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「普天間基地」移設先はやっぱりキャンプ・シャワブ沖か───軍事教育ゼロの文民統制が招いた迷走 by 高井三郎 [軍事情報]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月26日)からの転載です


 軍事専門家として内外で活躍されている高井三郎(たかい・みつお)先生が、普天間基地移設問題について寄稿してくださいました。

 昨日4月25日には沖縄県読谷村(よみたんそん)でアメリカ軍普天間飛行場(宜野湾市)の国外・県外移設を求める県民大会が開かれ、数万の人々が集まり、この問題の迷走は頂点に達した観があります。

 この問題でもっとも必要で、しかも欠けているのは、軍事的リアリズムの視点でしょう。その観点からいえば、どのような選択肢が賢明なのか、逆に選ぶべきではないのか、高井先生の意見を拝聴したいと思います。

 また、この問題に直接関わっている政治関係者をはじめ、多くの方々に読んでいただければありがたいです。

 では、本文です。


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 「普天間基地」移設先はやっぱりキャンプ・シャワブ沖か
 ───軍事教育ゼロの文民統制が招いた迷走 by 高井三郎
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 普天間(ふてんま)基地(沖縄県宜野湾[ぎのわん]市)の移転先は、鳩山政権の意図どおりに解決することなく、自民党政権時代に決めたキャンプ・シュワブ(名護市・宜野座村)沖に落ち着くのではなかろうか?

 あるいは、アメリカは、沖縄本島の海兵隊指揮機関のグアム移駐後も普天間基地の使用を継続し、1990年代から開発中の洋上基地(注。内容は後述する)が実用化次第、これに切り換える可能性も絶無でない。

 いずれにせよ、アジア太平洋地域の不穏な情勢にかんがみ、とくに中国の戦略目標である台湾─南西諸島─日本列島─千島列島を連ねる第1の列島線への進出を阻み、朝鮮半島における不測の事態に対応するためには、沖縄本島に海兵隊の戦闘部隊を常駐させる前方配備態勢は重要であり、現実主義的視点を欠いた選択肢はあり得ない。

 近年まれな政情と世論動向の混乱を招いて国民の期待を裏切り、さらには安全保障態勢下のパートナーであるアメリカの対日信頼感を損ね、近隣の中国、北朝鮮、韓国、ロシアにますます侮(あなど)られる材料さえ与えた現政権の責任は大きい。

 これまでの半年間を顧みるに、沖縄県民の基地の負担と被害の軽減というポピュリズムだけを掲げ、日米安保体制下における国防上の必要性も軍事効率も念頭にない愚案をいくつも挙げている。

 この機会に、メデイアがほとんど触れない軍事上の視点から、政府案の非合理性とその背景を検証する。


◇1 沙汰止みになった普天間・嘉手納統合案

 まず指摘したいのは、普段は戦闘機約50機が常駐し、戦時に100機以上が増強される嘉手納(かでな)に、ヘリ50機以上も詰め込めば、航空運用が成り立たないことである。

 昨年秋に岡田外務大臣が提案した普天間・嘉手納統合案が、在日アメリカ軍司令官、ライス空軍中将から直言を受けて以来、沙汰止(さたや)みとなったのは当然である。

 遺憾なことに、我が国の政治家が、軍事の基本を外国の軍人から学ぶとはまことに恥ずかしい話である。その前に、航空自衛隊の専門家が直接、政治家に助言できない理不尽な防衛機構の実態に、一般国民は素朴な疑問を抱くであろう。

 この疑問に答えるには、その重要な背景を説明しなければならない。

 それは、自衛隊創設以来、半世紀以上も続いてきた変則的な文民統制によって、統合幕僚長はじめ自衛官が、防衛省内局の文民の許可なしに、防衛大臣はじめ、いっさいの政治家と接触するのを禁じているからである。

 この病的ともいえる文民統制下では、もっぱら軍事素人の文民が防衛大臣を補佐し、あるいは官邸サイドに助言する内規になっている。

 ところが、軍事学ないし兵学を習っていない一般大学出身の彼らは、肝心な国防ないし軍事の知識にきわめて疎(うと)いので、有効で効率的な補佐ができない。それでは、内局を助ける立場の制服の意見を聞けば良いと言うが、もともと、ずぶの素人では、初耳の軍事専門事項を短時間で理解するのは容易でなく、防衛行政および安全保障政策の円滑な進展を妨げてきた。

 その顕著な弊害の一面が、今回の普天間移設の問題にほかならない。前政権時代に決めたキャンプ・シュワブ沖の候補地も、その決定までに文民がすべての政策の決定権を握る体制下では、制服からの意見の聴取と理解、政治レベルとアメリカ軍との意思疎通、連絡調整等に多大な時間、労力および経費を費やしている。


