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大学のテストなら65点のトンデモ天皇論!?──宮中祭祀は年間18回? 法的な裏付けはない? [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年12月18日)からの転載です

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大学のテストなら65点のトンデモ天皇論!?
──宮中祭祀は年間18回? 法的な裏付けはない?
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 プレジデント・オンラインに先日、「天皇さえ実物を見られない『三種の神器』」という記事が載りました。

 経済誌の「プレジデント」が分野の違う宮中祭祀について取り上げていることに、編集者の意欲を感じ、心からの敬意をもって読み進み、その結果、私は逆に腰を抜かしそうになりました。デタラメと言えば言い過ぎでしょうが、内容がかなり不正確だったからです。

 筆者は、何度かお会いしたこともある島田裕巳先生でした。先生は宗教学者でしょうから、神道の歴史や皇室(先生の用語では天皇家)の祭祀について詳しくはないのかも知れませんが、それにしてもひどすぎませんか。

 お書きになるのは自由ですが、テーマは私たちの文明の根幹に関わる、奥深い世界なのですから、入念に調べたうえで取りかかるべきではないでしょうか。そのことは編集者にもいえます。結果として筆者に恥をかかせるような企画は進めるべきではないでしょう。


▽1 皇室に流れる仏教信仰
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 島田先生の記事は『天皇は今でも仏教徒である』(サンガ新書)という著書の「第1章 近代が大きく変えた天皇の信仰」からの抜粋だそうです。仏教系書店のシリーズだそうですから、いかにもそれらしい結論、それらしいタイトルになっています。

 しかし、皇室に仏教的信仰がいまも流れているとしても、島田先生が仰せの根拠とは違うように私は思います。

 たとえば、明治になって門跡制度が廃止されてもなお、伏見宮邦家親王の三姉妹は復飾を拒否し、なかでも誓圓尼は廃仏毀釈の嵐から善光寺を守り抜いた中興の祖とされています。昭憲皇太后は明治天皇崩御ののち、自我偈を写経され、納経されたそうです。

 いわゆる国家神道の時代とされる戦中期でさえ、真言宗総本山の東寺(京都)では国家的な仏事であり、最高の秘儀とされる後七日御修法が行われていました。

 戦後、昭和27年は日蓮宗開宗700年でした。最澄寺と久遠寺で特別の法要が行われるのに際して、昭和天皇は金一封を賜り、勅使を差遣されました。

 41年に御寺(泉涌寺)を護る会が設立されたとき、総裁となったのは三笠宮親王(いまは秋篠宮親王)でした。貞明皇后、秩父宮親王の柩には南無妙法蓮華経の半紙が納められたと聞き及びます。

 昭和天皇には仏教を詠み込まれた最晩年の御製が残されています。

夏たけて堀のはちすの花みつつ 仏のをしへおもふ朝かな

 こうしてみると、皇室には古代から現代まで仏教の信仰が脈々と続いていることは、誰の目にも明らかです。しかしその信仰は島田先生のいう「信仰」とはけっして同じではないように思われます。


▽2 天皇第一のお務めは神事

 先生が記事に書かれている「信仰」「祭祀」「宗教」という概念は学問的に未整理なだけでなく、皇室の信仰、あるいは天皇と民による日本ならではの宗教的空間を解説するには不十分であるように思われます。

 先生は、一般に、と前置きしつつ、天皇あるいは皇室の「信仰」が「神道」であると考えられているとし、この通説を否定することで天皇=「仏教」徒説を説明しようと意図し、「祭祀」の解説を試みているわけです。

 先生の宗教学では、「神道」「仏教」はそれぞれに独立した「宗教」であり、「信仰」上、両立することはないとお考えなのでしょうが、皇室ではけっしてそうではないのです。なぜそうなのか、をこそ、先生には宗教学者として探求していただけないものでしょうか。

 日本書紀を見れば、日本の天皇は、仏教公伝以前から皇祖神のみならず天地社稷を祀ってこられたことが分かります。皇室が神道という宗教を信じたというより、天皇は信仰を異にする各氏族による多神教的、多宗教的な宗教的共存を図るため、諸神を祀る祭り主として機能していたということでしょう。

 推古天皇の時代に仏教が国家的に受容されるようになったのちも、それは変わりませんでした。聖武天皇以来、歴代天皇が仏教に帰依されるようになったのちも、同様です。王朝ごとに国家の宗教が何度も移り変わる古代中国や朝鮮とは違うのです。むろん絶対神信仰に基づくキリスト教社会とも異なります。

 養老律令には「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と記され、宇多天皇のときに四方拝は定着し、毎朝御拝が始まったとされます。宗教的共存の中心に天皇の祭祀が位置しています。

 順徳天皇は「禁秘抄」に「およそ禁中の作法は神事を先にし」と記し、天皇第一のお務めは敬神、崇祖、神祭りであると明言され、歴代天皇はこれを守ってこられました。

 天皇の「信仰」は神道か、それとも仏教か、どちらかでなければならないという考えが皇室においては無意味なのではありませんか。島田先生はどうお考えですか?

 天皇の祭祀は、四方拝のように道教的要素を含むものもありますから、神道だと言い切るには無理があるでしょう。神道的ではあるにしても、神道という1つの信仰体系のみとはいえないでしょう。自然発生的な神道を1つの信仰体系と捉えるのも、少なからず無理があります。

 皇室では幕末の頃には神仏混淆どころか、陰陽道なども複雑に入り交じった祭儀が行われていたといわれるほどです。なぜそうなるのか、が先生の宗教学の本来的なテーマではないでしょうか。


▽3 日々の祈りが抜けている

 さて、最後に、宮中祭祀について、いくつかの基本的な誤りを指摘させていただきます。

ア、宮中三殿 賢所、皇霊殿、神殿の3つの建物から成立しているという説明は間違いありませんが、新嘗祭が行われる神嘉殿の説明が抜けています。
 皇室第一の重儀とされる祭儀がなぜ三殿では行われないのか、そこが学問的テーマとなるでしょう。

イ、法的裏付け 先生は、戦前は皇室祭祀令によって規定されていたが、戦後、皇室令が廃止され、現在は法的裏付けを失っていると書いておられますが、完全な間違いです。
 日本国憲法施行とともに皇室令が全廃されたのは事実ですが、当メルマガの読者なら周知の通り、このとき宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の条規が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」とされ、これが法的根拠となり、戦後70年、いまに至るまで祭祀は存続しているのです。
 日本は古代から続く法治国家です。法的裏付けのないことが、世界に冠たる官僚機構の中で継続し得ると先生は本気でお考えなのですか。担当した編集者も、そんなことがあり得るのか、よくよく考えていただきたいものです。

ウ、年間の宮中祭祀 先生は元日の四方拝から大晦日の節折、大祓まで「全体で18回」、旬祭を含めると「年間で30以上」と説明していますが、不正確です。
 2月11日、11月3日の臨時御拝が抜けているのはまだしも、平安期に始まる石灰壇御拝に連なる、明治以来の、側近を三殿に遣わし、拝礼させる毎朝御代拝が説明されていません。天皇は昔も今も毎日、国と民のため祈られるのです。
 この日々の祈りを抜きにして、皇室の信仰を先生は考察しようとされたのですか。
 このほか、先帝祭は小祭ではなく、大祭ですし、新嘗祭は夕刻から深夜にまで及びます。「2時間」では到底終わりません。

エ、三種の神器 先生は、陛下も見たことがないと書いていますが、実物を見なければならない理由があるのですか? 冗長とした説明も不要でしょう。
 先生は、天皇の信仰が神道だとする1つの根拠は宮中三殿の存在にある、と説きますが、その説明の仕方がまどろっこしい解説の原因ではありませんか。
 祭り主である天皇がいかなる祭祀をなさるのか、古来、皇祖神のみならず天神地祇をみずから祀り、祈られることの意味と意義を、ご専門の宗教学的に深く探求すべきではないでしょうか。


▽4 なぜ天皇=現御神とされたのか

オ、神武天皇 先生は架空の神話的な人物だといいますが、125代続いているのなら初代が存在するのは至極当然で、それを神武天皇とお呼びしたとしても、何ら不思議ではないでしょう。
 近代科学で証明できないものは存在しないという論理は成立しません。それとも、たとえば先生の家系が何代まで遡れるか知りませんが、架空の先祖から始まったとでもお考えでしょうか。

カ、現人神信仰 先生は勘違いをなさっておられませんか。天皇=現人神とする考え方ははたして正統的でしょうか。
 戦後、昭和天皇はいわゆる人間宣言によって、ご自身の神性を否定されたという教科書的な解釈が流布していますが、詔書作成に関わった木下道雄はこれを否定し、「予はむしろ進んで天皇を現御神とすることを架空なることに改めようと思った。陛下もこの点はご賛成である」と記録しています。
 昭和12年に文部省が編纂した「国体の本義」には「天皇は現御神である」と明記されていますが、昭和天皇はこの神格化を嫌っておられたのです。
 古代の天皇の宣命には「現御神と大八嶋国しろしめす天皇」などとありますが、「現御神と」は「現御神のお立場で」の意味と解釈すべきだともいわれます。天皇=現人神ではないということです。
 東條内閣時代に文部官僚らが天照大神信仰に統一する官製の神道論を広めようとしていたとき、真っ向から戦いを挑んだのは在野の神道人たちであり、著書の神道本が発禁処分を受けることさえありました。
 他方、キリスト教世界の文化的影響を強く受けた知識人たちは一様に天皇=現御神と解釈するようになったのです。
 皇室の伝統においては、天皇は祀られる神ではなくて、神々を祀る祭り主なのです。それがなぜ天皇=現人神と解されるようになったのか、むしろそこを学問的に解明していただけないでしょうか。

 宗教学者が畑違いの分野に挑戦されたチャレンジ精神は高く評価されなければなりませんが、今回の記事は大学の学年末試験ならとても「優」は差し上げられないでしょう。積極性を最大限に評価して、さしずめ65点というところでしょうか。

 相撲好きで知られる昭和天皇は、贔屓の力士の名をけっして口外なさいませんでした。その昭和天皇に「信仰される宗教は仏教ですか、神道ですか」とうかがっても、お答えにはならないでしょう。それが天皇というお立場です。違うでしょうか。



☆ひきつづき「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンへのご協力をお願いいたします。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

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宮中祭祀を改変させた「ラスプーチン」を代弁!? ──星野甲子久『天皇陛下356日』を読む [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年7月8日)からの転載です


 前回、昭和の宮中祭祀簡略化について、最初に公にしたのは、私が知るかぎり、読売新聞の皇室記者だった星野甲子久(ほしのかねひさ)さんによる『天皇陛下の356日──ものがたり皇室事典』(1982年)だとお話ししました。

 ただ、この本は上中下三巻のデラックス本で、図書館でもなかなかお目にかかれないようです。けれども、2年後の昭和59年に新書版で出版された『天皇陛下356日──いま、新しい素顔、魅力を知る百問百答』なら、うまくすれば古書で手に入るかも知れません。

