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神饌を供え、天皇みずから召し上がる──日本教育再生機構広報誌の連載から [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 神饌を供え、天皇みずから召し上がる
 ──日本教育再生機構広報誌の連載から
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 日本教育再生機構広報誌「教育再生」の連載から転載します。なお、一部に加筆修正があります。


 天皇陛下はどのような祭祀を行われるのでしょうか? 皇室第一の重儀といわれる新嘗祭(にいなめさい)について考えてみます。

 新嘗祭は宮中三殿の西隣に位置する神嘉殿(しんかでん)で行われます。

 かつては十一月の下卯日(しものうのひ。三卯あれば中卯日)が祭日でした。明治天皇の大嘗祭が行われた翌年、明治五(一八七二)年に新嘗祭が整備され、さらに太陽暦導入で、翌六年以後は今日、「勤労感謝の日」と呼ばれる十一月二十三日に行われることとなりました。

 七年からは新嘗祭神殿を毎年建て直すやり方から恒久施設で行われる方式に変わりました。『明治天皇紀』は、旧例墨守を批判し、「偏に実際に就くを旨」として祭儀が整備されたと記しています。

 二十三日午後六時、天皇陛下が出御(しゅつぎょ)されます。ほかの祭祀では、天皇だけがお召しになる立纓冠(りゅうえいのかん)に黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を召されてのお出ましですが、新嘗祭だけは「謹慎と清浄」を表現する、特別の冠に純白生絹(すずし)の祭服です。

 次いで皇太子殿下が純白の祭服で参進されます。皇后陛下ほか女性皇族の拝礼・参列はありません。

 陛下がお出ましになると、「オーシー」の警蹕(けいひつ)一声、お手水(てみず)の具のほか、数々の神饌が殿内へと運び込まれます。

 陛下は脂燭(ししょく)以外、照明のない、暖もない広間に端座されます。人の見ないところで行われるのが天皇の祭りです。

 陛下は最初にお手水を行われ、そのあと古来の作法に従って、ピンセット型の竹折箸を用い、神饌をみずから一時間以上かけて、神前にお供えになります。

 なかでも重要とされるのが、その年に収穫された新米・新粟を炊いた米の御飯(おんいい)・御粥(おんかゆ)、粟の御飯・御粥、および新米をもって醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の新酒です。

 陛下御自身が皇居内の水田で育てられた稲と、各県から献上された米と粟の新穀の御饌と御酒が皇祖神以下、天神地祇(てんじんちぎ)に捧げられ、陛下御自身も神前で召し上がるのがこの祭りの趣旨です。

 神人共食の食儀礼です。

 御飯は葛(くず)の皮を編んだ葛筥(くずばこ)に納められています。蓋(ふた)をとると、中に御飯と御粥をそれぞれ盛った窪椀(くぼて)があります。御飯は甑(こしき)で蒸した強飯(こわめし)で、米、粟各二盛。一盛は神前に供され、もう一盛は陛下が召し上がるためのものです。

 神饌御進供(ごしんく)ののち陛下は恭しく拝礼され、御告文(おつげぶみ)を奏され、五穀豊穣を感謝されるとともに、国の平安と民の安寧を祈られます。

 そのあと陛下は、新穀の御飯と新酒の白酒・黒酒を召し上がります。みずから新嘗されるこの直会(なおらい)のあと、神饌が順次、撤下(てっか)され、お手水が行われます。

 お手水の具を先頭に神饌が退下(たいげ)し、天皇陛下、皇太子殿下が相次いでお下がりになって、「夕(よい)の儀」が終了します。

 三時間後、陛下がお出ましになり、二時間の神事が繰り返されます。これが「暁(あかつき)の儀」です。夕食をお召し上がりいただき、一晩お泊まりいただいたあと、翌日、朝食を差し上げるという趣旨と聞きます。
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天皇の祭祀は奥深い聖域で行われる──日本教育再生機構広報誌の連載から [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 天皇の祭祀は奥深い聖域で行われる
 ──日本教育再生機構広報誌の連載から
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 日本教育再生機構広報誌「教育再生」の連載(昨年7月)から転載します。なお、一部に加筆修正があります。



 皇室の祭祀は古くは、歴代の天皇が鎮まる御陵などで行われたといわれます。

 いまでもその名残がうかがえます。

 たとえば六月下旬から皇太子殿下がタイ、カンボジア、ラオス三カ国を訪問されましたが、ご出発前とご帰国後、皇祖天照大神が祀られる賢所のほか、昭和天皇・香淳皇后が鎮まる武蔵野陵(むさしののみささぎ)・武蔵野東陵に参拝されました。

 殿下のみならず、天皇皇后両陛下の外国ご訪問の場合なども同様です。

 天皇の祭りは、現在はおもに宮中の奥深い神域、宮中三殿で行われます。宮中三殿は、先述した賢所(かしこどころ)、歴代の天皇・皇后などが祀られる皇霊殿(こうれいでん)、天神地祇が祀られる神殿の総称です。

 明治二年三月に明治天皇が京都から賢所とともに東京に移られ、かつての江戸城は皇居と定まり、賢所が遷座(せんざ)されました。

 記紀神話に、天照大神が天孫降臨に際して宝鏡を授けられ、「この鏡を私と思って、拝しなさい。同じ床、同じ屋根の下に祀りなさい」と命じられたとされる「同床共殿」の神勅(しんちょく)に由来しています。

 けれども当時の宮中三殿は数年後、皇居の建物すべてを焼き尽くした大火によって焼失しました。

 現在の宮中三殿は明治十五年に宮殿とともに造営が始まり、二十二年に遷座されました。明治の宮殿は空襲で類焼しましたが、三殿は関東大震災など幾多の災禍を免れ、今日に至っています。

 天皇の祭りの多くはこの宮中三殿で行われます。

 たとえば毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)は、天皇が毎日、側近の侍従を潔斎(けっさい)のうえ、烏帽子(えぼし)・浄衣(じょうえ)に身を正させ、宮中三殿に遣わし、天皇に代わって、三殿の内陣で拝礼させます。平安初期、宇多(うだ)天皇の時代に始まった石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)が起源とされます。

 けれども、昭和五十年九月以降は、侍従はモーニング・コートの洋装で、拝礼場所も三殿の南庭上から、と変更されています。「侍従は国家公務員なので、神道という宗教にタッチすべきではない」という政教分離原則の厳格な解釈・運用の結果といわれます。

 このほか、陛下が一年の最初に行われる元旦の四方拝(しほうはい)も、場所が変更されています。

 本来は、まだ明けやらぬ早暁、御装束を召された陛下は、宮中三殿の西に位置する神嘉殿の前庭にお出ましになり、屏風二双で囲まれた拝座で、伊勢神宮、山陵、および四方の神々を遥拝されます。

 七世紀、皇極天皇の時代に始まったともいわれる重儀ですが、昭和四十四年暮れ、当時の入江相政(いりえ・すけまさ)侍従長は昭和天皇に「四方拝はテラス、御洋装で」(『入江日記』)と提案したのでした。

 四方拝が庭上で行われるのは「庭上下御」といって、天皇がみずから地上に降り立って謙虚に神々を仰ぐ崇敬の誠を示しているといわれますから、重大な変更でした。

 なお、皇室第一の重い祭祀といわれる十一月下旬の新嘗祭は、正確にいうと、宮中三殿ではなく、三殿の西に位置する神嘉殿で行われます。
タグ:宮中祭祀
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天皇の、天皇による祭祀──日本教育再生機構広報誌の連載から [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年4月5日)からの転載です


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天皇の、天皇による祭祀
──日本教育再生機構広報誌の連載から
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 日本教育再生機構広報誌「教育再生」の連載から転載します。なお、一部に加筆修正があります。


 宮内庁のHPに「両陛下のご日程」が載っています。平成17年からは、宮中祭祀に関する情報も掲載されるようになりました。

 順徳天皇が著された「禁秘抄(きんぴしょう)」(承久3年=1221年)の冒頭に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあるように、歴代天皇が第一の務めと考えてこられたのが宮中祭祀ですから、本来、そうあるべきでした。

「宮中祭祀は天皇陛下の『私的なご活動』」(渡邉允前侍従長「諸君!」2008年7月号掲載インタビュー)とする、現在の宮内庁の考えがおかしいのです。

 さらに誤解を生みかないのは、以下のような宮中祭祀についての宮内庁の説明です(筆者注。最近は少し表現が変わっています)。

「天皇皇后両陛下は、宮中の祭祀を大切に受け継がれ、常に国民の幸せを祈っておられ、年間約20件近くの祭儀が行われています」

 まず件数です。前回、お話ししたように、大祭・小祭、それに旬祭を加えると、約60件を数えるといいます。毎朝御代拝を加えれば、400件を超えます。宮内庁の説明は、側近による御代拝を最初から除外している上に、平成21年以後の祭祀簡略化でお出ましが減ったことを示しています。本来的な数字とはいえません。

 ただ、最近はHPの説明から件数の記載が消えました。クレームでもあったからでしょうか?

 もっと重要なのは、宮内庁のこの説明では祭祀の主体が天皇陛下ではなく、天皇皇后両陛下であるかのように誤解されかねないことです。

 両陛下が祭祀を大切にしておられるのは事実でしょうが、宮中祭祀はあくまで天皇の祭りです。

 たとえば宮中第一の重儀とされる、11月23日の新嘗祭で、神嘉殿にお出ましになり、米と粟の新穀を神前にお供えになり、みずから食され、国家の平和と国民の平安を祈られるのは天皇陛下お一人です。皇太子殿下もお出ましになり、さらに成年男子皇族が参列されますが、皇后陛下はお出ましにはなりません。

 元始祭(げんしさい。1月3日)、昭和天皇祭(1月7日)、春季皇霊祭・神殿祭(春分の日)などの大祭は、皇后陛下や皇太子同妃両殿下が拝礼され、すべての成年皇族が参列されますが、祭りの中心は天皇陛下がみずからなさる神事です。

 このほか、小祭と位置づけられる歳旦祭(さいたんさい。元日)、祈年祭(きねんさい。2月17日)、天長祭(天皇誕生日。12月23日)も天皇陛下の御拝(ごはい)、皇太子殿下の拝礼だけで、皇后陛下やほかの皇族方の参列はありません。

 明治41年に成立した皇室祭祀令は、「大祭には、天皇、皇族および官僚を率いて、みずから祭典を行う」(第8条)、「小祭には、天皇、皇族および官僚を率いて、みずから拝礼し、掌典長、祭典を行う」(第20条)と定めていました。

 皇后陛下も皇太子殿下も、天皇陛下がなさる祭祀にお供をするというお立場なのです。

 最近は「陛下が祭祀に出席」と伝える新聞記事などをしばしば見かけますが、これも誤解を招く表現です。

「出御(しゅつぎょ)」「お出まし」を平易に言い換えたつもりでしょうが、宮内庁が主催する祭祀に陛下が出席なさる、というのではありません。政府などが主催する戦没者追悼式や全国植樹祭にご臨席になるのとは基本的に異なります。

 宮中祭祀はあくまで天皇の、天皇による祭りなのです。

 蛇足ながら、もうひとつ付け加えます。宮内庁のHPはいま、宮中祭祀について、「両陛下は祭儀を忠実に受け継がれ」と記述しています。官僚たちによる祭祀簡略化の事実が隠蔽されています。

 現在の宮内庁は天皇陛下の祭祀を正確に伝えていません。
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天皇陛下は日々、祈られる──日本教育再生機構広報誌「教育再生」連載から [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 天皇陛下は日々、祈られる
 ──日本教育再生機構広報誌「教育再生」連載から
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 日本教育再生機構の広報誌「脅威地区再生」に連載された拙文からの転載です。一部に加筆修正があります。


 天皇陛下は祭祀を行われます。祭りをなさることが、天皇の天皇たる所以(ゆえん)です。君主制を採用する国は世界に少なくありませんが、みずから祭りを行う君主は、日本の天皇以外にはありません。「祈る王」「祭祀王」と呼ばれます。

