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1 祭祀王の本質と関わる「新嘗祭」ご負担軽減 [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年6月23日)からの転載です


 前号の私の呼びかけに、たくさんの読者が応えてくださいました。ありがとうございます。

 さらに多くの方が、天皇に関する理解を深め、そして目下、ご負担軽減の名のもとに、進められている祭祀簡略化について問題意識を共有してくださり、正常化への気運が高まっていくことを、心から願いたいと思います。

 当面、心配されるのは今年秋の新嘗祭(にいなめさい)ですが、これには非常に難しい、天皇に関する本質的な問題があります。今日はそのことについて、少しお話しします。


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 1 祭祀王の本質と関わる「新嘗祭」ご負担軽減
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▽1 2時間のあいだ、ずっと正座
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 まず、いま進行中の祭祀簡略化がなぜ始まったのか、について考えてみます。雑誌「諸君!」の昨年7月号に載った渡邉允(わたなべ・まこと)前侍従長のインタビューから、その経緯が明確に浮かび上がってきます。
http://www.bunshun.co.jp/mag/shokun/shokun0807.htm

 前侍従長が説明するのは、祭祀とりわけ新嘗祭の肉体的、精神的なご負担です。

 陛下のお祭りは秘儀ですから、詳細を述べることは差し控えなければなりませんが、アウトラインを申し上げると、夕刻、神嘉殿(しんかでん)にお出ましになった陛下は、数々の神饌(しんせん)を作法にしたがって、時間をかけてご自身でお供えになります。

 拝礼のあと、神社の祝詞(のりと)に当たるお告文(おつげぶみ)を奏され、さらにご神前で米と粟(あわ)の新穀、白酒(しろき)・黒酒(くろき)の神酒を召し上がり、この直会(なおらい)がすむと、神饌を順次撤下(てっか)され、一通りの神事が終わります。

 これが「夕(よい)の儀」で、3時間後、ふたたびお出ましになり、「夕の儀」と同様の神事が繰り返されます。これが「暁(あかつき)の儀」です(八束清貫[やつか・きよつら]『皇室祭祀百年史』)。

 渡邉前侍従長がインタビューで語っているように、「侍従長と東宮侍従長は外廊下で2時間、正座して待っています」が、慣れていないからでしょう、立ち上がるときは必死の思いだと吐露しています。さらに「陛下もずっと正座なのです」と、そのことがさも簡略化の直接的な理由であるように前侍従長は説いています。


▽2 侍従長の負担がご負担にすり替えられた

 しかし、このインタビューで言及されているように、神事をみずからなさる陛下が身動きもせずに、ただじっとしているわけではないのは、いわずもがなです。また、能楽師などのように、幼少のころから板の間に正座して稽古に励む人たちもいますから、畳の上での長時間の正座が難行苦行であるかのように断定的に解説するのは正しくありません。天皇と国家・国民の命のよみがえりを図る、という儀礼の本質を、忘れるべきでもありません。

 そうはいっても、ご高齢で療養中の陛下にとって、長時間の祭祀が激務であることは間違いありません。

 第2の理由として、前侍従長は、いかにも官僚らしく、昭和の先例を引き合いにします。

「昭和天皇の例では、いまの陛下のご年齢よりもだいぶ前から毎月の旬祭を年2回にされ、69歳になられたころからは、いくつかの祭祀を御代拝によって行われたりした。私も在任中、両陛下のお体にさわることがあってはならないと、ご負担の軽減を何度もお勧めしましたが、陛下は『いや、まだできるから』と、まともに取り合おうとはなさいませんでした」

 しかし、この説明は間違いです。拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』でも、このメルマガでも繰り返し申し上げてきたように、昭和の祭祀簡素化は昭和天皇のご高齢が理由ではなく、入江相政(いりえ・すけまさ)元侍従長の祭祀嫌いに発しています。

 入江の工作のもう1つの理由をあげるなら、昭和天皇ではなく、入江自身の加齢でしょう。入江の負担が天皇のご負担にすり替えられたのです。渡邉前侍従長が「ご負担」を強調するのと構造的に似ています。

 前回、申し上げたように、ご負担軽減を理由に祭祀を「簡素化」しながら、昭和天皇・香淳皇后のアメリカ、ヨーロッパ公式訪問が行われたのは矛盾です。しかしその矛盾を、官僚的な先例主義で引きずっているのが、渡邉前侍従長であり、いまの宮内庁です。


▽3 「退位」を口にされた昭和天皇

 入江元侍従長は祭祀の本質をほとんど理解できずに、「お上(かみ)のお祭、来年は春秋の皇霊祭と新嘗祭。御式年祭もおやめに願い、再来年にはぜんぶお止め願うこと、植樹祭、国体はやっていただく」(入江日記、昭和56年11月7日)などと公言してはばからない俗物でした。

 入江は祭祀の「簡素化」を皇太子(今上天皇)の発議、皇族の総意によって進めようという工作までしたようですが、祭祀の空洞化は、すでにご承知の通り、「無神論者」富田長官が登場し、厳格な政教分離主義が台頭して本格化します。

 これに対して、昭和天皇が同意されるはずはありません。それどころか、陛下は「退位」を口にされました。入江日記にはこう書かれています。

「11月3日の明治節祭を御代拝に、そして献穀は参集殿で、ということを申し上げたら、そんなことをすると結局、退位につながる、と仰せになるから……」(昭和48年10月30日。適宜編集しています)

 この年の入江日記からは、昭和天皇が幾度となく退位、譲位について語られたことが読み取れます。祭祀こそ天皇第一のお務めであるという大原則に立てば、入江らが工作する無原則の祭祀簡素化がどれほど受け入れがたいことだったでしょうか。

 そしてその一部始終を皇太子のお立場でご覧になっていた今上陛下がいま、先帝と同様の状況におかれています。側近たちが昭和の先例を持ち出して、祭祀の簡略化を迫るのを、陛下が「まともに取り合おうとはなされなかった」(渡邉インタビュー)のは当然でしょう。


▽4 新嘗祭だけは御代拝ができない

 天皇の祭祀には御代拝の慣習があります。戦前の祭祀令には、大祭・小祭のうち、元始祭や紀元節祭など大祭の場合、天皇がみずから親祭になれないときは、皇族または掌典長に祭典を行わせる、と明記されていました。

 祭祀は形式ですが、単なる形式ではありません。茶道などでもそうですが、所作の形に意味があるのであって、形を破ることは神への冒涜につながります。それなのに入江が「簡素化」したのは、単なる形式だと考えるからでしょう。もしご健康に不安があれば、祭祀の簡略化などせずとも、御代拝で十分なのです。

 けれども、新嘗祭だけは御代拝ができない、という考え方があります。明治になって成文化された祭祀令では、新嘗祭も大祭に分類されていますから、御代拝でもいいはずですが、そうではないというのです。

 それは祭祀王たる天皇の本質そのものと関わっています。

 天皇は私を去って、ひたすら国と民のために祈ることで、この国を治め、民をまとめ上げ、社会を安定させてきました。拙著に書いたように、稲作民の米と畑作民の粟の新穀をともに捧げ、神人共食の直会をなさる新嘗祭は、天皇がなさるからこそ意味を持つ国民統合の儀礼です。皇族や掌典長による御代拝では意味をなしません。

 したがって昭和天皇が、入江侍従長から新嘗祭の簡素化を進言されて、退位を口にされたのには、それだけの理由があります。

 順徳天皇の『禁秘抄』(1221年)に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事をあとにす」とあるように、歴代天皇は祭祀こそ最大のお務めと考えてきました。昭和天皇も今上陛下も同じお考えでしょう。その天皇から祭祀を奪うことがどんな意味を持つか、拝察するのもはばかれます。


▽5 天皇の祭祀は「私的な活動」?

 しかし現実にいま、宮内官僚たちはご負担軽減と称し、昭和の先例を持ち出して、祭祀の簡略化を敢行しています。

 それほど陛下のご健康問題が深刻であるなら、法的根拠があるわけでもないご公務を削減すればいいものを、ご公務の件数はいっこうに減らないどころか、ますます増え、外国ご訪問まで計画されています。

 逆に、半月にもおよぶ海外旅行に耐えられるほどご健康であるならば、天皇第一のお務めであると歴代天皇が認めてきた祭祀をなぜ簡略化されなければならないのでしょうか。

 これでは筋が通りません。

 なぜ理不尽なことが起きるのか。それは天皇の本質をどう見るかにかかっています。陛下は祭祀王の立場にあります。しかし官僚たちにとっての天皇は、政府すなわち官僚の意思のままに動く近代的な国家機関に過ぎません。

 渡邉前侍従長は先のインタビューでこう語っています。「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」

「つねに国民の幸せを祈るというお気持ちをかたちにしたものとして祭祀がある」と語るほど、祭祀への理解が浅からぬ前侍従長ですが、それでも、天皇の祭祀は私的行為であり、ご公務が優先されるという憲法解釈から抜け出せないのでしょう。

 官僚たちが考える天皇は、悠久なる歴史的上の存在としての天皇ではない、ということでしょうが、もしそうだとすると、公務員の立場で渡邉前侍従長が天皇の私的な宗教行為である祭祀に介入するのは、官僚たち自身の政教分離主義に反することになります。自己矛盾です。


▽6 天皇の祭祀を正常化させる方法

 さて、渡邉前侍従長は指摘しています。「皇室に関わることで、国論が二分する事態だけは避けなければならないというのは、陛下の基本的なお考えだと思います」

 なるほど、祭祀簡素化問題をめぐって国が二分するようなことは、陛下は望まれないでしょう。多様なる国民を多様なるままに統合することが天皇のお務めであれば、なおのことです。しかし、祭祀簡素化問題が国論を二分することがあるとすれば、その可能性の原因を作ったのは、渡邉前侍従長たち自身であることを忘れてはなりません。

