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マザー・テレサが「福者」に──今後は「列聖」のための調査も [キリスト教]

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マザー・テレサが「福者」に
──今後は「列聖」のための調査も
(「神社新報」平成15年11月10日号から)
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 インド・カルカッタで貧困者たちの救済に生涯を捧げ、ノーベル平和賞を受賞、六年前に八十七歳で死去したカトリック修道女マザー・テレサを「聖者」の前段階の「福者」に列する「列福式」が(平成15年)十月十九日、バチカンで行はれた。

 通常は死後五年以上過ぎてから審査が始まり、「列福」までに数十年かかるのを、今回は法皇ヨハネ・パウロ二世の強い希望で死後三年といふ異例の早さで審査が開始された。死後六年での「列福」は「史上最速」と伝へられる。


▽ 「奇蹟」が認められ

 カトリックでは徳のある行為や殉教によって信仰の規範を示した信徒に死後、「聖者」の称号を与へてゐる。「聖者」の前段階が「福者」とされ、「聖人」か否かは神自身が「奇蹟」によって証明する。教会は慎重な態度でこの証明を待つのだ、と説明されてゐる。

 長崎の「二十六聖人」の場合、慶長元年(一五九七)の磔刑から七年後の同八年に京阪地域のキリシタンから「列聖」の嘆願書が提出され、一六一六年に法王庁の調査が始まり、十数年後、法皇は「殉教者」のためのミサをあげることを許可し、「列福」の栄誉を与へた。処刑のときに十字架上に火の柱が出現し、夜なのに周囲が明るくなった。処刑者の遺体が腐らなかった、といふ「奇蹟」が理由とされた。

 しかしアジアで最初の「列聖」は二百六十五年後の一八六二年。「列聖」のための本調査が許可されながら、「積極的な措置がとられなかった」といはれ、幕末になって「列聖」が促進された。

 マザー・テレサの場合、インド人女性の「マザーに祈ったら、お腹の腫瘍が消えた」といふ証言が採用され、「列福」したといふ。「慈善の具現」と法皇が呼んだマザー・テレサだが、今後、「列聖」に向けての調査も始まるらしい。


▽ いづれ高山右近も?

「列福」「列聖」を重視するヨハネ・パウロ二世の時代になって、「福者」「聖人」の件数は目立って増えてゐる。現在、バチカンでは約二千二百件の「列聖」審査が進められてをり、そのなかには日本のキリシタン大名高山右近や江戸期禁教下の「殉教者」たちも含まれてゐるといふ。

タグ:キリスト教
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「奇怪」クリスマス・イベントの花盛り──世紀越えのイベントを考える [キリスト教]

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「奇怪」クリスマス・イベントの花盛り──世紀越えのイベントを考える
(「神社新報」平成13年1月15日)
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けやき広場のクリスマス.gif
昨年の暮れもまた、全国各地の公共施設や商業施設、高級住宅街などで、まばゆいばかりに色鮮やかな電飾に飾られた、華やかなクリスマス・イベントが、私たちの目を楽しませてくれました。

東京・丸の内には、数百メートルの公道に「光の回廊」TOKYOミレナリオが出現し、のべ200万人ともいわれる来場者に感激を与えました。新宿駅南口のタイムズスクエアでは、数十万個の電飾で飾られた豪華なイルミネーションが恋人たちを誘いました。

これらのイベントは、明確に「クリスマス」と銘打ったものも少なくありません。クリスマスはもともと「キリストのミサ」を意味します。イエス・キリストの降誕を祝うキリスト教の祝祭であることはいうまでもありません。キリスト者が175万人余り(文化庁編「宗教年鑑」平成12年版)しかいない非キリスト教国で、これほど盛大に、ほとんど国民をあげてお祝いするような国は、おそらく日本のほかにはないでしょう。

いったいこれは何でしょう。キリスト教文化の習俗化でしょうか。キリスト教が土着化したと理解すべきなのでしょうか。

しかも他方では、日本伝統の習俗である、新年の門出をことほぐ門松を、公共の場ではめったに見かけなってしまいました。これは伝統的宗教心の衰退なのでしょうか。日本社会がキリスト教化したということなのでしょうか。


▽1 主催者もキリスト者も「クリスマスではない」と否定

興味深いことに、クリスマス・イベントの主催者たちは、イベントの宗教性を真っ向から否定します。

たとえば、埼玉県が所有する「さいたま新都心」の「けやき広場」に設置された「クリスマス・イルミネーション」--。高さ9メートルのクリスマス・ツリーも登場し、イブをはさんでアカペラ・コンサートがツリーを囲んで開催されました。
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これは宗教的なクリスマス行事以外のなにものでもない、と思われるのですが、イベントの主催者側は、「あまりおカネをかけられない状況で、少しでも集客率を高めたいと考えました。一般客を商業施設に呼び込もうというのが趣旨です」と説明しています。「宗教的な意味合いはまったくない」というのです。

キリスト教本来の「クリスマス」とは似て非なるものと考えるのは、キリスト者たちも同様です。

日本のプロテスタント界の有力者として知られる、ある牧師は、「キリスト者にとって、クリスマスはもっとも重要な宗教行事です」と前置きしたうえで、こうした現象は「クリスマスの商品化」だ、ときっぱりと批判しています。

「クリスマスが商品化され、商業主義に流されている傾向は、日本だけでなく、世界的に見られますが、われわれは、商業化されたお祭り騒ぎにくみせず、信仰の原点を守ろう、と信徒たちに呼びかけています。キリスト教は本来的に信仰告白的な信仰であって、信仰告白が伴わなければ、キリスト教の信仰とはいえません」

主催者も、キリスト者たちも、「クリスマス・イベント」は「クリスマス」ではない、といい切っているのです。

だとすれば、「クリスマス」期間中に開かれ、「クリスマス」の名前を冠し、「クリスマス・ツリー」を飾り、「クリスマス・キャロル」が歌われ、ときには聖職者さえ登場する「クリスマス・イベント」とは、いったい何なのでしょうか。


▽2 クリスマスの由来は古代ヨーロッパの冬至祭

クリスマスは、古代ヨーロッパの冬至の祭りに由来する、といわれます。

早稲田大学名誉教授・植田重雄氏(宗教現象学)の『ヨーロッパの祭と伝承』によると、キリスト教徒がキリストの誕生を祝うようになったのはだいぶ後のことだそうです。イエス・キリストの生誕は紀元前4年といわれますが、キリストの死後、初期キリスト教団が成立し、彼らが迫害のなかで祝ったのは「キリスト復活の日曜日」であって、キリスト生誕が祝われることはなかったのです。

キリストの誕生が「12月25日」であるとは、聖書のどこにも書かれていません。しかし、教勢が拡大し、キリスト教徒がキリスト誕生を祝うようになると、創世記に人間(アダムとエバ)の創造が「第6日目」と記述してあることから、「1月6日」が「新しいアダム」すなはちキリスト(救世主)の誕生日と認められました。現在でもギリシャ正教会では「1月6日」がキリスト生誕の日とされているそうです。

「1月6日」から「12月25日」に変更されたのは、ローマの反教皇派ヒポリュトス・スキスマが猛反対したのがきっかけでした。スキスマは万神殿をも建てた、当時の国家宗教の祭日に対抗しようとして、217年12月25日にキリスト誕生の祭りを祝ったのです。

「12月25日」は、ローマの古い暦によれば「冬至の日」であり、そのころローマ帝国内で大きな教勢を誇っていたミトラ宗教の神で、太陽神であるミトラの誕生を祝う重要な祭日でした。ミトラはもともとは古代インドの光の神だったのですが、イラン、パレスチナ、メソポタミアへと急速に広がり、ローマの国家宗教にまでのし上がろうという勢ひでした。
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この「ミトラ誕生の祭日」を、キリスト教徒が「キリスト誕生の祭日」と定め直すことによって、両者の宗教紛争が火を噴きます。その後、キリスト教がミトラ宗教を制してローマ国教の地位を掌握し、キリストは「世の光」「義の太陽」として宣言されるようになるのです。

古代において、冬至の日は暦のなかでとくに重要な、一年の起点となる日でした。光を弱めた太陽が、この日を境に、ふたたび生命力を回復させていく神秘に、古代人は神を感得し、「無敵の太陽」を称える太陽崇拝が地中海文明に広がっていたのですが、古代キリスト教の指導者は、この冬至の日を、「キリスト生誕を祝うのにもっともふさわしい日」と考えました。クリスマスが「12月25日」に定められたのは、381年のコンスタンチノープル第二公会議でのことだといわれます。

植田氏の『ヨーロッパの神と祭』によれば、中部ヨーロッパで祝われるクリスマスのミサでは、キリストの誕生と救いの喜びが、ロウソクの火で闇を照らす、という光の演出によって表現されるといいます。

「天使の告知ミサ」が24日夜11時、「羊飼いのミサ」が翌25日朝6時、もっとも盛大な「荘厳ミサ」が25日午前10時に執り行われます。讃美歌やグロリアが歌われ、「ハレルヤの叫び」が教会堂に鳴り響きます。ツリーや燭台のロウソクが次々に点火され、信徒のロウソクにも火が移されます。光が会堂を埋め尽くすと、信徒は互いに手を握り合い、「クリスマスおめでとう」「良いクリスマスを」と言葉を交わします。コーラス隊の合唱はいちだんと高く教会堂に響き渡るのです。

このようにロウソクに火をともし、闇に光を与えて、幼子の誕生を祝うクリスマスのミサは、まさに「火と光の祭り」なのです。それはイメージとして、間違いなく古代の冬至の祭りと重なっています。


▽3 日欧のイベントの共通性--罪穢を祓う日本の冬至祭り

植田氏が書いているように、キリスト教の教会暦では、「12月25日」は新年の最初の日とされています。太陽が生まれ変わる冬至が、「年の初め」、年初と考えられたからです。

冬至の日を年が改まる節目と考えるヨーロッパ人の感性は、私たち日本人の自然観と共通しています。実際、ヨーロッパの祭りと類似する火と光をモチーフとした冬至の祭りが日本にもあります。

たとえば、クリスマス・イベントが開かれる「さいたま新都心」にほど近い一山神社(さいたま市本町東)では、冬至の日に「柚子祭り」と称される、有名な火祭りが斎行されます。
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祭り当日の午後、ボクが訪ねたとき、境内は近郷近在から集まった200人もの崇敬者で立錐の余地もありませんでした。