 けれども天皇のお祭りは学校ではほとんど教えられず、マスコミも滅多に取り上げません。

 そこで、天皇がなさる宮中祭祀の基本を、これから皆さんとご一緒に学んでいきたいと思います。今回は年間予定です。

 天皇陛下の1年は祭りに始まります。

 まだ明けやらぬ元日の早暁、陛下は潔斎ののち、陛下だけが身にまとう黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)をお召しになり、皇居の奥深い聖域・宮中三殿の西に位置する神嘉殿(しんかでん)の前庭にお出ましになり、二双の屏風(びょうぶ)で囲まれた拝座で、余人をまじえず、お一人で伊勢神宮、四方の神々、歴代天皇の御陵を遥拝(ようはい)されます。

 四方拝(しほうはい)と呼ばれます。

 宮内庁のホームページには次のような主要祭儀が載っています。○印がついているのが、陛下がみずから祭りをなさる大祭です。ほかは小祭で、祭祀を担当する掌典職トップの掌典長が祭典を奉仕し、陛下が拝礼されます。

 1月1日 四方拝、歳旦祭(さいたんさい)
○1月3日 元始祭(げんしさい)
 1月4日 奏事始(そうじはじめ)
○1月7日 昭和天皇祭
 1月30日 孝明天皇例祭
 2月17日 祈年祭
○春分の日 春季皇霊祭、春季神殿祭
○4月3日 神武天皇祭、皇霊殿御神楽(みかぐら)
 6月30日 節折(よおり)、大祓(おおはらい)
 7月30日 明治天皇例祭
○秋分の日 秋季皇霊祭、秋季神殿祭
○10月17日 神嘗祭(かんなめさい)
○11月23日 新嘗祭(にいなめさい)
 12月中旬 賢所御神楽(かしこどころみかぐら)
 12月23日 天長祭
 12月25日 大正天皇例祭
 12月31日 節折、大祓

 陛下の祭りは11月下旬から翌年1月まで寒さが募る時季に集中していることが分かります。

 明治41(1908)年制定の皇室祭祀令ではほかに、2月11日の紀元節祭がありましたが、現在は行われていません。ただ、陛下は恒例の御拝(ごはい)を欠かされません。

 大祭・小祭のほかに、歴代天皇の式年祭が崩御日に相当する日に行われ、陛下が拝礼されます。

 さらに毎月1日、11日、21日に旬祭(しゅんさい)が行われ、このうち一日は、陛下が拝礼なさいます。

 これらを合わせると宮中祭祀は年間約60件を数えます。

 けれども、宮内庁のHPは以前、「約20件」と記述していました。それ以前は「約30件」とされていました。「約30件」は月3回の旬祭を計算していないのでしょう。「約20件」は祭祀簡略化の結果でしょう。

 つまり、陛下のお出ましになる祭祀の件数を宮内庁は数え上げたということですが、天皇の祭祀は陛下が出御なさるかどうかは問題ではありません。

 何しろ、天皇の祭りは毎日、行われます。それが毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)です。

 陛下は雨の日も風の日も、毎朝、側近の侍従を宮中三殿に遣わし、烏帽子(えぼし)・浄衣(じょうえ)に身を正させ、ご自身に代わって拝礼させ、ご自身は御所でお慎みになります。

 平安時代の宇多(うだ)天皇に始まる、天皇が毎朝、清涼殿(せいりょうでん)で、みずから伊勢神宮ならびに賢所を遥拝された石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なる重儀とされます。

 陛下は1年365日、祈りの生活を送られています。それが日本の天皇です。

タグ:宮中祭祀
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昭和22年の依命通牒は「廃止」されていない?──昭和の宮中祭祀改変の謎は深まるばかり [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2013年1月26日)からの転載です


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昭和22年の依命通牒は「廃止」されていない?
──昭和の宮中祭祀改変の謎は深まるばかり
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 新たな謎です。

 昭和22年5月、日本国憲法の施行に伴って、皇室祭祀令などの皇室令および附属法令が「廃止」されましたが、宮内府長官官房文書課長名による依命通牒、いまでいう審議官通達が発せられ、宮中祭祀の伝統は守られました。

 依命通牒は5項目の定めがあり、第3項には「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」とありました。これによって、皇室諸制典の附式、皇族の班位などは「従前の例に準じて」行われることになったのです。

 ところが、「この依命通牒は『宮内庁関係法規集』から、50年9月突然、消えました。……このとき天皇陛下の祭祀は明文法的根拠を完全に失ったのです」(「文藝春秋」昨年2月号掲載永田元掌典補インタビュー。聞き手は私です)。
http://melma.com/backnumber_170937_5540785/

 そして、実際、同年9月1日以後、祭祀は改変されました。とくに毎朝御代拝は、以前は天皇に代わって、当直の侍従が浄衣を着し、宮中参殿の内陣で参拝していましたが、同日以降、宮中参殿の前の庭からモーニングコートを着て拝礼するようになったのです。

 入江相政侍従長の「日記」50年8月15日には、「長官室の会議。神宮御代拝は掌典、毎朝御代拝は侍従、ただし庭上よりモーニングで」とあり、卜部亮吾侍従の「日記」同年8月16日には、「伊勢(神宮)は掌典の御代拝、畝傍(神武山陵)は侍従、問題の毎朝御代拝はモーニングで庭上からの参拝に9月1日から改正の由。小祭の御代拝は掌典次長を設けてこれに、など」と記されています。

 時あたかも宇佐美毅長官、富田朝彦次長、入江侍従長の時代に、昭和22年5月の依命通牒が反故にされ、宮中祭祀の祭式が変更されたことが分かります。

 ところが、です。宮内庁高官が「依命通牒は廃止の手続きを取っていない」と国会で答弁していることを、私は遅蒔きながら最近になって知りました。

 けれども、その発言が少々、いや、かなりおかしいのです。


▽1 平成3年4月25日の宮尾次長答弁

 それは平成3年4月25日(木曜)の参院内閣委員会でのことでした。

 この日の議題は政府が提出した行政事務に関する国と地方の関係等の整理及び合理化に関する法律案で、午後、質問に立った共産党の吉岡吉典議員は、廃止が提案された許可認可等臨時措置法を取り上げ、東条内閣の時代に戦時立法された大東亜戦争完遂のための法律がなぜいままで続いてきたのか、などと政府を追及したのでした。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=11952&SAVED_RID=2&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=6&DOC_ID=6628&DPAGE=1&DTOTAL=1&DPOS=1&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=29750

 そのうえで、

「戦後、当時の日本の政府、これがいかに戦前の体制を温存しようとしてあらゆる努力をしたかということの証拠文献というのはたくさん出ている」
「何とかしてそういうものを温存しようということのあらわれだと私が思う一つの事実がある」

として、取り上げたのが、昭和22年5月の宮内府長官官房文書課長名による依命通牒でした。

 吉川議員はこう問い質します。

「旧皇室令は廃止されたけれども、かわりの法令ができていないものは旧法令に従え。これは旧法令は実質上生きていることと同じことになるわけです。廃止された法律が生きているのと同じような通牒が堂々と出されているというのは、私にはこれも解せないことなんです。
 宮内庁、この通牒があることはもう紛れもない事実ですからお認めにならざるを得ないと思いますが、この通牒は今は効力はどういうふうになっていますか?」

 宮内庁の宮尾盤次長が政府委員として答弁に立ちました。

「今御質問がありました、これ(依命通牒)が効力を持っているか、こういうお尋ねでございますが、この通牒は、皇室令がいわゆる新憲法の施行とともに効力を失った当時におきまして、宮内庁、当時は宮内府と言っておりましたが、その宮内府内部における当面の事務処理についてのいわゆる考え方を示したものでありまして、これは法律あるいは政令、規則というようなものではございません。
 そういう考え方を示したものでありますが、その後現在まで廃止の手続はとっておりません」

 宮尾次長の答弁からは、

(1)依命通牒は新憲法施行当時の宮内府内部の文書であること、
(2)廃止の手続きは取られていないので、文書はいまも生きていること、

の2点が読み取れます。

 吉岡議員は依命通牒が廃止されていないことに強く反応し、今度は法制局に矛先を向け、

「私は古いものを残していこうという心理的な状況があらわれているというふうに考えざるを得ません」
「戦後、憲法を改正して主権者がかわったんです。主権者が天皇から国民にかわるほど、これほど大きい憲法の改正が行われた今、太政官布告だ、勅令だ、朕だ、帝国議会だと、こういう法律は内容も、同時に形式も私は検討に値するものだと思います。
……新しい憲法に則して法律の形式、内容とも整備していくことが当然のことであり、戦後新憲法が制定された当時からこういう作業は開始していくのが本来の新しい憲法のもとでの平和国家、民主国家だと言っている日本にふさわしい法律のあり方じゃないかと思います」

と熱弁を振るったのでした。いかにも「戦後民主主義」の旗手を自任する共産党議員ならではの意見です。


▽2 「廃止」はしないが反故にした

 さて、宮尾答弁について考えてみます。

 まず、依命通牒は宮内府の内部的な文書だとする点ですが、事実に反するものと考えます。

 というのも、依命通牒(依命通達)とは行政官庁の命令によって補助機関が発する通達であり、昭和22年5月3日の宮内府長官官房文書課発45号、高尾亮一同課長名による依命通牒の場合は、各部局長官に対して通達されたのであり、宮内府内部の事務処理の考えを宮内府内部に向けて発したのではないからです。

 つぎに、廃止の手続きを取っていないから、いまも通牒は生きている、ということについて、ですが、これもヘンです。

 もし生きている、とするのなら、50年9月1日以降、いったいいかなる法的根拠に基づいて、天皇の祭祀は変更されたのでしょうか? 宮内庁関係者しか手にしないような「法規集」に、なぜ記載されないことになったのでしょうか?

 興味深いことに、平成3年4月25日の参院内閣委で、秋山收内閣法制局第二部長はこう答えています。

「皇室の行います儀式とか行事につきましては、憲法あるいはその他の法令の規定に違反しない限りは、法令上の根拠がなくても皇室がその伝統などを考慮してこれを行っても現行憲法上何ら差し支えないものでございまして、先ほどの宮内庁の御説明、お尋ねの通牒は三項、四項をあわせ読めば、現行憲法及びこれに基づく法令に違反しない範囲内において従前の例によるべしという趣旨でありますので、憲法上特段問題はないものと考えております」

 つまり、依命通牒は廃止の手続きはとらない。したがって効力はいまも続いているが、憲法(つまり政教分離原則)に違反する部分については改める、という判断を、昭和50年当時の宮内庁当局者は採ったということでしょうか?

 しかしそれは、「新しい規定ができていないもの」について、「従前の例に準じて事務を処理」しないことであって、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」と定める依命通牒を、みずから反故にしたのであり、事実上、「廃止」したと同じことではないかと思われます。

 宮内庁当局者の説明は姑息というべきものです。これでは天皇の祭祀はますます汚されるばかりです。

 昭和50年8月15日に、宮内庁長官室で実際、どのような議論が行われ、どのような結論が得られたのか、宮内庁は明らかにすべきだと思います。吉岡議員のいう「侵略戦争の反省」などというようなものではなく、歴史的天皇制度の継承のために、です。

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概念が変更される天皇の祭祀──いちだんと簡略化が進んだ宮中新嘗祭 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2012年12月1日)からの転載です


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概念が変更される天皇の祭祀
──いちだんと簡略化が進んだ宮中新嘗祭
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 陛下が新嘗祭をお務めになりました。簡略化がより一段と進んでいます。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/h24/gonittei-1-2012-4.html

 問題点は3つ。(1)マスコミの報道内容が不正確なこと、(2)それどころか宮内庁当局が天皇の祭祀の概念を変更させていること、(3)その背後に未成熟な祭祀学研究があるらしいこと、です。

 まず、マスコミ報道について、です。

 たとえば共同通信は、「2年ぶりの拝礼」と伝えています。
http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012112301001715.html

「2年ぶり」はまだしも、「拝礼」には違和感があります。宮中第一の重儀といわれる新嘗祭は天皇がみずから祭りをなさる「親祭」が基本だからです。

 天皇の祭祀は秘儀ですから、その内容について詮索するのは憚られますが、いったい何がどうなったのでしょうか?


▽1 御告文を奏上されなかった?

