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井上清京大名誉教授の「元号廃止論」を読む ──時代のニーズに追いついていない学問研究 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年9月16日)からの転載です

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井上清京大名誉教授の「元号廃止論」を読む
──時代のニーズに追いついていない学問研究
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▽1 元号への拒否感

 来春の御代替わりに伴う改元について、政府は1か月前に新元号を事前公表し、践祚(即位)当日の5月1日に改元することを決めています。

 これに対して、保守派のなかから「事前公表」への反対論が出ています。これは改元の権限が本来、誰に帰属するのかというきわめて本質的な議論を含んでいますが、盛り上がりに欠けています。

 理由は反応があまりにも遅すぎるからだけではありません。いまや日本だけの文化ともいわれる元号を忌避する現象さえ起きています。

 たとえば全国紙のサイトをのぞくと、朝日や毎日、日経はもちろん、保守派と見られている産経でさえ西暦を使用し、トップページに年号を使用しているのは読売だけです。こんな状況では、国民的な議論が深まるはずはありません。

 政府自体、腰が引けています。すでに元号法の審議過程から「元号の使用を国民に義務づけるものではない」と繰り返していたくらいですから、何をか言わんやなのです。

 それだけ元号に対する根強い拒否感があるということですが、何がそうさせるのか、あらためて考えみます。

 ここでは、井上清京大名誉教授(日本史。故人)の『元号制批判──やめよう元号を!』(明石書店。1989年。蛇足ながら、この本の奥付も西暦表記です)をめくってみることにします。


▽2 古代中国のモノマネか

 井上先生の著書の「はしがき」に、昭和から平成への御代替わりが迫っていた昭和63年11月、井上先生たち反対派が出した「年号制をなくそう!」なる声明文の全文が掲載されています。先生の説明では、発起人は数十名、起草者はほかならぬ先生でした。

 先生たちが、年号(元号)使用の強制に反対するだけでなく、公文書での不使用を提唱し、さらに年号制そのものをなくせと主張するのには、4つの理由がありました。

 1つは、「紀年の方法としては不合理きわまる」ことです。年号だけでは歴史的事象の先後関係を知ることができないし、一世一元の制が採用された明治以後も数代にわたる年代を表示できず、これでは紀年法に値しないというのです。

 それなら、なぜそのような紀年法が採用されたのかといえば、古代中国の制度をそっくり移入したモノマネだというのが先生のお考えです。万物を支配する「天」の子が皇帝であり、皇帝が空間と時間を支配するという考え方が採用され、元号を制定する天皇が国民を縛り付ける制度となったというわけです。

 しかし、漢字の導入や仏教の伝来がそうであったように、年号の採用は単なるモノマネではないように私は思います。年号は朝鮮やベトナムでも採り入れられましたが、それは古代中国のモノマネというより、漢字や仏教と同様、世界基準と考えられたからではないでしょうか。

 一方で、上山春平元京大教授(哲学。故人)が指摘したように、古代中国の易姓革命の思想は日本では受け入れられませんでした。日本の古代律令制では、ご本家の三省六部とは異なり、太政官と神祇官が並立する二官八省が採用され、政治権力は天皇から太政官に委任されました。けっしてモノマネではありません。

 井上先生がご指摘のように、9世紀末から10世紀初めになると、日本の改元は「瑞祥改元」から「災異改元」へと変化していきました。なぜなのでしょうか。

 先生は天皇の権力・権威を強調する、古代中国の後追いだと説明していますが、そうでしょうか。日本の天皇制がその程度のものなら、それから千年以上、いまに到るまで存続し得たでしょうか。

 中国のモノマネの年号は廃止し、西洋のモノマネの西暦は採用し続けるというのは、論理的ではありません。大和言葉と漢語、在来信仰と仏教というように多様性の共存こそが日本という文明かと思われます。


▽3 天皇嫌いの感情論

 2つ目は、年号制が日本国内でしか通用しないという限界性、閉鎖性です。諸外国と交際できないし、平等で対等な交通の障害となり、国際感覚を妨げ、逆に排外意識を育てるというのです。

 たしかに日本の年号は日本でしか通用しません。いまでは日本だけが年号制の唯一の採用国です。仰せの通りです。

 けれども、先生が主張される年号論、いや、むしろ天皇論といった方がより正確かも知れませんが、お考えからすると、各国の独自の歴史と文化はすべて価値が否定されることになりませんか。イスラムにはイスラムの、仏教国には仏教国の紀年法があるのは、認められないことでしょうか。

 世界の国々が同一の文化を持つから対等に交流できるのでしょうか。そうではなくて、それぞれの国や民族が持っている独自の文化に大きな価値があることを互いに認め合うからこそ、平等な国際関係を保つことができるのではありませんか。

 たとえば最近では、驚いたことに、日本の「昭和歌謡」を愛好する外国人も増えているようです。日本人に排外意識が芽生えるどころではありません。

 3つ目は、以上の2つの理由は明白なことであって、実際、元号廃止論は天皇尊崇主義者にも、合理性・国際性を持つ学者や国際的な資本家にも少なくないということです。

 しかし、上山春平元教授が「大嘗祭は第一級の文化財」と仰せになったように、年号もまた日本の伝統的文化財です。元号は不便で、世界に通用しないから廃止するというのではなくて、西暦と併用すれば済むことです。

 井上先生の元号廃止論は、単に天皇が嫌いだという感情論に聞こえます。


▽4 天皇の絶対的権威?

 4つ目は、まさにその天皇論で、井上先生は、年号制は政治的思想的に天皇の絶対的権威を高め、その下に国民を統合する強力な作用があることが期待されているからこそ、政府・自民党は年号制を強行するのだと断言しています。

 しかし、もし政府・自民党が絶対的な天皇の権威を高めようと企てているのなら、新元号の事前公表などしないのではありませんか。天皇の権威を重んじるなら、新元号の決定は践祚後、新帝のもとで行われなければなりません。いまの政府の姿勢は天皇の権威を高めるものとはいえません。

 さらに井上先生の批判は、国家神道、教育勅語、皇国史観、現人神天皇、現代軍国主義へと広がっていき、元号論を超えています。

 大正2年生まれで、羽仁五郎の指導を受け、マルクス主義の洗礼を受けた先生が天皇制批判に走るのはごく自然かも知れませんが、日本の天皇は古来、絶対的存在などとはほど遠かったはずです。

 にもかかわらず、先生が多感だった昭和前期に、「天皇は現御神である」(「国体の本義」文部省。昭和12年)とされるようになったのはなぜか、むしろその経緯と理由をこそ歴史学者として探求すべきではなかったでしょうか。

 さて、いっこうに議論が深まらないまま、御代替わりは来春に迫りました。御代替わりのあり方についての議論だけではありません。国家神道論、天皇論そのものに関する学問研究が時代のニーズにまったく追いついていないのです。
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全体性に欠ける御代替わりの議論 ──メディアの見識と責任が問われる [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年8月28日)からの転載です

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全体性に欠ける御代替わりの議論
──メディアの見識と責任が問われる
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 政府は来年5月1日の践祚(即位)の1か月前に新元号を公表することをすでに決めていますが、保守派のなかから、これに反対し、践祚当日の公表を要求する意見が浮上しています。

 御代替わりのあり方について真摯な議論が生まれるのは喜ばしいことですが、議論のタイミングが遅すぎるし、取り上げるべきテーマも全体的であるべきだと思います。


▽1 全体性なき「元号の本質」

 前々回、取り上げたように、ある大学教授は、全国紙に掲載されたエッセイで、「元号の本質がゆがめられてはならない」と締めくくっています。元号を改め、新元号を制定する改元(代始改元)の権限は新帝の領域であるから、その本質上、新元号の公表は践祚(即位)後に行われるべきだという主張です。

 この議論それ自体は間違いではありませんが、「本質」論としては不十分です。なぜなら、践祚(即位)当日改元が「元号の本質」なのか否か、吟味されていないからです。

「歴史的・伝統的には、天皇に元号の制定権があり」と断言しながら、大正と昭和しか前例のない践祚当日改元について、「本質」的に検討しないのはかえって「元号の本質をゆがめる」ことにならないのでしょうか。

 教授は元号法を引用していますが、同法に基づいて元号を「平成」に改めた政令(昭和64年1月7日公布)の附則には、「公布の翌日から施行」とあります。

 なぜ今回は、「翌日改元」の前例が踏襲されず、廃止されたはずの明治42年の登極令第2条「践祚の後は直ちに元号を改む」が準用されなければならないのですか。

 教授は、政府の事前公表案を「便宜主義」と批判していますが、「元号の本質」のつまみ食いこそ、「便宜主義」ではないのですか。

 そもそも改元のあり方ばかり議論することは「本質」的でしょうか。いまさらの感なきにしもあらずですが、践祚、即位大嘗祭、改元からなる御代替わりについて、「本質」的に検討すべき課題はほかにもあるはずです。

