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総督府が斎行した朝鮮の祭祀──日本統治下での知られざる宗教政策 [日韓関係]

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総督府が斎行した朝鮮の祭祀
──日本統治下での知られざる宗教政策
(「神社新報」平成12年10月9日号から)
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 数々の感動のドラマが展開されたシドニー・オリンピックが閉幕した。

 期間中の最初の見せ場は、韓国と北朝鮮の選手団が「統一旗」を掲げ、同じユニフォームで合同入場行進を果たした開会式で、(平成12年)6月の平壌での南北首脳会談以降、朝鮮半島で進展を見せる緊張緩和への動きをいまさらながらに強く印象づけた。

 しかし雪解けはムードばかりが先行し、南北間の軍事的緊張と不信は何も変わらない。北朝鮮の核ミサイル開発も拉致疑惑も、解決の道のりははるかに遠い。

 日朝間では、(平成12年)8月に国交正常化交渉が再開されたが、北朝鮮大使は案の定、「植民地支配に対する謝罪と補償」を強硬に求めた。

 日韓関係も同様である。先月(9月)に来日した金大中・韓国大統領が「年内実現」を要請した永住外国人の地方参政権付与問題の背後には、「強制連行」問題がある。

 ということで、今回は、日韓・日朝の和解の前に立ちはだかる「歴史の重荷」の1つ、日本統治時代の宗教政策を考える。


▢1 「日帝」が「神社参拝を強制」という歴史理解は正しいのか

 近年、韓国の小・中・高校の国定歴史教科書が日本国内で翻訳出版されるようになった。

 試みに中学校の教科書を開いてみると、「日帝」批判のオン・パレードである。

 ──朝鮮民族と朝鮮文化を抹殺する政策を実施した。内鮮一体と皇国臣民化などのスローガンを掲げ、韓国人を日本人にして韓民族をなくそうとした。韓国語の使用を禁じ、日本語の使用を強制し、韓国史の教育を禁止した。韓国人の姓名を変え、日本式の姓と名を使うよう強要した。各地に日本の神社を建てて参拝させ、子供たちに皇国臣民の誓詞を覚えさせた。

 相変わらず、厳しい批判である。

 同様の歴史理解は、韓国の国定教科書に限らない。

 たとえば朝日新聞は、森首相の「神の国」発言騒動の際、一般記事のほか社説やコラムなどを総動員し、

「国家神道が軍国主義と結びつき、アジア侵略を正当化する理論的支柱となった」というような批判を繰り返し加え、

 論説委員のコラム「窓」などは、森首相の「妄言」について、韓国紙が大報道を控えたことを、韓国の「成熟」と評価し、エールを送った。

「戦前を知る韓国の人々はかつて日本がしたことを忘れたわけではない。日本風の姓名を押しつけ、日本語の使用を強要したばかりではない。『皇国臣民の誓詞』を暗記させ、学校では日本に向かって宮城遥拝させた」にもかかわらず、という論理である。

 こうした常識論的な天皇批判や神道批判、歴史批判の誤りについては、この連載で何度か取り上げてきた。

 たとえば「創氏改名」については、日本風の姓名を押しつけたのではなく、朝鮮の家族制度を「家」制度に再編するため、家の呼称である「氏」を創設することで、男子血統の記号である朝鮮の「姓」や本貫が廃止されることではなかった、とする在日の研究者による最新の研究についても紹介した(金英達『創氏改名の研究』)。

 面白いことに、朝日新聞はこの(平成12年)夏、都内のある大学に朝鮮総督府高官の肉声テープが保管されていたとするスクープ記事を掲載したが、その際、「創氏改名」について、「氏の設定を日本風にするかどうかは任意。名を日本風に変えることもできた」と「朝日的」ではない説明を載せていた。

 同じ朝日新聞でも、記者個人によって、歴史理解の度合いがかなり異なる。

「日本語の強要」も、たとえば金大中氏は、『私の自叙伝』に、

「朝鮮語の正規の授業がなくなった……学校内では、朝鮮語を使うことが禁止されました」

 と書いているが、その一方で,同書には補足説明として、昭和13年に第3次朝鮮教育令が公布され、朝鮮語は「随意科目」となった。朝鮮語の授業を廃止した小学校が多かったが、金大中少年の6年生の成績簿には朝鮮語の成績が10点となっている。週一度程度の朝鮮語の授業があったことをうかがわせる──という記載がある。

 さて、それならば、「神社参拝を強制した」と批判される朝鮮総督府の宗教政策とは、実際のところ、どのようなものだったのだろうか?


