に必要なもの」として選ばれたということです。
なお、国会図書館には、現行の『宮内庁関係法規集』が「平成19年11月1日現在」版から「平成24年11月1日現在」版まで、計6冊、所蔵されていますが、これらには依命通牒は掲載されていません。
宮内庁HPに掲載されている「関係法令」も同様です〈http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/hourei.html〉。
いつの間にか、消えたのです。
▽5 克服できなかった「祭祀は皇室の私事」
結局、占領中は「宮中祭祀は皇室の私事」とする法的位置づけを修正することはできませんでした。
昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長は次のように証言しています。
「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」
過酷な圧迫の時代は去ったけれども、宮中祭祀は私的信仰として認められるという占領期の限界が見てとれます。
もう1点、忘れないうちに指摘しておきたいのは、占領期という特殊な状況下でさえ、依命通牒第3項によって宮中祭祀が存続し、貞明皇后大喪儀が斎行されたのに、昭和から平成への御代替わりでは素直に依命通牒に従い、旧皇室令に準じて行うことができなかったことです。
平成3年4月25日の参院内閣委員会で宮内庁の宮尾盤次長は、「(依命通牒は)現在まで廃止の手続はとっておりません」と答弁していますから、依命通牒第3項は生きていることになります。
ところが、生かされていないのです。なぜでしょうか? どこかにウソがあります。
▽6 公文書館が公開する資料
さて、敗戦・占領・独立を経て、宮中祭祀は大きな節目を迎えます。皇太子(今上天皇)御成婚です。画期的なことに、賢所大前での神事を含め、政府はこれを「国事」としたとされます。
宮内庁のHPには「皇太子明仁親王殿下のご結婚の儀式は、昭和34年4月、皇居において行われました。結婚の儀・朝見の儀は同月10日、宮中祝宴の儀は同月13日から3日間、それぞれ国事行為たる儀式として行われたのをはじめ、これを中心として一連の儀式・行事が行われました」とありますが、もう少しくわしく見てみます。
昭和33年11月27日、仮宮殿で皇室会議が開かれ、皇太子殿下(今上陛下)と正田美智子さん(いまの皇后陛下)との婚姻が承認され、同日、宇佐美毅宮内庁長官は記者会見で婚約を発表しました。
翌年34年1月12日に勅使発遣の儀が行われ、同14日には正田邸で納采の儀があり、同日、皇太子殿下は宮中三殿に成約を奉告され、同時に、伊勢神宮と畝傍山陵で奉告の儀が行われました。
2日後の1月16日、政府は「国の儀式」として、結婚の儀、朝見の儀、宮中祝宴の儀を行うことを決定しました。
3月16日に正田邸で告期の儀が行われました。
4月10日に宮中三殿で結婚奉告の儀、さらに賢所大前で結婚の儀、宮殿で朝見の儀などがあり、4月13日から3日間、宮中祝宴の儀が行われました。
国立公文書館は21年の秋に、天皇陛下御在位20年慶祝行事の一環で、特別展示会を開催しました。いまも公文書館のHPには再構成された「デジタル展示」が掲載され、このなかに御結婚の儀を国の儀式として行うことを決めた文書もあります〈http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/gozaii/〉。
▽7 上奏文書に「国の儀式」
以下、デジタル文書館の資料をできるだけ忠実に再現したいと思います。事実として、何が起きたのか、考えたいからです。
資料は4点あります。
1点目は、岸総理から昭和天皇への上奏文書で、内閣の事務用箋に筆文字で、以下のように書かれ、昭和天皇が承認されたことを示す、赤い印が押されているのがうっすらと見えます。
皇太子結婚式における国の儀式について
右慎んで裁可を仰ぐ。
昭和三十四年一月十六日
内閣総理大臣 岸 信介(内閣総理大臣印)
2点目は、閣議の資料です。やはり筆文字です。
総甲第一号 起案昭和三十四年一月十四日 閣議決定昭和三十四年一月十六日
上奏昭和三十四年一月十六日
御下付(朱印)昭和〃年一月十六日
内閣総理大臣(花押) 内閣官房長官(花押) 内閣参事官(朱印)
法制局長官
内閣官房副長官(朱印)
愛知国務大臣(花押) 坂田国務大臣(花押) 寺尾国務大臣(花押) 伊能国務大臣(花押)
藤山国務大臣 三浦国務大臣(花押) 倉石国務大臣 世耕国務大臣(花押)
佐藤国務大臣(花押) 高碕国務大臣(花押) 遠藤国務大臣(花押) 山口国務大臣(花押)
橋本国務大臣(花押) 永野国務大臣(花押) 青木国務大臣(花押)
別紙内閣総理大臣請議
皇太子結婚式における国の儀式について
右閣議に供する。
なお、本件は日本国憲法第七条の儀式に関するものであるので、閣議決定の上は、上奏することといたしたい。
