SSブログ
神社神道 ブログトップ
- | 次の10件

大らかな日本人の神観念 [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です。


 北海道新聞によると、旭川のラーメン店が集まる人気スポット「あさひかわラーメン村」に、オープン10周年を記念して、「ラーメン村神社」が開設されたそうです。
 http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20060521&j=0025&k=200605219645

 経済評論家で、旭川観光大使をつとめる日下公人さんの奥さんが「村には神社が必要。ラーメンのように細く長くご縁がつづくように」と提案されて、神社が建てられることになったと伝えられます。

 きのうは市内の神社の宮司さんがお見えになって、神事をなさったそうです。夫婦円満、恋愛成就の神社とされ、おみくじやオリジナルのグッズもあって、楽しそうです。
 http://www.eolas.co.jp/hokkaido/kitashin/digest/2006/0509_05.html

 ご興味がおありの方、行ってみたい方は、ラーメン村のサイトをどうぞご覧ください。
 http://www.ramenmura.com/index.html
yasukuni4.gif
 日本各地に千年の歴史を超えるような古社がたくさんありますが、新しい神社が建てられることも珍しくはありません。たとえば、サクランボの産地・山形県河北町には昨年、農協内に「さくらんぼ神社」が建てられました。これなどは町おこしの効果を願うまじめな発想ですが、遊び心いっぱいの神社もたくさんあります。

 以前、横浜駅東口の地下街にはプロ野球の佐々木投手にちなんだ「ハマの大魔神社」がありましたが、大阪・吹田市の大型スーパーにはサッカーの「ガンバ大阪神社」があります。3年前に千葉県松戸市に開館したバンダイ・ミュージアムにはおもちゃの供養をする萬代神社がありますし、東京・汐留の日本テレビには「ズームイン!!汐留神社」(旧・ごくせん神社)があります。

 日本人にとっての神さまは非情に身近な存在です。神社を建てる側も、お詣りする側もじつに自由で、大らかで、そして多様です。それが日本の神社であり、それらを失ってしまったら、神社は神社でなくなってしまうかもしれません。

 今年2月、宮崎でキャンプするプロ野球チームがリーグ優勝を祈願する恒例の神社参拝をしたとき、1人の韓国人選手は参加しませんでした。韓国メディアは「軍国主義の象徴である神社に訪問することはあり得ない」と伝えています。

 野球チームが毎年、参拝している神社は、海幸彦・山幸彦の物語で広く知られる神社であり、「武の神」をまつっているわけではありません。なぜ「軍国主義」呼ばわれされなければならないのでしょうか。なぜ堅苦しく考えないといえないんでしょうか。

 靖国神社にしても同様です。同社は戦没者の慰霊の祭場ですが、参拝者の思いは多様です。拝殿の横には祈願の絵馬がたくさんかけられ、なかにはキリスト教系の大学への合格を祈願するものさえあります。授与所では、学業成就や縁結びのお守りも並んでいます。結婚式を挙げるカップルもいます。

 1つの教義にはまらないのが日本人の神観の特徴なのではありませんか。けっして原理主義的ではない大らかさが、いわゆる靖国問題にも求められているのではないでしょうか。
タグ:神社神道
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

地球上から撲滅された疱瘡 ──種痘なき時代の素朴な信仰 [神社神道]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
地球上から撲滅された疱瘡
──種痘なき時代の素朴な信仰
(「神社新報」平成14年2月)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 いも神に惚れられ娘値が下がり

 いもとはあばたの俗称で、いも神は疱瘡をつかさどる神、惚れられたといふのは疱瘡にかかったの意味である。顔にあばたができて、器量が落ちた、とこの川柳はうたってゐるのだ。

 疱瘡は多くの場合、通過儀礼のやうに幼児期に罹患し、死亡率は五割と高く、運良く命だけはとりとめても、容貌を著しく損なひ、ときには視聴覚機能を失ふこともあったから、文字通り恐怖の難病であった。

 どれほど恐れられたのかは、『南総里見八犬伝』の作者として知られる、江戸後期の読本作家・滝沢馬琴の日記を読めば、一目瞭然である。

 天保二年(一八三一)、馬琴、数へ年六十五歳。孫のお次(二歳)が発熱したのはこの年の二月六日である。夕方になって気分がすぐれなくなり、夜中には差し込み、引きつけを起こし、眠ることもできない。蒼龍丸を与へると、三日目の朝、熱は下がる。疱瘡らしい。顔や頭にそれらしい兆候が現れた。馬琴は矢継ぎ早に家族に願掛けを指示し、茜木綿の単衣や頭巾などを作らせた。赤色が疱瘡を封じると考へられたのである。

 翌日は、疱瘡をつかさどるといはれる疱瘡神の神棚が急ごしらへで飾られ、献饌をする。馬琴の妻・お百は、御守を申し受けに、浅草の白山神社に詣でる。

 東日本のいはゆる被差別部落とよばれる地域の人たちが信仰する白山神が、疱瘡の治癒に効験あらたかと信じられたのであった。

 なぜ白山神か、なぜ被差別部落の神なのか、はひとつのナゾである。

 ある研究者によると、白山の神は格別に激しい霊威を持つ客人神であった。疱瘡は渡来人によってもたらされたと考へられ、白山神も中国・朝鮮辺境から渡来したのであった。中国・朝鮮国境付近は流行病の発信地のひとつと信じられてゐた。渡来した白山神は日本古来の病直しの神々と習合した−−といふのだが、なかなか難解である。

 被差別部落の人々がわが神とする白山神を、部落に住まない者たちがなぜ疱瘡封じの神と信じたのか。この研究者が指摘するやうに、被差別部落の本質や日本人の差別心の構造を解明することなしには、核心に迫ることはできないのだらう。

 さてお百は帰路、源為朝の紅絵を買ふ。豪傑為朝を祀れば、疱瘡神も恐れて逃げる、といふ素朴な民間信仰である。

 幸ひにも十三日目でお次は全快する。ところが今度は兄太郎(四歳)が発熱する。

 日記からは、人気作家で経済的にも恵まれ、十分な医療を受けられるはずの馬琴が、ふたりの孫の罹病にあわてふためいて、応急薬の投与以外、神仏に頼るしか術のない苦衷が伝はってくる。

 種痘など予防医学の未発達な時代である。ほとんど治療らしい治療はなされず、病気が少しでも重くなると、医者でさへ手をこまねいて傍観したものらしい。

 疱瘡の流行が最初に文献にあらはれるのは『続日本紀』である。聖武天皇の時代、天平七年(七三五)、夏から冬にかけて全国的に「豌豆瘡」が流行り、多くの若者が死んだ、とある。以来、約三十年を周期に流行してゐた疱瘡は、だんだんと周期が短くなり、江戸後期には毎年のやうに流行を繰り返してゐた。孝明天皇が亡くなったのも、疱瘡が原因とされる。

 その疱瘡も世界保健機関の撲滅計画の成功で、昭和五十五年に地球上から駆逐された。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

古今東西の文明を包み込む京都「祇園祭」──禁教時代に「聖書物語」を飾った函谷鉾 [神社神道]

▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
古今東西の文明を包み込む京都「祇園祭」
──禁教時代に「聖書物語」を飾った函谷鉾
(「神社新報」2002年1月14日)
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢

 
 日本三大祭りのひとつ、京都・八坂神社の祇園祭について書かうと思います。
kankoboko.gif
 昨年(平成13年)9月11日のアメリカでの同時多発テロ事件に端を発するアフガニスタン戦争はすでに最終局面を迎え、今度は他のイスラム諸国を標的とする第二段階に進みそうな気配です。「文明の衝突」という表現を否定する人は多いのですが、そうした側面は否定しても否定し切れないようにも思います。

 テロ事件の容疑者にはアフガン人はひとりもいません。それでもアフガンが戦場となったことに、私は歴史の因縁を感じています。アフガンが位置する中央アジアは、シルクロードの交通の要衝であり、古来から東西の文明がときに激突し、ときには融合する文明の十字路です。ギリシア文明とインドの仏教がこの地で衝撃的に出会い、生まれたのが、ガンダーラの仏像であり、大乗仏教でした。

