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厳しさを増す宮中祭祀の実態──激減した陛下のお出まし [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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厳しさを増す宮中祭祀の実態
──激減した陛下のお出まし
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 昨年来、宮中祭祀の実態がいよいよ厳しさを増しています。

 宮内庁はちょうど3年前の平成21年1月29日、「今後の御公務及び宮中祭祀の進め方」について発表しました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/gokomu-h21-0129.html

 陛下のご健康面に不安があること、にもかかわらずご多忙な日々が続いていること、昭和の時代に御公務・宮中祭祀の調整・見直しが行われた先例があること、を説明したうえで、きめ細かい調整・見直しを図ることにし、宮中祭祀に関しては、新嘗祭については、当面、「夕の儀」には従来通り、出御になり、「暁の儀」については時間を限ってお出ましになる。毎月1日の旬祭は5月と10月以外はご代拝とするなどとされました。

 ところが、です。昨年11月のご入院で新嘗祭の親祭がお取り止めになったのはまだしも、年2回の旬祭のお出ましすら、ご代拝ですまされ、いわゆる簡略化はとどまるところを知りません。


▽1 変わらないご多忙ぶり

 いつものように、公表されている「ご日程」から、陛下のご公務日数を月ごとに数え上げると、以下のような表になります。

平成 17 18 19 20 21 22 23
1月 22 21 22 21 19 23 23
2月 17 18 19 22 19 17 17
3月 23 22 22 25 24 26 22
4月 21 22 20 20 21 22 23
5月 20 25 22 19 20 23 20
6月 24 23 22 25 25 23 23
7月 18 20 21 22 27 20 23
8月 23 18 22 19 19 23 21
9月 22 26 22 25 22 23 23
10月 25 25 24 24 26 24 25
11月 26 25 26 26 22 24 10
12月 22 24 22 16 24 23 18
合計 263 269 264 264 268 271 248

 陛下がにわかにご体調を崩されたのは、リーマン・ショック直後の20年11月でした。同年12月はご公務のお取りやめなどがありました。

 けれども、翌年1月のご公務の調整・見直しが表明されたあとも、陛下のご公務は、少なくとも日数については、減るどころか、逆に増え、22年は271件と、過去最高のレベルにまで達しました。

 昨年も10月までは、ご多忙ぶりにほとんど変化が見られません。


▽2 昨年のお出ましは15日

 これに対して、祭祀のお出ましは見るも無惨な状況です。

平成 17 18 19 20 21 22 23
1月 5 5 6 5 4 6 5
2月 3 3 3 3 2 3 1
3月 4 3 2 3 1 2 1
4月 4 3 1 2 2 3 1
5月 1 3 4 1 1 1 1
6月 3 4 3 4 3 2 2
7月 2 2 3 2 3 1 2
8月 2 1 2 2 0 0 0
9月 2 2 2 3 1 1 1
10月 3 1 2 2 2 3 1
11月 2 2 3 2 3 1 0
12月 6 5 5 2 4 4 0
合計 37 34 36 31 26 27 15

 20年12月以降、祭祀のお出ましが激減しています。とくに8月は21年以後、お出ましが0になりましたが、昨年はお出ましのない月が増えました。出御の日数は15日にまで落ちました。

 その理由は11月のご入院にあることは誰しも気がつくところですが、お出ましが減ったのはそれだけではないようです。


▽3 過去7年間の祭祀のお出まし

 次の表は、平成17年から昨年まで、年間を通じた祭祀について、宮内庁の公表データに基づき、陛下のお出ましの有無をまとめたものです。○はお出ましあり、△はお出ましなし、です。

1月1日 四方拝の儀(神嘉殿南庭) 17○ 18○ 19○(御所で) 20○(御所で) 21○(御所で) 22○ 23○
同日 歳旦祭の儀(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21△ 22○ 23○
1月3日 元始祭の儀(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21△ 22○ 23○
1月4日 奏事始の義(宮殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
1月7日 昭和天皇祭皇霊殿の儀(皇霊殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 22○ 23○
同日 同御神楽の儀(皇霊殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 22○ 23○
同日 昭和天皇二十年式年祭山陵の儀(武蔵野陵) 21○
1月9日 武烈天皇千五百年式年祭の儀(賢所仮殿) 19○
1月16日 東山天皇三百年式年祭(皇霊殿) 22○
1月30日 孝明天皇例祭の儀(皇霊殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
2月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21△ 22△ 23△
2月11日 三殿御拝(宮中三殿。かつての紀元節祭) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22△ 23△
2月13日 反正天皇千六百年式年祭の儀(皇霊殿) 22○
2月17日 祈年祭の儀(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
2月23日 孝安天皇二千三百年式年祭の儀(皇霊殿) 22○
3月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21△ 22△ 23△
3月20日(18、19、22年は21日) 春季皇霊祭の儀・春季神殿祭の儀(皇霊殿・神殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
3月23日 花山天皇千年式年祭の儀(賢所仮殿) 20○
3月25日 賢所皇霊殿神殿を本殿に奉遷の儀(ご遥拝。御所) 20○
同日 東山天皇陵ご参拝(東山天皇三百年式年に当たり。東山天皇陵) 22○
4月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18○ 19△(御料牧場御滞在) 20○ 21△ 22△ 23△
同日 應神天皇千七百年式年祭の儀(皇霊殿) 22○
4月3日 神武天皇祭皇霊殿の儀(皇霊殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
同日 皇霊殿御神楽の儀(皇霊殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23△
4月13日 桓武天皇千二百年式年祭の儀(皇霊殿) 18○
4月20日 武蔵野陵・武蔵野東陵ご参拝(武蔵陵墓地) 22○
4月28日 賢所皇霊殿神殿に閲するの儀(ノルウェー公式ご訪問につき。宮中三殿) 17○
5月1日 旬祭(宮中三殿) 17△ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
5月16日 賢所皇霊殿神殿に閲するの儀(ノルウェー公式ご訪問からご帰国につき。宮中三殿) 17○
5月18日 賢所皇霊殿神殿に閲するの儀(賢所仮殿。ヨーロッパ公式ご訪問) 19○
5月29日 賢所皇霊殿神殿を仮殿に奉遷の儀ご遥拝(御所) 18○
5月31日 賢所皇霊殿神殿に閲するの儀(賢所仮殿。ヨーロッパ公式ご訪問) 19○
6月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21△ 22△ 23△
6月5日 賢所皇霊殿神殿に閲するの儀(賢所仮殿。シンガポール・タイ公式ご訪問) 18○
6月16日 香淳皇后例祭の儀(皇霊殿) 18○ 19○ 20△(大館市内ホテルでご遥拝・お慎み) 21○ 23○
同日 香淳皇后五年式年祭の儀(皇霊殿) 17○
同日 香淳皇后十年式年祭の儀(皇霊殿) 22○
6月30日 節折の儀(宮殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
7月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21△ 22△ 23△
同日 賢所皇霊殿神殿に閲するの儀(カナダ、アメリカ公式ご訪問につき。宮中三殿) 21○
7月21日 賢所皇霊殿神殿に閲するの儀(カナダ、アメリカ公式ご訪問からご帰国につき。宮中三殿) 21○
7月23日 東久邇家ご墓所ご参拝(東久邇成子50年式年に当たり。豊島岡墓地) 23○
7月30日 明治天皇例祭の儀(皇霊殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
7月31日 一條天皇千年式年祭の儀(皇霊殿) 23○
8月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21△ 22△ 23△
8月16日 堀河天皇九百年式年祭の儀(賢所仮殿) 19○
8月31日 孝昭天皇二千四百年式年祭の儀(皇霊殿) 20○
9月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21△ 22△ 23△
9月18日 後二條天皇七百年式年祭の儀(皇霊殿) 20○
9月23日 秋季皇霊祭の儀・秋季神殿祭の儀(皇霊殿・神殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
10月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18△(兵庫県行幸) 19○ 20○ 21○ 22△(山口県行幸)
10月9日 元明天皇陵ご参拝(平城京初代の天皇。元明天皇陵) 22○
同日 光仁天皇陵ご参拝(平城京最後の天皇。光仁天皇陵) 22○
10月12日 亀山天皇七百年式年祭の儀(皇霊殿) 17○
10月17日 神嘗祭神宮遥拝の儀(神嘉殿) 17○ 18○(御所で) 19○(御所で) 20○ 21○ 22○ 23○
同日 神嘗祭賢所の儀(賢所) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23○
11月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20△ 21△ 22△ 23△
11月12日 天皇陛下御即位二十年につき賢所皇霊殿神殿祭典の儀(宮中三殿) 21○
11月23日 新嘗祭神嘉殿の儀(神嘉殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23△
12月1日 旬祭(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21△ 22△ 23△
12月15日 賢所御神楽の儀(賢所) 17○ 18○ 19○(17日) 20△ 21○ 22○ 23△
12月23日 天長祭の儀(宮中三殿) 17○ 18○ 19○ 20△ 21○ 22○ 23△
12月25日 大正天皇例祭の儀(皇霊殿) 17○ 18○ 19○ 20△ 21○ 22○ 23△
12月31日 節折の儀(宮殿) 17○ 18○ 19○ 20○ 21○ 22○ 23△


▽4 ご公務は減らず

 昨年暮れの天皇誕生日に宮内庁が発表した「この一年のご動静」では、宮中祭祀について、「陛下は恒例の祭典のほか,一條天皇千年式年祭など21回の祭典にお出ましになりました。なお,新嘗祭は,陛下はご不例のためご欠席になり,掌典長によるご代拝となりました。また,毎月一日の旬祭は5月と10月(今年は山口県へ行幸啓中につきご代拝)以外はご代拝により行われています」とされています。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokanso-h23e.html

 たしかに昨年の陛下のお出ましは、21件しかありません。同日に行われる春と秋の皇霊祭・神殿祭などを、それぞれ2件と数えたうえでのことです。

 2月11日の恒例の御拝は、以前、申し上げましたように、精密検査のためにお取り止めとなり、10月1日の旬祭の親拝は山口県行幸のためご代拝となり、さらに11月のご不例以後、祭祀のお出ましはありません。

 ご健康問題やご公務の強い影響を受けていることが分かります。

 今年に入ってからも影響は続き、元旦の四方拝は神嘉殿前庭ではなく、御所で行われ、ひきつづき行われるはずの歳旦祭はご代拝となった模様です。一方で、新年祝賀の行事は前年同様に行われています。ご不例のあともご公務は減らないのです。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/h24/gonittei-1-2012-1.html

 在任中、ご公務ご負担の軽減を繰り返し、陛下に進言したという渡邉允侍従長は、『天皇家の執事』の「後書き」でこう書いています。

「両陛下のご負担の問題は、私の在任中を通じて常に存在する懸案でした。私がお仕えするようになって間もなく、両陛下とも、世の中でいう高齢者の年齢になられ、今までどおりに働き続けていただいていいのかという声が聞かれるようになりました。しかし、平成10年の天皇誕生日にあたっての記者会見で、陛下が『公務が近年非常に多くなっているということは事実です。しかし、それぞれ重要な公的な行事と思いますので、宮内庁の方に『現在と変えるように』というふうにいうつもりはありません』とおっしゃったとおり、両陛下は、公務を減らすつもりは全くないというお考えで一貫しておられました。したがって、平成21年1月の発表を陛下がお許しになったことについては、感慨無量ですが、それでもご公務そのものを削減することはないわけです。まだまだお忙しいことに全く変わりはありません」

 前侍従長の文章からすると、陛下は、ご公務は減らさず、祭祀は減らすように、と陛下がおっしゃったことになるのでしょうか?