社殿での神事が終わり、火渡りが始まりました。斎場には、松薪や檜葉などがうずたかく積み上げられ、大幣が立てられています。宮司が神前から移した神火をともすと、あっという間にもうもうたる煙があたりを覆い尽くし、視界がまったく利かなくなります。

次の瞬間、目前に数メートルの火柱が現れました。その周りを、竹の大麻を手にした十数人の「祓う人」が、祓い清めながら何度も周囲をめぐります。やがて火勢が衰えると、塩をまいて火を鎮め、おき火の上を宮司を先頭に、崇敬者が無病息災などを願いながら次々に火渡りをします。

そのあと神社の焼き印が押された柚子や神札などを受け取って、参詣者たちは家路につきました。

新藤英明宮司はこう語ります。

「宣伝をしているわけでもありませんが、たくさんの人が厄祓いにと来てくれます。消防署も協力的で、どんどん燃してくれ、というんです。『祓う人』も熱心で、きちんと作法を覚えてくれる」

人々はなぜ、それほどまでに冬至の祭りに熱心なのでしょうか。

新藤氏は、祭りの意義について、「一年の罪穢を祓う意味がある」と説明します。冬至を一年の区切りと考え、太陽の生と死のサイクルに合わせて、人間の生命の再生を祈願する宗教的感性が火祭りとして息づいているのです。

とすれば、もしかして目と鼻の先の新都心でのクリスマス・イベントは、現代の日本人にとって、精神の深層のレベルでは、キリスト教のクリスマスではなく、冬至の祭りとして意識されているのではないでしょうか。

「斎藤さんと同じことを考えていました」と語るのは、国学院大学日本文化研究所助教授の茂木栄氏(民俗学)です。
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茂木氏はとくに住宅街でのイルミネーションに注目します。

「これはバブル期にはなかった現象です。長引く不況で、少しでも身の回りを明るくしたい、という気持ちがあるのではないでしょうか。

うちの近所でも、以前は安売りのランプを町内で配りました。クリスマスをきっかけに、住宅街を飾り、明るくしようという意識が現れているように思います。地域の連帯も生まれています。

それと、チカチカさせていると、よその人が見に来るんです。クリスマスといえば、以前は家の中での行事でしたが、いまは外に見せるようになりました。アメリカ的っていうんでしょうか」

そのうえで、茂木氏は「商業主義」という見方を否定します。

「商業施設だけでなく住宅街でも盛んなのだから、商業主義とは必ずしもいえません。

無意識のうちに、冬至の祭りの宗教的感性が現れているのかも知れませんね。出羽三山神社など、全国各地で行われる修験の湯立て神事は、生命の再生を願う冬至の祭りなんです」

クリスマス・イベントが催された「さいたま新都心」の「けやき広場」では、クリスマスの翌日にはツリーが撤去され、代はって小さな紙に印刷された門松がそこかしこに飾られていました。

イルミネーションの華やかさに比べて、紙の印刷とは何とも味気ないことですが、クリスマスと日本の伝統の年越しが完全に連続しているのは確かです。

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追伸 この記事は、「神社新報」平成13年1月15日号に掲載された拙文「世紀越えのイベントを考える」に若干の修正を加えたものです。

それにしても、最近のクリスマス・イベント大流行は、とくに公的機関が関わる場合は、ちとやりすぎといえませんか。

文中に登場する「けやき広場」は、さいたま新都心の中心施設「さいたまスーパーアリーナ」と同様に、埼玉県が所有する県の施設です。公共の施設を会場にして、本来、キリスト教の宗教行事である「クリスマス・イベント」を開催することは、憲法が定める「政教分離原則」に抵触しないのでしょうか。

愛媛県が靖国神社の例大祭に玉串料として公費(合計で16万6000円)を支出したことなどの合法性が争われた「愛媛玉串料訴訟」の場合、「公金支出行為などにおける国家と宗教との関わり合いが相当限度を超える」と判断され、県側は敗訴となりました。

それなら、さいたま新都心のクリスマス・イベントはどうでしょうか。

「けやき広場」でのイベントの支出については「公表」されていませんが、「広場」を管理運営する株式会社さいたまアリーナの資本金は4億9500万円で、うち埼玉県、浦和市、大宮市、与野市(三市は昨年合併し、「さいたま市」となった)が36%を出資し、残りは民間企業14社が出資しています。株式会社とはいえ、公共性の強い企業体が「宗教行事」を行っているのです。

政教分離問題に厳しい態度を示してきたのはほかならぬキリスト者ですが、この「さいたま新都心」でのケースのやうに、公共施設で半官半民の組織がキリスト教の宗教行事を催すことについて、どう考えているのでしょうか。

「信教の自由」「政教分離」の原則を侵すことにはならないのか、「クリスマス・イベントはクリスマスではない」と突っぱねればすむ、というものではないでしょう。日本のクリスマスといえば、従来はキリストのいない、もっぱらサンタクロースが主役のクリスマスでしたが、最近は堂々と聖職者が登場しています。確実に「宗教性」を増しているのです。

こうした疑問に対して、本文にも登場したプロテスタントの牧師は、こう答えています。

「キリスト者が問題にしてきたのは、靖国神社や護国神社と国家との関わりであり、実際、裁判でも争ってきました。けれども、逆にクリスマス・イベントなどキリスト教と国家との関わりについて議論したことはありません。ひょっとしたら曖昧にしてきたのかも知れません。ただ、違法性が問われるやうなケースについては、具体的事例のなかで考えなければなりません」

この牧師はあくまで「少数者の宗教的権利の保護」を訴えるのですが、皆さんはどうお考えですか。「さいたま新都心」では、クリスマス・イルミネーションの華やかさに対して、紙に印刷された門松はまことにおどろくほど貧相です。この落差をどうお考えになりますか。他者の批判はするが、みずからの反省はない、というようなキリスト者の態度は、やはり問題だといわざるを得ないのではないでしょうか。

最後になりましたが、文中に登場する一山神社の新藤宮司さんは昨年、鬼籍の人となりました。

じつに温厚な、いい方でした。取材のときに聞いた「お宮は村のものです」という宮司さんの言葉が、ボクにはとくに印象的でした。

古来、地域共同体の共有物であったはずの神社やお寺が、戦後の宗教法人法によってかえってねじ曲げられ、ときには「宗教法人の役員」というような一部の人たちによって私物化されている、というきびしい批判も聞かれる昨今の実態を思うとき、宮司さんの素直な、素朴な感慨は新鮮に心にしみるのでした。

あらためてご冥福をお祈り申し上げます。

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世界が伝えた法王の「懺悔」──「異教文明破壊」の「告白」は十分か [キリスト教]

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 世界が伝えた法王の「懺悔」
 ──「異教文明破壊」の「告白」は十分か
(「神社新報」平成12年4月10日)
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 平成12年3月12日、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がバチカンの聖ペテロ大聖堂で特別のミサを行い、過去2000年にわたる教会の過ちを認め、神に赦しを求めた--というニュースが世界を駆けめぐった。

 法王はキリスト生誕から2000年目に当たる昨年を特別に宗教的意義の深い「大聖年」と位置づけ、新しい「解放」の時を迎えるため、ここ数年、病める老躯にむち打って世界を飛び回り、不信と対立の関係が続いてきたユダヤ教やイスラム、東方正教会やプロテスタントとの歴史的和解あるいは関係改善に努めてきた。
 
 今回の「ゆるしを願うミサ」はこれまでの努力の集大成というべきもので、21年間の在位期間中、もっとも重要な出来事ともいわれる。また、ローマ・カトリックが過去の間違いを包括的に認めるのは歴史上、先例がないとされる。

 法王はいったい何を懺悔(ざんげ)したのか。そして、世界や日本のメディアはこれをどのように伝えたのか。

▢「神との和解」を呼びかける
▢ユダヤ人虐殺には言及せず

 バチカンのホームページ(http://www.vatican.va/)には、法王の説教がドイツ語、英語、スペイン語など6カ国語で掲載されている。英語では約1300語。けっして長文ではない。

 3月12日は「四旬節」(英語で「レント」)の最初の「主の日」つまり日曜日であった。四旬節の40日間は古来、キリストの復活を祝う復活祭を迎えるために断食し祈る回心の期間で、昨年はこの日が「回心と和解の日」「ゆるしを願う日」とされた。

 ミサは午前9時半(日本時間で午後5時半)に始まった。法王はレントの色である紫の祭服を着て臨み、1万人の信徒を前にしてイタリア語で語った。

 冒頭に新約聖書のなかのパウロの言葉が引用された説教は、キリスト教信仰の核心に関わるきわめて神学的な内容であった。
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 法王は、聖そのものである神が「罪と何の関わりもない」独り子を罪人としてこの世に送られたのはどういうことか、と問いかけ、キリストは自分は罪科がないにもかかわらず、人々の罪を背負った。それは人々の罪をあがなうため、父なる神の使命を全うするためであった、と説明する。

 愛ゆえに人々の不義を見に背負ったキリストの前に、私たちは「良心の深い糾明」をするよう招かれている。大聖年の特徴のひとつは「記憶の聖化」である。きょうは、教会がすべての信者の罪のゆるしを神に誓願する嘆願する絶好の機会である。「私はゆるし、そして、ゆるしを願う」。

 ──法王はそう語り、大聖年にふさわしい「神との和解」を10億人を超える世界のカトリック信徒に呼びかけたのである。

 日本のカトリック中央協議会のホームページ(http://www02.so-net.ne.jp/~catholic/)などによると、法王の説教のあとに5人の枢機卿と2人の 大司教による共同祈願が続いた。

 7人はそれぞれ「一般的な罪」「真理への奉仕において犯した罪」「『キリストの体(教会)』の一致を傷つけた罪」「イスラエルの民に対して犯した罪」「愛と平和、諸民族の権利と文化・宗教の尊厳を犯した罪」「女性の尊厳・人類の一致を犯した罪」「基本的人権に関する罪」を順番に告白し、それぞれの罪の告白について法王は神に赦しを求めた。

 筆者が知る限り、法王の「謝罪」をもっとも詳しく報道したのは、ニューヨーク・タイムズである。

 3月13日付には、1面に十字架のキリスト像を抱擁するヨハネ・パウロ2世の大きなカラー写真入りで、「法王、2000年にわたる教会の誤りについて赦しを求める」と題するアレッサンドラ・スタンレー記者の記事が載っている。