 起源地の異なる文明の交わりは、シルクロードの終着駅である日本でも起きました。京都・祇園祭の山鉾にそれがうかがえます。


□□旧約聖書「イサクの嫁選び」を□□
■■デザインした「函谷鉾」の前掛■■

 祇園祭は、7月1日の「吉符入」で準備が始まり、31日の疫神社夏越祭まで、じつに1カ月の長きにわたって繰り広げられる壮大な祭礼絵巻です。

 ハイライトはいわずもがな山鉾巡行です。長刀鉾(なぎなたぼこ)を先頭に、30数基の山鉾が各山鉾町から京の町の中心・四条烏丸に集結し、「コンコンチキチン、コンチキチン」と太鼓、鉦、笛からなる祇園囃子もにぎやかに、華麗さを競ひながら、猛暑の都大路をしずしずと進むのです。

 同社の職員20人でまとめられた『八坂神社』によると、祇園祭の成立は9世紀にさかのぼるそうです。清和天皇の時代、貞観11年(869)にすさまじい疫病が流行したので、「宝祚隆永、人民安全、疫病消除鎮護」のため、卜部日良麻呂が勅を奉じて、高さ2丈(6メートル)の「矛」66本を建てて御霊会(ごりょうえ)を執行し、あるいは神輿を神泉苑に送り、祭りました。以後、これが恒例となります。
hoko.gif
 そのころ疫病の流行は怨霊(おんりょう)の祟りが原因と考えられ、その消除を祈る鎮魂行事が「祇園御霊会」の始まりでした。そして、このときの「矛」が今日、「動く世界の博物館・美術館」「動く正倉院」と呼ばれる山鉾の「鉾」の原型です。

 私がもっとも注目するのは、「函谷鉾(かんこぼこ)」です。

 山鉾にはそれぞれ中国や日本の故事、説話、能・狂言からモチーフを得た固有のテーマがあるのですが、函谷鉾の場合は古代中国・戦国時代の故事を主題としています。

 斉の宰相孟嘗君(もうしょうくん)が、対立する秦の昭王に使いしました。讒言(ざんげん)する者があり、昭王は殺害をはかります。間一髪のところで、孟嘗君は都・咸陽を脱出します。函谷関まで逃げ延びたものの、いまだ夜、無情にも関は閉じられていました。関は鶏鳴なき夜間は開かれません。追っ手が背後に迫ります。万事休すか。そのとき鶏の鳴き声の真似がうまい従者がいました。「コケコッコー」。はたして関が開かれます。こうして孟嘗君は無事、帰国することができたといいます。

 故事にならって、函谷鉾の鉾頭には山中の闇を表す三日月と山形、真木の上端近くには孟嘗君、その下に雌雄二羽の鶏が祀られています。

 函谷鉾のテーマ設定それ自体が異文明の受容を示しているのですが、もっと興味を引くのは、鉾の正面を飾る前掛の織物タピストリー(毛と絹の綴織の壁掛)です。
kankoboko_maekake.gif
 16世紀半ばにいまのベルギー・フランドル地方で製作されたもので、何とそのデザインは旧約聖書の「イサクの嫁選び」です。アブラハムの老僕エリアザルが泉で美しい乙女リベカから水を飲ませてもらい、やがてアブラハムの子イサクはこの娘をめとるという「創世記」の有名な物語が、一枚に織り出してあります。中央にはエリアザルとリベカ。右上にはラクダにまたがったイサクの姿もあります。

 まさに古今東西、異文明・異宗教の共存です。それにしても、神社の祭礼にキリスト教までが関係しているとは珍しい。けれども、驚くのはまだ早いのです。


□□禁教時代に都大路を公然と巡行□□
■■オランダから家光への献上品か■■

「イサク」が登場するのは、江戸時代になってからのようです。

 天正2年(1574)に織田信長が狩野永徳に描かせ、上杉謙信に贈ったと伝えられる「上杉本洛中洛外図屏風」に、函谷鉾が描かれています。

 鉾の形態は現在とほぼ同じですが、残念ながら裏面の見送しかうかがえません。しかも、大きな虎皮が掛けられています。現在とはだいぶ違うということです。

 ついでに申し添えますと、函谷鉾の見送はつい最近までは、弘法大師真蹟の模写を織りなしたとされる「繻子(しゅす)地金剛界礼懺文(らいさんもん)」でした。そして現在は「エジプト天空図」です。前掛がキリスト教なら、見送は仏教そしてエジプト文明。世界の精神文明が凝縮されているのです。

「イサク」の前掛が確認できるのは、宝暦7年(1757)に刊行された、当時のベストセラー『祇園御霊会細記』です。木版画で細部は鮮明ではありませんが、「イサク」らしき函谷鉾の前掛が見て取れます。

 読み進むと、「函谷鉾」の説明に「天竺(てんじく)の綴錦を使用。天竺人が酒宴を催し、ジャンケンをしている風情。水瓶や馬、そのほか樹木・山岳などが描かれている」とあります。「天竺」「ジャンケン」というのが気になりますが、図柄からいって「イサク」のようです。

 さらに動かぬ証拠として、タピストリーの裏布に「享保3年(1718)再興」と墨書されています。「宝永の大火」後に函谷鉾が再興されたという意味で、このときから「イサク」が飾られたようです。

 18世紀といえば、祇園御霊会が最大のピークを迎えた時代ですが、同時に鎖国政策、禁教政策がとられた時代でもあります。徳川幕府は社寺の祭礼を厳しく統制したともいわれますが、それならなおのこと、京都最大の祭りに、聖書物語をデザインした舶来の錦が堂々と繰り出していたとは、耳を疑わざるを得ません。そんなことがあり得るのでしょうか。函谷鉾の前掛け

 だいぶ資料を読みあさったのですが、役に立ちそうなものはほとんど見当たりません。五里霧中で困り果てた末に、やっと光が見えてきたのは、祇園祭に関する著書もある山鉾連合会の吉田孝次郎副理事長のお話を聞いてからでした。

 吉田氏によると、函谷鉾の前掛けが「イサクの嫁選び」であることが学問的に確定されたのは、じつは昭和60年代のことだといいます。メトロポリタン美術館の梶谷宣子氏らアメリカの染織品研究者たちの科学的研究によって、数々の新事実が判明したのです。それ以前は聖書物語をデザインしてあるとはほとんど知られていませんでした。

 だとすると、江戸時代の人たちは何も知らなかったということなのでしょうか。どうもそうではありません。

 まず、「イサク」はどこから入手されたものなのか、を考えてみましょう。

 吉田氏は、驚くべきことに、もともとは対日貿易拡大をもくろむオランダ商館長から三代将軍家光に贈られた献上品ではないか、と推理します。

 根拠となる記録はオランダ・ハーグの国立中央文書館に残されています。『平戸オランダ商館の日記』の1633(寛永10)年9月11日のくだりです。新任の商館長クーケバッケルから家光に贈られた献上の品々が列挙され、そのなかに「オランダ産絨毯一枚。リベカ物語の模様入り」とあります。これが函谷鉾の「イサクの嫁選び」らしいのです。梶谷氏らの研究では、リベカ物語のタピストリーが滅多にあるものではないことが分かっているからです。

 もし家光への献上品だとして、どのような経路で函谷鉾町へと渡ったのでしょうか。

 吉田氏は「外交に長けた平戸藩が何らかの働きかけをしたのではないか」と語ります。そもそも家光への献上を仲介したのは平戸藩であり、同藩京屋敷は蟷螂山町と南観音山町のあいだにありました。


□□鉾町の町衆は「知ってゐた」□□
■■異文明の価値を認める日本人■■

 それにしても、家光の時代といえば、「キリシタン迫害」が過酷さを増した時期です。島原の乱が起こったのは寛永14年、このあと鎖国体制は完成します。

 この禁教・鎖国のプロセスには、プロテスタント国オランダの世界戦略が深く関わっていることが指摘されています。

 当時、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントとの血で血を洗う戦乱が続いていました。三十年戦争です。カトリック国ポルトガル、スペイン両国の「日本侵略」「世界征服」の野望を吹き込み、両国との貿易停止を盛んに幕府に働きかけたのはオランダです。