 さはさりながら、今年1月3日の元始祭、4日の奏事始、7日の昭和天皇祭皇霊殿の儀、御神楽の儀を、陛下は例年と同様にお務めのようです。陛下はまぎれもなく、祭祀王なのです。


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明治期の祭式を踏襲か──親祭なき今年の新嘗祭 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年12月4日)からの転載です

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明治期の祭式を踏襲か──親祭なき今年の新嘗祭
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 先月23日の新嘗祭は、ご承知のように、陛下は入院中で、親祭がありませんでした。「宮中第一の重儀」とされ、本来、天皇がみずから祭りを行う新嘗祭ですが、今年はどのような祭りとなったのでしょう?

 あらかじめお断り申し上げますが、天皇の祭祀は、天皇が余人を交えずに行われる「秘儀」とされます。したがって祭式の中身について、安易に詮索することは厳に慎まれるべきです。

 私が敢えて追及するのは、とくに昭和50年8月以降、ご健康問題とは別の理由から、端的にいえば、歪な憲法解釈・運用の「忠臣」たちによって、原則のない、簡略化が進んでいることを、心から憂えずにはいられないからです。

 今日のメルマガは資料が多いため、特別長くなっています。その点もご容赦ください。


▽1 昭和の前例に従った「代拝」?

 先月1日の段階では夕の儀、暁の儀ともお出ましの時間が短縮される、と発表されていました。根拠は、医師の指示、つまり陛下のご健康、それと昭和の先例が根拠とされています。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h23-1101.html#K1101

 しかしその後、陛下は入院され、さらにご入院が長引き、18日の段階では、医師の判断に従って、お出ましが差し控えられ、そのうえ皇太子殿下のお出ましまでもが時間的に短縮されることになりました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h23-1101.html#K1118

 実際の祭儀について、産経新聞は前日の22日の段階で、「今年は宮中祭祀をつかさどる掌典職のトップ、掌典長が陛下に代わり供物を供え、祝詞を読み上げる『代拝』を行う。……昭和時代の前例に従ったものだという」と伝えています。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111122/imp11112222520001-n1.htm

 陛下が親祭なさる、神嘉殿の聖なる空間にまで掌典長が立ち入り、陛下がなさる神饌御進供、御告文奏上を、掌典長が陛下に代わって行い、これを「代拝」と称し、さらに昭和の時代に行われていた前例の踏襲だと関係者が記者に説明した、ということでしょうか?

 にわかに信じがたい気がします。


▽2 旧皇室祭祀令「注意書き」の援用か?

 さっそく、昭和天皇の祭祀に携わった経験のある宮内庁OBたちに、取材してみました。すると、案の定、「御告文を陛下に代わって奏上するようなご代拝なんて、あり得ない」という答えが一様に返ってきました。

 旧皇室祭祀令(明治41年9月公布)では、新嘗祭は、天皇がみずから祭祀を行う「大祭」と位置づけられ、第8条第2項には「天皇、喪にあり、その他事故あるときは、前項の祭典(大祭)は、皇族または掌典長をして、これを行わしむ」と定められています。

 したがって、皇室祭祀令本文に従えば、神饌御進供、御告文奏上、御直会を、天皇に代わって、掌典長が奉仕していいはずですが、「新嘗祭だけは違う」とされています。

 どういうことでしょうか?

 旧皇室祭祀令には「附式」があり、「天皇、襁褓(きょうほう)にあるときは出御なし。神饌は掌典長これを供進し」という注意書きが加えられています。簡単にいえば、天皇が赤ん坊のときは、祭儀にお出ましがなく、掌典長が神饌を供進する、と定められていた、というのです。

 践祚、即位礼、大嘗祭について定めた旧登極令にも、同様の注意書きがあります。

「今回はこの定めを援用し、掌典長が神饌を供進したのではないか。天皇だけがなさる御告文奏上、御直会を掌典長が代わって行うことはない。拝礼がないのだから、『代拝』と呼ぶこともない」というのが、旧職員たちの説明でした。

 あるOBは、「掌典長が祝詞を読み上げる」と伝えた新聞記事について、「神嘉殿での新嘗祭ではなく、同日に宮中三殿で行われる三殿新嘗祭ならあり得る」と指摘します。もしかしたら記者が両者を混同しているのかもしれません。

 ともあれ、OBが推測するように、旧皇室祭祀令を援用し、掌典長が神饌を供進したというのなら、宮内庁がくり返し説明してきた「昭和の前例」の踏襲には当たらない、ということになります。正確にいえば、「皇室の伝統」に基づいて、です。そのように説明されないのはなぜか、が逆に問われます。


▽3 掌典長が奉仕した明治の先例

 じつは明治の時代に、掌典長が新嘗祭を奉仕した先例があります。

 先日、神社本庁で行われたシンポジウムで、パネラーの1人として、宮中祭祀簡略化問題についてお話ししましたが、旧知の神道学者から、その指摘を受けました。大正9(1920)年以降、大正天皇が新嘗祭にお出ましになっていないことは以前に調べたことがあり、知っていましたが、明治にさかのぼってまで、具体的に調べていませんでした。

 これは探究する必要があります。

 明治天皇(嘉永5[1852]年─明治45[1912]年)に関することなら、読むべき資料はもちろん、『明治天皇紀』です。さっそく全12巻を読み返し、新嘗祭のお出ましについて検証することにしました。

 同書には嘉永6年から新嘗祭についての記述があります。宮中祭祀は「近代の創作」と考える研究者もいるようですが、そうでないことは明らかです。以下、拾い読みします。引用文は使用漢字、仮名遣いなど、適宜、編集してあります。

 最初の関連記事は嘉永6(1853)年です。明治5年の改暦布告、すなわち太陽暦導入以前は11月の下卯日(三卯あれば中卯日)に行われましたので、日付が11月23日でないことも注目されます。

嘉永6年11月14日 新嘗祭、内廷より夜食として餅、芋蒸しなどを侍臣および中山忠能の家族に賜う

 明治天皇は孝明天皇の第2皇子として、前年9月22日、西暦でいえば1852年11月3日、権大納言中山忠能の次女・慶子を母に、お生まれになりました。幼少のころの『明治天皇紀』の記述は、内廷から夜食の雑煮や籤の品を賜ったというような話題に終始しています。慶応元(1865)年の記事にその慣習について説明があります。

慶応元年11月18日 新嘗祭、その儀深更に及ぶをもって、内廷より雑煮を賜る、従来祭事その他ことによりて深夜なお寝に就かれざるときは、准后より物を親王に贈進せらるるを例とす、しかれども自今以後、月障によりて里殿に退出せられたる場合はこれを停めらる、翌日、神斎すでに解くるをもって、親王、准后とともに鮮魚おのおの一折を天皇に献じたまう


▽4 王政復古後の祭祀の整備

 翌年の慶応2年12月25日、西暦でいえば1867年1月30日に孝明天皇が崩御され、翌3年1月9日に践祚の儀が行われました。明治天皇は14歳の若さでした。諒闇中だった同年の新嘗祭の記事には、新嘗祭の歴史、祭場の変遷、王政復古後の祭祀の整備、諒闇中の祭式について、解説されています。

慶応3年11月18日 新嘗祭を神祇官代において行わせらる、新嘗祭は往昔神嘉殿において行われ、諒闇に際したるときのみ神祇官において行うを例としたりしも、中世廃絶すること久しく、元禄元年以後わずかに新嘗御祈と称し、吉田家の宗源殿においてこれを挙行するに止まりたり、元文5(1740)年にいたり、新嘗祭ようやく再興せられたれど、宝暦12(1762)年桃園天皇の諒闇に際し、また元文以前のごとく新嘗御祈を行わせられ、爾来、諒闇の節はその例によれり、しかるに王政復古とともに祭典復古の議起こるあり、すなわち例幣ならびに臨時奉幣にならい、神祇官代においてこれを執行せんとすれども、狭隘にして祭式を挙げ難し、ここにおいて従来新嘗御祈を挙行せし宗源殿をもって臨時に神祇官代に擬し、祭典を行い、神祇権大副吉田良義および奉行蔵人頭右中弁坊城俊政これに勤仕す

 翌年慶応4(1868)年9月8日に、同年元日にさかのぼって「明治」と改元されます。この年の新嘗祭は前年同様、吉田神社内で行われ、明治天皇は山里の遥拝所で遙拝されました。これに先立って、新嘗祭に関する布告が行われ、その趣旨が説明されたことが注目されますが、その内容は稲に偏重するものでした。

明治元年11月18日 前左大臣近衛忠房を上卿として、新嘗祭を京都吉田神社境内神祇官代に挙行す、よりて新たに遥拝所を山里に設け、戌の刻前同所に渡御あり、西室において黄櫨染御袍に召し換えたまい、東室において坤方に向かいて遙拝あらせらる、還御ののち、侍臣その他に鬮(くじ)・包物および一盞をたまい、子の半刻頃、御寝に就かせらる、これより先、とくに新嘗布告書を公布し、新嘗祭の趣旨を諭告するところあり

来18日新嘗祭に相当り御祭は於京師被為行候得共 主上御遙拝被為在候右祭の儀は先 皇国の稲穀は 天照大神顕見蒼生の食而可活ものなりと詔命あらせられ於天上狭田長田に令殖給いし稲を 皇孫降臨の時下し給えるものなれば其神恩を忘給わず且つ旱淋の憂無之様にと 神武天皇以来世々の 天皇11月中卯の日当年の新穀を 天神地祇に供せらるる重礼にて三千年に近く被為行来る11月朔日より散斎到斎の御斎戒被為在万民御撫恤の為に 御親祭被為在候事誠以下々の身にては難有御儀に候諸般の事は中世以来他邦の風儀も立交候えども神事のみは古代の儘にて聊かも駁雑無之純粋の古道に候京都および山城国中は当日より明朝まで梵鐘誦経の音を禁止し庶人に至迄一意に神祇を尊崇すべき御定に有之を天下一統昔は新嘗の日は戸を閉斎戒いたし候赴古歌に相見え候えども只今に至候ては其子細も不存徒に打過候故及御布告候右の譯にて全御仁恤の 叡慮より被為行御祭に候條公卿諸侯大夫夫子庶人に至迄篤く相心得当日は潔斎神祇を拝し共に五穀豊熟天下泰平を神祇に祈奉るべし面々毎日食し候米穀は其元 天祖の賜物なる事を知御国恩の辱き事を相弁候わば遊興安臥して在べきにあらず寒村僻邑の土民雨を祈晴を願候も必感応有之況天下一同 至尊の御仁慮を体認し奉り共に祈請し奉るに於ては神祇の冥感殊に速なるべきことに候


