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戦没者追悼「宗教性の排除」に異議あり ──国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に思う [政教分離]

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戦没者追悼「宗教性の排除」に異議あり
──国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に思う
(「論座」2003年10月号)
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 平成15年7月、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が、長崎市平野町の原爆資料館に隣接してオープンしました。基本構想の検討から10余年、44億円の国費を投じて建設されたと伝えられます。

「原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記し、恒久の平和を祈念するための施設」(長崎祈念館のホームページ)

 という位置づけで、前年8月1日には同じ趣旨の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が広島の平和記念公園に開館しています。

 長崎祈念館は、ホームページ(http://www.peace-nagasaki.go.jp/)などで紹介されているところによれば、鉄筋コンクリート造りで、地上1階、地下2階、敷地面積は約1万5400平方メートル、延べ面積は約3000平方メートルあります。

 地上には、原爆投下の日、被爆者たちが「水をください」と飲み水を求めながら焦土をさまよったことに由来する直径30メートルの水盤がおかれ、夜になると7万人の犠牲者を象徴する7万個の灯りが、光ファイバーにともされます。

 施設の中心は「原子爆弾の投下により亡くなられたすべての方々の冥福を祈るとともに、核兵器による惨禍を二度と繰り返さないことを祈念する」(長崎祈念館のパンフレット)ための「追悼空間」で、緑色に光るガラス製の12本の「光の柱」が林立しています。

 その奥には死没者の名簿を安置する高さ9メートルの同じくガラス製の名簿棚が直立し、棚の前には献花台があります。棚の方角には爆心地が位置しています。

「死没者追悼」を名に冠し、「冥福を祈る」(パンフレット)とうたう祈念館は、広い意味での宗教的な目的で建てられたかのように見えますが、国は逆に「宗教性」を排除したと主張します。

 祈念館によると、「来観者の妨げ」になるような既成の宗教儀式を追悼空間で行うことは認められていません。読経や讃美歌の合唱などは禁じられています。献花は認められますが、神式の玉串(たまぐし)拝礼は想定されておらず、焼香は「火気の使用」に当たるという理由で認められていません。

 つまり神道、仏教、キリスト教など、在来の宗教形式による慰霊・追悼の場としては想定されていないのです。

「たとえば、入館者が一日中ゆっくりと厳かな雰囲気のなかで、静かに死没者に思いをいたし、祈り、そして平和について深く思索することができるような空間」(「原爆死没者追悼平和祈念館設立準備検討会最終保報告」平成10年9月=http://www1.mhlw.go.jp/houdou/1009/h0928-2_11.html

 として設置された祈念館は、既存の宗教形式によらない「無宗教」形式による「死没者追悼」の機会を来観者に与えているのですが、伝統宗教の立場からは不評です。


▽1 「弔意」「慰霊」が消え、「追悼」に一元化

 こうした祈念館がどのようにして建設されたのか、経緯を振り返ってみましょう。

「最終報告」によれば、平成2年に原爆死没者調査の結果が公表されたのを契機に、「国の原爆死没者に対する弔意の表し方」について、政府内で検討が始まったそうです。

 翌3年5月に厚生省(当時)に「原爆死没者を慰霊し、永遠の平和を祈念するための施設の基本理念、内容等」について検討する「原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会」が設けられ、「恒久的な慰霊・追悼の場」を設置すること、「慰霊の場」「資料・情報の継承の拠点」「国際的な貢献を行う拠点」の三機能を持たせることが適切とされ、続いて「原爆死没者慰霊等施設基本計画検討会」(5年7月設置)、「原爆死没者追悼平和祈念館開設準備検討会」(7年11月設置)が段階的に設けられ、具体的な開設準備が進められました。

 とくに「平和祈念・死没者追悼のあり方」については、

「国立の施設である以上、特定の宗教色を排し、厳かな雰囲気のなかで、入館者がその思想、信条を超えて、原爆死没者に思いを致しながら、平和について深く思索することができるよう工夫することが必要である」(「最終報告」)