 前侍従長はインタビューの最後に、憲法論に言及し、「今上陛下はご即位のはじめから現憲法下の象徴天皇であられた。陛下は、そのような立場で何をなさるべきかを考え続け、実行し続けて今日までこられた」と述べています。

 現行憲法には、天皇は日本国の象徴、日本国民統合の象徴である、と規定され、陛下は会見などでしばしばこのことに触れられていますが、前侍従長とはニュアンスが異なるのではないか、と私は思います。

 簡単にいえば、前侍従長はあくまで現行憲法を起点とする象徴天皇論ですが、陛下は歴史的な背景を十分に踏まえたうえでの議論だと思います。それは当然なことで、古来、祭祀の力で国と民をまとめ上げてきた長い歴史があるからこそ、象徴たる地位があるのです。

 国論を二分せずに天皇の祭祀を正常化させる確実な方法があります。それは社会を動かすまでに世論が高まり、渡邉前侍従長のようなエリートたちが祭祀正常化の先頭に立つことです。そのためには、現状を憂える国民がまず声を上げなければなりません。

 官僚たちが進めるまったく理屈の通らないご負担軽減で、これから何が起きるのか。間違いなくいえるのは、天皇がますます単なる「象徴」という存在になり下がるということでしょう。それは日本の文明に対する破壊行為です。

 今年の新嘗祭まで、あと5か月です。皆さん、どうぞ声を上げてください。皆さんご自身の問題なのですから。

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1 祭祀の簡素化を進言した張本人? [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年6月16日)からの転載です


 小林よしのりさんの話題の新著『ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論』が、拙著『天皇の祭祀はなぜ簡略化されたか』を引用し、昭和の時代に宮中祭祀を破壊、空洞化した元凶・入江侍従長に言及しています。

 小林さんの本は全編にわたって、祭祀王こそ天皇の本質であることを力説しています。これほど祭祀王にこだわって書かれた本は、とくに最近では珍しいのではないかと思います。ぜひ多くの方々に読んでいただき、天皇についての理解が深まることを願いたいと思います。

 ただ、それだけではすまないところもあります。社会の現実は天皇=祭祀王の本質を理解するだけでは、もはや十分ではない状況に立ち至っているからです。昭和の祭祀形骸化がふたたび現実になっているからです。

 そこで、読者の皆さんにお願いがあります。

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 1 宮中祭祀の簡素化を進言した張本人?
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▽1 読者への3つの提案
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 当メルマガはこのところ一貫して宮中祭祀の簡略化問題を取り上げてきましたが、私がいまもっとも心配するのは、11月の新嘗祭です。このままでは、ご高齢で療養中の陛下のご負担軽減を理由に、まったく伝統を無視した無残なかたちで行われることになるでしょう。

 そのことがどのような文明的、歴史的な意味を持つのかは、このメルマガの読者なら、もうご存じのことだと思います。

 私と問題関心を共有し、何とかしなければ、とお思いの読者の皆さんに、3つの具体的なご提案を申し上げます。

(1)1つは、拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』やこのメルマガを、友人の方々などにお勧めいただけないでしょうか。現実と問題点をより多くの方々に知っていただくことがまず大切だと思います。当メルマガの読者は先週末現在で2676人。「イザ!」 のブックマークとお気に入りRSSが合わせて1278人ですが、まだまだです。

(2)2つ目は、このメルマガの最後にある「あなたの評価」を、お手数でも毎回、つけていただけないでしょうか。この祭祀問題ほど重いテーマはほかにないはずなのに、まことに残念ながら、現実には、継続的に取り上げ、追求しているメディアはこのメルマガだけです。私は運動家ではありませんが、このメルマガの読者が増え、ランキングが上がり、社会的評価が高まることが大きな世論を形成し、官僚機構を動かし、宮中祭祀簡素化問題を解決していくための第一歩となるでしょう。

(3)3つ目は、現実を憂える皆さんが実際に声を上げることです。方法はいくらでもあります。皆さんそれぞれにお考えいただきたいと思います。天皇の祭祀は見えないところで行われますが、国と民のために行われる天皇の祈りは私たち国民の命と社会の安定につながっています。皆さんご自身の問題なのです。

 新嘗祭まであと半年もありません。今年はご即位20年、ご結婚50年のこの上ないお祝いの年ですが、その年の新嘗祭が伝統無視の祭りとなっては、歴史に禍根(かこん)を残します。


▽2 渡邉前侍従長の告白

 ところで、この祭祀の簡略化について、新しい事実が分かりました。

 先週のこと、渡邉允(わたなべ・まこと)前侍従長が、伊勢で行われた神社関係者の集まりで講演したそうです。平成19年6月まで陛下のおそばにお仕えした方ならではのすばらしいお話に、参加者は感激したといいます。

 しかし聞き捨てならないことが1点ありました。「祭祀の簡略化を進言したのは私だ」とみずから告白したというのです。ほんとうだとすると、当メルマガが追及してきた祭祀簡略化問題の張本人ということになります。

 渡邉前侍従長は華麗な経歴の持ち主で、東大法学部を卒業したあと、外務官僚としてキャリアを積み、平成7年に宮内庁に入り、翌8年12月から19年6月まで侍従長を務め上げました。曾祖父の千秋氏は宮内大臣で、父・昭氏は昭和天皇のご学友だそうです。

 出自やキャリアと違わず、人格も見識もたいへん立派な方のようで、著書の『平成の皇室──両陛下にお仕えして』(明成社、平成20年12月)には、祭祀王としての天皇の性格を正しく理解したうえで、国が安らかで国民がみな幸せであるように願う祈りが具体的なかたちに現れているのが宮中祭祀である、と語った講演録が載っています。

 しかし同時に、まさにこの本には、渡邉前侍従長が陛下に対して、簡素化について進言したことをにおわすインタビューも掲載されています。


▽3 前侍従長の3つの間違い

 正確に引用するとこうです。

「昭和天皇が今上陛下の御歳のころは、冬の寒いときや夏の暑いときには旬祭はなさらず、掌典長がご代拝を勤めていました。陛下のご負担を思うと、そうしていただいた方がよいかと思うこともありますが、陛下はなかなか『うん』とはおっしゃいません」(38ページ)

 当メルマガの読者ならもうお分かりでしょう。ここには完全な間違いがあります。

 第一に、拙著に詳しく書きましたように、昭和天皇のころのご負担軽減策はご高齢・ご健康問題に発するものではありません。しかし官僚的な先例主義に立って、渡邉前侍従長はこの昭和の悪しき先例を「進言」したものと想像されます。

 第二に、昭和時代の掌典長による旬祭のご代拝こそ、祭祀の破壊行為でした。本来なら側近の侍従によるご代拝であるべきものを、入江侍従らは祭祀嫌いの俗物的発想と誤った政教分離主義から掌典によるご代拝に変えたのです。

 渡邉前侍従長はこのような昭和の歴史を知らないか、口をつぐんでいるのではありませんか。

 第三に、今上陛下のご健康を気づかい、ご負担の軽減を、忠実な側近として心から願うなら、まず最初に、法的な根拠があるわけでもない「ご公務」を減らすことこそ考えるべきでした。


▽4 ないがしろにされる祭祀王

 天皇は祭祀王だと理解するならなおのことです。なぜ祭祀を狙い撃ちにするご公務削減が進められたのでしょうか。祭祀王たる悠久の歴史を重んじない現行憲法の解釈・運用論に立脚しているからではないのでしょうか。

 渡邉前侍従長はその判断において、以上の3つの間違いを犯しています。

 これに対して、陛下が「なかなか『うん』とおっしゃらなかった」のはさすがだと思います。皇位継承後、皇后陛下とともに、祭祀について学び直され、正常化に努められたのが陛下でした。先帝の時代に祭祀に関して何が起きたのか、陛下はよくご存じなのではありませんか。

 今年に入り、官僚主導による旬祭の簡素化は現実となりましたが、ご負担軽減策は矛盾だらけです。たとえば、そんなに陛下のご健康が心配だというのなら、官僚たちはなぜ、半月にもおよぶカナダ、ハワイご訪問を計画するのでしょうか。ご健康への配慮と称して祭祀を「簡素化」しながら、昭和天皇・香淳皇后のアメリカ、ヨーロッパ訪問を実現させた昭和の時代への先祖返りです。

 渡邉前侍従長に申し上げます。これでは口先では都合よく祭祀王をたたえつつ、実際には古来引き継がれてきた天皇の本質をないがしろにして、もっぱら近代的な国家機関としての天皇を政治利用しているということになりませんか。

 言行不一致といわざるを得ません。

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祭祀破壊を知りつつ沈黙する人たち [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年3月10日)からの転載です


 拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』を読んでくださったある読者が、「入江日記を相当、読み込んだね」と感想をおっしゃってくれました。

 私が入江日記を何度も読み直したのは事実ですが、そのことはなんの自慢にもなりません。むしろ、日記の公刊から20年になろうとする今ごろになってという思いを、私自身は強く持っています。


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祭祀破壊を知りつつ沈黙する人たち
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▽1 知っている人は知っていた
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 私が入江日記の存在を知ったのは、平成3(1991)年に朝日新聞社から発刊された直後だったと思います。ときどきお会いしていた皇室ジャーナリストが「いま読み込んでいる」としばしば話してくれたものです。

 けれども、その記者によると、「『たっぷり寝たので気分がいい』と繰り返し書いている」ということだったので、さぞかし退屈な日記なのだろうと思いこみ、読む気にもなりませんでした。私だけでなく、おそらくその人も、宮中祭祀の簡略化に関する一級資料である、とは夢にも思わなかったのでしょう。

 しかし、この入江日記公刊のはるか以前から、祭祀破壊の事実を、知っている人は知っていたのです。

 拙著に書いたように、昭和天皇の側近中の側近である入江侍従長によって旬祭が年2回に削減されたのは昭和43(1968)年、新嘗祭が簡略化されたのは45年からです。ご在位50年を翌年に迎えようとする昭和50年には簡略化が本格化します。