指 令 案
「皇太子結婚式における国の儀式について」は、請議のとおり。
3点目は、宮内庁の資料のようで、宮内庁事務用箋に仮名タイプで記されています。
皇太子結婚式における国の儀式について
一 皇太子明仁親王殿下の結婚式における結婚の儀、朝見の儀及び宮中祝宴の議は、国の儀式として行う。
二 右の諸儀を行う時期は、昭和三十四年四月中旬を目途とし、場所は、皇居とする。
三 儀式の日時及び細目は、宮内庁長官が定める。
最後は参考資料です。資料は2つで、1つは儀式一覧表で、もうひとつは参照される条文です。事務用箋ではなく、資料1はわら半紙にペン書きされ、資料2は仮名タイプです。資料1は結婚の儀の期日が抜けていますので、期日が決定される前に作成されたものと考えられます。
資料一
皇太子明仁親王殿下の結婚儀式一覧
挙 行 案 旧皇室親族令附式事項
諸儀名 説明 期日
一 成約
1 神宮神武天皇大正天皇貞明皇后山陵に勅使発遣の儀 天皇が神宮山陵に成約報告のため、お使を命ぜられる。 昭和三十四年一月十二日 神宮神武天皇先帝先后山陵に勅使発遣の儀
2 納采の儀 皇太子のお使が后となる方の邸に至って、いわゆる結納を行う。 一月十四日 納采の儀
3 賢所皇霊殿神殿に成約奉告の儀 皇太子が宮中三殿に成約を奉告される。 同日 賢所皇霊殿神殿に成約奉告の儀
4 神宮神武天皇大正天皇貞明皇后山陵に奉幣の儀 天皇のお使が神宮山陵に御幣物を奉り、成約を奉告する。 同日 神宮神武天皇先帝先后山陵に奉幣の儀
勲章を賜うの儀
贈剣の儀
二 告期の儀 天皇のお使が結婚の儀を行う期日を后となる方に伝える。 結婚の儀の約二週間前 告期の儀
贈書の儀
三 結婚諸儀
賢所皇霊殿神殿に結婚奉告の儀 皇太子に代って東宮侍従が結婚の儀を行うことを宮中三殿に奉告する。 月 日 賢所皇霊殿神殿に結婚奉告の儀
○2 結婚の儀 皇太子、同妃が結婚の誓をされる。 同日 后氏入宮の儀
賢所大前の儀
3 皇霊殿神殿に謁するの儀 皇太子同妃が皇霊殿神殿に結婚を奉告される。 同日 皇霊殿神殿に謁するの儀
(皇太子妃に勲章を賜う) 同日
○4 朝見の儀 皇太子同妃が天皇皇后にあいさつをされる。 同日 参内朝見の儀
5 供膳の儀 皇太子同妃が初めてお膳を共にされる。 同日 供膳の儀
6 三箇夜餅の儀 皇太子同妃にお祝いの餅を供する。 同日から三日間 三箇夜餅の儀
○7 宮中祝宴の儀 皇太子同妃の結婚御披露の祝宴 約三日間 宮中饗宴の儀
四 神宮神武天皇大正天皇貞明皇后山陵に謁するの儀 皇太子同妃が神宮山陵に結婚を奉告される。 結婚の儀後適宜の月日 神宮神武天皇並びに先帝先后山陵に謁するの儀
備考 ○印は国の儀式として行うものを示す。
資料二
参照条文
日本国憲法
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
十 儀式を行ふこと。
▽8 政府の資料に「国事」はない
以上の資料によれば、巷間、賢所大前の儀を含めて、皇太子御成婚は「国事」とされたといわれているのは、結婚式の諸儀式のうち、結婚の儀、朝見の儀および宮中祝宴の儀が「国の儀式」として行われたことを意味していることが分かります。
つまり、政府の資料には「国事」という表現はありません。閣議の資料には「憲法第7条の儀式に関する」とありますから、天皇の国事に関する行為の1つとしての「儀式」であり、「国の行事」としての儀式=「天皇の国事行為」としての儀式と考えられていることが想像されます。
宮内庁のHPが「国事行為たる儀式」と記述しているのは、そのためでしょう。
ともかく、占領期以来、祭祀は「皇室の私事」とされてきたことからすれば、賢所大前での結婚の儀が、「国の行事」とされたことは時代を画するものでした。
また、皇室親族令に準じて行われているのは、依命通牒第3項に沿ったものと思われます。
ただ、惜しむらくは、皇太子御成婚の全体が「国の行事」とされず、諸行事が因数分解され、「国の行事」とそうでないものとに二分されたことです。
のちに昭和から平成への御代替わり当時、政府が、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、皇室の伝統行事を伝統のままに行うことが憲法の「政教分離」原則に反するとして、国の行事と皇室行事とを二分し、挙行したことの先駆けのように見えます。
皇太子御成婚は、占領期にゆがめられた宮中祭祀を、正常化に向けて大きく前進させたはずなのに、逆にその後の揺り戻しの出発点ともなっているようにも思えます。
そして、実際、この10年後、揺り戻しは祭祀簡略化という形で、起きたのでした。敗戦・占領という苦難の時代に宮中祭祀の命綱となった依命通牒が、側近中の側近の手で反故にされたのです。
つづく。
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