◇2 頓挫した石破長官の機構改革

 一方、制服幹部の大部分は、内局が握る人事権の前に、多分に萎縮(いしゅく)しており、現役時代はもとより、退役後も積極的に発言して、一般国民の啓発を図る向きが年を追うごとに少なくなった。実際に制服の人事権とその言動を抑える動きが部内に及ぼす影響には、軽視できないものがある。

 周知のとおり、最近、中沢剛第44連隊長が、日米共同訓練の開始に当たり、相互の信頼感の醸成(じょうせい)を促す善意の訓示の内容を、「トラスト・ミー(Trust me)」という約束を実現していない鳩山総理への批判と曲解されて注意処分を受け、左遷された。

 このような、現象が重なれば、制服の各位の間に、体制に迎合する消極退嬰(たいえい)的な空気がみなぎるのを避け難い。

 とは言え、栗栖弘臣(くりす・ひろおみ)元統幕議長(故人)、田母神(たもがみ)俊雄元空幕長、佐藤守元南西航空団司令など、現役時代から正論を説き続ける出色の士も決してゼロでない。

 それに加え、正規の課程と部隊勤務を通じて軍事の素養を培い、気概に富む少壮幹部のなかにも、国情を憂い、国防の在るべき姿を心に描く天下の士も少なくないと思われる。

 ちなみに、毎年、陸上自衛隊幹部候補生課程を経て任官する400人以上の若年幹部から、小数ながら、一騎当千の有為な人材が出てくることは必定(ひつじょう)である。

 先に触れた問題に立ち返るが、日本の政治家が、空幕長でなく外国の空軍中将から普天間、嘉手納各基地の併合の当否に関する助言を平気で受ける状態を、官邸サイドの面々はどのように受け止めているか、できれば拝聴したい。

 一方、前政権時代に、内局がいっさいの決定権を握る変則的な文民統制の弊害を正すために、石破長官が掲げた、「文民と制服が混然一体となって効率的に仕事に取組む体制の確立」という方針のもとに、防衛庁(当時)の機構改革が始まった。

 ところが、政治情勢の変化により、折角の改革は頓挫(とんざ)して現在に至っている。


◇3 徳之島移転は即応力を低下させる

 次に、最近における普天間基地の移転先に関する一連の愚案を眺めて見よう。

 キャンプ・シュワブ用地への滑走路新設案は地積が狭く、ヘリが市町村の上空を頻繁に飛行する弊害を生じ、ホワイトビーチ沿岸の埋め立て案は技術上の問題があるので、前政権時代に候補から落された。一方、下地(しもぢ)島、伊江(いえ)島、徳之島各案は、滑走路が存在するだけで、移転先としての価値はほとんどない。

 いまの普天間基地は、ヘリ50機(戦時には100機)を収容可能な地積を具備する。それと同時に、ヘリの使用者である海兵隊戦闘部隊の各駐屯地、有事にヘリを搭載すべき揚陸艦が接岸するホワイトビーチ軍港、辺野古(へのこ)弾薬庫、金武湾(きんわん)燃料基地、後方支援用の那覇軍港、遠距離機動用の輸送機の発着する嘉手納基地、それに加え、本島北部の演習場とも連携容易な態勢を採っている。

 しかるに、現政権の挙げる各離島に基地を移設するためには、膨大な経費、労力、時間を投じ、駐屯地、港湾、弾薬庫等の新設が必要であるが、各離島とも、各施設を余裕をもって配置するに足りる地積が乏しく、もっとも広い徳之島でも基地と施設が過密状態になる。それに加え、現在、嘉手納基地に常駐し、大陸および半島からの弾道・巡航ミサイル攻撃に備えるPAC-3大隊に匹敵する防空組織の配備とその施設の建設も必要になる。

 なお、鳩山総理が異常な関心を寄せている徳之島に、ヘリ部隊だけを置いた場合、沖縄本島の海兵隊地上部隊との距離が200km以上にならざるを得ない。アメリカ軍の運用原則では、ヘリ基地と地上部隊の駐屯地との距離は100km以内と定めている。すなわち、100km以上も離れると、ヘリと部隊の提携に多大な時間を要して即応力が低下し、航空燃料の所要も膨れ上がるからだ。


◇4 沖縄駐留の意義を無視する海外移転案

 地図を瞥見(べっけん)するに、移設候補の各離島の飛行場は、東シナ海に接しており、中国軍の慣用戦法である海中から迫る特殊部隊の襲撃およびテロリストの破壊活動を受けやすい。これに対し、海岸から離れた台上の普天間基地および本島東岸のキャンプ・シュワブ沖は、相対的に警備容易な地理的条件にある。

