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「光格天皇実録」に記録された「御譲位」「改元」──「待ったなし」となった次の御代替わりだが…… [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年7月30日)からの転載です


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「光格天皇実録」に記録された「御譲位」「改元」
──「待ったなし」となった次の御代替わりだが……
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 報道によれば、政府は、「退位と改元の期日」を「9月」に決定・公表する方向で検討に入ったようです。

 時事通信が伝えたところでは、来年暮れに「退位」「新天皇即位」、翌年元日に「改元」というスケジュールが有力とされていて、他方、宮内庁内には、再来年3月末に「退位・新天皇即位」、4月1日に「改元」という案もあるそうです。

 いずれにしても、いよいよ御代替わりが現実となってきました。

 記事が指摘するように、「退位の儀式」をどのように行うかが検討課題とされています。他紙の報道では、「退位と改元」の期日が正式決定したのち、政府内に「皇位継承」儀式の形式および法的位置づけについて検討する委員会が設置されると伝えられています。

 今上陛下から皇太子殿下に皇位が継承されれば、皇位の御印である剣璽が渡御(とぎょ)になりますが、当メルマガ2011年9月25日号に書きましたように、前回の御代替わりでは、「践祚(せんそ)」という伝統用語が使われなくなり、平安以来の「践祚」と「即位」との区別が失われ、さらに「剣璽渡御の儀」は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称されたうえ、即位後朝見の儀では伴われるべき剣璽御動座がありませんでした。

 この背景には、やれ国民主権だ、やれ政教分離だ、やれ国家神道だ、という不毛な議論があります。今回も同様の議論が政府内で再燃しているのでしょうか。そのことが国事たるべき御代替わりにモヤモヤ感をもたらしている最大の要因かと思われます。


▽1 仙洞御所から大がかりな剣璽渡御

画像は光格天皇の「桜町殿行幸図」(部分。国立公文書館デジタルアーカイブから)
桜町殿行幸図.png

 ちなみに、歴史上、最後の譲位をなさった江戸後期の光格天皇の場合はどうだったのでしょうか。『光格天皇実録』『仁孝天皇実録』(宮内省図書寮編修)から、以下、主だった綱文を抜き出してみます。

 抜粋に当たっては、『光格天皇実録』からの引用を「 」内に記し、[ ]内に『仁孝天皇実録』からの引用および私のコメントを載せます。『実録』の綱文は原文では漢字片仮名交じりですが、適宜、編集してあります。