 側近の日記には、新嘗祭の夕(よい)の儀が終わったあと、午後9時ごろ、関係者がこっそりと家路についたことが記録されています。「こっそり」という態度にやましさが見え隠れしています。暁の儀まで行えば翌日の午前1時までかかりますから、9時で帰れるはずはないのです。

 いくら秘密裏に行われたとしても、天網恢々、見ている人がいなかったわけではありません。それでも表面化することはなかったのでした。

 拙著は、57年の暮れ、現役の掌典補が学会で問題提起したのち、表沙汰になったと書いていますが、じつはそれ以前に新嘗祭の簡素化を指摘したジャーナリストがいました。

 読売新聞の社会部記者だった星野甲子久さんの『天皇陛下の三六五日─ものがたり皇室事典』(東京ブレインズ、昭和57年)には、まさに新嘗祭の簡略化のことがずばり書かれています。

 しかしこの本が多くの人の目にとまることはなかったようです。

 祭祀の簡略化が一般に知られるようになったのは58年の正月です。43年の簡素化開始から15年もたって、祭祀問題は一気に浮上したのです。疑問を感じながらも、口をつぐんでいる者たちがいかに多かったか、それに乗じて、祭祀改変は敢行されたのでしょう。入江の高笑いが聞こえるというものです。


▽2 ご負担軽減は名ばかり

 そしていま、奇しくもご在位20年の佳節の本年、入江の忠実なる後継者たちは、昭和の悪しき前例を踏襲し、陛下のご健康への配慮と称して、ご負担の軽減とは名ばかりで、天皇第一のお務めである祭祀の破壊に血道を上げています。

 そればかりか、今夏、今上陛下は皇后陛下とともにカナダを公式訪問され、さらにはハワイへのお立ち寄りが検討されていると伝えられます。

 昭和の時代にはご高齢に配慮と称して、祭祀の簡略化が行われる一方で、ヨーロッパ歴訪(46年)やアメリカ公式訪問(50年)が行われています。国境を越えた長旅に耐えられるのはご高齢ではないし、ご高齢に配慮が必要なら海外旅行をお勧めすべきではありません。まったくの矛盾でした。

 しかしいま、宮内官僚たちは昭和の先例を錦の御旗に、悪しき先例であることには口をつぐみつつ、何食わぬ顔で、皇室伝統の祭祀を改変する一方、喜寿を迎えようとする、そして療養中の陛下に、海外でのご公務をアレンジするという本末転倒を行っています。

 昭和天皇の側近たちに見られた「やましさ」さえ、いまは感じられないのです。


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「悪しき先例」を踏襲する宮内庁──昭和と平成の宮中祭祀簡略化 [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 「悪しき先例」を踏襲する宮内庁
 ──昭和と平成の宮中祭祀簡略化
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▽1 現実化する祭祀の破壊
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 さて、今週のメルマガは「総力取材」と銘打った「文藝春秋」の記事を取り上げようか、それとも「WiLL」の西尾幹二先生の論考について書こうか、と思い悩みましたが、それらは次の機会に譲ることにして、やはり今回は拙著の発売日に明らかにされた宮内庁発表について何点か指摘したいと思います。
 要するに、いままでこのメルマガや新著で申し上げてきた祭祀の破壊が、いよいよ現実になっているということです。

 宮内庁の発表は「今後の御公務および宮中祭祀の進め方について」と題されていますが、いみじくもこのタイトルに、祭祀に関する宮内庁の姿勢がはっきりと現れています。
 つまり、御公務と祭祀は別物である、祭祀は天皇の公的なお務めではない、と宮内官僚はお考えのようです。
 歴代天皇が第一のお務めと理解してきた祭祀を、宮内庁はまるで占領軍の理解そのままに、「天皇の私事」と考えているということでしょう。

 本文にもきわめて不適切な文章が続きます。

 たとえば、「両陛下は……数多くの御公務や宮中祭祀をお務めになっていらっしゃいました」とありますが、誤りでしょう。御公務はいざ知らず、少なくとも宮中祭祀の主体は天皇であって、両陛下がお二人で祭祀をお務めになるわけではありません。


▽2 昭和の簡素化は「ご高齢」が理由ではない

 最大の誤りは、このメルマガの読者なら先刻ご承知の通り、「昭和時代にも,昭和天皇が70歳になられた頃から,御公務や宮中祭祀の調整・見直しが始まりました」とする歴史理解です。

 あたかも昭和天皇のご高齢に配慮して、ご負担軽減のために、御公務と祭祀の調整が行われたかのような言い方ですが、事実ではありません。

 祭祀嫌いの俗物・入江侍従長らによって祭祀が「簡素化」されたのは、「ご高齢」はあくまで口実であって、真因はこれまた誤った、厳格な政教分離政策にありました。

 以前も書いたことですが、宮内庁が何食わぬ顔で、昭和期の悪しき先例を踏襲するのは、前例を盾にした反対封じであり、あってはならない伝統破壊の正当化にほかなりません。

 そして、入江らが昭和40年代に、旬祭の親拝を5月と10月の年2回に削減し、新嘗祭を夕(よい)の儀のみ親祭とした、祭祀の破壊に宮内庁はふたたび手を染めようというのです。まさに暗黒の入江時代への先祖返りです。

 このメルマガで何度申し上げてきたように、国事行為の臨時代行とは直ちに飛躍しないまでも、法的根拠や伝統的裏づけがあるわけでもない御公務のお出ましを削減し、あるいは御名代として皇太子殿下を立てるという方法がなぜ検討されないのでしょうか。


▽3 いまこそ落下傘部隊が必要

 宮内官僚による祭祀破壊の企てに対して、今上陛下は、昨年は「平成の御代が20年を超える来年から」としばしの時間的猶予を仰せになりましたが、今回も、昭和天皇がそうであったように、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、たったお一人で、宮中祭祀という皇室の伝統、すなわち日本の多神教的、多宗教的文明の核心を守ろうとされているように私には見えます。

 かつて昭和58年に宮中祭祀の破壊が白日の下にさらされたとき、評論家の福田恒存は「私には冗談としか思えません。……天皇の祭祀は個人のことを祈るわけではなく、国家のことを祈るわけですからね。もしこんなことを宮内庁が続けるとしたら、陛下を宮内庁から救出する落下傘部隊が要りますねえ」(「週刊文春」)とコメントしたのですが、いまこそ陛下を救う落下傘部隊が必要のようです。


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崩れた皇室祭祀の伝統──ご公務ご負担軽減に伴って [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 崩れた皇室祭祀の伝統
 ──ご公務ご負担軽減に伴って
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▽1 祭祀は原則「御代拝」に?
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 さて、陛下のご負担軽減に関連して、昨年末から始まった宮中祭祀の簡略化を、当メルマガは取り上げています。

 12月11日の宮内庁長官の「所見」では、「ここ1カ月程度は、ご日程を可能な限り軽いものに致したく、天皇誕生日やもろもろの年末年始の行事などについて、所要の調整を行いたい」とされ、祭祀の「調整」が明言されていたわけではありませんが、15日の賢所御神楽は平成になって初めての御代拝となり、陛下に代わって側近というわけではない、掌典次長が拝礼しました。

 一部の報道によると、宮内庁は年末年始のご負担の軽減について、ガイドラインを設け、(1)緊急性がないものは延期する、(2)先延ばしが不可能なものは執り行う、(3)記者会見などご負担が相当あると判断されるものは個別に判断する、(4)宮中祭祀は原則として御代拝とする、と決めたようです。

 この「御代拝」というのはどういう意味なのでしょうか?

 このメルマガの読者ならもうすでにご存じのように、祭祀には陛下がみずから祭儀を行う大祭と拝礼のみする小祭があり、以前は大祭の場合、親祭がご無理なら皇族または掌典長に祭典を行わせ、小祭の場合は親拝がご無理なら皇族または侍従に代わって拝礼させることとされていました。

 実際、この年末年始の祭祀について、何がどう変わったのか、宮内庁のデータや新聞報道などを参考に、一年前と比較して、一部はさらにさかのぼって、あらためて振り返ってみることにします。


▽2 高まる皇太子の存在感

[賢所御神楽の儀]
19年12月17日 賢所仮殿 天皇拝礼、皇后拝礼、皇太子拝礼。
20年12月15日 賢所 天皇御代拝(掌典次長)、皇太子拝礼。

 賢所の耐震改修のため18年から19年までは仮殿で行われました。天皇の御代拝は昭和50年8月に側近の侍従ではなく、新設の掌典次長に代わりました。絶対的政教分離主義の発想からで、このとき皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝の制度が廃止されています。

 天皇の親拝がなく、皇后、皇太子妃の拝礼もない、というように、皇族が直接祭祀に関わらない状況が続くなら、宮中祭祀は空洞化することになります。祭祀を守るキーパーソンとして皇太子の存在感が高まってきました。

[天長祭の儀]小祭
19年12月23日 賢所仮殿 天皇拝礼、皇后拝礼、皇太子拝礼。
20年12月23日 宮中三殿 天皇御代拝(掌典次長)、皇太子拝礼。

[大正天皇例祭の儀]小祭
19年12月25日 賢所仮殿 天皇拝礼、皇后拝礼、皇太子拝礼。
20年12月25日 皇霊殿 天皇御代拝(掌典次長)、皇太子拝礼。

[節折(よおり)の儀]
19年12月31日 宮殿 天皇出御。
20年12月31日 宮殿 天皇出御。


▽3 皇太子が天皇の御名代?