 なお、キャンプ・シュワブ沖の基地は、台風来襲時に、ヘリを避難させる施設をキャンプ内に設けることができるが、地積の狭い各離島は、このような条件にも欠けている。

 硫黄島、グアム、テニアンへの移転案は、日米安保体制下のアメリカ軍の前方展開構想に基づく沖縄駐留の意義を無視する暴論である。

 注目すべきことに、暴論の主張者は、日本の防衛上のかなりの負担をアメリカ軍にさせている現状に目をつぶり、自主国防態勢の強化に結び付く自衛隊の増強と国民の防衛意識の昂揚には否定的態度を採る。

 現に抑止の役割を果しているアメリカ軍が沖縄から立ち去ったあとの空き巣を狙う大陸からの侵攻により、南西諸島一帯を失い、海上交通路も断ち切られた日本は、経済が困窮し、民主党が先の選挙運動以来、大衆を惹きつけてきた「生活第1」の政策は実現しない。

 当然のことながら、以上の脅威に備える国防がなければ、経済も国民生活も潰される。ヘリ基地と海兵隊主力の国外移駐論者の影には、駐留アメリカ軍の戦力を落して、防衛体制の弱体化を狙う第3国の政治謀略が存在するとも言われている。

 ところで、ペンタゴン当局は、厄介な政治問題の伴う外国の陸地への配備の弊害を避ける洋上基地を実用化次第、前方展開する可能性がある。

 それは戦闘、兵站(へいたん)、航空各部隊を収容した大型タンカーのような移動基地を沖縄沿岸など世界各地に配備するシステムであり、陸地への依存度を最小限にとどめる効用をもたらす。

 そうなると、沖縄本島の基地借上げ私有地が大々的に返還され、さらには基地従業員も減少し、地域の社会と経済の態勢に画期的な変革を生ずるであろう。


◇5 政官の軍事的無能が国家の斜陽を招く

 顧みるに明治建軍時代の政官界の要人の多くは、幕末期における多少の戦争経験と学習を通じて軍事の基本を知り、その素養を国防政策に活かしていた。

 また、戦後、自衛隊創設から間もないころの防衛庁文民の主力は、青壮年期の大正時代または昭和10年代に学校で必修課程としての基本教練等の軍事教育を受け、戦争中に兵役を経験していた。

 さらに、一部の文民は陸軍士官学校、海軍兵学校などの学生ないし生徒であり、あるいは職業軍人であった。したがって、文民の先輩たちは、個人差はあるが、ほとんど全員が、軍事の基本ないし本質を知り、これを実務に反映させていたのである。

 これに対し、いまや、政官界の要人はもとより防衛省内局部員も、近現代戦争史を含む軍事教育ゼロの学校の卒業生である。このような、文民統制の主役が、国防を律する体制の弊害が、先に述べたような普天間基地の移設に関する愚案の背景を成している。

 たまたま、数年前、筆者のもとに、英グラスゴ-大学から、マキュアベリ、クラウゼビッツ、マハンなどの軍事思想家の説く兵学理論、第2次大戦などの主要な戦争史、国防政策を含む軍事修士課程の案内が来た。英国では、軍人はもとより一般学生の志願者も、このたぐいの軍事学を学び、卒業後、政治、経済などの各分野で活躍している。

 このような各国の大学における軍事教育の情報に触れる筆者は、まず多くの政治家を排出した松下政経塾、次いで、一般大学に、兵学、戦争史、軍事原則、軍事技術から成る国防講座の開設を提言中である。

 さもなくば、将来の政官界の要人は、ますます軍事的に無能になり、沖縄の基地問題のような愚劣な防衛政策が繰り返されて、日本は斜陽国家の道を辿ることになる。


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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴  第5回 「斯の道」の評価の変遷 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月24日)からの転載です


 今日も、佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」をお届けします。

 戦前世代なら誰でも知っている教育勅語は、日本の近代教育の根本であり、道徳を重視するものでした。しかし漢文調で、一度、読んだだけでは簡単には意味が分かりません。
教育勅語@官報M231031

 冒頭には、天皇のお役目は、国民の声なき声を聞き、民意を知って統合することであることが示されています。ところが、この天皇の「徳」は、畏敬する佐藤さんによれば、当時の知識人にはまるで理解できず、教育勅語全体の解釈を誤らせてしまいました。

 それだけではありません。天皇の「徳」と臣民の「忠孝」(五倫五常)は古来、朝廷と民間に固有の道である、とあくまで国民教育の根幹として述べられていたはずなのに、国外および国外において普遍的な道であると誤って解釈されてきたのです。

 そしてやがて、日本の道徳を広めることがあたかも日本の世界史的な使命であるかのように拡大解釈され、誤解は広がりました。

 考えてもみてください。入学式など学校の式典でかならず奉読され、子供たちが頭を垂れて押し戴いたのが教育勅語です。本来の意味とはまったく異なり、日本古来の道徳を世界に広めることを国民的使命とし、学校教育を通じて国民にたたき込まれ、さらに対外戦争で領土が拡大して、新たに日本国民となった異民族にも教えられました。

