なぜ悠紀殿と主基殿があるのか。田中英道先生の大嘗祭論を読む [大嘗祭]
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なぜ悠紀殿と主基殿があるのか。田中英道先生の大嘗祭論を読む
《斎藤吉久のブログ 令和2年2月16日》
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日本会議の機関誌「日本の息吹」2月号に、保守派言論人として著名な田中英道東北大学名誉教授(専攻は美術史。日本国史学会代表理事)が大嘗祭に関する興味深いエッセイを寄せています。
連載「世界史の中の日本を語ろう」の第25回で、タイトルは「大嘗宮はなぜ悠紀殿と主基殿の二殿あるのか」。着眼点の斬新さはさすがです。

▽1 悠紀殿=東国、主基殿=西国
先生は、大嘗祭の祭祀が二度繰り返され、斎田も2か所あり、悠紀、主基と呼ばれることに注目し、なぜ二殿で同じことが繰り返されるのかという素朴な問いかけをなさっています。國學院の展覧会でも、折口信夫の「大嘗祭の本義」にも説明はありませんでした。
先生によると、天武・持統朝に定められた大嘗祭は当然、壬申の乱と関係があり、東日本と西日本それぞれの殿舎を建てるということには理由があった。東国には高天原=日高見国の長い伝統があり、持統天皇の諱には「高天原」が含まれている。
『新撰姓氏録』は氏族を「神別」「皇別」「諸蕃」に分けているが、神別の氏族の故郷が東国で、藤原、物部、大伴らの有力氏族が属していた。ユダヤ人埴輪もすべて東国の埴輪にあった。
東国と西国は同等と考えられていたことの現れが悠紀殿と主基殿の二殿である。茅葺き、丸柱は東国の伝統で、「大倭日高見国」が日本なのである。日高見国と大和国が天皇によって統一された事実が大嘗祭に示されている、というのが先生の見方です。
仰せのように、大嘗祭が悠紀殿と主基殿の二殿で行われるのは大きな謎です。かつては新嘗祭と大嘗祭との区別はなく、規模を改めた大嘗祭が行われるようになったのが、まさに天武天皇のころ、壬申の乱のあとでした。
国を二分する内乱のあと、国と民を再統一する仕掛けが必要とされたことは想像に難くありませんが、それが大嘗祭発生のカギだったとしても、悠紀殿=東国、主基殿=西国という図式で捉えることには慎重を要するのではないかと私は思います。
▽2 新嘗祭の夕の儀と暁の儀は?
毎秋の新嘗祭は神嘉殿で行われます。明治の初年までは臨時の殿舎が建てられたそうですが、大嘗祭とは異なり、一棟です。夕(よい)の儀と暁の儀と同じ神事が二度繰り返されますが、悠紀・主基とは呼ばれません。
ふつうは夕の儀は夕御饌(ゆうみけ)で、御寝座でお休みいただいたあと、暁の儀で朝御饌(あさみけ)を差し上げるというように説明されています。新嘗祭は同じ殿舎ですが、大嘗祭は儀場も改められ、より丁重さが加わるということではないでしょうか。
日本の高床式建築には2つのルーツがあるそうですが、悠紀殿と主基殿には大きな違いはありません。ふだんは何もない空間に八重畳の御神座、天皇の御座などが配置されるのも変わりません。
【関連記事】神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!?〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-20-2〉
先生のエッセイには言及がありませんが、祭神論からすると、悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりません。前者は天神、後者は地祇を祀ると説明した古い資料もありますが、新帝の御告文は皇祖神ほか天神地祇に捧げられるはずです。
先生の説だと、悠紀殿には東国の神々、主基殿には西国の神々が祀られるのでしょうか。そうなると逆に国の再統一という目的から外れてしまわないでしょうか。
【関連記事】なぜ八百万の神なのか──多神教文明成立の背景〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-06-1〉
【関連記事】天皇はあらゆる神に祈りを捧げる──日本教育再生機構広報誌の連載から〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-12-1〉
▽3 米と粟の儀礼こそ祭りの核心
神饌はどうでしょう。先生ご指摘のように、近世までは京都の東に悠紀国、西に主基国が設定され、悠紀殿の儀、主基殿の儀にはそれぞれの御料が用いられました。なぜ東が悠紀で、西が主基なのかは大きな謎です。主基は「次」の意味とされています。