[四方拝]
19年1月1日 神嘉殿 天皇拝礼。
20年1月1日 御所 天皇拝礼。
21年1月1日 御所 天皇拝礼(モーニングで)。

 うっかりしていましたが、四方拝が行われる場所は19年にすでに御所に変更されています。陛下が黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)ではなく、モーニングをお召しになったことについては前号で書きましたので、繰り返すことはやめます。

[歳旦祭の儀]小祭
20年1月1日 賢所仮殿 天皇拝礼、皇太子拝礼。
21年1月1日 宮中三殿 天皇御代拝(掌典次長)、皇太子拝礼。

[元始祭の儀]大祭
20年1月3日 賢所仮殿 天皇拝礼、皇后拝礼、皇太子拝礼。
21年1月3日 宮中三殿 天皇御代拝(掌典長)、皇太子拝礼。

 今年は掌典長の「御代拝」となったことをメディアは伝えています。大祭ですから、親祭がないなら掌典長が陛下に代わって祭典を行うのですが、掌典長は祝詞を奏上したあと、祭服から黒抱に服を改め、陛下に代わって拝礼したようです。

[昭和天皇祭]大祭
20年1月7日 昭和天皇皇霊殿の儀 賢所仮殿 天皇拝礼、皇后拝礼、皇太子拝礼。
21年1月7日 昭和天皇式年祭の儀山陵の儀 武蔵陵墓地 天皇拝礼、皇后拝礼。
        昭和天皇二十年式年祭の儀 皇霊殿の儀 皇太子拝礼、皇太子妃拝礼。

 今年は式年祭でしたから、祭祀の中心は山陵の儀で、天皇が御告文(おつげぶみ)を奏されました。また皇族、三権の長らが参列しましたが、よく分からないのは、皇霊殿の儀です。メディアは天皇の御名代として皇太子が、皇后の御名代として皇太子妃がそれぞれ拝礼したと伝えていますが、常陸宮同妃あるいは秋篠宮同妃ではなく、もともと拝礼のお役目のある皇太子同妃がなぜ「御名代」と位置づけられているのか、が不明です。

 少なくとも祭祀令の伝統・慣例が崩れていることは確かなようです。

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本格化する宮中祭祀の改変 [宮中祭祀簡略化]

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 本格化する宮中祭祀の改変
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▽1 天長祭、大正天皇例祭は御代拝
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 前号では12月15日の賢所御神楽がご休養中の天皇陛下に代わって掌典次長が拝礼したことを取り上げ、基本原則を明示しないまま、祭祀を「調整」したのは、官僚的な秘密主義であり、なし崩し的に密室で祭祀を破壊した入江時代への先祖返りにほかないことなどを指摘しました。

 まことに残念なことですが、「昭和時代の先例」を免罪符として、宮内官僚たちはいよいよ本格的に祭祀の改変・破壊に取り組みはじめたようです。下記の「天皇・皇室の一週間」をご覧いただければお分かりのように、祭祀破壊の悪夢はまぎれもない現実となってきました。

 12月23日は天皇誕生日で、天長祭が行われました。本来は午前中に天皇陛下が宮中三殿を親拝されたあと、皇太子殿下が拝礼されるのですが、宮内庁のホームページによれば、殿下だけがお出ましになったようです。天皇・皇后両陛下の「ご日程」には「祝賀」行事ばかりがいくつも掲載されています。
http://www.kunaicho.go.jp/dounittei/gonittei-1-2008-10.html

 2日後の25日は大正天皇例祭が皇霊殿で行われました。小祭ですから、本来なら天皇が皇族および官僚を率いて拝礼され、掌典長が祭典を行うのですが、宮内庁のホームページによると、今回は皇太子殿下が拝礼され、秋篠宮同妃両殿下が参列されようです。

 おそらく天皇陛下は御代拝で、皇后陛下と皇太子妃殿下の拝礼はなかったのでしょう。お二方の拝礼がないのは、側近の公務員は祭祀という宗教に関わるわけにはいかないという誤った政教分離解釈によって、昭和50年に御代拝の制度が廃止された結果です。


▽2 四方拝はモーニングで

 元旦には、天皇陛下は神嘉殿南庭で伊勢神宮、山陵、四方の神々を遥拝する四方拝が行われ、引き続き、歳旦祭が宮中三殿で行われますが、報道によると、今年は、四方拝は神嘉殿南庭ではなくお住まいの御所の庭で、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)ではなくモーニング姿でお務めになり、歳旦祭は側近の侍従ではなく掌典による御代拝となったようです。
http://www.47news.jp/CN/200901/CN2009010101000103.html

 このメルマガの読者ならすでにご存じのことと思いますが、戦後の宮中祭祀の破壊は祭祀嫌いの俗物、入江侍従長の工作で始まりました。秘密裏に、なし崩し的に行われた入江時代の祭祀破壊がいまふたたび現実になりました。

 入江侍従長の日記には昭和45年ごろ、新嘗祭の取りやめ、四方拝の洋装、歳旦祭の御代拝に取り組んだことが記録されています。44年12月26日には、入江が昭和天皇に「四方拝はテラス、御洋服で」と提案したとあります。

 昨年3月に宮内庁は「昭和時代の先例」にしたがって、祭祀の日程を調整することを明言していました。先月の長官「所見」では祭祀の「調整」が明言されていたわけではありません。口をつぐんだまま、いよいよ入江時代の「悪しき先例」の踏襲に踏み出したようです。


▽3 祭祀がストレスの原因か?

 ただ、かすかな救いは、今年の四方拝が御所のテラスではなく、庭上で行われたことです。

 八束清貫・元宮内省掌典によると、四方拝が庭上で行われるのは、「庭上下御」といって、天皇がみずから地上に降り立って謙虚に神々を仰ぐ崇敬の誠を示しているのだそうですから、望ましいことです。

 しかし、天皇しかお務めにならない一年で最初の祭儀について、黄櫨染御袍からモーニングに、場所は神嘉殿から御所に変更し、しかし庭上で、というのでは、何を基準とした調整なのか、さっぱり分かりません。

 このメルマガで何度も繰り返してきたことですが、ご負担の軽減は必要であり、法的根拠や伝統的裏づけがあるわけでもないようなご公務のお出ましを削減し、あるいは御名代として皇太子殿下を立てるという方法を本格的に検討すべきです。祭祀なら、天皇の親祭がご無理なら皇族または掌典長に祭典を行わせ、親拝が難しいなら皇族または侍従に拝礼させればいいのです。

 羽毛田長官は先の「所見」で、「陛下のお疲れを減らし、ストレスになりそうな状況をできるだけ減らすために、ここ1カ月程度は、ご日程を可能な限り軽いものにする」と語りました。

 しかし実際のところ、年末年始のご日程については、誕生日記者会見が中止され、一般参賀のお出ましの回数が5回に減らされたぐらいだけで、その一方で、祭祀は無原則に蹂躙されています。分刻みの祝賀行事はストレスにならず、天皇第一のお務めである宮中祭祀こそストレスの原因だとでもいうのでしょうか。


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ふたたび側近によって破壊される宮中祭祀 [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2008年12月23日)からの転載です


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ふたたび側近によって破壊される宮中祭祀
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▽1 祭祀の「出席」を取りやめた?
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 さて、先週は宮内庁長官の「所見」を取り上げました。おかしな方向に進まなければいいが、と思っていたら、案の定です。週刊誌は「宮内庁・東宮戦争」などと伝えています。これではますます陛下のご心痛は深まるばかりでしょう。まったくバカげた会見をしたものです。

 そして、恐れていたことが現実になりました。読売新聞の報道によると、12月15日の賢所御神楽(かしこどころみかぐら)はご休養中の天皇陛下に代わって掌典次長が拝礼しました。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081215-OYT1T00492.htm

 何が残念なのか、を考える前に、賢所御神楽について説明します。

 いやその前に、忘れるといけないので、記事の不正確さについて、まず指摘しておきます。

 記事は、胃腸の炎症などが確認された天皇陛下が賢所御神楽の儀への「出席」を取りやめられた、と書いていますが、「出席」は不適切です。「陛下に代わり、掌典次長が拝礼した」という情報とも矛盾します。

 というのは、たとえば、卑近な例でいえば、「大学の授業に出席する」という場合、授業を主催するのは大学であり、授業を行うのは大学教授で、出席するのが学生です。しかし宮中祭祀の場合は天皇の祭りであって、主催者も実行者も天皇ご自身です。「陛下に代わり」なら主体は天皇ですが、「出席」では祭祀の主体性が失われてしまいます。

 また、天皇の親拝がなく、ご代拝になったとしても、陛下は、歴代天皇がそうであったように、祭祀の主体者として、祭典中、御座所でずっとお慎みになり、祈りの時を過ごされているはずです。とすれば、「出席」「欠席」という表現は事実をゆがめます。

 ところが、この記事ばかりではありません。

 例の宮中祭祀廃止論を提起した原武史・明治学院大学教授も「祭祀に出席」と表現していたし、原教授が編者の1人となっている『岩波天皇・皇室事典』なども、たとえば「祝祭日」の項目は「皇室祭祀令は1947年に廃止されるが、宮中祭祀はその後も、基本的にこの法令に則って行われている。原則として大祭には天皇夫妻、皇太子夫妻と皇族が、小祭には天皇と皇太子が出席することになっている。現天皇と現皇后は宮中祭祀に熱心で……」というように、「出席」です。

 執筆者は高木博志・京大准教授のようですが、誤解を招く解説がまき散らされています。


▽2 重要視された「神の新年」の祭儀

 次に、賢所御神楽についてですが、元宮内省掌典の八束清貫(やつか・きよつら)の「皇室祭祀百年史」(『明治維新神道百年史第1巻』所収)によると、12月中旬(だいたいは15日)に行われる祭儀で、その趣旨は皇祖・天照大神の神霊を慰めることにあるとされています。

 御神楽の淵源は、記紀神話に描かれた有名な天照大神の「天岩戸(あまのいわと)隠れ」の物語に基づくといいます。歴史も古く、清和天皇の貞観元(859)年に始まり、賢所で行われるようになったのは一条天皇の長保4(1002)年で、白河天皇の承保4(1077)年以後、毎年行われるようになったといわれます。