 とすれば、一神教文明圏からどのような反応がおこるか、想像がつくでしょう。なにしろ唯一なる神の教えを全世界に伝えることを宗教的使命とし、現実に世界支配を進めてきたのがキリスト教世界です。衝突は避けられません。

 思考回路が一神教化した近代日本のインテリたちには天皇の本質が理解できなかった。日本の宗教伝統を体現する神道人たちは朝鮮神宮に天照大神を祀ることや日韓併合に猛反対しましたが、結局、現実を変えることはできず、近代の悲劇は起こりました。

 同様の現象はいまも私たちの目の前で起きています。読者の皆さんはそのことに気がついていますか?

 さて、本文です。


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 「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
  第5回 「斯の道」の評価の変遷
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◇1 「徳目」と理解されていた明治末期から大正期

 教育勅語は渙発(かんぱつ)から排除・失効まで、同じように人々に捉えられていたわけではない。前述のように、海外での高い評価から、最終的には正反対の評価で排除となったのである。その時々でどんな捉え方だったのだろう。

 たとえば、明治38(1905)年春、金子堅太郎がハーバード大学で同窓のセオドア・ルーズベルト大統領から聞かされた話というのがある(『金子堅太郎著作集 第六集』)。

「日本国民の如く忠愛にして、高尚優美なる、而(しか)して剛胆なる人類は古来世界にない。共和国には天皇なし、故(ゆえ)に米国国旗を持て天皇に代ゆれば、日本の教育は悉(ことごと)く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」

 また、明治40年には菊池大麓がロンドン大学で講演を行っている。そして金子もルーズベルトも菊池も、教育勅語を「徳目」が述べられたものとして把握していたのである。リップサービスとはいえ米国大統領が「日本の教育は悉く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」と評価したその内容も、つまり徳目のみだったのである。

 大正9(1920)年は教育勅語発布30年の節目の年で、記念の集まりが東京府豊島師範学校(東京学芸大学の前身の1つ)で開催されている。『杉浦重剛座談録』にはそこで杉浦重剛の演説した内容が記されている。

 ブラジル帰りの松田某なる者から聞いた話として、要約すると、同行の書生が彼(か)の地で正直そのものの振舞をして宿屋の主人に見込まれたという話である。そして「此の通り、之を中外に施して悖(もと)らぬ実例があるのだといふやうなことを話した」とある。

 しかしこれは、前述した「中外」の誤解が生んだ話としか思えない。かつて教育勅語渙発の契機のひとつとなった地方長官会議の内容を見ても、海外旅行や海外留学、あるいは海外赴任の際の心得や振舞いについて勅語を望んだとはどの角度から見ても考えられないからである。


◇2 意義に変化が生じた大正期

 注目すべきは和辻哲郎である。彼は大正8年1月の「危険思想を排す」(『和辻哲郎全集 第22巻』において次のような文章を書いている。

「『皇国ノ道』とは教育勅語の『斯ノ道』であるという公式解釈は、一見には従来の教育勅語との連続性をもつもののように見えるが、そこには『斯ノ道』の解釈の変更による従来の解釈からの飛躍が根底に存在するのである。(中略)些細(ささい)に見える指示語の範囲の変更が周到に用意されることで、『皇国ノ道』は膨張する総力戦体制下の新しい指標たり得たのである」

 和辻哲郎も、教育勅語の道徳は古今中外を通ずるところの普遍的に妥当なもの、との認識であった。しかし上記の内容は教育勅語の意義について変化が生じていることを示している。

 そして徳富蘇峰(そほう)は「大正の青年と帝国の前途」においてもう少し具体的に語っている。

「折角の教育勅語も、之を帝国的に奉承(ほうしょう)せずして、之を皇政復古、世界対立の維新改革の大精神に繋(つな)がずして……(中略)……大和(やまと)民族を世界に膨張せしむる、急先鋒の志士は、却(かえっ)て寥々(りょうりょう)世に聞ゆるなきが如(しか)かりしは、寧(むし)ろ甚大の恨事(こんじ)と云(い)はずして何ぞや」


◇3 異民族統治の技術論にとどまる

 歴史をさかのぼれば、下関講和条約が明治28年、教育勅語渙発の5年後に締結された。そして台湾は我が国の統治下となり、さらには明治43年に日韓併合となっている。これらの時代を経て、大正期には和辻哲郎や徳富蘇峰に代表されるような教育勅語の捉え方が発表されていたのである。そして朝鮮国民の教育について、「先祖の遺風」という言葉などは民族を異にする朝鮮人には理解し難いというような議論が起きたのである。