▢2 賀茂百樹・靖国神社宮司が見た殿・陵・祠・院の国家的祭祀

 戦前、30年間の長きにわたって靖国神社宮司の職にあった賀茂百樹(かも・ももき)が昭和6年、満州・朝鮮を旅行した。そのときの印象が全国神職会の広報紙的存在であった「皇国時報」に載っている。

 全国神職会は神社本庁設立母体の1つ、大日本神祇会の前身だが、賀茂は朝鮮伝統の祭祀がほかならぬ朝鮮総督府の手で厳修されていた、と書いている。

 賀茂の「朝鮮の殿・陵・祠・院の祭祀──満鮮旅行記2」(「皇国時報」昭和6年7月11日発行)は、

「朝鮮には国家の儀制として享祀の典礼が行われる殿と陵があり、行うことを公認された祠と院とがある」という書き出しで始まる。

「殿」というのは、朝鮮総督府が昭和10年に発行した『施政二十五年史』などによると、上古から高麗朝までの歴代王朝の始祖、および特別な功徳のある先王の遺霊を祀り、追還報徳の誠敬を致す斎場で、次の八殿がある。

①崇霊殿(享祀者=檀君および高句麗始祖東明王)
②崇仁殿(箕子)
③崇徳殿(新羅始祖朴赫居世)
④崇信殿(新羅王昔脱解)
⑤崇恵殿(新羅王金味鄒)
⑥崇烈殿(百済始祖高温祚)
⑦崇善殿(駕洛国始祖金首露王)
⑧崇義殿(高麗太祖王建および顕宗、文宗、元宗)

「陵」は、上古より高麗朝に到るまでの歴代王の遺骸を埋葬した墳墓で、その所在が明らかになっているものが98か所あるが、享祀が斎行されているのは次の6陵である。

①箕子陵
②新羅始祖朴赫居世王陵
③新羅金味鄒王陵
④高句麗始祖東明王陵
⑤新羅昔脱解王陵
⑥高麗太祖顕陵

 賀茂によると、総督府はこの八殿・六陵に対して、国家として祀典を定め、春秋2回、奠幣供饌の祭祀を儒教形式で、国費をもって挙行した。「内地」の官社がそうであるように、大祭日には道知事が派遣された。

 また各殿陵には参奉と守護人の各1名が奉仕のために置かれ、とくに参奉は享祀者の子孫もしくは有縁の者が採用されたという。祀典に預かれない、残る92の王墓にも守護人が置かれていたという。

 これら国家によって享祀の典礼が斎行される殿陵のほかに、公認された祠(17か所)と書院(27か所)があった。いずれも名儒賢臣の遺霊を祀り、その学徳を追慕し、徳化を報謝するための祭祀が励行される斎場であった。

 祠廟のなかで、とくに注目を引くのは、「忠武公」李舜臣を祀る忠烈祠(慶尚南道統営郡)である。

 李舜臣は豊臣秀吉の軍が朝鮮半島に攻め入ったとき、水軍を率いて、これを打ち破った。この「朝鮮の英雄」の祠廟が、じつに「日帝」時代に公認されていたのである。

 これもまた、「韓国国定教科書」的な「日帝」支配のイメージとはだいぶ温度差がある。

 ただ注意を要するのは、これらは厳密には、神社と同様、「祭祀」であって、「宗教」ではない。総督府は「祭祀」と「宗教」を峻別していた。


▢3 祭祀と宗教に対する理解の相違。一神教と多神教との神観の相克

 神社参拝に関連して、賀茂はこう指摘している。

「満鮮の神社は内地人の神社で、目的は内地人に限られているようだ。祭日には内地人は身を浄め、衣を替えて参拝するのに、満鮮人は薄汚れた衣服のままで物見半分にやってくる。不愉快を感じさせるので、追い払っていると聞いた。現状ではやむを得まい」

 賀茂の満鮮旅行は昭和6年の初夏で、満州事変が起こる数か月前のことだった。

 そのころはまだ「強制参拝」どころではなかったらしい。

 そのうえで賀茂は、朝鮮人は同じ「日本国民」であるから、神社参拝を勧めることが「内鮮一体化」の実をあげることになる──と主張するのである。

 だが、歴史の皮肉なのか、戦時体制化が進展するにつれ、「神社参拝の強制」が朝鮮人の反発を呼ぶようになる。そして在野研究者・韓晳㬢氏の『日本の朝鮮支配と宗教政策』によれば、

「神社参拝強要は学校から始まった」という。

 韓氏によれば、昭和7年9月、秋季皇霊祭の日に平壌で満州事変戦没将兵慰霊祭が挙行された。各学校の生徒たちは参拝を求められたが、キリスト教系の学校が拒否し、問題化する。

 その後、当局から全国の学校に国民儀礼としての神社参拝を厳守するよう通達が出されると、アメリカ系プロテスタント教会は反発を強めた。

 昭和10年11月、平安南道知事が道内の中学校長を招集し、平壌神社参拝を命令したが、崇実中学校長マキューンと崇義女子中学校長スヌークらがこれを拒否し、当局と宣教師との関係がこじれていく。

 同じキリスト教でも、天主教(カトリック)などは参拝していたが、プロテスタントの長老派協会は、参拝拒否を機関決定し、知事に回答した。やがてマキューンとスヌークは校長職の認可を取り消され、アメリカに帰国する。

 これが果たして「強要」といえるものなのかどうか?

