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欧米型の知識偏重教育を憂慮された明治天皇 ──『明治天皇紀』で読む教育勅語渙発までの経緯 1 [教育勅語]

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欧米型の知識偏重教育を憂慮された明治天皇
──『明治天皇紀』で読む教育勅語渙発までの経緯 1
(2017年4月9日)
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 教育勅語は何を目的に、どのような経過をたどり成立したのだろうか。
教育勅語@官報M231031

 成立過程史をテーマとした研究には、海後宗臣『教育勅語成立史の研究』(1965年)、稲田正次『教育勅語成立過程の研究』(1971年)などがある。けれども、いちばん手っ取り早いのは『明治天皇紀』をひもとくことだろうと思う。

 巻7を開くと、「教育勅語の下賜。明治23年10月30日、教育勅語を賜い、教育の大本を示したまふ」とあり、続いて下賜に至るまでの経緯がくわしく説明されている。

 まず当時の問題意識である。明治5年の学制頒布以後、学校教育は急速に普及したが、知識教育偏重への危機意識が深まっていたらしい。勅語渙発の目的は天皇制の強化というようなものではなかった。したがって、国体論批判としての教育勅語批判は、少なくともこの成立過程の時期については当たらないことになる。

「これよりさき、学制すでに頒布せられ、諸種の学校設立せられ、教育大いに進歩して諸科の学芸日に進むといえども、知識を開き芸術を長ずるに偏し、身を修め徳を樹つるを後にし、あるいは内外本末の別を忘れていたずらに模倣に陥り、教育の大旨に違ふものあり」(読みやすいように原文を適宜、編集した。以下同じ)

 事態をいち早く憂えておられたのが、ほかならぬ明治天皇だった。

「天皇つとにこれを憂慮したまふところありしが、明治11年、北陸・東海両道巡幸に際して、親しく諸学校教育の実際を覧たまふにおよび、さらにその感を深くしたまふ」

 問題を深く実感された明治天皇はすぐさま行動を起こされた。「忠孝」「仁義」という儒教的価値観に基づく道徳教育の前史であった。

「よりて還幸ののち、侍講元田永孚に聖旨のあるところを諭し、教学大旨・小学条目の2篇を草して上らしめたまひ、これを文部卿に下し、この趣旨を体して力を道徳の教育に用ゐしめたまふ。またさらに永孚に勅して幼学綱要を撰ばしめ、あまねくこれを海内(かいだい。「国内」の意味)に頒賜し、年少就学者をして、忠孝を本とし仁義を先にすべきことを知らしめたまふ」

 元田永孚は儒学者だったから、永孚が執筆編纂した「教学大旨」「小学条目二件」「幼学綱要」が儒教的内容となったのは当然であったろう。

 けれども道徳教育の推進は容易ではなかった。日本を取り巻く国際環境が日本の欧米化を要求していたからである。とくに不平等条約改正問題が眼前に立ちはだかっており、きわめて悩ましい問題だった。国のアイデンティティが問われていたということだろう。

「聖旨このごとく炳焉(へいえん。「明白」の意味)たりといえども、時運方に進むに急にして、かつ条約改正の急務は、ひたすら泰西(西洋)の制度文物を模倣するを必要とし、甚だしきはわが国を化して欧米たらんとす。挙国滔々としてこの風に趨(はし)り、茫乎(ぼうこ)として国体の精華、教育の淵源を顧みず、ますます聖旨に遠ざからんとするの傾向あり。識者竊(ひそ)かにこれを憾(うら)む」

 ここで「国体の精華」という表現が現れているのは注目される。アメリカナイズ、グローバル化の大波に洗われる戦後の保守化現象と相通じるものがあるようにも見える。教育勅語をめぐる問題はけっして過去の問題ではない。福澤諭吉は反儒教的な徳育を主張したという。宗教主義、倫理学などに基づくさまざまな徳育論が現れ、互いに論争し、混乱を極めたらしい。

 側近の元田永孚は宮内卿の伊藤博文に対応を促した。

「永孚またこれを慨(なげ)き、明治17年8月、書を宮内卿伯爵伊藤博文に呈し、国教を闡明(せんめい)し、もって教育を拡張するの議を進む。その意国体によりて教育の主義を彰明し、確立せんとするにあり」

 ここには言及がないが、永孚は数年来、欧米の新知識普及を急ぎ、天皇親政を拒否する博文との間で論争を繰り広げていたらしい。

 ほかの側近たちにも動きが出てきた。道徳教育の根元は皇室にあるのだから、詔勅の渙発が望ましいという国体論的な考え方も現れた。

「宮中顧問官西村茂樹また教育界の現状を慨嘆し、徳育の振興につきて意を用いるところありしが、22年2月、宮内大臣子爵土方久元に建言していわく、国民道徳の根元はつねに皇室にあり、ゆえに国民の道徳を維持せんとするは、皇室を措きて他にこれを求むべからず、仰ぎ願わくば断然大詔を渙発し、国民の道徳教育は帝室においてまったくその基礎を定め、その施行の方法は他の知体二育とともにこれを文部省に委任すべしと」

 欧米型の知識教育から日本的な徳育への変換が必要だとする認識は地方にも広がり、地方長官は榎本武揚文部大臣に要求することとなった。

「この年2月、地方長官会議の開かるるや、長官らまた徳育の要を論じ、相謀りて文部大臣子爵榎本武揚に対し、方今教育の弊を指摘し、欧米偏重の教育を排して本邦固有の道徳を奨励し、もって速やかに教育の方針を確立せんことを建言す」

 明治天皇ご自身も榎本文相に要求することとなったが、事態は進まなかった。

「天皇時事を深慨し、教育のことを軫念(しんねん)したまふこと深し。これらの議を聞きたまふや、これを善とし、武揚に命ずるに速やかに教育の方針を一定し、かつ教育に関する一部の箴言を撰述してこれを学生に授け、出入つねにこれを誦読せしめたまはんとす。武揚命を拝して数閲月、いまだ果たさず」

 事態が急速に進んだのは、芳川顕正の文相就任後からだった。天皇の御憂慮からすでに10年以上が経過していた。

「5月17日、内務次官芳川顕正代わりて文部大臣に任ぜらるるや、信任式後親しく内閣総理大臣山縣有朋に勅して顕正にその命を申(かさ)ねしめたまふ」

 こうして実際に教育勅語づくりがスタートするのだった。

 さて、蛇足ながら、最後にひと言、加えたい。教育勅語渙発の目的は欧米の知識を学ぶことに偏重した教育からの脱却であり、道徳教育の必要性を痛感されたからだと思うが、とすると翻って戦後の教育勅語批判はどう考えるべきだろうか。

 閣僚の教育勅語肯定発言を批判するのは自由だろうし、敗戦後の教育勅語排除・失効確認決議を再確認するのもかまわないだろうが、それで十分だろうか。不十分だからこそ、教育勅語評価の声が聞こえてくるのではないのだろうか。(斎藤吉久メールマガジン2017.4.9)
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