 オランダは島原の乱のとき、自分たちがキリシタンではないことを証明するために、人々が籠城する原城をめがけて艦砲射撃を加えています。島原の乱をテコにして、オランダは宿敵ポルトガルを追ひ落とし、そして鎖国体制下で対日貿易をまんまと独占するのです。

「イサクの嫁選び」がオランダからの舶来品だとして、禁教下の京の町衆はこれをどう認識していたのでしょうか。前出の『祇園会細記』は、「天竺」とあるばかりで、「キリスト教」の認識はうかがえません。

 実際に「イサク」が巡行するのは献上から80年後ですが、その直前にはイタリア人神父シドッチが屋久島に潜入するといふ事件が起きています。新井白石が審問して『西洋紀聞』を書いたのは有名ですが、シドッチ自身は江戸・小石川のキリシタン屋敷で牢死します。けっしてキリスト教信仰に寛容な時代ではありません。

 山鉾巡行に登場する鯉山、鶏鉾などには、ギリシャ神話を題材とした、16世紀後半にやはりベルギーのフランドル地方で製作されたタピストリーが用いられていますが、これらの使用は函谷鉾よりはるかに遅れます。

 異彩を放つ西洋の綴織「イサク」がはじめて都大路を巡行したとき、都人がどれほど度肝を抜かれたことかは想像にあまりあります。しかも禁制のキリスト教美術です。まかり間違えば、保管していることだけでも厳しい罪に問われたでしょう。それが京の町に公然と繰り出したのです。

 町衆は知らなかったのでしょうか。吉田氏は「そうではない」と考えます。年に一度の祇園祭に豪華な山鉾を巡行させた山鉾町の豪商たちは、昔も今も、最高の知性と徳を兼ね備えた教養人であり、同時に知っていても知らないフリのできる成熟した市民だった--と吉田氏はいいます。

 先述の『細記』は「イサク」の入手経緯について、「函谷鉾町の沼津宇右衛門家が繁栄を謳歌していたころ、異国船から買い求め、保管してあった」と説明していますが、「誰にも迷惑のかからない表現をした」というのが吉田氏の見方です。先述したように、『細記』は「イサク」の絵柄を「天竺」「ジャンケン」と説明していますが、吉田氏の説にしたがえば、納得がいきます。

 それにしても、禁制のキリスト教美術品と知っていながら、あえて危険を冒してまで、「イサク」を巡行させた山鉾町の町衆に底知れぬ力を感じるのは、私だけでしょうか。
天草四郎像.gif
 幕府が置かれている江戸に対して天皇の御所を擁する京都の政治・社会的な地位、幕府という政治権力者と対等に取り引きしていたらしい山鉾町の豪商たちの政治力・経済力などなど、に私は思いをめぐらすのですが、どうでしょうか。また逆に、「キリシタン迫害」「弾圧」の悲惨さが強調される傾向にあった近世のキリスト教禁教の実態というものを歴史的に見直すべきなのかも知れませんが、これ以上はいまのところ私の能力を超えています。

 しかし、少なくともキリスト教禁制の時代にさえ、禁じられた異宗教の価値を認められる日本人がたしかにいたことだけは間違いありません。異文明が激突する「波乱の21世紀」に生きる現代人への鋭いメッセージといえませんか。

追伸 この記事は「神社新報」平成14年1月14日号に掲載された拙文「古今東西の文明を包み込む京都祇園祭」に若干の修正を加えたものです。執筆に当たっては、文中の資料のほかに、参考文献として『祇園祭染織名品集』祇園祭染織研究会編、『祇園祭』祇園祭編纂委員会、祇園祭山鉾連合会、『祇園祭山鉾懸装品調査報告書--渡来染織品の部』梶谷宣子、吉田孝次郎などを参照しました。また、八坂神社のパンフレットから画像を引用させていただきました。この場をお借りして、お礼を申し上げます。(H14.2.19)
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

キリシタンを祀る!? 「長崎くんち」の諏訪神社 [神社神道]


▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
キリシタンを祀る!? 「長崎くんち」の諏訪神社
(「産経新聞」平成11年11月2日夕刊から)
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢

nagasaki_kunchi.gif
長崎の総鎮守(ちんじゅ)社・諏訪(すわ)神社では毎年10月上旬、「日本三大祭」のひとつとされる「長崎くんち」が行われ、全国から訪れる数十万人の拝観者・観光客の目を楽しませる。

祭りの見物(みもの)は奉納踊りで、77ある「踊り町」ごとに伝統の芸能が奉納される。日本風の獅子舞もあれば、中国情緒たっぷりの龍踊(じゃおど)りもある。爆竹も鳴る。オランダ服やオランダ語のかけ声もある--という具合に、街の歴史そのままに日本と中国とオランダのチャンポンだ。

しかし、その諏訪神社が「キリシタンを祀(まつ)る神社」といわれていることは、案外、知られていない。

▽「殉教の地」長崎

長崎はいうまでもなく、カトリックにとっては忘れがたい「殉教(じゅんきょう)の地」である。JR長崎駅前の歩道橋に立つと、正面のビルの谷間に隠れるようにして丘の上の「日本二十六聖人殉教記念碑」の巨大レリーフがのぞく。ここ西坂の丘で26人のキリシタンが秀吉の命令で処刑されたのは、400年前の慶長元年(1596)のことである。
26seijin.gif
処刑後、長崎のキリスト教信仰の灯は消えたのかと思いきや、郷土史に詳しい諏訪神社の神職、松本亘史氏によると、意外なことに「かえって盛んになった」という。

16世紀後半の長崎開港後に建てられた「岬の教会」は慶長6年には改修されて、「被昇天のサンタマリア教会」と名前を改める。当時、東洋一の規模を誇る教会で、日本宣教の中心であった。キリスト教が隆盛するかげで、諏訪・森崎・住吉の三神社が打ち壊された、と古い文献に記されているという。

やがて徳川幕府が禁教令を発し、キリシタン弾圧が始まると、今度は長崎の諸教会が破壊され、宣教師は追放になった。他方、キリシタンに破壊された諏訪神社は寛永2年(1625)に再興する。

「キリシタン合祀説」があるのは、諏訪神社の合殿神(あいどののかみ)の森崎神社である。諏訪神社は同じ社殿にいわば同居するかたちで、森崎神社と住吉神社を祀っているのだが、森崎神社の方は謎の神社で、いま県庁がある森崎の地にかつて独立して鎮まっていた──ということ以外はよく分からない。

▽上杉宮司の体験談

その森崎神社について、元長崎市立博物館館長で、純心女子短大の越中哲也(えっちゅう・てつや)教授は、森崎の地にあった「被昇天のサンタマリア教会」が破壊され、その跡地に建てられた祠(ほこら)であった、とする注目すべき説を唱えている。

つまり、教会の破壊後、祟(たた)りを恐れて神社が創建された、かつての教会をしのんで、信徒が神道的な社祠形式に改めて祀った、諏訪・住吉の2社が勧請された際、すでに教会跡に祀られていた祠を長崎の氏神と解釈して合祀した──というのだ。

森崎神社の歴史はキリスト教会の破壊後に始まった、と理解するのが越中氏だが、この点に関してはどうもそうではない。古い記録によれば、森崎神社が開校以前に県庁の場所に鎮まっていたことは、どうやら間違いないからである。

けれども、「キリシタン合祀説」の方はまた別で、諏訪神社の上杉千郷宮司の体験談は、むしろ「合祀説」を裏付ける証言とも聞こえる。つまり、上杉氏によれば、昭和57年に諏訪神社御鎮座三百六十年の社殿改修で本殿の遷座祭(せんざさい)が行われたとき、御船台におさめられた森崎神社の御霊代(みたましろ=御神体)は、諏訪・住吉両社とは異なって、「宮司一人では持ち上げられないほど大きく、重かった」というのだ。森崎神社とほかの2社とは明らかに違うのである。