 「之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖らず、と教育勅語にあって、我(わが)国固有の道は普遍的なものである」と述べていた識者たちである。ここに矛盾が生じてきたのは当然であった。明治天皇から現今の教育勅語を賜(たまわ)ったころには、幾多(いくた)の民族を所有しては居なかった、として修正さるべきである、と井上哲次郎などは語ったのである。

 台北師範学校『教育勅語ニ関スル調査概要』(『続・現代史資料10』)には上記のような矛盾に対してさまざまな意見のあったことが記されている。

 なかでも「別に新たなる勅語を要すといふは、教育勅語の『古今に通じて謬らず中外に施して悖らず』に背馳するものにして、教育勅語は謬らず悖らざるものにあらずと説くものなり」は、代表的な意見のひとつである。

 しかし、これらの議論はいわば統治技術の範囲内にあって、教育の淵源(えんげん)そのものについての議論にはならずじまいであったとみて良いのではないか。議論が深まっていれば、『徳』や『中外』の誤った解釈が訂正されていただろうからである。」


◇4 第1、第3段落が強調される昭和初期から終戦まで

 先に述べたように昭和5年は教育勅語渙発40周年である。この年に記念出版されたなかでとくに特徴的なものは、田中智学の『明治天皇勅教物がたり』である。第二段落の徳目よりも第一段落と第三段落の解説に力点が置かれているのである。

 「八紘一宇」の語そのものは用いていないが、神武天皇・天業恢弘(かいこう)東征の詔(みことのり)から、「積慶(せきけい)」「重暉(ちょうき)」「養正(ようせい)」の三大綱などが解説されている。

「既(すで)に、皇祖皇宗の御遺訓たる斯道は、その儘(まま)「天地の公道」「世界の正義」で、決して日本一国の私の道でない。ト(と)いふ義は、元来日本建国の目的が、広く人類全体の絶対平和を築かうために、その基準たる三大綱に依(よ)って『国ヲ肇(はじ)メ徳ヲ樹テ』られたのである。……(中略)……此(この)三大綱は、建国の基準、国体の原則であって、彼の自由平等博愛などより、もっと根元的で公明正大な世界的大真理である」

 明治期には主に第二段落の徳目が語られた教育勅語であったが、大正から昭和初期には第一段落と第三段落が強調されてくるのである。

 そして昭和初期から終戦までは「斯の道」は「皇道」となったのである。


◇5 「徳目」から「皇国の道」「世界史的使命」に変化

 そのことは以下のような文献に明らかである。

◎「昭和維新論」東亜聯盟同志会

「皇国日本の国体は世界の霊妙(れいみょう)不思議として悠古の古(いにしえ)より厳乎(げんこ)として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道すなわち王道は、畏(かしこ)くも歴代祖宗によって厳として御伝持遊ばされ、歴世相承(あいう)けて今日に至った」

◎「大義」杉本五郎

「これ古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる『養正』の道義をもってする世界維新の大皇謨(こうぼ)、天皇親帥(しんすい)の下(もと)大和民族の大進軍なり」

◎「国体の本義」文部省

「国民は、国家の大本としての不易(ふえき)な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによって、維(こ)れ新たなる日本を益々(ますます)生成発展せしめ、以て彌々(いよいよ)天壌無窮の皇道を扶翼(ふよく)し奉(たてまつ)らねばならぬ。これ、我等(われら)国民の使命である」

◎「国民学校令」第一条(昭和16年)

「国民学校は皇国の道に則(のっと)りて初等普通教育を施し国民の基礎的練成を為(な)すを以(もっ)て目的とす」

 「皇国の道」はやはり教育勅語を基とするものであり、例えば朝鮮総督府令第90号の第4条・第6条(昭和16年)には次のような文章がある。

「国民科修身は教育に関する勅語の旨趣(ししゅ)に基(もとづ)きて国民道徳の実践を指導し、忠良なる皇国臣民たるの徳性を養(やしな)ひ、皇国の道義的使命を自覚せしむるものとす。国運の隆昌(りゅうしょう)文化の発展が肇国(ちょうこく)の精神の顕現(けんげん)なる所以(ゆえん)を会得(えとく)せしむると共に、諸外国との歴史的関係を明(あきらか)にして東亜及世界に於ける皇国の使命を自覚せしむべし」

 このころ強調された教育勅語は、「之を中外に施して悖らず」の「之」=「斯の道」が「徳目」から「皇国の道」となり、「肇国の精神の顕現」から我が国の「世界史的使命」となったのである。一言でいうとまさに「皇運(こううん)扶翼」である。

 「之を中外に施して悖らず」の「中外」が正しく「宮廷の内と外」「朝廷と民間」の意に解釈されていたなら、教育勅語を基にした「世界史的使命」は語られていたかどうか?