 と結論づけられました。

 けれども実際は、「特定の宗教色の排除」どころか、厚生省によれば、「宗教性の排除」が国の方針だったようです。つまり無宗教施設ではなく、非宗教施設の設置が追求されたということでしょう。

 その背景にはいうまでもなく、「政教分離」の考え方があります。

「信教の自由は何人に対しても保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受けてはならない」

「国およびその機関は、いかなる宗教的活動もしてはならない」

 と規定する憲法を、国は厳格に解釈し、政治と宗教の完全な分離を図ろうとしています。

「宗教性の排除」は、祈念館設置の過程での用語の変遷からもうかがえます。

 出発点は国としての「弔意の表し方」の検討であったし、当初の「基本構想懇談会」の段階では、「死没者を慰霊」「慰霊の場」という表現が使われていました。しかし、平成5年7月に設置された「基本計画検討会」では「慰霊」が消えます。

 翌6年12月には「被爆者援護法」が成立し、このとき衆院厚生委員会では同法案の採択に際して、「原爆死没者慰霊等施設のできるだけ早い設置」などを求める付帯決議を行っていますが、そこでは「死没者慰霊」と記しています。

 ところが、7年11月に設置された「開設準備検討会」になると、もっぱら「追悼」という表現が用いられます。「弔意」「慰霊」には宗教的な意味があり、政教分離が建前の国の施設には相応しくない、非宗教的な「追悼」こそ相応しい、と国は考えたようです。

 その結果、建てられたのが広島・長崎の両祈念館です。


▽2 「追悼」に「宗教色」はないのか

 これに対して、最初から最後まで「追悼」を貫いたのが内閣官房長官の諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」(追悼懇)です。

 平成13年8月に小泉首相が靖国神社を参拝したのに対して、韓国・中国などからきびしい批判がわき上がったのをきっかけに、同年末に設置され、翌年の暮れ、

「国を挙げて追悼・平和祈念を行うための国立の無宗教の恒久的施設が必要であると考える」

 とする報告書をまとめました。

 この報告書は「追悼」の意味について、

「この施設における追悼は、『死没者を悼み、死没者に思いを巡らせる』という性格のものであって、宗教施設のように対象者を『祀る』『慰霊する』または『鎮魂する』という性格のものではない」

 と明記しています。

「追悼」と「慰霊」を区別し、「無宗教」の国の施設としては、「慰霊」ではなく「追悼」を選択するというのですが、「無宗教」と「非宗教」とを混同しているだけでなく、不謹慎な言葉遊びのようにも聞こえてきます。

 国がそのように規定したからといって、来館する公人・私人の心の内は区別のしようがないし、第一、祈念館自体が混乱しています。たとえば、先述したように、長崎祈念館のパンフレットは「冥福を祈る」といかにも宗教的だし、広島祈念館のホームページ(http://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/index.php)は英語版で「追悼する」を「mourn」と表現しています。「mourn」には「死を悼み、悲しむ」以外に「服喪」という意味があります。「喪に服する」ことは宗教的行為にほかならないでしょう。

 追悼懇は「追悼」には「宗教色」がないかのように主張していますが、本音は「慰霊」を認めてしまえば、

「日本には明治以来、靖国神社という国家の危機に殉じた国民を『慰霊』する公的施設がある。それで十分であり、屋上屋を架するような新たな国立施設の建設は不要である」

 という結論になる。そこで、「慰霊の排除」を主張する、ということではないのでしょうか。

 百歩譲って、「追悼」に「宗教色」はないと認めたとして、「死没者追悼」と「不可分一体」(追悼懇報告書)である「平和祈念」はどうでしょうか。これも「宗教色」がないというのでしょうか。「祈り」こそ宗教的行為そのものではないでしょうか。

 もっといえば、神社や寺院、教会を建てることと同様、「祈り」の場を設けること自体、宗教的行為なのではありませんか。もはやこの世にいない死者と向き合うことそれ自体、広い意味での宗教的行為にほかなりません。「追悼」と「慰霊」の区別は無意味でしょう。