 記事は1面から10面に飛び、計240行におよぶ。10面にも大聖堂入り口にあるミケランジェロ作「ピエタ」像の前で祈る法王や枢機卿たちの大きな写真がある。そのほか、法王の説教の抜粋や関連記事で10面のほとんどが埋められている。

 スタンレー記者は、「ローマ・カトリック教会の歴史上、先例のない瞬間」などと評価したあと、「ユダヤ人問題」をとりあげている。

 法王は1960年代の第二バチカン公会議で始まった「和解」の動きを押し進め、1998年の文書では第二次大戦中に法王ピウス12世ら教会指導者がホロコースト(ナチスによるユダヤ人虐殺)に対して沈黙し、救いの手をさしのべることができなかったことを反省したのだが、多くのユダヤ人を「失望させた」。反省が十分ではない、というのである。

 今回のミサでも、ユダヤ人の「失望」は変わらなかった。法王の謝罪を「勇気のある重要な前身」と称える一方で、「教会はいまなお第二次大戦中のバチカンの役割を論議することを避けようとしている」と語るユダヤ人指導者M・ハイア師の声を、スタンレー記者は伝えている。
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 ワシントン・ポストはやはり13日付1面に、「法王、教会の罪の赦しを乞う--特別の罪とされなかったホロコースト」と題するサラ・デラニー記者の記事を載せている。1面から14面に飛び、合計約200行におよんでいる。

▢予告記事を載せた参詣と毎日
▢大きくない日本の新聞の扱い

 共同祈願でユダヤ人迫害の罪を告白したのは、E・キャシディ枢機卿である。

「歴史を通してイスラエルの民が受けた苦しみを思い起こしながら、少なからざるキリスト者が『契約の民』『祝福された民』に対して罪を犯してきたことをキリスト者が認め、このようにして自分たちの心を清いものとしていくことができるよう、祈りましょう」

 枢機卿の告白はこれがすべてで、そのあと法王が、「父なる神よ、あなたはアブラハムとその子孫をあなたの名前を世界にもたらすために選ばれました。歴史を通して、あなたの子らを苦しめてきた人々の行為を深く悲しみ、あなたのゆるしを願い求め、『契約の民』と真の兄弟愛を築くために働くことができますよう。主キリストによって」と祈りを捧げたにすぎない。

 確かにホロコーストへの具体的言及はない。

 日本の新聞の扱いは大きくないが、産経新聞が9日(木曜日)夕刊2面でローマ特派員・坂本鉄男記者の、毎日新聞が11日(土曜日)の夕刊2面でロンドン特派員・岸本卓也記者の予告記事を載せているのが目を引いた。

 坂本記者による「1000年の謝罪 ローマ法王『罪』を告白」は3段見出し、写真入りで、カトリックの「偏向」の歴史を振り返り、「謝罪」が「イスラム教との平和共存の話し合いの場につなげる意味がある」と報じ、他方、岸本記者の「ローマ法王 過去の過ち 初のざんげ」は4段見出しで、欧州での歴史の見直しや異人種・異宗教世界との融和の動きとの関連について伝えている。

 時間的には13日(月曜日)朝刊に間に合うニュースだが、5大紙は休刊で、他紙は夕刊での報道となった。

 朝日新聞は2面で、「教会の過ち 許し請う ローマ法王、特別ミサ」の4段見出しを掲げ、写真入りでとりあげているものの、記事自体は計50行程度。ただ、パリ特派員・藤谷健記者による簡単な報告のほかに、エルサレム特派員・村上宏一記者による、ユダヤ人虐殺の責任にふれなかったことに対するイスラエルの「不満」の声を載せている。

 読売新聞は夕刊2面にカリアリ(イタリア)特派員・西田和也記者の記事「大聖年 過去の過ち すべて清算」を5段見出し、写真入りで載せた。「法王は機会あるごとに過ちを認めてきたが、総括して『赦し』を求めたのは歴代法王のなかで初めて」とある。

 日本経済新聞は夕刊2面に、ミラノ特派員・小林明記者の記事「教会の過去の過ち謝罪」を3段見出し、写真入りで掲載した。「『大聖年』の主要テーマの一つで、教会として包括して謝罪するのは史上初めて」と書いている。

▢「謝罪」し続けるローマ法王
▢欠落する「異教文明」の視点

「史上初めて」と伝えられる法王の懺悔だが、平成10年に出版された竹下節子氏『ローマ法王』によると、ヨハネ・パウロ2世は「公式の文章で何と94回もカトリック教会の非を認めている」。謝罪のテーマは多岐にわたり、とくに1994(平成6)年春以来、反省の姿勢が強くなった、という。
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 いまのカトリックは「驚くべき熱心さ」で、「古くは十字軍による侵略の反省やルネサンスのガリレオ・ガリレイに対する糾弾の取り下げから、宗教改革のルターの破門の取り下げ、聖バルテルミーの新教徒虐殺の謝罪、再征服(レコンキスタ)当時のスペインのイスラム教徒への謝罪、アメリカ・インディアンの虐殺や黒人奴隷の売買、異端審問の専横にいたるまで、あらゆる機会に謝罪している」というのだ。

 しかし、謝罪のテーマはこれで十分なのか。

 今回の「謝罪のミサ」に関して、欧米のメディアがホロコーストに力点を置いて報道するのは理解できる。日本の新聞はたぶんに欧米の報道に引きずられる形でこの問題をとりあげている。

 だが、過去の悔い改めなしに「新しい千年期の敷居をまたぐことはできない」(「使徒的書簡」)と語る法王の真摯な姿勢に立つとき、過去1000年間でもっとも反省すべき過ちはほかにあるのではないか。

 たとえば、アジアなど異教世界の視点でいえば、むしろ世界布教の過程で異教の神々を冒涜し、異教徒を殺戮し、異教文明を破壊してきたキリスト教・カトリックの歴史にこそ目を向けるべきではないのか。

 その点、ミサの共同祈願で、5番目に「愛と平和、諸民族の人々の権利と、彼らの文化と宗教に対する尊厳に反する行為の中で犯した罪」を告白したのが、98年に現法王によって任命され大司教となった濱尾文郎・前横浜教区長であることは象徴的といえる。

「私たちキリスト者がその高慢さ、嫌悪、他者を支配しようとする欲望、また、他宗教の人や移民や移住者のように社会で最も力無い人々に対して向けられる敵意から出た、言葉と行いを悔い改めることができるよう、祈りましょう」

 濱尾氏の告白のあと、法王は、「キリスト者はしばしば福音を否定し、権力というメンタリティに傾倒し、諸民族の権利を侵し、彼らの文化と宗教的伝統を侮辱してきました。どうか、私たちに対し寛容で、慈しみを示し、あなたのゆるしをお与えください」と祈っている。

 しかし、欧米のマスメディアがユダヤ迫害への謝罪を「不十分」と採点したように、「異教文明を破壊した罪」に対する懺悔は「抽象的で不十分」といわざるを得ないだろう。
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 大航海時代、カトリックの世界宣教にはスペイン、ポルトガルによる武力征服の隠れた目的があった。両国の「世界二分割征服論」という荒々しい野望を推進させたのは、1493年の法王アレキサンデル6世の勅書である。異教文明の征服と破壊はここに始まり、多くの悲劇が生まれた。

 日本ではキリシタン迫害ばかりが語られがちだが、強制的改宗や社寺破壊などがあったのも事実である。それどころか1575年のグレゴリウス13世大勅書で、日本はじつに「ポルトガル領」と認められている(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』)。

「謝罪のミサ」に続いて、法王は2000年3月下旬、エルサレムを訪問した。法王による史上初のエルサレム訪問を日本の新聞各紙は一面、写真入りで大きく伝えたが、日本のメディアが取り上げるべきテーマはもっとほかにあるのではないか。


追伸 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成12年4月10日号に掲載された拙文「世界が伝えた法王の『懺悔』──『異教文明破壊』の『告白』は十分か」に若干の修正を加えたものです。
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「ニュー・ミレニアム」を考える──畑作文化に由来する循環的時間観念 [キリスト教]

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「ニュー・ミレニアム」を考える
──畑作文化に由来する循環的時間観念
(「神社新報」平成12年1月10日号から)
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 昨年(平成11年)来、ちまたは「ミレニアム」であふれている。

 某洋酒メーカーが売り出した「ミレニアム・ワイン」に始まって、有名でパートには「ミレニアム・コーナー」が設置され、「西暦2000年」にあやかった商品がところ狭しと並べられている。

 消費低迷で不況にあえぐデパート業界がワラにもすがる思いで打って出た商法なら同情しないでもないが、「ミレニアム」の起源がキリスト教にあることは明らかで、キリスト者でもない日本人が「ミレニアム」を呼号するのは年末恒例の「クリスマス商戦」に勝るとも劣らない「悪乗り」といえないか?

 同じ「2000年」なら、4年前の平成8年は「皇大神宮御鎮座2000年」だったけれども、デパートが伊勢の大神の御神徳を宣揚するようなイベントを華々しく展開したという話は聞かないから、対照的である。

「真空総理」にいたっては、年頭会見で「平成12年」という前に「ミレニアムおめでとう」と切り出した。

 そもそも何が「ミレニアム」なのか?