 そしてここに至るまでには信じがたい痛恨の協議会も、文部省によって開催されていた記録が残されている。


◇6 議論を封じ込めた和辻哲郎

 昭和14年10月、文部省は教学に関する聖訓の述義について、教科書編纂(へんさん)の参考に供(きょう)するため、「聖訓の述義に関する協議会」を開催した。協議会は7回に及び、おおむね第5回から最終第7回までが教育勅語に関する会議である(『続・現代史資料9』)。

 この報告書は「秘」扱いとなっているが、当時の要人たちの教育勅語観がよく分かる。

 林博太郎会長を筆頭に、委員は和辻哲郎・久松潜一・吉田熊次・諸橋徹次・山田孝雄(よしお)・紀平正美(きひら・ただよし)・近藤寿治(ひさじ)・宇野哲人(てつと)ら20名、幹事・書記は倉野憲司ら9名であった。そして決定事項は「教育に関する勅語の全文解釈」「勅語の語義釈義」「勅語の述義につき主なる問題に関する決定事項」である。

 和辻哲郎は議論を封じ込めるような発言を行っている。

 つまり、皇祖皇宗の遺訓は「父母に孝に」以下の御訓の部分であり、すべて忠の内容をなすものでこれが「斯の道」、人倫の道であると語り、元来これまでの文部省の解釈は数十年間大した反対もなく行われて来たものであり、それに今変更を加えるにはよほど重要な理由がなくてはならぬ、と述べている。またそういう理由が見つかったとすれば、在来のごとき解釈を立てていた文部省の責任が問われなくてはならぬと思う、と述べ、ここで聞いた意見のなかにはとくに解釈を変えねばならぬ理由として納得できるものはなかった、というのである。

 結局、「語義釈義」では「斯の道」は皇国の道であって、直接には「父母に孝に」以下、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」までを指す、であり、「中外」は「我が国及び外国」とされたのである。教育勅語の第二段落の部分である。基本的には井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』と同じである。

 紀平正美などは「斯の道」が全文をうけるとしたいと述べ、今まで狭く解していたから、天壌無窮の神勅も「斯の道」に入らないことになる、と主張したがそれまでだった。


◇7 不毛な議論にとどまった

 天皇統治の本質である「しらす」について井上毅が憲法第一条にその意味を入れるのに苦心した話も出てはいるが、反応はない。したがって第一段落の「徳」に関する議論もなければ「中外」にも何の疑問も出されていない。ただ皇運扶翼と「中外に施して悖らず」との矛盾は感じられたと見えて、結論のない奇妙な議論が行われている。

 そして全体として『勅語衍義』や重野安繹(やすつぐ)・末松謙澄(けんちょう)あるいは今泉定助(さだすけ)らの解説書に拘束されて、明治天皇と井上毅・元田永孚の思いに至らなかったのが教育勅語解釈の実態だったのである。

 「徳」と「中外」の解釈に誤りをただせなかった協議会であるから、その議事要録の内容はまったく不毛で謬見(びゅうけん)に満ちている。当時のわが国最高レベルの知識人とはいえ、官定解釈とも公定註釈書とも言われた『勅語衍義』を見直すこともなく、最終的には「みな皇運扶翼に帰一せしめるように」述義していただきたい、と締め括(くく)られたのである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴  第5回 「斯の道」の評価の変遷 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月23日)からの転載です


 今日も、佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」をお届けします。

 戦前世代なら誰でも知っている教育勅語は、日本の近代教育の根本であり、道徳を重視するものでした。しかし漢文調で、一度、読んだだけでは簡単には意味が分かりません。

 冒頭には、天皇のお役目は、国民の声なき声を聞き、民意を知って統合することであることが示されています。ところが、この天皇の「徳」は、畏敬する佐藤さんによれば、当時の知識人にはまるで理解できず、教育勅語全体の解釈を誤らせてしまいました。

 それだけではありません。天皇の「徳」と臣民の「忠孝」(五倫五常)は古来、朝廷と民間に固有の道である、とあくまで国民教育の根幹として述べられていたはずなのに、国外および国外において普遍的な道であると誤って解釈されてきたのです。

 そしてやがて、日本の道徳を広めることがあたかも日本の世界史的な使命であるかのように拡大解釈され、誤解は広がりました。

 考えてもみてください。入学式など学校の式典でかならず奉読され、子供たちが頭を垂れて押し戴いたのが教育勅語です。本来の意味とはまったく異なり、日本古来の道徳を世界に広めることを国民的使命とし、学校教育を通じて国民にたたき込まれ、さらに対外戦争で領土が拡大して、新たに日本国民となった異民族にも教えられました。

 とすれば、一神教文明圏からどのような反応がおこるか、想像がつくでしょう。なにしろ唯一なる神の教えを全世界に伝えることを宗教的使命とし、現実に世界支配を進めてきたのがキリスト教世界です。衝突は避けられません。

 思考回路が一神教化した近代日本のインテリたちには天皇の本質が理解できなかった。日本の宗教伝統を体現する神道人たちは朝鮮神宮に天照大神を祀ることや日韓併合に猛反対しましたが、結局、現実を変えることはできず、近代の悲劇は起こりました。

 同様の現象はいまも私たちの目の前で起きています。読者の皆さんはそのことに気がついていますか?

