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官民協力で長崎・江袋教会復元へ [政教分離]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月14日水曜日)からの転載です

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官民協力で長崎・江袋教会復元へ
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 西日本新聞の報道によると、火災で焼失した長崎・五島の江袋カトリック教会が再建され、明治の創建時の姿が復元されるそうです。長崎大司教区が決定し、復元の支援に市民団体や町の教育委員会が協力すると伝えられます。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/minami/20070314/20070314_001.shtml

 たいへん結構なことで、応援したいと思いますが、教会がこれまで公機関(国家)と宗教団体との関係について公に主張してきた絶対分離主義の立場と矛盾しないのでしょうか。

 たとえば先月、司教団は「信教の自由と政教分離に関するメッセージ」を発表していますが、この中には

「教会と国家は互いに独立し、自律しており、教会は国家に拘束されてはならない」

 とあります。このメッセージに先駆ける小冊子シリーズ「信教の自由と政教分離」には、長崎大司教の序文があり、

「政教分離とは、国家ないし政治権力は特定の宗教団体を優遇したり、他方、宗教団体は国家と癒着したりしないということです」

 と説明しています。

 教会の指導者たちは、このような論理で、天皇制を批判し、いわゆる国家神道批判を展開し、返す刀で現在進行中の憲法改正の動きを牽制しています。

 教会と国家の「独立・自律」をいうのなら、公的支援を断固、拒否するのが筋でしょう。それとも、今回の大司教区の決定は、天皇制批判や異教批判、憲法改正反対に用いられてきた論理が、あくまで他者への批判の論理であって、キリスト教自身を拘束するものではない、ということでしょうか。

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国葬を行う非宗教的政教分離の国フランス [政教分離]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年1月24日水曜日)からの転載です

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国葬を行う非宗教的政教分離の国フランス
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 フランスのシラク大統領は、先日、亡くなった慈善運動家・ピエール神父の国葬をパリのノートルダム大聖堂で行うことを発表した、と伝えられます。

 フランスは大革命以来、「聖」と「俗」を厳格に区別し、公共の場からすべての宗教を排除し、私的空間では信仰の自由を保障する非宗教的世俗国家を築き上げてきましたが、そのフランスが宗教家の葬儀を国葬という形式で、しかも教会という宗教施設で行うというのです。

 さすがは「カトリックの長女」といわれるフランスです。王権を打倒し、カトリックを国教から引きずり下ろしたはずのフランスであっても、自国の宗教伝統をいかに大切にしているかが分かります。

 ひるがえって、日本はどうでしょうか。

 日本は現憲法下にあってもフランスのような非宗教的世俗国家を目指しているわけではありません。たとえば、占領中の宗教政策を担当したGHQ職員のウッダードは、政教分離について、宗教教団と国家の分離を意味する、宗教と国家の分離というような非宗教主義に終わる可能性のある政策を支持しない、アメリカでは明らかに宗教と国家の間に密接な関係がある、とのちにある論攷に書いています。

 日本はこのアメリカ型の政教分離主義を採用してきたはずです。

 であればこそ、占領後期、貞明皇后の御大喪はおおむね皇室の伝統にしたがって行われたし、有名なカトリック信徒であった永井隆博士の葬儀は長崎市葬というかたちで浦上天主堂で行われました。

 ところが近年は、国家の宗教との完全分離主義を、ほかならぬ宗教家自身が主張しているようです。

 たとえば昨年、日本カトリック司教協議会、社会司教委員会は信教の自由と政教分離をテーマとする3冊の冊子をまとめました。この発行に当たって、社会司教委員会の代表である長崎教区の大司教は、政教分離とは国家と宗教団体との分離だとした上で、概要、次のような前書きを書いています。

 ──日本のカトリック教会は数世紀にわたって弾圧を受け、その状況は1945年まで続いた。憲法の政教分離原則は天皇中心の国家体制が宗教を利用して戦争に邁進したという過去の歴史の反省を踏まえたものである。ところが、昨今の憲法改正論議では政教分離原則があいまいにされようとしている。過去の歴史を繰り返さないためにいっしょに学びたい。

 ここには重大な事実誤認が見られます。近世と近代、戦中ではそれぞれキリスト教が置かれた状況は異なるはずです。

 近世のキリシタン迫害はなぜ起きたのか。大航海時代の世界宣教には、ポルトガルとスペインによる武力征服の隠れた目的があり、正視に耐えないキリシタン迫害の背後には南蛮貿易を独占しようとしたプロテスタント国オランダのポルトガル追い落とし工作がありました。

 島原の乱ではオランダはキリシタンが立てこもる原城に大砲を放ち、幕府がポルトガル船の渡航を禁止したとき、バタビアのオランダ総督府では盛大な祝賀会が催されたといわれます。

 近代日本の宗教政策は、国家は宗教に干渉せず、が基本で、宗教に関する基本法さえありませんでした。明治以降、キリスト教の弾圧どころか、日本がヨーロッパのキリスト教文化を積極的に受け入れた典型例は皇室に見ることができます。

 たとえば天皇皇后と併称されるのは明らかにヨーロッパ王室の影響でしょう。ひな祭りの男びな・女びな、つまり親王びなは明治以後、左右の位置が変わりました。喪服も以前は白でしたが、西洋の影響で黒に変わりました。黒の喪服を浸透させたのは、驚くなかれ、靖国神社招魂祭の参列だといわれます。

 昭和期の神社参拝強制の典型例としてしばしば持ち出される昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件でさえ、上智大学の年史に記録されている当時の関係者の証言では「迫害」とは似ても似つかぬものであったことが分かります。
 
 となると、大司教様の歴史認識はまったくの誤りということになってしまいます。

 昨今の憲法論議に関連して、大司教様は、「社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超える」場合の国の宗教教育その他宗教的活動を禁止する、と改める自民党の憲法改正案を批判し、儀礼や習俗の範囲でなら国が宗教に不当介入する可能性を危惧しています。

 しかし、これには教会の足下から異論が呈されています。先般の教育基本法改正に関して、ある信徒は、宗教教育の導入に関心を示さないのは宗教家として恥ずべきことではないか、公教育での宗教教育がタブー視され、結果的に宗教音痴の日本人を大量に創り出してしまったことにキリスト者は責任を感じるべきだ、という異議申し立ての文書を提出しているほどです。

 もし大司教様が、社会的儀礼や習俗的行為としての国の宗教的活動をも禁止すべきだ、とお考えなら、それは政教分離原則を国家と宗教団体との分離ではなく、政治と宗教とを分離することと解釈することであって、大司教様がおっしゃっている議論の前提と矛盾するでしょうし、非宗教的世俗国家を目指すことを憲法に明記しながらも、ピエール神父の国葬をカトリックの教会で行うフランス以上に、無神論的政教分離主義を標榜することになり、大司教様ご自身の信仰とも矛盾するのではないでしょうか。

 いま問われているのは、国家の宗教政策ではなくて、宗教家自身の宗教心なのではないか、とさえ感じられます。

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来日する中国首脳はどこに表敬するのか [政教分離]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年1月11日木曜日)からの転載です

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 靖国参拝について「行くとも、行ったともいわない」という「あいまい戦術」をとる安倍首相が、この正月、伊勢神宮と明治神宮を表敬しました。興味深いことに、靖国神社については「政教分離違反」「違憲」と声を張り上げる人たちがまったく沈黙しています。何が違うのでしょうか。

 たとえば、一昨年の秋、大阪高裁は、小泉首相の靖国神社参拝について、宗教法人である靖国神社に首相が参拝することは宗教的行為であり、靖国神社を特別に支援しているといわざるを得ないなどとして、高裁としては初めての違憲判断を下しました。