 当局と教会とのすれ違いの背後にあるものは、つまるところ、「祭祀」と「宗教」に対する理解の相違、一神教と多神教の神観の相克であり、日本、朝鮮、そしてアメリカの宗教文化の違いではなかったか?

 当時のキリスト者のなかには、そのことをよく理解する人もいた。長老派が反対色を強め、総督府が「弾圧」を強化していったとき、昭和13年6月、説得のため渡鮮した日本基督教会大会議長の富田満牧師は、

「いつ日本政府はキリスト教を捨て、神道に改宗せよと迫ったか。国家は国家としての祭祀を国民に要求したに過ぎない」と語っている。

 この富田氏の姿勢が戦後のキリスト者には「卑屈な恫喝」と映るのだが、少なくとも朝鮮総督府の統計を見るかぎり、「受難」どころか、キリスト教の教勢は拡大し続ける。

 朝鮮における各宗教の信徒数の変遷(出典は朝鮮総督府刊『朝鮮総覧』『施政三十年史』。ここでいう「神道」とは教派神道八派のことである)

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 総督府の官僚は神社非宗教論に固まっていたが、神道人は必ずしもそうではない。朝鮮神宮初代宮司の高松四郎は、神社のあり方をめぐって、総督府と激論を闘わせている。

 官僚たちは、

「神社は倫理的な施設であり、祈願や祈祷、神前結婚もすべきではない。神符、守札も不都合だ」と主張したのに対して、

 高松は、

「神社とはけっしてそのようなものではない」と反論し、総督・総監の御前会議さえ求めたといわれる(手塚道男「朝鮮神宮御鎮座前後の記」=小笠原省三編『海外神社史 上巻』所収)。

 高松は大正14年の朝鮮神宮遷座祭直前に、「朝鮮の始祖および建国功労者」を合わせ祀ることを首相に建議した気骨ある神道人有志の1人であった。

 朝鮮神宮は、北海道開拓を含め、海外の神社に国魂神を配祀しない、悪しき先例といわれる(『近代神社神道史』)が、もし朝鮮神宮に朝鮮の祖神が奉斎され、国家的祭祀が斎行され、日本人・朝鮮人の別なく、拝礼する風が築かれていたとしたら、その後の歴史はどう変わっていただろうか?

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日本が朝鮮語を奪ったのか──韓国歴史認識の度し難き偏見 [日韓関係]

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日本が朝鮮語を奪ったのか
──韓国歴史認識の度し難き偏見
(「神社新報」平成11年6月14日)
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井上角五郎(『井上角五郎先生伝』から)
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 井上ひさし『東京セブンローズ』が話題を呼んでいる。テーマはGHQの日本語ローマ字化だ。

 昭和21年3月、来日したアメリカ教育使節団は日本語のローマ字化を要求する報告書をマッカーサーに提出するのだが、結局、ローマ字化は実現されなかった。井上の小説はその謎に迫っている。

 ローマ字化推進の張本人は民間情報教育局のホール少佐である。反対の意見を述べる主人公に対して、ホールはこう語る。

「あなたたちは朝鮮半島の人々に、朝鮮語を捨てて、日本語を使えと迫ったではないですか。他人にしたことをけろりと忘れて、同じことを他人から要求されると激怒する。おかしいじゃないですか」

 戦前、日本語が朝鮮の言語を奪ったという理解は一般的である。しかしほんとうにそうなのだろうか。

 韓国大統領金大中氏の自叙伝『新しき出発のために』には、

「日本は……韓国語と韓国の歴史を学ぶことを禁じました」

 とあるが、もうひとつの『私の自叙伝』には、

「朝鮮語の正規の授業がなくなった……学校内では、朝鮮語を使うことが禁止されました」

 となっていて、ニュアンスが異なる。

 しかも『自叙伝』の補足説明は、昭和13年に第3次朝鮮教育令が公布され、朝鮮語は「随意科目」となった。朝鮮語の授業を廃止した小学校が多かったが、金大中少年の6年生の成績簿には朝鮮語の成績が10点となっている。週に1度程度の授業が行われていたことをうかがわせる、と記述している。