 祭儀に際して、まず賢所の装飾、調度が一新されます。天岩戸に隠れた天照大神がお出ましになり、常闇の世にふたたび光が差したという神話につながるもので、したがって新たな一年の祭祀が始まる神の新年と考えられるほど、この祭儀は重要視されているようです。

 午後5時に天皇陛下が賢所に玉串(たまぐし)をたてまつって拝礼され、続いて皇后、皇太子、皇太子妃が拝礼されたあと、白砂が一面に敷きつめられた賢所前庭の神楽舎内で、午後6時から第一段、第二段と延々6時間にわたって御神楽が奏されるのです。

 この間、天皇陛下をはじめ皇族方は端座して慎まれ、終了の知らせのあと、ようやく就寝されるのだそうです。


▽3 占領時代に逆戻り

 問題点は4つ指摘されます。

 まず第1点。読売の記事によれば、今回の天皇のご代拝は、平成になって初めてとされています。むろん陛下のご負担軽減のためでしょうが、先日の長官所見では「ここ1カ月程度は、ご日程を可能な限り軽いものに致したく、天皇誕生日やもろもろの年末年始の行事などについて、所要の調整を行いたい」というばかりで、祭祀の「調整」が明言されていたわけではありません。

 なぜ長官は祭祀の「調整」について、きちんと説明しないのでしょう? 口をつぐんでいるのは、何かやましさがあるのでは、と疑われても仕方がないでしょう。祭祀は天皇の私的行事に過ぎない、と考えるからなのか、それとも、公務員だからいっさい宗教に関わるわけにはいかない、という厳格な、したがって誤った政教分離主義の発想があるからでしょうか?

 しかし基本原則を明示しないまま、祭祀を「調整」することは、まさに官僚的な秘密主義であり、なし崩し的に密室で祭祀を破壊した入江時代への先祖返りにほかなりません。

 今年3月の宮内庁発表では、「宮中三殿祭祀と両陛下のご健康問題」と題して、わざわざ「祭祀」を明示し、「ご日程の見直し」の標的としていました。今回と対応が異なるのは、繰り返しを避けたというだけなのかどうか?

 2点目は、賢所御神楽は小祭と位置づけられていますから、以前は天皇の親拝がない場合は皇族または侍従に拝礼させる、というのが慣例でしたが、昭和50年9月以降、わざわざ掌典次長という新しいポストをこしらえ、代拝させる制度に変更されました。

 天皇に代わって側近の侍従に拝礼させるからこそ意義があるのにもかかわらず、侍従は公務員だから祭祀という宗教に関われない、という誤った政教分離の考えから、側近ではない、そして公務員ではない、私的使用人という立場の内廷職員に替えられたのでした。

 敗戦後、占領軍は宮中祭祀を「天皇の私事」として以外、認めませんでしたが、いまふたたび天皇の祈りは私事におとしめられたのです。占領時代への逆戻りです。


▽4 祭祀の空洞化

 3点目は、これに関連することですが、同じく50年に皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝が廃止されています。入江日記を読むと、香淳皇后がお風邪のため代拝になったという記事が散見されるように、ごく自然なことですが、ご代拝の制度が側近によって廃止されたことは、西尾幹二先生の東宮批判にしばしば登場するように、今日、皇太子妃殿下が「いっさい祭祀に出席していない」という、いわれなき批判の原因になっています。

 今回、読売の記事は、天皇以外の皇族の拝礼については言及していませんが、天皇については掌典次長のご代拝、皇族は代拝もない、というような状況が続くとすれば、原武史教授などが大げさに祭祀廃止論を提起するまでもなく、天皇の第一のお務めであるはずの祭祀は内廷職員だけが関わり、皇族すら直接関わらない、というように空洞化していくことになるでしょう。

 まさに宮中祭祀は危機のときを迎えているといわざるを得ません。天皇の祭祀が日本の多神教文明の中心であれば、なおのことです。側近たちは取り返しのつかないことをしています。

 4点目は陛下のお気持ちです。今上天皇は皇位継承後、皇后陛下とともに祭祀について学び直され、昭和40年代以降、入江侍従長の時代に改変・破壊されてきた祭祀の正常化に努められたようですが、であれば、いま側近の官僚たちが昭和の「悪しき先例」を持ち出し、祭祀の破壊にふたたび着手したことに、ご心痛はいかばかりかと拝察されます。

 戦後の宮中祭祀は、昭和20年暮れの神道指令を起点として、ほぼ20年ごとに正常化と破壊を繰り返しているように見えます。

 占領後期に正常化が始まり、34年の皇太子(今上天皇)のご結婚の儀は「国事」と閣議決定され、44年には宮中三殿の国有財産化も可能であるという公的解釈までなされましたが、同じころ揺り戻しが始まり、祭祀の改変が入江らによって進められました。43年に毎月1日の旬祭の親拝が年2回に削減されたのが最初でした。そして昭和天皇の御大喪では、大喪の礼は国の儀式、葬場殿の儀は皇室行事というように二分されました。

 今上陛下は祭祀の正常化に努められましたが、御即位20年を前にして、側近らによる破壊が始まりました。いずれの破壊もご高齢、ご健康問題が理由とされていますが、メルマガの読者ならすでにご承知の通り、核心は誤った政教分離の考え方、そして日本の多神教文明の価値を見誤っていることにあります。

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踏襲されてはならない入江時代の「悪しき先例」 [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 踏襲されてはならない入江時代の「悪しき先例」
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▽1 ご公務がお取りやめに
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 さて、心配なニュースが飛び込んできました。天皇陛下が不整脈などの症状が見られることから、ご公務を取りやめて、休養されるとのことです。

 12月3日の宮内庁発表によると、2週間前、不整脈による胸部の変調を感じられ、2日夜には血圧の上昇が見られるようになったようです。検査と休養のため3日、4日のご公務がすべてお取りやめとなりました。5日の発表では、この日も引き続き検査と拝診のために、行事が取りやめになりました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/gokenkou-h201205.html

 報道によると、金沢一郎・皇室医務主管は3日の会見で、ご容態は安定していると語ったと伝えられますから、まずはひと安心ですが、興味深いのは宮内庁の対応です。宮内庁は今回、いわゆるご公務の取りやめについてのみ発表し、祭祀については言及がありません。今年2月、3月の発表の内容と一変しています。

 2月の発表では、金沢医務主管は、ガン治療による副作用の影響で新たな療法の必要性について述べ、風岡典之・宮内庁次長は、運動療法実施のためにご日程のパターンを一部見直す、と補足していました。

 翌3月には、ご負担軽減のために、祭祀の態様について所用の調整の検討が進められていることが、両氏の連名で追加説明されたのでした。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/gokenkou-h200324.html

 いみじくも3月の発表が「宮中三殿祭祀と両陛下のご健康問題」と題されていたように、「御日程の見直し」の標的とされたのは祭祀でした。しかし今回は、「すべての日程のお取りやめ」で、予定されていた御進講、お話に続く午餐、拝謁、お茶などのご公務が取りやめとなったのでした。


▽2 ご負担軽減は緊急の課題

 11月23日夜の新嘗祭を間近に控えたころに変調を感じられたと拝察されるのに、陛下は神嘉殿での夕(よい)の儀、暁の儀を親祭になり、12月1日の宮中三殿での旬祭(しゅんさい)もおつとめになったことが宮内庁発表の「ご日程」から読み取れます。
http://www.kunaicho.go.jp/dounittei/gonittei-1-2008-10.html

 2月の発表では、御在位20年を超える来年から、という陛下のお気持ちを尊重して調整を実施するとされていました。陛下は祭祀王としての自覚から新嘗祭の親祭を強く望まれたのか、とも拝されます。

 報道によると、5日午後、政府関係書類に署名などをなさる定例のご公務は通常の宮殿ではなく、御所で行われました。週末はもともとご公務の予定がありませんが、月曜日以降のご予定はどうなるのでしょう。気がかりです。

 昨年の今ごろは栃木県行幸やタジキスタン、スリランカ大統領との会見などがありました。とくに寒さがつのるこれからの時期は主要な祭祀が集中しています。中旬には賢所御神楽、23日には天長祭、25日は大正天皇霊祭、さらに年末年始の重要な祭儀へと続きます。天皇第一のお務めである祭祀が、ご高齢となり、しかも療養中の陛下にとっていちだんと激務になることは間違いありません。

 したがってご負担の軽減は緊急の課題で、法的根拠や伝統的裏づけがあるわけでもないようなご公務のお出ましを削減し、あるいは御名代として皇太子殿下を立てるという方法を本格的に検討すべきだし、祭祀であれば、大祭なら皇族または掌典長に祭典を執行させ、小祭ならば皇族または侍従に拝礼させるという慣例を参考にすべきです。


▽3 祭祀こそ日本文明の中心

 ところが、宮内庁は2月に「昭和天皇の先例に従う」と発表してしまいました。

 昭和40年代以降、入江相政侍従長らは、ご健康、ご高齢に配慮するとうたいつつ、いわゆるご公務を祭祀よりも優先させ、「簡素化」(入江日記)と称して、祭祀の改変・破壊を断行したのでした。

 何よりも陛下のご健康、ご長寿を祈るとともに、宮内庁が入江時代の「悪しき先例」を踏襲することがないよう強く望みたいと思います。近著にくわしく書きましたが、天皇の祭祀こそ日本という多神教文明の中心だからです。


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今年が最後か、今上天皇新嘗祭の親祭 [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 今年が最後か、今上天皇新嘗祭の親祭
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 近著の最終章の手直しですが、やっと方向性が見えてきました。他人様の文章を批判するのはしんどいことですが、それにしても我ながら筆の遅さにあきれます。併行して初校ゲラの校正も急がなければなりません。