 この法理に基づくなら、伊勢神宮であれ、明治神宮であれ、あるいは西本願寺であれ、東本願寺であれ、東京カテドラルであれ、首相の参拝・参詣は宗教的行為であり、違憲ということになりますが、そのような批判は出てきません。

 靖国問題にきびしい姿勢をとる日本のカトリック教会は、ブッシュ大統領が平成14年に明治神宮を表敬したときは「信教の自由・政教分離違反」だとして「参拝中止」を「カトリック正義と平和協議会」の名で申し入れましたが、今回の明治神宮参拝について抗議の声は聞かれません。教会はもとより、平成17年11月のブッシュ大統領の金閣寺参詣についてはまったく沈黙しています。

 蛇足ですが、ローマ教皇は、先日、トルコのブルー・モスクを表敬し、祈りを捧げています。

 教会が憲法が定める政教分離問題を真剣に厳格に考えているとするなら、同じ平成17年春に東京カテドラルで行われたヨハネ・パウロ2世の追悼ミサに日本政府の要人が参列し、献花することを断るべきでしょうが、辞退したという話は聞きません。

 つまり、批判者たちの矛先は日本の神社、とりわけ靖国神社にむけられている、ということになります。ブッシュ大統領の明治神宮表敬への抗議文は、直接的には無関係のはずの小泉首相の靖国参拝に言及しています。

 憲法の政教分離原則を盾にして、もっぱら集中的に靖国批判を執拗につづけているということです。なぜなのでしょうか。

 ある新聞は、批判者たちを代弁するように、大阪高裁判決のあと、政教分離は、国家神道に国教的な地位を与えた戦前の反省に基づいている。国家神道への信仰が強制され、国民の信教の自由が侵されたからだ。国家神道の中核的な存在だった靖国神社だからこそ、政教分離はいっそう厳格さが求められる、と社説に書いています。

 しかし、このブログで何度も指摘してきたように、国家神道に国教的な地位が与えられた、というような歴史はないはずです。

 昭和14年にようやく制定された宗教団体法は神道・仏教・キリスト教の三教体制でした。それ以前は「国家は宗教には干渉せず」が政府の姿勢でした。厳格な国家神道への信仰が強制された事例として、カトリック教会などが決まって取り上げる昭和7年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件も「迫害」「強制」とはほど遠いものであったことは、当事者の証言によって明らかです。

 同じ宗教法人だと考えるなら、あれはいいが、これはダメと恣意的に色分けするのは法の下の平等に反しますし、憲法が禁止しているのは「国の宗教的活動」であって、「宗教的行為」ではありません。

 クリスチャンだった大平首相は靖国神社に昇殿参拝しています。関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼んで東京都慰霊堂で春と秋に行われる仏式の法要には皇族や都知事らが参列し、焼香します。カーター大統領はかつて明治神宮に表敬参拝し、そのあと宮中で明治天皇の御歌を引用して名スピーチをしています。これらは宗教的行為ではあっても、宗教的活動ではないでしょう。

 安倍首相は首相就任後、最初の訪問で韓国・ソウルの国立墓地・顕忠院を表敬し、ベトナムで開かれたAPECに出席した折にはホーチミン廟を参詣していますが、日本の要人が国内および国外で国家的な記念施設や代表的な宗教施設を表敬することは社会的儀礼であって、それをも禁ずるほど日本国憲法が宗教的に不寛容ではないはずです。

 むしろ政治指導者たちは、神社であれ、寺院であれ、教会であれ、ときに宗教施設を訪れ、宗教的雰囲気に触れ、宗教家の声に耳を傾け、聖なるものへの畏敬の念を呼び覚ますことが必要ではないのでしょうか。そう訴えることこそが宗教者の務めであって、宗教施設に足を向けるな、などと要求する宗教者がいったいどこにいるでしょう。

 さて、この春、中国の温家宝首相、胡錦涛国家主席が相次いで来日すると伝えられます。

 日本の歴代首相は北京の人民英雄記念碑にたびたび献花しています。天安門事件後、西側先進諸国が「弾圧のシンボル」として献花を避けていたときも、日本の首相は他国に先駆けて献花しています。「国際儀礼上の表敬」というのが日本政府の説明でしたが、「国際儀礼」ならその返礼を中国政府はどのように表現されるのでしょうか。
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豚肉スープは差別か否か [政教分離]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年1月6日土曜日)からの転載です

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豚肉スープは差別か否か
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 ロイター通信によると、フランスの行政裁判所は2日、極右組織がホームレスの人たちに豚肉スープを配給することを認め、豚肉スープの配給は人種差別だとする警察の主張を退けました。
http://today.reuters.co.uk/news/articlenews.aspx?type=oddlyEnoughNews&storyID=2007-01-02T201146Z_01_L02264396_RTRIDST_0_OUKOE-UK-FRANCE-SOUP-PORK.XML
 
 豚肉スープを配給していた団体にいわせると、豚肉スープはフランス伝統の味ですが、宗教的理由から豚肉を口にしないユダヤ教徒やイスラム教徒にすれば差別に当たる、として、警察は先月、無料食堂の運営を禁止したのでした。

 これに対して裁判所は、豚肉スープの配給は「差別的」だが、宗教に関わりなく配給しているのだから、警察は配給を禁止することはできない、と判断を下したのです。

 しかし、フランス内務省はこの判決に抗議し、控訴を予定している、と4日、ロイター通信はふたたび伝えました。
http://today.reuters.co.uk/news/articlenews.aspx?storyid=2007-01-04T195719Z_01_L04234322_RTRIDST_0_OUKOE-UK-FRANCE-SOUP-PORK.XML&type=oddlyEnoughNews

 内務省は何が不服なのでしょうか。

 ロイターの記事は「人種差別」をキーワードにしていますが、人種問題にとどまらない、もっと深い意味がありそうです。

 フランスは大革命によって非宗教的で平等な国民国家を築いてきたはずですが、今日ではイスラム系移民の激増によって社会の均一性は崩れ、世俗国家の前提である非宗教的政教分離(ライシテ)が揺らいでいます。その現れの1つがこの事件といえます。

 フランスに生まれた者なら、出身や人種、宗教などにかかわらず、すべてフランス人として受け入れる。しかしそのためには徹底した同化政策がとられ、民族や宗教という属性を捨てることを国民に要求する。そうした従来の厳格な同化主義に立てば、裁判所の判断はまったく正しいことになるでしょう。

 けれども、「自由・平等・博愛」を国是とし、積極的に移民を受け入れてきたがゆえに、国民的な均一性を失い、多元的なモザイク社会と化した今日のフランスは、宗教的な少数者の権利に配慮せざるを得なくなっています。たとえば、一昨年秋に移民社会の不満などが火を噴き、暴動が全土に吹き荒れた折も折、サルコジ内相は政教分離法を見直し、イスラム教のモスク建設に国家が支援できるようにすることを提案したほどです。

 大革命以来、保ち続けてきた非宗教的世俗国家の原理を、フランスは今後もかかげ続けることができるのでしょうか。事件の成り行きが注目されます。
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ムスリム議員のコーラン宣誓を伝えた赤旗 [政教分離]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年1月5日金曜日)からの転載です


 アメリカ議会史上、最初のイスラム教徒議員となったキース・エリソン下院議員(民主党)がきのう、連邦議会の就任式でコーランに手を置いて宣誓しました。その予告記事を共産党の機関紙・赤旗が伝えています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2007-01-05/2007010506_01_0.html

