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「文化の日」とは何だったのか? 伝統と近代の微妙な関係への自覚 [天皇・皇室]

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「文化の日」とは何だったのか? 伝統と近代の微妙な関係への自覚
(令和2年11月4日)
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昨日は11月3日。いまは「文化の日」である。陛下は皇居・宮殿で文化勲章親授式に臨まれた。

いまは、というのは、以前は違うからだ。祝日法で「文化の日」が定められたのは昭和23年7月である。それなら、その前はどうだったのか、少し整理してみたい。


▽1 GHQが同意した「11月3日」の祝日化

なぜ「11月3日」が「文化の日」の祝日とされたのか。「もともとは明治天皇の誕生日(明治節)だった」と気の早い人は言いたがる。しかしちょっと待ってほしい。物事には順序がある。

戦後の歴史で考えると、11月3日は日本国憲法が公布された日であった。昭和21年11月3日に公布され、その半年後、22年5月3日に憲法が施行された。5月3日は「憲法記念日」とされた。

なぜ「5月3日」なのか。なぜ「11月3日」だったのか。キリの良い日には見えない。国会議事録にはそれらしい理由が見当たらない。だが、Wikipediaには興味深い情報が載っている。

当初は11月1日に新憲法公布、5月1日に施行のスケジュールの予定だったらしい。しかしそれでは施行日がメーデーと重なってしまう。そこで直前になって、5月3日に変更されたというのである。

参議院側は憲法発布の11月3日を「憲法記念日」とすることを強行に主張した。しかしGHQが拒絶した。「11月3日」へのこだわりの理由は分からないが、GHQの方はどうやらかつての「明治節」を嫌ったらしい。

一方、衆議院は施行日の5月3日を「憲法記念日」とすることに同意したことから、参議院は立場を失ってしまう。そこでGHQは11月3日を「別の記念日にしたら」と和解策を提示した。で、結局、「文化の日」が定められたという。そしてこの祝日法の制定によって、昭和二年勅令第二十五号が定めていた「明治節」は廃止された。

面白いのは、「明治節」を強く嫌っていたはずのGHQが「11月3日」の祝日化に同意したことである。

占領前期と占領後期では、たとえば宗教政策にしても大きな違いがあるが、23年ごろにはすでに変化が生まれているということがこれで推測できる。つい2年前には苛烈な、いわゆる神道指令が発令されたのにである。政策の早期転換の背景に何があるのだろうか。歴史の謎だろう。

もし明治節を徹底して嫌うなら、たとえば12月1日憲法公布、6月1日施行とし、12月1日を憲法記念日と定めることだって可能なはずである。そうはならずに、「11月3日」の明治節は「文化の日」として残ったのである。GHQが明治節を奪ったかのような俗説は当たらない。

祝日法では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日とされている。趣旨がいまひとつわかりづらい。モヤモヤ感があるのは、制定に至る紆余曲折のせいだろうか。


▽2 誕生日を祝うキリスト教文化の影響

さて、明治節である。明治節とは何だったのか。

明治天皇の偉業を記念して、「明治節」が定められたのは、昭和2年3月だった。その背後には制定を望む国民運動の熱心な展開があったことが知られている。

「11月3日」は既述したように明治天皇の誕生日だった。いや、明治天皇がお生まれになったのは、正確には「11月3日」ではない。正しくは嘉永5年の「9月22日」である。当時は太陰太陽暦だった。明治5年の改暦で、太陽暦すなわちキリスト教のグレゴリオ暦に代わり、「11月3日」とされた。

だから明治元年の布告では、「9月22日」に「天長節」を祝うこととされていた。改暦の翌年、「11月3日」が「天長節」となり、「年中祭日祝日」のひとつに定められ、休日となった。41年制定の皇室祭祀令には、天長節祭が小祭として位置付けられた。

つまり、近代の欧米化が「11月3日」を選ばせたのである。日本古来の伝統ではない。

もともと天子の生誕日を祝う「天長節」は古代中国の文化である。8世紀、玄宗皇帝の時代には祝い事が行われ、日本でも同じ8世紀、光仁天皇の祝宴が開かれたらしい。

しかし中国も日本も、誕生日を祝う慣習が古くからあったわけではない。日本では大晦日に歳神を迎え、人々はいっせいに歳をとった。近代以降も満年齢と数え年が共存し、それが戦後までしばらく続いたのである。けれども学校や家庭でお誕生日会が催されるようになり、誕生日の個人化が浸透したのだろう。キリスト教文化の土着化ということだろうか。

古くは、天皇から民草に至るまで、個人的な祭日といえば、亡くなった日を記念するものだった。明治天皇の「天長節」が「明治節」となり、やがて「文化の日」に変容していった近現代の歴史には、キリスト教文化の強い影響が背後にうかがえる。

しかしそのことは何ら驚くに値しない。日本の皇室こそは古来、海外文化移入のセンターとして機能してきたからである。水田稲作、漢字、仏教などその例は枚挙にいとまがない。そして日本の近代化の先頭に立たれたのが明治天皇であった。そしてアジアで最初の近代国家が生まれたのである。


▽3 保守派は自画像を正確に描けているのか

明治45年7月に明治天皇が亡くなり、大正天皇が皇位を継承された。当然、天長節は、大正天皇の誕生日である8月31日に変更された。

その一方で、明治天皇の誕生日ではなく、崩御日である7月30日(本当はその前日だった)は、宮中祭祀の世界では、明治天皇祭(先帝祭)という祭日となった。先帝祭は天皇みずから祭典を行う大祭であった。

大正15年12月に今度は大正天皇が亡くなる。すると、7月30日は明治天皇をしのぶ先帝祭としてはなくなり、先帝以前三代の例祭として、親祭のない小祭として斎行されることとなった。

明治が遠くなり、明治が消えていくのは忍びがたい。そういう国民の熱い思いが、昭和2年3月に実現させたのが明治節で、明治天皇の誕生日がこれに当てられた。皇室祭祀令が改正され、宮中三殿で明治節祭が執り行われることとされた。四方節、紀元節、天長節、明治節は四大節と呼ばれた。

このとき崩御日ではなく、誕生日の「11月3日」が選ばれたのも、やはり近代化の結果ということだろうか。

蛇足ながら、「昭和の日」制定にも同様のパターンが見受けられる。法制化は保守派勢力の強力な国民運動の成果だが、大行天皇の誕生日を国民的祝日とする考え方はけっして日本古来の伝統とはいえない。つまり、日本の保守派は、民族の伝統を追求したのではなくて、近代化によって、欧米の文化を受肉化した結果として、「明治節」や「昭和の日」を制定させたといえる。

問題は日本の保守派が、日本の伝統と近代の微妙に錯綜した関係をどこまで自覚しているか、である。もしも正確な自画像を描けずに、伝統重視を叫びつつ、非伝統主義に傾くなら、たとえば、いま目の前に突き付けられた皇位継承問題も、歴史と伝統の真髄を見失った、不本意な解決で終わるだろう。


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歴史家の高森明勅氏は皇太子と皇嗣についてブログで

『皇太子というお立場と皇嗣はどう違うか。皇太子は次の天皇になられるべき方。その地位は揺るぎないし、揺るがしてはならない。ところが、皇嗣はやや違う。たまたま、その時点で皇位継承順位が第1位であるに過ぎない。』と主張しています。

つまり皇嗣は暫定的な地位であり、確定的な地位である。よって愛子様を皇太子にすることは可能としています。

皇嗣というお立場は、暫定的な地位なのでしょうか。
by お名前(必須) (2020-11-12 11:05) 

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