 かつて新嘗祭は11月の下卯日(三卯あれば中卯日)が祭日でした。明治天皇の大嘗祭が行われた翌年、明治5(1872)年に新嘗祭が整備され、さらに太陽暦導入で、翌6年以後は今日、「勤労感謝の日」と呼ばれる11月23日に行われることとなりました。

 7年からは新嘗祭神殿を毎年建て直すやり方から恒久施設で行われる方式に変わりました。『明治天皇紀』は、旧例墨守を批判し、「偏に実際に就くを旨」として祭儀が整備された、と記述しています。

 午後6時、「謹慎と清浄」を表現する、特別の冠に純白生絹(すずし)の祭服を召された陛下が出御(しゅつぎょ)なさいます。次いで皇太子殿下が純白の祭服で参進されます。皇后陛下ほか女性皇族のお出ましはありません。

 陛下は、脂燭以外、照明のない、暖もない広間に1人端座され、古来の作法に従って、ピンセット型の竹の箸を用い、数々の神饌を、みずから1時間以上かけて、神前にお供えになります。

 なかでも重要とされるのが、その年に収穫された新米・新粟を炊いた米の御飯(おんいい)・御粥、粟(あわ)の御飯・御粥、および新米をもって醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の新酒です。

 御飯は葛の皮を編んだ葛筥(くずばこ)に納められています。蓋(ふた)をとると、なかに御飯と御粥をそれぞれ盛った窪椀(くぼて)があります。御飯は甑(こしき)で蒸した強飯(こわいい)で、米、粟各2盛。1盛は神前に供され、もう1盛は陛下が直会(なおらい)で召し上がるためのものです。

 東京・渋谷にある國學院大學の神道資料館に行くと、宮中新嘗祭に用いられる祭具のレプリカを間近に見ることができます。
http://www.kokugakuin.ac.jp/oard/4_n0008.html

 神饌御進供(しんく)ののち、陛下は恭しく拝礼され、御告文(おつげぶみ)を奏され、五穀豊穣を感謝されるとともに、国の平安と民の安寧を祈られます。

 続いて陛下は、新穀の御飯と新酒の白酒・黒酒を召し上がります。直会です。

 この「夕(よい)の儀」が終了して、3時間後、陛下がふたたびお出ましになり、2時間の神事が繰り返されます。これが「暁の儀」です(八束清貫「皇室祭祀百年史」など)。

 共同通信の報道では、「夕の儀」「暁の儀」ともに「出席時間」が30分に短縮され、「短縮形式の拝礼」となったというのですが、とすると、陛下は御告文を奏上なさらなかったということでしょうか? そんなことがあり得るのでしょうか?


▽2 「あり得ない」ことが起きている?

 宮内庁はこの数年、陛下のご健康問題を理由として、御公務軽減策を打ち出し、祭祀の簡略化を進めています。

 平成21年1月、宮内庁は昭和の先例を踏襲する宮中祭祀の調整・見直しを行いました。「例えば、新嘗祭については、当面、天皇陛下は、『夕の儀』には、従来どおり出御になることとし、『暁の儀』は、時間を限ってお出ましいただくこと」とされたのでした。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/gokomu-h21-0129.html

 同年暮れに発表された「この1年のご動静」も、「新嘗祭について『夕の儀』は従来どおり出御になるとし、『暁の儀』は時間を限ってお出ましいただくこととなった」と説明しています。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokanso-h21e.html

 宮内庁の発表は、「出御」「お出まし」の時間的な説明しかありません。そして昨年は、ご入院のため、「お出まし」がありませんでした。

 宮内庁の発表では、当初は「新嘗祭における陛下の神嘉殿へのお出ましの時間を短縮し、夕の儀も暁の儀と同様、儀式の半ばより出御され」ることとされていました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h23-1101.html#K1101

 しかしその後、陛下は入院され、さらにご入院が長引き、医師の判断に従って、お出ましが差し控えられることになったとされます。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h23-1101.html#K1118

 宮内庁が「御公務」とは理解していない祭祀について、二度もその変更について事前発表しているのは異例ですが、実際にどのような祭儀となったのか?

 産経新聞は新嘗祭の前日、「掌典長が陛下に代わり供物を供え、祝詞を読み上げる『代拝』を行う」と伝えていました。しかし天皇が親祭なさる神嘉殿の聖なる空間にまで掌典長が立ち入り、天皇がなさる神饌御進供、御告文奏上をも、掌典長が代わって行うというような掌典長の「代拝」は「あり得ない」と、昭和天皇の祭祀に携わった掌典職OBたちは断言しています。

 だとすると、「あり得ない」はずの「代拝」が行われたのか、それとも報道が不正確なのか?

 一般メディアよりは祭祀に詳しいと思われる神社関係専門紙の神社新報は、さすがに「代拝」とは表現せず、「掌典職限りで」祭祀が行われたと伝えています。「夕の儀」は23日の夕刻、掌典長が陛下に代わって神事を行う旨、祝詞を奏上したあと、神饌行立が行われ、神嘉殿で掌典長が神饌を供進し、祝詞を奏上したというのです。

 けれども、天皇の祭祀は天皇の出御の有無にかかわらず、天皇によって行われるのであって、「掌典職限り」という表現は、祭祀のあり方として不適切だという指摘が、やはり元掌典職職員からあります。

 とすると、やはり「あり得ない」ことが起きている、と見るべきなのかもしれません。


▽3 まるで「宮内庁の祭祀」に

「あり得ない」のは、祭祀の内容もさることながら、概念そのものが変更されているらしいことです。

 共同通信の記事は、平成の祭祀簡略化について、「宮内庁は70代後半となった陛下の負担軽減を図るとして、2009年から暁の儀の出席時間を30分間に短縮し、夕の儀も昨年から30分間とした。今回初めて双方の儀式が、途中から出席する短縮形式の拝礼となった」と説明しています。

 つまり、天皇が「出席」し、「拝礼」するのが宮中祭祀である、という考え方です。天皇の、天皇による祭祀という本来のあり方から逸脱し、まるで「宮内庁の祭祀」に変更されています。天皇の祭祀大権が奪われているということです。

 たとえば、国会は天皇が召集し、本会議の議事運営は議長が行い、議院運営委員会が日程を決め、議員が「出席」し、審議が行われます。学校の授業なら、学校が授業を主催し、教師が授業を執行し、生徒が「出席」します。けれども、宮中祭祀に天皇が「出席」するという表現は、祭祀の主体であり、執行者である天皇の存在をゆがめることになり、きわめて不適切です。

 マスメディアとしては、単に「出御」という専門用語を避けたいのかもしれません。それなら、せめて「お出まし」とすべきです。「出席」は角を矯めて牛を殺す結果を招きます。

 けれども、マスメディアの不正確な表現だけを責めることはできません。宮内庁当局も同様だからです。昨年末に公表された、陛下の「この1年のご動静」は「新嘗祭にご欠席」と表現しています。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokanso-h23e.html

 宮内庁の発表が不正確なら、マスコミ報道が不正確になるのは当然です。

 しかも天皇の聖域に、宮内庁が不当に介入していることになりませんか? 「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」(渡邉允前侍従長)というのなら、公機関としての宮内庁当局者が陛下の祭祀に関与することは大きな矛盾です。

 いったいなぜこのような現象が起きるのか、宮内庁は宮中祭祀の概念を誤って理解しているのではないでしょうか? それはなぜなのか、冒頭に申し上げましたように、未成熟な祭祀学の研究があると私は考えています。

 詳しくは次回、お話しします。

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宮中祭祀論の深まりを願う──園部逸夫元最高裁判事の著書を読む [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2012年4月16日)からの転載です

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宮中祭祀論の深まりを願う──園部逸夫元最高裁判事の著書を読む
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▽1 祭祀は天皇の「私的行為」

 順徳天皇が著された『禁秘抄』(1221年)の冒頭に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあります。宮中のしきたりに通じていた順徳天皇は、承久の変の直前という皇室の危機の時代にあって、祭祀こそが最優先されるべきことを宣言されたのです。

 そのように、歴代天皇が天皇第一のお務めと最重要視してこられたのが宮中祭祀ですが、目下、進行中の「女性宮家」創設の議論のなかで、天皇の祭祀はどのようなものとして理解されているのでしょうか?

 たとえば、園部逸夫元最高裁判事はどうでしょうか?

 園部元判事は、女性天皇のみならず女系継承を容認する報告書をまとめた皇室典範有識者会議で座長代理を務め、いまをときめく「女性宮家」検討担当内閣官房参与の立場にあり、ご自身、女系継承容認論者といわれます。

 園部元判事には『皇室制度を考える』(中央公論新社、2007年)という著書があります。園部元判事はこの本のなかで、宮中祭祀について、何度か言及していますが、祭祀は天皇の私事だと解説されています。

 第1章「天皇の地位と行為──象徴天皇制度」の第2節「皇室のご活動」には、つぎのような一節があります。

「宮中祭祀をはじめ宗教的性格があると見られることが否定できない行為は、天皇は象徴としての立場で行うことはできず、私的な立場によってのみ行うことができると解されており(通説。政府見解)、現行制度の解釈としては妥当といえよう」

 天皇の祭祀には宗教性が否定できないから、憲法の政教分離の原則上、国の機関としての立場では行えないというのが政府の見解である、という解説です。

 平成の祭祀簡略化を進言した一人と目される渡邉允前侍従長(現御用掛)が「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」(雑誌「諸君」20年7月号掲載の渡邉允前侍従長インタビュー「慈愛と祈りの歳月にお伴して」)と語っているのと、共通しています。

 一見、常識的な憲法解釈ですが、少なくとも5つのポイントが指摘できそうです。


▽2 天皇の祭祀に宗教性が否めない?

 第1に、天皇・皇室論を考える観点です。園部元判事の場合は「象徴天皇制度」という視点で、あくまで現行憲法を出発点とした、「はじめに憲法ありき」の憲法論です。

 といっても、園部元判事の本には皇室の歴史と伝統に対する観点がまったくない、というわけではありません。たとえば、天皇の祭祀が古代から現代まで、どのように変遷したのか、など解説が試みられています。

 けれども、皇室の歴史を重んじ、伝統に学んで、現代的あり方を模索しようという発想は基本的に感じられません。

 第2に、天皇の行為に関する憲法論の基準です。

 天皇の行為に宗教的性格があることを理由に、天皇の祭祀が天皇の私的行為と解釈されている、と園部元判事は説明していますが、それならば、一方で、宗教的性格が否定できない行為が、天皇の立場で公的に行われている実態があることは、どのように説明されるのでしょうか?

 たとえば、天皇は毎年、終戦記念日の全国戦没者追悼式にご臨席になります。同追悼式は「国をあげて戦没者を追悼する」(昭和27年4月8日閣議決定)〈http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib01125.php〉のが目的ですが、国民の死を悼む行為は、明らかに宗教的な性格があります。

 ご臨席も同様でしょうが、政府が主催する追悼式に、天皇がご臨席になることは、天皇の私的行為ではなく、公的行為とされています。

 戦没者追悼式のご臨席が「象徴としての立場で行うことはできず、私的な立場によってのみ行うことができる」(園部元判事)と解釈されない根拠は、園部元判事が解説するような、宗教性があるかどうかという行為の性格ではなくて、特定の宗教色があるかどうかという行為の形式のはずです。

 事実、追悼式は「三 本式典には、宗教的儀式を伴わないものとする」(前掲閣議決定)とされ、式典は宗教者が排除され、献花・黙祷という無宗教形式で行われています。

 行為の形式ではなく、行為の性格に、宗教性の不在を要求するという園部元判事の憲法解釈は、どこに由来するのでしょうか?

 考えてもみてください。国と国民の統合の象徴である天皇の行為から宗教性が排除されなければならない、という憲法解釈は、国および国民の行為が非宗教的であることを要求することになるでしょう。

 人間はすべて宗教的存在であり、憲法は明らかに宗教の価値を認めています。であればこそ、戦没者追悼式も行われ、天皇もご臨席になります。


▽3 津地鎮祭訴訟の判断基準と異なる

 第3に、憲法の政教分離解釈の判断基準です。

 園部元判事は、天皇の行為に外形上、宗教性があるかどうかによって、合憲性を判断し、宗教性が否めない行為については、国および国民の象徴としての行為ではなく、天皇の私事扱いとなる、と判断していますが、これは津地鎮祭訴訟最高裁判決以来、司法当局が採用してきた、目的・効果基準とは異なります。

 津地鎮祭訴訟では、津市が主催し、神式で行われた市体育館の起工式(地鎮祭)が政教分離原則に反するか否かが争われ、最高裁は昭和52年、宗教との関わり合いが否定できないものの、目的は世俗的であり、その効果は神道を援助・助長・促進し、他の宗教に圧迫・干渉を加えるものではないから、憲法が禁止する「宗教的活動」には当たらない、という合憲判断(多数意見)を示しました。

 つまり、最高裁は、外形的に宗教的性格があることが直ちに、憲法の政教分離原則に抵触する、という判断をしていません。

 園部元判事はそのキャリアからすれば、最高裁の判例を知らないはずがありませんが、にもかかわらず、天皇の祭祀に外形的な宗教性が否めないことをもって、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」という第20条第3項の「宗教的活動」に当たる、というような判断をする根拠はどこにあるのでしょうか?

