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皇位継承儀礼の「伝統」とは何か ──小堀桂一郎先生の「正論」を読んで [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年1月30日)からの転載です


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皇位継承儀礼の「伝統」とは何か
──小堀桂一郎先生の「正論」を読んで
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 1月8日、「皇位継承儀礼は伝統に則して」と訴える小堀桂一郎先生の文章が、産経「正論」欄に載ったのを拝読した。次の御代替わりが来春に迫ったいまになって、ようやくまともな意見が現れたのかと感慨深かった。
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 そして、守られるべき皇位継承の「伝統」とは何か、なぜ「伝統」なのか、をあらためて考えさせられた。


▽1 いかなる理由で何を重視するのか

 先生が訴えておいでなのは、次の御代替わりの諸儀礼を、平成から昭和への前例を踏襲するのではなく、むしろ200年前の光格天皇から仁孝天皇への先例にならうべきだ。今回こそ古来の宗教的な伝統を再生させる重要な機会だ、ということだ。

 今回のご譲位は超憲法的に行われており、もはや平成の前例を固定的に踏襲する必要はなく、前回は顧みられなかった「践祚」の概念を復活させるべきだと仰せなのはさすがの卓見だと思う。

 超憲法的措置の結果としての「国事」なのだから、憲法の政教分離原則(20条3項)にびくびくと気兼ねせず、むしろ克服すべきだ。伝統儀礼が復活すれば、20条が改憲できたのも同然で、全文改訂への足がかりになろうとも仰せだ。

 保守の論客として面目躍如たるものがあり、おおむね同意できるが、あえていくつかの問題点を指摘することにしたい。

 1点目は「伝統」である。なぜ「伝統」重視なのか。何が「伝統」なのか。

 先生が「皇室の祭祀儀礼に於ける古来の伝統」と仰せであるからには、ならうべき先例が光格天皇のご譲位の例にとどまらないことは文意上、明らかだが、私たち現代人にとって、長い皇室の伝統を踏襲することの意義とは何であろうか。

 現代の日本人はけっして、「伝統」を無条件で後世に守り伝えるべきものとは考えていない。であればこそ、前回の御代替わりでは「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とが対立的に捉えられ、さまざまな不都合が生じた。宮内庁関係者が装束を着ることさえ、猛烈な反対があったといわれる。


▽2 厳格主義は占領政策の結果か

 それどころか、何が「伝統」かさえ、私たちは見失っている。その日本人に対して、「伝統に則して」と訴えても、無条件の賛意は得られないだろう。

 室町期の才人・一条兼良は「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」(『代始和抄』)と書き、光格天皇はまず内裏から桜町殿(仙洞御所)に、剣璽とともに行幸になり、このため数百人規模の行列が組まれたことを克明に記録した極彩色の絵巻2巻が伝えられている。

 だが、そのような王朝絵巻が今回、再現されるべきだとは、おそらく先生もお考えではないはずだ。とすれば、何が「伝統」として回復されるべきなのか。

 日本人が「伝統」の価値を忘れているのは、けっして占領政策の結果ではない。

「目的は宗教を国家より分離すること」とした、いわゆる神道指令の解釈運用は、占領後期になると「国家と教会の分離」すなわち限定主義に変更されている。

 宮中祭祀の形式は神道指令下でも守られてきた。現行憲法施行に際して、「従前の例に準じて、事務を処理すること」(依命通牒第3項)と定められ、祭祀は旧皇室祭祀令に準じて、ひきつづき励行された。

 つまり、宮中祭祀については格別に、神社神道と同様、厳格主義がしばしば採られるのは、占領政策とは別の要素からである。

 政教分離原則に抵触するとして、側近らによって祭式が変更されたのは、昭和50年9月からである。側近らが占領前期の法解釈に、無用の先祖返りを図った結果である。なぜそんなことが起きなければならなかったのか。

 ちなみに、昭和22年5月の依命通牒は廃止されてはいない。したがって旧登極令に準じて粛々と、御代替わりの事務を処理することは法的に可能である。


▽3 祭祀は「宗教」なのか

 皇室はしばしば「伝統」の世界だと考えられているが、けっして「伝統」オンリーではない。「伝統と革新」こそが古来、皇室の原理なのであって、一連の皇位継承儀礼を伝統精神に則り、毅然として遂行すべきだというのなら、「伝統」というだけではなくて、たとえば大嘗祭の現代的意義が見いだされ、説明されるべきではなかろうか。

 つまり、天皇の祭祀とは何か、である。先生は御代替わりの諸儀礼を「宗教」とお考えのようだが、そうなのであろうか。

 もし「宗教」だということになると、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定める憲法20条3項が立ちはだかる。御代替わり諸儀礼は「国事」とはなりづらい。

 けれども、たとえば大嘗祭が、政府や宮内庁が理解するような「稲の祭り」という宗教的儀礼ではなくて、米と粟の新穀を皇祖神ほか天神地祇に捧げて祈る多神教的、多宗教的な、国民統合のための国家的儀礼だと理解されるなら、どうだろうか。