「文化14年正月18日、この日、御譲位御受禅の御祝儀として、関東に賜物あり。」
[→『光格天皇実録』に引用される「山科忠言卿伝奏記」など、当時の一次資料では、「退位」ではなく、まして「生前退位」ではなくて、「御譲位」「御受禅」と表現されています]
「2月14日、来月22日卯刻に御譲位の儀、御治定あり。」
「3月11日、御譲位後の御幸始御祝儀のことを仰せ出さる。」
「13日、稲荷、梅宮両社において御譲位、御受禅行幸の御祈祷を修せしむ。」
「19日、御譲位行幸御受禅剣璽渡御の御内見あり。」
[→光格天皇から仁孝天皇への「御譲位」の儀式は剣璽渡御を伴っていました]
「21日、警固・固関(こげん)の儀あり。」
[→当メルマガ本年5月6日号に書きましたように、一条兼良『代始和抄』の「御譲位の事」の項には、「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり。御譲国は天子の重事、世の変わり目たるによって、非常を戒めんために、警固、固関といふことをまづ最前におこなはるるなり」とあります]
「22日、桜町殿に行幸あらせられ、皇太子恵仁親王に譲位あらせらる。」
[22日、清涼殿において受禅あらせらる。これより先、光格天皇、桜町殿に行幸あらせられ、同殿より剣璽渡御の儀あり。この日、詔して、一条忠良をして、旧のごとく万機を関白せしむ。]
[→「桜町殿」は太上天皇の御所たる仙洞御所で、もともと徳川幕府が後水尾天皇のために造営したものでした。譲位の儀式の前に光格天皇は仙洞御所に行幸になり、仙洞御所から清涼殿へ剣璽が渡御されたのは注目されます。「日次案(ひなみあん)」には、大がかりな行幸の様子が詳細に記録されています。
 平成の御譲位ではどんな儀式になるのでしょう。上皇のお住まいを京都にという提案がありますが、もし京都から数百人の行列を組んで剣璽渡御が行われたらすごいことです]
「23日、布衣始の儀あり。」
「24日、太上天皇の尊号を受けさせらる。この日、吉書御覧あり。」
[24日、先帝に太上天皇の尊号を上らる。→尊厳宣下は「太上天皇」です。「上皇」ではありません。御譲位の2日後という点も注目されます]
「26日、御幸始あらせらる。」
[26日、御父光格上皇の御幸始により、御祝儀を献ぜらる。]
「4月28日、尊号御報書の儀。」
「5月7日、尊号御報書の勅答を受けさせらる。昼御座に出御あらせらる。」
「5月18日、御譲位後の和歌御会始を行はる。出御あらせらる。」
「8月7日、御譲位後の和歌当座御会始を行はる。小御所に出御あらせらる。」
「9月21日、仁孝天皇、即位の礼を行はる。よって禁裏に御幸あらせらる。」
[21日、紫宸殿において即位の礼を行はせらる。→3月の御譲位から半年後でした]
[文化14年11月16日、新嘗祭を行はる。出御あらせられず。→新帝の親祭はなかったということのようです。『光格天皇実録』にも記載がありませんから、同様にお出ましはなかったようです。即位の礼が行われても、まだ改元は行われていません]
[17日、豊明節会を行はる。出御あらせられず。→新帝のお出ましはありませんでした]
文化15年正月1日、四方拝、出御あらせらる。[→四方拝に太上天皇がお出ましになっているのは注目されます]
「4月22日、改元定院奏あり、弘御所に出御あらせらる。」
[→改元について上皇に奏聞が行われたようです。前年3月の御譲位から1年以上が過ぎています。
 今日の元号法(昭和54年)は「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」と規定するだけです。したがって厳密にいえば、皇位継承の期日と改元の期日の関係については何も定めていません。譲位の日と改元の日をずらすことも可能のように見えます。国民生活の混乱を避けたいのなら、践祚から一定の準備期間を置いて改元したらどうでしょう]
[文政元年11月17日、大嘗会御習礼あり。光格上皇、これに御幸あらせらる。→習礼とは予行練習です]
「文政元年11月21日、大嘗祭なり。よって禁裏に御幸あらせられ、悠紀殿に渡御あらせらる。」
[21日、大嘗祭を行はる。この日、光格上皇、内々、これに御幸あらせらる。→先帝が内々に、悠紀殿の儀にお出ましになったということでしょうか。即位の礼は前年9月、大嘗祭はその翌年の秋でした。明治42年の登極令で、「大嘗祭は即位の礼を訖(おわ)りたるのち、続いてこれを行ふ」とされたのです。前回の御代替わりでは10日後でした]


▽2 予算編成上、ギリギリのスケジュール

 さて、来年末もしくは来年度末に予定される「退位と改元」について、この9月に「期日」を決定・公表するのは、伝えられるように、「来夏の公表」を「前倒しした」というより、予算編成上、ギリギリの選択だということではないでしょうか。

 来年度に御代替わりが実施されるのなら、「国の行事」とするか否か、宮廷費とするか否かはともかく、30年度予算の概算要求は来月8月末まで、政府予算案は年末までに閣議決定されますから、「9月」ではむしろ遅いはずです。

 言い換えれば、御譲位の儀式をどのような形式で行い、どのように法的に位置づけるか、したがって「国の行事」とするか、皇室行事とするか、宮廷費か内廷費か、は「期日の正式決定のあと」ではなくて、その前に、政府部内で決定してしまうということでしょうか。