 そんなわけで、前回、言及したついでに、久しぶりにページをめくってみたのですが、私は思わず吹き出してしまいました。

 というのも、本を推選しているのが、ほかならぬ昭和の祭祀簡略化を決行した、「昭和のラスプーチン」その人だったからです。


▽1 祭式変更の理由が不明

 この本には2カ所、昭和の宮中祭祀簡略化について説明されています。

 最初は、「皇居の朝の日課」(「第一章 陛下のプロフィール)所収)です。

 まず宮中三殿についてで、賢所と皇霊殿は内掌典が、神殿は掌典が奉仕していること、毎朝、日供(にっく)が行われ、当直の侍従が天皇に代わり、拝礼すること(毎朝御代拝)、毎月1日、11日、21日は掌典長が奉仕すること(旬祭)が、解説されています。

 さらに、毎朝御代拝は明治4年に始まったと伝えられること、以前は上直(じょうちょく)侍従が馬車で三殿に向かったが、戦時中は自動車にかわり、服装も浄衣から供奉服となったが、戦後、馬車、浄衣にもどったことなど、簡単に歴史を振り返ったあと、

「昭和50年の9月からは、白い浄衣がモーニングコートに、馬車は自動車にかわり、拝礼の形式もそれまでのような殿上拝礼ではなく、木階の下の拝座で行われるようになった」

 と昭和の祭祀改変について述べています。

 しかし残念ながら、なぜ祭式が変わったのか、については説明されていません。

 この解説では、明治以降、毎朝御代拝のあり方は、とくに戦前、戦中、戦後にかけて変遷があり、時代の状況に応じて変わり得るものだったのであり、昭和の簡略化も同様である、というようにも読めます。


▽2 祭式には法的根拠がある

 つまり、昭和の祭祀簡略化はワン・オブ・ゼムにすぎないということになります。

 しかしそうなのでしょうか。

 当メルマガの読者ならすでにご存じのように、祭式には法的根拠があります。

 近代以後は明治41年制定の皇室祭祀令があり、その附式に祭式が定められていました。祭祀令は昭和2年、20年に改正され、日本国憲法の施行に伴い、廃止されましたが、宮内府長官官房文書課長の依命通牒で「従前の例に準じて、事務を処理すること」とされ、祭祀令および附式が準用され存続してきたのです。

 皇居の奥深くにある聖域で、公務員が関わり、国の予算が多少とも支出される事柄について、法的根拠がないことなどあり得ません。

 戦時中の変更は、戦時中であるがゆえの非常措置であり、当時は三殿ではなく、仮殿で行われていたと私は聞いています。

 それなら昭和50年、宇佐美毅長官、富田朝彦次長、入江相政侍従長、永積寅彦掌典長のもとで行われた毎朝御代拝の変更はいかなる法的根拠に基づいていたのでしょうか。その説明がないのです。

 蛇足ながら、記述の誤りを指摘すると、星野さんは侍従が三殿の内陣で拝礼したと書いていますが、正しくは外陣です。


▽3 「ご高齢の陛下のご健康」

 2番目は「皇居の新年はどのように始まるか」(「第四章 陛下とセレモニー」所収)で、元旦未明の四方拝について説明されています。

 その起源は第10代崇神天皇、あるいは第11代垂仁天皇のときとする諸説があるが、年頭第1の行事とされるようになったのは第59代宇多天皇からであること、京都時代は清涼殿の庭上で行われていたが、明治5年から賢所の庭上で行われるようになり、さらに神嘉殿前庭で行われることになったことなど、歴史を概観し、そのあと、昭和の改変に触れています。

 つまり、「昭和52年の元旦からは場所を神嘉殿前庭から吹上御所のベランダに移し、さらに陛下が80歳におなりになった56年からは、吹上御所の回廊に移して、そこで四方拝が行われるようになった」というのである。

 その理由については、星野さんは続けて、

「場所の変更はご高齢の陛下のご健康を考慮してのことで、吹上御所に移ってからはご服装も黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)ではなく、モーニングコートのままということにかわったのである」

 と説明しています。


▽4 事実関係が異なる

 これも毎朝御代拝の変更と同様で、歴史的変遷については説明しながら、祭式の法的根拠については説明がありません。

 それよりなにより、事実関係が、少なくとも私の理解とは異なります。

 入江相政が、昭和天皇のご学友である永積寅彦に代わって侍従次長となったのは昭和43年4月、5か月後、永積は掌典長となりました。入江の『日記』によると、入江が新嘗祭を始め祭祀改変に動き出したのはそのあとです。

 そして翌44年9月、侍従長に昇格した入江は、年末年始の祭祀簡略化を断行します。

『入江日記』の同年12月26日には、

「お上に歳末年始のお行事のことにつき申し上げる。四方拝はテラス、御洋服。歳旦祭、元始祭は御代拝。他は室内につきすべて例年通りということでお許しを得、皇后様にも申し上げる」

 と書かれています。調べればすぐに分かるものを、50年以降と強弁しなければならない理由があるのでしょうか。

 入江はなぜか急に変更を言い出しました。星野さんはその理由を「ご高齢の陛下のご健康を考慮して」と説明していますが、『日記』には正当化できる記述は見当たりません。昭和天皇はこのときまだ60代、48年9月には半月に及ぶヨーロッパ御訪問もなさいました。これが「ご高齢」でしょうか。


▽5 カバーに添えられた編集部注

 星野さんの本が昭和の祭祀簡略化について、ほかに先んじて記録しているのは、さすがだと思います。長年、読売の皇室記者を務め、その後、日テレの皇室解説委員になっただけのことはあると思います。

 しかし、祭祀簡略化問題についていえば、星野さんの独自取材に基づいて解説されているというより、私は祭祀簡略化を敢行した入江自身の説明を聞かされているように気がしてなりません。

 この本が出版されたのは59年6月です。昭和50年から本格化した祭祀簡略化について、58年の正月来、週刊誌報道をめぐって社会問題化していた最中でした。それなのに、それらしい気配がまったく感じられないのは、なぜでしょうか。

 それで何気なく、新書のカバーに書き添えられた編集部の言葉を読み、私は爆笑したのです。いわく「なお、本書作成にあたり、入江相政侍従長よりご助言、著書の推選をいただきました。編集部」。

 私は思いたくありませんが、星野さんは入江の代弁者を演じさせられたのではありませんか。もしそうだとすると、昭和の祭祀簡略化に関して、ラスプーチンの意に反する説明が書き込まれているはずもないのです。

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入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官 ──河原敏明「宮中『魔女追放事件』の真実」を読む [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2016年7月3日)からの転載です

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入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官
──河原敏明「宮中『魔女追放事件』の真実」を読む
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 古い記事ですが、久しぶりに重量感のある皇室ジャーナリズムの記事を読んだという満足感がありました。河原敏明氏の「昭和天皇を苦悩させた宮中『魔女追放事件』の真実」(月刊「現代」1999年1月号)です。
H11河原敏明月刊現代記事

 ただ、この記事は結局、歴史の真相に迫り切っていないのではないか、という疑いが晴れません。というのも、河原さんは、入江相政侍従長が「魔女」と痛罵した女官の追放劇の最中に、宮中で進行していた大事件にほとんど言及していないからです。

 私はむしろ、戦後の皇室のあり方と直結する、この大事件こそが「魔女」追放の真因であり、真相だと考えていますが、河原さんはまるで関心がないかのようです。


▽1 『入江日記』が唯一の記録

 平成3年に刊行された入江相政侍従長の『日記』に、「魔女」追放劇が綴られています。
入江相政日記

 河原さんの説明によれば、「魔女」とは昭和27年から46年まで香淳皇后に仕えた女官で、皇后の絶大な信任を得たものの、やがて入江の怒りを買うところとなり、皇室全体を巻き込むほどの大問題となった末に、宮中から追われたとされています。

 河原さんによると、「魔女退治」の顛末を唯一、後世に伝える勝利の記録が『入江日記』なのですが、『日記』には「魔女」としか記されず、本名は明かされていません。「魔女」が新興宗教を香淳皇后に勧めていると疑い、探っていたという記述はあるものの、追放の理由も具体的には説明されていません。

 まるで雲をつかむような話です。


▽2 凜とした声の主

 河原さんが記事を書こうと思い立ったのは、以前、わずかに言葉を交わした元女官の声が忘れられなかったからでした。名前は今城誼子(いまきよしこ)といいます。

 昭和55年、河原さんは、貞明皇后と香淳皇后の2代に仕えた久保八重子さんという大ベテランの女官を取材したことがありました。

〈同じく2代の皇后に仕えたのはもう1人だけだった。まじめで、地味で、陰日向のない人で、絶大な信頼を得ていた。けれども、香淳皇后に新興宗教を勧めたという疑いをかけられ、気の毒にも罷免された。最後のお務めの日、香淳皇后は泣いておられた……〉

 それが今城さんでした。

 興味を覚えて面会を試みたものの、固辞されて果たせず、忘れかけていたころ、『入江日記』が刊行され、河原さんは仰天します。入江が「魔女」と誹謗する女官こそ、今城さんその人に違いありません。

 しかし、以前、電話で聞いた穏やかながら凜とした声の主が奸佞な「魔女」とは、河原さんにはどうしても思えませんでした。特別の事情が隠されているのではないか。取材が始まりました。そしてその勘は当たっていたというのです。


▽3 御訪欧決定を契機に

 河原さんによると、今城さんは明治40(1907)年、子爵・今城定政の娘として生まれました。女子学習院高等科に学んだあと、昭和4(1929)年、伯爵・甘露寺受長侍従の推薦で、貞明皇后(皇太后)の女官となりました。貞明皇后が26年に崩御になると、ふたたび甘露寺の推薦でこんどは香淳皇后に仕えることとなりました。

 入江の『日記』には昭和天皇・香淳皇后の御訪欧決定を契機に「皇后・魔女」対「入江・宮内庁」の暗闘が激化していったことが生々しく記録されており、河原さんはこれを「魔女騒動」と呼んでいます。

 けれども河原さんは、真実は別だとみています。『日記』には、「魔女」という先入観で書かれた記述が目立つ半面、その根拠となる具体的な事実が皆無だからです。御訪欧随行問題は最終局面での「魔女」追放の口実に過ぎないことになります。

 しかし、河原さんが見る「真実」も違うと私は考えます。


▽4 誤解と濡れ衣?