▽5 大嘗祭、新嘗祭の整備

 明治4(1871)年に大嘗祭が行われました。『明治天皇紀』が、以前の旧例墨守を批判し、「偏に実際に就くを旨」として祭儀が整備された、と記述していることは注目すべきです。全文は数ページにわたっていますので、冒頭のみ引用します。

明治4年11月17日 大嘗祭を行いたまう、これより先、政府祭儀の趣旨を定む、その概要にいわく、大嘗の大礼は国家の重典にして神代の遺範なり、故をもって世に治乱あり時に隆替ありといえども、歴代その儀を更めず、一に旧に依る、中葉以降大権武門に移りてより百官その職を失い徒に空名を存す、殊に神代より沿襲せし職官に至りては其の名実すでに亡ぶといえども、なお中臣代・忌部代らのごとく、某代と称して儀式に列せしむることこれ近代の通例なり、いまや皇業古に復し、百事維れ新たなり、大嘗の大礼を行うに、あに旧慣のみを墨守し有名無実の風習を襲用せんや、よりて大礼の儀式のあるいは未定に属するものは、姑く現時の形勢に鑑みあえて就職を用いず、偏に実際に就くを旨としてこれを制定す…(以下略)…

 大嘗祭の翌年、明治5(1872)年に新嘗祭が整備されました。明治天皇は神殿で神饌御進供、御直会を行われました。

明治5年11月22日 下の卯の日に当たるをもって、新たに式典を整え新嘗祭を行わせらる、その儀、午後2時神殿を装飾して、殿内四隅に歌の屏風をめぐらし、榊を殿前左右に樹て、鏡・剣・玉を懸け五色の絹を著く、4時式部寮員神座を殿内に設け、忌火の燈籠を神座の間の四隅に点ず、5時、参列の幟仁親王・熾仁親王および参議西郷隆盛・同板垣退助以下左院・諸省長次官便宜のところに候す、尋いで天皇山里御苑御茶屋に幸し、6時祭服を著して神殿に出御あらせらる、式部頭坊城俊政前行し、宮内卿徳大寺実則これに次ぎ、次ぎに侍従二人おのおの脂燭を秉る、宸儀、侍従長剣璽を奉じて従い、親王および参議以下の諸官扈従し、御茶屋より神殿に通ずる廊を進ませられ、御座に著したまう、侍従長剣璽を奉じて簀子に候し、式部頭および従一位中山忠能廂の座に、自余の諸官ら庭上の幄舎に著く、次ぎに式部頭進みて降神の儀を行う、次ぎに神饌行立あり、掌典・采女これを奉仕す、この間、神楽歌を奏す、天皇、手水の儀ありて親ら神饌を天神地祇に供し、直会の式を行わせらる、畢りてさらに手水を執らせられる、この間、親王および諸官階下に進みて庭上より拝礼す、次ぎに撤饌・昇神の儀ありて入御あらせらる、供奉は出御の時に同じ、午前1時ふたたび神殿に渡御して暁の祭典を行いたまう、その儀前に同じ、また神宮・皇霊・八神殿・官国幣社に幣帛を奉り、祭典を執行せしめらるるに依り、この日、午前8時神宮奉幣使・地方官を太政官に召し、大広間に於いて班幣の式を行う、また前夜鎮魂祭を修せしめらるること例の如し、小御所代を宮内省庁代としてこれを行う、本日休暇を百官に賜い、服者の参朝を停む


▽6 明治の改暦以後、11月23日に

 明治6(1873)年から太陽暦が採用されました。以後、新嘗祭は11月23日に行われるようになりました。この年の祭儀はたいへんでした。皇居が失火により焼失したからです。

明治6年11月23日 新嘗祭、仮皇居狭隘にして神殿建設の地なきのみならず、女官の祭服など焼失せるをもって、賢所行宮において、貞愛親王を御手代とし、式部寮員らをしてこれを行わしめたまう、而して夕・暁の両祭行わるるや、大広間南廂に出御して遙拝あらせらる、その際、右大臣・参議以下勅任官祗候するの定めなりしかど暁の儀にはこれを免じたまう、新嘗祭は午後4時ごろより翌暁に亘りて行わるるを例とすれども、この日午後10時30分にして夕・暁の両祭まったく畢る、前日太政官代において神宮以下諸社班幣の議あり、同夜小御所代において鎮魂祭修せらる

 皇居炎上の影響は翌年、明治7(1874)年も続きました。供饌の儀と御告文奏上の順序が入れ替わり、新嘗祭神殿は毎年建て直す方式から恒久施設に変わりました。

明治7年11月23日 その儀、明治5年の次第に準じて行わる、ただし本年より御供饌 後御告文を奏したまうこととす、また新嘗祭神殿は一昨年仮殿を新築せるが、昨年皇居炎上後、これを赤坂仮皇居に移して一時賢所仮殿に充用せり、ために改修せる箇所尠なからず、また狭小なるをもって、本年新たに神殿を造営す、なお新殿ははじめ祭典後これを撤却し、その用材をもって翌年復建することとなせしが、かくてはその失費少なからざるをもって、のち、この予定を改め、爾後建造のままにて存置することとなす

 明治8(1875)年以降、今日のように神嘉殿で親祭が行われる形式が続きます。剣璽の取扱に若干の異動がある程度で、祭式はほとんど変わっていないようです。

明治8年11月23日 新嘗祭、神嘉殿に出御、これを行わせらる、その儀客歳に同じ


▽7 御違例でも親祭

 明治14(1881)年はご体調が万全ではなかったのでしょうか、明治天皇は「御違例」でした。しかし親祭は行われました。もう一点、注目したいのは、慶応4年の説明では欠落していた粟について言及されていることです。

明治14年11月23日 新嘗祭、御違例にあらせらるといえども神嘉殿に出御して親祭あらせらる、その儀恒例のごとし、ただし神饌用の玄米・粟、従来東京府をしてこれを納めしめしが、本年以降は新宿御苑におい収穫せる品を供進することとなしたまう、また本年は新築御会食所の側に神嘉殿を建築せしめ、御会食所を経て同殿に渡御あらせらる

 明治15(1882)年以降は毎年、親祭が続きました。『明治天皇紀』の記述も判で押したように変わりません。

明治15年11月23日 新嘗祭、親祭あらせらるること例の如し

 明治21(1888)年以降は勅使として掌典が神宮新嘗祭に差遣されたことの記録が加わります。同年は掌典男爵萬里小路正秀、22年は掌典宮地厳夫、23年は掌典子爵千種有任、24年は掌典子爵千種有任、25年は掌典子爵前田利鬯、26年は掌典小西有勳でした。

明治21年11月23日 新嘗祭、親祭あらせらるること例の如し、掌典男爵萬里小路正秀を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう


▽8 行幸中、御喪中は掌典が奉仕

 大きな変化があったのは、明治27(1894)年です。

 同年7月、日清戦争が開戦します。9月に明治天皇は広島に行幸になり、大本営が置かれました。10月には帝国議会も広島で開かれました。このため新嘗祭は掌典長の「代拝」となりました。しかしその内容について、『明治天皇紀』には言及がありません。この時点では皇室祭祀令はまだ公布されていません。

 もう一点、陛下が祭典終了まで休まれることなく、祈りのときを共有されたことは注目されます。

明治27年11月23日 新嘗祭、広島行幸中なるに因り、掌典長公爵九條道孝をして代拝せしめられ、また掌典北卿久政を勅使として神宮に参向せしめらる、東西処を異にせらるといえども、深更祭典の了るまで天皇寝御あらせられず、御寝を仰出されたるはじつに翌暁3時5分なり

 明治28(1895)年4月に講和条約が調印されます。同年、翌29年の新嘗祭は親祭でした。

明治28年11月23日 新嘗祭、親祭あらせらる、儀例の如し、また掌典宮地厳夫を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治30(1897)年1月、英照皇太后が亡くなります。喪中のため、同年の新嘗祭に明治天皇の出御はありませんでした。『明治天皇紀』は「掌典部限りにて」とあります。その内容は不明です。

明治30年11月23日 新嘗祭、御喪期中の故をもって親祭あらせられず、掌典部限りにて行わしめたまう、また勅使掌典子爵前田利鬯を神宮新嘗祭に差遣したまう


▽9 御不例中で出御なし

 明治31(1898)年の新嘗祭はお出ましがありませんでした。明治天皇は風邪を召されたようです。「御風気の故」と記録されています。

明治31年11月23日 新嘗祭、御風気の故をもって臨期出御あらせられず、また掌典宗重望を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治32(1899)年、33年は親祭でした。

明治32年11月23日 新嘗祭、神嘉殿に渡御、親祭あらせらる、儀例の如し、また掌典北郷久政を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治34(1901)年にはやはり体調を崩されたようです。

明治34年11月23日 新嘗祭、不予に因りて出御あらせられず、掌典北郷久政を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治35(1902)年から38年までは親祭が続きました。『明治天皇紀』は勅使の名前以外、毎年ほとんど同一の記述が続きます。そして38年が新嘗祭の最後の親祭となりました。

明治35年11月23日 新嘗祭、神嘉殿に渡御、御親祭あり、儀例の如し、また掌典男爵久我通保を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう


▽10 明治39年以後は掌典長が奉仕

 明治39(1906)年、明治天皇はにわかにご体調を崩され、親祭はお取り止めとなりました。『明治天皇紀』は31年、34年の先例に従って、掌典長が祭典を奉仕したと記録しています。

明治39年11月23日 天皇軽微の感冒に罹り、胃腸を害したまう、よりてにわかに予定を変じて新嘗祭の出御を停め、31、34両年度の例に倣い、掌典長岩倉具綱をして祭典を行わしめたまう、また掌典男爵久我通保を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう、なおこの日より表出御を闕きたまうこと旬余、12月7日に至りて平常に復したまう

 明治40(1907)年もご病気のため、お出ましがなく、同じく掌典長が祭典を行いました。けれども27年の広島行幸中と同様、明治天皇は祭典が終了するまで休まれませんでした。以降、『明治天皇紀』は、出御がなく、掌典長が祭祀を行ったと記録しています。

明治40年11月23日 新嘗祭、不予に因りて出御あらせられず、昨年の例に沿い、掌典長岩倉具綱をして祭儀を修せしめたまう、而して天皇、暁の儀の神饌供進訖るまで寝に就きたまわず、翌日午前1時55分に至りてはじめて寝御を傳う、なおこの日、掌典子爵前田利鬯を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう


▽11 皇室祭祀令の公布

 明治41(1908)年9月に皇室祭祀令が公布されました。しかし明治天皇のお出ましはなく、掌典長が祭典を行いました。その内容が注目されますが、『明治天皇紀』はまったく言及していません。