 金大中氏は朝鮮語の授業を受けていた。母国語を自由に話せない状況には同情を禁じ得ないが、

「言語を奪われた」

 とまでは言いがたいのではないか。もしかして、朝鮮人特有の事大主義から、みずから進んで朝鮮語を廃止させた歴史があるのではないか。

 これ以前、昭和8年暮れから翌9年正月にかけて、当時随一の神道思想家・今泉定助は、陸軍参謀本部の要請で、5回にわたって、「国体の本義」を連続講演した。そのなかで、今泉は思いきった政府批判を加えている。

 いわく、明治天皇が日韓を併合されたのは、両民族の平和幸福のためであることはいうまでもないが、その後の総督政治は御趣旨に反しているのではないか。一も二もなく、ことごとく日本化することをもって政治の要諦とするかのような観があるのは、超嘆息を禁ずることができない。

 強権的な日本政府に対して、民間人の中には朝鮮および朝鮮民族に対する熱い思いがあった。

 韓国ではハングル(訓民正音)の創設者である李朝4代世宗王への尊敬の念は深い。しかし、ハングルは朝鮮社会に長らく浸透しなかった。支配階級である両班のインテリは漢文をよしとし、ハングルを低俗的とみて、用いなかったのだ。

 ハングルがようやく社会に浸透するのは、400年後の19世紀末になってからで、その功労者は日本人福沢諭吉であった。

 福沢はハングルの活字を作らせ、門弟の井上角五郎(日本製鋼所などの創業者・経営者、政治家)にハングル交じりの新聞「漢城周報」を発行させた。

 けれども、こうした歴史はほとんど知られていないようだ。韓国の高校用国定歴史教科書は、開化党が改革の一環として「漢城旬報」を発行したと記述する。

「旬報」は韓国最初の新聞で、これも外衙門顧問の井上の業績であった。井上は「旬報」を漢文で発行した。福沢は門弟の快挙に喜びつつ、ハングルの使用を勧めた。その経緯があり、明治19年に「周報」として復刊したとき、ハングル交じりとなったのだ(『井上角五郎先生伝』)。

 ところが、著名な在日の歴史家・姜在彦氏は、「周報」の国文使用のカゲに井上の努力があったことを無視することはできないとしつつも、国漢混合文体は朝鮮人の姜瑋が考案したと強調する(『朝鮮の攘夷と開化』)。

 何が何でも日本人が朝鮮語を奪った歴史でなければ気が済まないのであろうか。

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朝鮮と山口を結ぶ不思議なる歴史の因縁──弥生人、倭寇、壬申倭乱、併合、そして正常化 [日韓関係]

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朝鮮と山口を結ぶ不思議なる歴史の因縁
──弥生人、倭寇、壬申倭乱、併合、そして正常化
(「神社新報」平成11年6月14日号)
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 昭和から平成への御代替わりに時を合わせて、皇祖神をまつる神宮の神田で誕生した稲の新種・イセヒカリの栽培が「西のお伊勢さま」山口大神宮がまつられる山口県でとくに広がっていることは、ご承知のとおりである。

 山口市街に鎮座する同社内宮が、不慮の火災で焼失したのは4年前のことだが、いまも焼け落ちたままの惨たる姿には落涙を禁じ得ない。心を痛める県神社庁は、少しでも復興のお役に立てればと、県内外に頒布されるイセヒカリの初穂料のほとんどを同社に奉納してきた。

 昨年(平成10年)12月には外宮社前の苔むした籾置岩で、「御神米」の健全なる普及を祈願する「御種子神事」が斎行された。かつて人々はこの岩に稲や麦の種籾をおいて豊作などを祈ったといわれるが、いつしか神事は絶えていた。室町時代、大内義興の治世以来続いたと伝えられる、由緒ある祭典は平成の時代、イセヒカリの発現によって復興した。

 だが、内宮再興は来年(平成12年)の式年大祭まで待たねばならない。

 今回は山口紀行を書く。


▢ 土井ヶ浜に眠る弥生人たち
▢ 大内氏の祖先は百済聖明王


 この(平成11年)2月、山口県内を旅した。下関から日本海沿いを北上すること50キロ、豊浦郡豊北町の土井ヶ浜を訪れた。海は荒れていた。

 昭和6年、小高い砂丘で古代人の骨が発見された。人類学上の大発見の幕開けである。戦後になって本格的な発掘調査が10数回にわたって行われ、300体を超える人骨などが出土した。時代は少なくとも弥生前期(紀元前2世紀)にまでさかのぼるという。

 土井ヶ浜弥生人は、縄文人とは異なる形質を備えている。160センチを越える長身で、きゃしゃな骨格、面長細面、のっぺりしてはいるが端整な顔立ち。「新モンゴロイド」といわれる。

 北部九州で発見された500体を超える弥生人骨と共通し、人類学者は「北部九州・山口型弥生人」と呼ぶ。

 いま「弥生パーク」として整備され、遺跡に覆屋をかけた広いドームには、発見当時を再現する約80体の人骨のレプリカが眠っている。

 その日、入館者は記者1人、複製とは分かっていても薄気味悪いやら、心細いやら、ほうほうの体で逃げ出した。

 興味深いのは、亡骸という亡骸が顔を西に向けていることである。土井ヶ浜の特徴だという。西方、海の彼方には朝鮮半島、中国大陸がある。彼らはアジア大陸からの渡来者なのだろうか?