キリスト教はヨーロッパ大陸に浸透していく過程で、「邪教の巣窟」である森を破壊し、ゲルマンの聖樹を伐採したあとに教会を建てたといわれるが、森崎神社もまず最初に岬に鎮まる森のなかの神社として存在していて、それがキリシタンによって破壊され、その跡地に教会が建てられたのではないか。

そのあと教会が禁教で破壊され、今度はキリシタンが追憶・慰霊などの目的で祠をおき、やがて諏訪神社再興のときに隠れキリシタンの信仰の隠れ蓑としての意味もふくめて、同じ社殿に祀られたのではないか、と考えられる。

あくまで推測だが、もしこれが事実とすれば、当時、ほとんどキリシタンばかりだったといわれる長崎の住民は、禁教後も、亡き人々の慰霊・鎮魂の思いを神道形式でずっと守り続けてきたことにもなる。

▽宣教師を祭る枯松神社

推測といっても、「キリシタンの神社」は突拍子もないものではない。

遠藤周作の小説『沈黙』の舞台といわれる長崎県西彼杵郡外海(そとめ)町黒崎の海を臨む山中には、枯松神社がひっそりと鎮まっている。宣教師のジワンを祀る神社とされ、殿内には「サン・ジワン神社」と刻まれた石祠がある。
karematsu_jinja.gif
注目したいのは、すぐそばにある「祈りの岩」だ。上杉氏は「磐座(いわくら)ではないか」と推測する。古代の日本人は巨岩をしばしば神の依代(よりしろ)と考えた。キリスト教伝来以前の聖地ということになる。
inori_no_iwa.gif
神仏混淆(こんこう)どころか、日本の神道はキリスト教とも習合したということなのか。恐るべき日本人の宗教的包容力といえるのではなかろうか。

追伸 この記事は平成11年11月2日づけ「産経新聞」夕刊の宗教欄に掲載された拙文「『長崎くんち』の諏訪神社 キリシタン祀る? 宗教的な包容力示す」に若干の修正を加えたものです。

ひとこと加えるなら、森崎神社の祭神はイザナギ・イザナミの男女2柱の神です。住吉神社はもちろん表筒之男、中筒之男、底筒之男の3柱の神です。簡単に想像でものをいうべきではないのですが、私には前者は聖母マリアとイエス、後者は父と子と精霊という三位一体の神、というように見えます。

なにしろ長崎の住人はほとんどすべてがキリシタンでした。長崎を治める代官でさえ、かつては熱心なキリシタンのひとりだったそうです。もともと強制的にキリスト教に改宗させられた人たちだとしても、禁教後は、神道形式に代えてキリスト教信仰を守る、というような方便が使われたことは容易に想像されます。いかがでしょうか。

朝鮮「建国の祖」から授かった小麦──埼玉県日高市・高麗神社 [神社神道]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝鮮「建国の祖」から授かった小麦──埼玉県日高市・高麗神社
(「農業経営者」45号、農業技術通信社、平成11年10月)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


埼玉県日高市の高麗(こま)神社を訪ねたのは、平成10年の暮れのことである。
高麗神社拝殿.jpeg
JR高麗川駅、西武池袋線高麗駅、高麗川郵便局、高麗小学校、高麗中学校、こま武蔵台団地、高麗川カントリークラブ……この辺はものの見事に「高麗」だらけである。

それもそのはずで、この地方は古代朝鮮・高句麗から亡命してきた遺民によって開かれた歴史を持つ。

いまから1300年以上も前の668年、朝鮮半島北部から旧満州・中国東北部を広く支配する強国・高句麗が滅亡した。唐と新羅の連合軍の前に屈したのである。そのころ東アジアは、日本も含めて、激動の時代であった。

それから約50年後、ここに「高麗郡」が置かれる。『続日本紀(しょくにほんぎ)』という古い歴史書には、霊亀2(716)年にいまの静岡、山梨、神奈川、千葉、茨城、栃木に住む高麗人1799人を武蔵国に移住させ、はじめて高麗郡をおいた、とある。

神社を建てたのは高句麗の遺民たちである。まつられているのは高麗王若光(じゃっこう)で、王族の子孫らしい。若光は祖国を失った遺民たちをよく導いた功績が評価されたようで、「王(こきし)」という姓を天皇から賜った、とやはり『続日本紀』に記されている。

宮司の高麗澄雄さんは若光の末裔で、59代目といわれる。宮司さんの姓もまた「高麗」である。

明日は大晦日、という忙しいところを、無理におじゃまして、宮司さんから長い時間、お話をうかがった。
高麗家住宅.jpeg
とくに興味深かったのは、神饌(しんせん)である。「氏子がムギバツ(麦の初穂)を(神前に)あげる」という。お祭りのときに一軒当たり1升の精白した小麦を奉納するというのである。

かつては決まった日に、農家が小麦をもって参詣し、あるいは小麦粉を練ってゆであげた小麦粉餅を神前に供えたらしい。

お米ではないところがボクには面白いのだが、なぜ小麦なのか。どうやら古代朝鮮の神話と関係があるようだ。

高句麗の建国神話には、「建国の祖」朱蒙の物語が描かれている。

母国扶余(ふよ)を発ち、建国の旅に出る朱蒙に、母・柳花は五穀の種を与える。ところが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れてしまう。旅の途中、木陰に休んでいると、2羽の鳩が飛んできた。「母が麦を届けてくれたのだ」と思い、朱蒙は一矢で2羽を射落とす。ノドを切り裂くと、はたして麦の種が見つかった。

日本の天孫降臨神話では神から与えられるのは稲だが、高句麗では麦である。ここに日本と朝鮮の建国神話の際だった違いがある。

邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の記述があることで知られる中国の歴史書『三国志』魏書東夷伝には、高句麗には良田がなく、田を作っても口腹を満たすほどの収穫はない、と書かれているが、それは高麗郡も同じで、宮司さんによれば、「戦後の農地解放のとき、この辺は農家1戸当たり4反(約40アール)の水田しかなかった」という。

この地方では古来、畑作と養蚕が盛んに営まれたといわれる。高句麗の遺民は畑作の民であり、故国の建国の祖から与えられた小麦で命をつなぎ、神に初穂を供えたのだろう。

『三国志』には、高句麗では10月に天を祭る「東盟祭」という祭りが都でおこなわれていた、と書いてある。

神話学者によると、岩屋に祀られていた穀母神と建国の祖である朱蒙東明王の降誕を祝う祭りだという。王みずからがおこなう国家的な盛大な祭りで、きらびやかに着飾った貴族たちが行列を作って練り歩いた。岩屋の神をお迎えし、都の郊外の水辺にお遷しして、神事がおこなわれたらしい。

高麗神社は高麗川のほとり、自然豊かな高麗丘陵に鎮まっている。高句麗の遺民は失われた祖国の神話を思いつつ、この地を自分たちの新たな聖地に選んだのだろうか。
高麗川.jpeg
しかし、もっとも重要なのは、高句麗の遺民たちが建てた神社が1000年以上の時を経て、日本社会にとけ込み、日本の聖地となっていることだろう。


追伸 この記事は、「農業経営者」45号(農業技術通信社、平成11年10月)に掲載された拙文「朝鮮建国の祖から授かった小麦」に若干の修正を加えたものです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

衰亡の淵に立つ「伝統宗教」──信仰世界に歴史的地殻変動 [神社神道]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
衰亡の淵に立つ「伝統宗教」──信仰世界に歴史的地殻変動
(「選択」平成11年7月号)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

百済寺.jpeg
その数18万を超えるといわれる宗教法人が激減している。直接の原因は平成7年末の宗教法人法改正である。

従来は宗教法人を「いじらない」「いじられない」状況下で、いったん法人格を取得すれば、何をやってもかまわない、というような実態があったが、役員名簿や財産目録などの提出を義務づける法改正で「休眠法人」が洗い出され、清算・解散が行われるようになった。きっかけはいうまでもなく「オウム事件」である。