明治41年11月23日 新嘗祭、出御あらせられず、掌典長岩倉具綱をして祭典を行わしめたまう、また掌典北郷久政を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

 明治42(1909)年以降も出御はなく、掌典長が祭祀を奉仕していますが、明治天皇は神饌供進が終わるまで、あるいは祭典が終了するまでお休みにならなかった、と記録されています。

明治42年11月23日 新嘗祭、臨期出御あらせられず、掌典長岩倉具綱をして祭典を行わしめたまう、この夜零時35分暁神饌の供進終われる由を聞きたまいてのち、はじめて寝御を傳う、なおこの日、掌典子爵前田利鬯を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう

明治43年11月23日 新嘗祭、臨期出御あらせられず、掌典長岩倉具綱をして祭典を行わしめたまう、また掌典北郷久政を勅使として神宮新嘗祭に参向せしめたまう、この夜天皇、祭典訖るまで寝に就きたまわず、1時20分に至りてはじめて寝御を傳う

明治44年11月23日 新嘗祭、臨期出御あらせられず、掌典長岩倉具綱をして祭儀を修せしめたまう、この夜1時20分に至りてはじめて寝御を傳う、なお神宮新嘗祭には、掌典子爵前田利鬯を勅使として参向せしめたまう

 以上で『明治天皇紀』は閉じることにします。

 さて、ふたたび現代です。もしかして、今年の新嘗祭は、『明治天皇紀』に記されているような、明治天皇晩年の祭式の先例を踏襲し、すなわち旧皇室祭祀令を援用して、掌典長による祭祀執行が行われているのではないでしょうか?

 もしそうだとすれば、「昭和の先例」を踏襲などといわずに、「皇室の伝統」に従って、と説明されるべきではないかと思います。そのように説明されないのは、「皇室の伝統」を口にすることをはばかる、何か特別に不都合な理由でもあるのでしょうか?

 それとも完全に伝統無視の、掌典長による「代拝」が行われているのでしょうか? そうだとすると、前号で申し上げたような、文字通りの「際限のない祭祀の蹂躙」ということになるでしょう。

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一日も早いご快復を──長引く天皇陛下のご入院 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 一日も早いご快復を──長引く天皇陛下のご入院
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 まずお知らせです。

 再来週、11月26日(土曜日)の午後1時から、東京・代々木の神社本庁大講堂で、「政教関係を正す会」設立40周年記念シンポジウム「政教関係の諸相─過去・現在・未来」が開かれます。

 パネリストは百地章・日本大学教授(憲法学)、矢澤澄道・雑誌「寺門興隆」編集発行人、それと私の3人です。

 司会は八木秀次・高崎経済大学教授(憲法学)で、オブザーバーとして大原康男・国学院大学教授(宗教学)が加わります。

 第一部でパネラーによる発題がそれぞれ20分ずつあり、休憩をはさんで、第二部で討論が行われます。

 事務局によれば、一般の参加も大歓迎だそうですから、どうぞ皆さん、お越しください。


▽1 20年以降、旬祭の親拝がない

 さて、本題です。天皇陛下のご入院が長引いています。心配です。

 今回の御不例を時系列で振り返ってみます。

◇ 11月1日(火曜日) 以前なら宮中三殿で旬祭の親拝がありましたが、この日のお出ましはありませんでした。

 20年暮れの御不例をきっかけに、御負担軽減のかけ声に乗って、21年1月以後、祭祀簡略化が進められ、昭和の先例を踏襲して、毎月1日の旬祭の親拝は5月と10月以外は御代拝によることとされたからです。

 けれども、より正確にいえば、親拝はその前年からありませんでした。20年11月の旬祭も御代拝でした。この年の10月30日から11月2日まで天皇陛下は、皇后陛下を伴い、奈良県・京都府を行幸されていたからです。11月1日に国立京都国際会館で行われた源氏物語千年紀記念式典へのご臨席が主たる目的でした。

 憲法に規定される国事行為でもない、いわゆる御公務の日程の影響で、旬祭が御代拝となるケースは以前からありました。

 今年はこの日、宮内庁が「新嘗祭について」という重大な発表を行いました。いわゆる簡略化です。その問題点は前回、お話しました。

「皇室医務主管より、専門医からの報告として、本年2月に行ったご検査の結果判明した冠動脈の狭窄状況により、陛下が、長時間にわたってお祀りを行われることには、様々なリスクがあるとの指摘があった」ことが理由とされていることだけ、確認しておきます。

 なお、陛下はこの日、御所でご執務をなさいました。

◇ 11月2日(水曜日) 陛下はこの日、皇后陛下とともに、宮殿でベトナム首相夫妻をご引見なさるなど、3件の御公務をお務めになりました。

◇ 11月3日(木曜日) この日は文化の日でした。明治天皇のお誕生日です。

 天皇陛下は宮殿で文化勲章親授式に臨まれました。また、皇后陛下とともに、御所で、悠仁親王殿下の着袴の儀につき、秋篠宮同妃両殿下、悠仁親王殿下のご挨拶をお受けになりました。


▽2 症状の悪化でご入院

◇ 11月4日(金曜日) この日、陛下は御所でご執務をなさいましたが、午後に予定されていた文化勲章受章者及び文化功労者等茶会へのお出ましは、お取りやめとなりました。「お風邪による発熱のため」と宮内庁は発表しました。皇太子殿下が陛下の御名代をお務めになりました。

 また、同じく午後にデンマーク王子ヨアキム同妃両殿下とのお茶が御所で予定されていましたが、皇后陛下のみのお務めとなりました。

◇ 11月5日(土曜日) 陛下のお風邪の症状は続きました。宮内庁は「明日午前に予定されている第60回全日本手をつなぐ育成会全国大会式典への行幸はお取りやめとなります」と発表しました。

◇ 11月6日(日曜日) 前日の宮内庁発表通り、東京国際フォーラムでの第60回全日本手をつなぐ育成会全国大会式典への行幸はお取り止めとなり、皇太子殿下がご名代としてご臨席になりました。

 陛下はこの日、御所でご執務をなさいましたが、症状が悪化し、陛下はこの夜、にわかに入院されることになりました。

 宮内庁は次のように発表しています。「天皇陛下には、最近、軽い気管支炎に繰り返しお罹りになっておられましたが、今回は、発熱が続き、気管支炎がより重くなってきております。これまでにご疲労が相当蓄積し、お身体の抵抗力が低下しているご状況にあられると拝察されますので、この際、大事を取って、今夜から東大病院にご入院頂き、ご治療を続けさせて頂くことになりました」

 ご入院に伴い、政府は国事行為を皇太子殿下に委任することになりました。野田内閣は「天皇陛下は、御病気御療養につき、11月7日から当分の間、日本国憲法第4条第2項及び国事行為の臨時代行に関する法律第2条第1項の規定に基づき、国事に関する行為を皇太子徳仁親王殿下に委任して臨時に代行させられることとする」と閣議決定しました。

 それにしても「これまでにご疲労が相当蓄積し、お身体の抵抗力が低下しているご状況にあられると拝察されますので、この際、大事を取って」という宮内庁発表は、他人事のようです。御公務削減に真剣に取り組まなかった責任は、間違いなく側近にあります。


▽3 よみがえる平成20年の記憶

 思い起こせば、平成の祭祀簡略化のきっかけとなった20年暮れの御不例も、当時の発表などによれば、陛下が変調を感じられたのは、新嘗祭の前でした。

 しかし陛下は宮中第一の重儀である新嘗祭を粛々と親祭になり、さらに12月1日の旬祭もお務めになりました。「およそ禁中の作法は神事を先にす」(順徳天皇「禁秘抄」)という祭祀王としての御自覚から、新嘗祭の親祭を強く望まれたのかとも拝察されます。

 けれども、陛下のお気持ちとは裏腹に、宮内庁の御公務見直しはきわめて歪なかたちで進みました。ご日程件数は減るどころか増えるばかりで、21年7月には2週間におよぶカナダ、ハワイ公式ご訪問までが実施されました。

 他方、祭祀ばかりが御負担軽減の標的にされ、伝統無視の簡略化が行われてきたことは、当メルマガの読者ならご承知のとおりです。

 旧皇室祭祀令によれば、大祭は皇族または掌典長に祭祀を行わせ、小祭は皇族または侍従に拝礼させればすむことでした。日本国憲法の施行に伴い、皇室令はすべて廃止されましたが、宮内府長官官房文書課長の依命通牒により、祭祀の伝統は守られてきました。

 ところが、昭和40年代、入江相政侍従長はみずからの加齢から「工作」を進め、伝統無視の祭祀の「簡素化」を企て、50年8月15日の宮内庁長官室会議で依命通牒が廃棄されたことにより、無原則な祭祀改変が加速しました。

 この昭和の悪しき先例を踏襲するのが、いま目の前で進行する平成の祭祀簡略化です。祭祀のお務めを果たせない陛下のご無念はいかばかりでしょうか。


▽4 延期されたご退院

◇ 11月10日(木曜日) この日の発表では、「東大病院の担当医師の判断によれば、天皇陛下のご症状は、順調に回復しつつあるので、明11日以降はご退院が可能とのことであり、よって、天皇陛下には、明11日午後に退院なさいます」とのことでしたが、実現されませんでした。

◇ 11月11日(金曜日) 皇室医務主管の発表によれば、前日の夜からふたたびお咳がひどくなり、この日の朝は一時的にお熱が高くなったため、大事を取って、ご退院は見合わされることになりました。

 一日も早い陛下のご回復をお祈りするばかりです。

タグ:宮中祭祀
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簡略化が加速される新嘗祭──重大な歴史の事実が隠されたまま [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 簡略化が加速される新嘗祭──重大な歴史の事実が隠されたまま
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 いよいよです。当メルマガや拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』がずっと問題にしてきた天皇陛下の祭祀の簡略化が一段と加速することになりました。

 宮内庁は11月1日、「新嘗祭について」と題する情報を公表しました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h23-1101.html

 その内容は、次の4点にまとめられます。

(1)2月に行われた検査の結果、冠動脈狭窄のため、長時間にわたる祭祀にはさまざまなリスクがあるという指摘が皇室医務主管から報告された。

(2)このため、今年から、リスク軽減の観点から、今年から、新嘗祭における陛下の神嘉殿のお出ましの時間を短縮し、夕の儀も暁の儀と同様、儀式半ばから出御され、皇族および諸員の拝礼前にご退出(入御)されるようお願いした。

(3)ちなみに昭和天皇の場合、昭和45年、69歳のとき、暁の儀へのお出ましを取りやめられ、夕の儀だけをお勤めになった。翌46年からは、夕の儀においても時間を短縮され、儀式半ばから出御され、早めにご退出された。

(4)なお、今般、医師は昭和天皇のときの先例を踏襲されるよう願い上げたが、今上陛下は、やはり夕の儀、暁の儀ともに祭祀をお務めになる、と仰せになった。

▽1 祭祀を標的にする御負担軽減

 陛下のご健康問題が国民の大きな関心事であることは間違いないのですが、歴代天皇が、そして今上陛下が大切にされている祭祀がしわ寄せを受けているという印象が否めません。

 ガン療養中で、昨年暮れに喜寿をお迎えになった陛下が、今度は心臓に異常があるということが判明したのは今年1月の定期検診でした。

 このため2月11日の建国記念の日に精密検査のため入院され、幸いにも手術は不要で、当面は投薬で経過観察するということになりました。

 この日は建国記念の日でした。旧皇室祭祀令では、天皇がみずから祭りを行われる大祭と位置づける紀元節祭が行われました。例年なら初代神武天皇に思いを馳せられる陛下の御拝が午前中に行われることになっていました。

 しかし今年は、午後に行われるはずの定期検診の一環としての30分の精密検査が午前に繰り上げられ、御拝はお取り止めとなりました。宮内庁は、「11日の宮中祭祀は欠席されるが、現時点で公務の変更予定はない。今のところ、テニスなどの運動にも問題はない」(読売新聞記事)と発表したようでした。

 宮内庁の御負担軽減策は徹頭徹尾、祭祀を標的にしています。なぜそうなのか?