▢ 火付け役となったローマ教皇
▢ 7年ごとにめぐる「安息の年」

「ミレニアム」の火付け役はどうやらローマ教皇ヨハネ・パウロ2世らしい。

 教皇は1994(平成6)年11月、「使徒的書簡──紀元2000年の到来」を発表し、西暦2000年を「大聖年」として迎える準備を全世界10億4千万のカトリック信徒に呼びかけたのだが、「書簡」の原題が「第3の千年期の到来」となっていて、この「千年期」がラテン語では「ミレニオ」、英語で「ミレニアム」なのである。

「書簡」のなかで、とくに興味深いのは、「第2章 紀元2000年の聖年」である。「聖年」の意義が説明されていると同時に、カトリック的な時間観念がうかがえるからだ。

 ローマ教皇は当然のことながら、東洋的な「輪廻転生」をはっきりと否定し、「天地創造」から「キリストの受肉」「再臨」という直線的時間観念を明確に表明している。しかし一方で、「書簡」には農耕民的な循環的時間観念が並行して見いだせるのが面白い。

──モーセの時代には畑が休閑になり、奴隷が解放される「安息の年」が7年ごとにめぐってきた。この年は神の栄光のため、負債が帳消しにされることが律法に規定されていた。50年ごとの「ヨベルの年」には全居住者の全面的「解放」が行われた。すべての人が救いの力にあずかることができるのが「大聖年」である──

 このような論法で、教皇は千年に一度の「主が恵みをお与えになる年」を説明している。

 7年に一度の「安息年」は、旧約聖書の時代の律法に由来する。たとえば、モーセに率いられ、エジプトから脱出したイスラエルの民がカナンに定着していく過程で、主なる神は、

「あなたは6年の間は土地に作物を栽培し、7年目は休閑地とせよ」

 と命じるのである(「出エジプト記」23章10〜11節)。

 ユダヤ・キリスト教といえば、砂漠のなかのオアシスを求めて、羊の群れを追う遊牧民の宗教のように考えられている。砂漠という風土は一神教的な世界観を生み、直線的な時間観念をもたらしたといわれる。

 東大名誉教授で地理学者の鈴木秀夫先生が述べているように、

「草も木もなく、倒れた動物の死体もただ白い骨をさらすだけの砂漠では、輪廻の思想は生まれない。世界は、天地創造に始まり、終末に向かって、一直線に進行しているという直線的世界観が成立することになる」(『森林の思考・砂漠の思考』)のだ。

 ところが、旧約の律法、そして教皇の「書簡」から浮かび上がってくるのは意外にも、鈴木先生がいう「森林的」な円環的世界観なのである。

 カトリック中央協議会に、

「キリスト教的にも循環的な時間観念があるのですか?」

 と聞いてみたら、驚いたことに、歴史の「繰り返し」は認めながら、「循環」を否定した。よく聞くと、歴史の単純な「循環」という表現を嫌っているらしい。それだけ、世界には初めと終わりがある、という直線的時間観念を強固に信じているということだろうか?

 だとすれば、「7年に一度の安息年」は本質的には非キリスト教的な習俗ということにもなり、ますます興味がもたれる。

『ケンブリッジ旧約聖書注解』を開いてみると、面白いことに、土地に対する「安息年」の制度は歴史的に古いもので、それは土地は神に属するという考え方に基づいている。畑にできる農作物は7年目には神のものとなり、貧しい者や動物のために残しておかなければならない──と考えられたという説明がある。

 当時の農耕がどのようなものであったのか、詳しいことは分からないが、ここに記述されているのは明らかに、キリスト教以前の畑作農耕民による「輪作」の知恵ともいうべき循環的時間観念である。

 さらに玉川大学女子短大・新井智教授の『聖書を読むために』によると、カナン定住によって、イスラエル民族の生活は砂漠の遊牧生活から農耕生活、さらに都市生活へと一変した。そしてカナン土着の神バアルや母なる女神アシュタルテという頽廃的な偶像崇拝の多神教が「侵入」し、倫理的な人格的一神教が「堕落」した──という。

「堕落」と断定するのは早計だろうが、いま教皇が主導する「大聖年」という歴史的大イベントは、間違いなく異教的土地神信仰に由来する循環的時間観念が底流にあることが分かる。


▢ 6世紀に「キリスト紀元「発生」
▢ 最初は「復活祭」計算の副産物

 さて、「西暦2000年」である。

 年数を数える場合に基準となる最初の年を「紀元」という。キリスト誕生の年を元年とする西暦は「キリスト紀元」と呼ばれ、教皇は

「キリストの生年がほとんどどの国でも暦の紀元となり、広く使われていることは意義深く、イエス誕生が人類史に及ぼした比類のない影響のひとつたではないか」

 と強調するのだが、はたしてそうだろうか?

 三笠宮崇仁親王殿下が翻訳されたジャック・フィネガン著『聖書年代学』によると、古代ローマで用いられた紀元はローマ史創建に基づき、西暦前753年を元年としていた。

 ユダヤ人は2つの紀元を用いた。ひとつは、西暦70年にローマ軍によって「第2神殿」が破壊されたことを新紀元とし、「神殿の破壊X年」「破壊の後X年」と表された。もうひとつは「創造紀元」「世界起源」で、ユダヤ人は西暦前3761年をアダムが想像された年と考えた。

 3世紀になると、古代ローマではディオクレティアヌスがローマ皇帝に推挙された284年を紀元の始点とする「ディオクレティアヌス紀元」が用いられるようになる。彼はキリスト教の大迫害者で、キリスト教会ではしばしば「殉教者の紀元」として使用された。

 6世紀になって、著名な学者でもあったローマの修道士ディオニシウス・エクシグウスは西暦525年に「イースター表」を書くのに際して、キリスト教の敵であるディオクレティアヌス皇帝の紀元を使用せず、「主の体現より」という新たな紀元を採用した。

 これが「キリスト紀元」だが、埼玉大学の岡崎勝世教授(ドイツ近代学)によれば、ディオニシウスの方法は

「歴史的事実の探求ではなかった」。

 彼は、キリスト者にとってもっとも重要な祝祭日のひとつ、復活祭(イースター)の日を求めようとした。

 それ以前、キリスト教を公認し、みずから改宗したコンスタンティヌス帝は325年にニケアの宗教会議を開いたのだが、このとき復活祭は

「3月21日以後の最初の満月のあとに来る第1日曜日」

 と定められていたのである。

 ディオニシウスの時代には、イエスの復活は3月25日の日曜日、イエスが満30歳のときと考えられていた。この日は同時に、イエスの受胎告知の日であり、天地創造の日とも考えられた。また、年によって移動する復活祭は532年で一巡する、と考えられていた。そこで、ディオニシウスは、3月25日の日曜日が復活祭となる年を探していき、イエス誕生の年を算定したのである(岡崎『聖書vs世界史』)。


▢ 真のイエス生誕は前4年が有力
▢ 世界化は異教文化破壊の裏返し

 上智大学神学部の土屋吉正教授が書いているように、ディオニシウスはもともとキリストが降臨した歴史的年代を探求したわけではない。また、キリストの死と復活の期日に関する伝承を議論の出発点に置き、2000年前を生誕年とする彼の見解は、今日では支持されることはない。イエス誕生は紀元前7年または前4年とする説が有力で、とくに前4年説が一般的に認められているという(『暦とキリスト教』)。

 たとえば、「マタイによる福音書」は、イエスはヘロデ王の時代に生まれたと記述しているが、ヘロデは前4年に死んでいる。したがってイエス生誕はそれ以前ということになる。(デイヴィッド・ダンカン『暦を作った人々』)

 いみじくもヨハネ・パウロ2世は「書簡」で、西暦2000年を「大聖年」とするのについて、「厳密な年代の問題はさておき」と但し書きをつけ、今年(平成12年)がイエス生誕2000年ではないことを暗に認めている。

 しかし「キリスト紀元」が変更されることはなかった。またイエス誕生が紀元前4年だとすれば、「生誕2000年」は1996(平成8)年で、奇しくも「皇大神宮御鎮座2000年」と一致するのだが、「西暦2000年」を「大聖年」と位置づけるカトリックはこの年、「とりわけ何の行事もなかった」(カトリック中央協議会広報)。

 キリスト紀元がすぐに広まることもなかった。

 キリスト紀元は、7世紀半ばにイングランドの教会で最初に受け入れられ、そのあと西ヨーロッパのカトリック化とともに広がっていった。

 10世紀後半には、それまで教皇在位年を使っていた教皇文書に用いられるようになり、10世紀末までには西ヨーロッパに定着した(岡崎前掲書)。

 日本にキリスト紀元が伝わったのは、いうまでもなくザビエルが来日した450年前である。キリシタンは太陽暦による祝日を厳守した。禁教後、ローマとの連絡が途絶えてのちも、「バスチャンの暦」など独自の暦が伝えられ、隠れキリシタンたちは「御出世以来X年」と年を数えたという(土屋前掲書、岡田芳朗『日本の暦』など)。

 ヨハネ・パウロ2世は、

「イエス誕生が人類史に及ぼした比類のない影響」

 とキリスト紀元の世界化を自賛するが、むしろそれはキリスト教が世界布教の過程で異教世界を侵略し、異教文化を破壊してきた歴史の裏返しではなかったか?

 明治政府は明治5年に改暦を断交し、太陽暦を導入したが、キリスト紀元は認めなかった。政府公認の官暦は明治16年からは神宮司庁が発行するようになるのだが、「神宮暦」には神武天皇即位紀元の皇紀と一世一元の元号とが併記されている。

 ところで、キリスト紀元は復活再計算の副産物として生まれ、その復活祭は農耕民の祭りに由来するというのがまだ面白いのだが、詳しくは次回に譲る。

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キリシタンの里のソーメン作り──禁教・鎖国とは何だったのか [キリスト教]

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キリシタンの里のソーメン作り
──禁教・鎖国とは何だったのか
(神社新報、平成11年10月11日)
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カステラの取材で長崎に飛んだ翌日、諏訪神社の上杉千郷宮司、松本亘史禰宜の両氏と外海(そとめ)町黒崎(いまは長崎市)に足を伸ばした。隠れキリシタンの里として知られる外海は世帯数4000戸のうち、カトリックが540戸、昔(隠れ)キリシタンが400戸を数える。

そんな町でもっとも有名な郷土の偉人といえば、だれしもフランス人宣教師ド・ロ神父をあげるに違いない。

禁教が解かれていない幕末の長崎にやって来て、やがてこの地に教会を建て、漁業や農業の近代化に貢献したほか、海難事故で夫を失った、貧しい未亡人のために救助院(授産場)を創立して、織物や染色、パンやマカロニの製造などを教えたという。

以前は網すき工場で、保育所でもあったという小さな記念館には、ゆかりの品々が陳列してある。なかでもソーメン作りに使われた包丁が目を引く。

記念館の窓口には店ざらしの「ド・ロさまソーメン」がひと箱、残っていた。無理にお願いして買い求めたのだが、それにしてもなぜソーメンなのか。


▢1 家康はなぜ禁教に転じたのか。カトリック勢力の政治的野望

長崎・純心女子短期大学の片岡弥吉副学長によると、ド・ロ神父は1840年、フランス・ノルマンディー地方の貴族の家に生まれた。

20歳でオルレアン神学校に入学し、宣教師としての勉学を始めるのだが、そのころ日本は欧米列国と修好通商条約を結び、開国したばかりであった。

文久2(1862)年、フューレ、プチジャンというパリ外国宣教会の2人の神父が横浜に上陸した。横浜天主堂が竣功し、「二十六聖人」が「列聖」したのもこの年である。

列国に開港された長崎で、フューレ神父は天主堂の建設を始める。元治元(1864)年に完成した天主堂は「日本二十六聖人」教会と呼ばれた。これが現存する日本最古の天主堂・大浦天主堂である。