 園部元判事は、宗教性の有無によって憲法判断するのが通説であり、政府見解だと説明しているのですが、そうだとすると、少なくとも法律家の解釈、行政の判断、最高裁の判決が食い違うということになるでしょう。


▽4 いつ「私事」説に変わったのか

 第4に、憲法解釈の変遷です。

 つまり、祭祀が「天皇の私的行為」だとする憲法解釈は、歴史的に見て、戦後、一貫してきたわけではありません。

 戦前は皇室祭祀令など皇室独自の法令があり、天皇の祭祀の根拠が明文化されていましたが、敗戦後の昭和20年12月、「宗教を国家から分離すること」を目的とする神道指令の発令で、状況は変わりました。東京駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷な指令は、宗教への干渉を禁じる戦時国際法に違反していました。

 日本政府は皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備をはかるという方針でした。終戦直後の宮内次官で、戦後初の侍従長ともなった大金益次郎は、「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や、という点については深い疑問があったけれども、何分、神道指令はきわめて苛烈なもので、論争の余地がなかった」と国会で答弁したと聞きます。

 その後、昭和22年5月に現行憲法が施行されたことに伴い、皇室令は廃止され、宮中祭祀の明文的な法的根拠は失われます。それでも、「従前の例に準じて事務を処理すること」という宮内府長官官房文書課長名の依命通牒(第3項)によって、祭祀の伝統は辛うじてながら引き継がれました。

 そして、昭和34年に行われた今上天皇(当時は皇太子)の御結婚の儀は、閣議決定によって「国事」とされ、国会議員が参列したことが知られています。

 けれども40年代になると、流れが変わります。政教分離の厳格主義が行政全体を席巻するようになったのです。宮内庁では側近の侍従までもが祭祀を敬遠するようになり、昭和50年8月15日の長官室会議で依命通牒(第3項)は破棄され、「宮内庁関係法規集」から消えました。毎朝御代拝をはじめ祭祀の改変・簡略化が行われ、宮内庁職員は「祭祀は私事」説を口々に唱えるようになりました。

 けれども、57年暮れに祭祀の簡略化が明るみに出、翌年、神社本庁は抗議の質問書を宮内庁長官宛に提出し、神道指令下では天皇の祭祀は「私事」として以外、認められなかったが、それでも国家公務員の侍従による毎朝御代拝は認められた、などと迫ったとき、宮内庁側は、「ことによっては国事、ことによっては公事」とする神社本庁側の主張を認め、祭祀はすべて「天皇の私事」とする解釈を否定しています。

 それから30年、園部元判事が説明するように、「祭祀は天皇の私事」説が政府の公的解釈だとするなら、いつ、どのような経緯で解釈変更されたのか、説明されるべきです。


▽5 特定の宗教を援助・助長・促進するのか

 第5に、憲法の政教分離原則における目的・効果基準の解釈・運用について、です。

 天皇の祭祀は、天皇が行うことによって、特定の宗教を援助、助長、促進し、他の宗教に圧迫・干渉を加えるような、「宗教的活動」に該当するのか否か、です。

 神に食をささげ、みずから食し、祈りの言葉を唱える天皇の祭祀が、神道的儀礼であることは明らかですが、宗教的教義を広め、信徒を獲得し、教勢を拡大することはまったく想定されていません。皇室は宗教団体ではありません。天皇の祭祀は特定の宗教を援助・助長・促進し、他を圧迫・干渉しようがないのです。

 園部元判事の本には、以上の問題点について、説明がありません。

 といっても、園部元判事は単純に天皇の祭祀を切り捨てているわけではありません。先の引用文のあとに、以下のような文章が続いています。


▽6 混乱する議論

「ただ、天皇を象徴であると憲法が定める背景には、1つには皇室の長い歴史があり、また1つには国家国民のために祈る存在である天皇が有する精神的権威やありがたみ(宗教的な権威もこの中に含まれると解することも可能)があって、それぞれが重要な位置を占めているという考え方に立てば、こうした宮中祭祀が天皇の象徴性と関係があるということも否定できないと考える」

 話は逆でしょう。「関係が否定できない」のではなく、歴代天皇が公正かつ無私なる祭祀を行ってこられたことこそ、天皇が天皇たる所以ではないでしょうか?

 園部元判事の祭祀論はかなり混乱しています。第1章第4節の「象徴天皇制度のこれから」では、つぎのように既述されています。

「天皇の象徴たる地位と宮中祭祀との関係をどのように解するかという点については、事柄が専門性を有すること、あるいは事柄が精神的価値に関することであることから、その判断はなかなか難しい。ただ、現在、皇室において宮中祭祀を一切お止めになることは、その象徴性との関連から鑑みるとあり得ないであろう、という観点から考えると、宮中祭祀は皇室における『私』として位置づけられる事柄である、と断言することもいかがなものかと思われる。

 この点については、先に述べた公私の議論が参考になる。天皇の行為としての面から見た宮中祭祀の性格は、大嘗祭と同様に『公』としての性格を持つと解する考え方もあるが、他方、特定の方式によることは象徴としての性格に馴染まず、『公』とすることは無理がある、ということになろう」


▽5 なぜ複合儀礼なのか

 園部元判事の議論がなぜ混乱するのか、理由は2つでしょう。

 1つは、天皇の祭祀とは何か、という本質論が欠けていることです。

 たとえば皇室第一の重儀とされてきた新嘗祭は、すでに書いたように、米のみならず、米と粟の新穀を、皇祖神のみならず諸神明に捧げる複合儀礼です。したがって、祭典は皇祖神をまつる賢所ではなく、神嘉殿で行われます。

 新嘗祭が天孫降臨神話を根拠とする祖先崇拝であり、米の新穀を皇祖神に捧げるという稲作儀礼であるとすれば、皇祖神をまつる賢所に、稲の新穀を捧げれば十分です。しかし、宮中新嘗祭はそのような神事ではありません。

 川出清彦は『祭祀概説』(学生社、昭和53年)で、新嘗祭の神饌について、品目の筆頭に「御飯筥 米粟各二盛」を上げ、「筥(はこ)は葛筥(くずばこ)で、蓋(ふた)がある。蓋の上には、檞(木偏に解。かしわ)の葉を綴ったのを乗せる。いわゆる通い筥で、その中にそれぞれ、飯と粥とを盛った窪椀(くぼて。窪手、窪晩)を納める。飯は蒸飯(甑[こしき]で蒸したもの)で、米、粟、各二盛あり、そのうちの各一盛は陛下直会の料である」と説明しています。

 米と粟が対になっていることが明白です。一方、本来は天皇の神社であり、私幣禁断の社である伊勢神宮では1年365日、徹頭徹尾、稲の祭りが行われています。

 天皇の、天皇による祭りである宮中祭祀は、なぜ米と粟の複合儀礼なのか、が深く探究されなければなりません。


▽6 園部判事の参列は国民の宗教に圧迫・干渉したか

 第2に、園部元判事が繰り返し追究する、公か私かという議論の目的は、天皇の祭祀が公的行為だとすれば政教分離原則に抵触すると考えるからでしょうが、実際論としては、ちょうど靖国神社首相参拝の「公式参拝・私的参拝」論に似て、不毛であるように思われます。

 たとえば政教分離の厳格主義の本場とされるアメリカには、「全国民のための教会」とされるワシントン・ナショナル・カテドラルがあり、大統領の就任のミサなどが行われ、政府高官が参列しますが、政教分離違反という声は聞きません。

「あなたには私のほかに神があってはならない」という教えを信じる一神教世界でさえ、公的な宗教儀礼が認められています。アメリカ憲法は祈りを禁じているのではなく、祈りを強制することを禁じている、と教会関係者は説明しています。

 他方、日本のように、さまざまな信仰の共存が古来、認められてきた多神教的世界で、多神教的儀礼を国家の機関たる天皇が行うことについて、かたくなに「私的行為」だと言い募る必要があるのかどうか、です。逆に、「宗教性が否めない」ことを理由に、「私的行為」と決めつけることは、非宗教を援助・助長・促進することになり、かえって憲法の政教分離原則に抵触するのではないでしょうか?

 園部元判事は最高裁判事の立場で天皇の祭祀に参列した経験があると聞きますが、最高裁判事の参列は私的行為なのか、それとも公的行為なのか。公的行為だとして、実際上、参列者である園部判事自身に対して、あるいは国民に対して、宗教的な圧迫・干渉を加えることになるのでしょうか?

 園部判事自身が参列によって、どうしても宗教的圧迫・干渉を受けるというのなら、参列しなければすむことであり、実際、無神論者を自認したという富田朝彦宮内庁長官はほとんど参列したことがないといわれます。つまり、参列を強制しなければすむのであって、天皇の祭祀の公的性を否定する必要はありません。

 一方、天皇が祭祀を行い、政府関係者が参列することが、国民の宗教に干渉し、圧迫することになるのかどうか? むしろ逆に、天皇の祭祀は、宗教的に多様なる国民を多様なるままに統合する機能を果たしてきたのではないでしょうか。


▽7 天皇の祈りこそ信教の自由を保障する

 天皇が米と粟を神前に捧げるのは、畑作民の粟と稲作民の米を、国民が信じる神々に捧げ、神人共食の儀礼によって、さまざまな国民と命を共有し、命を蘇らせる意味があるものと思われます。

 天皇の祭祀はむしろ、さまざまな国民の暮らしと信仰の自由を保障してきたのでしょう。だとすると、「宗教性が否定できない」という理由で、国家機関としては祭祀を行えず、私的行為としてのみ行える、という園部元判事の解説は本末転倒といわねばなりません。

 かつて「公」とは皇室を意味しました。むろん政府的、行政的という意味ではありません。天皇の「公」とは政治権力を超えたところにあります。「天皇に私なし」であり、神代の時代、皇祖神が下された命令に従い、「わが知ろしめす国に飢えたる民が1人あっても申し訳ない」とお思いで、私を捨てて、国と民のために祈りを捧げてこられたのが歴代の天皇です。

 神代にまで遡れると信じられる天皇の歴史に、宗教性は不可分です。天皇の行為から宗教性を剥奪することは、天皇の歴史を否定する革命的発想といえないでしょうか? 


▽8 世俗論的宮中革命を推進する理由は?

 目下、進行中の「女性宮家」創設問題も同様です。

 園部元判事は「(女性宮家の)子が天皇になるとしたら男系皇統は終わる。女性宮家は将来の女系天皇につながる可能性があるのは明らか」(「週刊朝日」昨年12月30日号)と語っています。

 歴史に例のない「女性宮家」はもともと、これまた歴史に例のない女系継承をも容認する皇室典範改正と同時に進められてきました。現行憲法を出発点とする「単なる象徴」天皇論なら、なるほど過去の歴史と伝統を顧みる必要はありません。

 歪んだ憲法解釈・運用を優先させる反面、国民のために無私なる祈りを捧げ、多様なる国民を多様なるままに統合するという天皇の祭りの歴史的価値を否定し、「象徴天皇制度」なる世俗論的宮中革命を推し進める理由は、どこにあるのでしょうか?