▽2 昭和の先例は御高齢への配慮がきっかけではない

 今回の発表には、歴史の事実認識において、重大な見落としがあります。

 宮内庁発表は昭和の先例に言及しています。昭和天皇は69歳のときに夕の儀のみを親祭されるようになり、70歳からは夕の儀も時間を限って祭祀をなさるようになったというのです。

 発表の文脈からいえば、御高齢に配慮して祭祀の簡略化が行われたように聞こえますが、事実に反します。

 当メルマガが何年も前から、何度も指摘しているように、入江相政侍従長の加齢と祭祀嫌いに端を発して、無神論者を自認する富田朝彦宮内庁長官の登場で、政教分離主義の厳格化が進んだ結果でした。

 拙著に書いたことですが、入江日記によれば、入江による祭祀簡略化の「工作」(入江日記)は昭和43年に始まりました。新嘗祭の簡略化は香淳皇后を通じて開始されたものの、思わぬ反対を受け、頓挫し、45年には昭和天皇に直接の働きかけが行われ、新嘗祭お取り止め、四方拝の洋装、歳旦祭の御代拝などが合意されたとされています。

 入江の「工作」は女官や香淳皇后の抵抗を押しのけて進められました。けれども理由が昭和天皇の御高齢問題にあるとは、少なくとも日記からはうかがえません。

 昭和天皇がご満足だったわけでもありません。46年11月23日の入江日記によれば、新嘗祭の夕の儀をお務めになった昭和天皇が、お帰りのお車の中で、「これなら何ともないから、急にも行くまいが、暁(の儀)をやってもいい」と仰ったのでした。入江は「ご満足でよかった」と書いていますが、逆にご不満の表明でしょう。それどころか、いわば側近中の側近に祭祀を奪われた昭和天皇は「退位」「譲位」を表明されるようになります。

▽3 依命通牒を反故にした宮内庁

 入江日記によれば、入江の祭祀簡略化「工作」は皇太子殿下(今上陛下)までも利用して行われました。

 そのようにして進められた昭和の祭祀簡略化を、間近でご覧になっていた今上陛下が今回の新嘗祭簡略化をどのように思われているか、拝察するにあまりあります。

 宮内庁発表によれば、祭祀の何たるかをほとんど知らないだろう医師は、陛下に先例踏襲をお勧めしましたが、陛下は夕の儀、暁の儀をともにお務めになることにこだわられたようです。祭祀王なればこそ、です。

 最後に、2点、補足しておきます。

 1点は、四方拝を御所のテラスで、洋装で行う、というような、入江による伝統無視の祭祀簡略化は、そもそもあり得ないことだったということです。

 というのは、戦前は皇室祭祀令などによって、祭祀には明文的に事細かな定めがありました。戦後、日本国憲法の施行に伴い、皇室令は廃止されました。けれども皇室の伝統は続きました。皇室行事にいささかの変化もないというのが当時の関係者の認識で、であればこそ、宮内府長官官房文書課長名で出された依命通牒は、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)と記してありました。

 入江の「工作」による祭祀簡略化はこの依命通牒を踏みにじるものでした。

 さらに決定的だったのは、昭和50年8月15日の宮内庁長官室会議です。無神論者を自認した富田氏が宮内庁次長となった翌年、依命通牒第3項は反故にされ、「宮内庁法規集」から消えたのです。その後、何でもあり、の祭祀簡略化が加速しました。

 依命通牒第3項が生きていれば、無原則な簡略化は不要なのです。陛下に御事情があれば、御代拝の制度もあったからです。

▽4 不正確なマスコミ報道

 2点目はマスコミの報道です。記事に不正確さが目立ちます。ネット版で記事を見てみます。

 朝日新聞は、「新嘗祭での天皇陛下の出席時間について……」などと、「出席」という表現を使っています。
http://www.asahi.com/national/jiji/JJT201111010123.html

 毎日新聞、読売新聞は「拝礼時間」「拝礼する時間」などと表現しています。
http://mainichi.jp/select/wadai/koushitsu/news/20111102ddm041040141000c.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111101-OYT1T01241.htm

 宮中祭祀は天皇の、天皇による、国と民のための祭りです。宮内庁が主催し、天皇が「出席」するわけではありません。とりわけ新嘗祭は宮中第一の重儀で、大祭と位置づけられます。天皇がみずから祭祀を行うのが大祭です。掌典長に祭祀を行わせ、天皇が拝礼する小祭とは異なります。

「およそ禁中の作法は神事を先にす」と歴代天皇がもっとも重んじたのが祭祀ですが、国民には遠い存在になっています。正確に伝える人もきわめて少ないのが現状です。祭祀簡略化が国民にとって何を意味するのか、も分かりにくくなっています。
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美談では済まされない──浮かび上がる側近の祭祀介入 [宮中祭祀]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年4月11日)からの転載です


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美談では済まされない──浮かび上がる側近の祭祀介入
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 巨大地震発生からちょうど1か月となりましたが、先日、畏敬する大学名誉教授から、貴重な情報が届きました。女性週刊誌「女性自身」に掲載された、大震災後の皇室のご活動に関する記事「美智子さま 雅子さま 灯火止め『救国の祈り』36時間」(3月29日発売。2486号)です。
http://jisin.jp/weeklyarticle/2486/

 同誌の記事はじつに感動的です。みずから被災されながら、震災で苦しむ国民をひたすら思う、今上陛下と皇族方の祈りが伝わってきます。

 歴代天皇がそうであったように、陛下は祭祀王としてのお務めを果たされ、皇族方も天皇のお役目を十分に理解し、陛下を支えておられるのですが、であればこそ、私が注目したいのは、陛下の聖域である宮中祭祀について、側近の越権的介入が浮き彫りにされることです。けっして美談では済まされないと私は考えます。


▽1 国民と苦しみを分かち合う

 記事によれば、(1)巨大地震発生により宮中三殿では神楽舎の柱が傾き、皇霊殿に向かう廊下の天井板も崩れた。(2)このため、3月21日の春季皇霊祭・神殿祭について、側近たちは「余震も続き、非常に危険」と、親祭ではなく、掌典長が代わって祭りを行うことを進言した。(3)しかし陛下は皇后陛下とともに、「私たちに祭祀をさせてください」と強くおっしゃった。(4)結局、庭上から拝礼されることとなった。(5)当日は冷たい雨の中、今上陛下はモーニングコート、皇后陛下はローブモンタントの洋装で祭祀が行われた、というのです。

 記事には「日本をお守りください、被災者をお救いください、と必死に祈られたことでしょう。いくら建物の倒壊の危険があるといっても、代拝ですませるお気持ちではなかったのだと思います」という皇室ジャーナリストのコメントが載っています。

 記事はこのほか、(1)両陛下がここ十数年間、東北地方を頻繁に訪れていて、いたたまれない思いを持たれている。(2)陛下のビデオ・メッセージが発表されたが、ほかにも御用邸の風呂を避難者に開放されるなど、両陛下のご意向で、積極的な試みが行われている。(3)避難所に備蓄の食料を提供している御料牧場自体、甚大な被害を受けている。栃木の牧場では乳製品の製造施設などが被害を受け、製造が停止している。(4)このため御所などへの食材の提供は止まっている。(5)陛下は連日のように専門家から被害状況や対策について説明を受けられている。(6)徹底した自主停電を皇室が一丸となって行っておられるのは、国民と苦しみを分かち合う祈りに発している──と伝えています。


▽2 祭祀の主体は宮内庁ではない

 皇室の「救国の祈り」はじつに美しく、読むものに感動を与えます。しかし、陛下がなぜ「建物の中には入らず、庭から皇霊殿を拝む『庭上拝』という形式」という前代未聞の祭祀を行わなければならなかったのか、記事は伝えていません。

 茶道に作法があるように、宮中祭祀には歴史的に定まった祭式があります。大祭と位置づけられる春季皇霊祭・神殿祭は、陛下が伝統の装束に身を正し、みずから、もちろん殿内で、御告文を奏されます。ただし喪中にあるときなどは、皇族または掌典長に祭典を行わせることとされてきました。

 ところが、この女性週刊誌の報道などから浮かび上がってくるのは、(1)祭祀の主体が実質的に宮内庁に移っている、(2)祭式が無形式化している、という憂慮すべき実態であり、とても「救国の祈り」を手放しで礼賛することはできないと私は考えます。美談はもう一方の真実を見失わせます。

 まず第1点。三殿が被災し、しかも余震が続くというなかで、側近が御代拝を進言したのはまだしも、両陛下が「私たちに祭祀をさせてください」とおっしゃったというのは、記事が事実を伝えているとするなら、首をかしげざるを得ません。

 宮中祭祀は天皇の、天皇による祭りですが、祭祀の主催者がまるで宮内庁であるかのようにも聞こえるからです。「女性自身」の記事は「春季皇霊祭の儀に、天皇皇后両陛下や皇太子さま、秋篠宮ご夫妻ら10人の方々が参集された」と宮内庁関係者の言葉を伝えていますが、天皇は祭祀の出席者ではありません。

 天皇の祭りを天皇がみずから行えないときは、天皇に代わり、側近に祭祀を行わせる、拝礼を行わせるというのが原則です。しかしこの原則を踏みにじったのが、入江相政侍従長が進めた昭和の祭祀簡略化でした。この悪しき先例が踏襲されていることが分かります。

 考えてもみてください。今回の巨大地震で被害があったのは、三殿ではなく、三殿の付属施設です。「柱が傾いた」のは木造建築の弱さではなく、強さの表れです。「傾いても、崩れない」のが伝統木造建築の特徴なのです。陛下が掌典長による祭祀ではなく、皇祖神ならびに天神地祇、皇祖皇宗にみずから「救国の祈り」を捧げようとされたとすれば、祭祀王として当然のことでしょう。