 記事によれば、コーランを使って宣誓する意向を事前に示していたエリソン議員に対して、

「厳格な移民政策をとらなければイスラム教徒が増える。伝統的な価値観や信念を守るために必要だ」

 とする反発もありましたが、エリソン議員は

「多様性こそがアメリカの強さだ」

 と切り返したようです。

 記事はさらに、ワシントン・ポスト紙を引用し、エリソン議員が

「信教の自由という建国の父の信念だけでなく、憲法そのものも尊重している」

 とコメントしたと書いています。エリソン議員は、建国の父であり、合衆国憲法の起草者であるジェファーソンが所有していたコーランを使って宣誓したのでした。

 赤旗の記事は、厳格な政教分離分離主義の本家本元と一般には考えられているアメリカが実際には、非宗教主義に走るような絶対分離主義をけっして採用してはいないことを伝えています。 

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大聖堂で行われるフォード元大統領の葬儀 [政教分離]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成18年12月31日日曜日)からの転載です

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大聖堂で行われるフォード元大統領の葬儀
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 先日亡くなったフォード元大統領の遺体がワシントンに運ばれ、アメリカ議会の議事堂に安置されました。追悼のミサは年明け2日にワシントン・ナショナル・カテドラルで行われる、と伝えられています。

「政教分離」原則の本家本元といわれ、国家と教会の厳格な分離政策が貫かれていると一般には考えられているアメリカですが、国家的行事はこのようにきわめて宗教的に行われています。

 2年前のレーガン元大統領の国葬もやはりワシントン、ナショナル・カテドラルで行われ、歴代大統領や政府関係者、日本の中曽根元首相をふくむ内外の代表者、キリスト教のほかイスラム、ユダヤ教の指導者などが参列しました。

 同カテドラルはイギリス国王を首長とするイギリス国教会の大聖堂ですが、「全国民のための教会」と位置づけられ、しばしばホワイトハウスの依頼で大統領就任式や9.11同時テロ追悼式などの国家的儀礼が行われています。

 ひるがえって日本はどうでしょうか。

 アメリカでは元首たる大統領の国葬が教会でミサとして行われるのに対して、日本の公的慰霊式は往々にして宗教家や宗教儀礼が排除されています。アメリカでは自国の宗教伝統を尊重した上で宗教政策が推進されているのに対して、日本ではまるで無神論者のように、とりわけ民族宗教たる神道にとってはきびしい宗教否定政策が追求されているようです。

 日本のキリスト教指導者たちは厳格な政教分離主義の立場に立ち、首相の靖国参拝などに猛反対しています。キリスト者たちは、現憲法が定める政教分離主義は戦前の反省から生まれた、と理解し、政教分離違反は暗黒の時代への逆戻りだと主張します。

 しかしこの歴史理解はまったくの間違いです。戦前の方が公正な政教分離政策がとられていたからです。

 たとえば大正12年の関東大震災のあと、東京府・市は追悼式を行うのですが、宗教者も宗教儀礼も排除されました。「国家が宗教に干渉するのは世界の大勢にもとる」というのが行政の基本姿勢で、神道も仏教も一律に排除したのです。そのため反宗教的な行政とこれに反発する軋轢が表面化し、事件さえ起きています。

 そもそも宗教に関する基本法規さえありませんでした。新宗教法の制定は以前からの懸案であったにもかかわらず、手付かずのまま放置され、明治初年の太政官達(たっし)を援用して、弥縫策を講じるというありさまだったのです。

 日本宗教史上、節目となる宗教団体法がやっと成立したのは昭和14年のことでした。この法律は治安維持法とともに、戦前・戦中の宗教弾圧を象徴する元凶のように見なされ、敗戦直後、占領軍によって廃止されましたが、その審議過程ではイスラム公認運動がわき上がり、神道・仏教・キリスト教の三教体制に加えて、きわめて少数派であるはずのイスラム教が事実上、公認されてもいます。

 敗戦後、占領軍は神道指令を発し、宗教と国家の分離を図りましたが、これこそが政教分離主義のスタートであるかのように考えるのは間違いです。

 また、占領後期になると占領軍は神道指令の条文解釈を変更しました。当時、占領軍の宗教政策に直接関わっていたウッダードはのちにこう書いています。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在(占領後期)は『宗教教団』と国家との分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和20年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない。
 ……アメリカの世論は非宗教主義に終わる可能性のある政策を支持しないだろう。アメリカでは明らかに宗教と国家との間に密接な関係がある」

 宗教と国家の分離ではなく、宗教教団と国家との分離に解釈が変更され、宗教否定の政策との決別が行われたのです。

 であればこそ、昭和26年5月、みずから被曝しながらも医師として最後まで被爆者の救援に当たったカトリック信徒・永井隆博士の葬儀は、長崎市葬として浦上天主堂で営まれました。ミサに次いでローマ教皇、吉田首相などの弔電が読み上げられ、正午にはアンゼラスの鐘をはじめとして、市内にはサイレンや寺院の鐘までがいっせいに鳴り響き、市民は黙祷を捧げたのです(同年5月15日づけ朝日新聞)。

 けれども、戦前のような無宗教主義と決別したはずの日本の宗教政策は今日、きわめていびつです。 

 終戦記念日の戦没者追悼式はあくまで無宗教です。しかし、東京都慰霊堂では仏式の法要が春と秋に行われ、皇族や都知事が参列し、焼香します。神戸では阪神大震災10周年の追悼式でモーツアルトの「アベ・ベルム・コルプス」が歌われました。政教分離といいながら、仏教やキリスト教は認められているのです。

 その一方で、首相が靖国神社に参拝することや公有地内に神社の祠がおかれているのは憲法違反だと騒ぎ立てられています。これは厳格な政教分離主義が貫かれているのではなく、むしろ国の宗教政策に一貫性がない、ということなのではありませんか。

 さて、今年のブログはこれで終わりです。どうぞ良いお年を。
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撤去されたクリスマス・ツリー [政教分離]


以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成18年12月13日水曜日)からの転載です

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撤去されたクリスマス・ツリー
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 この時季、夜の街を華やかに彩るクリスマス・イルミネーションが各地で話題になっています。そんなとき、アメリカから興味深いニュースが伝えられました。シアトル近郊の国際空港に飾られていたクリスマス・ツリーが撤去されたというのです。

 ユダヤ教の指導者が、「ユダヤ教の燭台(メノーラー)も設置せよ。そうでなければ法的手段に訴える」と主張したのでした。ユダヤ教の燭台を設置すれば、それ以外の宗教シンボルの設置をもとめる声が上がる可能性がある。というわけで、当局は撤去を決めたのです。

 ところが、この話題には第2幕があって、これがまた面白い。当局は撤去の2日後、ツリーの再設置を発表したのです。「撤去」がマスコミに大きく報じられると、「復活」をもとめるメールが空港に殺到したといいます。「撤去」を要求していたわけではない、くだんのユダヤ教指導者も「提訴しない」と譲歩を表明し、これを受けて空港側が再設置を決めたのでした。

 アメリカでは、公共の場にキリスト教のシンボルであるツリーを飾ることが「政教分離」に反するのではないか、という議論が以前からあるようですが、それでは日本ではどうでしょうか。

 たとえば、さいたま新都心の「けやきひろば」では、イルミネーション「ANGEL WINK」が来年2月まで実施され、クリスマス前後には「サンタ・サンタ・サンタ」などのイベントが実施されます。国営昭和記念公園では3500個のシャンパングラスを積み上げたオリジナル・ツリーが今年もクリスマス当日まで来園者を魅了することになっています。

 問題はこれが憲法が定める「政教分離」原則に抵触するのかどうかです。

 政教分離問題にくわしい研究者はこう語ります。

「クリスマスのような宗教的行事は観光政策上は認められていい。公機関と宗教との関わりは一定の範囲で肝要に認められるべきだ。違法か合法かの法的判断は、宗教性の濃淡、支出される公金の額によって、個別的に判断されるべきである」