「宗教性の排除」は生者の論理です。日本政府は、戦争という非常時にあって、交戦国の原爆投下がもたらした「犠牲と苦痛を重く受け止め、心から追悼の誠を捧げる」(長崎祈念館銘文)のですが、かけがえのない命を失った死者に悲しみを慰め、丁重に弔うことより、「まず憲法」「まず政教分離」という生者の都合を無慈悲にも優先させていませんか。

 もしそうなら、「慰霊」はいうにおよばず、「追悼」の名にさえ値しないでしょう。政府は、不慮の死者に対して、とりわけ国に殉じた国民に対して、国家がまず第一に果たすべき祈りの責務を軽視していませんか。


▽3 アメリカ政府が捧げる祈り

 ここで海外に目を転じてみましょう。

 日本の政教分離政策の源流であるとともに、「国家と教会の分離」原則を厳格に採用していると一般には考えられているアメリカには、案外、知られていないことですが、この国の宗教伝統に基づいて、国家が祈りを捧げる「全国民の教会」、ワシントン・ナショナル・カテドラルが百年も前から存在します。

 この聖堂では、2001年の「9・11」同時多発テロの3日後、ホワイトハウスの依頼によって、「テロ犠牲者を追悼し、祈りを捧げる儀式」が厳かに斎行され、ブッシュ大統領夫妻をはじめ歴代大統領夫妻、政府高官、ユダヤ教やイスラム教の代表者ら数千人が参列しました。

 式は、軍楽隊の演奏とイギリス国教会ワシントン司教の先導で始まり、讃美歌合唱、聖書朗読に続いて、テレビ伝道師として高名なバプテスト派のビリー・グラハム師が

「神への信頼こそがすべての根源」

 と説教し、そのあと大統領が

「世界中からテロを撲滅する」

 と宣言し、神の御加護を求めて祈りました。

 2003年6月には、スペースシャトル「コロンビア号」の爆発事故で亡くなった宇宙飛行士たちの追悼式が、やはりこの聖堂で、キリスト教典礼に基づいて行われています。

 首都ワシントンの市街地を見下ろす丘の上に建つこの聖堂は、イギリス女王・エリザベス2世を首長とするイギリス国教会の傘下にあり、「祈り、感謝、葬儀などの国家的目的に使用される教会」として建てられました。

 1907年の定礎式で建設を宣言したのは、第26代大統領セオドア・ルーズベルトです。それから65年後の聖堂外陣の完成式典には、エリザベス2世やカンタベリー大司教がはるばる渡米し、参列しています。

 国家的性格を持つ宗教的儀式を斎行する大聖堂の存在や、そうした儀式の開催を政府機関がしばしば依頼し、大統領ら政府関係者が参列することは、アメリカ憲法が定める「国家と教会の分離」原則に抵触しないのか、と疑う人も多いでしょう。

 1791年に追加された合衆国憲法修正第1条は

「連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない」

 と規定しています。それなのにアメリカ政府は、現実にはこの一宗教法人に対して、宗教的儀式の開催を依頼し、直接的な形を避けつつも、儀式に必要な費用を負担しています。

 アメリカの法理ではこれは違憲ではありません。

 カテドラル関係者は、儀式の「宗教性」については、

「当然、宗教的だ。『追悼』は必ずしも宗教や祈りなどに基づく必要はないが、『祈り』は宗教的行為以外の何ものでもない」

 と明言した上で、

「『国家と教会の分離』には抵触しない。憲法修正第1条は『祈り』を禁じているわけではない。禁じられているのは、国家が国民に祈りを強制することだ」

 と語ります。

 祈りは二の次で、できもしない政治と宗教の完全分離、「宗教性の排除」に固執する日本との違いは明らかではありませんか。


▽4 宗教的伝統に従うアメリカ

 追悼懇は第7回の会合(平成14年11月18日)で、「諸外国の主要な戦没者追悼施設について」という事務局作成の資料を配付しています。

 16カ国の事例の冒頭はアメリカで、アーリントン国立墓地の「無名戦士の墓」「硫黄島記念像」など5つの例が挙げられ、すべて「宗教性なし」と記されていますが、カテドラルについては取り上げていません。