▽1 祭祀の調整を発表した宮内庁
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 さて、今上陛下はこの日曜の夜、宮中で新嘗祭を親祭になりましたが、とりわけ感慨深い時を過ごされたのではないか、と拝察します。もしかすると、今年の新嘗祭が最後の親祭となるかも知れないからです。

 今年の2月、宮内庁は両陛下のご健康問題に関連して、ご日程を見直すこと、とくに昭和の先例に従って祭祀の調整を行うこと、陛下のお気持ちに沿って平成の御代が20年を超える来年1月から実施すること、を発表しました。

 翌3月の発表では、祭祀の態様について、昭和の時代には45年ごろからご代拝などの調整が行われた、として具体的な調整の方法を説明しています。

 陛下のご健康は国民的な関心事であり、ご負担の軽減は必要でしょう。しかし歴代天皇が天皇第一のお務めと信じてきた祭祀を真っ先に標的にされなければならないいわれはないし、その必要もありません。大祭なら皇族もしくは掌典長に祭祀を行わせるという慣例に従えば十分なはずです。

 また、昭和の時代の先例は、このメルマガの読者ならすでにご存じのように、ご健康問題をきっかけとする「調整」ではありません。憲法の政教分離規定をことさらきびしく考える入江侍従長ら側近たちによって改変・破壊されたというのが真相であって、何ら参考にはなりません。悪しき先例を踏襲すべきではありません。


▽2 入江侍従長ら側近による祭祀破壊

 文明の根幹に関わる祭祀の破壊がほかならぬ天皇の側近たちによって行われようとしているのは日本の危機である──そのように、私は「正論」8月号で訴えました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/tennou/H2008SRkoshitsusaishi.html

 宮内庁は皇室に関するマスコミの誤報・虚報などが相次いでいることへの対策として、19年末から抗議や反論などをホームページ上で公開するようになりましたが、拙論への抗議はありませんから、反論できないのだろう、つまり、事実関係について認めている、と私は理解しています。

 祭祀の神聖さを理解できない「俗物」侍従長による祭祀の破壊は、昭和43年に毎月1日の旬祭(しゅんさい)のご親拝が年2回に削減されたのをはじめとして、45年には新嘗祭が「簡素化」(入江日記)されて、夕(よい)の儀のみが親祭で、暁の儀は掌典長が祭典を行われたようです。

 昭和50年8月には宮内庁長官室での会議で、平安時代からの祭祀の伝統を引き継ぐ重儀である毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)について、側近の侍従を宮中三殿に遣わし、烏帽子(えぼし)・浄衣に身を正し、天皇に代わって拝礼させるという形式から、宮中三殿の前庭のなるべく遠い位置からモーニングを着て拝礼する形式に変えたのでした。

 むろん昭和天皇のご高齢に配慮したのではありません。侍従は国家公務員だから、祭祀という宗教に関与すべきではない、というのが理由だといわれます。

 政教分離主義の立場から公務員は祭祀という宗教に関われないというのなら、入江らの祭祀改変も公務員による宗教干渉であって、許されません。まったくの矛盾です。

 これに対して、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践されたのが昭和天皇であり、昭和61年の新嘗祭まであくまで親祭を貫こうとされました。


▽3 正常化に努められた今上陛下だが

 側近の日記などによると、今上天皇は皇位継承後、皇后陛下とともに祭祀について学ばれ、昭和40年代以降、改変されてきた祭祀の正常化に努められたようです。

 だとすれば、いま側近の官僚たちがふたたび昭和の悪しき先例を持ち出し、祭祀の「調整」を図ろうとしていることに、陛下はどのような思いを抱かれているのでしょうか。

 戦前の内務官僚で、宮内省掌典だった八束清貫(やつか・きよつら)の「皇室祭祀百年史」によると、今年とれた新穀の御饌(みけ)と御酒(みき)を皇祖神以下、諸神にささげ、みずからも召し上がり、国の平安と民の繁栄を祈られるもっとも重い祭りが新嘗祭です。

 神事は寒さがつのる夜間に行われます。夕(よい)の儀は午後6時から2時間、暁の儀は同11時から2時間、繰り返して行われます。天皇はとくに謹慎と清浄をあらわす純白生絹(すずし)の祭服を召されます。皇太子も純白の斎服で参列されます。固い畳の上に正座して行われる祭祀は、ご高齢で、しかも療養中の陛下にとって、激務以外の何ものでもありません。

 たとえば卜部亮吾元侍従は、新嘗祭が肉体的に大きな負担であることを次のように説明しています(『昭和を語る』昭和聖徳記念財団、平成15年)。


「新嘗祭はいちばん大変です。時間も長いですし、長時間ずっとお座りになって御直会(なおらい)をされるのです。足のしびれは普通ではないですよ。新嘗祭が近付きますと、お居間でテレビをご覧になるときに、ふだんはソファでご覧になりますが、座布団を敷いて座ってご覧になるのです。つまりお座りの御練習という、そういうことまで気を遣っていらっしゃる」


▽4 いまふたたび悪夢が

 宮内庁は2月の発表で昭和の先例を引きましたが、大正時代には法令に従って淡々とした対応がされています。

 たとえば大正9年11月24日の東京朝日新聞によると、この年の新嘗祭は前年までとは異なり、大正天皇の親祭ではなかったようです。九条掌典長が祝詞を奏し、皇太子が拝礼された、と書かれています。

 戦前の皇室祭祀令には、天皇に事故あるときは皇族または掌典長に祭典を行わせる、とありますから、これで十分なのです。

 昭和天皇の側近たちもご高齢が本当の理由だとするなら、国民にもきちんと説明し、慣例に従った対応をすべきでした。ところが、実際はそうではありませんでした。ほかならぬ側近が、陛下のご高齢を口実にして、祭祀の改変という、あってはならない伝統の破壊におよんだのです。

 そして、いまふたたび悪夢が繰り返されようとしています。破壊をくい止め、正常化を求める国民の声が求められています。

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宮中祭祀の破壊は繰り返されるのか [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2008年5月29日)からの転載です


□□□□□□□□ 宮中祭祀の破壊は繰り返されるのか □□□□□□□□


 今年4月半ばから書き始めた、原武史・明治学院大学教授の「宮中祭祀廃止論」に対する批判も、今日の臨時増刊号で一応、打ち止めとします。

▽1 おさらいと補足
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 まず前号の簡単なおさらいと補足をします。

 原教授は宮中祭祀廃止論の前提として、1960年代末以降、昭和天皇の高齢を理由に宮中祭祀が削減または簡略化されていったと説明しますが、間違いです。厳格な政教分離主義が行政全体に蔓延(まんえん)した結果、宮中祭祀が簡略化・改変されたのです。

 政教分離原則は国民の信教の自由を制度的に保障することが目的ですが、日本では仏教やキリスト教、イスラムに対しては緩やかな分離政策が採られながら、こと神道に対しては差別的に厳格主義が要求され、昭和天皇の大喪の礼では神道色の排除が行われました。

 法の下の平等に反する宗教差別が公然と行われるのはなぜか、というと、「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の源泉だとする神道指令的な誤解と、現行憲法の政教分離主義が戦前の反省から生まれたとする誤った歴史理解、という2つの理由が考えられます。

 布教の概念すらない神道を、攻撃的な世界宣教を展開したキリスト教と同一視し、「侵略的」と考えたところに間違いの出発点があると私は考えます。

 戦前・戦中に靖国神社をシンボル化したのは、靖国神社自身というより大新聞ですし、戦後より戦前の方が厳格な政教分離主義が追求されていますから、神道を差別し、宮中祭祀を圧迫し、仏教やキリスト教、さらに無神論者を優遇するというダブル・スタンダードの政教分離政策には根拠がありません。憲法の政教分離規定は、むしろ宗教伝統否定、天皇反対の道具として、確信的に悪用されていると私は考えます。

 半世紀以上も宮中祭祀の法的枠組みが未整備のまま放置されているのは、為政者の怠慢以外の何ものでもありませんが、それなら、天皇の祭祀を国の基本法の上に、どう位置づけるべきなのか。そのヒントは一神教の歴史のなかに見出されます。

 なぜなら一神教こそ、異教の存在を強く意識し、神の命令による布教という形で他宗教信者に棄教を迫り、他宗教に圧迫を加えるのであって、国民の信教の自由を制度的に保障するために国家の宗教的中立性が求められるのは、攻撃的な一神教の存在と、その発想・論理が前提にあります。政教分離問題とは一神教問題なのです。

▽2 上智大学生靖国神社参拝拒否事件

 歴史の実例を挙げましょう。

 昭和7(1932)年に上智大学生靖国神社参拝拒否事件が起きました。カトリック修道会のイエズス会が経営する同大学で、配属将校が学生を引率して靖国神社に行軍したとき、信徒の学生が参拝しなかったことから、やがてマスコミを巻き込み、大騒動に発展したとされる事件です。

 配属将校が引き揚げたばかりでなく、後任者が決まらない事態となり、卒業生は幹部候補生となる特典を失うなど、学生にとっては深刻で、志望者が減った大学も困難な状況に置かれました。

 今日の教会指導者は、この事件を教会への「軍部と世論による迫害」(「非暴力による平和への道」カトリック中央協議会、2005年)などと呼んでいます。しかし、渦中の人である丹羽孝三幹事(学長補佐)の回想(『上智大学創立60周年──未来に向かって』ソフィア会、1973年所収)によれば、当初は、まったくそのような気配はありませんでした。参拝を強制されたというわけでもないようです。

 文部省は大臣以下、幹部は上智大学の理解者で、逆に軍部に批判的であり、警察当局にも協力者がいたといいます。それどころか軍部内にも同情者が現れ、部外秘情報を丹羽に届けてきた、と丹羽幹事は書いています。