「政教分離」問題に厳しい態度を示してきたのはキリスト者たちですが、キリスト者はどう見ているのか、といえば、じつに歯切れが悪いのです。

 あるプロテスタントの牧師はこう語っています。

「キリスト者が問題にしてきたのは靖国神社や護国神社と国家との関わりである。クリスマス・イベントなどキリスト教と国家との関わりについては議論したことがない」

 これではまるで、憲法の政教分離原則は神社・神道を規制するためだけにある、ということになってしまいます。「敵を愛しなさい」とはキリストの言葉ですが、日本のキリスト教指導者は他宗教の批判にばかり血道を上げているということでしょうか。 

 それにしても、なぜこんなにもクリスマス・イルミネーションが当世、流行るのでしょうか。その答えはクリスマスとは何か、という問いに答えることでもあるでしょう。

 ヨーロッパのクリスマスは古代の冬至の祭りに由来するといわれます。初期キリスト教団がキリストの生誕を祝うことはありませんでした。

 12月25日がキリストの誕生日であるなどとは聖書には書かれていません。この日はローマの古い暦では冬至であり、ローマ帝国で信仰されていた太陽神ミトラの誕生を祝う日でした。ミトラの祭日をキリスト誕生の祭日と定め直したのが今日のクリスマスといわれます。

 やがてキリスト教がローマの国教となり、キリストは「世の光」「義の太陽」と宣言されるようになったのです。クリスマスが光の演出によって祝われるのにはそのような背景があります。

 日照時間が最短となる冬至は、太陽が生まれ変わる日であり、年が改まる節目である、という考えは日本人の自然観と共通します。実際、火と光をモチーフにした冬至の祭りが各地の神社などに数多く伝えられています。

 各地で行われているクリスマス・イベントに日本人が心を騒がせるのは、精神の深層レベルでは冬至の祭りとして意識されているからではないでしょうか。
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ブッシュ大統領、ハノイの教会でミサに参列 [政教分離]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成18年11月20日月曜日)からの転載です

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ブッシュ大統領、ハノイの教会でミサに参列
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 アメリカ政府は先週の13日、「宗教弾圧がとくに懸念される国」のリストからベトナムをはずすと発表しましたが、そのベトナムで開催されるアジア太平洋経済協力会議(APEC)に出席したブッシュ大統領はきのうの日曜日、ローラ夫人とともにハノイ市内の教会のミサに参列したあと、

「世界中のすべての人々が宗教の自由を享受できるようになることが私の希望だ」

 と記者団に語ったと伝えられます。「自由の宣教師」ブッシュの面目躍如といったところでしょうか。

 このニュースは、いわゆる靖国問題や政教分離問題を考えるうえで、ふたつの点で注目されます。

 ひとつは、厳格な「政教分離」主義の本家本元と考えられているアメリカでは、日本のような非宗教主義にも走りがちな無宗教的宗教政策はとられていないこと。

 ふたつは、国家の代表が特定の宗教施設を表敬することは政教分離原則に違反する、とする日本の一部の宗教指導者たちの主張は論理的に破綻していること、です。

 まず第1点ですが、日本ではアメリカこそ厳格な「政教分離」主義の元祖のように考えられていますが、そのアメリカでは、国家的行事がむしろアメリカの宗教伝統に従って粛々と行われています。

 たとえば、大統領の就任式です。昨年1月、ブッシュ大統領の2期目の就任式では、式に先立って、大統領は家族とともに「大統領の教会」聖ヨハネ教会の礼拝に参列しました。参列は就任最初の公式行事とされ、父・ブッシュ元大統領や政府高官も出席しました。

 特設会場での就任式では、牧師が

「神が大統領らに聖霊のシャワーを与え賜わんことを」

 と祈り、大統領は聖書に左手をおき、右手を挙げながら、

「私は大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして憲法を維持、保護、擁護することを誓う。神よ、我を守りたまえ」

 と誓いました。式のあと、議事堂内での昼食会は上下両院専属の牧師による祈りに始まり、祈りで終わりました。

 翌日は「全国民の教会」ワシントン・ナショナル・カテドラルで礼拝が行われ、政府関係者が参列し、牧師が

「われわれは神がその本分において2期目の政権を与えたもうたと信ずる。混乱のただなかにあっては清らかで温かな心を、落胆のときには勇気を与え、そしてつねに神の存在を大統領にお示しください」

 と祈ったと伝えられます。

 就任式だけではありません。ホワイトハウスでは、キリスト教最大の祝祭である復活祭の伝統行事「イースター・エッグ・ロール」が、数万人の子どもたちを全国から集めて賑やかに行われます。大統領は聖書の言葉を引用しながら、国民に向けてメッセージを送ります。アメリカ国民にとって復活祭はキリスト教信仰に基づいた自国の建国を確認する特別の日でもあるのです。

「国家と教会の分離」政策が厳守されていると一般には考えられているアメリカでは、むしろ自国の宗教伝統に従って国家の行事が行われています。

 第2点。たとえば、日本のカトリック教会は、平成14年のブッシュ大統領の来日では、大統領の明治神宮表敬参拝に強硬に反対し、「参拝中止」を文書で申し入れました。

「信教の自由・政教分離原則に違反する」「宗教を外交の、外交を宗教の手段として利用することは許されない」

 と訴えたのです。

 しかし教会は、昨年11月の大統領来日では沈黙しました。ブッシュ大統領は京都での日米首脳会談に先立って、夫人とともに金閣寺を参詣しました。小泉首相(当時)や住職の案内を受けて、境内を散策し、金閣の本尊の前では首相から拝礼の作法を伝授され、合掌したと伝えられます。

 明治神宮参拝反対の論理に立つなら、寺院参詣も「憲法違反」になるはずで、「中止」を申し入れるべきですが、教会指導者たちは何ら抗議行動を起こすことはありませんでした。論理が首尾一貫していないということになります。

 そして、今回のハノイでのミサの参列です。首相の靖国神社参拝に対して、

「イエス・キリストの復活信仰を否定されたと感じ、悲しみ、憤りの感情をいだいた」

 として訴訟を繰り返しているキリスト者たちは、大統領の行動をどう見るのでしょうか。

「宗教を外交の、外交を宗教の手段として利用することは許されない」

 と明治神宮参拝に反対した教会指導者は「ミサ参列中止」をホワイトハウスに申し入れたのでしょうか。
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官邸で開かれた断食明けの食事会 [政教分離]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です

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 昨晩、首相官邸で、イスラム教の断食明けの食事会(イフタール)が開かれました。安倍首相の招きで、40カ国を超えるイスラム諸国の駐日大使が集まり、麻生外相や小池首相補佐官などが出席した、と伝えられます。

 イスラム教世界では聖典『コーラン』に基づいて、ラマダン月(イスラム暦の9月)の1カ月間、日の出前の礼拝の時間から日没まで、断食することが宗教的に義務づけられています。イスラム教の教えでは、断食によって人々は罪から解放され、浄化されると考えられているのです。日没後にとる断食明けの食事をイフタールといい、ふつうはナツメヤシを口にし、水分を補給します。今年はおおむね9月23日からラマダンが始まりました。

 3年前にはアラブ通として知られる小池環境相(当時)の主催で開かれ、昨年はイスラム文化への理解を深めることなどを目的に、小泉首相(当時)が主催しました。

 小泉首相の靖国神社参拝について「違憲」の疑いをもつ人が少なからずいます。たとえば、靖国訴訟のある判決は「国が靖国神社を支援しているという印象を与え、特定宗教を助長している」と述べています。また、ある全国紙は「政教分離は、国家神道に国教的な地位を与えた戦前の反省に基づいている。国家神道への信仰が強制され、国民の信教の自由が侵されたからだ」と社説に書いています。