 全体的視点のない教授のエッセイを掲載した産経新聞の見識も問われます。日本人にとって天皇は総合的、多面的な存在ですから、全体的、多角的な検討が必要です。なぜ元号ばかりが取り上げられなければならないのでしょう。


▽2 小林侍従日記をめぐる共同のスクープ

 総合的、全体的といえば、先週、総合的、全体的な視点の欠けていそうなスクープがありました。

 1つは、昭和天皇に仕えた小林忍侍従日記の発見です。共同通信のスクープでした。日記には「晩年まで戦争の影を引きずる苦悩が克明につづられている」と伝えられています。

 メディアは昭和天皇の「戦争責任」について報道し、社説のテーマとした新聞もありますが、ジャーナリズムやアカデミズムが問う「戦争責任」と天皇にとっての「戦争責任」は異なるのではないでしょうか。

 天皇は次元の高い「責任」を仰せなのであって、それは歴代天皇と共通しています。古来、天変地異、飢饉、戦乱、悪疫流行をわが罪とみずから責めたのが天皇です。古代の天皇が重んじた「金光明最勝王経」は、悪業を黙視するなかれ、悪を放置すれば国が乱れ、国土は破壊される。国を治めるに正法をもってすべしと教えています。

 日記は、1977年(昭和52年)8月23日の宮内記者会との会見で、いわゆる人間宣言について言及されたことをも記録しているようです。天皇が現人神から人間になったという通俗的な理解とは異なるということですが、この点のついて掘り下げている記事は見当たりません。

 小林侍従日記にはさらに、今上天皇の即位の礼について、「ちぐはぐな舞台装置」「今後の先例になることを恐れる」などと既述されているようです。

 儀式の一貫性のなさに宮内庁内で不満があったとする報道もありますが、それどころか国の一大事である御代替わりについて、何ら準備がなされていなかったというのがむしろ真相でしょう。戦後の皇室制度のあり方全般が問われるべきなのです。


▽3 毎日がスクープした文仁親王の「懸念」

 もうひとつのスクープこそは、全体性に欠ける典型例というべきものでしょう。

 秋篠宮文仁親王殿下が、大嘗祭に公費を支出することは避けるべきではないかという「懸念」を宮内庁幹部に伝えていると毎日新聞が伝えています。関係者への取材で明らかになったというのです。

 記事は、大嘗祭の宗教性、憲法の政教分離原則、多額な費用の支出方法などについて説明していますが、それらの事実と殿下のご懸念とがどう関係するのかは不明です。それどころか、同紙の取材に対して、宮内庁幹部は、殿下のご懸念について「承知していない」と答えたと記事にあります。

 記事にはむろん、殿下がいつ、どこで、誰に、どのように、ご懸念を示されたのか、具体的な情報は見当たりません。大嘗祭について、どのような意味で懸念されるのか、ましてや、御代替わり全体についてどのようにお考えなのか、まったくうかがえません。

 皇族ご本人への直接取材ではない、宮内庁幹部からの二次情報に基づく伝聞が記事にされていることも特徴的です。直接取材が困難な皇室報道の常とはいえ、全体像はますます見えにくくなります。

 毎日は、昨年5月にも、退位(譲位)をめぐる有識者ヒアリングの発言に関して、「陛下公務否定に衝撃」などと、同様に二次情報として陛下の「ご不満」を報道し、このため宮内庁職員による「秘密の漏洩」と批判され、刑事告発されています。

 局部的な事象を具体的に取り上げるのが報道の使命ですから、個々の記事における全体性の欠如の指摘は批判になりませんが、全体的な視点を持っているかどうかは記事を書く記者の見識に関わります。

 メディアは御代替わりに関する全体的な国民的議論を喚起すべきではないでしょうか。
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大嘗祭に反対するキリスト教指導者の二重基準 ──教会で行われる戴冠式に政教分離違反と反対すべきだ [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年8月19日)からの転載です

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大嘗祭に反対するキリスト教指導者の二重基準
──教会で行われる戴冠式に政教分離違反と反対すべきだ
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 8月1日付クリスチャン・トゥデイによると、日本基督教団(石橋秀雄議長)が1日までに、教団のサイトで「天皇の退位および即位の諸行事に関する声明」(7月9日付)を発表し、抗議と反対の意思を表明したと伝えられます。

 日本のプロテスタント指導者は、とりわけ御代替わりの中心的儀礼である大嘗祭に国が関わることについて反対しているようですが、抗議は妥当でしょうか。少なくとも私にはダブル・スタンダードにしか聞こえません。偽善です。


▽1 議長声明の全文

 議長声明は三項からなる短いものなので、とりあえず同サイトから、以下、全文を引用することにします。


「天皇の退位および即位の諸行事に関する声明」

来年の4月30日と5月1日に、現天皇の退位および新天皇の即位が予定されております。私たちは、それらに関わる諸行事、とりわけ大嘗祭に国が関わることに関して、以下の点により反対の意思を表明します。

1、天皇の退位および即位に際して行われる諸行事に関して、本来は皇室の私的宗教行事である大嘗祭に至るまで公的な行事と位置付けることは、国民に対して天皇が特別な存在であること、さらには“神格化”のイメージを植え付けるものです。

2、宗教行事である大嘗祭に国が関与することは、日本国憲法が保障する信教の自由および政教分離の原則に反するものです。

3、どのような名目であれ大嘗祭に関わる経費に国費を支出することは、政教分離の原則に明らかに反しています。

私たちはキリスト者として、神以外の何ものをも神としてはならないとの聖書の教えに従い、天皇の代替わりに関する宗教的諸行事、とりわけ大嘗祭に国が関わることに強く抗議し、反対いたします。

2018年7月9日
日本基督教団
総会議長 石橋秀雄


 この声明には、いくつかの曲解と偏見があるように思います。


▽2 国王の戴冠式は「私的宗教行事」か

 まず第一項です。

 議長声明は、大嘗祭について、「本来は皇室の私的宗教行事」であるとし、その「大嘗祭に至るまで公的な行事と位置付けること」を問題視していますが、この基本的認識が誤っています。

 政府の立場は、30年前、現行憲法下で最初の事例となった平成の御代替わりと同様、「国の行事」と「皇室行事」とに分ける方針を示しているのであって、「公的行事」「私的行事」に区分しているわけではありません。政府は大嘗祭に公的性を認めています。

 教団がいうところの「私的」性、「公的」性とは何でしょうか。そもそも御代替わりは全体として国事なのであって、公も私もないと私は思います。

 世界には王制を採用するプロテスタントの国が少なからずあり、皇室と王室との交流には浅からぬものがありますが、そのような国々では、キリスト教会で、プロテスタントの形式で戴冠式が行われ、これが王位継承の中心的行事となっているはずです。

 それらに対しても、「戴冠式は王室の私的行事」との論理から、教会指導者たちは抗議と反対の意思を示されているのでしょうか。

 議長声明は、御代替わりの諸儀礼が国家的に行われることについて、「国民に対して天皇が特別な存在であること、さらには“神格化”のイメージを植え付けるものです」と批判していますが、まったく意味不明です。

 天皇が、キリスト教世界の国王と同様、古来、歴史的に「特別の存在」と考えられてきたことは、いうまでもありません。であればこそ、「神格化」する人たちが過去にいなかったわけではありませんが、天皇の第一のお務めである祭祀は天皇がみずから皇祖神ほか神々を祭るのであって、その逆ではありません。

 キリスト教の絶対神と日本の神は概念が別であって、天皇の「神格化」に反対することはなんの意味もありません。


▽3 天皇の祭祀は信教の自由を保障する

 第二項は憲法論です。大嘗祭に国が関与することは、国民の信教の自由や政教分離原則に反するのでしょうか。

 ヨーロッパの王制国家では、王位継承に伴う戴冠式が、国を代表する教会で行われ、国の代表者たちが参加していますが、これに対して、日本のプロテスタント指導者たちは、信教の自由や政教分離原則をもとに、反対を表明してきたのでしょうか。

 ちなみに日本政府は、大嘗祭の宗教性を認め、それゆえに大嘗祭については「皇室行事」とすることとしていますが、だとすれば教団は「反対」ではなくて、「賛成」を表明すべきではないでしょうか。

 皇室は特定の宗教団体ではありません。古代においては仏教の受容に中心的役割を果たしたのが皇室であり、明治以降は、皇室はキリスト教の社会事業を物心両面で支えてきました。かつてのキリスト者たちはそのことを熟知し、いまもハンセン病施設や医療施設との交流は続いていますが、今日の教会指導者たちは忘れたのでしょうか。