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宮中の祭儀──いつ、誰が、どこで、いかなる神を、どのようにまつるのか [宮中祭祀]

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宮中の祭儀
──いつ、誰が、どこで、いかなる神を、どのようにまつるのか
(「教育再生」平成24年4月〜25年2月)
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▢1 天皇陛下は毎日、祈られる

 天皇陛下は祭祀(さいし)を行われます。祭りをなさることが、天皇の天皇たる所以です。君主制を採用する国は世界に少なくありませんが、みずから祭りを行う君主は、日本の天皇以外にはありません。

 けれども天皇のお祭りは学校ではほとんど教えられず、マスコミも滅多に取り上げません。

 そこで、天皇がなさる宮中祭祀の基本を、これから皆さんとご一緒に学んでいきたいと思います。今回は年間予定です。

 天皇陛下の1年は祭りに始まります。まだ明けやらぬ元日の早暁、陛下は潔斎(けっさい)ののち、陛下だけが身にまとう黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)をお召しになり、皇居の奥深い聖域・宮中三殿の西に位置する神嘉殿(しんかでん)の前庭にお出ましになり、二双の屏風で囲まれた拝座で、余人をまじえず、お一人で伊勢神宮、四方の神々、歴代天皇の御陵を遥拝されます。四方拝と呼ばれます。

 宮内庁のホームページには次のような主要祭儀が載っています〈http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html〉。◯印がついているのが、陛下がみずから祭りをなさる大祭です。ほかは小祭で、祭祀を担当する掌典職トップの掌典長が祭典を奉仕し、陛下が拝礼されます。

 1月1日 四方拝、歳旦祭

◯1月3日 元始祭

 1月4日 奏事始

◯1月7日 昭和天皇祭

 1月30日 孝明天皇例祭

 2月17日 祈年祭

◯春分の日 春季皇霊祭、春季神殿祭

◯4月3日 神武天皇祭、皇霊殿御神楽

 6月30日 節折、大祓

 7月30日 明治天皇例祭

〇秋分の日 秋季皇霊祭、秋季神殿祭

◯10月17日 神嘗祭

◯11月23日 新嘗祭

 12月中旬 賢所御神楽

 12月23日 天長祭

 12月25日 大正天皇例祭

 12月31日 節折、大祓

 陛下の祭りは11月下旬から翌年1月まで寒さが募る時季に集中していることが分かります。

 明治41(1908)年制定の皇室祭祀令ではほかに、2月11日の紀元節祭がありましたが、現在は行われていません。

 大祭・小祭のほかに、歴代天皇の式年祭が崩御日に相当する日に行われ、陛下が拝礼されます。さらに毎月1日、11日、21日に旬祭(しゅんさい)が行われ、このうち1日は、陛下が拝礼なさいます。

 これらを合わせると宮中祭祀は年間約60件を数えます。

 いいえ、そうではありません。陛下は毎日祈られます。それが毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)です。

 陛下は雨の日も風の日も、毎朝、側近の侍従を宮中三殿に遣わし、烏帽子(えぼし)・浄衣(じょうえ)に身を正させ、ご自身に代わって拝礼させ、ご自身は御所でお慎みになります。平安時代、宇多(うだ)天皇に始まる、天皇が毎朝、清涼殿(せいりょうでん)で、みずから伊勢神宮ならびに賢所を遥拝された石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なる重儀とされます。


▢2 天皇の、天皇による祭り

 宮内庁のHPに「両陛下のご日程」が載っています〈http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gonittei01.html〉。平成17年からは、宮中祭祀に関する情報も掲載されるようになりました。

 順徳天皇が著された「禁秘抄(きんぴしょう)」(1221年)の冒頭に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあるように、歴代天皇が第一の務めと考えてこられたのが宮中祭祀ですから、本来、そうあるべきです。

 けれども、以下のような宮中祭祀についての宮内庁の説明は少なからず誤解を生みそうです。

「天皇皇后両陛下は、宮中の祭祀を大切に受け継がれ、常に国民の幸せを祈っておられ、年間約20件近くの祭儀が行われています」(http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi.html

 まず件数です。前回、お話ししたように、大祭・小祭、それに旬祭を加えると、約60件を数えるといいます。毎朝御代拝を加えれば、400件を超えます。宮内庁の説明は、側近による御代拝を最初から除外している上に、平成21年以後の祭祀簡略化でお出ましが減ったことを示しています。本来的な数字とはいえません。

 より重要なのは、この説明では祭祀の主体が天皇陛下ではなく、天皇皇后両陛下であるかのように誤解されかねないことです。

 両陛下が祭祀を大切にしておられるのは事実でしょうが、宮中祭祀はあくまで天皇の祭りです。

 たとえば宮中第一の重儀とされる、11月23日の新嘗祭で、神嘉殿にお出ましになり、米と粟の新穀を神前にお供えになり、みずから食され、国家の平和と国民の平安を祈られるのは天皇陛下お一人です。皇太子殿下もお出ましになり、さらに成年男子皇族が参列されますが、皇后陛下はお出ましにはなりません。

 元始祭(1月3日)、昭和天皇祭(1月7日)、春季皇霊祭・神殿祭(春分の日)などの大祭は、皇后陛下や皇太子同妃両殿下が拝礼され、すべての成年皇族が参列されますが、祭りの中心は天皇陛下がみずからなさる神事です。

 このほか、小祭と位置づけられる歳旦祭(元日)、祈年祭(2月17日)、天長祭(12月23日)も天皇陛下の御拝(ごはい)、皇太子殿下の拝礼だけで、皇后陛下やほかの皇族方の参列はありません。

 明治40年に成立した皇室祭祀令は、「大祭には、天皇、皇族および官僚を率いて、みずから祭典を行う」(第8条)、「小祭には、天皇、皇族および官僚を率いて、みずから拝礼し、掌典長、祭典を行う」(第20条)と定めていました。

 皇后陛下も皇太子殿下も、天皇陛下がなさる祭祀にお供をするというお立場なのです。

 最近は「陛下が祭祀に出席」と伝える新聞記事などを見かけますが、これも誤解を招く表現です。「出御(しゅつぎょ)」「お出まし」を平易に言い換えたのでしょうが、宮内庁が主催する祭祀に陛下が出席なさる、というのではありません。戦没者追悼式や植樹祭にご臨席になるのとは基本的に異なります。

 宮中祭祀はあくまで天皇の、天皇による祭りなのです。神職が神事を執り行う、伊勢神宮ほか、一般の神社とは異なります。


▢3 奥深い聖域で行われる

 皇室の祭祀は古くは、歴代の天皇が鎮まる御陵などで行われたといわれます。

 いまでもその名残がうかがえます。たとえば(平成24年)6月下旬から皇太子殿下がタイ、カンボジア、ラオス3カ国を訪問されましたが、ご出発前とご帰国後、皇祖天照大神が祀られる賢所のほか、昭和天皇・香淳皇后が鎮まる武蔵野陵・武蔵野東陵に参拝されました。殿下のみならず、天皇皇后両陛下の外国ご訪問の場合なども同様です。

 天皇の祭りは、現在はおもに宮中の奥深い神域、宮中三殿で行われます。宮中三殿は、先述した賢所、歴代の天皇・皇后などが祀られる皇霊殿、天神地祇が祀られる神殿の総称です。

 明治2年3月に明治天皇が京都から賢所とともに東京に移られ、かつての江戸城は皇居と定まり、賢所が遷座されました。

 記紀神話に、天照大神が天孫降臨に際して宝鏡を授けられ、「この鏡を私と思って、拝しなさい。同じ床、同じ屋根の下に祀りなさい」と命じられたとされる「同床共殿」の神勅に由来しています。

 けれども当時の宮中三殿は数年後、皇居の建物すべてを焼き尽くした大火によって焼失しました。

 現在の宮中三殿は明治15年に宮殿とともに造営が始まり、22年に遷座されました。明治の宮殿は空襲で類焼しましたが、三殿は関東大震災など幾多の災禍を免れ、今日に至っています。

 天皇の祭りの多くはこの宮中三殿で行われます。

 たとえば毎朝御代拝は、天皇が毎日、側近の侍従を潔斎のうえ、烏帽子・浄衣に身を正させ、宮中三殿に遣わし、天皇に代わって、三殿の内陣で拝礼させます。平安初期、宇多天皇の時代に始まった石灰壇御拝が起源とされます。

 けれども、昭和50年以降は、侍従はモーニング・コートの洋装で、拝礼場所も三殿の南庭上から、と変更されています。「侍従は国家公務員なので、神道という宗教にタッチすべきではない」という政教分離原則の厳格な解釈・運用の結果といわれます。

 このほか、陛下が1年の最初に行われる元旦の四方拝も、場所が変更されています。

 本来は、まだ明けやらぬ早暁、御装束を召された陛下は、宮中三殿の西に位置する神嘉殿の前庭にお出ましになり、屏風二双で囲まれた拝座で、伊勢神宮、山陵、および四方の神々を遥拝されます。

 7世紀、皇極天皇の時代に始まったともいわれる重儀ですが、昭和44年暮れ、当時の入江相政侍従長は昭和天皇に「四方拝はテラス、御洋装で」(『入江日記』)と提案したのでした。四方拝が庭上で行われるのは「庭上下御」といって、天皇がみずから地上に降り立って謙虚に神々を仰ぐ崇敬の誠を示しているといわれますから、重大な変更でした。

 なお、皇室第一の重い祭祀といわれる11月下旬の新嘗祭は、宮中三殿ではなく、三殿の西に位置する神嘉殿で行われます。


▢4 神饌を神前に供え、みずから召し上がる

 天皇陛下はどのような祭祀を行われるのでしょうか? 皇室第一の重儀といわれる新嘗祭について考えてみます。

 新嘗祭は宮中三殿の西隣に位置する神嘉殿で行われます。

 かつては11月の下卯日(三卯あれば中卯日)が祭日でした。明治天皇の大嘗祭が行われた翌年、明治5(1872)年に新嘗祭が整備され、さらに太陽暦導入で、翌6年以後は今日、「勤労感謝の日」と呼ばれる11月23日に行われることとなりました。

 7年からは新嘗祭神殿を毎年建て直すやり方から恒久施設で行われる方式に変わりました。『明治天皇紀』は、旧例墨守を批判し、「偏に実際に就くを旨」として祭儀が整備されたと記しています。

 23日午後6時、天皇陛下が出御されます。ほかの祭祀では立纓冠に黄櫨染御袍を召されてのお出ましですが、新嘗祭だけは「謹慎と清浄」を表現する、特別の冠に純白生絹の祭服です。次いで皇太子殿下が純白の祭服で参進されます。皇后陛下ほか女性皇族の参列はありません。

 陛下がお出ましになると、「オーシー」の警蹕一声、お手水の具のほか、数々の神饌が殿内へと運び込まれます。

 陛下は脂燭以外、照明のない、暖もない広間に端座されます。人の見ないところで行われるのが天皇の祭りです。

 陛下は最初にお手水を行われ、そのあと古来の作法に従って、ピンセット型の竹の箸を用い、神饌をみずから一時間以上かけて、神前にお供えになります。

 なかでも重要とされるのが、その年に収穫された新米・新粟を炊いた米の御飯(おんいい)・御粥(おんかゆ)、粟の御飯・御粥、および新米をもって醸造した白酒(しろき)・黒酒(くろき)の神酒です。

 陛下御自身が皇居内の水田で育てられた稲と、各県から献上された米と粟の新穀の御饌と御酒が皇祖神以下、天神地祇に捧げられ、陛下御自身も神前で召し上がるのがこの祭りの趣旨です。

 御飯は葛の皮を編んだ葛筥(くずばこ)に納められています。蓋をとると、中に御飯と御粥をそれぞれ盛った窪椀(くぼて)があります。御飯は甑で蒸した強飯で、米、粟各二盛。一盛は神前に供され、もう一盛は陛下が召し上がるためのものです。

 神饌御進供ののち陛下は恭しく拝礼され、御告文(おつげぶみ)を奏され、五穀豊穣を感謝されるとともに、国の平安と民の安寧を祈られます。

 そのあと陛下は、新穀の御飯と新酒の白酒・黒酒を召し上がります。みずから新嘗されるこの直会のあと、神饌が順次撤下され、お手水が行われます。

 お手水の具を先頭に神饌が退下し、天皇陛下、皇太子殿下が相次いでお下がりになって、「夕(よい)の儀」が終了します。

 3時間後、陛下がお出ましになり、2時間の神事が繰り返されます。これが「暁(あかつき)の儀」です。神霊は夜動かれ、神々の食事は一日二回とされます。神事が夜間に二回繰り返される所以です。


▢5 天皇はひたすら国と民のために祈られる

 宮中祭祀とは、いつ、誰が、どこで、何を、どのように行うものなのか、基本的なところについてごいっしょに考えてきたつもりです。今回は、少し踏み込んで、陛下の祈りの核心部分、つまり神社の祝詞(のりと)に相当する御告文(おつげぶみ)の内容について、考えてみます。

 しかし、これがよく分かりません。もともと天皇の祭りは秘儀とされています。衆人環視のもと礼拝堂で行われるローマ教皇のキリスト教典礼とは異なり、陛下がなさる宮中祭祀は誰も見ないところで行われるのが基本です。御告文こそ、秘中の秘です。