 この憲法解釈に立つなら、首相官邸で開かれるイフタールは「イスラム教を支援し、助長している」ことになるのでしょうか。

 日本の憲法は宗教的な無色中立性を国に要求している、という誤解が多分にあるのでしょう。昭和20年暮れの神道指令と現行憲法の政教分離規定とを同一視する識者さえいます。たしかに神道指令には「国家と宗教の分離」を目的とすることが明記されていましたが、すでに占領後期にはGHQ自身が「国家と宗教の分離」ではなく「国家と宗教教団との分離」という解釈に変更しています(GHQ職員ウッダードの論攷)。昭和26年の貞明皇后の御大喪の例が示すように、GHQでさえ、もはや厳格な政教分離政策をとらなくなっていたのです。

 政教分離(国家と教会の分離)の本家本元とされるアメリカでは、完全分離主義は支持されず、明らかに国家と宗教の間に密接な関係があります。

 アメリカのホワイトハウスでは毎年、大統領が主催するイフタールが開かれ、大統領はイスラム指導者を前にしてイスラム教の精神を語り、「ラマダン、おめでとう。神の御加護がありますように」と演説するようです。

 ピルグリム・ファーザーズ(清教徒)がキリスト教理念に基づいて建国したという歴史を持つアメリカだけに、ホワイトハウスでは復活祭やクリスマスの行事も開かれます。大統領の就任時には「全国民の教会」ワシントン・ナショナル・カテドラルでミサが捧げられます。

 ところが日本では、首相の靖国神社参拝さえ批判されます。人間が宗教的存在である以上、人間が作り上げた国家が宗教的に無色中立ではあり得ないし、あえて絶対的中立を貫こうとすれば、逆に宗教伝統を排除し、ひいては信教の自由を否定する非宗教主義を国家自身が導くという矛盾をおかすことになりませんか。

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黙祷──死者に捧げる「無宗教」儀礼の一考察 [政教分離]

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黙祷──死者に捧げる「無宗教」儀礼の一考察
(「正論」平成18年2月号)
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 平成17年の秋、小泉首相の5度目の靖国神社参拝に対して、激しい抗議と批判が内外からわき起こりました。
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 日本の一部政治家や官僚、知識人が「首相参拝は憲法が定める政教分離原則に違反する」「戦没者を慰霊・追悼する公的施設は無宗教でなければならない」などと主張しました。

 挙げ句に「戦犯」の「刑死」を「公務死」と認定した政府自身の過去の判断を忘れ、「戦犯分祀が無理なら参拝自粛か新施設建設を」と追悼施設議連を立ち上げたのは、偽善的ともいうべきであって、日本人一般の国民感情からも、世界の常識からもかけ離れているのではないかと思います。

 不慮の死者たちに対して、とりわけ国に一命を捧げた国民に対して礼節を尽くすことは間違いなく文明国の責務であり、国に殉じた戦没者を慰霊・追悼する公的施設を一国の首相が国を代表して表敬するのは当然であって、その祈りが絶対的無宗教であり得るはずもないからです。

 首相参拝が「違憲」だというなら、そのような憲法こそ逆に人倫にもとるのではないでしょうか?

 イギリスを見てください。日本とは対照的なほど、きわめて宗教的に戦没者の公的慰霊が国を挙げて行われています。


▽1 日本とは対照的なイギリスの戦没者追悼

 2005(平成17)年は11月13日の日曜日、午前11時から2分間、イギリスは国中が戦没者に謝意を表する沈黙の祈りに包まれました。

 第1次世界大戦の休戦協定発効が1918(大正7)年11月11日の午前11時だったことから、毎年この日に近い日曜日が「戦没者追悼記念日」(Remembrance Sunday)と定められています。

 そして、ロンドンの官庁街ホワイト・ホールにそびえる記念碑セノタフ(Cenotaph)周辺を会場に、国家元首たるエリザベス2世や政府首脳、数千人の退役軍人、宗教関係者が真っ赤なポピー(ひなげし)の造花を胸に参列し、二度の大戦とフォークランド紛争や湾岸戦争などで落命した戦没者を追悼する式典が開かれます。

 国会議事堂の時計台ビッグ・ベンの鐘の音と騎馬隊の一斉射撃を合図に、「2分間の沈黙」(the two minute silence)が国を挙げて捧げられ、そのあと、女王は碑前に大きな花環を捧げます。

 これに対して日本では、8月15日の終戦記念日に、東京の日本武道館で政府主催の全国戦没者追悼式が行われ、天皇皇后両陛下は正午を期して、国民とともに戦没者に対して「1分間の黙祷」を捧げられ、菊花を手向けられます。

 また、震災記念日の9月1日と東京大空襲のあった3月10日には、東京・横網(よこあみ)の東京都慰霊堂で、皇族の御臨席のもと、震災犠牲者と戦災遭難者を悼む慰霊法要が、都の主催で行われ、関東大震災発生時刻の午前11時58分に「1分間の黙祷」が捧げられます。

 日本とイギリス、いずれも追悼儀礼の中心は、一定の時刻に人々が集まり、あるいはそれぞれの場所で、鐘の音などを合図に、沈黙の祈りを共有する黙祷ですが、両者は決定的に異なります。

 イギリスではキリスト教をベースとする自国の宗教伝統に基づき、さらに最近では他宗教をも取り込んで、多宗教的・多文化的に国家的慰霊・追悼の伝統が一貫して受け継がれているのに対して、日本では後述するように、戦前も戦後も、多神教的・多宗教的伝統が斥けられ、無宗教を前提として公的追悼が行われてきました。

 英国の黙祷は宗教的祈りですが、日本の黙祷は戦前・戦中から無宗教儀礼とされています。日本政府は戦前も戦後も宗教色を嫌い、無宗教儀礼をもっぱらとし、あまつさえ近年は公的追悼施設・式典の異教化が進められています。宗教的無色中立を求めるあまり、無味乾燥な国家宗教の創設に猛進しているのです。

 日本の公的追悼がイギリスと真反対なのは、宗教的価値や日本の歴史と伝統を深く理解しようとしない知識人たちの啓蒙主義的性癖にこそ原因があるのではないでしょうか? 日本の政教分離問題、とりわけ靖国問題がいっこうに解決できない最大の要因もここにあるのでしょう。

 黙祷の歴史を振り返ると、そのことがじつによく分かります。


▽2 大正元年、明治天皇御大喪の「遥拝」

 今日、無宗教的な国民儀礼として認められている黙祷は、大正時代に生まれました。

 もちろん「黙祷」という言葉自体は中国・唐の時代、韓愈(かんゆ)の詩に登場するほど古くからあります。日本では最古の節用集(国語辞書)の1つといわれる、室町中期の「文明本節用集」に載っています。

 けれども、その意味はいずれも「個人が心の中で祈る」というほどのものであり、今日の集団儀礼ではありません。

 近世の庶民がもっとも親しんだとされ、今日、百数十種類確認されている江戸期から明治中期までの節用集には「黙祷」は見あたりません。市井の言葉としては近世から近代にかけて、死語に近かったということでしょうか。

 明治・大正時代の新聞記事にもほとんど登場しません。

 明治7年に創刊された読売新聞の過去の掲載記事をすべて網羅するデータベース「明治の読売新聞」「大正の読売新聞」で検索すると、今日的な意味に近い「黙祷」は大正元年9月8日付の「市民の黙祷と学生」にはじめて現れます。