 アメリカは建国の伝統に従い、キリスト教会というまぎれもない宗教的空間で、宗教者も、政治家も、官僚も、国を挙げて、国難に殉じた死者たちのために心からなる祈りを捧げています。そうしたカテドラルの存在を無視したのか、あるいは単に知らないだけなのか、軒並み「宗教性なし」と断定した追悼懇の資料の根拠はどこにあるのでしょうか。

 まさかとは思いますが、追悼懇が「必要だ」と結論づけた新たな国立の追悼施設を「宗教性なし」としたいがための詭弁でしょうか。

 国が関わった戦争で悲運にもたった一つしかない命を失った国民に対して、アメリカは自国の宗教的伝統に従って慰霊の誠を尽くし、その上で、憲法との整合性を図っています。ところが日本政府は、戦後輸入された「政教分離」を金科玉条とし、伝統的な祈りの形としての「宗教性」を排除しようとしています。その姿勢は卑屈にも見えます。

 追悼懇のある委員は、

「国のために亡くなった人をどう慰霊するのか。その国の文化と宗教的伝統に従って行われるのが人間文明の当然の選択である。文化・伝統と無関係の『無宗教施設で慰霊を行う』という考え自体、まったく非人間的な革命国家の発想である」

 と主張した、と記録されています。

 アメリカより古い歴史をもつ日本には、死者に対する作法について、はるかに豊かな固有の文化があります。けれども、日本政府は祖先が築いてきた祈りの歴史と伝統に反する「無宗教」革命を推し進めているかのようです。

 まるで狂信的無神論者のように、ことさらに「宗教」を否定し、「無宗教」に固執する。逆に、「無宗教」にこだわるあまり、あたかも「無宗教」という宗教の伝道師を演じるという自家撞着に陥っています。あまつさえ「無宗教」の教会まで建設し、「無宗教」を国民に押しつけているのではありませんか。


▽5 反映されなかっ た宗教者の意見

 日本政府は「宗教性」と同時に、「宗教者」をも排除しまし た。

「祈念館を後代にわたった国民の共感と支持が得られる施設とするためには、広く国民の意見を聴くことが重要である」(前掲の「最終報告」)

 と認識されながら、祈念館設置の検討過程で、宗教関係者に意見を求めることはありませんでした。

 こうした状況に対して、被爆者の慰霊を真剣に考えようとする長崎の宗教関係者は、

「たとえば平和公園なら、各宗教がある程度、自由に慰霊のための宗教儀礼が行える。そのように諸宗教に平等に開かれた儀礼ができるようにしてほしい」

 という主旨の「意見書」を四に提出したが、思いは通じず、関係者は

「厚生省の原案で押し切られた」

 とホゾをかみます。

 一方、長崎祈念館は

「特定宗教に便宜が図られている」

 という見方もあります。

「祈念館が採用する黙祷形式、献花方式は許もとキリスト教に由来する。聖書朗読や讃美歌は認められないが、花を捧げ、静かに祈り、十字を切れば、キリスト教儀礼として通用する。祈念館は神道や仏教には違和感のある非宗教空間だが、キリスト者にはなじみやすいといえる」

 と政教関係に詳しい研究者は指摘します。

 それどころか、追悼空間の「光の柱」こそは、長崎祈念館のキリスト教色そのものを反映している、との指摘もあります。

 旧約聖書では、天地創造に際して、創造主が最初に語った言葉が「光あれ」です。キリスト教の教えでは、「光」は神であり、神の言葉であり、真理です。キリストも福音もキリスト者も「光」です。