これも先生の文章にはありませんが、主饌となるのは米と粟の御飯(おんいい)と白酒・黒酒の神酒です。悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりはありません。しかしここにこそ内乱後の国と民の再統一という大命題の意味が見出されるのではないでしょうか。
日本の神祭りは神々との神人共食が本義です。争乱で分裂した国中の神々をすべて祀り、天つ神の米と国つ神の粟を捧げ、祈り、新帝も召し上がる。さらに続く節会で民の饗宴が行われ、神々と天皇と民との命が共有される。それが大嘗祭の核心部分ではないかと私は思います。
先生は、大嘗祭を稲の祭りと決めつけず、米と粟が供されることに注目した岡田荘司國學院大学教授の大嘗祭論を「戦後の歴史家の唯物論的見方」と一刀両断にしていますが、米と粟の神事こそ国と民を1つにまとめあげるスメラミコトの真骨頂でしょう。
ただ、粟=東国、稲=西国というわけではありません。田中先生の説は東国vs西国の図式に引きずられ過ぎているように思われます。
【関連記事】大嘗祭は米と粟の複合儀礼──あらためて研究資料を読み直す〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-18〉
【関連記事】大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか ──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判する〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-10〉
【関連記事】やっと巡り合えた粟の酒 ──稲作文化とは異なる日本人の美意識〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-09-23〉
斎藤吉久から=当ブログはアメーバブログ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://ameblo.jp/otottsan/〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ!のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://www.mag2.com/m/0001690423.html〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。
なぜ悠紀殿と主基殿があるのか。田中英道先生の大嘗祭論を読む
《斎藤吉久のブログ 令和2年2月16日》
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日本会議の機関誌「日本の息吹」2月号に、保守派言論人として著名な田中英道東北大学名誉教授(専攻は美術史。日本国史学会代表理事)が大嘗祭に関する興味深いエッセイを寄せています。
連載「世界史の中の日本を語ろう」の第25回で、タイトルは「大嘗宮はなぜ悠紀殿と主基殿の二殿あるのか」。着眼点の斬新さはさすがです。

▽1 悠紀殿=東国、主基殿=西国
先生は、大嘗祭の祭祀が二度繰り返され、斎田も2か所あり、悠紀、主基と呼ばれることに注目し、なぜ二殿で同じことが繰り返されるのかという素朴な問いかけをなさっています。國學院の展覧会でも、折口信夫の「大嘗祭の本義」にも説明はありませんでした。
先生によると、天武・持統朝に定められた大嘗祭は当然、壬申の乱と関係があり、東日本と西日本それぞれの殿舎を建てるということには理由があった。東国には高天原=日高見国の長い伝統があり、持統天皇の諱には「高天原」が含まれている。
『新撰姓氏録』は氏族を「神別」「皇別」「諸蕃」に分けているが、神別の氏族の故郷が東国で、藤原、物部、大伴らの有力氏族が属していた。ユダヤ人埴輪もすべて東国の埴輪にあった。
東国と西国は同等と考えられていたことの現れが悠紀殿と主基殿の二殿である。茅葺き、丸柱は東国の伝統で、「大倭日高見国」が日本なのである。日高見国と大和国が天皇によって統一された事実が大嘗祭に示されている、というのが先生の見方です。
仰せのように、大嘗祭が悠紀殿と主基殿の二殿で行われるのは大きな謎です。かつては新嘗祭と大嘗祭との区別はなく、規模を改めた大嘗祭が行われるようになったのが、まさに天武天皇のころ、壬申の乱のあとでした。
国を二分する内乱のあと、国と民を再統一する仕掛けが必要とされたことは想像に難くありませんが、それが大嘗祭発生のカギだったとしても、悠紀殿=東国、主基殿=西国という図式で捉えることには慎重を要するのではないかと私は思います。
▽2 新嘗祭の夕の儀と暁の儀は?