 尊皇家として知られる阪谷芳郎・東京市長の提唱で、明治天皇の御大喪当日の夜、交通機関が止まり、葬場殿の儀に合わせて、東京市民・学生はそれぞれの持ち場で起立し、葬場殿の方角に向かい、「3分間の稽首遥拝の礼」を捧げることに決まったのです。

『明治天皇紀』は当日の模様を「市民一斉に黙祷し、全国六千万の蒼生また時を推りて遥拝す」と記述しています。

 けれども、これを黙祷儀礼の先駆けと見るのは無理があります。読売新聞はこれ以外の記事はすべて「遥拝」と表現しているからです。

 天皇や神仏を遠くから拝礼する「遥拝」は、『延喜式』に記されているほど古い宗教的な儀礼形式でした。近世・近代の節用集には見あたりませんが、「明治の読売」では131件、「大正の読売」では109件の記事が検索されます。

 明治29年の孝明天皇30年祭や明治45(大正元)年の明治天皇御大喪、大正3年の昭憲皇太后の御大喪などで、各地に神道形式の遥拝所が設けられ、「遥拝」「遥拝式」が行われたことが報道されています。

 今日の「黙祷」によく似た、交通機関を止め、一定の時刻に国民がいっせいに拝礼する国民儀礼としての「遥拝」が行われたのは、明治天皇の御大喪のときが最初でした。


▽3 ジョージ5世が呼びかけた「2分間の沈黙」

 国に一命を捧げた戦没者や不慮の天災・事故などの遭難者を対象とする、国民儀礼としての「黙祷」の歴史は、戦間期のイギリスに始まったようです。

 第1次世界大戦休戦一周年の1919(大正8)年11月11日、国王ジョージ5世の呼びかけで「2分間の沈黙」がはじめて行われました。

「すべての交通機関を止め、完全な静寂の中で、すべての人々は思いを英霊への敬虔な追憶に集中させよ」。

 この年の休戦記念日、大群衆で立錐の余地もないロンドン市長公邸マンション・ハウスでは、感動的な野外ミサが捧げられ、大群衆による讃美歌のあと、花火と時計台の時計が午前11時を知らせると、市長の合図で静かな祈りが捧げられました。

 翌年の休戦記念日はもっと盛大でした。ロンドンの官庁街ホワイト・ホールに石造りの記念碑セノタフが完成したのに加えて、ウエストミンスター寺院に無名戦士の墓が築かれ、パレードと埋葬式が行われたからです。

 葬列がセノタフに到着すると、国王は棺の上に月桂樹の花環を置きました。聖歌隊が讃美歌を歌い、群衆がそれに続き、午前11時、除幕式に合わせて人々は両手を組み合わせ、地上に平伏して、沈黙の祈りを捧げました。

 交通機関が止まり、沈黙の祈りを共有し、そして花環を捧げる、というイギリスに始まったこの国民儀礼は、明治天皇御大喪時の日本の「遥拝」に似ています。

 アングロ・サクソンが侵入する以前のケルトの文化では、1年の節目に死霊が各家を訪問すると信じられ、その信仰は現在のクリスマスやハロウィーンに引き継がれていますが、神霊・祖霊と交流するために忌み籠もり、そのため交通機関が止まる日本古来の精神文化とも通じます。

 死者に花を手向けるのは、ヨーロッパでは19世紀後半、ジャポニスムの時代に日本から伝わったと考えられているようです。

 第1次大戦休戦1周年に始まったイギリスの宗教色あふれる国民的追悼儀礼を、東京朝日新聞など日本のメディアは「沈黙」と直訳、報道しました。

 同様の儀礼が「黙祷」として最初に報道されたのは、「大正の読売」によると、同年12月、警官および志願巡査との衝突による犠牲者を悼む「30秒間の黙祷」がフィリピンのマニラ全市で行われたことを伝える外信記事です。

 大正10年春から7カ月にわたる御外遊の旅に出られた皇太子裕仁親王(昭和天皇)がイギリス御到着後、最初にお務めになった公式行事は、大歓迎の中でのセノタフ並びに無名戦士の墓への表敬で、皇太子は大きな花環を捧げ、深々と拝礼されました。そのあと、それまで静かに見守っていた群衆から大きな拍手がわき上がったと伝えられます。

 皇太子の御拝礼はイギリス人には「黙祷」と映ったのかもしれません。

 同年秋には、アメリカで「2分間の黙祷」(Two-MinuteSilent Prayer)が捧げられました。

 ワシントン軍縮会議開会の前日に当たる11月11日、アーリントン墓地で無名戦士の埋葬式があり、正午を期して、ハーディング大統領の要請による黙祷が全米で捧げられました。

 その呼びかけは、「神の慈悲と我らが最愛の国への神の祝福を請い願う」という、イギリスにも増して宗教色の強いものでした。

 同じ日、ジュネーブで開催された国際労働機関の総会でも沈黙の祈りが行われた、と伝えられています。

 7つの海を支配する大英帝国に始まった黙祷は、世界大戦後、大国にのし上がったアメリカに伝わり、さらに国際連盟成立という新しい世界の動きの中で国際慣例化したといえるのでしょうか?


▽4 関東大震災1周年、摂政宮殿下の「2分間の御黙祷」

「黙祷」が国民儀礼として日本社会に定着するきっかけとなったのは、関東大震災で首都東京が壊滅した1年後、大正13年9月の関東大震災1周年です。

 震災直後の混乱が収まりつつあった前年10月、東京府市連合が主催する「49日」の追悼式が本所区被服廠(ひふくしょう)跡広場で行われました。

 祭壇に安置された大木牌を御下賜の菊花などが囲み、卒塔婆や線香など宗教的シンボルに彩られてはいましたが、イギリスやアメリカの戦没者追悼とは異なり、式自体は無宗教で、宗教者は排除され、宗教儀礼も採用されませんでした。

 仏教各派連合の追悼会(ついとうえ)や全国神道連合会の50日祭は、開催場所こそ同じ被服廠跡ながら、府市連合の追悼式とは別個に催されました。

「国家は宗教に干渉せず」を原則とする、啓蒙主義的な当時の行政と、その姿勢を「宗教に無理解」と反発する宗教者との抜き差しならない対立があったことを当時の新聞は伝えているほどです。

 黙祷儀礼が現れるのはこの翌年です。

 記録によると、震災1周年を間近に控えた13年夏、東京府・市と東京商業会議所(現・東京商工会議所)、東京実業組合連合会(現・東京実業連合会)が震災記念事業協議会を組織して協議を重ね、震災発生時刻の午前11時58分に、社寺教会などは鼓鐘、工場船舶は汽笛を鳴らして注意を喚起し、市電は1分間停車、市民は「黙想反省」することなどを決めました。

 これこそ「黙祷」儀礼にほかなりませんが、現代と同様、宗教を毛嫌いする当時の行政の姿勢を反映しているのでしょうか、協議会は「黙想反省」というきわめて無機質的な表現を用い、新聞はこれを「祈念黙想」と言い替えて報道しました。

 東京朝日新聞に「2分間の黙祷」が現れるのは、震災1周年当日を数日後に控えた予定記事です。天皇皇后両陛下並びに東宮同妃両殿下が震災追悼式に花環を下賜されるとともに、東宮殿下が赤坂仮御所で「2分間の御黙祷」を捧げられることになった、というのです。