 もっともよく知られている亡骸は「鵜を抱く女」である。シャーマンではないかという。鵜は穀霊や祖霊を運ぶ霊鳥である。女性は腕輪をいくつもはめている。ゴウホラ貝という巻貝製で、ずっしりと重い。

 弥生人は巻貝の持つ渦巻に神秘の力を感じていたらしい。ゴウホラ貝は沖縄・南西諸島で産出される。南の海との活発な交流が想像される。

 中世、西国を広く支配したのは、大内氏である。

 大内氏は百済聖明王の第三子琳聖を祖とする。『大内氏実録』などによると、周防国に渡来し、聖徳太子に謁見、大内県を拝領し、多々良の姓を賜った。鉄製錬技術を持った氏族で、朝鮮半島からやってきた渡来人と考えられている。

 14世紀、倭寇が朝鮮・中国の沿岸を荒らした。高麗が九州探題・今川貞世に使いを送り、倭寇禁制を要求したとき、これに応じて兵を高麗に派遣し、海上防備に当たったのは、25代大内義弘である。義弘は朝鮮との交渉に当たり、貿易を行った。百済の旧地分譲さえ要求している。

 冒頭で山口大神宮について触れたが、同社を勧請したのは足利幕府の管領代をつとめた30代大内義興である。後柏原天皇の勅許を得て、永世16(1519)年に創建されたという。

 大内氏の勢力が最盛期を迎えたのは31代義隆のときである。文化事業に力を入れ、450年前に「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルが来日したとき、布教を許可し、寺院1棟を与えたのは義隆だ。

 JR山口駅の正面に見える小高い亀山の南側に、カトリックのザビエル記念聖堂が建っている。日本最初の教会はいまの自衛隊駐屯地のそばにあった。亀山に聖堂が建てられたのは、第2次大戦後である。


▢ 朝鮮出兵の総帥は毛利輝元
▢ 初代統監となった伊藤博文


 秀吉の朝鮮出兵のとき、日本軍の総帥を務めたのは、大内氏に代わって新しい支配者となった毛利元就の孫・輝元である。

 輝元はみずから4万の兵を従えて、朝鮮に渡った。秀吉の渡鮮に備えて、釜山から漢城まで11か所の宿泊所を普請し、道筋を確保するのが輝元の任務であった。

 7年間にわたる文禄・慶長の役で、朝鮮の国土は秀吉軍だけでなく、明軍そして自国軍、暴徒によって荒らされた。飢饉が発生し、民衆は塗炭の苦しみを味わい、国力は衰えた。韓国の人々は「壬申・丁酉倭乱」と呼び、400年後のいまなお大きな恨みを残す。

 秀吉がこの世を去り、豊臣が滅んだあと、天下を治める徳川家康は朝鮮との講和を進めた。多数の捕虜が帰還し、和議が成立する。

 関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった輝元は、そのあと家康に領地中国8カ国112万石を取り上げられ、防府長州2国29万石に減封された。輝元が新しく居城としたのが萩である。

 日本海に突き出した指月(しづき)山の麓、阿武川の河口に4年の歳月をかけ、城が築かれた。難工事であった。

 輝元ら歴代藩公をまつる志都岐山神社は、旧本丸に鎮まる。境内に山口出身の詩人・児玉花外の文学碑がある。

三百年の萩の花
一たび揺れて血の勝利

 萩は幕末維新回天の中心地である。市内には藩校・明倫館や幕末の志士・吉田松陰がつながれた野山獄など、当時の史跡が数知れない。

 市街東部に松蔭をまつる松陰神社が鎮座する。記者が詣でたとき、白梅がほころぶ境内には雪がちらついていた。

 同社は、松蔭が安政の大獄で、数え年30歳で刑死してから30年後、明治23年に土蔵造の祠が建てられたのが最初という。実家の小屋を改造した松下村塾、幽閉された三畳間が境内に保存され、訪れる者に何かを語りかけてくる。

 萩に生まれ、松下村塾で学んだ1人が初代首相となり、帝国憲法草案を起草した伊藤博文である。伊藤の旧家が神社のそばに残され、庭に大きな銅像が建っている。下級武士らしい慎ましやかな家である。