 天皇の祭祀は古来、多神教的、多宗教的文明の要であり、国民の信教の自由を保障する機能を果たしてきました。

 天皇の祭祀に直接、携わるキリスト者さえいるようです。国民の信教の自由を侵さないことの何よりの証明でしょう。

 アメリカでは大統領就任式がきわめてキリスト教的に行われています。「全国民の教会」と呼ばれるワシントン・ナショナル・カテドラルでは就任のミサが行われ、歴代大統領や政府高官、国民の代表が参加し、国費が投じられるようですが、信教の自由違反との批判は聞きません。

 なぜ大嘗祭がキリスト者たちの標的にされなければならないのでしょうか。


▽4 大嘗祭は国民統合の儀礼

 第三項は、大嘗祭への国費の支出問題ですが、そもそも大嘗祭とはいかなるものと考えるのでしょうか。教会指導者たちは何を根拠に、大嘗祭=「宗教」と考えるのでしょうか。

 宮中の祭祀は、もともとキリスト教のような教義も教団もなく、教祖も宣教師も信徒もいないのです。国費の支出が特定の宗教を援助、助長、促進することになるのですか。

 もしそうだというのなら、キリスト教団体が経営する学校への補助金は返還されるべきではありませんか。憲法89条は、宗教組織のみならず、教育事業への公金の支出を禁止しています。

 古来、天皇に私なし、とされます。古代律令には「天皇、即位したまはむときはすべて天神地祇祭れ」と定められています。天皇は国民が信じるあらゆる神々を祀ることをお務めとされ、であればこそ、近代以降、皇室はキリスト教を支援してきたのでしょう。

 地方に行幸され、被災地を見舞われる天皇が、特定の宗教関係者とのみ交流されることなどあり得ません。一視同仁が古来の原理です。

 天皇の祭儀は民の信仰を保障するものであり、大嘗祭はそれを御代替わりごとに確認する意味があるのではないのでしょうか。大嘗祭は特定の宗教ではなくて、国民統合の儀礼なのです。キリスト教指導者は天皇の歴史をもっと学ぶべきでしょう。

 結局のところ、天皇の歴史的なお務めについて、キリスト教指導者たちは正確に理解していないのではないか、けれどもそれは彼らに限ったことではないのでしょう。政府関係者もまた同様です。だから、混乱は続くのでしょう。
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全体像がみえない日本会議の「改元」論 ──「新元号事前公表」反対のほかに何があるのか [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年8月16日)からの転載です

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全体像がみえない日本会議の「改元」論
──「新元号事前公表」反対のほかに何があるのか
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 8月5日のメルマガで、日本会議理事、神政連首席政策委員を務める田尾憲男さんの改元論を取り上げました。田尾さんは、来年5月1日、践祚(即位)の当日に、「臨時閣議決定、同日政令公布、施行」を主張しておられます。

 即日改元は精神論的には理解できなくもないのですが、歴史的に見れば、必ずしも長い皇室の伝統というわけでもないし、ネット社会の今日、現実的でもないのではないかと私は大きな疑問を感じています。


▽1 新元号の事前公表に反対するのみ

 折しもこの翌日、日本会議国会議員懇談会の会長である古屋圭司衆院議院運営委員長らが菅義偉内閣官房長官に面会し、新元号の制定・発表は5月1日の新帝即位(践祚)後とすべきだと要請したと伝えられます。

 伝統と文化の継承、国民精神の興隆などを訴え、元号法制化の実現や昭和天皇御在位60年、今上陛下御即位奉祝などに取り組んできた、日本最大級の国民運動組織で、いまや国会内に260名の勢力を持ち、各界、各地にネットワークを広げる日本会議が、どのような改元論を具体的に主張しているのか、興味を持ちました。

 けれども、結論からいえば、少なくともいまの私には、全体像がまったく見えてきません。日本会議のサイトをのぞいても、ネット社会の今日、ふつうなら一次情報をどんどん発信すべきなのに、不思議にも、それらしいものがうかがえないのです。

 報道から浮かび上がる二次情報としての主張はもっぱら、新元号が公表されるスケジュール問題に向けられ、政府の方針への反対表明にとどまっています。

 改元にとどまらず、御代替わり全体について、パッケージとしての政策提言がないということなのでしょうか。ほんとうでしょうか。

 御代替わりを来春に控え、政府の基本政府はすでに固まっています。来年度予算の概算要求はいままさに佳境を迎えつつあるというのに、です。

 これで皇室および日本の歴史と伝統が守れるのでしょうか。にわかに信じがたい気がします。


▽2 遅すぎる反論で国民をリードできるのか

 日本会議の対応は、手法的にも、内容的にも、後手後手に回っていませんか。

 すでに政府は、5月17日に、御代替わりに伴う新元号の公表時期について、践祚(即位)=改元1か月前の「来年4月1日」と想定し、準備を進める方針を決めています。

 ネット社会の今日、各省庁が管理するそれぞれの情報システムを改修するのには1か月を要するという判断がもとになっているようで、関係省庁の連絡会議で申し合わせが行われた模様です。

 ただ、この日の会見で菅官房長官は、新元号の公表時期について、「まだ決めていない」と述べ、最終的な公表時期は首相判断に委ねられる見通しだとも伝えられました。

 ATMや納税関連システム、各省庁間や官民にまたがるシステム、運転免許証のシステムなど、その改修が短時日に行えないことは容易に想像されます。であればこそ、「践祚1か月前に公表」という現実論的発想が生まれたのでしょう。

 政府の決定に対して、日本会議の議員らが反論したのは、それから半月以上もあとになってからのことでした。遅すぎます。これでは反政府運動であって、国民をリードする運動とはいえません。

 報道によると、日本会議国会議員懇談会の総会が6月5日に開かれ、新元号は「即位(践祚)時に公表されることが原則」とする見解がまとめられたと伝えられます。


▽3 即日改元の見直しをなぜしない

 理由は、「平成」の間に新元号が公表されるなら、今上天皇と新帝との間に「二重権威を生み出すおそれがある」というものでした。

「二重権威」の指摘は、今回の退位特例法論議の過程で浮かび上がりました。私にいわせれば、天皇を歴史的存在ではなく、生身の肉体を持ち、固有名詞で呼ばれる個人と解釈する非伝統的な天皇観が背景にあるものと思われます。

 天皇は個人ではありません。日本の伝統と文化の継承を訴える日本会議なら、新手の「二重権威」論にむしろ反論すべきではないでしょうか。

 それはともかく、代始改元が新帝の領域に属するのは当たり前のことで、践祚の前に新元号が公表されることなどあり得ません。あり得ないことがあり得るのは、今日のコンピュータ社会、ネット社会という現実があるからです。

 政府は「二重権威」を避けるため、当初は「今年半ば」としてきた新元号の公表を「4月1日」にまで遅らせてきたという経緯もあります。それでもシステム改修には1か月かかるというのが現実論です。

 それならば、践祚(即位)即改元の基本方針を大胆に見直すのが現実主義・合理主義というものでしょうが、なぜか日本会議はそうはしないようです。

 過去300年の歴史を振り返っても、践祚即改元は大正と昭和のみであり、平成の御代替わりでも翌日改元だったことを、日本会議はお忘れでしょうか。歴史主義が欠けていませんか。


▽4 「便宜主義」と批判する百地教授の反対論

 その後も、日本会議の改元論は、「事前公表反対」にどんどん傾斜していきました。

 報道によれば、7月19日、つまり政府決定から2か月後、日本会議国会議員懇談会の皇室制度プロジェクト(座長=江藤晟一首相補佐官)は新元号の事前公表に反対する方向で一致しました。

 この日、報道では、懇談会で百地章・国士舘大特任教授が講演し、新元号を定める政令は新帝が公布すべきだとの立場で、事前公表への反対を表明し、出席議員らも賛同した、「5月1日」の新元号公表が望ましいとの認識で一致した、と伝えられます。

 以上、報道から浮かび上がってくるのは、政府決定の現実主義と日本会議の原則論との激突ですが、再三申し上げているように、「践祚即日改元」の基本方針に関する歴史的な検証は両者ともに欠けています。

 この日の講演の詳細については分かりませんが、約半月前の7月2日、産経新聞の「正論」欄に「新元号は天皇御即位後に発表を」と題する百地教授の主張が掲載されており、内容を類推することができます。

 百地教授はこのエッセイで、政府の事前公表方針について、「元号の本来の意味や皇室の伝統を無視した『便宜主義』が先行」と批判しています。

 批判の論拠は歴史論と法律論ですが、とくに目新しいものはありません。御代替わりに伴う改元なら、践祚(即位)後に行われるのは当たり前です。政府がそうしないのは便宜主義というより現実主義でしょう。


▽5 元号法は践祚即改元を定めていない

 最大の問題は、政府が事前公表にこだわるネット社会の現実です。改元に伴う社会的混乱の防止をどう図るか、です。一般社会では元号の歴史と伝統どころか、すでに西暦への一本化が進んでいます。