元治2年3月、浦上の農民男女10数人が「フランス寺」の見物にやって来て、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と聞いた。250年間、禁制下で潜伏していたキリシタンがここに「復活」したのだが、それは新たな迫害の始まりでもあった。

しかし浦上の農民が検挙投獄されると、長崎在留の外国領事がキリシタンの投獄・拷問を「非道」と非難する。事態は外交問題にまで発展した。浦上全村がキリシタンであるという現実は重かった。大政奉還後、新政府の要人が集まって御前会議が開かれ、結局、キリシタン全員が流罪となる。

ド・ロ神父がパリ外国宣教会の宣教師として長崎に上陸したのは、慶応4(1868)年6月7日。奇しくも「浦上キリシタン1村総流罪」の太政官達が出された日であった(片岡『ある明治の福祉像──ド・ロ神父の生涯』など)。

そもそも日本はなぜ禁教・鎖国の道を選んだのか。家康は当初、キリシタンに好意的であったはずだが、なぜ禁教に転じたのか。

フロイス「日本史」の完訳者として知られる京都外国語大学の松田毅一教授によれば、関ケ原の合戦に先立つこと6か月の慶長5(1600)年3月、オランダ船リーフデ号がイギリス人水先案内人ウイリアム・アダムスを乗せて豊後に漂着したことが、カトリックにとっては大きな衝撃となった。プロテスタント勢力の来日で旧教と新教の宗教戦争に火が付いたのである。

天下分け目の合戦にキリシタン武将の小西行長があえて処刑されたうえに、天下人となった家康は、カトリックと敵対関係にあるプロテスタントのオランダ人やイギリス人の来日を歓迎する姿勢を示した。

他方で、家康は国際貿易の発展を望み、とくにノビスパニア(メキシコ)との交易が盛んになるのを希望した。そのためには、言語上の問題などから、スペイン系修道会員の協力が必要であったから、結果としてスペイン領マニラではフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会の宣教師の間に日本布教熱が異常な高まりを見せた。

宣教師の大量入国を不満として、家康はフィリピン総督宛の朱印状に布教の厳禁を明示した。イエズス会の日本司教セルケイラも「このままでは迫害が始まる」と警告したが、宣教師には馬耳東風であった。

松田氏はこう指摘する。

「徳川幕府をしてキリシタン宗の宣教師と信奉者を日本から根絶せしめるよう決意させた最大の理由が、キリシタン宗の布教は異国による政治的陰謀と関連しているとの判断に基づくことは明らかで……」

最初はポルトガル、今度はスペイン──カトリック勢力の領土的野心を秘めた陰謀の疑惑は秀吉の晩年以降、次第に動かしがたい事実と認められていたのだ。

家康による禁教政策の直接の原因は、慶長17年に発覚した贈収賄事件である。

老中本多正純の家臣岡本大八は、慶長14年に有馬晴信がポルトガル船を焼き討ちした恩賞として有馬の旧領地を賜るよう斡旋すると持ちかけて、晴信から多額の賄賂を取った。これが明るみに出て、さらに今度は晴信による長崎奉行殺害計画が露見する。大八は火刑となり、晴信も配流になるのだが、ふたりともキリシタンであったことが幕府の感情を著しく害した。

幕府は京都所司代板倉勝重を呼んで、「南蛮キリシタンの法、天下停止すべし」と命じ、4か月後には「バテレン門徒御禁制なり」の布告が出されて、まずは直轄領から禁教令が実施される(松田「キリシタンの殉教」=西川孟『日本キリシタン史 殉教』所収など)。


▢2 圧政がもたらした島原の乱。指導者に小西行長の旧家臣

家光が3代将軍になると、迫害は以前にも増して過酷になった。雲仙岳の熱湯を浴びせる「雲仙地獄」、深い穴に逆さにつるす「穴吊り」、聖像を踏ませる「絵踏み」で、キリシタンは背教を迫られた。

そこへ降ってわいたのが島原の乱である。

外海町を取材した日の午後、松本氏の運転で、島原を訪ねた。待ち構えていたのは志岐茂夫さん。今春(平成11年)、島原半島文化賞を受賞された郷土史家である。

悲劇の舞台、南有馬町(いまは南島原市)の原城跡へと向かう車中で、志岐さんから聞いたお話は新鮮だった。「島原の乱はキリシタン一揆ではなく、農民一揆だと私は考えています」。「NHKの『堂々日本史』が取材にきたときも話したのですが……」というので、以下は『堂々日本史』を参考につづる。

寛永14(1637)年10月、キリシタンを取り締まる島原藩の代官が殺害されたのを機に、島原各地の農民がいっせいに蜂起、神社仏閣に火を放ち、藩主松倉氏の居城島原城下に乱入して城を包囲した。

幕府が鎮圧に乗り出し、4万5000の大軍を仕向けると、一揆勢は籠城した。原城は有明海に突き出した周囲3キロの台地をそのまま城にした天然の要塞で、かつては有馬氏の支城だったが、藩主が松倉氏に代わり、一国一城の制で居城が島原城に移って廃墟となっていた。一揆軍はいちばん高いところに教会を建て、指令を出した。

難攻不落の原城に対して、幕府軍は2度の総攻撃を加えるが、数千人の死傷者を出し、指揮官である板倉勝重までが戦死する。代わって司令官となった松平信綱は戦法を兵糧攻めに切り換え、降伏を呼びかけた。

注目すべきなのは交渉に使われた矢文である。一揆勢の矢文の多くはキリシタン解禁を求めるものであったが、それとは異なる内容の矢文が昭和30年代に瀬戸内海の小豆島内海町(うちのみちょう。いまは小豆島町)の壺井家で発見されている。

一揆の指導者には内密に送られた矢文には、「太平の世を騒がして申し訳ない。一揆は領主松倉長門守の酷い政治に抗議してのこと」と記されてあった。

島原は稲作に向かない火山灰の畑地である。そこへ20年前に移ってきたのが松倉氏で、新興外様大名の意気込みと見栄で小大名にしては立派すぎる島原城を築いた。そのため農民を絞り上げ、4万石の領地なのに、2倍以上の税を取り立てたという。さらに寛永11年以来続く凶作と飢饉が重なった。百姓一揆は当然の結果だった。

籠城すること80日。取り囲む幕府軍は12万。一揆勢の食糧も武器も底をついた。最後の総攻撃が加えられたのは寛永15年2月末。原城は陥落し、一揆勢3万7000人は老若男女の別なく皆殺しにされた。

天草四郎の父親など一揆の指導者には、関ヶ原の合戦で敗れた、天草領主でキリシタンの小西行長の旧家臣もいた。指導者は幕府に盾突き、つかの間の天下取りを夢見ていたともいう。

そして、幕府の皆殺し強行はキリシタンへの見せしめでもあったろう(『堂々日本史4』など)。


▢3 対日貿易をめぐる宗教戦争。宗門改・檀家制度の発足

島原の乱の前からスペイン船の来航が禁じられ、日本人の海外渡航・帰国が禁止されて、鎖国令は段階的に厳しさを増していたが、島原の乱後の寛永16年にはポルトガル人の居住・来航が禁止され、徳川幕府の鎖国体制は完成する。

カトリック勢力が閉め出されたあと、残ったのはプロテスタント国のオランダである。西洋諸国のなかで、なぜオランダだけが通商相手となり得たのか。

じつはポルトガル、スペインの侵略的意図を吹き込み、両国との貿易停止を幕府に盛んに働きかけていたのがオランダであった。バタビア(インドネシア)に本拠地を置くオランダは、宗教と経済を分離し、対日貿易の独占を図ったらしい。

オランダにとって島原の乱はポルトガル追い落としのチャンスで、幕府の要請で海上から一揆勢を砲撃さえしている。やがて幕府がポルトガル船の来航を禁止したとき、バタビアのオランダ総督府では盛大な祝賀会が催された。もちろん貿易額は鎖国の完成で激増したという。

このころヨーロッパでは、ドイツを舞台に旧教と新教との壮絶な宗教戦争が戦われていたが、極東では対日貿易をめぐる宗教戦争が戦われていたことになる。

その点、徳川幕府とオランダは利害が一致した。以前は大名・豪商の自由であった対外交易を、幕府は鎖国によって独占することになったのである(『NHK歴史発見13』など)。

一方、国内では、幕府は寛永17(1640)年、切支丹奉行(宗門改役)を置き、宗門改めと寺請檀家制度を発足させた。当初はキリシタンが宗門を改めるのを寺が証明するという制度であったが、やがては隠れキリシタンの探索のため全住民を対象とする制度が全国化していく。

人々は出生とともに宗門改帳に登録され、所属する寺院の証印を受け、村役人を通して領主に報告する義務を負うようになった。キリシタンでないことを証明するためにである。

ところで、島原の村々は鎮圧後、ほとんどが壊滅した。復興のため幕府は諸藩に禄高1万石につき1世帯の割合で農民の移民を命じた。とくに天領(幕府領)であった小豆島からは「公儀百姓」の強制移住が行われた。島原名産のそうめんはこのとき小豆島の移民が持ち込んだという。

一方、明治12年に外海町に赴任したド・ロ神父は私財を投じ、海難で亡くなった漁夫の未亡人や職を持たない未婚女性が経済的自立を図るための救助院「至風木舎(しふうきしゃ)を建て、算術などを教え、製粉や機織り、裁縫、パンやソーメン、マカロニの製造を伝えた。

「ド・ロさまそーめん」はいまや地域の特産品だが、どうも島原そうめんとは無関係らしい。ソーメンとはいいながらちょっと太めで、本来的にはパスタだったのかもしれない。

至風木舎の試みは政府に認められ、明治43年、内務省は助成金200円を贈った。翌年、ド・ロ神父は病に伏し、大正3年、帰らぬ人となる(『南有馬町誌』『外海町誌』など)。