 とすると、日本政府は「宗教性の排除」に執着するのみならず、キリスト教ににじり寄っているということになるでしょうか。

 政府のエリート官僚であれ、諮問会議に参加する学識経験者であれ、あるいは名もなき国民であれ、日本人の宗教イメージはどうしても日本的、伝統的にならざるを得ません。したがって「宗教性」の排除は伝統的「宗教」イメージの排除、伝統宗教の排斥につながり、いきおい非伝統的な異国の神にすり寄ることになるのでしょう。長崎祈念館がキリスト教的な新興宗教の臭いがするのは同様の結果でしょうか。

 長崎祈念館は流れ落ちる水、むき出しのコンクリート、ガラス、アルミ材で表現された斬新な現代建築ですが、設計者は地方紙のインタビューで

「来観者が、押しつけではなく自然に、祈り、平和を考える雰囲気になるように」
「静寂さと緊張感を保てるよう、装飾を極力排除した」

 と語っています。

 一つの見識には違いありませんが、古来の日本人の祈りの形式にしたがったものとはいえないでしょう。


▽6 日本人は変わったのか

 日本人の祈りの形式といえば、明治神宮の創建が思い起こされます。

 東京都心に広大な緑のオアシスを提供している明治神宮は、京都の伏見桃山御陵に鎮まる明治天皇の聖徳を追慕する国民の熱い思いが政府を動かし、創建されました。

 東京帝国大学教授で、明治神宮造営局参与の立場で建設の指揮を執った、日本近代建築の巨人・伊東忠太によれば、当時、建築様式に関してはさまざまな意見があったそうです。

 なかにはモダンな大正の御代に相応しい斬新な様式を創出すべきだ、という革新的な意見もあったといいます。

「神社建築の様式は時とともに変遷している。大正の御代において大正の新様式を創り出すのは当然だろう。一切万事現代式に執り行うことが現代の天皇を奉祀するに相応しい道理である」

 との主張です。

 しかし最終的には「流れ造を適当」とする伊東の意見が採択されました。

 伊東はこう主張しました。

「建築様式の変遷は一般論としては正しき事実だが、それは世の中の事情、世人の観念・要求が変わるにより、やむを得ず変ずるのである。世人の神社に対する観念は、古来何ほど変化し来たったか。祭祀の様式を一変せしむるほど、神社に対する新要求をもっているか。余輩の見るところそうではない。わが国民の神に対する観念は古来変わらぬ、といいたい。祭祀の式典も古今大なる相違はないと思う。しからばいかにして神社建築の様式が変わりえようぞ」(『伊東忠太建築文献』第2巻)

 伊東の論理に従えば、日本人の死者に対する観念、慰霊の様式は変わってしまったのでしょうか。民族の歴史とともに培われてきた人の死を悲しみ、悼み、慰霊する独自の伝統を排除して、新たな施設と新たな追悼の形式を作らなければならないほど、日本人は変わってしまったのでしょうか。

 国が原爆死没者に対して、あるいは戦没者に対して、心から「弔意」を表し、「慰霊」「追悼」の誠を捧げることは当然です。そして、日本人が日本人である限り、そこには古来の日本人の「慰霊」「追悼」の心が素直に反映されなければならないでしょう。

 伝統的日本人の宗教性を軒並み排除し、あまつさえ異国の神にすり寄るかのようにして、長崎祈念館を設置した政府の姿勢は、この国に宗教革命をもたらすものと危惧せざるを得ません。国はさらに「国立の無宗教の恒久的施設」の建設を予定しています。心ある国民はこれを容認するでしょうか。

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神奈川県護国神社と戦没者慰霊堂 ──宗教的祭儀と非宗教的行事の間 [政教分離]

以下は「神社新報」(平成12年6月12日)からの転載です


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神奈川県護国神社と戦没者慰霊堂
──宗教的祭儀と非宗教的行事の間
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 JR横浜駅で京浜急行の下り快速電車に乗り換え、次の上大岡駅で下車、徒歩10分。樹齢数十年の桜木百本余に囲まれ、赤紫や薄紅色のサツキの花で埋め尽くされた静かな丘の上に神奈川県戦没者慰霊堂がある。