 改元に関する政治的な反対論が高まるほど、元号離れがますます深まりそうです。それこそ歴史と伝統どころではありません。角を矯めて牛を殺すの類いです。

 百地教授は、30年前の平成の御代替わりでは、政府は「国民生活への影響を軽減する基本方針」を立てたこと、発行済の証明書類の有効期限などについて新元号に読み替えたこと、窓口業務では新元号のゴム印が用意されたことなどを紹介し、今回は国の法令によって一定の「新元号への移行期間」を設けたりするなどの対応を提案しています。

 理解できなくもありませんが、「ゴム印」とはなんともアナログな対応で、笑ってしまいます。践祚当日に新元号が公表されたあと、ゴム印を事務用品店に発注したとして、即日に届くとは限りません。何度も言うようにネット社会なのです。もっとクールに、もっと現代的に、もっと現実主義的に対応できないでしょうか。

 百地教授は法的観点から新元号の事前公表に反対していますが、それこそ法的に考えるのなら、なぜ即日改元にこだわる必要があるのですか。

 明治42年の登極令は「践祚の後は直ちに元号を改む」(第2条)と践祚即改元を定めていましたが、ほかならぬ日本会議の前身組織らの運動によって法制化された現行の元号法では「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」(第二項)であり、践祚(即位)即改元を定めているわけではないのです。


▽6 なぜ天皇の本質について国民的議論を喚起しないのか

 歴史的に見ても、繰り返しになりますが、践祚即改元は大正と昭和のみであり、平成の改元も翌日でした。なぜこのネット社会において、現実的に困難を伴う即日改元にこだわるのか、確たる理由が知りたいものです。践祚即改元のこだわりは、ノスタルジックな単なる戦前回帰とも映ります。

 そればかりではありません。今度の御代替わりについて、日本会議が議論を深め、社会に問題提起すべきテーマはもっとほかにあるでしょう。

 百地教授は「元号の本質がゆがめられてはなるまい」と仰せですが、いまゆがめられつつあるのは、ほかでもない天皇の本質そのものではないでしょうか。

 前回の御代替わりを踏襲する「国の行事」と「皇室行事」の二分方式、「践祚」概念の歴史的喪失、退位(譲位)と即位(践祚)のあり得ない分離、天皇の祭祀への無配慮などについて、日本会議が、あるいは国会議員懇談会が、活発な議論を交わしているとは聞きません。なぜですか。後手に回る反対論で、皇室の伝統と文化が守れるのでしょうか。

 五箇条の御誓文の第1条に「万機公論に決すべし」とあります。国民的議論を喚起しない国民運動であってはならないと私は思います。
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上山春平「内廷の祭祀」論vs岩井利夫「国事」論 ──大嘗祭は「国事」? 岩井利夫の批判と上山春平の揺れ [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年8月15日)からの転載です


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上山春平「内廷の祭祀」論vs岩井利夫「国事」論
──大嘗祭は「国事」? 岩井利夫の批判と上山春平の揺れ
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▽1 「国務ベースでの大嘗祭斎行は不可能に近い」

 上山春平元京大教授は昭和59年11月21日づけの朝日新聞に掲載された、「皇位継承儀礼は京都で出来るか」と題する一文で、大嘗祭は即位礼とは切り離し、「内廷の祭祀」と解することを提案しました。

 上山先生の論拠は、先生の日本文明論にあります。先生のエッセイでは次のように説明されています。

(1)大嘗祭が皇位継承儀礼として制度的に固まった8世紀前後、日本は古代中国から律令制度を導入したけれども、ご本家とは異なり、太政官と神祇官が相並立する二官八省が採用された。

(2)この国家機関の二重構造のデザインは、明治期に、西欧の立憲制度を導入したときにも採用され、国務と宮務が二分され、国務法としての憲法と宮務法たる皇室典範とが同格の二本立てとなった。

(3)とすれば、即位式は国務、大嘗祭は宮務と解釈されてもよかったはずだが、両者とも皇室典範に定められた。でありながら、登極令が定められる段階では、大嘗祭は即位式と不可分に、国務的な観点で規定された。

(4)現行憲法下では、大嘗祭を即位式と一括して、国務ベースで行うことは不可能に近い。大嘗祭を存続させるためには、両者を切り離すほかあるまい。


▽2 大嘗祭は「太政官が取り仕切った」

 これに対して、岩井利夫元毎日新聞記者は『大嘗祭の今日的意義』(昭和62年)で、「上山氏がいう『二重構造のデザイン』の時代でも、大嘗祭は、国事をつかさどった太政官がとりしきった」と批判しました。

 岩井氏によれば、「延喜式」には「大臣勅を奉じて神祇官を召し、悠紀主基国郡を卜定」云々などとあり、関白、太政大臣以下、八省の役人総がかりで大嘗祭を執行した。二元構造が混乱したと見る方がおかしい。大嘗祭は古来、一貫して国事だった、というのです。

 神祇官は朝廷の祭祀を掌った官庁であり、一世一度の大嘗祭に関しては神祇官と太政官が共同して執り行ったということなのですが、問題は「国事」の意味と「国事」として執行することの是非です。

 岩井氏は「国事をつかさどった太政官がとりしきった」と解説していますが、正確にいえば、太政官は「国事」ではなく「国務」を司ったのであり、即位大嘗祭はそもそも「国事」であるがゆえに古来、国家機関が総力を挙げて取り組んだのでしょう。

 そればかりではありません、上山先生が指摘されたように、加茂川での御禊や大嘗宮の設営、大嘗会の標など、かつては国家機関のみならず、民衆が拝観もしくは参加し、官民一体で執り行われたのが即位大嘗祭ではなかったでしょうか。

 国家機関たる太政官が執行に関わることが「国事」の意味ではないだろうし、上山先生が仰せの「二重構造のデザイン」と即位大嘗祭の挙行体制とは別問題だろうと私には思われます。

 ちなみに明治42年制定の登極令は、「(即位大嘗祭の)事務を掌理せしむるため、宮中に大礼使を置く」(第4条)と定めていました。大正、昭和の即位大嘗祭は特別機関の大礼使によって行われました。けれども、平成の御代替わりでは大礼使は置かれず、今回も前例が踏襲されます。民間の参加はとくにありません。


▽3 「国事として実施するのは不可能と考えるのは無理がない」

 一方、岩井氏は、上山先生が投げかけた皇室祭儀の法的位置づけ問題に関しては、同意しています。明治時代から問題になっていたし、以下のように、現行憲法の政教分離原則からいえば、神事としての大嘗祭を国事としては実施しがたいと考えるのは無理がないというわけです。

(1)伊藤博文は『帝国憲法皇室典範義解』で、「皇室典範は皇室みずからその家法を条定するものなり……臣民のあえて干渉するところにあらず」といっている。

(2)旧皇室典範は枢密顧問の諮問を経て勅定されたのに対して、現行皇室典範は国会の審議を経て成立した。

(3)旧皇室典範では、「皇室会議」は成年以上の皇族男子を構成員とし、これに内大臣、枢密院議長、宮内大臣、司法大臣、大審院長が参列するだけで、首相はメンバーではなく、議長は天皇が皇族中から指名することになっていた。
 これに対して現行典範では、皇族2人、衆参両議院の正副議長、内閣総理大臣、最高裁長官および同判事1名、宮内庁長官の10名で構成され、議長は首相である。

(4)旧典範は崩御直後の践祚を明示し、即位礼・大嘗祭が京都で行われることを定めていた。登極令はそれが秋冬の間に行われ、諒闇中は行われないことが明記されていた。
 一方、現行典範は一法令に過ぎない。占領下、神道指令の下に成立したため、大嘗祭はもとより、践祚について言及がない。即位礼と諒闇の関係についても示されていない。

(5)新旧皇室典範には大きな差があり、政教分離原則の趣旨を考慮すれば、現行皇室典範に大嘗祭について明文がないという理由だけでなく、大嘗祭は神事でもあるので、神道指令的感覚で見るかぎり、国事としての実施が不可能だろうと上山氏らが考えるのも無理がないといえる。


▽4 占領期の日本政府は大嘗祭の挙行を不適当とは考えていない

 しかし、即位大嘗祭を官民一体はともかくとして、とくに大嘗祭が「国務ベース」で、つまり国家機関によって挙行することは、現行憲法下ではどうしても困難なのでしょうか。

 上山先生も岩井氏も、現行皇室典範には践祚や大嘗祭の規定がないと仰せですが、占領前期、神道指令下で行われた皇室典範の改正過程において、政府は、皇室行事の体系はいささかも変わらない、大嘗祭について記述がないのは信仰面を含むことから明文化は不適当と考えられたからで、大嘗祭の挙行が不適当と考えられたわけではないと、国会で答弁しています。

 であればこそ、新憲法施行とともに皇室令が全廃され、宮務法の体系が失われたにもかかわらず、宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀の祭式は守られたわけです。