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「殉教の地」長崎に異論あり──カステラを食べ損ねた話 [キリスト教]

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「殉教の地」長崎に異論あり
──カステラを食べ損ねた話
(「神社新報」平成11年9月13日)
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 ポルトガル人宣教師フロイスが430年前(平成11年時点)、日本に伝えたのが最初といわれる南蛮菓子の金平糖(こんぺいとう)がいまでは靖国神社の神饌になり、非命にも戦陣に散り、戦禍に斃(たお)れた英霊たちのよき慰めになっている、と前回、ご紹介したら、

「カステラはどうなんだ?」

 と読者から指摘を受けた。春と秋の例大祭などに同社で授与される、桜の枝と白鳩と鳥居があしらわれ、脳裏に浮かんできた。同社の説明では、

「神饌ではなくて、土産物として社頭でお頒けしている」

 とのことだが、今年も終戦記念日には頭が割れそうになるほど蝉時雨がさんざめき、5万人の参拝者で埋め尽くされた境内の片隅で、文明堂が出張販売していた。

 こうなれば、とことん追及するしかない。カステラの元祖といったら、どうしたって長崎丸山遊郭の入り口、思案橋と見返り松がある、粋な「山ノ口」の、店構えも古風な福砂屋だろう。

 というわけで、さっそく長崎に飛んだ。


▢ 貿易と信仰をめぐる駆け引き
▢ キリシタンが破壊した神社仏閣

 長崎はカトリックにとって忘れがたい「殉教の地」である。いま記念館と記念碑が建つJR長崎駅正面の「西坂の丘」で、26人のキリシタンが処刑されたのは、慶長元(1597)年のことである。

 一昨年(平成9年)2月には、長崎県立体育館に教皇特使を迎え、6千人が参列する「殉教400年」のミサが行われた。

 分からないことがいくつかある。

 たとえば、「殉教」のいきさつだが、上智大学中世思想研究所が編集に携わる『キリスト教史5』は次のように説明する。

 日本でのカトリック布教はポルトガルの「布教保護権」(教皇がスペイン・ポルトガル諸侯に与えた。異教世界を植民地化し、支配し、交易するための独占的権限)のもとに進められたのだが、ポルトガルとスペインとの境界線は確定していなかった。

 1494年のトリデシリャス条約で決まった境界線は、日本列島の四国を通過することから、その後、スペインの日本進出の気運が高まった。

 そこで宣教師ヴァリニャーノは従来通り日本宣教がイエズス会に委ねられるのが妥当として上申した結果、1585年のグレゴリウス13世の勅書で、イエズス会にのみ託されることが明確になった。

 ところが、フランシスコ会が進出して、禁教下の日本で公然と活動し、目立った活動を控えていたイエズス会との協調を欠いた。

 さらに文禄5(1596)年、四国に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員の言葉から誤解が生じ、事態を悪化させた。

 秀吉は、宣教師がスペイン国王の手先として日本征服をもくろむと非難し、6人のフランシスコ会士、3人のイエズス会士ほかが長崎で十字架刑に処せられた──というのである。

 これではよく分からないから、もう少し詳しく時代状況を眺めてみる。

 近代の代表的キリスト者(プロテスタント)で、新聞人でもあった徳富蘇峰によれば、九州の大名にとって、重要なのは貿易であった。大名はキリスト教をエサに貿易を釣ろうとし、宣教師は貿易をエサにキリスト教を釣ろうとした。

 駆け引きがもっとも赤裸々に展開された舞台が、平戸である。

 なにしろ種子島に漂着したポルトガル船は、中国で2500両で仕入れた品物を日本で売りさばき、12倍の利益を上げた。それを聞いたポルトガル船が先を争って日本に来航した。やがて天然の良港である平戸が知られるようになる。

 イエズス会の宣教師ヴィレラは

「神社やお寺は天狗だ」

 と笑い、

「改宗すれば珍しいものを進呈しよう」

 と誘った。無知な民衆は欲に任せて改宗し、平戸に教会が建てられた。

 永禄4(1561)年、些細なことでポルトガル船員と平戸の町民とが仲違いし、刃傷沙汰に発展、船長ら14人が殺害された。

 平戸の領主・松浦隆信は貿易の利が失われることを恐れ、キリスト教保護をあらためて表明したが、宣教師トレーは本心でないことを見抜いて、容易には応じなかった。

 そのとき現れたのが松浦氏のライバル、大村の領主・大村純忠である。

 純忠は、教会建設、税金免除などの好条件を示し、領内の横瀬浦にポルトガル船の入港を求めた。トレーが快諾したのはいうまでもない。

 純忠の目的はもちろん貿易で、6万石の小大名はたちまち九州屈指の富裕大名となる。だが、朱に交われば、で永禄6年、重臣26名とともに受洗する。

 その日、兄・有馬義真の出陣の門出に、魔利支天堂の神像の首をはね、神社に放火して、そのあとに十字架を立てて先勝を祈った。戦に勝つと、神社仏閣をことごとく破壊し、祖先の位牌さえ火中に投ずるにいたる。

 宣教師は満足したが、領民は驚愕し、内乱となる。

 この内乱を煽ったのがライバルの松浦氏で、その結果、ふたたび平戸が貿易で潤うことになる。

 隆信は平戸にフロイスを招いたが、隆信の目的があくまで貿易にあることを知るフロイスは、あえて船を港外に停泊させる。隆信はそれまでの冷淡な態度を陳謝するが、フロイスはなお荷揚げを拒む。

 結局、隆信は宣教師の平戸居住、教会建設を承諾し、ようやく貿易の果実を得る。

 しかしその後も隆信の冷淡は変わらなかった。家臣は反抗的で、しばしば宣教師と衝突した。やがて宣教師はポルトガル船を大浦領内に移動させた。隆信は軍艦50隻で追跡し、力尽くで引き戻そうとするが、逆に撃退される。

 宣教師の妨害で平戸は敬遠され、元亀元(1570)年に純忠が長崎を開港するに及んで、長崎が南蛮貿易とキリスト教布教の中心地となる(徳富蘇峰『近世日本国民史』)。


▢ 26人が処刑された理由
▢ きっかけはスペイン船漂着

 天正8(1580)年、大村純忠は長崎・茂木をイエズス会に寄進する。同会は長崎に本部を置き、長崎は軍事力を伴う自治都市となった。住民はすべてキリシタンであった。

 京都外国語大学の松田毅一教授によると、天正10年の本能寺の変のあと、天下人となり、13年に関白となった秀吉は、大阪城でバテレン一行を引見する。

 おりから島津氏が九州の全域を掌握しようとしていた。キリシタン大名の大友は崩壊寸前で、長崎は島津氏が支配していた。大村、有馬は島津の敵ではなかった。島津氏の九州制覇はキリシタンにとって死活の問題でもあった、という。

 大阪城の秀吉のもとに伺候したバテレンたちを、秀吉は歓待し、布教を許可する允許状を2通も与えた。

 翌14年12月、秀吉は九州に軍旗を進める。

 この九州征伐の帰途、秀吉は

「20日以内に国外に退去せよ」

 とバテレン追放を命じる。15年6月19日付の文書には、

「日本は神国であり、邪法をもたらしたのはよくない」

「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」

 などとある。

 九州のキリシタン大名の領内では、領民の多くが事実上、強制的に改宗させられ、神社仏閣のほとんどが破壊されていたのだ。

 天正16年、秀吉は長崎・茂木・浦上のイエズス会領を接収し、直轄地とする。

 26人の処刑のきっかけは、文禄5(1596)年に起きた、スペインの豪華船サン・フェリペ号の四国漂着である。

 このとき1人の船員は、世界地図を示し、奉行にスペインの強大さを誇る。奉行が多くの領土を得た経緯を問うと、船員は、

「バテレンを派遣してキリスト教徒を作り、その後、スペイン軍が攻め込む」

 というような発現をする。

 秀吉はこの直後、積み荷の没収を命じ、2か月後には大阪・京都の宣教師とキリシタンの死刑を命じる。

 26人の処刑後、船の積み荷の返還と処刑囚の遺骸引き取りを求めてきたフィリピン総督への返書に、秀吉はこう書いている。

「往年、バテレンが当国にきて異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので予はそれを禁じた。しかるに貴国より来た僧侶は帰国せず、異国の法を説いてやまぬので誅戮(ちゅうりく)せしめたのである。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲しているという……」

 カトリック布教の危険性を秀吉は確信していたものらしい(松田『南蛮のバテレン』など)


▢ 諏訪神社のキリシタン合祀説
▢ 小説『沈黙』の舞台に鎮まる神社

 長崎・諏訪神社の松本亘史禰宜の10数年にわたる研究によると、その後、意外にも、長崎ではキリスト教はかえって盛んになる。

 開港後に建てられた「岬の教会」は、慶長6(1601)年に改修され、「被昇天のサンタマリア教会」と改称される。東洋一の規模を誇り、日本宣教の中心に位置づけられたという。

 慶長10年、全国の信徒数は75万を数えた。キリスト教隆盛のなかで、慶長14年、長崎の諏訪・森崎・住吉の3祠が破却される。

 徳川幕府は慶長17年、禁教令を発令し、キリシタン弾圧が始まる。慶長19年秋、長崎の諸教会は破壊され、キリシタンは壊滅的打撃を受ける。宣教師が追放され、元和8(1622)年にはキリシタン55人が西坂で処刑される。

 諏訪神社がのちに初代宮司となる青木賢清によって再興するのは、寛永2(1625)年である。

 興味深いのは、森崎神社である。

 諏訪神社は相殿に森崎神社と住吉神社を祀っているが、森崎神社はいま県庁がある森崎の地にかつて祀られていたということ以外は不明の、謎の神社だ。

 純心女子短期大学の越中哲也教授は、森崎の地にあった「被昇天のサンタマリア教会」が破壊され、その跡地に建立された社祠だとする、注目すべき説を12年前(昭和62年)に発表している。