 先月10日、ここで県主催の戦没者追悼式が斎行された。遺族約1000名、来賓約500名を前に、岡崎洋県知事は、

「国際平和の実現に向け、地域からの取り組みをさらに推し進め、目前に迫った21世紀が希望に満ちあふれた平和な世紀となるよう、全力を尽くしてまいることをお誓い申し上げます」

 と式辞を述べた。

 47都道府県には少なくとも1社、国に一命を捧げた戦没者を祀る護国神社が鎮まっているが、唯一の例外がこの神奈川県である。戦後55年を迎え、過去の記憶が薄れゆくなかで、なおさら知られていないのは、戦時中、県護国神社の建設が進められたものの、竣功を待たずに、空襲で焼失したことである。

 知られざる歴史を振り返るとともに、慰霊堂建設と追悼式の実際に迫る。


まぼろしの神奈川県護国神社
竣功を前に横浜大空襲で焼失

 神奈川県護国神社はこれまで学術的研究対象となることさえない、忘れられた存在だった。そこに、最初に光を当てたのは、神奈川県立釜利谷高校教諭の坂井久能氏である。

「神道研究」175および176号(平成11年4、7月発行)に、「神奈川県護国神社の創建と戦没者慰霊堂」と題する画期的な研究論文を発表している。

 坂井氏は論文のなかで、神奈川県にはなぜ招魂社または護国神社が創建されなかったのか、とまず問いかけ、3つの理由を挙げている。

 すなわち、

1、明治維新期に、小田原藩とその支藩である山中藩で国事殉難者を出しているが、小田原藩が一時、新政府に反抗したことが影響して、建設に到らなかった

2、招魂社は師団や連隊との関係が深く、その衛戌地に建てられることが多かったが、神奈川では連隊および連隊区司令部は甲府にあった

3、東京の靖国神社に地理的に近い

 ──の3点である。

 ところが、昭和14年、転機が訪れる。招魂社制度が改正され、1府県1社の護国神社創立が許可されたのである。さっそく小田原や、日本最大の軍港を擁し、陸軍重砲兵連隊の衛戌地である、県最大の軍都・横須賀その他が誘致に乗り出した。

 だが、県は横浜を建設地に内定していた。神奈川県会が護国神社造営を承認したのは、昭和14年11月で、ときの県知事は、のちに神祇院総裁となる飯沼一省である。

 境内地の候補は市内12カ所にのぼったが、結局、15年10月、神奈川区三ツ沢町に決定される。

 昭和16年9月に地主や小作人との調印が終わり、2万5千坪の買収が終了する。買収額は11万5351円余。小作人への補償料は1万6198円余。11月には整地作業が始まった。

 造営費は当初50万円と見込まれていたが、当時の新聞報道では、最終的には150万円に達する、と伝えられた。けれども、県は一般から造営費の寄付を特別求めることをしなかった。

 その一方で、整地勤労奉仕や献木運動が県民・市民をあげて展開され、5か月におよぶ整地勤労奉仕にはのべ4万1477人が動員されたという。

 昭和17年7月に神祇院が創立を許可し、同年12月に起工式が鶴岡八幡宮の座田司氏宮司以下15人の神職が奉仕して斎行された。

 工事を請け負ったのは、大阪の山田組である。落札価格は38万5千円という。

 山田組は、嘉永4年創業の社寺専門の建設会社で、ほかに愛媛県招魂社、香川県護国神社、大阪護国神社、岐阜県護国神社、兵庫県神戸護国神社、函館護国神社など多くの護国神社の建設を請け負っている。

 上棟式は18年11月で、やはり座田宮司ほか鶴岡八幡宮の神職が奉仕した。

 神奈川新聞によると、上棟式には近藤県知事ほか行政関係者、軍・警察関係者、工事関係者など多数が参列した。

「白木の香高き社殿作り、聖々とし護国の忠魂を祀るに相応しい幽遠の地に一人森厳さを加えた」

 と記事は伝えている。

 坂井氏によると、戦後、神奈川県神社庁初代庁長や神社本庁調査部長、賀茂別雷神社宮司などを歴任する座田氏が護国神社初代宮司に、鶴見神社の金子勢次社掌が同社社掌に内定していたようだ。