 さて、本文です。


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 「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
  第5回 「斯の道」の評価の変遷
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◇1 「徳目」と理解されていた明治末期から大正期

 教育勅語は渙発(かんぱつ)から排除・失効まで、同じように人々に捉えられていたわけではない。前述のように、海外での高い評価から、最終的には正反対の評価で排除となったのである。その時々でどんな捉え方だったのだろう。
教育勅語@官報M231031
 たとえば、明治38(1905)年春、金子堅太郎がハーバード大学で同窓のセオドア・ルーズベルト大統領から聞かされた話というのがある(『金子堅太郎著作集 第六集』)。

「日本国民の如く忠愛にして、高尚優美なる、而(しか)して剛胆なる人類は古来世界にない。共和国には天皇なし、故(ゆえ)に米国国旗を持て天皇に代ゆれば、日本の教育は悉(ことごと)く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」

 また、明治40年には菊池大麓がロンドン大学で講演を行っている。そして金子もルーズベルトも菊池も、教育勅語を「徳目」が述べられたものとして把握していたのである。リップサービスとはいえ米国大統領が「日本の教育は悉く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」と評価したその内容も、つまり徳目のみだったのである。

 大正9(1920)年は教育勅語発布30年の節目の年で、記念の集まりが東京府豊島師範学校(東京学芸大学の前身の1つ)で開催されている。『杉浦重剛座談録』にはそこで杉浦重剛の演説した内容が記されている。

 ブラジル帰りの松田某なる者から聞いた話として、要約すると、同行の書生が彼(か)の地で正直そのものの振舞をして宿屋の主人に見込まれたという話である。そして「此の通り、之を中外に施して悖(もと)らぬ実例があるのだといふやうなことを話した」とある。

 しかしこれは、前述した「中外」の誤解が生んだ話としか思えない。かつて教育勅語渙発の契機のひとつとなった地方長官会議の内容を見ても、海外旅行や海外留学、あるいは海外赴任の際の心得や振舞いについて勅語を望んだとはどの角度から見ても考えられないからである。


◇2 意義に変化が生じた大正期

 注目すべきは和辻哲郎である。彼は大正8年1月の「危険思想を排す」(『和辻哲郎全集 第22巻』において次のような文章を書いている。

「『皇国ノ道』とは教育勅語の『斯ノ道』であるという公式解釈は、一見には従来の教育勅語との連続性をもつもののように見えるが、そこには『斯ノ道』の解釈の変更による従来の解釈からの飛躍が根底に存在するのである。(中略)些細(ささい)に見える指示語の範囲の変更が周到に用意されることで、『皇国ノ道』は膨張する総力戦体制下の新しい指標たり得たのである」

 和辻哲郎も、教育勅語の道徳は古今中外を通ずるところの普遍的に妥当なもの、との認識であった。しかし上記の内容は教育勅語の意義について変化が生じていることを示している。

 そして徳富蘇峰(そほう)は「大正の青年と帝国の前途」においてもう少し具体的に語っている。

「折角の教育勅語も、之を帝国的に奉承(ほうしょう)せずして、之を皇政復古、世界対立の維新改革の大精神に繋(つな)がずして……(中略)……大和(やまと)民族を世界に膨張せしむる、急先鋒の志士は、却(かえっ)て寥々(りょうりょう)世に聞ゆるなきが如(しか)かりしは、寧(むし)ろ甚大の恨事(こんじ)と云(い)はずして何ぞや」


◇3 異民族統治の技術論にとどまる

 歴史をさかのぼれば、下関講和条約が明治28年、教育勅語渙発の5年後に締結された。そして台湾は我が国の統治下となり、さらには明治43年に日韓併合となっている。これらの時代を経て、大正期には和辻哲郎や徳富蘇峰に代表されるような教育勅語の捉え方が発表されていたのである。そして朝鮮国民の教育について、「先祖の遺風」という言葉などは民族を異にする朝鮮人には理解し難いというような議論が起きたのである。

 「之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖らず、と教育勅語にあって、我(わが)国固有の道は普遍的なものである」と述べていた識者たちである。ここに矛盾が生じてきたのは当然であった。明治天皇から現今の教育勅語を賜(たまわ)ったころには、幾多(いくた)の民族を所有しては居なかった、として修正さるべきである、と井上哲次郎などは語ったのである。