 明治39年、伊藤は初代統監となって、韓国に赴任する。その道すがら、下関の春帆楼に投宿したとき、「戦後唯一の神道思想家」葦津珍彦の父・耕次郎は高位高官が居並ぶ席で、長時間、熱弁をふるった。

「日韓の真の融和はあくまで思想、信仰の一致に立たなければ朝鮮民族を信服させることはできない。朝鮮民族の祖神をまつる神社を建立し、あなたが祭主となって敬神崇祖の大道を教えられねばならない」

 のちの朝鮮神宮の歴史はここに始まる。

 当時、耕次郎は福岡・筥崎宮の主典、20代の若者であったが、伊藤は座布団を外して傾聴し、耕次郎に賛同して実行を約束したという。

 しかし、3年後の42年、伊藤はハルピン駅頭で安重根の凶弾に斃れる。その後、実現された朝鮮神宮は耕次郎の思いとはかけ離れたものだった。

 今泉定助、賀茂百樹、肥田景之そして耕次郎ら神道人は、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神を祀るのは「日韓民族の乖離・反目の禍根を残す」と猛反対ののろしを上げる。

 明治43年、韓国が併合される。併合を推進し、初代総督となったのは寺内正毅である。武断政策を採用し、憲兵を各地に配して、いわゆる「憲兵政治」を断行した。寺内はいまの山口市に生まれた。

 寺内を支えて、日韓併合を実現させたのは、明石元二郎だが、耕次郎は親しくしていた明石に、日韓併合反対を論じている。

「日韓併合で韓国の民が喜ぶなら差し支えないが、日本の政治家は日本国民を喜ばせる方法さえ知らぬ。まして韓国民衆は悲憤慷慨している」

 その後、台湾総督となった明石は、威圧政治の繰り返しを心配する耕次郎に、

「今度は君の意見を尊重し、期待に背かないから」

 と語ったと伝えられる。


▢ 正常化を実現した松蔭の至誠
▢ 条約締結時の首相は佐藤栄作


 松陰神社の境内の一角に、松蔭遺墨展示館がある。憂国の情がほとばしるような肉筆は心を揺り動かさずにはおかない。

 展示館の片隅に、大正・昭和期に大阪財界で活躍し、のちに日本貿易振興会(ジェトロ)設立の基礎を造った実業家・杉道助の銅像が置かれている。一見、場違いのようにも見えるが、そうではない。杉は松蔭の実兄・民治の孫に当たる。

 杉は晩年、第6次日韓会談の主席代表となり、温厚な人柄と松蔭譲りの至誠で、国交正常化に尽くした。

 日ソ平和交渉全権団に参加を求められたときには固辞した杉が、日韓会談の主席代表となったのは、昭和36年5月である。当時、李承晩政権が倒れ、その後、軍事クーデターで朴正煕が政権を掌握した。朴は打ち切られたままであった日韓会談の早期再開を、池田勇人首相に要請した。

 その池田が電話で主席代表就任を求めると、杉は二つ返事で快諾を即答した。このとき杉は池田に

「術策をとることはできない。両国民が納得するよう至誠をもって交渉に当たる」

 と語る。

「至誠にして動かざるものは未だにこれあらざるなり」

 は杉の人生を貫く教訓であり、それは大叔父・吉田松陰の精神であった。

 以前、杉はある新聞に、こんな文章を寄せている。

「朝鮮に対し、誤った政策をとった軍閥、政治家の過失を思わずにはいられない。しかし大部分の日本人は平和愛好家であり、朝鮮民族に偏見を持つものではない。両国が相通じ、東洋文化、経済の交流に力を尽くすべきである」

 また、こうも述べている。

「故郷の山口は昔から朝鮮とつき合いが深い。故老の話では、よく朝鮮の漁師が難破して流れ着き、領主から手厚くもてなしを受けて送り返されたそうだ。九州、山陰沿いの文化や産業は、朝鮮に負うところが多い。朝鮮と未国交のままではいいはずがない」

 36年10月、杉道助・裵義煥両代表のもとで第6次会談がはじまった。杉は冒頭、こう挨拶した。

「会談の諸懸案はどれも複雑微妙だが、双方に誠意と熱意があれば、解決できる。今回の会談を最終の会談としたい。日韓両国の新しい歴史を作りたい」

 だが交渉妥結を目前にして、杉は病に倒れ、他界する。

 日韓諸条約が調印されたのは昭和40年6月22日。この日、椎名外相は杉の霊前に電報で報告した。

「先生の筆舌に尽くせぬご尽力が結実し、歴史的な日を迎えるに到りました」

 ときの首相は佐藤栄作。佐藤もまた山口の生まれであった。佐藤は『杉道助追悼録』にこう書いている。

「杉さんとは故郷を同じくしたためか、とくに親しくお付き合いし、杉さんは私を子どものように可愛がり、私も杉さんを慈父のように慕った。日韓交渉はいくたびか決裂の危機にあったが、杉さんの醸し出す和やかな雰囲気と寛容の精神がこれを救った。杉さんが残された足跡はあまりにも大きく、両国の歴史に燦として輝くことだろう」