 あたかも協議会が決めた非宗教的儀礼に宗教的な命が吹き込まれたかのように、この報道を境に、市民の「祈念黙想」は「黙祷」に一変したのでした。

 朝日新聞が1周年当日の東京駅界隈の様子を伝えています。「東京駅では、田舎のお婆さんがやおら立ち上がり黙祷を始めると、人々は一斉に緊張した黙祷を捧げた」。

 新しい儀礼に不慣れなぎこちなさが伝わってきます。

 この年も、宗教者たちは東京市主催の震災1周年追悼式を宗教儀礼によって行うことを強く迫りましたが、当局はこれを拒否し、被服廠跡では無宗教の式典が催されました。

 そのような状況下で、死者を追悼する黙祷儀礼は皇室に源を発し、一般に広がりました。皇室と国民の沈黙の祈りには切なるものがありましたが、既成の宗教儀礼によらない黙祷は宗教宗派への絶対的不干渉・中立主義をとる行政にとっても好都合で、以後、無宗教儀礼として受け入れられていくのです。

 イギリスやアメリカなどの、宗教色の強い黙祷との違いはここに始まります。


▽5 戦時体制下で国民儀礼化する「遥拝」「黙祷」

 昭和になって、「黙祷」は「遥拝」とともに集団儀礼として一気に社会の表舞台に登場します。けれども国民儀礼としては、より伝統的、より宗教的な「遥拝」が中心でした。

 昭和元年から20年までの記事を網羅した「朝日新聞戦前紙面データベース」で検索すると、「黙祷」は222件、「遥拝」はその2倍、444件の記事がヒットします。

 両者には形式上の大きな違いはありませんが、「遥拝」は天皇、御陵、神宮などが拝礼の対象で、一方の「黙祷」は関東大震災犠牲者に対する慰霊であって、少なくとも昭和初年には用語の使い分けがされていたようです。

 政府が主導する無宗教的な国民儀礼としての「遥拝」の初例は、新聞報道で見ると、昭和9年5月に行われた日露戦争の英雄・東郷平八郎元帥の国葬です。

 人霊に対しては本来、「遥拝」の語は用いるべきではありませんが、東京府下では府が通牒を発して、各小学校で弔慰を表する遥拝式が催されました。

 12年夏の盧溝橋事件をきっかけに日中が全面衝突すると、新聞紙上に「遥拝」「黙祷」の記事が桁違いに増えます。凱旋した軍人兵士や帰国した五輪選手が宮城を遥拝し、元日や紀元節、天長節など祝祭日での遥拝式が国民儀礼化されます。

 12年12月3日付の朝日新聞は、政府が国民精神総動員の趣旨にのっとって、翌年元日の午前10時に官庁や学校で宮城遥拝や祝賀式を行うことなどが決められた、と伝えています。

 こうして宮城への「遥拝」は戦時体制下、国民儀礼化されたのです。

 他方、戦没者に対する国民儀礼としての「黙祷」を推進したのは陸軍でした。

 13年3月4日付、朝日新聞朝刊の記事「いっせい足止めて黙祷、陸軍記念日の正午に」は、陸軍が3月10日の第33回陸軍記念日に「過去の諸戦役における先人の偉業をしのび、今事変の意義を闡明(せんめい)し、挙国長期戦の覚悟を促進する」ための計画を立てていることを紹介しているのですが、その1つが「1分間の黙祷」でした。

 これが行政機関が日本国民に無宗教儀礼としての「1分間の黙祷」を求めた最初かと思われます。

「黙祷」の歴史を考える上で注目される記事が、16年元日の朝日新聞に載っています。前年秋に設立された神祇院が、「国礼の統一」の一環で、「黙祷廃止」を検討し始めたというのです。

「黙祷はキリスト教の形式で、震災記念日に東京市民が始めた1分間の黙祷が全国に広がったらしいことから、神祇院は西洋思想の流れをくむ黙祷を廃し、日本古来の最敬礼と2拝2拍手1拝の礼式を国礼として制定する意向」でした。

 行政関係者のなかに、黙祷が外来文化に由来する、という歴史的理解が当時、あったことは注目に値します。

 当然ながら波紋はすぐに広がりました。宗教専門紙の報道によると、仏教界は心中穏やかではなかったようです。同様の論理に立てば、インド・中国から伝来し、日本化された仏教行事も排除されかねないからです。

 しかし結局、黙祷は継続することになります。大政翼賛会文化部、文部省、神祇院が協議し、「黙祷は日本人の日常生活に融合、慣習化されている。国民全体が敬神感謝の意を表する適切な形式である」という見解がまとまったのです。

 そして同年春、1万5千の英魂を新たに合祀する靖国神社の臨時大祭には例年通り1億の黙祷が捧げられました。

 しかしながら1億の国民の祈りもむなしく、日本は敗戦。そして連合国軍による占領末期、黙祷をめぐる「宗教・無宗教」論争が起きます。火をつけたのはアメリカ人宣教師でした。


▽6 宣教師が火をつけた「黙祷」論争

 昭和26年、日本で発行されている英字新聞紙上で、「信教の自由」「政教分離」をめぐる「黙祷」論争が繰り広げられました。

 同年5月に貞明皇后が崩御になり、斂葬当日の6月22日、全国の学校で「黙祷」が捧げられたのですが、その数日後、アメリカ人宣教師の投書がニッポン・タイムズ紙の読者欄に載りました。

「日本の学校で戦前の国家宗教への忌まわしい回帰が起きた。生徒たちは皇后陛下の御霊に黙祷を捧げることを命令された。キリストに背くことを拒否した子供たちはさらし者にされた」

 これが宗教論争の始まりでした。

 公文書によると、斂葬当日に官庁等が弔意を表することが閣議決定され、文部省は「哀悼の意を表するため黙祷をするのが望ましい」旨、次官通牒を発しました。

 宣教師が問題としている子供たちの通う私立校の場合は対象外で、しかも通牒には宗教儀式の不採用、社寺不参拝が明記されており、黙祷は少なくとも文部当局にとって、この宣教師が批判するような「命令」でも「宗教儀式の強制」でもありませんでした。

 けれども、宣教師らは文部当局の説明に納得しませんでした。日本の行政機関にとっての「黙祷」は戦前と同様、無宗教儀礼でしたが、キリスト教文化圏に始まった「黙祷」は宣教師らには当然、宗教儀礼と映ったのでしょう。

 そして宣教師らが強硬だったのはトラウマがあったからです。投書の主たちは、昭和8年に聖書学校生徒の子弟が伊勢神宮への参宮を拒否したのに端を発して、教会が暴徒に襲われるという「迫害」を経験していたのでした。

 宣教師は「真のキリスト者は天皇を愛し、必要なら命を捧げるが、崇拝はしない」と強調したばかりでなく、「戦前のキリスト者が神に忠実であったなら、『真珠湾』は起きなかっただろう」とまで述べています。

 そしてサンフランシスコ平和条約調印日にふたたび同じ学校で「黙祷」「宮城遥拝」が実施されると、「また命令された。新憲法は宗教儀式の強制を許すのか」とふたたび抗議。広範囲の読者を巻き込んだ甲論乙駁の紙上論争は10月半ばまで続きました。

 興味深いのは、GHQがアメリカ人宣教師の立場をけっして擁護していないことです。占領中の宗教政策を担当した同職員のW・P・ウッダードはこの論争をある論攷に取り上げ、「黙祷」について、こう解説しています。

「黙祷という語は仏教や神道のものではない。明治以前には使われていなかった。関東大震災の記念日に関連して行われ、戦中は種々の場合に行われた。超国家主義者の中には日本的でないとして反対する者もいたが、代わる適当なものがなかったことを知った。何か特定の対象に捧げるものであるという主張には根拠がないように思われた」(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」=国際宗教研究所紀要4所収)