 神前に食を捧げ、直会(なおらい)なさる神人共食の祭式については、多くの記録があり、研究書も少なくありませんが、御告文については研究らしいものが見当たりません。

 戦前、昭和天皇の祭祀に携わり、戦後は全国約8万の神社を包括する神社本庁の嘱託を務めた八束清貫(やつか・きよつら)の「皇室祭祀百年史」(『明治維新神道百年史第1巻』昭和41年所収)でも、たとえば皇室第一の重儀とされる新嘗祭(にいなめさい)について、「御告文を奏上されて、五穀の豊穣を奉謝し、皇宝・国家・国民の上を祈らせられる」と述べているだけで、御告文の具体的中味にはまったく言及されていません。

 現在の宮内庁も、その姿勢には変わりがありません。平成の御代替わりに行われた諸儀式に関する『平成大礼記録』が平成6年にとりまとめられていますが、即位後最初の新嘗祭である大嘗祭(だいじょうさい)について、事細かに祭式が記録されている一方、御告文の中味については記述がありません。

 けれども、歴史的資料がわずかながら確認されています。

 ひとつは、第82代後鳥羽天皇の日記・後鳥羽院宸記(しんき)(『皇室文学大系4』昭和54年)です。

 14歳で即位した順徳天皇に、父帝・後鳥羽上皇が大嘗祭直前、その秘儀について教えたことが、建暦2(1212)年10月25日の項に記され、御告文(申し詞(ことば))が引用されています。

「伊勢の五十鈴の河上にます天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく。朕、皇神の広き護りによりて、国中平らかに安らけく、年穀豊かに稔り、上下を覆寿いて、諸民を救済わん。よりて今年新たに得るところの新飯を供え奉ること、かくのごとし」

 もうひとつは、元文3(1738)年に行われた、いまから10代前の第115代桜町天皇の大嘗祭の御告文です。中味はほとんど変わりません。

「天が下平らかに年穀ゆたかにみのりて美しき蒼生をも救い」とあります。

 比較しても仕方がないことですが、俗人であれば、自分や家族のために祈ります。けれども天皇はひたすら国と民のために祈りを捧げられます。千年以上も、その祈りを第一のお務めとしてされてきたのが天皇なのです。


▢6 あらゆる神に祈りを捧げる

 天皇陛下はいかなる神に、祈りを捧げられるのでしょうか?

 昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫(やつか・きよつら)元掌典(しょうてん)の「皇室祭祀百年史」(『明治維新神道百年史第1巻』所収)を読むと、祭祀によって祭殿が異なること、つまり祈りを捧げる神が異なることが分かります。

 たとえば1月3日の元始祭(げんしさい)は、皇祖天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られる賢所、歴代の天皇・皇后などが祀られる皇霊殿(こうれいでん)、天神地祇(てんじんちぎ)が祀られる神殿の三殿すべてで行われます。春分の日の春季皇霊祭は皇霊殿で、春季神殿祭は神殿で行われ、10月17日の神嘗祭(かんなめさい)は賢所で行われるという具合です。

 これと少し異なるのは、11月23日の新嘗祭(にいなめさい)で、宮中三殿の西に位置する神嘉殿(しんかでん)で行われます。

 神嘗祭と新嘗祭は性格が似ていて、神前に新穀が捧げられますが、大御神が天孫降臨に際して、斎庭(ゆにわ)の稲穂を授けられたとする神話に基づく神嘗祭が、皇祖神に米の新穀が主として供されるのに対して、皇室第一の重儀といわれる新嘗祭は、「天照大御神以下諸神」(八束)に米と粟の新穀が主に捧げられるという際立った違いがあります。

 新嘗祭の「諸神」とはどんな神なのでしょう? なぜ米と粟なのか?

 神道研究家の田中初夫東京家政学院短大教授は、古代律令制の定めのひとつである「神祇令(じんぎりょう)」の「即位の条」に、「およそ天皇、位に即(つ)きたまわば、すべて天神地祇を祭れ」と記されていることを紹介しています(『践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい) 研究篇』)。

 天皇が皇位継承後、最初に行われる、一世一度の新嘗祭が大嘗祭ですが、平安中期に編纂された延喜式(えんぎしき)に載る、大嘗祭の祝詞(のりと)の一節には「大嘗(おおにえ)きこしめさんための故に、諸神をお祭りする」とあります(八束清貫『祭日祝日謹話』)。

 延喜式には「三百四座」などと、祭神数が具体的に示されていますが、文字通りそれらの神に祈りが捧げられると考えるべきでしょうか? 神名や数が明らかにされれば、それだけ祈りは限定的になってしまいます。

 八束が説明するように、まず神嘗祭で天照大御神に稲の新穀を奉り、新嘗祭では万民のために諸神を祀り神恩を感謝されるのだとすれば、名前が知られていない神々も含めて、あらゆる神と理解する方が自然でしょう。「国中平らかに安らけく」(「後鳥羽院宸記(しんき)」)と公正かつ無私なる祈りを捧げられるのが天皇だとすれば、祈りの対象はすべての神でなければならないはずです。

 一神教世界であれば、民がそれぞれに信じる神とは無関係に、統治者は唯一なる自分の神に祈りを捧げるでしょう。数年前、ローマ教皇がイスタンブールのブルー・モスクを表敬し、無言の祈りを捧げたことが多くの共感を呼びましたが、イスラムの神に祈りを捧げたわけではないでしょう。

 けれども歴代の天皇は古来、万民のため、万民が信じるあらゆる神々に祈ることを、第一のお務めとされています。

 民が信じるすべての神に祈りを捧げるとすれば、祭式は複合的になります。稲作民の稲と畑作民の粟が供される所以(ゆえん)かと思います。


▢7 改変された「平成即位の大礼」

 皇室典範(こうしつてんぱん)の第1条には「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とあり、第2条は「天皇が崩じたときは、皇嗣(こうし)が、直ちに即位する」、第24条は「皇位の継承があつたときは、即位の礼を行う」と定めています。これらの法規定に基づいて、平成の大礼は行われました。

 御代替(みよが)わりの儀礼は、①践祚(せんそ)、②御大喪(ごたいそう)、③即位礼、④大嘗祭(だいじょうさい)の4つから成り立ちますが、ここでは①と③について見てみます。

 まず践祚、皇位の継承です。

 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)に説明されているように、戦前は登極令(とうきょくれい)という規定があって、天皇崩御(ほうぎょ)のあと、新帝は皇位継承のため、①賢所の儀、②皇霊殿神殿に奉告の儀、③剣璽(けんじ)渡御の儀、④践祚後朝見(ちょうけん)の儀、からなる践祚の式を、国務として行うこととされていました。

 けれども、平成の御代替わりでは、①と②は政教分離の趣旨に照らして、国の儀式とすることは困難とされ、皇室行事となりました。そして、非宗教的と見る③と④だけが国の儀式として行うこととされ、同時に③は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称されました。④は「践祚」という言葉が消え、「朝見の儀」とされたほか、かつては伴っていた、皇位の象徴である剣璽(三種神器のうちの神剣と神璽)の御動座が行われませんでした。

「践祚」の用語が消えたことについて、宮内庁の記録は「もともと践祚は即位と同義語であり」などと説明していますが、違います。桓武天皇の時代、践祚から日を隔てて即位式を行うようになり、貞観(じょうがん)儀式の制定で両者は区別されるようになったといわれますが、終戦直後の混乱期に行われた皇室典範改正はこの区別を反映できなかったのです。

「即位の礼」は、平成2年に行われました。

 政府は、①即位を公に宣明し、内外の代表が即位を寿(ことほ)ぐ「即位の礼正殿の儀」、②広く国民に即位を披露され、祝福を受けられるためのパレード「祝賀御列の儀」、③即位を披露され、祝福を受けられる「饗宴の儀」の三つを「即位の礼」として挙行することを、閣議で決定しました。②は新例でした。

「即位の礼」の法的根拠は皇室典範第24条ですが、中身について明文的規定がありません。そこで、内閣に委員会が段階的に設置され、検討された結果でした。

 けれども皇室典範の立法者は「即位の礼に関しましては、(従来と)実質において異なるところがございません」と明言しています。昭和二十二年に現行典範が新憲法とともに施行され、旧登極令は廃止されましたが、「従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)とする宮内府長官官房文書課長の依命通牒(いめいつうちょう)が出され、皇室の伝統はそのまま維持されました。

 ところが依命通牒は50年に人知れず、事実上、破棄されました。政府が平成の大礼の中味について大掛かりな検討を迫られ、御代替わりの諸儀礼が改変されたのはその結果でした。


▢8 立法者の想定と異なる「平成の御大喪」

 前回は御代替(みよが)わりの諸儀礼のうち、践祚(せんそ。皇位の継承)と即位礼について書きました。現行憲法下で初の事例となった、昭和から平成への御代替わりでは、皇室の伝統を破る、さまざまな改変が行われました。それは昭和天皇の御大喪(ごたいそう)でも起こりました。

 戦前は皇室喪儀(そうぎ)令と附式によって、天皇大喪儀について、御遺骸を本葬まで仮安置する「殯宮(ひんきゅう)移御(いぎょ)ノ儀」から本葬に当たる「斂葬(れんそう)ノ儀」(「葬場殿(そうじょうでん)ノ儀」と「陵所(りょうしょ)ノ儀」)などの祭式が細かく規定されていました。

 けれども敗戦と日本国憲法の成立に伴い、皇室令は廃止されました。戦後の皇室典範は第25条で「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と定めていますが、「大喪の礼」に関する具体的な明文規定はありません。

 そこで昭和天皇の崩御(ほうぎょ)のあと、御大喪のあり方について、憲法の趣旨に沿うかどうか、皇室の伝統を尊重したものかどうか、時代に即したものかどうか、が政府内で検討されました(宮内庁『昭和天皇大喪儀記録』)。

 議論になったのは葬場殿に設置される鳥居です。内閣法制局が「鳥居は宗教のシンボルだから、国事行為には絶対ダメ」と拒絶したのです(石原信雄『官邸二六六八日』)。

 昭和天皇崩御49日目の平成元年2月24日、氷雨がそぼ降る新宿御苑では、皇室行事としての伝統的な「葬場殿の儀」のあと、祭官が退出し、幔幕(まんまく)が閉められ、そして鳥居と大真榊(おおまさかき)が撤去され、「大喪の礼」が国事行為として挙行されました。

 鳥居が特定宗教のシンボルではないのに、宗教性のない葬礼などあるはずもないのに、神代にまで連なると信じられてきた皇室に宗教性は不可分なのに、憲法は宗教の価値を認めているはずなのに、政府は宗教性の排除に強く執着し、その結果、「大喪の礼」という新例が開かれ、国の行事と皇室行事との二分方式が採られたのでした。

 しかし、前回、申し上げたように、「従前の例に準じて事務を処理すること」とする、昭和22年5月の依命通牒を、宮内庁が50年8月に人知れず廃棄しなければ、大袈裟な検討は必要ありませんでした。

 皇室伝統の大喪儀が憲法の趣旨に沿うかどうか、というのも自明です。いまだ占領下の26年に、貞明皇后の御大喪が旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しているからです。

 現行皇室典範が定める「大喪の礼」が皇室喪儀令で集大成された大喪儀ではなく、新例と考えることにも大きな疑問があります。

 皇室典範の制定過程で、政府が枢密院の審査にかけ、帝国議会に提出した確定案は「第25条 天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」ですが、GHQに最終的に提出したとされる、その英訳では「大喪の礼」が複数形の諸儀礼(the Rites)として表現されているからです。立法者は「大喪の礼」を皇室伝統の大喪儀と理解していたと推測されます。


▢9 「大嘗祭」は憲法に反する宗教儀式なのか

 天皇が即位後、最初に斎行される、一世一度の新嘗祭(にいなめさい)を大嘗祭(だいじょうさい)と呼びます。7世紀後半の天武天皇以降、皇位継承儀礼のひとつとして確立されたといわれます。

 明治憲法下では、皇室典範第11条に「即位の礼および大嘗祭は京都に於いてこれを行う」という規定があり、昭和天皇の場合は昭和3年11月10日に即位の礼が京都御所で挙行されたのに続いて、14〜15日にかけて大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀が斎行されました。

 今上陛下の場合は、平成2年11月12日に即位礼正殿(せいでん)の儀が皇居で挙行された10日後の同月22〜23日に皇居東御苑に設営された大嘗宮で執り行われました。

 もっとも際立った違いは、昭和天皇のときは「国事」とされたのに対し、今上天皇の大嘗祭は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」とする憲法の政教分離原則に照らして、国事行為として行うことが困難とされ、皇室の行事として行われたことです。

 石原信雄内閣官房副長官(当時)は「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と『官邸二六六八日』で回想しています。政府は段階的に委員会を設置し、検討を重ね、即位儀礼の中味と位置づけを決めたのでした。

 しかし政府は大嘗祭をどのようなものと理解し、判断したのでしょうか?