 当時の上智大学は、全国に十数校しかない大学令による大学で、宗教学校ではありませんから、教会への迫害とはいえません。当時の教会はむしろさまざまな優遇を受け、発展期にありました。けれども事件が信徒にとって深刻な信仰問題を提起したことは確かです。

 ついでにいうと、ベストセラーとなった高橋哲哉・東大大学院教授の『靖国問題』(ちくま新書、2005年)などは、クリスチャンの学生2人が、軍事教官の引率で靖国神社の遊就館を見学したとき、参拝を拒んだ、と事件の発端を説明していますが、誤りです。

▽3 靖国参拝を認めたカトリック教会

 丹羽幹事の回想によると、陸軍省がホフマン学長の出頭を求めてきたことから、代わって丹羽が小磯国昭大将(陸軍次官)に面会します。

「陛下が参拝する靖国神社にカトリック信徒が参拝しないのは不都合ではないか?」と小磯が詰め寄ると、丹羽は「閣下の宗旨は?」と聞き返します。「日蓮宗です」「それなら本願寺(浄土真宗)や永平寺(曹洞宗)に参拝しますか?」「他宗の本山には参りません」「しかし陛下は参拝されます」という問答が続き、小磯は「僕の書生論は取り消します」と小磯は抗議を取り下げた、と丹羽は振り返っています。

 こうして収まったはずの騒動が火を噴くのは、10月になって「報知新聞」などが書き立ててからのことでした。「軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのであって、大学はいい迷惑だった」と丹羽幹事は説明しています。

 このエピソードが示しているように、神道が他の宗教と両立しがたい一宗教であり、靖国神社参拝がみずからの一神教信仰に反して異教の神を拝することになる、というのであれば、熱心な信徒であればあるほど、参拝を容認することはできません。しかもそのことは、日蓮宗信徒の小磯次官の例で分かるように、キリスト教に限りません。

 ところが、カトリックの総本山であるバチカンは、唯一神信仰を侵す異教崇拝というような見方をせずに、1936(昭和11)年の指針で信徒が靖国神社の儀礼に参加することを明確に認めます。そしてさらに戦後も1951年の指針で追認しています。

▽4 孔子崇拝の儀礼参加を認める

 カトリック信徒が靖国神社の儀式に参加することは、外形的に見れば、異教の施設での異教儀式に参加することにほかなりませんが、一神教の教えに反しないものとして容認してきたカトリックの理論は、日本の政教分離問題を考え、宮中祭祀の法的位置づけを確立させるうえで、たいへん参考になります。

 カトリックが異教の儀礼を公的に認めたのは、じつに350年も前のことでした。布教聖省が1659年に中国で布教する宣教団に与えた指針が最初のようで、そこには、「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」(『歴史から何を学ぶか』カトリック中央協議会福音宣教研究室編、1999年)と明記されています。

「全世界に行って、福音を述べ伝えなさい」(マルコによる福音書16章15節)というイエスの言葉を胸に、一神教のキリスト教が世界布教の過程で、ヨーロッパやアメリカ大陸の異教世界を侵略し、異教の神々を冒涜し、異教徒を殺戮し、異教文明を破壊したことは誰でも知っています。しかし「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルに始まる、アジアの多神教文明圏での福音宣教は様相が異なります。

 16世紀末に中国宣教を開始したイエズス会は、中華思想に固まる中国人に布教するため、画期的な「適応」政策を編み出します。現地語を学び、現地の習俗、習慣を積極的に採り入れ、絶対神デウスを中国流に「天」「上帝」と表現し、中国皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝の儀礼に参加することをも認めました。

 この新しい布教戦略は功を奏し、イエズス会士は宮廷の高級官僚となり、信者は増え、1692年にはキリスト教は公許されました。

 しかし「適応」政策は、その成功ゆえに、遅れてやってきた他の修道会の反感を買い、修道会同士の対立抗争を招き、孔子崇拝の儀礼参加の是非をめぐってバチカンで典礼論争が巻き起こります。結局、論争に破れたイエズス会は解散させられますが、20世紀になって適応主義は蘇り、日本では1936年に靖国参拝が認められ、中国では39年に孔子廟での儀式参加が許されました(矢沢利彦『中国とキリスト教』近藤出版社、1972年など)。

 異教儀礼に参加することは許されるのか。これは、唯一神を信じるキリスト者にとって大きな信仰問題ですが、数百年の歴史を経て、そして上智大学生事件をめぐる騒動を機に、教会は異教施設での信徒の儀礼参加について理論的な発展を見せます。つまり従来通りの、神社は宗教なのか否か、という古典的な議論から一歩も二歩も進めて、異教に由来する儀礼に参加することがキリスト者にあるまじき異教崇拝には直ちに該当しない、という画期的な公式判断が示されるのです。

▽5 非宗教的な国民儀礼として許可

 上智大学と陸軍・文部両省との間で了解が成立し、陸軍省は引き揚げていた配属将校を任命し、翌8年12月、事件は解決するのですが、このとき上智大学は在学学生諸子ご父兄各位にあてた文書で、次のように説明しています。

「昨年、不幸にして神社に対する学長の認識の不十分により、ついに神社参拝問題を惹起いたし候(そうろう)……爾後(じご)、学長においてもつまびらかに神社の本質を研究いたし候結果、神社は日本国民精神の基礎たるべき忠君愛国心の対象たり儀表たるものにして、これをいわゆる宗教と同一視せられざることを了解し……」(『上智大学史資料集 第3集』上智学院、昭和60年)

 つまり、大学側はいわゆる神社非宗教論の立場で、ホフマン学長の認識不足があったとして、問題の解決を図ったようです。

 ところが、教会は必ずしもこの立場ではありません。

 事件が持ち上がった昭和7年の暮れに発行された、のちの枢機卿・田口芳五郎師の『カトリック的国家観──神社参拝問題をめぐりて』(カトリック中央出版部)は、「そもそも神社問題は、『神社は宗教なりや否や』という本質論をめぐるものであって……」と書きつつも、一方で、宗教的礼拝と儀礼的敬礼は異なる、という別の論理を提起するのです。

 ──政府当局は、神社は宗教にあらず、という態度に終始している。もし神社が純然たる宗教的施設なら、(明治)憲法28条(信教の自由の保障)によって神社に参拝する義務はない。しかし礼拝と敬礼とは異なる。礼拝は造物主になされるが、敬礼は被造物に適用される。教会法1258条は、信者は非カトリック的宗教儀式に関与することは絶対にできぬが、忠君愛国心の表白あるいは礼儀的理由などのために、宗教儀式にも、宗教的行為をなすことなく、受け身的に参列することは黙許されている。

 つまり、神社という施設が宗教施設なのか否か、という議論ではなく、人間の行為の意味に注目し、そのうえで、宗教儀式を伴わないのであれば、神社での愛国的行為としての敬礼は教会法によって黙認されている、と解釈するのです。

 礼拝と敬礼は異なるという解釈はキリスト者ではない日本人自身も以前から自覚していたようです。それは遥拝と黙祷の違いですが、長くなるのでここではお話ししません。

 事件さなかの同年9月、シャンポン東京大司教は鳩山一郎文相宛に書簡を送り、学生らの神社の儀式への参列は愛国心と忠誠を表すものなのか、宗教に関するものか、と確認を求め、「神社参拝は教育上の理由に基づくもので、学生らの敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」という願い通りの文部省の回答を得ます。

 さらにバチカンは議論を深めます。

 日本の教会は、異教儀礼に由来すると思われる行為などを公的に求められたときの信者の対応についてバチカンに何度も照会し、これに応じて布教聖省は1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」を発し、神道的儀式への参加を許可します。

「政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常行われる儀式は、国家当局者によって単なる愛国心の印、すなわち皇室や国の恩人に対する尊敬の印とみなされている。……これらの儀式が単なる社会的な意味しか持っていないものになったので、信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許される」(前掲『歴史から何を学ぶか』)

 つまり、指針は、神社が宗教かどうか、という古臭い議論でもなく、宗教儀式の有無を問題にするのでもありませんでした。まず、国家神道(注。原文はラテン語ですが、バチカンのいう国家神道はおそらく神道指令的な意味とは異なるのではないかと私は考えます)の神社での国家的な儀礼と、宗教としての神道の礼拝とを区別しました。そのうえで前者の神社での儀式の意味の歴史的変化を認め、非宗教的な国民的儀礼としての靖国神社の儀礼について、信徒が参加することをバチカンは許したのです。

▽6 皇室祭祀は信教の自由を圧迫しない

 そして戦後、1951年に出されたバチカンの新しい指針は、これを追認しています。

「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。日本政府は明確に言明してきたし、この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使ドハーティ枢機卿は(昭和12年に)参拝したのだ」(西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』サンパウロ、2000年)

 このように、カトリックは数百年の間に教義を発展させ、異教的伝統文化の尊重をうたうとともに、異教の宗教伝統から生まれた国家的、あるいは国民的な儀礼に参加することが、みずからの一神教信仰に反しないということを公的に認めているのです。

 だとすれば、皇室の祭祀が、たとえば御大喪や即位大嘗祭という国家的儀礼が、たとえ神道的、あるいは異教的な儀礼であったとしても、むろん国事として行われたとしても、それに信徒(政府高官としても、一般国民としても)が参加することが信徒の一神教信仰を侵すことにはならない。つまり、信教の自由を侵さない。したがって、政教分離問題を生じさせない、ということになります。

 これはカトリックが長い世界宣教の歴史の末に到達した優れた知恵というべきです。

 一神教的な対立と排除の論理を原理主義的に貫けば、宗教戦争は避けられません。異教を敵視し、その神を拝せず、という攻撃的で頑なな態度なら、宗教間対話は成り立ちません。神社が宗教か否かという議論はひとまず置くとして、参拝や拝礼と表敬とは異なるのであり、カトリックはかつて異教文明を侵略、破壊した悲しむべき歴史を悔い改め、宗教的共存の道を見出したのだと思います。