 ところが、資材の調達難などで工事が遅れに遅れ、あげくに竣功を目前にして、20年5月29日の横浜大空襲で、本殿10坪祝詞殿5坪、幣殿9坪、拝殿35坪、社務所100坪ほか護国神社の社殿はことごとく焼失する。

 ただ、『横浜市史』によれば、517機のB29が襲来して、東京大空襲の1・5倍に当たる2571トンの焼夷弾を投下し、7万9千戸が全焼、死者3649人を含む30万人以上が被災し、旧市街地を焼き尽くしたといわれる空襲だが、護国神社炎上の公的記録はなぜかないらしい(『神奈川県神社庁50年史』)。


内山知事が慰霊塔構想を発表
秩父宮妃殿下が慰霊祭御臨席

 坂井氏の論文によれば、戦後、昭和22年6月、県は護国神社の境内地を横浜市に無償で払い下げる。このため同社再建の道は閉ざされてしまう。

 いま護国神社跡地は陸上競技場ほかスポーツ施設が並ぶ三ツ沢公園の一部となり、現代的意匠の横浜市慰霊塔が建っている。その経緯は以下のようなものらしい。

 26年9月に講和条約が締結され、翌年4月に条約が発効すると、公葬の緩和が進み、地方公共団体による慰霊塔建設が全国的に展開されるようになる。

 神奈川県では26年11月に県遺族連合会主催、県市町村後援による「平和条約調印奉告神奈川県戦没者合同慰霊祭」が横浜市鶴見の曹洞宗大本山・総持寺で執行された。

 神奈川新聞にこのときの小さな記事が載っている。橋本厚相ら名士からの花輪が並び、参列した2500余名の遺族は本堂からあふれ、遺族代表の講話奉告祭詞、内山知事らの弔辞、導師渡辺貫首ら僧侶の読経に聞き入ったという。

 その翌年1月、外交官出身で、クリスチャンといわれる内山岩太郎知事は、談話を発表し、慰霊塔を建設し、戦災死者を含めて慰霊するという考えを示した。

 こうして同年5月9日、戦後初の県が主催する戦没者追悼式が横浜の神奈川体育館で挙行された。神奈川新聞によると、佐藤信県遺族会会長や山下大将未亡人久子さんほか遺族2千名、来賓250名が参列した。

 君が代が吹奏され、内山県知事の式辞、県会議長、厚相、衆参両院議長、各市町村代表などの弔辞、佐藤会長の謝辞のあと、御臨席になった秩父宮妃殿下が献花され、51名の各界代表者が続いた。

 ただなぜ「5月9日」なのかは分からない。

 坂井氏によると、その後、慰霊塔建設は慰霊堂に計画が変更される。「横浜市の慰霊塔との競合を避け、塔は宗教色がある……」というのが理由らしい。

 慰霊堂の建設地選定は難航したという。

 9つの候補地があったが、結局、昭和27年7月、真言宗大覚寺派・千手院から無償譲渡の申し出があった横浜市港南区大岡台の境内地約3千坪に決まる。

 現住職の宮本光真氏によれば、先代の光玄住職は「明治生まれらしく意志の強い人だった」。檀家の思わぬ反対もあったが、「命の尊さが分からない者は檀家でなくてもいい」とまで語り、説得したという。

 別名「平和の森」には内山知事の筆による光玄住職の顕彰碑が慎ましげに置かれている。

 慰霊堂は27年12月に着工し、翌年11月に竣功する。建設費用は1591万円余。「神社でも教会でもない」という総檜造り銅板葺き平屋建ての建物が建てられた。

 建坪は51坪余りで、内部には戦没者・戦災死者5万3147柱の合祀者名簿格納棚、県庁に保管されていた無名戦士61柱の遺骨、総持寺や山梨県納骨堂に保管されていた3423柱の遺骨の安置室、遺品や写真などが納められる記念品展示台などが設けられた。