といっても、文化庁の統計を見る限りでは、大きな変化は見られない。「宗教年鑑」に記載される神職や僧侶の数、氏子や信者数は各団体の自己申告に基づいていて、正確な実態をかならずしも反映していないからだ。

また、神職が常住しない小さな神社が1宗教法人と数えられる一方で、公称世帯数812万の巨大な会員を擁する創価学会が1法人にすぎず、カトリック中央協議会は全国に813の教会がありながら包括する法人はゼロというのでは、宗教法人数で教派・教団の教勢を判断することは不可能だ。

けれども、水面下では日本の宗教史上、空前絶後ともいうべき大きな地殻変動が確実に進んでいる。神社神道や既成仏教などの伝統宗教は、よって立つ信仰基盤を失いつつある。民族宗教にとっては、紛れもなく「末法の時代」の到来である。


▽1 都市化と過疎化

戦後の社会変動で、つねに指摘されるのは、都市化と過疎化である。
大皇器地祖神社.jpeg
都市化は伝統宗教のあり方を変えずにはおかなかった。核家族化、洋間が中心の家屋、都市型のライフスタイルに神棚や仏壇の存在は遠い。新しく引っ越してきた住民は、氏神様がどこかも分からない。マイホームは寝に帰るだけの「仮の宿」にすぎず、土地と結びついた氏神信仰は成立しがたい。

かつての雑木林や田畑は生命感のないコンクリート・ジャングルに置き換えられ、道路は一様にアスファルトに覆われている。一神教はエジプトのナイル川のほとりで生まれたといわれるが、四季折々の花鳥風月の多様性を否定したところに、砂漠のような乾いた現代都市の風景がある。多様な風土に基礎づけられた多神教的信仰世界の前提が崩れている。

宗教学者の井上順孝氏(国学院大学日本文化研究所教授)は、都市化によって「キリスト教の場合は信徒の増加を見、神社神道の場合は神社信仰が脱地域化し、地域の鎮守から広域の崇敬社への変化」をたどったと分析する。新たに転入した住民に氏子意識は希薄で、地元の祭礼への積極的参加は見られない。新宗教に吸収されたり、宗教的な無関心層となる傾向があるという(『現代日本の宗教社会学』)。

神社の初詣に関していえば、全国的に見て、一握りの著名神社に集中する傾向があり、参拝者が200人にも満たない神社が6割を超える、という報告もある(石井研二『戦後の社会変動と神社神道』)が、かといってキリスト教も、「司祭のなり手がいない」という切実な声が聞かれるほどで、カトリック、プロテスタントともに教勢は伸びていない。

他方、過疎化も深刻である。そもそも中山間地域では2000もの集落が消滅の危機にあるという。千数百年の歴史を持つ滋賀県のある山村で、長老たちが「男が3人しかおらん。祭りはどうなるじゃろ」と嘆くのを筆者は聞いたことがあるが、地域の氏子や檀家が激減し、祭りどころか神社や寺院の維持、集落そのものが風前の灯となっているのは決してここだけではない。


▽2 サラリーマン社会化とグローバル化

大きな要素なのに、案外、等閑視されているのがサラリーマン社会化である。

国民の半数近くは勤労者であり、サラリーマンに付き物なのが転勤で、回数は一人平均2.75回。高学歴者ほど多い。また、一生を同じ土地で暮らす人は4人に一人もおらず、ますます少数派になりつつある(伊藤達也『生活の中の人口学』、大友篤『日本の人口移動』)。

人口の9割までが農民だった江戸時代とは似ても似つかない。現代の日本人は恒常的に移動を繰り返す、いわば遊牧民と化している。伝統的信仰の前提となる稲作民の定住性はもはや過去のものなのだ。

さらにもうひとつ、国際化ないし世界化の波がある。
君ヶ畑1.jpeg
海外に出かける人の数が年間1500万人を超え、ヒト、モノ、カネの国際的移動がどんどん増大している。他方、日本は世界最大の食料輸入国で、日本人の胃袋には世界が詰まっている。地球を食べているような日本人に、生まれた土地の恵みで命をつなぎ、土に還るというような古典的信仰は実感を失っている。

それどころか、「伝統」の意味さえ変わってしまった、と井上氏は指摘する。帰国子女や転勤族の子弟は、「伝統」といわれても、キョトンとするだけだという。海外では創価学会や手かざしで知られる真光系の教団がしばしば「日本を代表する宗教」と理解されている。積極的な海外進出の結果である。

井上氏はグローバル化が民族文化に挑戦することになるのは明らかだとし、世界的な宗教状況が再編成に向かうこと、さらには「無国籍宗教」、あるいはルーツを単純に規定できない「ハイパー・トラディショナル」な宗教運動の出現すら予測している(『グローバル化と民族文化』など)。


▽3 郷土を持たない浮き草性市民

「神々の黄昏(たそがれ)」をいち早く、30年も前に予言したのは、神道学者の小野祖教氏(国学院大学教授、故人)である。

「国民の半数は郷土を持たない随時、転勤転住する浮き草性市民となり、世代的に、親子の職業関係がつながらず、居住もつながらず、親族、隣保、郷土の意識が薄れると……今後、氏神はいかなるものに変質するか分からない。神社神道史上の大きな課題を含む過渡的時代に当面している」(『神道の基礎知識と基礎問題』)

小野氏の指摘は深刻の度合いを深めている。しかし、檀家に支えられる仏教も同様だが、有効な対策はまったくといっていいほど講じられてこなかった。

ここにいたって、さすがに仏教指導者たちは真剣に受け止めるようになった。オウム・ショックで宗教全般への信頼が失墜し、葬儀のあり方や高額の戒名への懐疑が一挙にふくらんだ。これは「従来には見られない現象で、寺院の財源をおびやかしている」。

教理や教義ではなく、財政問題で尻に火がついたというのが「末法の世」たる所以(ゆえん)であろうか。

神社神道も事情は同じで、伊勢神宮から頒布される神宮大麻(神札)の減体に危機感を募らせる。目標は「一千万家庭奉斎」だが、平成10年度は約873万体、3年連続で減少しているという。大麻頒布は神道信仰の中心であると同時に、神社収入の重要な要素だけに看過できない。一方では、毎月数件の神社の吸収合併が報告されている。

たとえば「初詣」である。警察省の発表では、平成11年は不況を反映して過去最高の8811万人だが、井上氏によれば、「いまは二人に一人」という。古くは生命の甦りを祝う厳粛な日であった正月の過ごし方も一変し、海外旅行やスキー、ホテルでのんびり過ごすという人も多い。


▽4 「神道」が死語になる

井上氏は、「団塊の世代は『反宗教』だが、それなりに親から宗教教育を受けた。問題は次の世代だ。オカルトは受け入れるが、伝統的感覚の希薄な『無宗教第二世代』が社会の中軸になったとき、どうなるのか」と問いかける。
筒井神社.jpeg
そして「あくまで予想しうる選択肢のひとつ」と断ったうえで、伝統宗教の構造的な激変を予見する。「敗戦後、占領軍の外圧によって伝統宗教と新宗教は肩を並べるようになった。今度は伝統宗教がワン・オブ・ゼムになる」

井上氏はさらに、「神道」が死語になりつつある。民族的宗教伝統のシンボルである神社が「風景としての神社」に変わりつつある──とも語る。

祖先祭祀、稲作、そして天皇──。数千年守られてきた日本の精神文明の屋台骨が大きく揺らいでいる現代だが、文明の終焉を警告する憂国慨世の宗教的指導者はいっこうに現れてこない。


追伸 この記事は雑誌「選択」(選択出版)平成11年7月号に掲載された拙文「衰亡の淵に立つ『伝統宗教』-信仰世界に歴史的地殻変動」に若干の修正を加えたものです。

4枚の写真は木地師(きじし)の根元地といわれ、惟喬(これたか)親王伝説が伝わることで知られる滋賀県の湖東地方で撮影したものですが、記事の内容とは直接的には無関係です。
人生雑誌200008.jpeg
この記事は台湾の出版社法鼓文化が発行する「人生雑誌」2000年8月号に翻訳・転載されました。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

