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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない ──平成の御代替わり「2つの不都合」 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない
──平成の御代替わり「2つの不都合」 6
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 即位の礼と大嘗祭の日程について、続けます。

 平成の御代替わりでは、平成2年11月12日に即位礼正殿の儀が行われ、その10日後、22日から23日にかけて、大嘗祭が挙行されました。

 昭和の御代替わりもそうでした。昭和3年11月10日に即位の大礼が行われ、その4日後、14日夕刻から大嘗祭が行われました(『昭和大礼要録』昭和6年)。

 なぜ「10日後」あるいは「4日後」なのでしょうか。

「昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです」

 昭和から平成の御代替わりに携わった永田忠興元掌典補が問題点を指摘するのは道理です。

 即位の礼・大嘗祭の「期日」に関する赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)の解説を読んでみます。

「つつしみて按ずるに、大礼を行はるる期日は、宮内大臣・国務大臣の連署をもって中外に公告し、かつ同時に賢所、皇霊殿、神殿ならびに神宮、神武天皇等の山陵にこれを告げたてまつらるるなり。
 さて、このたびの大礼の期日は、いまだ公告なければ、いづれの日に行はるるやを知らず、民間に伝ふるところにては11月23日、例年新嘗祭の日に大嘗祭を行はれ、その数日後前に即位の礼を行はるべしとも、また11月3日、今上天皇立太子の日に即位の礼を行はれ、13日の卯の日に大嘗祭を行はるべし、などとも伝ふ。
 そのいづれの日に決せらるるやを知らねど、記して参考に備ふ」

 赤堀は本文にはそう書いていますが、実際に本が刊行される段階では期日は定まっていました。巻頭に期日が定まったことを知らせる官報号外が引用されています。

 じつは赤堀の『御即位及大嘗祭』は少なくとも大正3年版と翌年の再版とがあるようで、前者には大正3年1月17日官報号外が次のように引用されています。(原文は漢字片仮名交じり。以下同じ)

 即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
即位の礼 大正3年11月10日
大嘗祭  同  年同 月13日
 大正3年1月17日  国務各大臣宮内大臣連署

 しかし実際にはこの期日には行われませんでした。すでに申し上げましたように、昭憲皇太后が3年3月に崩御され、大正の即位礼・大嘗祭が延期されたからです。

 4年5月に再販された赤堀の本には、あらためて定められた期日を告知する大正4年4月19日官報(号外)が引用されています。

即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
  即位の礼 大正4年11月10日
  大嘗祭  同  年同 月14日
 大正4年4月19日 内閣各大臣連署

 大正天皇の大嘗祭は即位の礼の、じつに4日後でした。なぜ相次いで執り行う必要があったのでしょうか。

 かつてはどうだったのでしょう。赤堀の解説を読んでみましょう。

「古例、即位の礼を行はるる日は、定まれることなし。ただし、中古以来は、陰陽道の説をこれらのことに採用せられたれば、陰陽頭に命じて、これを勘(かんが)へ申さしめらるる例なり。
 寛永7年中御門天皇、即位の礼を行はれしときには、陰陽頭安倍泰連、その年の『11月11日巳の時』をもって大礼を行はるるに宜しき吉日、吉時と選定して上申し、これを採用ありし類いなり」

 大嘗祭はどうでしょうか。

「大嘗祭を行はれし日、往古のことは詳らかならず。
 中古以来、11月下の卯の日を例とす。もし11月中に3か度、卯の日あれば、中の卯の日を用ひられし例なり。新嘗祭も卯の日に行はれたり。卯の日と定められし理由はこれを知らず」

 明治の皇室典範は第11条に

「即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ」

 と定め、登極令の第4条は

「即位の礼および大嘗祭は秋冬の間において、これを行ふ。大嘗祭は即位の礼を訖(おは)りたるのち、続いてこれを行ふ」

 と規定していました。これには今日とは異なる、交通機関の未発達が背景にあるものと想像されます。明治末年なら新橋・神戸間が13時間かかりました。即位の礼・大嘗祭を引き続いて執り行わざるを得ない事情があったということでしょう。

 しかし京都で挙行するという規定もない今日では、もっと時間的余裕をもって挙行してよろしいのではないでしょうか。

タグ:御代替わり
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戦後も続いてきた祭祀の伝統 ──なぜ有識者に意見を求めるのか? 1 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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戦後も続いてきた祭祀の伝統
──なぜ有識者に意見を求めるのか? 1
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 私は運動家ではありませんが、やむにやまれぬ思いから、組織も資金もないなか、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。現状では悪しき先例がそのまま踏襲されるに違いありません。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を心から求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第3章 伝統を拒絶する官僚たちの暴走

第1節 なぜ有識者に意見を求めるのか?──依命通牒の「破棄」


▽1 戦後も続いてきた祭祀の伝統
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 政府はなぜ、皇室の制度に関することについて、有識者ヒアリングを実施し、意見を求めるという手法を採ったのでしょうか?

 皇室の制度に関連して、政府が有識者に参考意見を求め、ものごとを決めた最初のケースは、私の知るところ、昭和天皇の崩御のあと、御代替わりの諸行事について、だったかと思います。政府の準備委員会で、15人の参考人が意見を述べています。

 すでに述べたように、当時のキーパーソンの1人である石原信雄内閣官房副長官によれば、当時の最大の懸案事項は大嘗祭で、「行うか行わないかが大問題になった」(『官邸2668日─政策決定の舞台裏』平成7年)のでした。

 そこで石原氏は、海部総理や森山眞弓官房長官とも相談し、賛成・反対の、各方面の意見を聞くことにしました。意見は十分に言ってもらい、

「最後は政府の責任でやらせてもらう」

 という姿勢で、議論を収めたのでした。

 それなら、なぜ「各方面の意見を聞く」ことになったのでしょうか?

 それは、政府関係者は説明していませんが、125代にわたって皇室に伝わってきた、御代替わりの諸儀礼の伝統を重んずべき法的基準が、昭和の時代に、昭和天皇の側近たちの一方的判断によって、失われていたからでしょう。

 皇室に関する諸制度が大きく変わった歴史的転換点は、70年前の敗戦・占領であると一般には考えられています。GHQによって皇室制度が一変させられたという理解です。

 たしかに憲法は変わり、皇室典範も変わり、皇室令は廃止されましたが、占領軍によって皇室の伝統すべてが一変させられたというわけではありません。

 というのは、昭和22年5月3日の新憲法施行とともに、宮内府長官官房文書課長高尾亮一名による各部局長官宛の依命通牒(皇室令及び付属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒)が発せられ、これによって、

「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)

 とされ、宮中祭祀など皇室の歴史と伝統が、辛うじてではあるにしても、新憲法施行後の占領下でもずっと生きていたからです。

 22年5月3日に現行皇室典範が日本国憲法とともに施行され、その前日に皇室令は廃止されましたが、皇室の伝統はほとんどそのまま維持されたのです。

 このときの依命通牒の起案書が残されています。

 起案書は、赤線に縁取られた、宮内府のさらに前身である宮内省の事務用箋、B4判、3枚に、毛筆でしたためられています。もちろん縦書きです。

 1枚目の欄外には「文議第二号」とあり、同じく欄外に「御覧済」の朱印が押され、付箋でしょうか、「御覧モノ」と墨字で書いた紙が付されているようです。昭和天皇が起案書を御覧になったということでしょう。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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