 河原さんはまず推理しました。入江が今城さんを「魔女」と決め付け、憎悪した理由は何か、最大の理由は今城さんが香淳皇后に新興宗教を勧めたことにあるらしい。入江は昭和41年2月の『日記』に、「魔女の行くのは『誠の道』(正しくは「真の道」)といふ宗団の由」と記しています。

 けれども、入江の誤解でした。教団は皇室関係者との接触はなかったからです。

 とすると、香淳皇后と接触した教団はほかにあることになる。それは「大真協会」ではないか、と河原さんは考えました。河原さんはかつて教団婦人部幹部の久邇正子さんに直接取材したことがありました。

 正子さんは元皇族で、香淳皇后の姪に当たります。香淳皇后に教団を紹介し、昭和天皇の顔面痙攣を治してあげようと考えたようです。正子さんと香淳皇后とを取り持つ女官もいました。しかし今城さんではありません。

 つまり、今城さんは無関係です。完全に濡れ衣を着せられていたと河原さんは結論づけます。入江ほか宮内庁幹部は確たる証拠もなく、今城さんを「魔女」扱いし、糾弾していたのです。

 それなら、なぜそこまで今城さんは憎悪されたのか。


▽5 感情的な確執か?

 河原さんは、その理由について

(1)貞明皇后に仕えたのち、あとから移ってきたよそ者なのに、香淳皇后から依怙贔屓とも見られるほどに重用されたことへの嫉妬

(2)厳格な大宮御所と比べて、馴れ馴れしいほどに緩い皇居との落差を言葉にして指摘したことで買った無用の反発

 ──の2つとみています。

 そして、やがて宮中全体を敵に回すことになり、罷免された、と河原さんは理解するのでした。

 しかし私はそうではないだろうと考えてます。個人レベルの感情的な確執が宮中全体に関係するほどの大騒動となり得るでしょうか。私が職員OBたちに取材したところでは、今城さんは職員たちによる評価も高く、「魔女」と呼ばれるような人物ではありません。逆に入江の評判の方が良くないのです。

 誤解でも濡れ衣でもない、憎悪されるに足る確たる根拠が、今城さんではなくて、入江の側にあったのだと私は考えます。それはこの時期、入江が宮中全体を巻き込んで展開していた宮中祭祀の改変です。

 目の前に立ちはだかって抵抗する厳格派の今城さんが、入江には端的に目障りだったのでしょう。入江の祭祀改変工作が宮中全体を巻き込んで、陰に陽に展開されたとすれば、罷免工作もまた宮中全体に及ぶのは必至だったと私は想像します。


▽6 香淳皇后の夢だった?

 河原さんの記事によれば、入江と今城さんとの確執は、昭和46(1971)年9月に実施された御訪欧をきっかけにのっぴきならない局面を迎えたとされています。随行要員に今城さんを含めるかどうかで、入江侍従長や徳川義寛次長と香淳皇后との間で騒動が持ち上がり、入江は「また『魔女』に焚き付けられたか」と緊張したというわけです。

 河原さんによると、もともと外国御訪問は香淳皇后の夢だったとされます。前年の45年、大阪万博で来日したベルギーのボールドウィン国王が両陛下を招待したのが史上初となる天皇・皇后両陛下の外国御訪問の始まりとされています。

 けれども、高橋紘・元共同通信記者の『人間昭和天皇』によると、事実関係がかなり違います。

 高橋元記者によると、キーマンは高松宮妃殿下でした。同年4月に来日したのはベルギー国王ではなくて弟のアルベール殿下で、このとき晩餐会の席上、高松宮妃殿下がこう語りかけたのです。

「天皇陛下は皇太子殿下時代に欧州を訪問されたが、皇后陛下は海外にお出かけになったことがない。ベルギー国王は6年前、来日されたが、その答礼という形で、国王陛下から天皇陛下をご招待いただけないか」

 妃殿下は吉田茂元首相にも働きかけをし、佐藤首相周辺で秘密裏に御外遊計画は進み、翌46年2月、閣議決定されました。


▽7 法的制約を顧みない

 高橋元記者が指摘するように、外国御訪問計画はもっと遡れそうです。入江が昭和35年、『日記』の「年末所感」にこう書いているからです。

「東宮様も方々へおいでになり、一生懸命やっていらっしゃる。お上の御風格も世界の人に見せてやりたいが、早くしないとだんだんお年を召してしまう」

 高橋元記者は「入江1人の感想でもなかろう」と書いています。香淳皇后が秩父宮妃、高松宮妃に「一度、外国に行きたい」と話したこともあったようです(『高松宮宣仁親王』)。

 入江の願望と香淳皇后の夢、高松宮妃殿下の提案とがどういう関係にあるのか、分かりませんが、いずれにしても、日本国憲法はいわゆる皇室外交を予定していません。憲法7条が規定するのは日本大使の認証、外国大使の接受にとどまります。

 39年5月に国事行為臨時代行法が公布・施行され、御外遊は現実化するのですが、入江は法的制約をどこまで理解していたのでしょう。情緒的に天皇の御外遊を構想した発想は法的ルールを顧みない祭祀改変と共通します。


▽8 追放劇の背景

 河原さんが指摘するように、『入江日記』に「魔女」が最初に登場するのは昭和41年1月3日でした。大晦日に男子禁制であるべき「剣璽の間」に侍従が無断で入ったことを、今城さんが「えらい剣幕」で詰問したというのです。

 河原さんが書いているように、今城さんが最初に仕えた貞明皇后は皇室の伝統・慣習に厳しく、女官には源氏名を付け、御所言葉を半ば強制したようです。けれども貞明皇后崩御のあと、27年に香淳皇后に仕えるようになったとき、今城さんが強烈に感じたのは、まるで異なる御所の雰囲気で、その馴れ馴れしさに驚いたそうです。

 とりわけ今城さんにとって我慢がならなかったのは、宮中でもっとも神聖視されるべき「剣璽」への軽視であり、固守されるべき祭祀の改変だったのではないでしょうか。それが追放劇の背景なのだろうと私は考えます。

 河原さんは1点だけ、祭祀の改変問題に触れています。

「老境に入ってさすがに従来どおりの神事出席は難しくなったと、入江たちは懸念した。毎月1日、11日、21日の3回、天皇は祭服を着て宮中三殿に親拝される慣例(旬祭)だが、ご親拝は陽気のよい5月と10月だけにし、あとは当直侍従による毎日のご代拝にした旨、入江は皇后に申し上げるのだが──」

 旬祭の改変に関する河原さんのこの記述は不正確です。それはともかく香淳皇后は入江に対して「もっとお祭を大事に度数を増やした方がいい」と反論なさったものの、結局、押し切られます。入江は背後に「魔女」の存在をはっきりと見ています。


▽9 為政者の不作為

 祭祀改変に関する河原さんの記述は、昭和45年の大晦日に書かれた『入江日記』の「補遺」に基づいていますが、改変工作はすでに2年前から進められていました。

 当メルマガの読者ならご承知のように、戦前は皇室祭祀令があり、祭式はその附式で明文法的に定められていました。戦後、昭和20年暮れの、いわゆる神道指令が指令されましたが、宮中祭祀は「皇室の私事」として存続しました。掌典職は公機関ではなくなり、予算は内廷費から支出されることになりました。

 22年5月の新憲法施行に伴い、皇室令はすべて廃止され、祭祀は明文法的根拠を失いました。しかし同日付の宮内府長官官房文書課長の依命通牒で「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」(第3項)とされ、祭祀の伝統は守られました。講和条約が発効すると神道指令は失効しました。

 関係者の証言によると、伝統の祭祀を守るため、当面は「皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが当時の政府の方針でしたが、残念ながら実現されませんでした。為政者の不作為の罪です。

 そして事態が急変します。43年に入江が侍従次長となり、法整備どころか、祭祀「簡素化」の工作を始めたのです。


▽10 侍従長に上り詰める

『入江日記』には次のように記されています。

「10月25日 (宇佐美毅)長官の所へ行き、新嘗のことなど報告。皇后様(香淳皇后)に拝謁。新嘗の簡素化について申し上げたが、お気に遊ばすからとのこと、もう少し練ることになる。永積(寅彦。この年9月に掌典長就任。半年前までは侍従次長だった)さんと相談。夕方、掌典職の案というのを聞かせてもらう。これで行くことになろう」

「10月28日 魔女に会い、新嘗のこと頼む」

 歌道を本業とする冷泉家の末裔ながら、入江は装束より洋装、燕尾服よりモーニングを好んだようです。そして根っからの祭祀嫌いだったらしい入江は、翌年9月に侍従長を拝命するや、皇室の伝統も法制度も無視して、祭祀改変へと驀進します。

 このとき目前に立ちはだかったのが、皇室の伝統に忠実たらんとする今城さんであり、香淳皇后だったのでしょう。入江が憎悪を深め、「魔女」と呼ぶのは当然です。

 今城さんも入江も堂上家の出身です。今城さんの祖父中山孝麿は東宮大夫、宮中顧問官、東宮侍従長を歴任し、入江の父為守は東宮侍従長、侍従次長、皇太后宮大夫を歴任しています。今城さんの曾祖父中山忠愛の妹慶子は明治天皇の生母であり、入江の母方の祖父柳原前光の妹愛子は大正天皇の生母という関係です。

 似通った出自の2人ですが、昭和4年から二代の皇后に仕えてきたとはいえ、一介の女官に過ぎない今城さんと、2歳年上ながら、5年遅れて、侍従職となったとはいえ、いまや侍従長の地位に上り詰めた入江との勝負は、すでについていたのでしょう。

 河原さんが理解するような「誤解」でも「濡れ衣」でもないと思います。目の上のたんこぶに対して、入江は対抗心を爆発させ、そして表面化したのが御外遊随行問題であり、その背景には確信的に進められる祭祀簡略化問題があったのだと私は思います。


▽11 抵抗者はいなかったのか

 それにしても、いくつかの疑問があります。

 第1に、なぜ入江は、廃止されたわけでもない依命通牒の規定に反してまで、天皇の聖域である祭祀に介入し、簡略化に突き進んだのでしょうか。

 入江の『日記』では、祭祀簡略化は昭和天皇の「ご高齢」が理由であるかのように記録されていますが、その一方、御外遊計画は進められました。半月にも及ぶ海外旅行に耐えられる陛下は「ご高齢」でしょうか。

 入江は自身の祭祀嫌いを、昭和天皇の「ご高齢」に転嫁させ、説明したのでしょう。リーガル・マインドなど最初から欠けているのはむろんです。

 第2に、そうだとして、法的根拠に基づいて、占領中も、社会党政権時代も、守られてきた祭祀を、個人的な思惑から変更させるのは、暴走以外の何ものでもありません。宇佐美長官ら側近、あるいは天皇・皇族方はなぜ止められなかったのか。今城さん以外に抵抗者はいなかったのでしょうか。

 入江の『日記』によると、44年には旬祭の御親拝は5月と10月のみとなりました。河原さんの記事の説明は不正確だと申しましたが、正確にいえば、毎月1日、11日、21日に行われるのが旬祭で、このうち1日の旬祭は御親拝とされていました。それが入江の工作で、年2回に「簡素化」されたのです。御親拝がないなら、侍従のお供も不要です。

 同年暮れから翌45年にかけての年末年始の祭儀も簡略化され、「四方拝(元旦)はテラス、御洋服。歳旦祭(元日)、元始祭(1月3日)は御代拝」(『入江日記』)とされました。