高句麗の王を祀り、小麦を献饌する──古代朝鮮の遺民が建てた埼玉・高麗神社 [神社神道]

▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
高句麗の王を祀り、小麦を献饌する
──古代朝鮮の遺民が建てた埼玉・高麗神社
(「神社新報」平成11年3月8日号から)
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢

koma_jinja01.gif
 昨年(平成10年)の暮れも暮れ、12月30日に埼玉県日高市の高麗(こま)神社を訪ねた。

 高麗川のほとり、自然豊かな高麗丘陵に同社は鎮まっている。8年前(平成3年)、市制以降で日高市になったが、明治29年までは高麗郡であり、近世は高麗郷といった。

『日本書紀』につぐ第2の勅撰史書である『続日本紀』には、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国の高麗人1799人を武蔵国に移住させ、はじめて高麗郡を置いたとの記述がある。元正天皇の時代、霊亀2(716)年5月16日、いまから約1300年前である。

 祖国滅亡という悲劇のあと、朝鮮半島から亡命してきた高句麗の遺民によって、神社は建てられた。祭神は高麗王若光。現宮司の高麗澄雄氏は若光の末裔で、59代目という。古代から現在まで幾多の歴史を秘めながら、直系子孫によって祭りが連綿として続けられ、多くの人々の尽きない信仰を集めているのは驚きだ。

 ちょっと興味をひかれるのは、神饌に麦が供えられることである。なぜ麦なのか?


▢ 高句麗、新羅・唐連合軍に滅ぶ
▢ 朝鮮半島も日本も激動の時代

 いまの北朝鮮から旧満州・中国東北部を広く支配していた強国・高句麗が滅亡したのは、668年である。

『日本書紀』には、天智天皇7年の冬10月に唐の将軍英公が高麗を滅ぼした。高麗の仲牟王は建国のとき、1000年にわたって治め続けることを誓ったが、母夫人(いろはのおりくく)は

「よく治めたとしても700年ぐらいだろう」

 と語った。実際、高麗は700年で滅んだ──とある。

 このころ朝鮮半島は混乱のさなかにあった。韓国の高校用歴史教科書には次のように書いてある。

 6世紀末、中国が隋によって統一されると、高句麗はその圧迫を受ける。煬帝の軍隊113万が侵攻したが、高句麗はこれを撃破して危険を回避、他方、隋は国力を消耗して滅亡する。

 唐がおこると、高句麗は侵略に備えて千里の長城を築いたが、唐の太宗は兵を率いて侵入した。

 それ以前、百済、新羅、高句麗の3国間の関係に変化をもたらしたのは、6世紀の新羅の飛躍的な領土拡張であった。百済と新羅の同盟関係は壊れ、百済と高句麗が連合して新羅を圧迫するようになる。危機に瀕した新羅は、隋、唐との連合を図る。660年、百済の王城は新羅・唐連合軍の攻撃によって陥落する。

 百済、高句麗の崩壊後、唐は朝鮮半島全体に支配権を確保しようとしたが、新羅は百済、高句麗の流移民を糾合して全面対決し、唐の勢力を完全に駆逐して三国統一を達成した(『韓国の歴史』)。

 6〜7世紀は、日本もまた大混乱期であった。年表風に振り返ると──。

 552年、仏教が百済から伝わる。

 562年、新羅が任那日本府を滅ぼす。

 587年、蘇我馬子が物部守屋を討つ。

 592年、馬子を排除しようとした崇峻天皇が逆に暗殺される。

 593年、最初の女帝・推古天皇が即位、甥の聖徳太子が摂政となる。

 604年、十七条憲法制定。最初の成文法。

 607年、小野妹子を隋に派遣。最初の遣隋使。法隆寺建立。

 622年、聖徳太子薨去。

 630年、犬上御田鍬らを唐に派遣。最初の遣唐使。

 643年、蘇我入鹿、山背大兄王を攻め滅ぼす。

 645年、大化改新。蘇我本宗家が滅ぶ。中大兄皇子(天智天皇)、皇太子となる。難波遷都。

 646年、改新の詔。

 663年、白村江の戦で日本軍が敗北。

 664年、対馬、壱岐、筑紫に防人とのろし台を置き、筑紫に水城を築く。

 668年、大津遷都。

 671年、天智天皇崩御。

 672年、壬申の乱。大海人皇子(天武天皇)の前に、大友皇子(弘文天皇)の近江朝が滅ぶ。

 673年、天武天皇即位。飛鳥浄御原遷都。

 百済、高句麗の滅亡から新羅統一にいたる時代は、東アジアの激動のときであった。その激動のなかで、日本では古代律令制国家が完成されていく。


▢ 麦の初穂を奉納する氏子
▢ 建国の祖が与えた命の糧

 高句麗滅亡後、王族や重臣たちが日本に亡命した。かつて貢進使の副使として来朝したことのある若光王の姿もあったらしい。

『続日本紀』に、大宝3(703)年4月4日、従五位下の高麗若光に「王(こきし)」という姓を賜ったと書かれているが、それは祖国を失った高句麗の遺民をよく導いた功績を評価されたためだという(『埼玉の神社』埼玉県神社庁発行)。

 高句麗の遺民たちは見知らぬ土地でどのように暮らし、どのような祭祀を行ったのだろう。

『三国志』魏書東夷伝は、邪馬台国の卑弥呼に関する記述があることで有名だが、高句麗に関するくだりもある。

 人々は居住地の左右に大きな建物を建て、そこで鬼神に供え物をし、また星祭りや社稷(しゃしょく。土地神と穀神)の祭礼を執行したという。鬼神とは祖先神らしい。

 また、10月には、天を祭る「東盟祭」が都で行われる、とある。

 神話学者で古代史家の三品彰英氏は、この東盟祭は岩屋の穀母神(地母神)と建国の祖・東明王(朱蒙)の降誕を祝う収穫時の穀神儀礼だと理解している(『古代祭祀と穀霊信仰』)。

 国王みずからが親祭する国家的大祭で、貴族大官は錦の着物、金銀の装飾品で着飾って、一大行列に参列した。岩屋の地母神をお迎えし、都の郊外の水辺にお遷しして、祭祀を行うのだが、このとき歳神の聖標として神座に据えられたのは、木でかたどった穀穂もしくは木に穀穂を結びつけたものであったらしい。

 若光らもこうした祭祀を行ったのであろうか。

 若光が亡くなると、人々は現在の高麗神社社殿の裏手にある小高い「後山(うしろやま)」の頂上に、若光王の御霊(みたま)をまつる霊廟を建て、「高麗明神」あるいは「白鬚明神」と呼んだ。いまは水天宮が鎮まる。

 高句麗の伝統的祭祀は、残念ながら現在ではうかがい知れない。

「鎌倉時代に本山派の修験になった。江戸時代には護摩を焚いていた。明治になると、明治式の祭式に変えられた」(高麗宮司)からだ。

 それでも注目されるのは、「氏子がムギバツ(麦の初穂)を上げる」(宮司)ことである。氏子は祭りに1軒あたり1升の精白した小麦を奉納するという。

 明治初年に著された『高麗神社年中行事』『高麗神社祭祀古典録』『高麗大宮神饌帳』によると、明治以前、6月1日および15日の朝に小麦粉餅が、24日には氏子の各組から小麦が供えられた。とくに神社のお膝元の「宮本の大宮組」は各自が小麦をもって参詣した。

 7月には1日、7日、15日の朝に小麦粉餅が供えられ、8月は1日の朝に小麦粉餅を供えた。粉を練り、沸騰したお湯にちぎって入れ、ゆで上げたものらしい(『埼玉の神社』)。