 大嘗祭については、古代から多くの記録が残されています。それによると、悠紀(ゆき)国・主基(すき)国で収穫された米と粟の新穀を、古来の作法に従って、ピンセット型の竹の箸を用い、新帝みずから神々に捧げ、ご自身も召し上がるというのが祭祀の中心となっています(田中初夫『践祚(せんそ)大嘗祭 研究篇』など)。

 これを宮内庁の『平成大礼記録』は、「稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの……皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である」と説明しています。内閣の『平成即位の礼記録』も同様です。

 つまり、稲作信仰に基づく宗教儀式という理解です。だとすると、国事行為としては行えない、という結論も成り立ち得ます。

 けれども、稲作儀礼なら皇祖天照大神に稲の新穀を捧げれば十分です。大神から稲を授かったとする稲作神話が根拠なら、天神地祇に祈りを捧げる必要もないでしょう。天皇がみずから神事を行う必要もありません。

 しかしそれでは天皇による、国と民をひとつに統合する祈りとはなりません。日本列島には稲作民もいれば、畑作民もいます。それぞれの民が信じるあらゆる神々に、それぞれの命の糧である田のもの、畑のものを、天皇がみずから捧げ、祈るからこそ、収穫儀礼は国と民を統合する儀礼となり、統治者の即位儀礼となり得るでしょう。

 国の最高権威がすべての神々に祈りを捧げることは、政教分離規定に反するどころか、民の信仰の自由を保障するものといえます。


▢10 現実主義的に整備された明治の皇室祭祀

 明治2(1869)年3月、明治天皇は京都から賢所(かしこどころ)を奉じて江戸城に移られました。西の丸が御座所に充てられ、伏見櫓(ふしみやぐら)の向こう側の内庭に賢所は遷座されました。

 しかし6年5月、失火により、賢所ほか皇居の建物は全焼、皇居は賢所とともに赤坂仮皇居(のちの赤坂離宮)に移られました。

 厳しい財政事情のなか、ようやく新皇居の造営が着工したのは17年で、5年後の22年1月、賢所以下三殿は現在の地に遷座され、明治天皇も還幸(かんこう)されました。この間、祭祀が整備され、やがて41年9月の皇室祭祀令の制定公布につながっていきます。

 以前は大祭級では神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭(にいなめさい)の2祭、小祭級では歳旦祭(さいたんさい)、祈年祭(きねんさい)、賢所御神楽(みかぐら)の3祭、そのほか四方拝(しほうはい)、節折(よおり)、大祓(おおはらい)の3式が定められていましたが、元年8月に明治天皇のお誕生日(9月22日)を天長節として創始されたほか、新たな祭祀が生まれます。

 4年10月、平安期の宇多(うだ)天皇に始まる、天皇みずから清涼殿で伊勢神宮並びに賢所を遥拝された石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)は、側近の侍従に賢所で拝礼させる毎朝御代拝に代わりました。

 同年には大嘗祭が行われました。『明治天皇紀』は「いまや皇業古(いにしえ)に復し、百事維(こ)れ新(あら)たなり。大嘗(おおにえ)の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し有名無実の風習を襲用せんや」と批判し、「偏(ひとえ)に実際に就くを旨」として整備されたと、数頁にわたり詳述しています。

 5年11月には神武天皇即位日(のちの紀元節)が定められる一方、一般に行われる端午、七夕などの五節句は廃されました。

 新嘗祭が整備されたのもこの年です。「11月22日 下(しも)の卯(う)の日に当たるをもって、新たに式典を整え新嘗祭を行わせらる」と記録されています。太陽暦導入以前は11月の下卯日に行われていました。

 6年10月には、太政官(だじょうかん)布告によって、元始(げんし)祭(1月3日)、新年宴会(1月5日)、孝明天皇祭(1月30日)、紀元節(きげんせつ)(2月11日)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(9月17日。12年以後は10月に変更)、天長祭(11月3日。太陽暦ではこの日に当たるため)、新嘗祭(11月23日)の年8日間の祭日・祝日が定められ、国民の休日とされました。

 新年宴会以外はすべて宮中祭祀に基づくものでした。この年、太陰太陽暦が廃止され、太陽暦が導入されて、新嘗祭の祭日は11月23日に固定されました。

 しかし実際は大火の影響で混乱を免れませんでした。『明治天皇紀』によると、賢所行宮(あんぐう)で伏見宮貞愛(さだなる)親王を御手代(みてしろ)として行わしめ、明治天皇は夕(よい)・暁の両祭のあと、大広間南廂(みなみひさし)に出御(しゅつぎょ)して遥拝(ようはい)されました。

 11年には春季皇霊祭、秋季皇霊祭が加わりました。皇室伝統の皇霊祭祀ですが、歴代天皇ほか皇族まで各忌日(いみび)に斎行するなら一年中、祭祀が続かざるを得ないという現実主義的な考え方によるといわれます(参考文献=八束清貫「皇室祭祀百年史」など)。


▢11 敗戦後、歴史的変革を蒙った天皇の祭祀

「国中平らかに、安らけく」。歴代天皇は国と民のためにひたすら祈る祭祀を第一とお務めと信じ、実践してこられました。

 明治になって、天皇の祭りは合理的に、現実的に整備され、明治41(1908)年に皇室祭祀令としてまとめられました。そのことは前回、お話ししました。

 歴史的変革を迫られたのは終戦後です。

 アメリカ政府は戦時中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉と理解し、「国教としての神道、国家神道の廃止」を占領政策の基本としました。戦時国際法は占領軍が被占領国の宗教を尊重すべきことを規定しているにもかかわらず、です。

「国家神道」の中心施設とされた靖国神社は、アメリカ軍の東京進駐後、「焼却」の噂(うわさ)が持ちきりでした。上智大学のビッテル神父(法王使節代行)が「国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊を祀られるようにすることを進言する」とマッカーサーに答申し、守られたという経緯があります。

 しかし昭和20年暮れ、いわゆる神道指令が発せられます。「神道国家主義の根絶」が目標とされ、駅の門松や注連縄(しめなわ)までが撤去されました。翌年は「国家神道」の教義とされる教育勅語の神聖的取り扱いが禁止されます。

 22年5月に日本国憲法が施行され、これに伴って皇室令は廃止され、宮中祭祀の明文法的根拠は失われました。

 それでも「従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)とする宮内府長官官房文書課長名による依命通牒(いめいつうちょう)、いまでいう審議官通達によって、祭祀の伝統は辛うじて守られました。

 何しろ占領期ですから、皇室の伝統を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈で凌がざるを得なかったといわれます。「皇室の私事」として祭祀を存続することについては、干渉されませんでした。

 ところが、占領軍は神道指令の「宗教と国家の分離」を「宗教教団と国家の分離」に解釈を変えます。実際、26年6月の貞明(ていめい)皇后(大正天皇の皇后)の御大葬は旧皇室喪儀(そうぎ)令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しています。

 占領軍は「喪儀については、宗教と結びつかないものは考えられない。国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。憲法に抵触しない」と語ったといわれます。

 なぜ占領軍は神道指令を発し、しかもまたたく間に解釈を変更させたのか? そもそもの「国家神道」理解に誤解や偏見があったのではないかと想像しますが、真相は明らかにされず仕舞いでした。

 その結果、戦後の宗教政策は混乱し、天皇の祭祀も影響を免れていません。昭和40年代以降、昭和天皇の御健康問題を口実として祭祀は非伝統的に簡略化され、御代替(みよが)わりには多くの不都合が生じました。混乱はなお続き、いまや側近までが「宮中祭祀は陛下の『私的な活動』」と公言してはばかりません。

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当分は御代拝が続く宮中祭祀?──今週土曜日に手術を受けられる陛下 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2012年2月12日)からの転載です


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当分は御代拝が続く宮中祭祀?──今週土曜日に手術を受けられる陛下
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 私は霊能者でも預言者でもありませんが、昨日は朝からいやな予感がありました。

 建国記念の日ですから各地で奉祝行事が行われましたが、本来なら初代神武天皇の御即位を仰ぐ、天皇御自身による祭りが、中心的に行われるはずの宮中三殿では、すでに昭和23年以来、紀元節祭が中絶されて久しく、そのうえこの3年は陛下の御不例、検査入院のため、恒例の御拝さえ行われていないからです。

 昨年は30分、今年は1時間の精密検査が、午後に設定されればいいものを、午前中に行われ、そのため御拝はお取り止めとなったようです。

 天皇の祭りは、「およそ禁中の作法は神事を先にす」と順徳天皇の『禁秘抄』(1221年)の冒頭に明記されているように、歴代天皇がもっとも重視されてきたことですが、このところ、陛下のご健康問題や多忙なご公務の影響で、あるいはそのことを表向きの理由として、陛下の祭祀がしわ寄せを受ける事例が多々あります。

 そんなことから、もしかしたら、という予感が私の頭をよぎったのです。


▽1 女性宮家問題への影響はあるか

 そして、当たってほしくない予感が的中したというのか、昨日、行われた冠動脈の検査の結果、陛下は冠動脈バイパス手術をお受けになることになりました。

 報道によれば、1年前の検査で見つかった左冠動脈の前下行枝と回旋枝のうち、約90%の狭窄がみられた回旋枝について、やや進行している部分が見つかったというので、「従来の生活の維持とさらなる向上を目指して」、手術するのが適切という結論に達したのだそうで、今週土曜日に手術を受けられる、と伝えられています。
http://www.asahi.com/national/update/0212/TKY201202120119.html

 昭和の時代、無神論者を自認したという富田朝彦宮内庁長官は、昭和の祭祀簡略化の中心人物でしたが、歴史上はじめてとなる天皇の開腹手術を、長官として決断したことでも知られます。

 今回は開腹手術ではなく、それこそ過去の歴史にない心臓外科手術となります。陛下のご無事を、ご平癒を、祈らずにはいられません。

 同時に気がかりなのは、陛下のご入院が、目下、進行中のいわゆる女性宮家創設問題や祭祀簡略化問題などに、どう影響するのか、です。女性宮家創設論の表向きの理由は「皇室のご活動」の確保でした。祭祀簡略化もご公務のご多忙ぶりと関連しています。


▽2 9年前の皇太子殿下のご日程

 陛下は9年前の平成15年にも手術を受けられ、ご入院は3週間以上に及びました。

 今回も同じぐらいの期間、入院なさるとすると、その間の国事行為、ご公務、祭祀がどのようになるのでしょうか。

 具体的に振り返ると、15年1月16日午前、東大病院にご入院、2日後の18日午前、3時間40分に及ぶ前立腺全摘出手術を受けられ、2月8日午後にご退院になりました。

 ご入院当日、皇太子殿下に国事行為臨時代行に関する勅書のご伝達があり、ご退院から9日後、国事行為委任が解除された2月18日まで、陛下のご日程はありません。

 この間、2月4日には、皇后陛下がベルギー王子ロラン殿下と御所でお茶をなさっていますが、ご多忙をきわめたのは、皇太子殿下です。宮内庁のHPには以下のようなご公務の日程が載っています。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/02/h15/gonittei-2-2003-1.html

1月16日(木)
皇太子殿下 皇太子殿下に国事行為臨時代行に関する勅書のご伝達(受領)(御所)
皇太子同妃両殿下 天皇皇后両陛下に代わり,ご接見(農林水産祭天皇盃受賞者等),ご覧(業績展示等)(宮殿)
皇太子同妃両殿下 ご接見(アイスランド首相夫妻)(東宮御所)

1月17日(金)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(認証官任命式(9名))(宮殿)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(ご執務)(宮殿)

1月20日(月)
皇太子殿下 第156回国会開会式(国会議事堂)

1月21日(火)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(ご執務)(宮殿)