 御外遊は翌年46年秋でした。祭祀簡略化工作と御外遊計画は同時進行しています。

 入江はいみじくも46年暮れ、『日記』の「年末所感」に、「今年は実にさまざまなことがあったが、大別すると、魔女の追放と御外遊の2つになり、さらにもう1つを加えるとなると新嘗の簡単化ということになる」と記しています。


▽12 昭和天皇の顔面痙攣

 河原さんは昭和天皇の顔面痙攣について触れています。香淳皇后の姪・久邇正子さんが治して差し上げようとしたとあります。

 入江の『日記』では「お口のお癖」と説明されています。45年大晦日の「補遺」には、なぜ祭祀の「簡素化」が始まったのか、長々とした説明が載っていますが、入江が気にしていたのは、6月ごろ始まったという昭和天皇の「お口のお癖」でした。しかし記述には矛盾があります。

 入江によると、新嘗祭を簡素化すると、昭和天皇は「すっかりご安心」になり、「不思議なことにお癖はすっかり止んでしまった」と入江は書いています。そのまま読めば、祭祀のお務めがご高齢の昭和天皇には肉体的・精神的なストレスになり、「お癖」を招いた、と解釈されます。

 ところが、違うのです。いったん止んだものの、翌46年秋には「お癖」は再発したとほかならぬ『日記』に記されています。


▽13 「暁をやってもいい」

 それでは真相は何か。

『日記』によれば、「お癖」が始まったのは45年6月。とすると、香淳皇后が「旬祭はいつから年2回になったか」と猛抗議された直後です。再発したのは46年9月で、今城さんの退官から2か月後、御外遊から帰国された直後でした。

 同年11月には皇室第一の重儀である新嘗祭が簡略化され、出御は夕の儀のみとなります。入江は「お帰りのお車の中で、『これなら何ともないから急にも行くまいが暁(の儀)をやってもいい』との仰せご満足でよかった」と『日記』に書いていますが、昭和天皇が「ご満足」のはずはありません。逆でしょう。

 昭和天皇は入江の工作にご不満で、最大の抵抗を示されていたに違いありません。だから「やってもいい」と仰せになったのです。

 河原さんの取材によると、「お癖」の始まりは時期が少し異なります。しかし久邇正子さんが香淳皇后を訪ねたのが43年11月だということは、入江が祭祀簡略化を開始させた時期とピッタリ重なります。

 祭祀のご負担が昭和天皇の「お癖」を招いたのではなくて、それとはまったく反対に、入江の祭祀簡略化工作が「お癖」の原因なのでしょう。祭祀が天皇第1のお務めだとすれば、昭和天皇にとって祭祀簡略化工作はどれほど耐えがたかったでしょうか。


▽14 ほんとうのラスプーチンは

 河原さんの記事にあるように、「入江日記」には「魔女罷免」に関して、「(香淳皇后が)たいへん御機嫌だった」「すっかり御機嫌」などと記述されています。つまり、同僚の女官が「お部屋で泣いていらっしゃった」と証言するのとは真反対です。

 入江は後世の人が『日記』を読むことを前提に、白を黒と記述しているのではないでしょうか。香淳皇后には無念以外の何ものでもなかったはずで、入江の前ではことさら気丈に振る舞っておられたのかも知れません。

 いちばん納得していなかったのは今城さんご自身でしょう。河原さんによれば、今城さんは同僚の久保さんに、「私、どうして辞めさせられるの?」と尋ねたそうです。

 今城さんの退職は46年7月。職員OBによると、それ以前もそうだったけれども、それ以降、入江に楯突くものは完全にいなくなったようです。もはややりたい放題。今城さんは格好の見せしめとされたのです。今城さんは「ラスプーチン」とも喩えられたそうですが、ほんとうのラスプーチンは入江でした。

 昭和49年に「無神論者」を自任したという富田朝彦次長が登場すると、祭祀簡略化は憲法の政教分離原則を楯に本格化します。55年になると、入江は、昭和天皇の親祭を春秋皇霊祭と略式新嘗祭に限定することを皇太子殿下の発議、皇族方の総意で進めようと工作します。「魔女」追放劇でも行われたであろう、用意周到な根回しが垣間見えます。


▽15 見ざる・聞かざる・いわざる

 祭祀簡略化が最初に明るみに出たのは、私が知るかぎり、昭和57年秋に刊行された、星野甲子久・読売新聞記者が書いた『天皇陛下の365日』です。同年暮れには勇気ある宮内庁職員が学会で問題提起し、週刊誌などをも巻き込んで社会問題化します。

 今城さんの退職後、「見ざる・聞かざる・言わざる」の風潮が宮内庁内に浸透していたのでしょうか。あるいは、そのあとも。

 さて、問題は現代です。

 平成20年以降、祭祀簡略化が陛下のご負担軽減を目的に、昭和の先例を根拠として、進められています。しかし、ご負担軽減といいつつ、ご公務は逆に増えました。悪しき先例が根拠とされるべきでもありません。

 けれども、宮中から疑問の声はいっこうに聞こえてきません。今城さんがご存命なら、どう思うでしょうか。

 最後に蛇足ですが、河原さんはなぜ祭祀簡略化問題に注目されないのでしょうか。

 既述したように、入江の『日記』には、「魔女追放」「御外遊」「新嘗簡単化」の3つが46年のテーマだったと書かれています。58年の年初から祭祀簡略化がマスコミの大きなテーマとなったことはご記憶のはずでしょうに。(一部敬語敬称略)

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宮中祭祀をめぐる今上陛下と政府・宮内庁とのズレ──天皇・皇室の宗教観 その4(「月刊住職」平成27年12月号) [宮中祭祀]

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宮中祭祀をめぐる今上陛下と政府・宮内庁とのズレ
──天皇・皇室の宗教観 その4(「月刊住職」平成27年12月号)
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「月刊住職」平成27年9月号から、皇室の信仰、昭和天皇の仏教観について、歴史的検証を試みた。すでに筆者の任務は終わっているようにも思うが、引き続き現代編を書くよう編集部から要請されたのを受けて、再び押っ取り刀を手にとることにする。


▽1 現行憲法を起点とする非宗教主義

 天皇・皇室の宗教観を考えることは、〈天皇とは何か〉を考えることにほかならない。皇統は神代にまで遡り、「葦原千五百秋(ちいほあきの)瑞穂の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾皇孫(いましすめみま)、就(い)でまして治(し)らせ」(日本書紀)と皇祖神より国家の統治を委任されたというお立場なら、そもそも宗教性は否定できない。

 さらに順徳天皇(第84代。在位1210~21)の『禁秘抄』に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあるように、歴代天皇は祭祀をなさることが第一のお務めと信じられ、仏教に帰依された多くの天皇もまた祭祀を厳修されたのだからなおさらだ。

 ところが、世俗化が進んだ現代では、天皇の宗教的側面が否定され、現代人の天皇観は歴史と伝統から切り離れたものとなり、祭祀は驚くべきことに宮内庁当局にすら軽視されている。

 たとえば、御即位10年を記念して宮内庁が編集した記録集『道』には、即位礼当日、祭服を召され、賢所大前の儀に臨まれた両陛下のお写真こそ口絵の冒頭に載っているが、本文には宮中祭祀に関する記述らしいものが見当たらない。公式記録から外されているのである。

 その代わり、繰り返されているのが「日本国憲法」である。

 憲法上、天皇の祭祀はあくまで「私的行為」である。17年になって、宮内庁のHPに宮中祭祀が載るようになったが、平成の祭祀簡略化やいわゆる「女性宮家」創設の主導者と目される渡邉允元侍従長などは雑誌インタビューで「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」と言い切っている(「諸君!」2008年7月号)。

 政府も同様で、小泉内閣時代に皇位継承制度を検討し、「女性天皇・女系天皇への途を開くことが不可欠」と結論づけた皇室典範有識者会議の報告書は、さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討したと説明しているが、皇室自身の天皇観、つまり天皇=祭り主という観点は完全に無視された。

 皇室の歴史と伝統ではなく、70年に満たない現行憲法を出発点とする非宗教主義が社会を席巻し、その結果、何が起きたのかといえば、宮中祭祀の改変であり、歴史に例を見ない女系継承容認論、いわゆる「女性宮家」創設論、つまり悠久なる皇室の制度を日本国憲法流に変革する革命的というべき試みであった。

 今上陛下は即位礼正殿の儀で「(先帝の)御心を心として」「日本国憲法を遵守し」と述べられた。伝統と憲法の両立を、陛下は折に触れて何度も繰り返し表明されているが、政府・宮内庁当局はそうではなく、「憲法の遵守」だけをつまみ食いしている。このズレは何だろうか。そこには皇室の祭祀について、じつに厄介な誤解と偏見以上のものがある。


▽2 稲と粟の祭りは国民統合の儀礼

 日本の皇室を考える際、最大のキーワードは価値多元主義である。それは亜熱帯から亜寒帯まで気候の幅が広く、四季折々に美しさと厳しさとを見せてくれる日本列島の自然の多様さと通じているだろう。自然と共存する人々の暮らしも多様であり、山の民には山の民の、海の民には海の民の信仰が息づいてきた。

 そのような多様なる民を多様なるままに統合し、争いのない平和な社会を保つためには統治者は何をすべきなのか。天皇が祭り主であり、祭祀が第一のお務めであるなら、天皇の祈りは多神教的、多宗教的でなければならない。

 キリスト教世界に君臨するローマ教皇なら一神教の典礼で十分であろう。世界を創造した絶対神以外に神は存在しないのだから、当然である。天帝の息子=天子たる中国皇帝は、ただひとり天を祀る。天壇に登ることが正統性の証明である。けれども日本の天皇は皇祖神を祀るだけではない。「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」(養老令)とされたのだ。

 カトリックは第二次大戦後になって、ようやく諸宗教容認に踏み出した。第二バチカン公会議は「諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言し、教皇ベネディクト16世はトルコのブルー・モスクで祈り、今秋(平成27年秋)、訪米した教皇フランシスコはグランド・ゼロで、諸宗教の代表者たちとともに祈りを捧げた。

 いまや諸宗教協力を積極的に推進しているバチカンだが、その祈りはあくまで唯一神に捧げられる。

 だが天皇の祈りには世界に稀な多神教性、多宗教性がある。それは皇室第一の重儀とされる新嘗祭を見れば分かる。

 毎年11月23日の夕刻から翌日にかけ、天皇は特別の祭服を召され、宮中の聖域の奥深く、宮中三殿の西隣に位置する神嘉殿で、古来の作法に従って、あまたの神饌を皇祖天照大神ほか天神地祇に供され、みずから召し上がる。

 なかでも重要とされる神饌は、その年に収穫された新米・新粟を炊いた米の御飯(おんいい)・御粥(おんかゆ)、粟の御飯・御粥、および新米をもって醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の神酒である。神人共食の儀礼は夕(よい)の儀と暁の儀の2回、繰り返される。