 越中教授は、

①破壊後、祟りを恐れて、同社が建立された

②かつての教会を偲んで、信徒が社祠形式に改めて祀った

③諏訪・住吉の2社が勧請されたとき、すでに教会跡に祀られていた祠を、長崎の氏神と解釈して合祀した

 ──と推測している。

 けれども、異論もある。異論の主はほかならぬ諏訪神社の宮司である。

 長崎岬の突端の森崎は人の住まない森で、開港以前は神社はなかった、と推論する越中教授に対して、上杉千郷宮司は、神社の創建は人家の有無とは無関係だ、と反論するのである。実際に、漁師が信仰する森崎社が渚に鎮まっていたとする記録もあるという(「神道文化」創刊号など)。

 もっとも興味深いのは、上杉宮司の体験談である。

 昭和57年、御鎮座360年の社殿改修で本殿の遷座祭が執行されたとき、御船台に納められた森崎神社の御霊代は諏訪・住吉両社とは異なり、宮司1人では捧持できないほど大きく、重かったというのである。

 もしかしてヨーロッパのキリスト教史と同様、まず森の中の神社があり、それが破却されたあとに教会が建てられたのではないか。その教会が禁教で破壊され、今度はキリシタンが追憶、慰霊、鎮魂の目的で祠を置き、やがて諏訪神社再興のときに相殿に祀られたとも十分に考えられる

 キリシタンの神社は突拍子もないものではない。

 上杉宮司、松本禰宜と訪れた、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台ともいわれる外海町黒崎には、海を望む山中に枯松神社がひっそりと鎮まっていた。

 宣教師ジワンを祀るとされ、殿内には「サン・ジワン神社」と刻まれた石祠がある。周辺には「祈りの岩」と呼ばれる磐座(いわくら)があり、古くからの聖地であることをうかがわせる。

 上杉宮司は

「神仏習合により栄えてきた神社が、切支丹をも内包する懐の大きさ」

 を強調する。キリスト教は自分たちの信仰を唯一絶対と信じて、異教の神々を冒涜し、信仰を踏みにじったが、日本人はキリシタンの信仰を神道形式で400年間、守ってきた。

 森崎神社はその歴史を暗黙裏に語っているのかも知れない。

 さて、忘れてはいけない。肝心のカステラだが、キリシタンの取材に夢中になっているウニとうとう食べ損ね、念願の福砂屋のカステラを手にしたのは、福岡空港の売店であった。

 創業は諏訪神社再興と時を同じくするというだけあって、昔懐かしい手作りの味がした。

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失われた「善きキリスト者」の前提──一変した戦後巡幸の美談 [キリスト教]

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失われた「善きキリスト者」の前提
──一変した戦後巡幸の美談
(「神社新報」平成10年6月8日から)
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 昭和21年6月、昭和天皇は関西御巡幸のおり、キリスト教女子教育で関西においてもっとも古い歴史を持つ学校にお立ち寄りになり、ご昼食を取られた。

 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』によると、陛下が御座所に入られると、立ち去りかねた生徒たちが窓の下から芝生の校庭にかけて佇んでいた。

 陛下はブラインドを開けて、窓の下をご覧になる。生徒たちはそれを認めて、窓を見上げてうれしそうに笑っている。陛下もお笑いになったのか、生徒たちが続々と窓の方に寄ってくる。

 美しい君民の交わりである。

 御出発となり、玄関にかかられたとき、生徒たちは校庭に並び、「祖国」と題する讃美歌を歌った。

「わが大和の国をまもり あらぶる風をしずめ 代々やすらけくおさめ給え わが神」

 清らかな歌声は心を打たずにはおかなかった。陛下はポーチにお立ちになったまま動かれない。校長が敬礼して何度、促しても動かれない。讃美歌は二度、三度と繰り返された。

 そのうち歌声はくもり、生徒たちの頬に涙が伝わり始めた。陛下の御眼にも光るものが浮かんできた。大金氏は、

「この親和、この平和の境地」と記している。

 ところが、20年ばかり前(昭和51年)に刊行されたこの学校の『百年史』では、まるで違う話になっている。

 天皇の車の前後は多くのジープやトラックに分乗して銃を構え、肩を怒らせた米兵が取り囲んでいた。ある学生はこみ上げてくる腹立たしさを感じ、それまでの

「天皇は戦争の責任のゆえに潔く退位すべきだ」

 という持論を放棄した。戦後の天皇巡幸は軍国主義日本の主権者の変身の場であったというのである。

 また、ある大学教授は先導する院長がシルクハットにモーニング姿なのに、天皇はソフトに背広姿だったのが印象的だった。生徒が讃美歌を歌い、天皇も感慨深げであられたというエピソードそのものが、

「あわれ大御代におくれで進み おみなのまさみち たどりていそしまん」

 という天皇礼賛の「学院歌」が歌い続けられている理由を物語っている、と書いている。

「キリスト教主義教育を維持するという名目上、つねに国家権力に妥協することを余儀なくされ、その限りにおいて天皇制に対する態度はいつも曖昧であった」

 というのである。

 この落差はいったい何だろう。御巡幸の美談がそもそもフィクションなのか。

 学校を創設したアメリカ女性が来日した明治初年、日本では禁教令高札が撤去されたばかりであった。

 長崎の「二十六聖人」が「列聖」するのは「殉教」から約300年後の1862(文久2)年で、日本はキリシタン迫害国として西欧では広く知られていた。

 キリスト教が邪教視される「暗黒の国」にはるばる伝道にやってきた勇気と開拓者魂には脱帽せざるを得ない。

 創設者は西洋かぶれを排して「キリスト教魂を持つ日本風の女性」を育てることを教育目標としたといわれ、それだけに生徒たちの皇室尊崇の念が強かったとも伝えられる。

『五十年史』は皇室との関わりについて、大正11年に皇后陛下(貞明皇后)が九州行幸の途中、職員生徒一同に「菓子料」金200円を下賜され、学校では聖旨を記念して懸賞論文「地久節論文」の基金を設立したことを記している。

 ところが昭和30年に刊行された『八十年史』は、創設者が学園生活を過度にアメリカ風になることを好まず、庶民の水準に合わせたのは卒業生が庶民の世界に飛び込んでいって福音を伝えるための「じつに周到な用意」と説明している。

 大正13年に排日移民法案がアメリカ議会を通過したとき、この学校が抗議の決議案を発表したのには敬意を表する。戦時中、大阪憲兵隊による行き過ぎた宗教干渉を経験したことは同情に値する。

 それにしても、である。

「厳格なる正義の準備なきところにキリストの福音の栄えた例はない……日本においてももっとも善きキリスト者は厳格な武士の家に起こった……純潔なる儒教と公正なる神道とはキリストの福音の善き準備であった」とは内村鑑三の言葉(『全集27』)であるが、キリスト者は敗戦とともに善きキリスト者の前提を忘れてはいないか。

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「二十六聖人殉教」の背景──秀吉が見抜いたキリスト教の“侵略性” [キリスト教]

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「二十六聖人殉教」の背景
──秀吉が見抜いたキリスト教の“侵略性”
(「神社新報」平成10年4月13日号から)
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「愛媛玉串料訴訟」最高裁判決から1年が過ぎた。

 判決文に

「わが国では……国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた」

 というくだりがある。

 驚いたことに、同じような表現が昭和52年の「津地鎮祭訴訟」最高裁判決にもある。「国家神道」が宗教迫害の元凶だとする論が“判例”となっているのだ。

「厳しい迫害」で思い出されるのは、キリシタンの受難である。

 おりしも昨年(平成9年)2月、長崎では「二十六聖人殉教400年祭」が行われたが、なぜ26人は「殉教」し、「列聖」したのだろうか?

「カトリック新聞」を読み返してみたが、「殉教」の理由は連載「26聖人長崎への道」に「認識のズレ」とあるばかりである。はたして「ズレ」程度のことなのだろうか?

 慶応大学の高瀬弘一郎先生(キリシタン史)によると、こうだ。

 大航海時代、カトリックの布教はポルトガル・スペイン両国王室の後援によって推進された。海外布教は国王の信仰に発するものではなくて、教会法に基づいていた。ローマ教皇は両国諸侯に「布教保護権」を与え、未知の世界に航海して武力で異教世界を奪い取り、植民地としてこれを支配し、交易などをする独占的な権限を与えた。

 こうして両国の海外進出はカトリック世界の拡大をもたらし、地球は両国によって2分割される。

 天文18(1549)年のザビエルの来日以来、日本はイエズス会の宣教によってポルトガルの「布教保護権」がおよぶ。1575年設定の「マカオ司教区」には日本が含まれていることが、グレゴリウス13世大勅書に明記されている。このとき日本教会の保護者はポルトガル国王であり、日本は潜在的なポルトガル領と法的に定まった(高瀬『キリシタンの世紀』など)。

 日本は知らぬ間にポルトガルの領土にされていたのである。

 キリシタン大名の大友、有馬、大村、高山氏の領地では、領民の多くが領主から事実上、強制的に改宗させられ、社寺が破壊された。バテレンにとっては、たとい強制的であっても、キリスト教への改宗は神の御旨にかなうことであったが、当然ながら秀吉には「邪教」と映った。

 九州征伐の帰途、天正15(1587)年に、秀吉はバテレン追放を命じる。禁教令には

「日本は神国なり、邪法をもたらしたのはよくない」

「神社仏閣を破壊したのは前代未聞」

 さらに

「日本人を明、朝鮮、南蛮に売り渡すことを禁止する」

 とも記されている。

「カトリック新聞」によると、8年後の文禄5(1595)年、スペインの豪華船サン・フェリペ号が暴風のため、土佐の浦土沖合に漂着した。スペインは日本と国交はなかったが、フランシスコ会のバウチスタ神父を「大使」として置いていることから、乗組員と積み荷は安全が保証されるものと考えていた。

 一方の秀吉は、同国との通商の保障として「人質」となって留まることを申し出ている同神父を日本にとどめて置いた。ところが、そのうち乗組員から

「領土を得るのに宗教は役立つ」

 という「不用意な発言」が飛び出す。報告を受けた秀吉は激怒した。

「カトリック新聞」の連載はここに「認識のズレ」があるというのだが、はたしてそうだろうか?

 フロイス「日本史」全12巻の共訳者として知られる京都外国語大学の松田毅一先生によると、難破船の積み荷と殉教者の遺骸の引き取りを要求してきたフィリピン総督に対する返書に、秀吉はこう書いている。

「バテレンが異国の宗教を説き、国風を乱し、国政を害したので、予はそれを禁じた。しかるに僧侶たちは帰国せず、異国の法を説いてやまぬので、誅戮せしめた。聞くところによれば、貴国は布教をもって謀略的に外国を征服しようと欲している……」(松田『豊臣秀吉と南蛮人』など)

 天下を統一し、朝鮮征伐どころか明への遠征までも考えていた秀吉であればこそ、キリスト教の“侵略性”に敏感であり得たのではないか?