 論争は、キリスト教文化圏で宗教的な儀礼として始まった黙祷が、日本では無宗教儀礼として官民に浸透した歴史を浮かび上がらせます。

 けれども、黙祷が第1次大戦後の英国で始まり、世界化し、日本では戦時体制下に国民儀礼として慣例化したという歴史など、アメリカ人宣教師らには思いもよらぬことだったに相違なく、行政が主導する無宗教儀礼は彼らには国家宗教に見えたのでしょう。

 もう1つ見逃せないのは、昭和20年12月の「神道指令」と現行憲法が定める政教分離規定とを同一視する憲法学者らがいるのに対して、ウッダードはこの考えを当時すでに否定していることです。ウッダードは同じ論攷にこう述べています。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは昭和20年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない。……米国の世論は非宗教主義に終わる可能性のある政策を支持しないだろう。米国では明らかに宗教と国家との間に密接な関係がある」

「神道指令」は神道からの「分離」をきびしく要求していましたが、貞明皇后の御大喪の例が示すように占領後期には緩和され、GHQはもはや厳格な政教分離政策を採らなくなりました。

 独立回復からすでに半世紀を過ぎた今日の日本ができもしない完全分離にこだわり、「非宗教主義に終わる可能性のある政策」を追求しなければならない理由はまったくありません。

 日本の官僚・知識人が絶対的分離に固執するのは、占領政策の残滓というよりも、もともと彼ら自身に近代合理性の精神に由来する、とくに神道に対する、宗教的偏見があるからなのではありませんか?

 その偏見がGHQでさえ捨て去った完全分離主義への郷愁を保ち続けさせ、他方では神社嫌いの一部の宗教者たちがその偏見をあおり立て、愚かしいことに、自分たちを否定することになる非宗教主義的な無色中立政策を採らせているのでしょう。


▽7 新たな国家宗教を創る政府

 人の死を悼むのは間違いなく宗教的行為で、イギリスの戦没者追悼儀礼が自国の宗教伝統に基づいて宗教色豊かに行われるのは当然です。しかし日本政府は、戦前も戦後も厳格な政教分離主義の立場に立ち、とりわけ近年は公的追悼施設や追悼行事からの宗教性排除に奔走しています。

 日本国憲法は国の宗教的中立性を求めているものの、絶対的無色中立を要求するものと解釈すべきではないし、もともと無色中立などはあり得ないはずです。絶対的な中立を追求すれば、宗教伝統を否定する新興宗教的な国家宗教の創設もしくは異教化を国みずからが推進することになり、憲法が認める信教の自由を否定する自家撞着に陥ります。

 事実、国や地方公共団体が関わるごく最近の公的追悼施設や追悼式典には、その傾向がはっきりとうかがえます。

 平成14年、15年に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館が相次いで開館しました。

 これらは既存の宗教形式によらない無宗教施設で、読経や讃美歌の合唱などは禁じられています。献花は認められますが、玉串拝礼は想定されず、焼香は「火気の使用」に当たるという理由で認められていません。

 認められるのは「厳かな雰囲気で静かに死没者に思いをいたし」という戦前と同様の無宗教儀礼としての黙祷です。

 広島祈念館には祭壇すらありません。中心施設「追悼空間」は爆心地から見た被爆後の街並みを死没者と同数の14万のタイルで表現した円形のパノラマで、来館者はここで「死没者を追悼し、平和について考える」とされています。

 しかし、どこに向かって祈るというのでしょうか。死者はどこにいるのでしょう? 慰霊碑も祭壇もないなら、「天」に向かって祈らざるを得ません。「天に祈る」のは古来の宗教伝統とは異なります。

 一方、長崎祈念館の「追悼空間」には緑色に光るガラス製の「光の柱」が林立し、正面には献花台があり、死没者の名簿棚が直立します。

 開館したばかりの祈念館を訪れた小泉首相は記帳のあと、名簿棚に向かって献花、合掌、黙祷しました。名簿に死者の魂が宿っているとでも信じられているのでしょうか、そのような観念は日本人の伝統的宗教心になじむのでしょうか?

 既成宗教に対する完全中立を求めるあまり、行政自身が無宗教的な国家宗教を創設し、国民に強制する伝道師を演じているのではありませんか?

「特定の宗教を排除」して宗教的中立性を追求したつもりが、結果として、日本の宗教伝統を排除し、あまつさえ異教にすり寄る結果をもたらしたのが、阪神淡路大震災10年の追悼式典です。

 平成17年1月、兵庫県や県議会、県民代表の13団体で構成される式典委員会(委員長=県知事)が主催した、黙祷、献唱曲、献花を内容とする追悼式典では、何とキリスト教音楽の合唱が捧げられました。

♪ 愛しい真の御身は処女マリアから生まれ、万民の身代わりに十字架に付けられ、苦しみを受けられた。

 楽聖モーツアルトが作曲した聖体賛歌「アベ・ベルム・コルプス」は、キリストの生誕から受難までをラテン語で簡潔に表現した教会音楽の最高傑作の1つで、異教徒や不信心者の心をも洗わずにはおきません。

 けれども、絶対的な政教分離主義に立つ行政機関が主体的に関わる公的追悼行事で演奏されるのは、矛盾も甚だしいといわねばなりません。

 イギリスのセノタフを「宗教性なし」と決めつけたのが、かの追悼懇ですが、ここでは国が主催する戦没者追悼式で、自国の宗教伝統に基づいてイギリス国教会のロンドン司教が宗教儀式を行い、ユダヤ教や仏教、ヒンドゥー、イスラム、シーク教の代表者も参列して、国に一命を捧げた戦没者に感謝の祈りが捧げられます。

 こうした多宗教形式による祈りは、アメリカのワシントン・ナショナル・カテドラルで行われた「9・11」同時多発テロ犠牲者への追悼ミサや、オーストラリア政府が主催したバリ島爆弾テロ一周年の追悼式、スマトラ島沖地震・大津波の犠牲者を悼む追悼式などでも行われ、世界的な流れといえます。

 第2バチカン公会議以降、宗教多元主義が受け入れられてきた結果ともいわれます。

 けれども、多元性・多宗教性が日本の宗教的伝統であるはずなのに、日本の行政は相変わらず戦前と同様、「宗教性の排除」に狂奔しています。「宗教性」を否定した慰霊・追悼などあるはずもないのに、です。

 自国の宗教伝統に背を向け、異国の神にすり寄った挙げ句に、行政関係者はこう言い張ります。「『アベ・ベルム・コルプス』の歌詞の意味は知らない。本来は教会音楽かもしれないが、宗教とは考えていない」。

 これはまさに宗教への冒涜にほかならず、このような式典で死者が慰められるはずもないのではありませんか?

 戦前も戦後も、日本の政治家や官僚、知識人には、度し難いほどに啓蒙主義が身に染みついているようです。小泉首相の靖国神社参拝に対する言論・マスコミ人の強硬な批判、あるいは厳格な政教分離主義に固執する靖国参拝訴訟「違憲」判決などは、その当然の結果といえます。新追悼施設議連設立もまた同様でしょうか?

 もっとも愚かしいのは、戦前の宗教者たちが宗教的な公的慰霊の実現を政府に強く働きかけたのに対して、現代では一部とはいえ、宗教家たちが「反ヤスクニ」裁判に血道を上げ、非宗教主義に走る「違憲」判決に狂喜していることです。

 宗教家自身が宗教的価値を見失っているのでしょう。だとすれば、死者たちの魂を誰がどうやって慰め、救済するのですか。いま求められているのは啓蒙主義を打ち砕く本物の宗教心であり、国民の宗教心を呼び覚ましてくれる本物の宗教家ではないでしょうか?

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