 それでも、国民の信教の自由を侵す「宗教的活動」と解釈しなければならないだろうか。

 聞くところによると、何十年も前から、カトリック信徒の女性が内掌典として陛下の祭祀に携わっているようにも聞くが、もしそうだとしたら、その事実こそは宮中祭祀が信教の自由の原則に抵触しないことの何よりの証明ではないか。


▽4 憲法の改正より憲法体制の変革を

 バチカンは350年以上も前に、宣教先の国々の儀礼や習慣の尊重を謳う指針を、海外宣教団に対して与えている。その結果、中国では国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝が認められ、1692年にはキリスト教は公許されている。

 1659年の古い指針は現代にも引き継がれている。つまり、20条3項問題はすでにして解決済みなのであり、したがって、先生が仰せのように、「政教分離原則への恟々たる気兼ねは不要」なのである。

 もう1点は憲法改正である。先生は伝統回帰を憲法改正へのワン・ステップともお考えだが、必要なのは憲法の改正だろうか。それで十分なのか。

 先生が仰せのように、今回のご譲位はまさに超憲法的措置で進められた。陛下のご意向が出発点である紛れもない事実を、国民の総意が出発点であったかのように再起動させなければならなかったのは、天皇に国政上の権能を認めない、国民主権主義を基本原則とする現行憲法の限界を露呈させた。

 というより、憲法を最高法規とする一元的憲法体制の限界が明らかになったのだと私は思う。皇室の「伝統」など歯牙にもかけぬような国民的なる議論の大混乱を避けるためには、皇室は皇室独自の法によって自立すべきではなかろうか。

 憲法と皇室典範を同格とし、それぞれを頂点に置く国務法と宮務法が並立する法体系に再編成すること、そして宮内庁は内閣府の外局、あるいは独自機関というのではなくて、一般の行政機関とは別の独立機関とすることが、本来あるべき姿ではないかと私は思う。

 先生はいかがお考えだろうか。
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国事行為しか認めない憲法にこそ問題がある ──朝日新聞発行月刊誌掲載の横田耕一論考を読む [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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国事行為しか認めない憲法にこそ問題がある
──朝日新聞発行月刊誌掲載の横田耕一論考を読む
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 明けましておめでとうございます。
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 陛下の譲位(退位)がいよいよ来春に迫りました。政府は来週にも、今上陛下の退位と皇太子殿下の即位に向けて準備組織を発足させると伝えられます。即位の礼・大嘗祭の日程も具体的に聞かれるようになりました。

 事態は先へ先へと進んでいますが、年の初めに当たり、改めて、今回のご譲位問題を振り返り、検証することは意味のないことではないでしょう。少なくとも千数百年におよぶ天皇の歴史に何が起きているのでしょうか。


▽1 「憲法の原点に立ち返れ」

 今回は考える材料として、朝日新聞社が発行する月刊誌「Journalism」一昨年11月号(特集「いまこそ考える天皇制」)に載った横田耕一九大名誉教授(憲法学)の「務め過多の象徴天皇像を前提とせず──憲法の原点に、いま一度立ち返ろう」を取り上げます。

 一昨年夏の陛下のビデオ・メッセージのあと、そのご真意を探り、象徴天皇のあり方を根本的に考えようとする企画で、寄稿を求められた4人の筆者の論考の1つです。

 横田先生は私とは異なる思想的お立場なのでしょうが、それゆえに、より根源的に考えるヒントを与えてくれそうです。

 先生のご主張は、要するに、日本国憲法は国事行為以外の公的行為を認めていないにもかかわらず、天皇は能動的な活動を行い、政府も国民もこれを容認し、受け入れてきた。それで公務が多すぎるというのなら、憲法の原点に帰り、憲法に反する天皇の行為を見直すべきだ、ということのようです。

 天皇の「お気持ち」には、憲法上、説明しがたい「務め」が多すぎること、天皇ご自身の「あるべき象徴天皇像」がそれをもたらしていることがうかがえる。したがって、「生前退位」問題を考えるには、その是非は別にして、それらの「務め」が必要不可欠なのか、憲法の原点に立ち返るべきではないか、と訴えておいでです。


▽2 国民は知っている

 先生の論考はWEBRONZAで全文を読むことができますので、ご興味のある方はそちらにアクセスしていただきたいと思います。URLは以下の通りです。
http://webronza.asahi.com/journalism/articles/2016102800006.html

 指摘したいことはいくつかありますが、1点だけ申し上げます。それは、先生は「憲法上の疑念」を指摘されますが、むしろ憲法にこそ問題があるのではないか、ということです。天皇に国事行為「のみ」を認め、政治的権能を認めない、日本国憲法の限界です。

 じつのところ、そのことを、多くの国民は百も承知なのでしょう。今回の一連の経緯を振り返ると、私にはそのように思えます。

 先生は、議論の出発点を一昨年8月8日のビデオ・メッセージに置いています。しかし、陛下が「譲位」のご意向を最初に示されたのは、8年も前の平成22年7月の参与会議といわれます。