 実際、昭和26年の貞明皇后の大喪儀は旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しています。

 このときの事情を、ある宮内官僚は「占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってもかまわない。それは憲法に抵触しないと言われました」と内閣の憲法調査会で証言しています。

 占領後期の新憲法下で、皇室の祭祀が政教分離原則に抵触するとは判断されていません。大嘗祭が「稲の祭り」ではなくて、国民統合の儀礼であるなら、なおのことです。

 そうした判断が崩れ、祭祀の法的位置づけが変更されたのは、戦後30年、昭和50年8月15日の宮内庁長官室の会議です。

 このとき公務員たる侍従は特定の宗教たる宮中祭祀に関与できないからと、平安期に始まる、天皇みずから毎朝、御所で祈られた、石灰壇御拝に連なる毎朝御代拝の祭式が一方的に変更されました。当メルマガの読者には周知のことでしょうが、上山先生も岩井氏もご存じではないのでしょう。


▽6 大嘗祭=「内廷の祭祀」論から訣別

 岩井氏の批判は、朝日新聞に掲載された上山氏のエッセイに向けられていますが、すでにご紹介したように、上山先生の大嘗祭論はこれ1本ではないし、その後も一貫して大嘗祭=「内廷の祭祀」論で固まっていたわけではありません。

 平成元年11月に、政府の「即位の礼準備委員会」の求めに応じて行われた報告では、上山先生は、

「大嘗祭は、伝統的皇位継承儀礼の一環として、現行憲法の第7条第10項に該当する国事として挙行されるべき儀式である、と考えられる」

 と国事挙行論に逆に揺れています。さらに、平成の即位大嘗祭を秋に控えた平成2年1月、京都新聞に掲載されたエッセイでは、「内廷の祭祀」論から訣別しています。

「現行憲法が皇位の世襲を認めているかぎり、世襲に伴う儀礼は伝統的な形で継承されるべきだろう。大嘗祭を国事で行うか、それとも宮廷の公的行事もしくは内廷の祭祀として行うかは、さしあたり問う所ではない」

 繰り返しになりますが、「国事」とは何でしょうか。国家機関が主体となり、官僚たちが参与することが「国事」の意味なのでしょうか。
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代始儀礼は「法の支配」に従って by 土井郁磨 ──ノモス=法の支配と譲位の論理について考える [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年8月14日)からの転載です

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代始儀礼は「法の支配」に従って by 土井郁磨
──ノモス=法の支配と譲位の論理について考える
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以下、土井郁麿氏(亜細亜大学非常勤講師)のLINE BLOG(2018年3月17日)からの転載です。読者の便宜を図るため、タイトルや見出しなど、多少、編集してあります。


▽1 象徴天皇制の成立史を無視する憲法解釈

 君主は、本来、法と慣習に従うべき存在と言われます。しかし、近時、そうしたノモス=法の支配の論理に、明らかに反する皇位継承に関する議論が、頻繁に目につきます。

 昨年(平成29年)、内閣法制局は、退位特例法に関連して「憲法関係答弁集」を改訂し、

「天皇の意思に基づく退位は、象徴天皇制のもとでふわさしいか、『天皇は国政に関する権能を有しない』とする憲法4条の規定に抵触しないかなどを十分に検討する必要がある」

 との見解を追記しました(11/3報道)。

 また朝日新聞は、宮内庁が光格天皇の譲位儀礼の研究を進めるのに対して、政府関係者は「天皇自らが皇位を譲った『譲位』の過去の事例は参考にならない」と指摘したと報じました(10/20)。

 どうやら象徴天皇制の歴史的な成立経緯を、事実上、無視ないし軽視した憲法解釈がいま行われているようです。


▽2 GHQの理解では「象徴」=元首

 しかし、本来、「象徴」の意味はGHQの理解によれば、元首、立憲君主と同義でした。

 昭和22年2月のマッカーサー三原則の第一には

「天皇は、国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする」

 同12日、民政局の改憲案の説明では

「天皇制を修正し、儀礼的な元首とすることによって、国民主権のもとで立憲君主制を樹立する……朕は国家なりということではなく、国の象徴となる。天皇は、国民の間の思想、希望、理念が融合して一体化するための核、あるいは尊敬の中心として存続はするが、太古からの邪悪な指導者によって国民を悪事に駆り立てるために利用されてきた、かの神秘的な権力は、永久に奪われる」

 とありました。

 つまり、儀礼的君主としての「象徴」とは、元首であり、国民の思想・希望・理念の一体化の核としての立憲君主のことでした。そして、旧憲法より修正・除去されたのは「邪悪な指導者によって国民を悪事に駆り立てるために利用された……神秘的権力」の意味にすぎません。

 また、条文執筆に参照されたというバジョット『英国憲政論』普及版(1928年)のバルフォアの解説にも、

「国民の元首……その皇統と職務により、我が国民の歴史の生きた代表者」とありました。


▽3 お言葉は象徴的地位に基づく行為

 じっさい、昭和天皇は、自らの地位を立憲君主の延長上に見ており、国政に関する内奏・御下問も、旧憲法でも立憲君主から逸脱していないのと同様に、現憲法にも反していないと考えていました(後藤致人)。

 昭和27年、講和条約への賛否で世論が大きく揺れるなか、天皇は国会開会式で、

「国会の承認を経て……効力の発生を待つばかりとなったことは諸君とともに喜びに堪えません」

 と仰せられ、これが天皇の政治関与として問題化しました。

 しかし憲法学者清宮四郎は、お言葉は、国事行為でもなく、私的行為でもない、「象徴としての地位」の行為とする合憲説を示しました。

 また、鵜飼信成(のぶしげ)は、象徴の役割とは

「かかって一に……国民の政治的意思と、政治的心理のいかんにある。天皇の地位が形式的なものに過ぎないか、実質的なものであり得るかは、憲法の文字だけでは決まらない」、

 もし国民の代表者たる政府が、内閣の助言と承認の手続を通して「重大な役割」を与えようとする場合は、憲法上の形式的儀礼的規定にも拘わらず

「天皇は実質的なものでもあり得る……そこにこそまさしく日本国憲法の定めた本質がある」

 と述べました。

 この鵜飼のいう「憲法の文字だけでは決まらない」「実質的なもの」とは、八月革命説の宮沢俊義をはじめ、条文上の国事行為以外は全て違憲とするような、文言にのみ限定され、国民の意思に反する憲法解釈への批判と考えられます。


▽4 国民統合の崇高な任務

 昭和34年、小泉信三は、皇太子(今上天皇)に対して、「立憲君主は道徳的警告者たる役目を果たすことが出来る」と述べており(全集16)、最近の研究でも、昭和天皇は、バジョットのいう「君主の三つの権利」(大臣から相談を受ける権利、大臣を激励する権利、警告する権利)を保持しようとした(茶谷誠一)と言われます。

 平成5年、今上天皇は

「長い歴史を通じて政治から離れた立場において、苦しみあるいは喜びに国民と心を一にし、国民の福祉と幸福を念ずるというのが日本の伝統的天皇の姿でした……国政に関与せず、内閣の助言と承認により国事行為を行う、と規定しているのは、このような伝統に通じてのものであります」

 と、現憲法の条文を国民への思念と不執政との古来の伝統の上に位置づけました。

 また、被災地慰問、官僚や政治家等との意見聴取の機会を増やし、「形式よりも実質を重んじ務めを果たす」姿勢を示しました(岩井克己)。

 こうした、国政の権能は持たないが、それを超える国民統合の歴史伝統的で崇高な任務のあり方が、国民の強い共感を呼んでいることは、昨年8月8日の「象徴としてのお務めについて」のお言葉への圧倒的な反響からも窺えます。

 このように、「象徴」に歴史的かつ実質的な「重大な役割」を見ることは、皇室のご意向ばかりか憲法制定過程や象徴天皇制の成立過程にも合致し、国民の現実的な期待に合致しています。


▽5 宮澤俊義流の憲法論を克服せよ

 その反対に、「過去の譲位は参考にならない」「天皇の意思に基づく退位は……ふわさしいのか」云々は、非元首化や非歴史化、文言限定的な矮小化、あるいは宮沢学説的な違憲論にも通じる特定解釈と疑われます。

 かつて宮沢を批判した尾高朝雄は、旧憲法であれ、現憲法であれ、同一のノモス(社会道徳や秩序)の制約を受け、ノモスの主権を承認したものに他ならず、ノモスは権力や国民に「力」ではなく「責任」を課すとして、主権論に対して、法の支配の優位を説きました。

 また、E・バークによれば、先人の判断(ブレジャディス)(先んずる者による判断)や時効(プレスクリプション)(書き込み)といった、経験と歴史に即して自然形成された感性的な見解・智恵・法・道徳は、形而上学的で算術的な机上の理念に優先される──すなわち、精妙なる伝統から、真正な基準は生まれる。