 杉は

「誓って神国の幹とならん」

 という松蔭の遺訓の実践者であった。

 しかしその後の両国関係がかならずしも平坦でなかったことは周知の通りである。

 金泳三政権末期以来のぎくしゃくした日韓関係を打開すべく、昨秋(平成10年秋)、小渕首相と金大中大統領は日韓共同宣言を発表した。このとき、そしていま外相を務める高村正彦氏はやはり山口の出身である。なんと不思議な歴史的因縁であろうか?

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日本の政治家は金大中氏を見習うべし ──隣国に対して、堂々と歴史を論じ、理念を語れ [日韓関係]

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日本の政治家は金大中氏を見習うべし
──隣国に対して、堂々と歴史を論じ、理念を語れ
(「神社新報」平成11年5月17日)
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 韓国の金大中大統領(当時)は昨秋(平成10年秋)、日本を訪問したおり、国会でこう演説した。
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「歴史的に日本と韓国の関係が不幸だったのは、約400年前に日本が韓国を侵略した7年間と、今世紀(20世紀)初めの植民地支配35年間があります。
 わずか50年にも満たない不幸な歴史のために、1500年にわたる交流と協力の歴史全体を無意味ならしめるということは、じつに愚かなことであります。
 またそれは、長久な交流の歴史を築いてきた両国の先祖に、そして将来の子孫に対して恥ずかしく、かつ、指弾されるべきことではないでしょうか」

 しかし、秀吉の朝鮮出兵についていえば、慶長14(1609)年の己酉条約で和議が成立しているはずで、400年後の現代に持ち出すことこそ恥ずべきではないのか。日韓併合時代についても、昭和40年の国交正常化ですでに決着したはずだ。

 報道によれば、特別随行員として来日した、大統領のブレーン・高麗大学の崔相龍教授は、大統領がもっとも神経を使ったのがこの国会演説で、日本の国民感情を傷つけないようギリギリの努力をした。「壬申倭乱」には言及したが、「秀吉」の名前はあえて出さなかった、と説明している。

 また、宮中晩餐会で大統領は「過去」に触れなかった。共同宣言に「過去」を盛り込もうとしたのは、日本を責めるためではなく、韓国民を説得するためだ、と崔教授は語ったという。

 しかし大統領自身は、帰国後の記者会見で、「今後は日本政府の責任ある人々は共同宣言に制約される。これに外れる発言は容認しない」とクギを刺した。

「正しい歴史認識」などと正義の小旗を振る一方で、「過去」の認識に政治的なタガをはめ、客観的歴史検証の試みすら否定する結果になっているように記者には見える。

 大統領は「それ(政治関係者)以外の人の発言に鋭敏に反応する必要はない」とさえ語っている。

 しかし、恥ずべきなのは、金大中氏ではなく、むしろ日本の政治家の方だろう。

 日本政府が「謝罪」外交を繰り返す要因となっているものに、閣僚の「妄言」がある。

 昭和59年9月、全斗煥氏が韓国大統領として初来日したとき、中曽根首相は歓迎昼食会で「過ちに対し、深い遺憾の念を覚える」と語ったが、その2年後、現職閣僚が「日韓併合は韓国側にも責任がある」と雑誌で発言し、ケチがついた。その後の経緯はご承知の通りである。

 この記事を書くに当たって、

「(先の大戦が)侵略かどうかは考え方の問題だ」

「植民地時代に日本は韓国に良いこともした」

 という発言が「妄言」とされ、韓国などから批判を浴びた元閣僚たちに取材を申し込んだ。一議員としてあらためて真意を語ってほしいと願ったからだが、応じてくれた政治家はいなかった。

 堂々と歴史を論じ、隣国への、そしてアジアへの熱い思いを語る勇気はないのだろうか。せめて書いたものはないかと思って調べてみたが、1冊の著作も見当たらない。驚いた。

 内容はべつにして、金大中氏は10冊もの自著を日本で出版している。「金大中ものは売れる」という日本の出版事情は抜きにしても、多くの著作を著し、歴史を論じ、理念を語り、自国民のみならず隣国の読者に訴えようとする政治家としての意気込みには頭が下がる。

 これに対して、韓国で何冊もの著作を発表し、韓国民に対して持論を訴え続けようとする政治家が、日本にいるだろうか。

 日本の政治家は恐れることなく、アジアに、そして世界に呼びかける言葉を今の時代にこそ、持つべきではないか。

 そもそも「妄言」批判されて黙り込むのは無責任であり、いやしくも国家指導者の採るべき態度ではあるまい。不屈の政治家ともいわれる金大中氏を見習うべきではないか。

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なぜ「謝罪」するのか──日本的儒教倫理を国際社会に持ち込む愚昧 [日韓関係]