 近代以降、終身在位制度が採られ、譲位は認められていません。しかも、憲法は天皇の政治的権能を認めておらず、天皇のご発意に基づいて、政府や国会が皇室制度の改革を進めることは憲法に抵触します。

 したがって側近たちは、職を賭してでも、陛下を説得し、思い留まっていただくべきだったと思いますが、逆に、退位の仕組み作りに走り出しました。そして、ご意向が物語の始まりだった事実関係を逆転させ、憲法の国民主権主義が出発点となるように、無理矢理ストーリーを書き換える荒技に打って出たのでした。

 関係者によるリークと思われるNHKのスクープは、メディアを利用して世論を喚起する仕掛けであり、さらにテレビを通じた「お気持ち」の表明は、国民の総意に基づく退位の気運を創出するための世論工作だったことが容易に想像されます。


▽3 放置してきた為政者の不作為

 宮内庁は陛下の「お気持ち」を国民に対して、正式に説明することさえしませんでした。あくまで起点は「国民の総意」でなければならないからでしょう。「生前退位のお気持ちを強くにじませた」という枕言葉付きで「お言葉」を伝えたのは、宮内庁ではなくて、メディアでした。

 現実を憲法に力尽くで整合させた不自然な運用のあり方は、そのようにしなければならない憲法の規定にこそ、むしろ問題があることを示しています。けれども国民はみな知り尽くしています。

 多くの国民にとっての天皇は、先生が仰せの、国事行為しか認められないという日本国憲法的な存在ではなく、たとえば王朝文学に親しみ、雛祭りを祝ってきたというような、憲法だけでは語れない多面的な存在です。先生は「(日本国憲法上)明仁天皇は2代目の天皇である」と仰せですが、国民にはあくまで125代続く歴史的な天皇なのです。

 国民が支持している象徴天皇とは、日本国憲法が定める象徴天皇ではなくて、歴史に基づく象徴天皇なのです。

 国と民のために祈られ、国民と親しく接せられる天皇像は、横田先生には憲法違反と映るかも知れませんが、多くの国民が圧倒的賛意を示していることは、古来、さまざまな形で天皇と民の間に深い絆が築かれてきた日本の歴史の反映です。

 そのような関係性に目を向けない、日本国憲法原理主義こそ改められるべきでしょう。ご譲位問題をめぐって疑念の対象とされるべきなのは、国事行為以外を認めないとする憲法のあり方でしょう。

 さらなる問題は、より望ましい憲法体制もしくは天皇制度が模索されてしかるべきなのに、戦後70余年、放置してきた政治の不作為です。これが陛下のお悩みの真因だろうと私は思います。

 とくに、「皇室の私事」とされている宮中祭祀の位置づけは、見直されるべきでしょう。

 先生は、憲法上、天皇は「国民統合の象徴」と規定されているけれども、「国民統合」を積極的に果たすことを期待されるわけではないと解説しておられますが、「国中平らかに、安らけく」と祈られ、国と民をまとめ上げてきたのが、古来の天皇です。


▽4 たちの悪い官僚社会

 横田先生の論考には、お言葉にある「何よりも国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて」という陛下の祭祀への言及が抜け落ちています。先生が「私事」と切り捨てる祭祀こそ、皇室の伝統からすれば、皇室第一のお務めです。

 敗戦後の神道指令で、宮中祭祀=「皇室の私事」とされたことに、占領期の政府は不満で、「いずれは法整備を図る」という方針だったようですが、独立回復後も実現への動きはなく、それどころか、いまや側近たちは「私事」説に先祖返りしているようです。

 そして、陛下のご高齢とご健康問題を理由として、ご公務ご負担軽減が求められ、その結果、昭和の悪しき先例を踏襲する祭祀簡略化が敢行され、一方でいわゆるご公務は減るどころか、逆に増えました。

 先生は日本国憲法が求める「象徴天皇像」が脅かされることを危惧しておられますが、祭り主たる伝統的天皇像の否定こそ、むしろ憂慮されます。

 先生は、限界が不明確なまま「公的行為」が大幅に拡大していることを問題視しています。まさにその通りですが、具体的には何が増えているのか、ご存じですか。

 宮内庁がもっとも気にしていたのは「拝謁」の多さでした。春秋の勲章受章者の拝謁などはほぼ延べ1週間にもわたって続きます。宮内庁といえば外務省OBが幅を効かせる組織ですが、ご負担軽減策にもかかわらず、外務省関連の「お茶」はいっこうに減りません。

 先生は「過多であれば制限すればよい」と簡単に仰せですが、たちの悪い官僚社会の現実と問題提起すらままならない政治の不作為を打ち砕くのは容易ではありません。

 法的基準の不明確な拝謁やお茶を削減できるなら、「生前退位」だ、皇室典範改正だと騒ぎ立て、国民的議論をあおる必要はありません。ところが、ご多忙なご公務を婚姻後の女性皇族にも分担していただくためと称して、皇室の歴史にない「女性宮家」創設論さえ飛び出しています。議論すべきテーマはほかにあります。
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