「迫害」には「認識のズレ」どころではない、それ相当の理由があった。

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キリスト者にとっての慰霊──内心に潜む神道信仰 [キリスト教]

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キリスト者にとっての慰霊
──内心に潜む神道信仰
(「神社新報」平成10年3月9日から)
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「愛媛玉串料訴訟」の最高裁判決から、まもなく1年になる。

 どうにも理解しがたいのは、

「元来、わが国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきている」から「政教分離規定を設ける必要が大であった」とする判決理由である。

「一元的」「単層的」な宗教など、世界のどこにあるだろうか?

 たとえばキリスト教はどうだろう?

「ヤスクニ闘争」を指導してきたキリスト者はこう語る。

「どこの教団にも戦没者を慰霊する宗教施設はあるんです」

 靖国神社だけが特別扱いされるべきではない、という論理である。

 少数者の信仰を保護すべきだ、とする意見に異論はない。しかし、本来、キリスト教の教義は慰霊鎮魂とは無関係のはずである。

 キリスト教会の戦没者慰霊施設とは、いったい何だろう? ましてキリスト教徒ではない、絶対多数の戦没者の慰霊と、キリスト教信仰とはどう結びつくのであろうか?

 聖書によれば、亡父の葬儀に出席しようとした弟子に、イエスは、

「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と語っている(マタイ伝8章22節)。

 信仰を持たない者は「死人」同然だと語っているのである。つまり、非キリスト者の戦没者をキリスト者が慰霊することは何の意味もないことになる。

 また、現代日本の代表的キリスト者である渡部昇一氏の『アングロサクソンと日本人』には、次のような逸話が載っている。

 のちに聖ボニファチウスと呼ばれるイギリス人宣教師が8世紀初頭、いまのオランダ周辺でキリスト教を布教した。教えに共鳴し、受洗したラードボードという酋長がこう尋ねた。

「われわれは死んだら天国に行くが、入信せずに死んだ親はどうなるのか?」

 宣教師が答える。

「洗礼を受けなければ天国には行けません」

 酋長は憤然として、

「乞食坊主の話を聞いて損をした。地獄だろうと何だろうと、俺は先祖のいるところへ行く」

 と語り、宣教師を追放する。

 たとえ故人が受洗者だったとしても、年祭に当たる「記念会」は故人の神の恵みを讃え、神の栄光を仰ぐことが目的であり、故人を礼拝することではない。だから、霊璽や遺影を拝することは禁じられる。

 ましてキリスト者が異教徒の死者を慰霊することは、唯一絶対神への信仰とはまったく異なるといわねばならない。

 とすれば、キリスト者にとっての慰霊行為とは何だろう?

 おそらく日本のキリスト者の深層に潜む、伝統的な宗教的感情が作用し、慰霊行為を行わしめているのではないか?

 日本の宗教伝統である神道がいかにも原始的で幼稚な宗教であるかのように語るキリスト者もいるが、日本人であるかぎり、古来の祖先崇拝を引き継いでいることは十分に推測される。

 たとえば、毎日新聞の対談「宗教に聞く」で、カトリック信徒で、作家の田中澄江氏が、カトリック大司教の白柳誠一師に語っている。

田中「私は山が好きですが、山が神だから拝むという気も全然ありません」

白柳「キリスト教の世界観では自然を賛美しても、それを神としてあがめるのは(しません)」

田中「こんなにも美しい山を神様は人間のためにつくられた、その神様に対して『ありがとうございます』と。……神を感じ、感謝するのです」

 もとよりキリスト教と神道は神概念が異なるが、田中氏は間違いなく、自然の神霊に魂を揺り動かされている。ただ、神霊の存在を拒絶している。というより、一神教の厳格さから、認めたくても認められないということではないのか。自然な宗教感情が、知性によって抑えられているのだろう。

 カトリックではいま2000年の「大聖年」を前にして各種行事が目白押しらしい。露払いとなったのは、昨年(平成9年)2月の「二十六聖人殉教400年祭」である。

 殉教の地・長崎で教皇特使を迎え、6000人が参列して催された「荘厳ミサ」では、床に巨大な十字架が浮き彫りにされ、「二十六聖人」を象徴する26本のロウソクが壇上に掲げられた。

 紛うことなきキリスト教儀礼だが、木の十字架やロウソクの灯はキリスト教以前の古代ヨーロッパの自然崇拝に淵源するといわれる。

 キリスト教はゲルマンやケルトの宗教を否定し、浸透していったが、自然崇拝と祖先崇拝を引き継いでいることは間違いない。

 そして翻って、日本のキリスト者が木の十字架やロウソクの光に法悦の涙を流すとすれば、それは彼らのなかに、間違いなく、日本古来の神道信仰が息づいていることの証明ではないか?

 宗教の多元性、重層性は日本の宗教だけではない。欧米のキリスト教も同じである。

 一神教と多神教との「積極的共存」が望まれる今日、日本のキリスト者は、日本の宗教伝統をかたくなに拒否するのではなく、むしろ内心の声に静かに耳を傾けるべきではないだろうか?

 とりわけ、国に一命を捧げた戦没者の真の慰霊のために……。

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「愛の宗教」キリスト教の「野蛮」──たった70年で絶滅させられたタスマニア人 [キリスト教]

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「愛の宗教」キリスト教の「野蛮」
──たった70年で絶滅させられたタスマニア人
(「神社新報」平成9年3月10日号から)
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「南京虐殺」「従軍慰安婦」など、「遅れてきた植民地主義国家」日本が戦前・戦中期に犯した「蛮行」が、とりわけ隣国からの非難の対象にされて久しい。

 歴史的事実の精査こそがまず必要だが、同時に、過去を暴き、批判と謝罪を繰り返すことで、アジアの友人同士、信頼と友情を回復することができるのかどうか、よくよく考える必要がある。

 古今東西、「文明人」の「野蛮」が露呈するのが戦争であり、日本軍が特別、残忍だったなどということはあろうはずがない。そのことは「愛の宗教」キリスト教によって、たった70年で絶滅させられたオーストラリア・タスマニア島のアボリジニの悲史が証明している。

 1668年、スペイン・イエズス会(カトリック)の宣教団が護衛の軍隊を率いて、グアム島に上陸、ヨーロッパ・キリスト教徒のオセアニア植民が始まった。

 1788年、イギリス人のオーストラリア入植が始まる。イギリス・ロンドン伝道協会(プロテスタント。イギリス国教会)の伝道船がタヒチに到着したのは97年。イエズス会への対抗意識は十分だったようだ。

 狩猟採集の平和な生活を送るオーストラリア先住民アボリジニにとって、入植は「ペリー来航」の衝撃どころではなかったろう。167トンの「巨艦」に乗った新しい神は呪術師が治せない病気をたちどころに癒し、目を奪う豪華な家財道具や近代兵器を山ほど抱えていた。

 タスマニア島に囚人と兵士の入植が始まったのは1803年である。イギリスはハノーヴァー朝ジョージ3世(1738─1820。グレートブリテン王としての在位1760─1820。連合王国国王としての在位1801─1820)の時代であった。イギリスにとって、タスマニア島は征服地ではなく、発見と植民によって獲得された国王陛下の新しい領土なのだった。

「愛の宗教」は必ずしも愛に溢れてはいなかった。アボリジニは二束三文で土地を奪われ、抵抗すれば、報復の殺戮が待ち構えていた。侵略者が持ち込んだ疫病と飢えと殺戮の前に、逃げ場はなかった。

 食糧を得るために差し出された女性たちは、男ばかりの流刑囚や植民者の性欲のはけ口にされた。子供たちは、ときには誘拐され、労働力に使われたという。イギリス人はアボリジニを「オランウータンに近い何か」と考えていたらしい。

 空しい抵抗の末に、数千人いたはずのタスマニア人は1830年の「原住民掃討作戦」で300人に激減、その後、強制収容所に送られて、民族文化を完全に奪われた。76年、最後の女性トゥルガニニの死亡で、純血のタスマニア人は地上から消えた。

 彼女は故郷の森に埋葬されることを望んだが、イギリス人は認めなかった。

「タスマニア人は人間と猿との間の失われた鎖を提供する」

 と考える科学者は遺骨を入手し、第2次大戦後まで博物館に陳列した。

 アボリジニの要求でようやく火葬され、埋葬されたのは死後約100年の1974年という。

 88年、「建国200年」に沸くオーストラリア・ブリスベンで、万国博覧会が開かれた。200年記念式典で人々の注目を引いたのは、先住民アボリジニの代表がガラス玉やビーズ細工をエリザベス女王に返還する儀式だったという。

 200年前、入植者は子供だましのようなガラス玉と引き替えに広大な土地を奪った。同じガラス玉と引き替えに父祖の地を返してほしいという意思表示である。

 イギリス国教会の首長でもある女王陛下は儀式にどのような思いで臨まれたのだろうか。奪われた土地はもう返ってはこない。絶滅したタスマニア人は蘇りはしない。西洋文明が絶対の善であるはずもなく、正義はひとつではない。

 キリスト教徒たちの蛮行は、第2次世界大戦でも繰り返された。

「翼よ、あれがパリの灯だ」

 の名台詞で知られるアメリカ人飛行家チャールズ・リンドバーグは、大戦中、南太平洋戦線を視察し、アメリカ軍が捕虜をとらないという方針のもとに、日本兵の降服を受け入れず、最後の1兵士に至るまで殲滅させたことを告発した。

 リンドバーグは、「救世主」イエスの言葉を引用しながら、『大戦日記』の末尾をこう結んでいる。

「『汝ら人を裁くな、裁かれざらんためなり』。この戦争はドイツ人や日本人ばかりではない、あらゆる諸国民に恥辱と荒廃とをもたらしたのだ」

 相手の過去を裁くのではなく、批判と謝罪を繰り返すのではなく、次代のために互いに何ができるかをともに考えるべきではないだろうか。

 そのために必要なのは、正義はただひとつであり、正義は我にある、という一神教的な世界観を克服することである。たとえ敵対する者にさえ、正義はあることが、認められなければならない。

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