▽3 天皇の聖域に介入する側近

 第2点は、それにしても、なぜ「庭上拝」なのか。少なくとも天皇の祈りに「庭上拝」という形式は本来、ないはずです。

 祭祀は天皇の聖域です。陛下がなさる陛下の祭りの形式を、側近の介入で、人間の都合に合わせて、みだりに変えるべきではありません。

 昭和の簡略化のとき、「毎朝御代拝は侍従、ただし庭上よりモーニングで」(入江日記)と改変されたのは、公務員たる侍従は特定宗教である祭祀に関われないと考える、富田朝彦長官時代の政教分離の厳格主義が背景にありました。

 一見、理屈が通っているようにも見えるのですが、宗教への国家の不介入という発想が、逆に、祭祀の伝統を改変させるという、あってはならない決定的介入を行ったのです。今回の「庭上拝」も同様の現象のように見えます。余震を恐れているのは、陛下ではなく、側近ではないのですか。

 その後も余震は続いています。つい先日の最大級の余震には驚きました。そんななか、4月3日に神武天皇祭が行われました。春季皇霊祭・神殿祭と同様、大祭と位置づけられるお祭は伝統にのっとって行われたと伝えられます。

 いま求められるのは、天皇の祈りを現実化させる政治です。しかし切望される政治がほとんど機能していません。これでは国民の苦難は長期化せざるを得ません。陛下のご心痛はますます深まるばかりでしょう。

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祭りの形式を失った宮中祭祀──三殿の庭上から御告文を奏された陛下 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年4月4日)からの転載です


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祭りの形式を失った宮中祭祀
──三殿の庭上から御告文を奏された陛下
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 神社界の専門紙「神社新報」4月4日号に驚くべき記事が載っています。

 東北地方太平洋沖地震発生から10日後の3月21日、今上陛下が春季皇霊祭・神殿祭をお務めになったのですが、伝統の祭式が完全に破られています。

 春季皇霊祭は、春分の日に、歴代天皇・皇族の御霊(みたま)がまつられる皇霊殿で行われるご先祖祭で、春季神殿祭は神々を祀る神殿で行われる神恩感謝の祭りと、宮内庁HPでは説明されています。陛下みずから祭祀を執り行う大祭と位置づけられています。


▽1 耐震改修したばかりなのに

 ところが、です。翌日の次長会見で、宮内庁次長は、「余震が続くなかでの祭祀となるので、御代拝による対応も考えられると検討したが、両陛下はぜひ拝礼したいとおっしゃった」というのです。

 その結果、前代未聞の祭祀が行われることになったのです。

 従来なら、陛下が親祭になり、御告文を奏上され、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼されたあと、皇霊殿に東游(あずまあそび)が行われます。

 ところが、今回は、次長の説明にあるように、「庭上でご拝礼いただくことになった」のでした。

 すなわち、今上陛下はモーニングコートを召され、皇霊殿、神殿の殿舎ではなくて、庭上から拝礼になり、御告文を奏されました。皇后陛下はロングドレス、皇太子殿下もまたモーニングコートで、庭上から拝礼されたのです。

 そもそも宮中三殿は震度8以上の地震で部分的損壊の可能性があるという診断がなされたことから耐震改修が行われ、平成20年春に工事が完了したばかりです。

 今回の大地震では宮城県栗原市で震度7が観測されたのが最高です。気象庁の震度階級では震度7がもっとも高い値です。

 耐震改修された宮中三殿ははるかに高い耐震性を持っているはずですなのに、側近たちはなぜ「御代拝の検討」をしなければならなかったのでしょうか。工事に手抜きでもあったのでしょうか。

 御代拝となったにしても、陛下はその間、御所でお慎みになります。強い余震があれば、危険性は変わりません。御代拝の検討それ自体が意味をなさないのではありませんか。

 今上陛下が皇后陛下とともに、拝礼を強く望まれたのは当然です。


▽2 原則を無視した祭り

 最大の問題は祭りの形式の無原則な変更です。

 宮中祭祀は天皇の、天皇による、国と民のための祭りです。春秋2回の皇霊祭・神殿祭は天皇がみずから祭を行う大祭です。陛下が「喪にあり、その他事故あるとき」は、皇族または掌典長に祭典を行わせるというのが従来のあり方です。

 ところが今回は、これらの原則を完全に無視した祭りとなりました。

 3月19日付け当メルマガに書きましたように、大正12年9月の関東大震災のとき、巨大地震発生から4週間後の9月28日、若き日の昭和天皇(当時は摂政宮)は宮中三殿で「震災並びに帝都復興の事を御親告の儀」を、大祭に準じて、親祭になり、真剣な祈りを捧げられました。

 当時の記録によると、9月24日、台風接近による風雨の中で行われた恒例の秋季皇霊祭は掌典長の御代拝のみで、摂政の御親祭も、皇后の御代拝もありませんでしたが、震災ならびに帝都復興についての神事は、荘重に斎行されました。

 ただ、皇太子は「非常特別の場合であるから」とおっしゃり、摂政宮や皇族は陸軍の通常礼装で、その他参列諸員も通常礼装というきわめて簡素な服装で行われました。震災で罹災した関係者の多くが大礼服を失っているということへの配慮からです。

 今回の対応との違いは歴然としています。

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お取り止めになった建国記念の日の御拝 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 お取り止めになった建国記念の日の御拝
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◇1 しわ寄せを受ける天皇の祭祀

 前号を配信した直後、心配なニュースが飛び込んで来ました。

 昨年暮れ、喜寿を迎えられ、しかもガン療養中の今上陛下が、今度は心臓に異常があることが1月の定期検診で判明したというのです。
http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011020901000446.html

 2月11日の建国記念の日に精密検査のため入院され、その結果、幸いにも手術は不要で、当面は投薬で経過観察するとのことでした。
http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021101000417.html

 気がかりは陛下のご健康ばかりではありません。この検査入院のために、いわゆるご公務の変更はありませんでしたが、恒例となっていた三殿御拝がお取り止めとなりました。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011020900617

 ここ数年、ご健康問題に関連して、天皇の祭祀がしわ寄せを受ける調整が何度も繰り返されています。

 報道によれば、11日の検診は2月の定期検診の一環として、しかし時間は午前に行われました。初代神武天皇に思いを馳せられる陛下の御拝は、午前中に行われ、定期検診は午後に予定されていたものと思います。

 しかし今回は30分の精密検査を午前に繰り上げ、このため明治の祭祀令では天皇みずから祭りを行う大祭と位置づけられた紀元節の御拝はお取り止めとなったということでしょう。

 精密検査をひかえた9日、宮内庁は、「11日の宮中祭祀は欠席されるが、現時点で公務の変更予定はない。今のところ、テニスなどの運動にも問題はない」と発表したようです。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110209-OYT1T00870.htm

 陛下のご健康は大きな関心事ですが、祭祀はスポーツのテニスよりも軽視されているという印象を免れません。

 今上陛下が皇后陛下ともに、「皇太子時代から大切され、忠実に受け継がれ、つねに国民の幸せを祈っておられる」(宮内庁ホームページ)だけでなく、歴代天皇が第一のお務めとしてきたのが祭祀なのに、です。


◇2 ご健康よりご公務が優先されている

 ご健康への配慮が最優先されているのなら、まだしもですが、どうもそのようにも見えません。

 陛下のご公務ご負担軽減のきっかけとなった20年暮れの御不例のとき、あの御不例直後でさえ、十日間連続のご公務があり、その後、ようやくすべてのご公務のおとりやめが発表されました。

 検査発表を受けて、宮内庁長官は「ここ1か月程度は、ご日程を可能なかぎり軽くし、天皇誕生日やもろもろの年末年始の行事などについて、所要の調整を行いたい」と「所見」で述べましたが、その後、年末年始のご日程は、誕生日会見が中止され、新年一般参賀のお出ましが5回に減らされた程度で、一方、祭祀は無原則に蹂躙されました。

 つまり、いわゆるご公務がご健康よりも優先されているといわざるをえません。

 公表されている陛下がご日程から、不調を訴えられた20年11月半ば以降、10日間以上ご公務が続いたケースを拾い上げると、以下の15回になります。昨年だけでも9回あります。療養中だというのに、2週間を超えてご公務が続くこともしばしばです。

1、20年11月23日(日曜)~12月2日(火曜)=10日間
2、21年3月16日(月曜)~27日(金曜)=12日間
3、5月31日(日曜)~6月13日(土曜)=14日間
4、6月29日(月曜)~7月16日(木曜)=18日間
5、9月23日(水曜)~10月3日(土曜)=11日間
6、10月11日(日曜)~24日(土曜)=14日間
7、12月28日(月曜)~22年1月8日(金曜)=12日間
8、3月21日(日曜)~4月7日(水曜)=18日間
9、5月17日(月曜)~28日(金曜)=12日間
10、6月8日(火曜)~18日(金曜)=11日間
11、9月21日(火曜)~10月2日(土曜)=12日間
12、10月4日(月曜)~15日(金曜)=12日間
13、11月8日(月曜)~19日(金曜)=12日間
14、11月22日(月曜)~12月3日(金曜)=12日間
15、12月27日(月曜)~今年1月9日(日曜)=14日間
タグ:宮中祭祀
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建国記念の日の「三殿御拝」──紀元節祭にはあらず [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年2月9日)からの転載です


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建国記念の日の「三殿御拝」
──紀元節祭にはあらず
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 今年も建国記念の日が近付いてきました。

 宮内庁のホームページに掲載されている「天皇皇后両陛下のご日程」によると、陛下はこの日、宮中三殿で「三殿御拝」をされます。初代神武天皇の即位に思いを馳せられてのことと思われます。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gonittei01.html

 明治の皇室祭祀令では、この日、紀元節祭が行われました。大祭と位置づけられ、天皇は皇霊殿で神武天皇を親祭され、昭和3(1928)年からは三殿での祭祀に拡張されました。朝、昼、夕の三度、祭典が行われ、朝の儀は御饌が供進され、昼の儀は親祭、夕の儀は親拝のあと御神楽が奏されました。御陵に勅使が遣わされ、奉幣が行われました(八束清貫「皇室祭祀百年史」)。

 けれども、敗戦後、神道指令との関連で紀元節は廃止され、昭和22年以後、紀元節祭は中絶しました。

 昭和41年に祝日法が改正され、「建国をしのび、国を愛する心を養う」と定める「建国記念の日」が国民の祝日となり、翌年から適用されています。

 しかし天皇の紀元節祭は執り行われていません。ただ、夕の儀に行われていた皇霊殿御神楽は、4月3日の神武天皇祭の日に行われています。

 昭和58年に祭祀簡略化について議論が沸騰したとき、神社本庁は澁川謙一事務局長名による抗議の質問書を提出しました。

 質問は多岐にわたりましたが、祭祀の改変に関するものは3点あり、その中には「建国記念の日が法制化されたにもかかわらず、紀元節祭は復活されていない。廃止の理由を承りたい」という項目がありました。

 しかし、これに対する宮内庁の公式見解とされる東園基文掌典長の回答書に明確な説明はありませんでした。

 今日、宮内庁のホームページには宮中祭祀についての解説がありますが、「主要な祭儀」の中に「紀元節祭」は見いだせません。11月3日の明治節祭も同様です。
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html

「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」(雑誌「諸君」21年7月号掲載の渡邉允前侍従長インタビュー)というのが宮内庁の立場のようですから、陛下のご意向で紀元節祭が行われてもかまわないはずです。

 紀元節祭が行われないのは、何か不都合でもあるのでしょうか?