 靖国参拝を認めた1936年の指針は、「諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言した第2バチカン公会議(1962〜65年)の精神を先取りするものといえます。

▽7 多宗教化する一神教世界

 異教文化の容認のみならず、一神教世界の多宗教化ともいうべき現象も起きています。

 たとえば先述したアメリカ同時多発テロ直後の追悼ミサが行われたワシントン・ナショナル・カテドラルは、カトリックではなく、イングランド教会(イギリス聖公会)を母教会とするアメリカ聖公会の聖堂ですが、ミサではキリスト教だけではない、諸宗教の代表者が参加し、諸宗教の祈りが捧げられました。

 同様のことは、イギリスやオーストラリアの公的追悼行事でも行われています。

 異教世界の侵略に血道を上げた大航海時代には考えられなかったような多宗教化の理由は、2つ考えられます。

 1つは地球が狭くなったことです。一神教の世界宣教が異教世界に対する侵略をもたらすことは明らかです。一神教への改宗は在来信仰を捨てることにほかならず、宗教間の対立は避けられないからです。大航海時代のように世界が無限の広さを持っていた時代ならまだしも、いまや地球は小さな金魚鉢です。まともな人間なら、誰が血生臭い宗教戦争を望むでしょう。

 もう1つの理由は、キリスト教自身の多神教性、多宗教性です。詳述しませんが、クリスマスや復活祭を見れば、キリスト教がけっして教科書的な一神教ではなく、古代ローマやケルトの宗教と習合し、多宗教的世界を作り上げてきたことが分かります。クリスマスは明らかにキリスト教以前の冬至の祭り、つまり異教の自然崇拝が原形です。異教を徹底して排除することはキリスト教自身の豊かな歴史を否定することにつながります。

 ただ、日本のキリスト者がこのような教会史の流れを理解しているかどうかは別です。

▽8 宗教的共存こそ天皇の原理

 異教文化の容認や多宗教化現象は、一神教を信仰するキリスト教文明圏ではつい最近、目立つようになったできごとですが、日本という多神教的、多宗教的文明圏では、古代から当たり前のこととして行われています。キリスト教文明圏の方がはるかに遅れているのです。

 たとえば、お近くの氏神様の境内を眺めてみてください。八幡神社だとすれば、正面の社殿には八幡様が祀られている。しかし境内にはたぶん、天神様や稲荷神社などの祠(ほこら)もたくさん並んでいるはずです。

 神社とひとくちに言っても、自然崇拝もあれば、稲作信仰もある。皇室崇拝も、義人信仰もあります。キリスト教から見れば、一つの宗教かもしれませんが、そのように断定するにはあまりに多様な、異なる信仰が一つの境内に共存しています。

 境内の外に目を転じれば、古代朝鮮の遺民が建てた古社もあれば、仏僧を祀る神社もあります。キリシタンの神社さえあります。いずれもみな、れっきとした神社です。

 キリスト教世界のように血で血を洗うような宗教戦争を経験することなく、このような宗教的共存が成り立ってきたのは、その中心に天皇の私なき祈りがあるからです。

 仏教導入に積極的な役割を果たしたのが皇室であり、天皇が創建した古刹(こさつ)も少なくありません。皇室こそ海外文化受容のセンターでした。近代になると、皇室はキリスト教の社会事業を深く理解され、支援されました。昭和7年の上智大学生靖国神社参拝事件を一気に解決させたのは、宮様師団長の鶴の一声だったといわれます。

 国民の信教の自由を制度的に保障するため、宗教的中立性を国家に要求するのが近代の政教分離原則ですが、国民をみなひとしく赤子(せきし)と考え、私なき公正な立場で、「国平らかに、民安かれ」と祭祀を続けてこられたのが皇室の伝統です。

▽9 「参列を強制しない」で十分

 絶対分離主義者は、天皇の祭祀は神道儀礼であるから、国の儀礼と認めれば、国が宗教的活動をすることになり、神道を優遇し、逆に他宗教を抑圧することになる、と主張しますが、誤りです。

 地域共同体を信仰の母体とする神道にはもともと布教の概念がないし、宮中祭祀はあくまで儀式であって、信者拡大の意図がありません。皇室は宗教団体ではありません。国民の信教の自由を圧迫しようがないのです。天皇の祭祀は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法20条3項)という場合の「宗教的活動」には当たりません。

 もし宮中祭祀が神道を優遇し、政教分離に違反すると本気で考え、厳格主義を主張するのなら、天皇が仏教寺院に勅使を差遣(さけん)されることにも、教会で行われる教皇の追悼ミサに皇族が参列されることにも、抗議の声を上げなければなりませんが、そのような原理主義は誰も支持しないでしょう。

 ローマ教皇ベネディクト16世が、2年前、和解のためにトルコのブルーモスクを表敬し、崇高な祈りを捧げられたことは、世界の多くの共感を呼びましたが、日本の天皇は異なる多様な宗教への敬意を1000年以上も前から示してこられました。

 仏教に帰依した天皇さえおられますが、それでも「神事を先にす」という「禁中の作法」が守られてきました。仏教の守護者ではあっても、一神教的な布教者ではありません。

 昭和天皇の大喪の礼で、「神道色が強い」などと、鳥居や大真榊を撤去されたことがいかに形式論的で、事なかれ主義だったか、そして意味のないことだったか。憲法の政教分離原則を強調し、皇室の祭祀に政府が干渉し、改変を迫ることの方が、歴史と伝統の破壊であって、許されることではありません。

 国民の信教の自由を大らかに保障し、宗教的共存を実現させてきた天皇の制度を再認識すべきです。原教授が主張するような宮中祭祀廃止論はまったくの論外です。

 要するに、宮中祭祀への参列を強制しない。それで十分です。祭祀は人の魂を揺さぶるほど宗教的であるべきです。宗教性を排除すべきではありません。ただし、天皇の祭祀を「皇室の私事」と位置づける現行憲法の矛盾は改められるべきでしょう。

▽10 「祭祀の調整」を表明した宮内庁

 最後になりましたが、宮中祭祀の現状を見ると、どうやら、戦後の祭祀破壊の張本人と目される入江相政侍従長のころとほとんど変わらない、嘆かわしい状況が続いているようです。

 たとえば、昭和58年の富田朝彦・宮内庁長官宛の渋川謙一・神社本庁事務局長の質問書は、建国記念の日が法制化されたのにもかかわらず、紀元節祭が復活していない、と迫りましたが、戦前の皇室祭祀令では大祭と位置づけられていた紀元節祭は、宮内庁ホームページの「主要祭儀一覧」にはいまも掲載がありません。
http://www.kunaicho.go.jp/04/d04-01-03.html

 「平成20年の祭祀のお出まし一覧」にも、祭儀名としての記載がありません。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/taiou-h200321-1.html

 ただ、「天皇皇后両陛下のご日程」のページに、「平成20年2月11日、天皇陛下、賢所仮殿御拝」と記述されていることが確認されます。
http://www.kunaicho.go.jp/dounittei/gonittei-1-2008-1.html

 宮内庁は紀元節祭とは認識していないけれども、陛下は祭日とお考えになり、親拝されているのでしょう。昭和天皇がそうだったように、今上陛下もまた、たったお一人で、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、祭祀の伝統を守ろうとされているものと拝察します。

 原教授は、月刊「現代」5月号の論考で、「現天皇の宮中祭祀に対する思い入れは並々ならぬものがあります」と書いていますが、むろんこれは天皇個人のお考えに帰すべきではありません。

 天皇の御位(みくらい)は皇祖の神勅に由来し、皇祖の神意に基づきます。順徳天皇の「禁秘抄」(1221年)に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事をあとにす」とあるように、国と民のために祈ることが皇室の伝統なのです。したがって、祭祀の簡略化や改変、いわんや廃止論に陛下が与(くみ)するはずはありません。

 しかし改変はふたたび現実になりそうです。この3月、宮内庁は、今上陛下のご高齢とご健康問題を理由として、「祭祀の態様について所用の調整を行う」ことを表明しています。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/gokenkou-h200324.html

 すでに何度も申し上げましたように、陛下の親祭、親拝がご無理なら、大祭なら皇族または掌典長による祭典の執行、小祭なら皇族もしくは侍従による御代拝に代えるという伝統的な方法があります。祭祀の主体はあくまで陛下ご自身です。昭和天皇の晩年に側近らが祭祀の簡略化と称して、越権的に介入し、改変・破壊を進めた愚策が繰り返されないことを願いたいと思います。

▽11 最後に原武史教授へ

 締めくくりに、原武史教授にひと言申し上げます。

 教授は『昭和天皇』(岩波新書、2008年)のあとがきで、「学問の傲慢(ごうまん)さ」に言及しています。執筆に際して、もっとも大きなインスピレーションを得たのは松本清張だったと告白したうえで、学者がいちばん史料を集め、読んでいると考えるのは思い上がりだ。アカデミズムは小説家や在野の歴史家から何を学んできたか、と批判しています。

 まったく仰せの通りですが、そのことは教授にも、そして私にも当てはまります。天皇の制度にしても、宮中祭祀にしても、日本の歴史とともに古く、それだけ奥が深いものです。また自然発生的なものですから、文字に表された資料だけでものをいうこともできません。事件記者が人一倍多くの取材を重ねた結果、事件の核心に迫れるとは限らないのと同じように、資料を渉猟しても本質をとらえられるという保証はありません。したがってどのような分野にも共通することですが、優れた研究者ほど、謙虚です。私たちもその謙虚さを学ぶべきではないでしょうか。今後の研究のご発展をご期待申し上げます。

 そして読者の皆さま、つたない、長々とした文章を辛抱して読んでいただき、ありがとうございました。私の知識と力量ではこの程度のことしか書けませんが、当メルマガに2000人を優に超える方々が読者登録してくださったことは感謝以外の何ものでもありません。あつくお礼を申し上げます。

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