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なぜ「謝罪」するのか
──日本的儒教倫理を国際社会に持ち込む愚昧
(「神社新報」平成11年3月8日号から)
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 全斗煥大統領来日以来、韓国大統領の訪日は、日本の「過去」への「反省と謝罪」要求が大きな目的とされ、他方、日本政府は「謝罪」を繰り返してきた。

 けれども、その「過去」とは具体的に何を指すのか、外務省関係者によれば、「外交交渉で具体的な歴史が議論されたことはない」し、また、日本の国会で「過去」の中身が議論されたこともない。

 客観的史実の検証なしに、「歴史」問題が論議されてきたのは驚くばかりだが、それならなぜ、日本政府は「謝罪」を選択したのか。昨秋の金大中大統領訪日では、小渕首相がまたもや「謝罪」し、共同宣言に明文化された。


▽IMF事態にも「謝罪」

「世界経済評論」本年1月号に、外務省北東アジア課長・佐々江賢一郎氏による金大中大統領訪日直後の講演が載っている。それによると、昨秋の共同宣言が生まれた最大の要因は、金大中政権の成立だという。

 金泳三政権末期、とくに平成9年の中盤から後半にかけて、日韓関係は険悪化していた。政権を引き継いだ金大中氏は日韓関係を抜本的に前進させたいというシグナルをいろいろなかたちで伝えてきた。両国関係の転換が図れる可能性があるとみて、日本政府はこれに乗ったということらしい。

 新政権は関係改善を呼びかけなければならない苦境にあった。IMF事態と呼ばれる外貨危機である。韓国は日本の金融支援を必要としていた。このため「謝罪」を強く要求できなかったというのがむしろ真相かも知れない。「謝罪」も金融支援も得られなければ、元も子もなかろう。

 実際、金大統領は異例なことに、日本の国会での演説で、「苦しいときの友が真の友」という表現で、日本の支援に率直に感謝した。壬申倭乱(文禄・慶長の役)にはふれたが、「秀吉」の名前は出さなかった。大統領のブレーンは「日本の国民感情」を傷つけないための配慮と強調している。

 その結果、大統領は30億ドルもの追加的な輸銀資金供与という最大の成果を訪日によって獲得した。

 佐々江氏は、過去、現在、未来の3つの局面に、正当にバランス良く光を当てるというコンセプトを強調し、「過去」の「謝罪」だけではないと主張する。

 日本側は「過去」だけに関心が集中するのは生産的ではないし、好ましくないと考えた。一方、金大統領は、「過去」を清算したい、日本は「過去」を直視すべきだと主張しながらも、戦後の日本が果たした役割も正当に評価しなければならないという考えを表明していたという。

 いずれにしても、日本が「謝罪」したことに変わりはない。それにしてもなぜ「謝罪」という手法を採るのか。


▽「当然、謝罪すべき」

 外務省関係者はこう語っている。

「日本は併合時代、感謝されるような立派なことをしたか。すべてが悪かったとはいわないが、反省すべき点が多かった。政府は当然、謝罪すべきだと考えた」

 これこそ「日本性悪説」というべきものだろうが、さらにこう続けた。

「歴史は主観の問題である。韓国には『怨念』があって、なかなか客観的立場に立てない。従来の日韓の交渉は感情論に終始した。けれども韓国も平和的な政権交代ができるようになり、経済力もついて、ようやく客観的で冷静な議論ができるようになった。そんな韓国を温かく見守るべきではないか」

 なんと美しい日本的な「優しさ」であろうか。日本人は他人を責めるより、自分を責めるという美徳をもっている。ことさらに自分の非を認め、詫びて、和を実現しようとする。「すみません」は日本人の口癖だ。

 けれども日本的な美徳の観点から「謝罪」を選択したのだとしたら、いかがなものか。個人関係ならいざ知らず、力が支配する国際社会に日本的儒教倫理が通用するとは思えない。

 戦争末期に朝鮮独立運動家・呂運亨とも交わり、支援した葦津珍彦は、戦後の「謝罪」外交をこう批判している。

──戦争に敗れた日本人が卑屈な姿勢で陳謝するのは相手の軽蔑を招くだけだ。日本人はむしろ弁明すべきである。過去の日本に非がなかったと強弁するつもりはないし、重苦しい過去の重圧を十分、感じているが、それは2倍にも3倍にも増幅され、断罪されてきた。これ以上、追認するのは無意味であり、愚かである(葦津『アジアに架ける橋』)。

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