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「多神教文明の核心」宮中祭祀の正常化を [宮中祭祀]

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「多神教文明の核心」宮中祭祀の正常化を
(「伝統と革新」創刊号2010年3月)
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 平成二十一年は今上天皇ご即位二十年のこの上ないお祝いの年でしたが、歴代天皇がもっとも重要視されてきた宮中祭祀においては、じつのところ危機のまっただ中にあります。国民の多くの知らないところで、驚くなかれほかならぬ側近たちによって、理不尽な簡略化が進められているからです。
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 宮中の奥深い聖域で、人が見ないところでなさる陛下の祈りは、国家的、文明的な深い意味を持っています。したがって、現在、直面している危機は、遠い世界のことではなく、国家と文明の根幹に関わるきわめて大きな問題だと私は確信します。祭祀の正常化が焦眉の課題です。


▢ 一、米と粟の新穀を捧げる食儀礼


 陛下がみずからなさる祭祀のなかでとりわけ重要なのが新嘗祭です。毎年十一月二十三日の夕刻から夜半にかけて、天皇は宮中の奥深い神域で、米と粟の新穀を神前に供え、みずから召し上がります。

 なぜこのような神事が皇室第一の重儀として、古代から行われてきたのでしょうか。天皇の祭祀とは何でしょう。天皇とはどのような存在なのでしょうか。

 古今、さまざまな天皇観があります。けれども案外、見過ごされているのが皇室自身の天皇観です。すなわち、祭祀を第一のお務めとし、祭祀王を自任してこられた歴代天皇の天皇観です。

 たとえば第八十四代順徳天皇という天皇がおられます。承久の変が失敗し、父・後鳥羽上皇、兄・土御門上皇とともに配流の身となった、悲劇の天皇です。

 宮中のしきたりに通じていた順徳天皇はこのとき、皇子に帝王の道を伝えようとされ、『禁秘抄』(一二二一年)をまとめ上げました。その冒頭には、「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす」とあります。天皇にとってもっとも重要なことは敬神であり、神祭りである、と皇室存亡の危機のときに明言されたのです。

 順徳天皇ばかりではありません。下克上の最終段階において朝廷をも従えようとした徳川三代との激しいつばぜり合いを、前半生に強いられた後水尾天皇も同様です。

 後年、さすがに円熟された後水尾天皇は、第四皇子の後光明天皇に書き送った手紙に、「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事」と、天皇のもっとも重要なお務めは神事であることを明記されています。

 このように歴代天皇は政治権力でも軍事力でもなく、祭りの力によってこの日本という国を治めてこられました。天皇による統治は、「しらす」(民意を知って統合を図ること)であって、「うしはく」(権力支配)ではないといわれるのはそのことです。地上の支配者であるヨーロッパの王権とは異なります。

 天皇の祭りとはどういうものか、その中身をもう少し掘り下げてみます。

 天皇の祭祀は新嘗祭をはじめとして、年間二十件ともいわれ、秋から冬に集中しています。しかし二十件どころか、天皇は日々、祈りを欠かせられません。毎朝御代拝は天皇が毎朝、側近を宮中三殿につかわして拝礼させる神事です。

 その祈りは国の平安と民の平安を願う無私の祈りです。後鳥羽上皇が大嘗祭に用いられる祈りの言葉を書き残されていますが、そこには「国中平らかに安らけく」とあります。

 俗人なら自分や家族のために祈りますが、天皇はそうではありません。天皇はひたすら国と民のため、神前に米と粟を捧げ、みずから食し、祈ります。

 なぜこのような神事が天皇第一のお務めとされてきたのでしょうか。


▢ 二、自然との共生から生まれた国家体制


 海外の宗教儀礼に目を向けてみます。

 キリスト教のミサでは信徒にパンとワインが授けられます。イエス・キリストの最後の晩餐に由来し、カトリック教会では聖体拝領と呼ばれます。一見、神道の食儀礼に似ているようですが、パンとワインは文字通りキリストの血肉と信じられています。神に捧げるお供えではありません。

 同じ一神教でも、イスラム教の場合には、食それ自体が登場しません。

 これに対して、日本の宗教伝統では、食を神に捧げるだけでなく、食事をともにします。神事には、神の前でへりくだり、身を清め、神に接近し、神人共食の儀礼によって命を共有し、一体化し、神意を受け継ぎ、衰えた命を新たな再生させる、という発想があります。命の儀礼なのです。

 なぜそのような考え方が生まれ、儀礼として発達したのか。それは日本人の自然観に基づくと考えられます。

 人間は誰しも食によって命をつなぎます。すなわち、自然の恵みを摂取し、エネルギーに変え、血肉とします。ものを食べなければ人はかならず死を迎えます。

 自然の恵みといっても、単純に「自然のものすべてが体にいい」というわけではありません。逆に自然界には危険が満ちあふれています。たとえば、生きていくのには水が必要ですが、大量に摂りすぎると中毒死します。秋の味覚であるキノコにも、毒性を持つものが少なくありません。自然界で生命を長らえることは案外、容易ではありません。

 感謝と同時に畏れの感情も伴う日本人の自然観には、人間の深い知恵の蓄積が感じられます。善悪二元論では割り切れない日本人の神観念は長年にわたって育まれた自然観から生まれたといえるかもしれません。

 このような日本人の自然観に注目した天才が、物理学者として有名なアルバート・アインシュタインです。

 大正十一(一九二二)年に来日したアインシュタインは、九州から東北まで各地をめぐり、大学で相対性理論を講演し、さらに明治神宮や日光東照宮などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、そのほか名もない民衆にいたるまで数多くの日本人と交わり、「日本のすばらしさ」に魅せられました。

 アインシュタインの旅日記によると、来日前は「神秘のベールに包まれた国」と考えていた日本で、最初に感動したのは自然の「光」でした。しかし、自然以上に輝いていたのは日本人の「顔」だったといいます。アインシュタインは「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛している」ことを知ります。出会った日本人は「欧米人に対してとくに遠慮深かった」のでした。

 そうした国民性はどこに由来するのか、と考えたアインシュタインは、自然との共生、一体化と見抜きます。旅日記には「日本では、自然と人間は一体化しているように見える。この国に由来するすべてのものは愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与えられたものと密接に結びついている」と記されています。

「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築でした。宮司の案内で参拝した日光東照宮は「自然と建築物が華麗に調和している。……自然を描写する慶びがなおいっそう建築や宗教を上回って」いました。

 天才の探求心は天皇にもおよびます。熱田神宮では、「国家によって用いられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇がまつられている。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では、「私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった。……天皇は神と一体化している」と観察するのでした(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』二〇〇一年)。

 アインシュタインは、自然との共生が日本人の国民性の源であり、日本の宗教伝統の基礎となり、天皇を中心とする国家制度にまで発展したことを、たった一カ月半の滞日で理解したのです。


▢ 三、神から与えられた穀物


 宮中の新嘗祭は米と粟の食儀礼です。同じ日に、全国各地の神社でもそれぞれ新嘗祭が行われ、今日では多くの場合、伊勢神宮の祭りがそうであるように、稲の祭りが行われているかと思います。しかし稲ばかりが新嘗の主要なお供えとは限りません。

 たとえば、埼玉県南西部の日高市に高麗神社という古い神社があります。

 いまから千三百年以上も前の西暦六六八年、朝鮮半島北部から旧満州にかけて広く支配する強国・高句麗が滅亡しました。唐と新羅の連合軍の前に屈したのです。そのころ東アジアは、日本も含めて、激動の時代でした。

 それから約五十年後、ここに「高麗郡」が置かれます。『続日本紀』という古い歴史書には、霊亀二(七一六)年にいまの静岡、山梨、神奈川、千葉、茨城、栃木に住む高麗人千七百九十九人を武蔵国に移住させ、はじめて高麗郡をおいた、と記録されています。

 神社を建てたのは高句麗の遺民たちです。まつられているのは高麗王若光で、王族の子孫といわれます。若光は祖国を失った遺民たちをよく導いた功績が評価されたようで、「王」という姓を天皇から賜った、とやはり『続日本紀』に記されています。現在の宮司はその末裔といわれます。

 興味深いのは神饌です。先代の宮司さんから直接、聞いたのですが、お祭りのとき、氏子たちは一軒当たり一升の精白したムギバツ(麦の初穂)を神前にささげるそうです。かつては決まった日に、農家が小麦をもって参詣し、あるいは小麦粉を練ってゆであげた小麦粉餅を神前に供えたようです。

 高麗神社の神饌は、なぜ小麦なのか。どうやら古代朝鮮の神話と関係があるようです。

 高句麗の建国神話には、「建国の祖」朱蒙の物語が描かれています。

 母国・扶余を発ち、建国の旅に出る朱蒙に、母・柳花は五穀の種を与えます。ところが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れてしまいます。旅の途中、木陰に休んでいると、二羽の鳩が飛んできました。「母が麦を届けてくれたのだ」と思い、朱蒙は一矢で二羽を射落とします。ノドを切り裂くと、はたして麦の種が見つかりました。

 日本の建国神話・天孫降臨の物語では、神から与えられるのは稲ですが、高句麗では麦なのです。

 もうひとつ注目したいのは、まさにこの皇祖天照大神の命によって神様が山の頂に降りてこられるという天降り神話です。

 東京大学の大林太良先生(民族学)によると、じつは天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせる、という天降り神話は朝鮮半島から内陸アジアにかけて世界に広く分布するそうです。

 驚いたことに、ギリシャ神話にもよく似た神話が伝えられています。ギリシャの大母神デメテルは、聖婚によって穀物の豊かな稔りをもたらす神子プルトスを生み、また寵愛する神子トリプレトモスに麦の種を与えて、天から地上に広めさせた、とあります。

 しばしばいわれるように、日本の天孫降臨神話は朝鮮の檀君神話の物まねだというようなものではまったくありません。そして重要なのは、大林先生が指摘していることですが、日本以外の神話では母神が授けるのは麦であって、稲ではないということです。民族の祖神が稲をたずさえて山上に天降られる、という神話が伝えられているのはどうも日本だけのようです(大林『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。