 なぜ米と粟なのであろうか。新嘗祭といえば、しばしば稲の祭りと考えられているが、誤りである。

 新嘗祭は古くから民間でも行われている。最古の記録は元明天皇(第43代。707~715)の詔を受けて編纂された風土記のひとつ、『常陸国風土記』のなかの筑波郡の物語だが、稲の新嘗ではない。粟の新嘗の晩に人々が忌籠もりし、神々と交流したと記されている。

 粟の新嘗に関する学術研究はきわめて少ないが、東南アジア島嶼地域に連なる焼き畑農耕文化と指摘される。たとえば台湾の先住民にとって、粟は儀礼文化には欠かせない、とくに重要な作物で、人々は粟の神霊を最重要視し、粟の酒と粟の餅とを神々に供えたという(吉田集而ら『酒づくりの民族誌』)。

 当然だが畑作民は粟の新嘗を行い、水田稲作民は稲の新嘗を行う。けれども天皇は稲と粟の複合儀礼を行われる。

 天皇一世一度の新嘗祭が大嘗祭で、古い記録には神事の作法が生々しく記述されているが、米と粟に軽重の差はない。つまり稲の儀礼ではなく、稲と粟の儀礼なのだが、案外、理解されていない。

 大嘗祭について、政府や宮内庁は「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」(宮内庁『平成大礼記録』など)と定義している。しかしこの理解では稲作以前の歴史や非稲作民とは無関係な儀礼ということになる。

 稲作民による稲作信仰が源流なら、特定の宗教儀式であり、憲法の政教分離原則に反するし、したがって国の行事としては行えないという論理になる。実際、真田秀夫内閣法制局長官が「大嘗祭は神式のようだから、憲法上、国が行うことは許されない」と国会答弁している。

 だが逆に天照大神から稲穂を授けられたという神話に基づく稲作儀礼なら、稲の新穀を大神に捧げれば十分で、粟を供する必要も、天神地祇に供する必要もない。

 つまり稲と粟の多神教的祭りは特定の宗教儀礼ではなく、国民統合の国家儀礼であり、だからこそ多神教的、多宗教的なのであろう。教義も牧師も信徒もいない宮中祭祀は特定の宗教とはいえないはずだし、宗教儀礼でないなら憲法の規定を侵すことにはならない。

 バチカンは1936年の指針で、「国家神道の神社」の儀式も「愛国心のしるし」で「社会的な意味しか持っていない」なら「信徒が参加することが許される」と認めている。それかあらぬか、実際、カトリック信徒の女性が天皇の祭祀に奉仕していると聞く。唯一神の信仰を侵さないとの確信があってのことだろう。

 多宗教性の痕跡はほかにもある。明治の神仏分離で仏教的要素が排除されたいまなお、神道以外の要素が指摘される。

 新嘗祭に登場する白酒・黒酒のうち、黒酒は米を醸し、久佐木(くさぎ)という植物の根の焼灰を加えて造る。詳しい製法が延喜式に記述されているが、「易と五行説を援用して、精緻なまでの配慮のもとに構想された神酒」との指摘がある。

 延喜式には「その年の星と天皇の御生年の星との関係から、吉とする方角に生える木を採れ」とあり、久佐木は「恒山」とも表現されている。中国の名嶽・北嶽である。北は神の座すところである。

 原料は米の総量1石(10斗)に対して、加える水の量は5斗。現在の醸造法なら総米100に対して汲水130だから、あまりにも少ない。だが易学的には「土気成数10」と「土気生数5」を合わせ、酒が造られ、土気完成を見ると理解できる。

 発酵ののち、ひとつの甕から1斗7升8合5勺、二つの甕を合わせれば3斗5升7合の酒が得られる。これも3+5+7=15で、やはり「土気成数10」と「土気生数5」の組み合わせによって土気が完成するのである。

 土気は四季を支配する。生命は土気の作用で生育する。豊穣を祈り、収穫を感謝する祭りは強く土気を意識した祭りとなる。神酒もまた土気を意識して造られなければならないのだ(岩瀬平「山口県神道史研究」所収論文)。

 それなら、陰陽五行説や麹が伝わる前の神酒はどうだったのか。私は粟の酒が黒酒の原形ではなかったか、胚芽の糖化力を利用した酒ではなかったかと想像している。畑作地域には大正期まで粟酒があったようだし、平安期の伊勢神宮には麹を使わない火無浄酒(ほなしのきよさけ)があったという記録が残っている。

 皇居内の水田で稲作を始められたのは昭和天皇だが、今上陛下はその精神を引き継がれ、粟も栽培される。けれども宮中祭祀の多神教的、多宗教的理念はいよいよ危機に瀕しているように見える。


▽3 無神論者長官が破壊した皇室の伝統

 本誌が読者のもとに届くころには、今年(平成27年)の宮中新嘗祭は終わっている。宮内庁のHPには「両陛下は宮中の祭祀を大切に受け継がれきた」とあるが、今年も「お出ましの時間を短縮」(平成23年11月宮内庁発表)という簡略新嘗祭が行われていることだろう。

 数年来の簡略化は「ご健康問題」が理由とされ、「担当医師の判断に沿い」と説明されているが正確ではない。

 平成20年暮れの御不例を受けて、宮内庁は翌年1月、具体的なご公務ご負担軽減策を打ち出したが、じつのところご公務は逆に増え、一方、文字通り激減したのが祭祀へのお出ましだった。

 天皇の祭りは昭和40年、50年代以降、側近たちによって、密室のなかで、一方的に改変された。それは現代の官僚たちが日本古来の多神教的、多宗教的原理を見誤った結果ではなかったか。

 明治維新以来、皇室が先頭に立って推進された日本の近代化は、価値多元主義を否定する、キリスト教世界由来の一元主義を国家的に受け入れることだった。軍隊、官僚制、学校、税制、憲法、議会制度などなど、そして「文明の衝突」が起こるべくして起きたのだ。

 アインシュタインは「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」(日本印象期)と近代日本を賞賛する一方、伝統的美意識の喪失に警鐘を鳴らしたが、その警告は現実化し、やがて日本はほとんど世界を相手に戦争し、未曾有の敗戦という歴史的屈辱を味わった。天皇制の敗北であり、昭和天皇に戦争責任ありと考える人も少なくない。

 天皇の祭祀が近代法として整備されたのは明治41年の皇室祭祀令で、大日本帝国憲法および皇室典範(旧)の制定からさらに約20年後のことだった。

 最大の転機は70年前の敗戦である。日本国憲法の公布・施行に伴い、すべての皇室令は廃止された。しかし宮中祭祀の形式はかろうじて守られた。「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理」とする宮内府長官官房文書課長の依命通牒が発せられたからである。

 ところが敗戦にも勝る転機が訪れた。昭和43年、侍従次長に昇格した入江相政は独断で、新嘗祭の「簡素化工作」に着手し、翌秋、侍従長に駆け上がると「四方拝は御洋服、テラスで」と祭祀改変に躍起となった。慣例を完全に無視し、依命通牒を反故にしたのである。

 さらに無神論者を自任する富田朝彦次長(のちの長官)が登場すると、祭祀の改変はいよいよ本格化した。側近の記録によれば、50年8月15日の長官室会議以降、平安期以来の石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なる毎朝御代拝は形式が非宗教的に変更された。その基準は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法の政教分離原則で、側近の侍従は祭祀に関わるべきではないとされた。

 価値多元主義の核心である天皇の祭祀を無理解なまま「宗教」と決めつけ、宗教の価値を尊重しているはずの憲法を根拠にこれを否定する。無神論者長官の登場は、信教の自由を保障する憲法の目的を大きく外れて、あたかも宗教を信じない自由を国家が援助、助長、促進する効果を生むという最大の矛盾をもたらし、皇室の原理を崩壊させたのである。

 その後、事態が表面化し、社会的批判を浴びてもなお、宮内庁の態度は頑なだった。神社本庁は抗議の質問書を突きつけ、宮中祭祀を担当する掌典長は神社関係者の主張を明確に認めたが、その後、入江はさらなる簡略化を進めた。

 そして平成の御代替わりでは、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」を対立的にとらえ、従来通り行うことが憲法の趣旨に反すると考える儀式については国の行事ではなくて、皇室行事として挙行することとされ、皇室の伝統が破壊された(拙文「宮中祭祀を『法匪』から救え」=「文藝春秋」2012年2月号)。

 皇位継承後、今上陛下は皇后陛下とともに、祭祀の正常化に努められたといわれる。しかし御在位20年を迎えて、側近たち主導の祭祀改変が再び始まった。陛下のご高齢とご健康を名目に、昭和の先例を根拠とする、悪夢の再来である。

 争わずに受け入れるのが天皇の至難の帝王学だが、昭和天皇がそうだったように、今上陛下もまた最大の抵抗をなさったらしい。

 渡邉元侍従長の説明では、18年春から宮中三殿の耐震改修が行われるのに伴って祭祀の簡略化が図られた。工事完了後も側近は、ご負担に配慮し、簡略化を継続しようとしたが、陛下は「筋が違う」と認められなかった。ただ、「在位二十年になったら考えてもよい」と仰せになったことから見直しが行われたとされる(渡邉『天皇家の執事』)。けれどもご負担軽減は名ばかりだった。


▽4 憂慮される次の御代替わり

 心配されるのは、やがて訪れる御代替わりである。いまのままでは悪しき先例が踏襲されるだろう。

 懸念は早くも現実化している。宮内庁は2年前(平成25年)、「御陵および御葬儀のあり方」について、御陵の規模の縮小、御火葬の導入など、検討結果を公表した。

 指摘すべき問題点は3つある。

 1点目は、宮内庁の検討が「皇室の行事である御葬儀」についてであり、「国事行為たる大喪の礼について検討したのではない」と明言されていること。つまり、政教分離の厳格主義に基づく、国の行事と皇室行事との分離挙行という昭和の先例踏襲が宣言されているのだ。

 2点目は、皇室典範有識者会議も皇室制度有識者ヒアリングも検討過程が公開されたのに、今回は非公開であること。3点目は「両陛下の御意向を踏まえ」と説明する当局の姿勢である。

 有識者会議は皇族方の意見に耳を傾けず、羽毛田信吾長官は議論の行方を憂慮された寛仁親王に向かって「皇室の方々は発言を控えていただくのが妥当」と口封じに及んだ。それなのに今度はなぜ「御意向」なのか。

 本誌読者は土葬から火葬への転換を神道的御葬儀の仏式化などと単純に考えるべきではない。本質は皇室制度に関する明文法的基準の喪失である。

 明治人は長い年月をかけて宮務法の体系を構築した。敗戦後、苛烈な神道指令下にあって皇室令は廃止されたが、依命通牒によって祭祀の伝統は「皇室の私事」の名目で守られた。

 独立回復後、きちんとした法整備を図るというのが当時の政府の方針だったが、その後、政府はその努力を怠り、宮内庁は法的基準を破棄し、非宗教化させたのである。

 入江侍従長は「東宮様(今上陛下)御発議で、皇族の総意」による昭和天皇の祭祀の簡素化を画策したらしい。側近らの責任追及を回避し、法的基準に代わって祭式改変を正当化するものが「御意向」であり、「医師の判断」なのである。次の御代替わりも同じご都合主義が採用されることは間違いない。