 高句麗の建国神話に、次のような麦の物語が描かれている。

 母国・扶余を立ち去る朱蒙に、母・柳花が五穀の種を与えるのだが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れてしまう。大樹のかげで休んでいると、2羽の鳩が飛んできた。母が麦を届けてくれたのだと思い、弓の名手であった朱蒙は、1矢で2羽を射落とす。喉を切り裂くと、果たして麦の種が見つかった。水を吹きかけると、鳩は蘇生した。

 その後、朱蒙は高句麗を建国する。

 高句麗には良田はなく、田を作っても口腹を満たすほどの収穫はない、と魏書に書かれているが、高麗郡も同様で、古くから畑作と養蚕が盛んに営まれた。

 高句麗の遺民たちは畑作の民であり、故国の祖神から与えられた小麦で命をつなぎ、神に初穂を供えてきたのだ。


▢ 戦時中は特高警察が監視
▢ いまは日韓交流の架け橋

 高麗宮司が「親父のころ」の、思い出深い話を聞かせてくれた。

「親父は2つ、イヤだと思ったことがある、と言っていた。1つは、村の駐在所に特高警察がいたことだ」

 お詣りする人たちを警戒していたらしい。前宮司はよほど気に入らなかったと見えて、戦後は「戦争に負けたのはともかく、特高警察がなくなったのは気持ちがよかった、と親父が言っていた」。

 もうひとつは「朝鮮人は各警察署ごとに『共和会』に入らされ、警察署長が引率して参拝にやってきた」ことだ。

「警察は親父に、『立派な日本人になるように言ってくれ』と頼んだ。そう言われるのが親父はイヤでイヤで仕方がなかった」

 戦時中の高麗神社は「一方では監視され、一方では(民族政策に)利用される対象だった」らしい。

 そのころ警察に連れてこられた在日の人たちが、いまも参拝にやってくる。

「むかしはイヤだったが、いまはここに来るとホッとする、と言うんだ」

 時代が変わり、いまや神社は在日の人たちの心のふる里であるらしい。

「それは(ご祭神の高麗王若光と)血がつながっているヤツがここにいるからだ。よく覚えておけよ、と息子にも言ってある」

「彼ら(在日の人たち)からすると、俺は朝鮮人だと思うんだな。だから韓国の国旗を贈られたことがある。社務所に飾ってくれ、って言うんだ」

 参拝する韓国系の人たちは朝鮮半島の史跡よりも、この神社に深い郷愁を感じているのかも知れない。

 韓国本国からの青年は、留学生のほか技術研修の若者など、年間1000人にも上るという。

「ここに来るのがうれしいらしい」

 外交官や経済人もやってくる。

 神社といえば、戦時体制下の「強制参拝」という暗い過去ばかりが語られがちだが、神社を架け橋にして、日韓の民間交流が進められ、成功している。そんな例がほかにあるだろうか?

「薩摩焼の沈寿官さん(秀吉の朝鮮出兵の際に捕らえられ、来日した朝鮮陶工の14代目)が韓国名誉総領事なら、俺は名誉大使かな」

「韓国人が日本人の悪口を言うのも腹が立つが、俺は日本人が韓国の悪口を言うのも腹が立つんだ」

 こんなことを平気で語れる日本人はいまい。まして神職では高麗宮司だけだろう。とかくぎくしゃくする日韓関係を思えば、この人の存在意義はまことに大きいといわねばならない。

「俺は日本人なんていねえと思うんだ。みんな渡来人だと思うんだ」

 と断定されると困ってしまうが、少なくともアジアという多元的な国際環境のなかで、日本民族が歴史的に形成されてきた事実は無視できまい。

 明日は大晦日。神楽殿ではここ数年、近隣の青年が始めた創作芸能の練習が続いていた。今回はシンセサイザーやパーカッションなどとのセッション。朝鮮音楽風のリズムがうきうきさせるほど心地いい。

「初詣には10万人がやってくる。ほとんどがクルマだから、3キロの渋滞ができる」(宮司)そうで、空き地という空き地が臨時駐車場に早変わりしていた。

 渡来人の聖地が、いまや日本の聖地として、日本の社会に溶け込んでいる。こんな例がほかにあるだろうか?

 高麗宮司に別れを告げたあと、境内から数百メートル離れたところにある若光の墓を訪ねた。ハングル文字で願い事を書いた祈願の絵馬が覆屋のとびらにたくさん懸けられている。

「あと18年すると、高麗郡がおかれてちょうど1300年になる。俺は88歳。それまで長生きして、神社主催で盛大に祝おうと思うんだ」

 高麗宮司の言葉が蘇ってきた。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

産土神(うぶすながみ)について考える──国際化とサラリーマン化と民族宗教 [神社神道]

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
産土神(うぶすながみ)について考える
──国際化とサラリーマン化と民族宗教
(「神社新報」平成9年6月9日号)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「私、カップ麺、持ってきたワ」
「私はインスタントの味噌汁」──。

 タイのバンコク空港の入国審査で、旅慣れているらしい年配の日本人女性が談笑している。

 海外旅行の旅先で、外国の食文化にどっぷり浸かり切るのは難しい。どうしても日本食が恋しくなる。だから、旅行用品店では、お湯をかけるだけで食べられるというご飯やおにぎり、お惣菜が売られている。

 海外赴任者にお茶や味噌など、日本の食材を定期的に宅配する業者さえある。インドのボンベイ(ムンバイ)で再会した商社マンの、自宅の冷蔵庫には生卵や納豆、海苔もあった。

 海外に出かける人の数が年間1500万人を超え、ヒト、モノ、カネの国際的移動がどんどん増大しているのに、私たちの舌は完全には世界化できないでいる。

 いや、そうではない。私たちの胃袋には、知らぬ間に、「世界」が詰まっている。日本は世界最大の食料輸入国なのだ。

 生まれた土地の恵みだけを命の糧としていた時代は、遠い過去となった。となると、村々の風土に根ざした神道の産土信仰は、もはや幻影に過ぎないのだろうか?


□年間1500万人が海外へ
□世界で最大の食料輸入国

 日本は今日、世界最大の食料輸入国である。昭和59年に旧ソ連を抜いて第1位に躍り上がってから、毎年、輸入ばかりが増え続けている。輸入額では、世界の8・1%を日本が占める。その結果、食糧自給率(供給熱量自給率、平成6年)は46%、穀物自給率では30%となる(『農業白書』など)。

 穀物自給率が低いのは、飼料穀物の大半が輸入だからで、これを100%にしようとすると、耕地拡大のために日本列島があと2つ必要になるという。輸入なしでは私たちの食卓は成り立たなくなっている。

 魚介類もまた同様で、日本は世界1位の輸入国である。国内の総供給量1320万トンのうち36%、1兆7000億円(平成4年)が輸入だ。金額では鉄鉱石や石炭を上回る。

 韓国のマグロや赤貝、アメリカのカニ、サケ・マス、ニュージーランドのタイ、オーストラリアの伊勢エビ──うっかり「江戸前の寿司」を信じ込むわけにはいかない。世界の漁獲生産量約1億トンの1割以上が日本人の胃袋に消える(加倉井弘『これでいいのか日本人の食卓』)。

 米はどうか?