毎秋の新嘗祭は神嘉殿で行われます。明治の初年までは臨時の殿舎が建てられたそうですが、大嘗祭とは異なり、一棟です。夕(よい)の儀と暁の儀と同じ神事が二度繰り返されますが、悠紀・主基とは呼ばれません。
ふつうは夕の儀は夕御饌(ゆうみけ)で、御寝座でお休みいただいたあと、暁の儀で朝御饌(あさみけ)を差し上げるというように説明されています。新嘗祭は同じ殿舎ですが、大嘗祭は儀場も改められ、より丁重さが加わるということではないでしょうか。
日本の高床式建築には2つのルーツがあるそうですが、悠紀殿と主基殿には大きな違いはありません。ふだんは何もない空間に八重畳の御神座、天皇の御座などが配置されるのも変わりません。
【関連記事】神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!?〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-20-2〉
先生のエッセイには言及がありませんが、祭神論からすると、悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりません。前者は天神、後者は地祇を祀ると説明した古い資料もありますが、新帝の御告文は皇祖神ほか天神地祇に捧げられるはずです。
先生の説だと、悠紀殿には東国の神々、主基殿には西国の神々が祀られるのでしょうか。そうなると逆に国の再統一という目的から外れてしまわないでしょうか。
【関連記事】なぜ八百万の神なのか──多神教文明成立の背景〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-06-1〉
【関連記事】天皇はあらゆる神に祈りを捧げる──日本教育再生機構広報誌の連載から〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-04-12-1〉
▽3 米と粟の儀礼こそ祭りの核心
神饌はどうでしょう。先生ご指摘のように、近世までは京都の東に悠紀国、西に主基国が設定され、悠紀殿の儀、主基殿の儀にはそれぞれの御料が用いられました。なぜ東が悠紀で、西が主基なのかは大きな謎です。主基は「次」の意味とされています。
これも先生の文章にはありませんが、主饌となるのは米と粟の御飯(おんいい)と白酒・黒酒の神酒です。悠紀殿の儀、主基殿の儀とも変わりはありません。しかしここにこそ内乱後の国と民の再統一という大命題の意味が見出されるのではないでしょうか。
日本の神祭りは神々との神人共食が本義です。争乱で分裂した国中の神々をすべて祀り、天つ神の米と国つ神の粟を捧げ、祈り、新帝も召し上がる。さらに続く節会で民の饗宴が行われ、神々と天皇と民との命が共有される。それが大嘗祭の核心部分ではないかと私は思います。
先生は、大嘗祭を稲の祭りと決めつけず、米と粟が供されることに注目した岡田荘司國學院大学教授の大嘗祭論を「戦後の歴史家の唯物論的見方」と一刀両断にしていますが、米と粟の神事こそ国と民を1つにまとめあげるスメラミコトの真骨頂でしょう。
ただ、粟=東国、稲=西国というわけではありません。田中先生の説は東国vs西国の図式に引きずられ過ぎているように思われます。
【関連記事】大嘗祭は米と粟の複合儀礼──あらためて研究資料を読み直す〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2011-12-18〉
【関連記事】大嘗祭は、何を、どのように、なぜ祀るのか ──岡田荘司「稲と粟の祭り」論を批判する〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-11-10〉
【関連記事】やっと巡り合えた粟の酒 ──稲作文化とは異なる日本人の美意識〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2019-09-23〉
斎藤吉久から=当ブログはアメーバブログ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://ameblo.jp/otottsan/〉でもお読みいただけます。読了後は「いいね」を押していただき、フォロアー登録していただけるとありがたいです。また、まぐまぐ!のメルマガ「誤解だらけの天皇・皇室」〈https://www.mag2.com/m/0001690423.html〉にご登録いただくとメルマガを受信できるようになります。
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