 鎌倉節長官の指示で、宮内庁内で皇位継承に関する非公式検討が開始されたのは平成8年のようだが、明治人のように時間をかけ、慎重に新しい法的基準を作成するまでには至っていない。

 陛下の側近といえば傑出した人格者揃いと世の人々は考えるだろうが、実態はまるで異なる。今上陛下は皇后陛下以外、支援者のいない困難な現実のなかで、おひとりで皇室の伝統と尊厳を守ろうとされているかに見える。

 今上陛下は平成2年11月、大嘗祭をお務めになり、歌を詠まれた。

父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ

 陛下は宮中祭祀の重要性を片時もお忘れではない。だが当局は現行憲法第一主義に固まり、祭祀は蹂躙されている。だとして政府・官僚批判で解決できるかといえば、そうもいきそうにない。

 皇后陛下にはイスラム過激派による石仏破壊を詠まれた厳しい御歌がある。

知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず

 異教文化否定の蛮行を非難することはたやすい。だが、同様の非道を私たち自身が冒していることはないか。近代主義にどっぷり浸かり、長い皇室の歴史と伝統を深く理解しようとしないのは、われわれ国民も同じかも知れない。

(一部敬語敬称略。参考文献=拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』、私家版電子書籍『検証「女性宮家」創設論議』など)

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新嘗祭で隔殿に着座されなかった皇太子──『昭和天皇実録』が明らかにした異例 [宮中祭祀]

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新嘗祭で隔殿に着座されなかった皇太子
──『昭和天皇実録』が明らかにした異例
(2015年8月15日)
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 今年の春から『昭和天皇実録』の刊行が始まりました。

 宮中祭祀のあり方を考えるうえでたいへん興味深い記述がありますので、ご紹介します。大正8年、9年の新嘗祭です。

 この年、大正天皇の親祭はありませんでした。その場合、どのように行われたかというと、近年の簡略化された新嘗祭の次第と似ているのです。


▽ 神嘉殿南庇で御拝礼

『実録』には、次のように書かれています。

「(大正8年11月)二十三日 日曜日 新嘗祭神嘉殿夕の儀につき、午後五時四十五分御出門になる。次第において、皇太子は天皇の出御に続き、隔殿にお出ましになり御着座のご予定のところ、この日午後五時過ぎに至り、ご都合により天皇出御なき旨が仰せ出される。よって皇太子の隔殿御着座のことは行われず、神饌供進済了の後、掌典次長東園基愛・東宮大夫浜尾新の前導にて便殿より御参進、神嘉殿南庇の正面において御拝礼、終わって退下される。午後八時十五分御帰還になる。暁の儀にはお出ましなし。〇東宮侍従日誌、東宮職日記、侍従日記、侍従職日誌、祭祀録、典式録、儀式録、宮内省省報」

 ポイントは、天皇の出御がなかったこと、そのため皇太子は神嘉殿南庇で御拝礼され、隔殿御着座はなかったこと、暁の儀のお出ましはなかったこと、の4点です。

 翌年は少し違います。

「(大正9年11月)二十三日 火曜日 (前略)新嘗祭につき午後六時十分御出門、賢所御休所において軍服より斎服に召し替えられる。七時二十分、夕の儀につき神嘉殿に御参進、御拝礼になる。終わって軍服に召し替えられ宮城に御参内になる。御内儀にお成りになり、和服に直衣の袴を召され、天皇・皇后に御拝顔になる。十一時十五分、軍服に着替えられ御退出、賢所御休所にて斎服を召され、暁の儀に臨まれる。翌日、午前零時二十五分賢所を御出門、同四十五分御帰還になる。なお、天皇の出御なきため〈この日午前九時、出御なき旨仰せ出される〉、皇太子は隔殿に御着座のことなく、夕の儀・暁の儀とも皇族拝礼の前に便殿より参進され、神嘉殿南庇正面において御拝礼のみを行われる。〇東宮侍従日誌、東宮職日誌、祭祀録、儀式録、典式録、宮内省省報、官報、奈良武次日記」

 隔殿御着座はなく、神嘉殿南庇で拝礼されたのは前年同様ですが、前年とは異なり、暁の儀にもお出ましになりました。

 このような祭式のあり方が何に基づくのか、よく分かりません。8年と9年の違いが何に由来するのかも不明です。


▽ 「前例」のつまみ食い

 それはともかく、近年の簡略化された新嘗祭と似ていることは指摘できます。つまり、近年の簡略化は戦前の先例を踏襲しているようにも見えます。

 たとえば、4年前の平成23年、陛下御不例のため新嘗祭の親祭は行われませんでした。

 このとき宮内庁は「新嘗祭における陛下の神嘉殿へのお出ましの時間を短縮し,夕の儀も暁の儀と同様,儀式の半ばより出御され,また,両儀式とも,皇族及び諸員による拝礼前にご退出される」ことになったと説明していました。

 宮内庁は昭和の先例を根拠としていました。

 実際には、陛下のみならず、皇太子殿下もまた、「夕の儀及び暁の儀の両儀式とも、儀式の半ば過ぎに、拝礼のために参進され、皇族及び諸員による拝礼の前に退出なさいます」とされました。

 これは何を根拠としたのか、説明がありません。私は「無原則」とメルマガで批判しました。

 けれども、『昭和天皇実録』の記述を見ると、あながち「無原則」と断定することは控えなければならないのかも知れません。しかし、それなら、昭和天皇の晩年の例ではなくて、戦前のあり方を踏襲したと説明すべきではないでしょうか。説明不足です。

 いや、そうではありません。

「前例踏襲」なら、四方拝を御所のテラスで行い、洋装とするなどといった、入江侍従長による祭祀の「簡素化」はあり得なかったのです。

 宮内庁の方針はけっして「前例踏襲」ではないのです。都合のいいときだけ「先例」を持ち出すご都合主義に問題があるのではありませんか?

 天皇第一のお務めとされてきた祭祀が「前例」のつまみ食いによって行われていることになります。


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タブーとなった宮中祭祀──肝心の事実を追究しないメディア [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2015年1月30日)からの転載です


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タブーとなった宮中祭祀
──肝心の事実を追究しないメディア
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 久しぶりに更新します。

 最近、宮中祭祀に関する報道が増えました。

 今年の正月は、いくつかのメディアが、元旦に行われる四方拝、歳旦祭について伝えています。

 本来、秘儀とされる天皇の祭りですが、ここまで書いていいのだろうかと首をかしげたくなるほど、陛下のなさる所作について事細かに言及している記事も見受けられました。

 けれども、不思議ですね、逆に触れられていない肝心なポイントがありました。それは四方拝が行われる場所と装束について、です。


▽1 四方拝は御所、歳旦祭は御代拝


 宮内庁は昨年暮れ、元日の「行事一覧」を公表し、午前5時半に陛下がお出ましになり、四方拝が御所で行われ、続いて5時40分に御代拝により歳旦祭が三殿で行われる予定であることを明らかにしていました。〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/gyoji-h27.html

 実際、公表された「両陛下のご日程」では、陛下が四方拝を御所でお務めになり、続いて両陛下が歳旦祭の儀がお済みになるまで御所でお慎みになったとされています〈http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/h27/gonittei-1-2015-1.html〉。

「ご日程」によれば、平成24年以降、四方拝は御所で行われ、歳旦祭は御代拝とされているようです。しかし、陛下が御所のどこで四方拝をなさったのか、装束をお召しになったのか、までは公表されていません。

 四方拝は、昭和天皇の祭祀に携わっていた八束清貫によると、陛下だけがお召しになる黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)をお召しになり、立纓冠(りゅうえいのかん)をかぶられて、宮中三殿の西に位置する神嘉殿(しんかでん)の前庭にお出ましになり、二双の屏風で囲まれた拝座で、伊勢の神宮、四方の神々、歴代天皇の御陵を深々と遥拝なさり、災いを祓い、五穀豊穣、宝祚長久、国家の安定と国民の安寧を祈られると説明されています(八束「皇室祭祀百年史」)。

 古く皇極天皇の時代に始まり、平安期の宇多天皇の御代に恒例となったといわれる、千数百年の歴史を持つ、皇室の重儀です。

 四方拝が、宮中三殿の殿内ではなく、庭上で執り行われるのは「庭上下御(ていじょうげぎょ)」といい、至尊の立場ながら、天皇みずから地上に降り立って、謙虚に神々を仰ぐ崇敬の誠を示した、もっとも鄭重な御作法といわれています。


▽2 入江侍従長による改変


 ところが、昭和の時代に、この伝統の作法が崩れてしまいました。

 昭和44年、侍従長に昇格した入江相政は、年も押し詰まった12月26日、いかにも唐突に、

「翌年元旦の四方拝は神嘉殿前庭ではなくて御所のテラスで、黄櫨染御袍ではなくてモーニング・コートで、つづく歳旦祭および一月三日の元始祭は御代拝とすること」

 と昭和天皇に直接、建言したのでした(『入江相政日記』)。

 これは天皇の祭りの歴史と伝統を、何の根拠もなく打ち破る、重大な変更でした。「御所のテラスで」では庭上下御にはなりません。入江は、昭和天皇が納得されていないにもかかわらず、祭祀の改変を無原則に推し進めました。

 もし、たとえばご健康に不安があるというのなら、皇室祭祀令には

「天皇、喪にあり、その他事故あるときは、前項の祭典(大祭)は皇族または掌典長をしてこれを行わしむ」

 などと定められていましたから、親祭、親拝がご無理だとすれば、大祭なら皇族か掌典長に祭典を行わせ、小祭なら皇族か侍従による御代拝させれば済むことです。なぜ「四方拝は御所のテラスで」なのか、意味が分かりません。

 現在の祭りのあり方は、悪しき昭和の時代を無批判に踏襲するものです。従うべき基準が、入江相政侍従長以後、失われてしまったのです。


▽3 「ご高齢」が想定されていない


 皇室祭祀令は「天皇、喪にあり、その他事故あるとき」「天皇、襁褓(きょうほう)にあるとき」については定めがありましたが、ご高齢になったときについての定めはとくにありません。

 問題はそこでしょう。ご高齢という事態が想定されていないのです。

 明治の時代に皇室祭祀が整備されていった精神は、合理主義と現実主義でした。明治人の精神を学ぶ直すことが求められています。

 80歳を超えてなお、皇位にあるのは昭和天皇と今上陛下のお二方だけです。天皇第一のお務めである祭祀の伝統を守るためには、まずは現実がどうあるのか、事実を知る必要があります。

 皇室祭祀令は戦後廃止されましたが、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて、事務を処理すること」とする宮内府長官官房文書課長の依命通牒によって、踏襲されてきました。

 依命通牒は破棄されていないというのが宮内庁の立場ですから、だとすれば、「四方拝は御所のテラスで」とする、入江侍従長による祭祀改変の法的根拠はどこにあるのでしょうか?