1月22日(水)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(信任状捧呈式(ジンバブエ,ギニア))(宮殿)

1月23日(木)
皇太子妃殿下 ご覧(第20回読売招待閨秀書展)(松屋銀座本店)
皇太子同妃両殿下 ご接見(赴任大使夫妻(大韓民国,チェッコ,エルサルバドル))(東宮御所)

1月24日(金)~1月25日(土)
群馬県行啓(第58回国民体育大会冬季大会スケート競技会・アイスホッケー競技会にご臨場,併せて地方事情ご視察)
1月24日(金)
皇太子同妃両殿下 東宮御所御発
皇太子同妃両殿下 ご昼食(ウェルサンピア高崎)(高崎市)
皇太子同妃両殿下 ご視察(特別養護老人ホーム恵風園,養護老人ホーム前橋老人ホーム)(前橋市)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(ご執務)(千明仁泉亭)(伊香保市)
1月25日(土)
皇太子同妃両殿下 第58回国民体育大会冬季大会スケート競技会・アイスホッケー競技会開会式ご臨席(群馬県総合スポーツセンターぐんまアリーナ)(前橋市)
皇太子同妃両殿下 ご昼食(群馬県庁)(前橋市)
皇太子同妃両殿下 群馬県総合スポーツセンターぐんまアリーナお立ち寄り(前橋市)
皇太子同妃両殿下 ご覧(フィギュアスケート競技)(群馬県総合スポーツセンターアイスアリーナ)(前橋市)
皇太子同妃両殿下 群馬県総合スポーツセンターぐんまアリーナお立ち寄り(前橋市)
皇太子同妃両殿下 東宮御所御着

1月28日(火)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(ご執務)(宮殿)

1月29日(水)
皇太子同妃両殿下 ご接見(離任本邦駐在エクアドル大使夫妻)(東宮御所)

1月31日(金)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(ご執務)(宮殿)
皇太子妃殿下 全国公立小・中学校女性校長会役員ご接見(東宮御所)

1月31日(金)~2月1日(土)
青森県行啓(天皇陛下のご名代として)(第5回アジア冬季競技大会青森2003にご臨場)1月31日(金)
皇太子殿下 東宮御所御発
2月1日(土)
皇太子殿下 大会概要ご聴取(大会組織委員会会長ほか)(青森グランドホテル)(青森市)
皇太子殿下 第5回アジア冬季競技大会青森2003開会式ご臨場(新青森県総合運動公園「青い森アリーナ」)(青森市)
皇太子殿下 東宮御所御着

2月3日(月)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(信任状捧呈式(トルコ,キューバ))(宮殿)
皇太子同妃両殿下 ご会釈(勤労奉仕団)(東宮御所)
皇太子同妃両殿下 晩餐(ベルギー王子ロラン殿下)(東宮御所)

2月4日(火)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(ご執務)(宮殿)

2月5日(水)
皇太子同妃両殿下 ご接見(赴任大使夫妻(オーストリア,スーダン,国際連合教育科学文化機関日本政府代表部,ギリシャ,モザンビーク,パプアニューギニア,ギニア))(東宮御所)

2月6日(木)
皇太子殿下 天皇陛下に代わり,ご接見(全国検事長及び検事正会同に参加の検事正等)(宮殿)
皇太子同妃両殿下 ご会釈(勤労奉仕団)(東宮御所)

2月7日(金)~2月8日(土)
青森県行啓(第5回アジア冬季競技大会青森2003にご臨場,併せて地方事情ご視察)
2月7日(金)
皇太子同妃両殿下 東宮御所御発
皇太子同妃両殿下 ご昼食(青森グランドホテル)(青森市)
皇太子同妃両殿下 ご覧(カーリング競技)(青森市スポーツ会館)(青森市)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(ご執務)(青森グランドホテル)(青森市)
2月8日(土)
皇太子同妃両殿下 ご視察(児童養護施設「藤聖母園」)(青森市)
皇太子同妃両殿下 ご昼食(青森グランドホテル)(青森市)
皇太子同妃両殿下 第5回アジア冬季競技大会青森2003閉会式ご臨席(新青森県総合運動公園「青い森アリーナ」)(青森市)
皇太子同妃両殿下 ご視察(三内まほろばパーク縄文時遊館)(青森市)
皇太子同妃両殿下 東宮御所御着

2月10日(月)
皇太子殿下 ご説明(チリ駐在特命全権大使)(東宮御所)

2月12日(水)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(ご執務)(宮殿)

2月13日(木)
皇太子殿下 天皇陛下に代わりご会見・宮中午餐(チリ大統領)(宮殿)

2月14日(金)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(ご執務)(宮殿)
皇太子殿下 国事行為臨時代行(認証官任命式(1名))(宮殿)

2月18日(火)
皇太子殿下 皇太子殿下に国事行為の委任解除に関する勅書のご伝達(受領)(御所)


▽3 9年前はご退院4か月後に祭祀復帰

 殿下は陛下に代わり58件の国事行為などをお務めになりましたが、その一方で、1月7日の昭和天皇祭、1月30日の孝明天皇例祭、2月17日の祈年祭の、陛下や皇太子殿下のお出ましは記録されていません。15年当時は宮内庁のホームページには祭祀に関する記載がなかったからです。

 宗教専門紙の「神社新報」によると、前年暮れのガン発見以来、医師の勧めによって、元旦の四方拝など祭祀のお出ましはお取り止めとなり、1月17日には持統天皇千三百年式年祭が行われ、掌典次長が御代拝、2月11日の臨時祭典は掌典次長の御代拝となり、ご退院後も、3月21日の春季皇霊祭・神殿祭は掌典長の御代拝で、陛下が祭祀に復帰されたのはご退院からほとんど4か月後の6月1日の旬祭からでした。

 今回も前回のようになるとすれば、国事行為およびご公務の復帰が早かったとしても、祭祀のお出ましは、6月16日の香淳皇后例祭にまで延びるのかも知れません。6月1日の旬祭は21年以来、ご代拝となっているからです。

 皇太子殿下のご日程がご多忙になるから、いまこそ女性宮家を創設せよ、という議論が高まるのでしょうか。その一方で、祭祀は当分、御代拝が続くのかどうか。天皇のお務めは何か、という本質論を抜きにして、です。


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今年もお取り止めの三殿御拝──建国記念の日に入院された陛下 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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今年もお取り止めの三殿御拝
──建国記念の日に入院された陛下
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 陛下が心臓冠動脈の精密検査のため入院されました。退院は明日の予定と伝えられます。
http://www.asahi.com/national/update/0211/TKY201202110150.html

 検査後、医師団は手術が必要かどうかなど、今後の治療方針について発表するそうですが、大事に到らないことを祈らずにはいられません。


▽1 戦後、中絶した紀元節祭

 さて、今日は建国記念の日です。例年なら、陛下の御拝が行われるはずですが、今年は検査が午前11時ごろから行われるとのことですから、お取り止めなのでしょう。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120211/t10015946211000.html

 旧皇室祭祀令では、2月11日の紀元節祭は、天皇が皇族および官僚を率いて、みずから祭典を行う大祭と位置づけられていました。
http://www.geocities.jp/nakanolib/kou/km41-1.htm

 紀元節祭は、八束清貫・元宮内省掌典の「皇室祭祀百年史」によれば、神武天皇が橿原宮に即位された建国の第1日を景仰し、紀元節として皇霊殿に神武天皇を親祭される祭祀で、朝・昼・夕の三度にわたって祭典が行われ、昼の議が親祭でした。昭和3年からは三殿祭祀に拡張されました。

 昭和22年5月の現行憲法の施行とともに旧皇室令は廃止されましたが、当メルマガの読者ならよくご存じのように、このとき「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」と明記する宮内府長官官房文書課長・高尾亮一名による依命通牒により、祭祀の伝統は守られてきました。

 しかしその例外が紀元節祭でした。八束の「百年史」によれば、23年以降、中絶したとあります。同じく2月11日に行われていた皇霊殿御神楽の儀は4月3日の神武天皇祭の日に行われるようになりました。


▽2 「建国記念の日」法制化でも復活せず

 祝日法が改正され、建国記念の日が「国民の祝日」に加えられたのは昭和41年で、翌年から適用されましたが、宮中祭祀として紀元節祭が復活することはありませんでした。入江相政侍従長による祭祀簡素化の「工作」(「入江日記」)が始まったのは43年です。

 昭和57年暮れ、永田忠興掌典補の神道宗教学会での問題提起により、昭和の祭祀簡略化が明るみに出ましたが、このとき、神社本庁が富田朝彦宮内庁長官宛に提出した抗議の質問書には「神道指令との関連で、紀元節が廃されたほか、いまでは明治節祭も行われなくなった。建国記念の日が立法化されたにもかかわらず、紀元節祭は復活していない。廃止の理由を承りたい」という1項目がありました。

 これに対して、宮内庁の「公式見解」とされる東園基文掌典長による回答書に、答えはありませんでした。具体的な回答を避けたのです。


▽3 毎年欠かせられなかった御拝

 側近の日記などによると、今上陛下は皇位の継承後、皇后陛下とともに、祭祀について学ばれ、正常化に努められました。

 2月11日には恒例の御拝をなさり、神武天皇の御即位に思いを馳せられてきました。宮内庁がホームページ上に宮中祭祀の日程を掲載するようになったのは17年以降ですが、17、18年は「三殿御拝(宮中三殿)」、19、20年は「賢所仮殿御拝(賢所仮殿)」、21年は「三殿御拝(宮中三殿)」と記載されています。

 しかし22年は記載がありません。発表では、ノロウイルスによる急性腸炎となられ、宮中三殿御拝は掌典の御代拝となったのでした。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h22-0202.html

 昨年もお取り止めでした。定期検診の一環として行われる30分の精密検査が午前中に繰り上げられたからです。そして、今年もお取り止めとなりました。

 なぜ精密検査は今日なのか、メディアは「前回の検査から1年となる」と説明していますが、それならなぜ去年のこの日だったのか? 昨年は30分、今年は1時間の検査を、午後に設定することはできないんでしょうか?

 順徳天皇の『禁秘抄』に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあるように、歴代天皇が最優先させてきたのが祭祀です。

 宮内庁のホームページにも「天皇皇后両陛下は,宮中の祭祀を大切に受け継がれ,常に国民の幸せを祈っておられ,年間約20件近くの祭儀が行われています。皇太子同妃両殿下をはじめ皇族方も宮中祭祀を大切になさっています」と説明があります。
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi.html


▽4 テニスより軽視される祭祀

 しかし、陛下の祭祀に対して、いまの宮内庁はきわめて冷淡です。

 宮内庁のホームページに記載される宮中祭祀の「主要な祭儀」のなかに「紀元節祭」は見いだせません。11月3日の明治節祭も同様です。
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html

 平成の祭祀簡略化を進言した一人と目される渡邉允前侍従長(現御用掛)のように、「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」(雑誌「諸君」20年7月号掲載の渡邉允前侍従長インタビュー「慈愛と祈りの歳月にお伴して」)と言い切る側近さえいます。

 神道指令下の憲法解釈に後退しているのです。いわゆる国家神道の歴史を、知的に克服できていないからでしょう。

 報道によると、昨年2月9日、陛下の精密検査をひかえて、宮内庁は、「11日の宮中祭祀は欠席されるが、現時点で公務の変更予定はない。今のところ、テニスなどの運動にも問題はない」と発表しました。

 天皇の祭祀は明らかに、スポーツのテニスよりも軽視されています。

 前侍従長はインタビューのなかで、「つねに国民の幸せを祈るというお気持ちをかたちにしたものとして祭祀がある」と語っていますが、それでも、天皇の祭祀は私的行為であり、ご公務が優先されるという憲法解釈から抜け出せないでいます。

 つまり、側近たちが考える天皇は、悠久なる歴史上の存在としての天皇ではありません。であればこそ、過去に例のない女性天皇・女系継承容認も、女性宮家創設も平気で口にできるのでしょう。根っこは同じなのです。

 まことに残念なのは、日ごろ敬神尊皇を唱え、紀元節奉祝を謳う保守派の人々から、宮中祭祀簡略化に対する怒りの声がいっこうに聞こえないことです。宮中と府中の違いを理解できずに、自己規制する人さえいます。これでは事態がどんどん悪化するのは目に見えています。

 陛下のご心痛は察するに余りあります。

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