 御代替わり諸儀礼を「国の行事」にすべきだと考える立場からすれば、文字通り、待ったなしの状況といえます。どうか皆様、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンにご協力ください。同憂の士のご協力を切にお願いします。
https://www.change.org/p/政府-宮内庁-御代替わり諸儀礼を-国の行事-に 〉
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前侍従長の古巣・外務省が抵抗?──御公務をなぜ「分担」しなければならないのか? 5 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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前侍従長の古巣・外務省が抵抗?
──御公務をなぜ「分担」しなければならないのか? 5
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 私は運動家ではありませんが、日本の現状と行く末を心から憂い、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第3章 伝統を拒絶する官僚たちの暴走

第2節 御公務をなぜ「分担」しなければならないのか?──典範改正、制度改革は必要か?


▽5 前侍従長の古巣・外務省が抵抗?
koukyo01.gif
 具体的に見ると、軽減策が打ち出される前の19年と23年とで、方法も変わっていないことが分かります。親任外国大使のお茶や外国大使の午餐、赴任日本大使の拝謁や帰朝日本大使のお茶も、だいたい5カ国までをひとまとめにして行われていますが、軽減策がまったく採られていないように見えます。

 このため23年には、たとえば新任外国大使の「お茶」では12月12日、16日、20日と9日間に3件、行われ、外国に赴任する日本大使の「拝謁」は4月4日の次は4月7日、9月6日の次は翌日7日、9月13日の次は15日、21日の次は22日、という具合に3日と上げずに日程が組まれ、帰朝大使の「お茶」は1月17日には2回、行われているほどです。

 国連加盟国の数が1945年設立当初の51カ国から現在は約200カ国にまで増えていますから、外国大使の信任状捧呈式や「ご引見」の件数はそれだけ増えることになります。「お茶」や「午餐」を5カ国ではなくて、仮に10カ国いっしょにすれば、件数はそれだけ減るだろうし、さらに月ごとにまとめれば陛下のご負担は格段に軽減することができるでしょうが、無理なのでしょうか?

 もっとも注視すべきは、離任大使の「ご引見」です。1カ国ごとに行われるために、23年7月には次のように日程がたて込みました。

23年7月 6日 離任ハンガリー大使
7日 離任エジプト大使夫妻
11日 離任リトアニア大使夫妻
13日 離任メキシコ大使夫妻
14日 離任デンマーク大使夫妻
同日 離任オーストラリア大使
15日 離任キルギス大使夫妻
19日 離任スウェーデン大使夫妻
20日 離任ローマ法王庁大使
25日 離任コスタリカ大使夫妻

 新任外国大使の信任状捧呈式でさえ、まとめて行われています。月ごととはいわなくても、週ごとにまとめられないのでしょうか。陛下の御負担増は、何のことはない、外務省の自作自演のようにさえ見えます。

 御負担軽減をたびたび進言し、「女性宮家」創設を数年前から提唱してきた渡邉前侍従長(いまは元職)は、外務省出身で、儀典長を経験し、その後、宮内庁式部官長に転身した、いわば「公的行事のプロ」です。皇室典範改正、皇室制度改革に踏み出す前に率先垂範すべき余地がありませんか?

 渡邉前侍従長は、自著『天皇家の執事』の後書きで、概要、こう述べています。

「平成10年の天皇誕生日の記者会見で明言されたように、陛下は御公務を減らすつもりはまったくないという考えで一貫してきた。したがって、21年1月の御公務・祭祀の調整・見直しをお許しになったことは感慨無量だったが、御公務そのものを削減することはなく、まだまだお忙しいことにまったく変わりはない」

 難解な表現ですが、「御公務を削減するつもりがまったくない」のは、陛下ご自身だと主張したいのでしょうか?

 考えてもみてください。陛下の御公務を御結婚後の女性皇族に御分担いただくとして、海外の賓客や大使の接遇などを本気でお願いするつもりでしょうか?


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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