 来るべき代始儀礼は、文言限定的で非歴史的な矮小化された解釈ではなく、むしろ制度の実際の形成過程を重んじ、議会であれ国民であれ、誰もが服従すべき「法の支配」のノモスの論理に従って行うのが道理ではないか。

 また、これにより、「譲位」の歴史性(本来は宣命(せんみょう)を中核とする男系継承の儀礼)と「象徴」との実質性がもたらす、世俗的な国政を超える崇高な国民統合といった「重大な役割」を持つ儀礼とすべきではないでしょうか。
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ネット時代にどのように「即日改元」するのか? ──田尾憲男「日本会議」理事の改元論を読む [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年8月5日)からの転載です

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ネット時代にどのように「即日改元」するのか?
──田尾憲男「日本会議」理事の改元論を読む
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 旧知の田尾憲男さん(昭和17年生まれ。東大法卒。鉄道情報システム顧問。日本交通協会、日本文化交流財団、日本会議各理事。神道政治連盟首席政策委員)から、ご丁寧な直筆のお手紙とともに、日本会議の機関誌「日本の息吹」8月号が送られてきました。

 私がお送りしたさまざまな資料と原稿依頼に対する返礼と回答でした。やっぱりなあという感慨とともに、改元問題に関する3つのことを思いました。

 感慨というのは、ネット時代という前提が共有されていないことです。30年前とはまったく異なり、情報開示が常識の時代となりました。しかも情報は政府機関のサイトで公開されています。

 世の中にはデジタル人間ばかりではありませんが、公の議論はネット上の情報を前提として、公開された情報を知らない人もすでに知っているものとして、進められています。ある意味で恐いことですが、田尾さんはどうなのでしょうか。


▽1 田尾さんの6つの論点

 お手紙を拝読して思った3つのこととは、(1)改元に関する伝統とはどのようなものか、(2)今回はどのような改元の方法を採るべきなのか、(3)その方法は実現可能なのか、の3点です。

 日本会議の機関紙が送られてきたのは、巻頭言「今月の言葉」に、田尾さんによる「天皇の元号──伝統を重んじ、元号法に忠実な改元を期待」が載っているからです。お手紙には「拙文を転載しても結構」とありましたが、今回は私の感想だけに留めたいと思います。

 田尾さんの文章の要点は、以下の6点にまとめられると思います。

(1)改元について関心が高まっているのは喜ばしいが、践祚の前に新元号を制定公表されるかのような報道は残念である。
(2)元号は天皇を戴く日本の誇るべき文化である。
(3)明治以降、一世一元の制が確立した。占領期に元号は抹殺され、慣習法として存続したが、昭和54年に「元号法」が制定された。
(4)元号法によれば、即位の前に改元がないのは明白で、譲位でも変わらない。践祚後の改元で国民生活に影響が想定されるなら、事前に有効な手当てを行うべきだ。
(5)政府が政府の都合などで、新元号を事前に公表するなど許されない。それでは「内閣の元号」になってしまう。
(6)前回は官房長官が新元号を会見で公表したが、新天皇の詔書で発表されることが望ましい。高貴な皇室伝統に近づける工夫と努力が必要だ。

 機関紙の場合、編集部が付けたと思われる「元号法に忠実な改元を期待」とのタイトルありますが、田尾さんの文章にはそのような内容はありません。

 むしろ田尾さんは、元号法が至極簡単な規定しかなく、しかも「元号は、政令で定める」(第1条)と定め、元号制定の主体が天皇なのか、内閣なのか、明確でないことを指摘しているのでしょう。編集部は正確に理解していないのではありませんか。


▽2 「即日改元」は伝統なのか

 さて、批判です。まず、歴史と伝統です。具体的に何が改元の伝統なのか、です。

 元号が日本の長い伝統であるとともに皇室の伝統であることはいうまでもありません。しかし、田尾さんのお手紙にあるような「5月1日臨時閣議決定、同日政令公布、施行で何ら問題なく、最もいい形」が伝統の形かどうかは別でしょう。

 田尾さんが書いているように、一世一元の制は近代以後であり、代始改元=改元と理解されるようになった歴史は150年しかありません。

 また、践祚即改元は、少なくとも近世後期以降、大正と昭和のみです。前回は翌日改元でした。

 田尾さんは、私に「1年もあとになって、改元なんてあり得ない」とおっしゃったことがありますが、明治の改元は践祚の1年8か月後、即位礼の翌月でした。

 歴史に照らせば、少なくとも近世後期において、践祚の1年後に代始改元が行われることがしばしばでした。たとえば光格天皇の譲位で皇位を継承した仁孝天皇の場合は、践祚の13か月後、即位礼の翌年でした。

 とすれば、田尾さんが主張される「即日改元」は日本の、そして皇室の伝統なのでしょうか。


▽3 改元のタイム・スケジュールは?

 2点目は、改元の方法論です。

 おそらく明治の英知が結集したであろう、一世一元の制がどのようにして始まったのか、歴史的検証が必要ですが、近代天皇制の伝統の精神を重んじるとすれば、「天皇、践祚の後は直ちに元号を改む」(登極令第2条。明治42年)が望ましいものと思われます。

 その点では、田尾さんのご意見に同意します。

 しかし、3点目として、問題はそれが実現可能なのかどうかです。つまり、タイム・スケジュールの問題です。

 既述したように、田尾さんは「5月1日臨時閣議決定、同日政令公布、施行で何ら問題なく」と仰せですが、そうでしょうか。

 田尾さんの構想では、来年5月1日に、次のような日程が組まれることになるでしょう。

(1)5月1日午前0時、新帝が践祚
(2)午前10時(?)、剣璽等承継の儀
(3)続いて、即位後朝見の儀
(4)新元号を公表、直ちに施行
(5)当日発行の官報に記載。官報の発行年月日、官邸サイトの日付も新元号に切り替わる

 前回は官房長官が新元号を会見で公表しましたが、田尾さんの提案では、新帝(田尾さんの言葉では新天皇)が会見で発表することになるのでしょうか。


▽4 時間が遡るコンピュータ・システム?

 最大の問題は、(4)(5)がネット社会に可能かどうかです。

 田尾さんの仰せによると、あらかじめコンピュータ・システムに新元号Xとするプログラムを設定しておき、新元号公表のあと、Xの変数に新元号を入力すれば足りるということでした。

 じつに簡単なことで、「何ら問題なく」というように見えますが、問題点はふたつ指摘されます。

 ひとつは、1か月の準備期間があれば十分とされているシステム変更ですが、ぶっつけ本番であることに変わりはありません。失敗は許されないのです。

 中国や北朝鮮のような一元化されたシステムならまだしも、日本はそうは簡単にいかないのではないかと心配します。

 さらにもうひとつ、現実的に考えて、新元号の公表をどう急いでも、午前0時の「践祚の後直ちに」とはいきません。新元号の公表から何時間か遡って、コンピュータ・システムが切り替えられることになりますが、田尾さんはそれで「何ら問題なく」とお考えでしょうか。

 明治の改革を推進したのは、現実主義と合理主義でした。新元号の公表は践祚の日に、施行は即位礼の日にと、私が提案するのも現実主義と合理主義です。

 田尾さんは私の提案を、「過去の歴史に照らせば、一案といえますが、やはり不安定化いたします」と批判していますが、意味不明です。即日改元を強引に進めるやり方は、「高貴な皇室伝統」をかえって「不安定化」させる要因とならないでしょうか。

 再批判をお待ちしています。
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かつて御代替わりは国民の間近で行われた ──第2回式典準備委員会資料を読む 14 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月23日)からの転載です

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かつて御代替わりは国民の間近で行われた
──第2回式典準備委員会資料を読む 14
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 前々回、上山春平先生の御代替わり論についてご紹介しましたが、うっかりして書き漏らしたことがありました。それは「大嘗会の標(ひょう)」です。

 ちょうどいま京都では猛暑の中、祇園祭が行われていますが、上山先生によると、山鉾巡行に登場する山と鉾のうち、山の飾り付けが「大嘗会の標」にそっくりだというのです。


▽1 大嘗会の標山

 祇園祭の起源は平安期の御霊(ごりょう)信仰に根ざし、長刀鉾や函谷鉾などの鉾は悪霊退散のシンボルということですが、岩戸山や山伏山などの曳山は鉾柱の代わりに屋上に真松を立てています。

 上山先生によると、平安末期、無骨(むこつ)という名の雑芸人(エンタテーナー)が注目を浴びようとして、「大嘗会の標」そっくりの飾り付けをした柱を車に乗せて、祇園の社頭に乗り込んだ、これが曳山の起源らしいのです。

 それなら「大嘗会の標」はといえば、悠紀国、主基国それぞれから京の都に運ばれた食物を、御所の北方、北野の斎場で祭礼用に、「標」と呼ばれる高さ数メートルの造形に調整されたのでした。