 大林先生によると、日本の天孫降臨神話は大陸系の天降り神話と南方系の稲作神話との融合だといいます。

 このことは日本の文明が異質なものと対立し、攻撃し、駆逐し、征服し、排除する一神教文明ではなく、受容し、統合する多神教的、多宗教的文明であることと関わります。皇室の祖先の物語のなかに受容と統合の原理がうかがえます。

 神から与えられた主食の穀物。その初穂を神に捧げるのが新嘗祭ですが、国家の長である天皇が、国の平和と民の安寧をひたすら祈り、国と民を統合するために、みずから行う新嘗祭が、米と粟の儀礼であるのも、受容と統合がキーワードになります。


▢ 四、受容と統合の多神教文明


 日本にはかつて粟の新嘗祭もありました。

 各地方の情報を集めた書物を地誌といい、日本最初の 地誌として奈良時代に元明天皇の命でまとめられた風土記が知られています。その中で現在の茨城県について伝えている「常陸国風土記」に、母神が子供の神々を訪ね歩く筑波郡の物語が載っていて、「新粟の新嘗」「新粟嘗」という言葉が登場します。

 日が暮れたので富士山の神さまに宿を請うと、「新嘗のため、家中が物忌みをしているので、ご勘弁ください」と断られたのに対し、筑波山の神さまは「今宵は新嘗だが、お断りもできまい」と大神を招き入れた、というのです。

 ここから、このころの新嘗祭は村をあげて心身をきよめ、女性や子供は屋内にこもって、神々との交流を待ち、ふだんならもてなす客人を家中に入れることさえはばかったことが分かります。

 それなら文中に出てくる「新粟の新嘗」「新粟嘗」とは何でしょう。たとえば「日本古典文学大系」では、この「粟」に「脱穀しない稲実」と注釈が加えられていますが、どう見ても不自然な解釈です。「粟」はあくまで「粟」であって、古代に粟の新嘗があったとするのが素直な理解でしょう。

 というのも、粟の民俗が実際にあるからです。

 神戸女学院大学の松澤員子先生によると、台湾の先住民には粟の酒があったそうです。彼らは畑作民族で、粟のほかに稗や稲、芋を栽培していた。粟は儀礼文化には欠かせない、とくに重要な作物だった。人々は粟の神霊を最重要視し、粟の酒と粟の餅とを神々に供えた。酒は処女や巫女が噛んでつくったというのです(松澤「台湾原住民の酒」=山本紀夫、吉田集而編著『酒づくりの民族誌』所収)。

 おそらく古来、日本列島に暮らす畑作民たちには、南方の国々と連なる粟の食儀礼が伝えられていたに違いありません。

 記紀神話をもう一度、開いてみると、興味深いことに、二つの稲作起源説話が載っています。神が稲穂をたずさえて地上に降りてこられる天孫降臨神話と神の死体から五穀が生じるという死体化生神話です。大林先生によると、それぞれ北方系の神話と南方系の神話だといいます。

 記紀神話に表される日本の神々の体系に二つの大きなルーツがあり、天皇による米と粟の祭りは文化圏が交差する十字路に位置していることが分かります。

 それなら、なぜ天皇は米と粟をともに新嘗祭に捧げ、みずから食し、祈るのか。なぜ米だけでもなく、粟だけでもないのか。

 現代を代表する民俗学者で、稲作民俗、畑作民俗の両方を研究する野本寛一先生は、私の取材に対して、「米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」と指摘しています。

 日本には古来、稲作民もいれば、畑作民もいた。山の民も海の民もいたのでしょう。人々の暮らしは多様で、それぞれに独自の文化があった。そのような国民を、多様なるままに統合し、社会の平和を保ち、暮らしを安定させるのが天皇の役割であり、歴代天皇は公正無私なる祈りによって実現しようとしてきた。そのための米と粟の食儀礼なのでしょう。

 価値の多様性を認め、多様性のなかの国と民の統一を図る多神教文明の中心が天皇であり、天皇の祭りなのです。

 そして実際、世界には民族や宗教の違いから対立し、分裂する国が多いなかで、日本の文明は他に例がないほど、平和的、長期的に続いてきたのです。


▢ 五、悪しき昭和の先例を踏襲する宮内庁


 ところがいま、文明の中心であるはずの宮中祭祀が危機のただ中に置かれています。あろうことか、陛下のお側にある宮内官僚たちが、陛下のご健康問題を口実にして、祭祀の簡略化をどんどん進めているからです。

 表面化したのは平成二十年二月、「両陛下のご健康問題」に関する宮内庁発表です。

 金沢一郎・皇室医務主管は「ガン治療の副作用で骨に異常を来す可能性がある。新たな療法の確保が必要だ」と説明し、風岡典之・宮内庁次長は「運動療法実施のためご日程のパターンを一部見直す」「昭和天皇のご負担軽減の先例に従う」などと補足説明しました。

 翌三月には、風岡、金沢両氏の連名で祭祀の調整が進められていることが追加説明されます。

 しかし、さらに同年暮れ、陛下のご不例でご負担軽減策は前倒しされ、翌二十一年一月には具体的な方法が公表されました。

 ところがご公務の件数は減りませんでした。代わりに狙い撃ちされ、激減したのは天皇第一のお務めである祭祀です。

 宮内官僚たちは「昭和の先例」を祭祀簡略化の根拠にしていますが、昭和の祭祀簡略化の真因はご健康問題ではありません。拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』にくわしく書いたように、昭和四十年代、昭和天皇の側近中の側近だった入江相政侍従長個人の祭祀嫌いに端を発し、「無神論者」を自称したという富田朝彦宮内庁長官以下、官僚たちの教条的な政教分離の解釈・運用によって本格化したというのが真相です。

 そのことは昭和天皇の側近が書き残した日記などを見れば明らかであり、宮内官僚たちは昭和の簡略化の歴史を知らないか、もしくは口をつぐんでいるのでしょう。

 天皇の祭祀は国家と文明の根幹に関わることであり、したがって祭祀簡略化問題の本質は文明問題です。憲法が定める政教分離問題もまた文明論にほかなりません。

 アインシュタインが指摘し、警告したように、明治以後、日本は近代化に取り組み、一神教世界のすぐれた文化を受容してきましたが、その反面、古来の多神教的文明の比類なき価値を見失っています。

 天皇の祭りは多神教文明の核であると同時に最後の砦です。側近の記録によると、今上陛下は皇位継承後、皇后陛下とともに、祭祀の正常化に努められました。けれども皮肉にもご即位二十年の祝いの年に、側近による祭祀破壊の悪夢は再来しました。

 文明の根幹に関わる宮中祭祀の伝統が、ほかならぬ皇室を守るべき立場の宮内官僚たちによって破壊されようとしています。これに対して、今上陛下は、晩年の昭和天皇がそうであったように、「争わずに受け入れる」という至難の帝王学を実践し、たったお一人で守ろうとされているように私には見えます。
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2 グーグル・マップで丸見えの宮中三殿 [宮中祭祀]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 2 グーグル・マップで丸見えの宮中三殿
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▽神社が航路の目印?
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 聖なるものへの畏敬の感覚がどんどん薄れているようです。

 神社のお祭りに繰り出す御輿(みこし)は本来、神様の乗り物であって、人の乗り物ではありません。しかし祭り特有の熱気と興奮のなか、担ぎ手が御輿に乗るという不敬行為がしばしば繰り返され、そのため「御輿乗り禁止」の呼びかけが行われることがあります。ときには不敬者が逮捕されるというような事態さえ起きています。

 私が子供のころは、御神輿が町内をまわる渡御(とぎょ)を自宅の二階から見下ろすことがとがめられたものです。いまでも神社によっては、神輿の巡行ルートの横断歩道橋がしばしば封鎖されています。上から見下ろすような写真撮影などもってのほかです。

 ところが、御輿乗りどころではない、気になる現実が日常化しています。

 ひとつはヘリコプターです。神社にお詣りするとき、ヘリコプターが頭上を飛んでいくという、あまり愉快ではない経験をしたことはありませんか。私の場合、一度や二度ではありませんから、たぶん神社の森が飛行ルートの目印になっているのかと想像します。

 歩道橋から御輿を見下ろすことを忌み嫌いながら、ヘリコプターなら許されるというのでは筋が通りません。といって、抗議の声が上がっているとは聞きません。

 もっと恐ろしいのは、グーグル・マップの「航空写真」です。どうしてここまで、と思うぐらいに、上空から丸見えなのです。


▽ホワイトハウスのズームレベルは20

 グーグル・マップにはズームレベルというのがあります。いちばん低い「1」だと地球全体を表示します。ズームレベルが一段階上がるごとに精度が倍になるようですが、地域によって使用できるレベルが異なります。

 たとえばアメリカ、カリフォルニア州にあるグーグル本社を、グーグル・マップで開いてみます。

 左側にある物差しの目盛りをあげ、ズームインしていくと、「航空写真」が最大限まで拡大していきます。このとき左下の縮尺は一目盛り2メートルになっています。駐車中のクルマはもちろん、庭を歩く人影までがはっきりと見えます。

 この時点で、右肩に青い文字で示されている「リンク」をクリックすると新しい窓が現れます。「このリンクをメールに貼り付けて地図を共有できます」という表示の下にある「http://maps.google.co.jp/」で始まるURLにカーソルを合わせ、右へ移動させると右端に「Z=22」という数字が見えてきます。

 これがズームレベルで、グーグル本社の航空写真は最高22のレベルまで精密に表示できるということです。日本語版ばかりでなく、英語版「http://maps.google.com/」でも同様です。

 自社の航空写真を一目盛り2メートルまで拡大して公開するのは自由ですが、ほかの施設などはどうでしょうか?

 たとえば、ホワイトハウス(アメリカ大統領府)はどうか、というと、「Z=20」。左下の一目盛りは10メートルです。2段階低い精度ということになります。

 ペンタゴン(国防総省)の場合は、やはり20です。

 カトリックの総本山であるバチカンも20です。


▽5メートルの縮尺で見える聖域

 いま話題の北朝鮮のムスダンリにあるミサイル基地は、はるかに低い18。縮尺目盛りは50メートルです。

 中国共産党本部や要人の居宅が並ぶ北京の中南海も18です。

 政治的、軍事的な聖域は、とくに他国の場合、ズームレベルが低く設定されていることが分かります。当然です。ただ、これがグーグルの自己規制によるものなのか、抗議を受けた結果なのかは分かりません。

 それならひるがえって、日本の聖域中の聖域である皇居はどうでしょうか。読者の皆さんご自身で確認されたらと思いますが、21です。ホワイトハウスよりも、中国共産党本部よりも、北朝鮮のミサイル基地よりも、レベルが高いのです。

 むろん宮内庁の庁舎だけでありません。宮殿も、お住まいの御所も、そして皇居の奥深い聖域であるはずの宮中三殿も同じです。アメリカのグーグル本社ほどではありませんが、一目盛り5メートルの至近距離です。

 これでは陛下の日常が丸見え同然です。秘儀とされてきた宮中祭祀の神聖さも保ちようがありません。むろん危機管理上の不安も否めません。

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