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占領前期に先祖返り ──「1.5代」象徴天皇制度下の創設論 7 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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占領前期に先祖返り
──「1.5代」象徴天皇制度下の創設論 7
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 さて、以下は、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋です。一部に加筆修正があります。


第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む

第3節 「1.5代」象徴天皇制度下の創設論──戦後行政史を追究しない百地章日大教授の反対論


▽7 占領前期に先祖返り
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 入江日記には

「長官室の会議。神宮御代拝は掌典、毎朝御代拝は侍従、ただし庭上よりモーニングで」

 とあります。最大の変更は毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)だったようです。

 毎朝御代拝は、平安中期の宇多天皇に始まり、一日も欠かさず受け継がれてきた、天皇が毎朝、石灰壇(いしばいのだん)に登り、伊勢神宮並びに賢所を遥拝された石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なる重儀で、明治以後、天皇に代わって側近の侍従に潔斎のうえ、烏帽子(えぼし)・浄衣(じょうえ)に身を正させ、宮中三殿の外陣で拝礼させる毎朝御代拝に代わりました。

 それが、昭和50年9月1日以降は宮中三殿前庭のなるべく遠い位置からモーニングを着て拝礼する形式に変わったのです。侍従は公務員だから宗教に関与すべきではない、というのが理由で、拝礼場所と服装の変更は神道色を薄めるための配慮とされます。

 こうして昭和22年の依命通牒は「破棄」され、バインダー式だったらしい『宮内庁関係法規集』から外され、消えました。占領中でさえ、侍従による毎朝御代拝は不問とされたのですから、憲法解釈は占領期より後退したといえます。百地先生が解説するように、一貫して「否定的態度」だった、のではなく、このとき激変したのです。

 祭祀の連続性が途切れただけでなく、同時にオモテとオクが峻別され、オモテの職員がお茶出しやお車のドアの開け閉めに関わることもなくなったようですが、宮内庁は法解釈の変更を公にすることを避けました。表面化したのは7年後です。

 昭和57年暮れに祭祀簡略化の実態が明るみに出、マスコミが取り上げて大騒動に発展しました。このとき全国約8万社の神社を包括する神社本庁は抗議の質問書を提出し、宮内庁当局者が

「祭事は陛下の私事以外には扱えない」

 と語っているのは見解が変わったのか、と富田長官に詰め寄りました。

 紆余曲折の末、宮内庁は掌典長名による「公式見解」を発表し、祭祀はすべて「陛下の私事」とする一般に流布する解釈ではなくて、

「今後も国事たり得る場合もあり、公事として行われることもある」

 と神社人の主張を全面的に認めました。しかし4か月後の入江日記には、さらなる祭祀の簡略化が進められたことが記録されています。

 今日、平成の祭祀簡略化を進言したとされる渡邉前侍従長(いまは元職)は、宮中祭祀=「私的活動」論者です。占領前期の憲法解釈に完全に先祖返りしています。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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