 まず、めでたい山を作り、青桐を植え、二羽の鳳凰をとまらせ、五色の雲を立ち上らせ、太陽と月を表すという具合です。

 そして卯の日の午前、二基の標山(ひょうのやま)はそれぞれ20人の曳夫に引かれ、北野の斎場から御所内の大嘗宮へ、しずしずと進み、当然、あまたの都人たちがこれを、ちょうど今日の山鉾巡行のように見送ったのでしょう。

 けれども残念ながら、応仁の乱がおこり、大嘗会が長らく中断を余儀なくされることになり、大嘗会の標山は消滅してしまいました。

 問題は、こうした歴史が、政府の説明にはまったく表れないことです。


▽2 君民一体による御代替わり

 標山だけではありません。上山先生が指摘するように、大嘗祭の前月、10月の末に、新帝は加茂川で御禊(ごけい)とよばれる神事を行い、大勢の人が詰めかけ、見物したといわれます。

 最近では即位式を民衆が拝観していたことさえ分かってきました(森田登代子『遊楽としての近世天皇即位式』)。宮内庁が所蔵する、明正天皇の「御即位行幸図屏風」には、胸をはだけ、赤子に授乳しながら即位式を拝観する2人の女性が描き込まれています。民衆は切手札(チケット)を手に、自然体で参加していたのです。

 まさに上山先生が指摘しているように、即位式、大嘗祭など御代替わりの行事は、「朝廷の一部の官僚たちだけでやっている祭りじゃない」ということです。民衆の手が届くところで、天皇の御代替わりは行われていたのです。

 明治の近代化により、国体論的天皇論が幅を効かせるようになり、民衆とともにある御代替わりの伝統的儀礼は忘れ去られていったということでしょうか。国民の身近にあった天皇の祭儀の復活を、私は心から願っています。それこそが君民一体による、「国の行事」としての御代替わりでしょうから。
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新元号発表は践祚に、改元は即位礼に合わせては? ──近世後期以降、践祚即改元は大正と昭和のみ [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月22日)からの転載です

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新元号発表は践祚に、改元は即位礼に合わせては?
──近世後期以降、践祚即改元は大正と昭和のみ
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 次の御代替わりをめぐって、混乱した議論が続いているようです。こんどは改元です。

 政府は来年5月1日、皇太子殿下の即位(践祚)にあわせて改元することとし、国民生活への影響を考慮して、1か月前に新元号を公表する予定ですが、これだと御代替わりに伴う代始改元の主体性に疑問が生じてきます。

 それで新元号の発表も即位(践祚)に合わせるべきだという議論が浮上しています。

 歴史的に見ると、明治の皇室典範には「践祚の後、元号を建て」(第12条)という条文がありましたが、戦後、一般法と位置づけられた皇室典範には元号に関する定めがありません。元号法(昭和54年)には「元号は政令で定める」とあるばかりで、改元の主体が天皇なのか、政府なのか、不明確です。

 議論が混乱するさらなる要因は、コンピュータ社会の到来です。今回、御代替わりをめぐる政府の情報はネット上に公開されています。

 改元を公的に伝える官報も、いまやネット上に掲載されます。「天皇践祚の後は直ちに元号を改む」(登極令第2条)とするのは、システム変更上、無理があります。

 政府が1か月前の公表を予定しているのは、1か月の準備期間があれば十分対応できるという判断があるからでしょう。知人のSEたちも同様でした。

 とするならば、現実的に考えて、践祚即改元という大正以後のあり方へのこだわりを放棄せざるを得ないのではないでしょうか。元号法に基づく平成の改元も践祚即改元ではなく、翌日改元でした。元号法は「直ちに」とは定めていないのです。

 もっといえば、歴史的に考えれば、代始改元が践祚後、直ちに行われたことはないのではありませんか。参考までに、以下、江戸後期の御代替わりについてまとめてみることにします。

 結論をいうなら、践祚後、直ちに改元されたのは大正と昭和のみです。近世においては即位から1年以上もたってのちに代始改元がしばしば行われています。

 近代以後の一世一元の制にならうとしても、践祚即改元の形式に固執する必要はありません。践祚の日に新元号を公表し、即位の礼に合わせて施行すれば、平安期に確立されて以後、踏襲され、30年前に失われてしまった践祚と即位の区別を明確化し、回復させることもできるのではありませんか。


○第115代桜町天皇(中御門天皇第一皇子)
(1)先帝崩御or譲位 享保20(1735)年2月1日に中御門天皇が33歳で譲位。来月21日と御治定
(2)践祚 享保20年3月21日(1735/4/13)、土御門内裏にて。15歳
(3)代始改元 享保21年4月28日(1736/6/7)、享保21年を元文元年に改む=践祚の翌年

○第116代桃園天皇(桜町天皇第一皇子遐仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 延享4年5月2日(1747/6/9)、土御門内裏にて受禅
(2)践祚 譲位即践祚、6歳
(3)代始改元 延享5(1748)年7月12日、寛延に改元=践祚の翌年

○第117代後桜町天皇(桜町天皇第二皇女智子内親王)
(1)先帝崩御or譲位 宝暦12年7月12日(1762/8/31)に崩御。発表なし。遺詔により践祚の儀治定す
(2)践祚 宝暦12(1762)年7月27日=先帝崩御の5日後、異母弟桃園天皇の遺詔を受け。小御所にて。22歳
(3)代始改元 宝暦14(1764)年6月2日、明和に改元=践祚の翌々年

歴代天皇の御代替わり(江戸後期〜現代)01.png


○第118代後桃園天皇(桃園天皇第一皇子英仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 明和7年5月2日(1770/5/23)譲位。来年4月即位の旨御治定あり
(2)践祚 譲位即践祚(11歳)
(3)代始改元 明和9(1772)年11月16日、明和9年を安永元年に改む=践祚の2年後

○第119代光格天皇(閑院宮典仁親王第六皇子師仁親王→践祚後に兼仁)
(1)先帝崩御or譲位 安永8年10月29日(1779/12/6)崩御=その後同11月9日(12/16)まで先帝在位が続いた
(2)践祚 安永8年11月25日(1780/1/1。9歳)。御諱を兼仁と改む。関白九條尚實を摂政となす
(3)代始改元 安永10年4月2日(1781/4/25)、天明に改元=即位礼の4か月後

○第120代仁孝天皇(光格天皇第四皇子=恵仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 文化14(1817)年3月22日に譲位。清涼殿にて
(2)践祚 譲位即践祚。17歳
(3)代始改元 文化15(1818)年4月22日、文政に改元=践祚の13か月後。即位礼の翌年

歴代天皇の御代替わり(江戸後期〜現代)02.png


○第121代孝明天皇(仁孝天皇第四皇子統仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 弘化3年1月26日(1846/2/21)崩御。関白太政大臣鷹司政通を摂政に準ず
(2)践祚 弘化3年2月13日=先帝崩御の20日後、15歳
(3)代始改元 弘化5年2月28日(1848/4/1)に嘉永と改元=即位礼の翌年

○第122代明治天皇(孝明天皇第二皇子睦仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 慶応2年12月25日(1867/1/30)に崩御
(2)践祚 慶応3年1月9日(1867/2/13)に践祚の儀(14歳)=先帝崩御の半月後、14歳
(3)代始改元 慶応4年9月8日(1868/10/23)。元日に遡って適用=践祚の1年8か月後。即位礼の翌月

○第123代大正天皇(明治天皇第三皇子嘉仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 明治45(1912)年7月30日に崩御
(2)践祚 崩御即践祚、32歳
(3)代始改元 践祚当日、大正と改元

○第124代昭和天皇(大正天皇第一皇子裕仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 大正15(1926)年12月25日に崩御。葉山御用邸にて
(2)践祚 崩御即践祚、葉山御用邸、25歳
(3)代始改元 践祚当日、昭和に改元

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○第125代今上天皇(昭和天皇第一皇子明仁親王)
(1)先帝崩御or譲位 昭和64(1989)年1月7日に崩御
(2)践祚 崩御即践祚、55歳
(3)代始改元 践祚の翌日、平成に改元

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 以上、宮内庁所蔵『天皇皇族実録』をもとにまとめました。「斎藤吉久のブログ」には、ほかのデータを加えたうえ、一覧表にして掲載します。
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「大嘗祭は第一級の無形文化財」と訴えた上山春平 ──第2回式典準備委員会資料を読む 13 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2018年7月16日)からの転載です

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「大嘗祭は第一級の無形文化財」と訴えた上山春平
──第2回式典準備委員会資料を読む 13
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 政府は、大嘗祭について、「稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」であり、「皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式」だと理解しています。

 この解釈には、何度も申し上げたように、2つの問題点があります。(1)大嘗祭を「稲作の儀礼」と解釈すること、(2)稲作儀礼と皇位継承儀礼とを直結して理解すること、の2点です。