▽4 側近批判に対するタブー?


 しかし、メディアの追求は弱いようです。

 たとえば、産経新聞です。「皇室ウイークリー」というコーナーを設けているのはさすがの見識です。読者の反応もいいようです。

 けれども、「陛下は今年もお住まいの御所で、最初の祭祀(さいし)「四方拝(しほうはい)」に臨まれた」と伝えているだけです〈http://www.sankei.com/life/news/150102/lif1501020014-n1.html〉。

 宮中祭祀について、詳しく報道し続けている宗教専門紙も同様で、「御所で」としか伝えていません。以前は事実を淡々と、論評抜きに伝えていた媒体だけに、非常に残念です。

 宮内庁はまさか時代錯誤の情報統制でもしているのでしょうか?

 天皇の祭祀は国民的な関心が高まっている折も折、触れてはならないタブーになっているかのようです。かつての「菊のタブー」は天皇・皇室批判に対するタブーでしたが、いまはそれとは異なり、側近批判に対するタブーのように見えます。

 天皇の祭祀について報道が増えるほど、読者を誤った方向に導くことになりはしないかと心配です。リアリズムなき報道が何をもたらすか、「慰安婦」報道でいやというほど、私たちは見せつけられたはずです。

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宮中新嘗祭は稲の儀礼ではない──誤解されている天皇の祭り [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年11月24日)からの転載です


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宮中新嘗祭は稲の儀礼ではない
──誤解されている天皇の祭り
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 昨夕、皇居の奥深い神域で新嘗祭が斎行されました。

 昨今はインターネット時代で、多くの方が陛下の祭りについて情報を発信していますが、「稲の祭り」「天照大神をまつる」といった、必ずしも正確ではない情報が広がっているのは残念です。

 そして、このような誤情報こそ、側近らによる祭祀の改変を野放しにしている最大の理由ではないかと私は心配しています。

 そんなわけで、宮中新嘗祭について、あらためて考えてみることにします。


▽1 天皇みずから諸神をまつる複合儀礼

 昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫の「皇室祭祀百年史」には、こう説明されています。

「新嘗祭は、毎年11月23日、24日の両日にわたって行われ、天皇陛下が当年の新穀を召し上がるについて、その年の御饌・御酒を天照大神以下諸神に奉って、親祭される皇室第一の重い祭祀である」

 ポイントは4点あります。

 第1に、天皇みずからなさる祭祀だということです。

 伊勢神宮や一般の神社神宮では、神職による神事が行われますが、宮中祭祀は陛下みずから祭祀をお務めになります。

 陛下は、ほかの祭祀とは異なり、新嘗祭では、特別に純白生絹(すずし)の祭服をお召しになります。「謹慎と清浄」を表現しているとされます。

 陛下にとって、格別の祭祀なのです。

 第2に、諸神を祀るということです。

 研究者によると、古代律令制の定めのひとつである「神祇令(じんぎりょう)」の「即位の条」には、「およそ天皇、位に即(つ)きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記されています。

 天皇が天照大神のみを祀る、祖先崇拝的な神事ではないのです。伊勢の神宮とは異なります。

 第3に、米と粟の複合儀礼だということです。

 八束清貫は「この祭りにもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥と、新米をもって1か月余を費やして醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の新酒である」と説明しています。

 新嘗祭は稲の儀礼だとする説明が世間に流通していますが、不正確です。

 伊勢の神宮の祭祀は1年365日、徹頭徹尾、稲の祭りであり、全国各地の新嘗祭が稲の祭りとして行われていることは間違いないでしょうが、宮中新嘗祭はそれらとは異なります。


▽2 なぜ諸神をまつり、米と粟を捧げるのか

 従って、第4点として、指摘されるのは、祭りの意義が、ほかの新嘗祭とは異なるということになろうかと思います。

 歴史学者の三浦周行京都帝国大学教授は『即位礼と大嘗祭』(大正3年)に、天皇が一世一度の大嘗祭に諸神を祭ることについて、その意味を次のように説明しています。

「天神地祇には、もとより皇室のご祖先もあられるが、臣民の祖先の、国家に功労のあったかどで神社にまつられ、官幣・国幣を享けつつあるものも少なくない。これらは国民の共通的祖先の代表的なものと申して差し支えない。……皇室のご祖先をはじめ奉り、一般臣民の祖先を御崇敬遊ばされ、また現代においては一般臣民とともに楽しみたもう大御心を御表示遊ばされると申すが、すなわち御大典の根本の御精神であって……」

 天皇は大嘗祭、新嘗祭に、皇祖神のほか、各氏族の氏神をまつり、神饌をみずからお供えになり、国の安定と民の平安を祈られます。

 もし新嘗祭が、皇室に伝わる稲作信仰に基づく祖先崇拝だとするならば、天照大神を祀る賢所で祭祀は行われるべきであり、神饌も稲のみで足りるはずです。

 そうではなくて、神嘉殿という特別の祭場で、民が信じるあらゆる神々をまつり、米と粟の新穀を捧げられるのは、国と民をひとつにまとめ上げるという天皇の最大のお役目に発するものと私は思います。

 日本列島はけっして米作適地ではありません。水田耕作に不向きな土地もたくさんあります。稲作伝来以前からこの地に住み着いてきた畑作民農耕民の文化も各地に伝えられてきていることは、各地の神社の祭祀に色濃くうかがえます。

 日本人は複数のルーツを持ち、必ずしもすべての日本人が米を主食としてきたわけではありません。縄文以来の信仰を引き継いでいると見られる古社では、神に捧げる主饌はしばしば稲ではありません。

 そのように考えると、あらゆる民のために、公正かつ無私なる祈りを捧げる天皇の祭りは、複合儀礼とならざるを得ません。

 天皇が天神地祇をまつり、米と粟の複合儀礼をなさるのは、国民それぞれの精神的、物質的生活を重んじ、発展を願うからでしょう。

 つまり、天皇の祭りは国民の信教の自由を保障するものと考えることができます。


▽3 政教分離原則を理由とする「簡素化」の矛盾

 一昨年以来、宮内庁は陛下の御健康問題を理由として、新嘗祭の「簡素化」を進めています〈http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h23-1101.html#K1118〉。

 報道によれば、昨夕、安倍首相は新嘗祭に参列したようですが、「午後6時55分、公邸発。同7時1分、皇居着。新嘗祭神嘉殿の儀に参列。午後8時32分、皇居発。」と記録されています〈http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013112400002〉。

 本来なら、午後6時、陛下が出御(しゅつぎょ)され、1時間以上、時間をかけて、神饌を供されるなど、2時間の神事を行われ、この「夕(よい)の儀」が終了して、3時間後、陛下がふたたびお出ましになり、「暁の儀」の神事が繰り返されます。

 首相動静から想像すると、今年も簡略新嘗祭が行われたものと思われます。

 宮内庁はその根拠に昭和の先例を引き出し、昭和の新嘗祭簡略化が昭和天皇の御健康問題が理由であったかのように説明していますが、まったく誤りです

 拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』に詳述したように、昭和40年代に入江侍従長の祭祀嫌いに始まり、「無神論者」を自認する富田宮内庁長官の政教分離主義によって、皇室の伝統を軽視する祭祀簡略化は本格化したのでした。

 入江日記を読むと、昭和天皇は側近による祭祀の「簡素化」に最後まで抵抗されたことがうかがえます。それはそうでしょう、順徳天皇の「禁秘抄」に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあります。

 天皇は祭祀王なのです。

 そして、古来、天皇の祭祀こそ国民の信教の自由を保障するものであり、それゆえにわが国ではどの国よりも宗教の平和的共存が実現されてきたのです。

 だとしたら、憲法の政教分離原則を根拠とした祭祀の改変は、歴史と伝統の破壊以外の何ものでもないことになります。

 いまふたたび側近らによる祭祀改変を強いられている今上陛下のご心中は察するにあまりあります。


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終戦後、天皇の祭祀はどのように存続し得たか──歴史的に考えるということ 3 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年4月29日)からの転載です


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終戦後、天皇の祭祀はどのように存続し得たか
──歴史的に考えるということ 3
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 久々の更新です。

 このところ、靖国神社問題をテーマに、斎藤吉久メールマガジン〈http://melma.com/backnumber_196625/〉の方ばかりを更新していました。

 さて、ゴールデン・ウイークが始まりました。けれども休暇を満喫できる国民はどれほどいるのでしょうか? いまや非正規雇用は労働者の3割を超え、有給休暇の恩恵に浴せる勤労者はけっして多くないはずですが、メディアは行楽のニュースばかりを追いかけています。

 マスコミがほとんど伝えていないことのひとつに、歴代天皇が第一のお務めと信じ、実践してこられた宮中祭祀があります。昭和天皇も今上陛下も祭祀を大切になさっていますが、当メルマガが何度も指摘してきたように、そのあり方にはかなりの変化があります。


▽1 戦後も「温存」された?

 第一の変化は敗戦を契機にしていました。

 5年前のちょうどいま時分、原武史明治学院大学教授(元日本経済新聞記者)が月刊誌で、「宮中祭祀の廃止も検討すべき時がきた」とセンセーショナルな問いかけをしました。もはや日本は農耕社会ではない。農耕儀礼は形骸化している。祭祀の根本的見直しという選択肢もあり得る、というのでした。

 当メルマガは、原教授には偏見があることなど、かなり徹底した批判を試みました〈http://melma.com/backnumber_170937_4063925/〉。

 それはともかく、そのころ原教授の『昭和天皇』を読んで、私はハッと思いました。終戦直後、昭和20年暮れに占領軍が発令した、いわゆる神道指令は宮中祭祀についてほとんど触れておらず、祭祀は戦後も温存された、と書いてあったからです。

「温存」とはどういう意味なのでしょうか?

 神道指令は「宗教を国家から分離すること」を目的としていました。しかし宮中祭祀はその適用外で、そのため明治以来の形で存続した、という解釈なのでしょうか?