 大岡台の麓に案内板があり、「慰霊堂建立の由来」が記されている。そこには、明治以来、幾多の戦争で戦没した県出身の旧軍人軍属、一般戦災死者、外地死没者など5万7千余柱の御霊が祀られている、とある。


一宗一派に偏らない神奈川方式
追悼奉賛行事は宗教連盟が奉仕

 秩父宮妃殿下の御臨席のもとに、「竣工式並びに昭和28年度秋季慰霊祭」が斎行されたのは、昭和28年11月5日である。

 神奈川新聞によれば、慰霊祭には遺族2700名が参列し、内山知事が祭文を読み上げ、妃殿下が追悼の言葉を述べられた。

 坂井氏によれば、これに先だって、県宗教連盟から県民生部に諸宗合同の奉仕の申し出があった。民生部は「喜んでお受け致し、慰霊祭のより一層の荘厳厳粛を図ると共に、遺族各位に対する感銘を新たにしたいと存じます」と奉仕を依頼し、これ以降、諸宗教合同による祭儀が斎行されるようになったという。

 官民が一体となり、しかも一宗一派によらない神道・仏教・キリスト教合同の慰霊祭が執行されるのは、全国的には異例で、「神奈川方式」と呼ばれている。

 慰霊祭は5月と11月の年2回、開催されてきたが、昭和35年からは「参列する遺族代表が一巡した」との理由で、年1回、5月だけの開催となった。しかしその一方で、毎月5日の月例祭が慰霊堂奉賛会(昭和29年設立。歴代県知事が会長)の主催、県宗教連盟の奉仕で執行されるようになる。

 ほかに、終戦記念日には県遺族会主催の戦没者追悼式が行われる。春の観桜慰霊祭には神輿も繰り出して賑やかだ。

 大きく変化したのは49年で、慰霊堂奉賛会が主催する宗教的祭儀の「奉賛行事」と県主催の非宗教的行事「慰霊祭」とが切り離された。

 國學院大學の大原康男教授は「46年の津地鎮祭訴訟・名古屋高裁違憲判決が影響している」と推理するが、県福祉部生活援護課の担当者は「政教分離裁判が関係していると思われるが、経緯を説明した資料はない」と語る。

 政教分離裁判との関係は必ずしも明確ではないが、箕面市忠魂碑・慰霊祭訴訟で大阪地裁が「違憲」と判断したのは昭和57年3月で、この年から神奈川県主催の「慰霊祭」は「神奈川県戦没者追悼式」と改称されている。

 今年の追悼奉賛行事は9時50分に始まった。

 堂内には所狭しと御饌が供され、供花が飾られている。京都嵯峨大覚寺華道総裁(名代で千手院住職)が献花、戦没者慰霊堂茶道奉賛会が献茶の儀を供し、千手院幼稚園児100名が賛仏歌を歌ったあと、県宗教連盟による祭儀に移った。

 雅楽を奏する天理教の伶人が先導して、神職・僧侶・牧師が入場し、修祓、祝詞奏上(以上が県神社庁)、玉串奉奠(天理教教務支庁)、讃美歌と聖書朗読(県キリスト教連合会)、読経(県仏教会)が行われた。

 神社庁からは濱田進庁長ほか10名が奉仕している。県知事の参列はない。

 続く11時からの追悼式では、国歌斉唱、岡崎県知事の式辞、黙祷のあと、県会議長らが追悼の言葉を述べ、県知事ほかが献花、最後に25名の遺族援護功労者が表彰された。

 今年で55回目を迎えた追悼式の評価は簡単ではない。

 かつて祭典を奉仕したある長老は語る。

「知事は御霊に対してではなく、遺族に向かって話をする。それで、どっちを向いているのか、と県の担当者に問いかけたことがある。遺族はもちろん大事だが、本来あるべき慰霊とはどういうものなのか、を考えさせられた。ただ、続けることには意義がある」

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