 誤った理解の原因はいうまでもなく、稲と粟の新穀を捧げる儀礼を稲の祭りと見るところにあります。

 なぜそう理解するのか、30年前の議論を、これからしばらく振り返ってみることにします。

 ヒントになるのは、岩井利夫元毎日新聞記者の『大嘗祭の今日的意義』(昭和62年)です。「近来における大嘗祭論議」と題する一章に、何人かの大嘗祭論を紹介しています。

 最初に取り上げられているのは、30年前、政府のヒアリングにも招かれた上山春平元京大教授(同名誉教授。哲学)です。


▽1 なぜ収穫儀礼が皇位継承儀礼となるのか

 岩井氏の本では、上山氏が昭和59年11月に朝日新聞に「皇位継承儀礼は京都で出来るか」を書き、これを受けて週刊新潮が翌月に「Xデー」特集を組んだことを取り上げ、以下のような主張を紹介しています。

(1)大嘗祭は収穫儀礼から皇位継承儀礼となった世界にも例のない貴重なものである
(2)今日、旧典範や登極令の法的根拠がなく、現憲法下では「内廷の祭祀」として行うのがよい
(3)費用は国民の募金で補ってもよい
(4)もしやれるなら京都御所の旧地が相応しい

 上山氏といえば、西洋哲学から日本文化論へと関心を広め、『神々の体系』(正続)、『天皇制の深層』などの著書を残しています。大嘗祭をテーマとした何本かのエッセイは著作集の第5巻に収められています。ここではそのエッセイを読んでみることにします。

「大嘗祭のこと」はまさに昭和59年11月、朝日新聞に掲載されたエッセイです。中身はすでに触れましたが、問題は論拠です。

 上山氏が大嘗祭を収穫儀礼と考えるのは、「この祭祀が、もともと稲の収穫にかかわりがあり、収穫された新穀を、自らも召し上がることを中心とする」ものだからです。

 案の定、粟の存在が忘れられています。宮中三殿の祭祀は稲の収穫儀礼だとして、神嘉殿での宮中新嘗祭、大嘗宮での大嘗祭は米と粟の祭儀であることについて、上山氏は正確な情報を持っていなかったのでしょうか。

『常陸国風土記』には粟の新嘗のことが書いてあり、古代において、少なくとも民間において、粟の新嘗祭があったことが分かります。記紀神話を読み込んだ上山氏がそのことに気づかなかったはずはないと思います。

 もし宮中新嘗祭・大嘗祭が稲の収穫儀礼ではなく、米と粟の複合儀礼であることに気づいたならば、天皇が天神地祇を祀り、米と粟の複合儀礼を年ごとに、そして御代替わりには大規模に、厳修することの意味、つまりなぜ収穫儀礼が皇位継承儀礼となり得たのか、をお考えになったはずです。

 なぜそうはなさらなかったのでしょうか。


▽2 見落とされた戦後史

 上山氏の天皇論で重要なのは、国家機関の二重構造のデザインです。古代中国から律令制を導入したけれども、古代日本ではご本家とは異なり、太政官と神祇官が並立する国家制度が創られたと上山氏は鋭く指摘しています。

 上山氏のこのエッセイによると、二重構造は明治の時代にも採用され、国務法の憲法と宮務法の皇室典範による二本立てとされたのでした。

 だとすれば、近代立憲君主の儀礼たる即位式は国務に属し、伝統的な皇位継承儀礼たる大嘗祭は宮務に属すると解釈してもいいはずなのに、なぜか即位式と大嘗祭は一括して皇室典範に定められることとなったのです。

 ところが、登極令が定められる段階になると、即位式と大嘗祭は不可分の形で完全に国務的な観点から規定された、と上山氏は指摘するのでした。

 なぜそうなったのか、という点についてはさておき、じゃあ、今度はどうするのか、と上山氏は話題を転じ、戦後の皇室典範には即位式の規定も大嘗祭の規定もないと解説し、もし大嘗祭を存続させるなら、即位式と大嘗祭を分離するほかはないと主張されるのでした。

 たとえば、即位式は内閣の関与のもとに行われる「天皇の国事」、大嘗祭は内閣が関与しない「内廷の祭祀」と解するという方法です。

 しかしここでも、上山氏は重要な戦後の歴史を見落としていることが分かります。

 それは当メルマガですでに指摘しているように、(1)皇室典範の改正過程で、占領中ながら、当時の政府は御代替わりの儀礼にいささかも変更はないと答弁していること、(2)昭和22年5月の依命通牒で、登極令や皇室祭祀令の附式が存続してきたこと、(3)昭和50年8月に依命通牒の解釈・運用の変更が密室で行われたこと、です。

 依命通牒は廃止の手続きが行われていないと、のちに宮内庁高官が国会で答弁しているのですから、即位式・大嘗祭は依命通牒に従い、京都で斎行されるべきだ、と上山氏は主張してもよかったのです。


▽3 依命通牒3項を知っていれば

 大嘗祭がどのような形で行われるべきか、上山氏はけっして教条的な立場ではなかったようです。平成の大嘗祭を秋に控えた平成2年1月、京都新聞に掲載されたエッセイでは、以下のように述べています。

「現行憲法が皇位の世襲を認めているかぎり、世襲に伴う儀礼は伝統的な形で継承されるべきだろう。大嘗祭を国事で行うか、それとも宮廷の公的行事もしくは内廷の祭祀として行うかは、さしあたり問う所ではない」

 この前年の11月に「即位の礼準備委員会」の求めに応じて行われた報告でも、上山氏は同じような趣旨で、現実的方法論を訴えたようです。

「皇位継承儀礼は、たとえ成文の規定がなくても、千年以上の伝統を有する不文の慣習として、当然、踏襲されるべきであろう」

「大嘗祭は、伝統的皇位継承儀礼の一環として、現行憲法の第7条第10項に該当する国事として挙行されるべき儀式である、と考えられる」

「今回の大嘗祭は、第2次大戦以来、最初の大嘗祭である。……大嘗祭中断のおそれもないわけではない。今回は国事として行うことに固執せず、宮廷の公の行事であれ、内廷の行事であれ、可能な限り世論の支持を得やすい形で行う道を選ぶほかはあるまい」
(以上、「弘道」平成3年2月)

 上山氏は「皇室の伝統の尊重」を訴えているのですが、依命通牒3項の存在を知っていれば、迂遠な議論は必要なかったのではありませんか。


▽4 目からウロコの史実

 上山氏のエッセイには目からウロコが落ちるような史実と見方が散りばめられていますので、最後に紹介します。

「『養老律令』の『神祇令』とそれに対応する『唐令拾遺』の『祠令』を比較してみると、ほんとうにびっくりします。律令や都城をはじめ、あれだけ唐文明を忠実に受け入れたようにみえるのに、国の祭祀についてはほとんど何も受け入れていないのです」

「(大嘗宮は)本来はクジ(亀卜)で当たった国の中のクジで当たった郡、その郡の住民が造ったんです。その人たちが作ったお米を『抜穂儀』で集めて、それを都まで運ぶ。運ぶ途中も大変な賑わいだったと思います」

「大嘗宮も、同じ人びとが、同じようにして作るのです。祭りの7日前に作り始めて、数日で仕上げることになっています」

「朝廷の一部の官僚たちだけでやっている祭りじゃない」

「祭りのひと月前、10月の末に御禊(ごけい)というのが京都の加茂川あたりであったようですが、それも大勢の人が見物したようです。……京都中の人が、葵祭のときのようにおしかける」(以上、「大嘗祭について」=「神道宗教」神道宗教学会、平成3年3月)

「奈良朝から平安朝初期にかけては、即位礼も大嘗祭も大極殿とその前庭で行われていた。ところが、16世紀あたりから、即位礼と大嘗祭は内裏の紫宸殿とその前庭で行われるようになり、そのしきたりは幕末までつづいた」

「明治の『皇室典範』とその施行規則『登極令』の制定に伴って、……即位礼は旧例通紫宸殿で行われたが、大嘗祭の方は全く前例のない仙洞御所で行われた。……幕末以前は紫宸殿の南庭に大嘗宮を建てていたのである。……大嘗祭の7日前から着工され、祭式がすめば焼却されることになっている」

「幕末以前には、即位礼と大嘗祭のあいだには少なくとも3か月以上の間隔があったので、紫宸殿の南庭で即位礼をすませた後、ゆっくりと間をおいて同じ場所に大嘗宮をつくることができた」(以上、「天皇の即位儀礼」=「学士会会報」平成元年1月)

「私は、かねがね、大嘗祭こそは国の第一級の無形文化財ではないか、と考えている。……これほど重要度の高い文化財の保存について、文化財保存一般に格別の熱意を示す人びとさえも、異議をとなえるのは、なぜだろうか。それは、大嘗祭の解釈をめぐるイデオロギー的な側面に目を奪われて、文化財としての側面への認識がくもらされた結果ではあるまいか」(以上、「2つの無形文化財について」=「文化時報」平成3年5月)
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