 大凶作に見舞われた平成5年の翌年は豊作で、自給率は120%に跳ね上がった。けれども農業機械を動かす石油や生産に欠かせない化学肥料の原料は輸入だし、完全自給とはいいがたい。私たちはまさに地球を食べているのだ。

 古人は、生まれた土地の恵みと水と空気で命をつなぎ、やがて土に還っていった。そこに農耕社会に即応した産土神的信仰が培われたのであろう。評論家の筑波常治氏はこう書いている。

──日本人が主食とする米、つまり稲の特徴は、連作障害がないことである。小麦もジャガイモも、同じ畑で栽培すると翌年には病害が発生する。ところが、稲は毎年、連作できる。水田開発は畑の開墾よりはるかに手間がかかるが、これは大きな利点だ。
 その結果、稲作民は定住性を高め、土地への強い愛着が生まれ、猛烈な郷土愛を育んだ。ヨーロッパのナショナリズムが民族の人種意識と結びついているのとは違って、日本人の愛国心は土地と結びついている。日本人にとって、国家とはすなわち国土なのだ。

 筑波氏はそれぞれを、「民族ナショナリズム」「国土ナショナリズム」と名付けている(『米食・肉食の文明』)。

 しかしすでに農耕社会の段階は終わり、商品経済の浸透によって、私たちの生命はいまや地域を飛び出し、さらに国境を越えて、世界に依存している。その土地ならではの味覚は感動さえ覚えるが、農家がスーパーで野菜を買うような時代である。大地を耕し、その恵みをありがたく頂くという宗教的感覚は衰退している。

 國學院大學の井上順孝先生は、コンピュータの急激な普及や人的交流の拡大など、国境を越えて進行しているグローバル化(世界化)が、民族文化に挑戦することになるのは明らかだと指摘し、世界的な宗教状況が再編成に向かうこと、果ては「無国籍型宗教」の出現すら予見している(『グローバル化と民族文化』)。

 地域の風土に根ざした産土信仰の前提がすでに崩壊しているのではないか?


□稲作民の定住性を喪失
□「遊牧民」化した勤労者

 もうひとつ、産土信仰の消長に影響を与えずにはおかないものとして、都市化とサラリーマン化があげられる。『労働白書』によると、日本の人口1億2520万人(平成7年)のうち、就業者数は6457万人、雇用者は5263万人。国民の半数近くは「宮仕え」なのである。

 サラリーマンに付きものなのが転勤である。転勤による移動は1人平均2・75回、高学歴者ほど転勤が多い。年齢では30代が4割を占めるが、40〜50代になると、単身赴任が増える。海外赴任を含めて、その数は30〜40万人、年々、増加傾向にあるという(伊藤達也『生活の中の人口学』)。

 たとえば、長野・諏訪大社の澁川謙一宮司は、「諏訪は中小企業までが海外進出して、単身赴任する人がけっこう多い」と語る。諏訪は精密機械の企業城下町だが、円高時代に生産拠点が海外にシフトした影響は、祭りのあり方に及んでいるという。

 日本女子大学の大友篤先生によると、一生を同じ土地で過ごす日本人は4人に1人もおらず、ますます少数派になりつつある(『日本の人口移動』)。産土信仰の前提である農耕民族の定住性が失われている。そのうえ通勤通学は人口増を上回る勢いで増大し、移動区間は拡大している。

 平成2年の通勤者の数は4990万人。30年前の2倍以上に及ぶ。このうち他市区町村への通勤は23・6%に上る。大阪や東京では住んでいる人口の半分に当たる人間が通勤通学で毎日、流入するというからすさまじい(『現代日本の人口問題』)。

 東京は都心が過疎化する一方で、千代田区では夜間人口の2637倍、中央区では1107倍に昼間の人口が膨れ上がる(大友前掲書)。いわゆる「埼玉都民」「千葉都民」などが流入するからだ。寝るだけの居住地に郷土意識が芽生えるだろうか。多くのサラリーマンにとって、マイホームは「仮の宿」でしかない。

 農民が9割を占めていた江戸時代から、明治、大正、昭和を経て、社会構造は一変した。日本人は恒常的な移動を繰り返す、いわば「遊牧民」と化している。

 さらに、都市化は日本の風土そのものを変えてしまった。もう故人となってしまった東京・川の手のある神職は、こう語っていたという。

──いまとは違って、墨東は閑静な片田舎で、せせらぎが流れ、ネコヤナギが芽吹き、ヨシキリがさえずっていた。同じ区内でも、自然は多様で、湿地もあれば、砂地もある。生産される農作物も異なる。土が人間の命を育み、村人の気質を作り上げる。
「それが産土なんだよ。土をバカにしてはならない」

 ところが戦後、都市化の波が田園を蹂躙し、道路はアスファルトに覆われ、雑木林は田畑は生命感のないコンクリート・ジャングルに置き換えられた。多様な風土が多様な人間の気質と信仰を生むのだとしたら、画一的な都市空間が住民とその信仰に何をもたらすかは明らかであろう。

 神道学者の小野祖教先生が、
「国民の半数は郷土を持たない随時転勤移住する浮き草性市民となり、世代的に、親子の職業関係がつながらず、居住もつながらず、親族、隣保、郷土の意識が薄れると……今後、氏神はいかなるものに変質するか分からない。神社神道史上の大きな課題を含む過渡的時代に当面している」(『神道の基礎知識と基礎問題』)
 と指摘し、警鐘を鳴らしたのは30年も前だが、事態は深刻化するばかりだ。


□神道信仰に重大な変化か
□地域共同体再生のために

 一方で、時代や社会がいかに変わろうとも、神道や神社、祭りが変わることはないとする楽観的な見方もある。確かに日本人が日本人であるかぎり、神道それ自体が廃れることはなかろう。だが、個々の神社はどうなるか?

 滋賀の山奥で、「男が3人しかおらん。祭りはこれからどうなるじゃろ」という長老の嘆息を私は聞いている。阪神大震災後、淡路島の、ある支部長は、昭和27年には鎮まっていた神社が2社、所在が確認できなかったと嘆いている。過疎化の影響で、神職不在の神社が増えている。伝統的祭祀ばかりか、神社自体の維持管理が困難になっているケースもある。

 その一方で、都心のビルの谷間にある産土神もまた大きな危機に見舞われている。

 前掲の井上先生は、都市化によって、「キリスト教の場合は信徒の増加を見、神社神道の場合は神社信仰が脱地域化し、地域の鎮守から広域の崇敬社への変化」をたどったと分析する。新しい住民に氏子意識は希薄で、地元の祭礼から離脱する傾向がある。初詣には著名な神社にお詣りし、新宗教に吸収されたり、宗教的無関心層となっている(『現代日本の宗教社会学』)。

 神社の祭りには共同体の一体化をもたらす機能があるといわれるが、伝統行事から疎外された新住民と古い氏子との分裂傾向も指摘されている(芹川博通『都市化時代の宗教』)。

 國學院大學の石井研士先生によると、昭和30年代、戦後の経済復興で神社財政は全国的に上向いた。社殿再建が進められ、神前結婚も増えた。しかし戦後の社会変動があまりに急激だったため、背後で進行する時代のうねりに対応できなかった。共通理解が得られるようになったのは、最近のことだ、と語っている。

 大正12年の関東大震災のあと、神宮奉斎会の会長今泉定助にとって、灰燼に帰した日比谷大神宮の復興が当面の任務であった。だが、今泉は、「目に見える神殿の建設よりも、日本国民の精神の再建の緊急なことを痛感」した。そのため今泉は、敬神護国団を創建し、神宮大麻の普及などに尽力した。その結果、バラックの民家にも神棚が設けられるようになったという(『今泉定助先生研究全集1』)。

 その歴史の教訓は、戦後の焼け跡で活かされたであろうか? 大都市に流入した住民が団地に神社を勧請した例はあることはあるが、次の世代に信仰が引き継がれているものなのかどうか。追跡調査はないらしい。

 郊外に建設されたニュータウンはいま、人口流出と急激な高齢化を指摘されている。次の世代はどうやら大都市圏を放浪し続けている。産土信仰の行方は、各神社の個別的な問題ではない。多様な産土神がそれぞれの存立基盤を失っていくとすれば、神道の多様性はやせ細っていかざるを得ないからだ。

 國學院大學・上田賢治先生の「神道がその多神信仰の性格を失うとき、もはや神道ではなくなる」(『神道神学論考』)との指摘は時代への警鐘でもあろう。世界化や都市化の進展は神道信仰に、すなわち日本人の民族宗教に、重大な変更を与えるのではないか?

 都市の膨張や通勤地獄は社会病理や家庭崩壊の原因ともなっている。さまざまな教化の試みのほかに、産土神と氏子との関係を回復し、地域共同体を再生するために、職住接近や労働時間短縮の推進など、地域づくり、国づくりの政策提言を神道人が積極的に進めることはできないだろうか?

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース
- | 次の10件 神社神道 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。