 だとしたら、完全な間違いでしょう。占領軍の不当かつ厳しい干渉を受け、宮中祭祀は激変したのです。


▽2 「有史以来の一大変革」

 昭和天皇の祭祀に携わった元宮内省掌典の八束清貫は、「皇室祭祀百年史」(『明治維新神道百年史』所収)に、こう書いています。

「(神道指令発令で)わが国における祭祀は(伊勢)神宮・皇室・各神社とを問わず、すべて宗教行為としてこれを官辺にて管理することを一切禁じたのである。まさに有史以来の一大変革と申さねばならぬ」

 明治41年9月に制定公布された皇室祭祀令は、大祭は「天皇、皇族および官僚を率いてみずから祭典を行う」、小祭は「天皇、皇族および官僚を率いてみずから拝礼し、掌典長祭典を行う」と定めていました。

 しかし神道指令の発令を受けて、「皇族および官僚を率いて」が削られるとともに、皇室祭祀令に規定する官国幣社の祈年祭、新嘗祭班幣の項も削除されました。

 そしてさらに、22年5月3日、日本国憲法が施行される前日、皇室祭祀令など皇室令のすべてが廃止されました。つまり、原教授のいうような「温存」どころか、明文法的根拠が失われたのです。

 にもかかわらず、天皇の祭祀は存続しました。なぜ存続し得たのか、皇室祭祀令に代わる法的根拠は、当メルマガの読者ならすでに御存知のように、依命通牒です。

「昭和22年5月3日をもって宮内府長官官房文書課発、宮内府長官官房文書課長高尾亮一の名によって、各部局長官に対し、依命通牒が発せられるに至ったのである」と八束は説明しています。

 ただ、すでに百地章日大教授に対する再批判で指摘してきたように、依命通牒(通達)、いまでいう審議官通達は、官報にも載りませんから、その存在を知る人はごく一部の関係者に限られたものと思います。

 依命通牒について説明する八束論文を掲載した『神道百年史』が出版されたのは昭和41年ですが、目を通した読者はけっして多くはないでしょう。原教授が「温存」のひと言ですませたのも無理はないかもしれません。

 宮内庁の前身である宮内府の「関係法令集」、および現在の宮内庁の「関係法規集」には昭和50年版まで、この依命通牒が掲載されていたようです。むろん八束論文にも全文が載っています。


▽2 依命通牒の起案書

 ところで、依命通牒の起案書が残されています。

 起案書は、赤線に縁取られた、宮内府のさらに前身である宮内省の事務用箋、B4判、3枚に、毛筆でしたためられています。

 1枚目の欄外には「文議第二号」とあり、同じく欄外に「御覧済」の朱印が押され、付箋でしょうか、「御覧モノ」と墨字で書いた紙が付されているようです。昭和天皇が起案書を御覧になったということでしょう。

 以下、できるだけ忠実に、全文を書き写します。

(1枚目)
立案 昭和二十二年五月三日
決裁 昭和〃年〃月〃日   文書課長(「高尾」の印)

長官(花押)
次長(「加藤」の印)

皇室令及び附属法令は、五月三日限り、廢止せられることになつたについては、事務は、概ね、左記により、取り扱うことにしてよいか、伺います。

     記

一、新法令が、できているものは、当然夫々、その條規によること。(例、皇室典範、宮内府法、宮内府法施行令、皇室経済法、皇室経済法の施行に関する法律、皇統譜令等)

二、政府部内一般に適用する法令は、当然、これを適用すること。(例、官吏任用敍級令、管理俸給令等)

三、從前の規定が、廢止となり、新しい規定

(2枚目)
が、できていないものは、從前の例に準じて、事務を処理すること。(例、皇室諸制典の附式、皇族の班位等)

四、前項の場合において、從前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること。(例、宮中席次等)

五、部内限りの諸規則で、特別の事情のないものは、新規則ができるまで、從來の規則に準じて、事務を処理すること。特別の事情のあるものは、前項に準じて処理すること。(例、委任規定、非常災害処務規定、宿直処務規定等)

宮内府長官官房文書課発第四五号

  依命通牒案

 昭和二十二年五月三日 宮内府長官官房文書課長

 各部局長官

(3枚目)
    依命通牒

皇室令及び附属法令は、五月三日限り、廢止せられることになつたについては、事務は、概ね、左記により、取り扱うことになつたから、命によつて通牒する。

     記
(前同文)

 この通牒によって、天皇の祭祀は維持されたのです。しかし昭和43年4月に侍従次長となった入江相政は、異常な執念で、祭祀の「簡素化」(入江日記)を開始します。

 つまり、「従前の規定が、廃止となり、新しい規定が、できていないものは、從前の例に準じて、事務を処理すること」と定めて、祭祀を存続させてきた依命通牒(第3項)が反故にされたのです。

 つづく。
  
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天皇はあらゆる神に祈りを捧げる──日本教育再生機構広報誌の連載から [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年4月12日)からの転載です


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天皇はあらゆる神に祈りを捧げる
──日本教育再生機構広報誌の連載から
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 日本教育再生機構広報誌「教育再生」の連載から転載します。なお、一部に加筆修正があります。


 天皇陛下はいかなる神に、祈りを捧げられるのでしょうか?

 昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫(やつか・きよつら)元掌典(しょうてん)の「皇室祭祀百年史」(『明治維新神道百年史第1巻』所収)を読むと、祭祀によって祭殿が異なること、つまり祈りを捧げる神が異なることが分かります。

 たとえば一月三日の元始祭(げんしさい)は、皇祖天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られる賢所、歴代の天皇・皇后などが祀られる皇霊殿(こうれいでん)、天神地祇(てんじんちぎ)が祀られる神殿の三殿すべてで行われます。

 春分の日の春季皇霊祭は皇霊殿で、春季神殿祭は神殿で行われ、十月十七日の神嘗祭(かんなめさい)は賢所で行われるという具合です。

 これと少し異なるのは、十一月二十三日の新嘗祭(にいなめさい)で、宮中三殿の西に位置する神嘉殿(しんかでん)で行われます。

 神嘗祭と新嘗祭は性格が似ていて、神前に新穀が捧げられますが、大御神が天孫降臨に際して、斎庭(ゆにわ)の稲穂を授けられたとする神話に基づく神嘗祭が、皇祖神に米の新穀が主として供されるのに対して、皇室第一の重儀といわれる新嘗祭は、「天照大御神以下諸神」(八束)に米と粟の新穀が主に捧げられるという際立った違いがあります。

 新嘗祭の「諸神」とはどんな神なのでしょう? なぜ米と粟なのか?

 神道研究家の田中初夫東京家政学院短大教授は、古代律令制の定めのひとつである「神祇令(じんぎりょう)」の「即位の条」に、「およそ天皇、位に即(つ)きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記されていることを紹介しています(『践祚(せんそ)大嘗祭(だいじょうさい) 研究篇』)。

 天皇が皇位継承後、最初に行われる、一世一度の新嘗祭が大嘗祭ですが、平安中期に編纂された延喜式(えんぎしき)に載る、大嘗祭の祝詞(のりと)の一節には「大嘗(おおにえ)きこしめさんための故に、諸神をお祭りする」とあります(八束清貫『祭日祝日謹話』)。

 延喜式には「三百四座」などと、祭神数が具体的に示されていますが、文字通りそれらの神に祈りが捧げられると考えるべきでしょうか? 神名や数が明らかにされれば、それだけ祈りは限定的になってしまいます。

 八束が説明するように、まず神嘗祭で天照大御神に稲の新穀を奉り、新嘗祭では万民のために諸神を祀り神恩を感謝されるのだとすれば、名前が知られていない神々も含めて、あらゆる神と理解する方が自然でしょう。「国中平らかに安らけく」(「後鳥羽院宸記(しんき)」)と公正かつ無私なる祈りを捧げられるのが天皇だとすれば、祈りの対象はすべての神でなければならないはずです。

 一神教世界であれば、民が信じる神とは無関係に、統治者は唯一なる自分の神に祈りを捧げるでしょう。数年前、ローマ教皇がイスタンブールのブルー・モスクを表敬し、無言の祈りを捧げたことが多くの共感を呼びましたが、イスラムの神に祈りを捧げたわけではないでしょう。

 けれども歴代の天皇は古来、万民のため、万民が信じるあらゆる神々に祈ることを、第一のお務めとされています。

 民が信じるすべての神に祈りを捧げるとすれば、祭式は複合的になります。稲作民の稲と畑作民の粟が供される所以(ゆえん)かと思います。
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天皇はひたすら国と民のために祈られる  ──日本教育再生機構広報誌の連載から [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 天皇はひたすら国と民のために祈られる
 ──日本教育再生機構広報誌の連載から
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 日本教育再生機構広報誌「教育再生」の連載から転載します。なお、一部に加筆修正があります。


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 宮中祭祀とは、いつ、誰が、どこで、何を、どのように行うものなのか、基本的なところについてごいっしょに考えてきたつもりです。

 今回は、少し踏み込んで、陛下の祈りの核心部分、つまり神社の祝詞(のりと)に相当する御告文(おつげぶみ)の内容について、考えてみます。

 しかし、これがよく分かりません。もともと天皇の祭りは秘儀とされています。バチカンの礼拝堂で、衆人環視のもと行われるローマ教皇のキリスト教典礼とは異なり、陛下がなさる宮中祭祀は誰も見ないところで行われるのが基本です。

 そして御告文こそ、秘中の秘です。

 神前に食を捧げ、直会(なおらい)なさる神人共食の祭式については、多くの記録があり、研究書も少なくありませんが、御告文については研究らしいものが見当たりません。

 戦前、昭和天皇の祭祀に携わり、戦後は全国約八万の神社を包括する神社本庁の嘱託を務めた八束清貫(やつか・きよつら)の「皇室祭祀百年史」(『明治維新神道百年史第1巻』昭和四十一年所収)でも、たとえば皇室第一の重儀とされる新嘗祭(にいなめさい)について、「御告文を奏上されて、五穀の豊穣を奉謝し、皇宝・国家・国民の上を祈らせられる」と述べているだけで、御告文の具体的中味にはまったく言及されていません。

 現在の宮内庁も、その姿勢には変わりがありません。平成の御代替わりに行われた諸儀式に関する『平成大礼記録』が平成六年にとりまとめられていますが、即位後最初の新嘗祭である大嘗祭(だいじょうさい)について、とくに本来、「秘儀」とされる大嘗宮の儀について、公開が避けられてきた采女(うねめ)の所作にまで言及し、事細かに祭式が記録されている一方、御告文の中味については記述がありません。

 内閣官房が編集・発行した『平成即位の礼記録』も、同様です。

 けれども、歴史的資料がわずかながら確認されています。

 ひとつは、第八十二代後鳥羽天皇の日記・後鳥羽院宸記(しんき)(『皇室文学大系4』昭和五十四年)です。

 十四歳で即位した順徳天皇に、父帝・後鳥羽上皇が大嘗祭直前、その秘儀について教えたことが、建暦二(一二一二)年十月二十五日の項に記され、御告文(申し詞[もうしことば])が引用されています。

「伊勢の五十鈴の河上にます天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく。朕(ちん)、皇神の広き護りによりて、国中平らかに安らけく、年穀豊かに稔り、上下を覆寿(おお)いて、諸民を救済(すく)わん。よりて今年新たに得るところの新飯を供え奉ること、かくのごとし」

 もうひとつは、元文三(一七三八)年に行われた、いまから十代前の第百十五代桜町天皇の大嘗祭の御告文です。中味はほとんど変わりません。「天が下平らかに年穀ゆたかにみのりて美しき蒼生をも救い」とあります。

 比較しても仕方がないことですが、私たち俗人であれば、自分や家族のために祈ります。けれども天皇はまったく異なります。天皇はひたすら国と民のために祈りを捧げられます。千年以上も、その祈りを第一のお務めとしてされてきたのが天皇なのです。

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