 台北師範学校『教育勅語ニ関スル調査概要』(『続・現代史資料10』)には上記のような矛盾に対してさまざまな意見のあったことが記されている。

 なかでも「別に新たなる勅語を要すといふは、教育勅語の『古今に通じて謬らず中外に施して悖らず』に背馳するものにして、教育勅語は謬らず悖らざるものにあらずと説くものなり」は、代表的な意見のひとつである。

 しかし、これらの議論はいわば統治技術の範囲内にあって、教育の淵源(えんげん)そのものについての議論にはならずじまいであったとみて良いのではないか。議論が深まっていれば、『徳』や『中外』の誤った解釈が訂正されていただろうからである。」(斎藤注記。どこまでが引用で、どこが説明なのか、分かりづらいです。)


◇4 第1、第3段落が強調される昭和初期から終戦まで

 先に述べたように昭和5年は教育勅語渙発40周年である。この年に記念出版されたなかでとくに特徴的なものは、田中智学の『明治天皇勅教物がたり』である。第二段落の徳目よりも第一段落と第三段落の解説に力点が置かれているのである。

 「八紘一宇」の語そのものは用いていないが、神武天皇・天業恢弘(かいこう)東征の詔(みことのり)から、「積慶(せきけい)」「重暉(ちょうき)」「養正(ようせい)」の三大綱などが解説されている。

「既(すで)に、皇祖皇宗の御遺訓たる斯道は、その儘(まま)「天地の公道」「世界の正義」で、決して日本一国の私の道でない。ト(と)いふ義は、元来日本建国の目的が、広く人類全体の絶対平和を築かうために、その基準たる三大綱に依(よ)って『国ヲ肇(はじ)メ徳ヲ樹テ』られたのである。……(中略)……此(この)三大綱は、建国の基準、国体の原則であって、彼の自由平等博愛などより、もっと根元的で公明正大な世界的大真理である」

 明治期には主に第二段落の徳目が語られた教育勅語であったが、大正から昭和初期には第一段落と第三段落が強調されてくるのである。

 そして昭和初期から終戦までは「斯の道」は「皇道」となったのである。


◇5 「徳目」から「皇国の道」「世界史的使命」に変化

 そのことは以下のような文献に明らかである。

◎「昭和維新論」東亜聯盟同志会

「皇国日本の国体は世界の霊妙(れいみょう)不思議として悠古の古(いにしえ)より厳乎(げんこ)として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道すなわち王道は、畏(かしこ)くも歴代祖宗によって厳として御伝持遊ばされ、歴世相承(あいう)けて今日に至った」

◎「大義」杉本五郎

「これ古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる『養正』の道義をもってする世界維新の大皇謨(こうぼ)、天皇親帥(しんすい)の下(もと)大和民族の大進軍なり」

◎「国体の本義」文部省

「国民は、国家の大本としての不易(ふえき)な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによって、維(こ)れ新たなる日本を益々(ますます)生成発展せしめ、以て彌々(いよいよ)天壌無窮の皇道を扶翼(ふよく)し奉(たてまつ)らねばならぬ。これ、我等(われら)国民の使命である」

◎「国民学校令」第一条(昭和16年)

「国民学校は皇国の道に則(のっと)りて初等普通教育を施し国民の基礎的練成を為(な)すを以(もっ)て目的とす」

 「皇国の道」はやはり教育勅語を基とするものであり、例えば朝鮮総督府令第90号の第4条・第6条(昭和16年)には次のような文章がある。

「国民科修身は教育に関する勅語の旨趣(ししゅ)に基(もとづ)きて国民道徳の実践を指導し、忠良なる皇国臣民たるの徳性を養(やしな)ひ、皇国の道義的使命を自覚せしむるものとす。国運の隆昌(りゅうしょう)文化の発展が肇国(ちょうこく)の精神の顕現(けんげん)なる所以(ゆえん)を会得(えとく)せしむると共に、諸外国との歴史的関係を明(あきらか)にして東亜及世界に於ける皇国の使命を自覚せしむべし」

 このころ強調された教育勅語は、「之を中外に施して悖らず」の「之」=「斯の道」が「徳目」から「皇国の道」となり、「肇国の精神の顕現」から我が国の「世界史的使命」となったのである。一言でいうとまさに「皇運(こううん)扶翼」である。

 「之を中外に施して悖らず」の「中外」が正しく「宮廷の内と外」「朝廷と民間」の意に解釈されていたなら、教育勅語を基にした「世界史的使命」は語られていたかどうか?

 そしてここに至るまでには信じがたい痛恨の協議会も、文部省によって開催されていた記録が残されている。


◇6 議論を封じ込めた和辻哲郎

 昭和14年10月、文部省は教学に関する聖訓の述義について、教科書編纂(へんさん)の参考に供(きょう)するため、「聖訓の述義に関する協議会」を開催した。協議会は7回に及び、おおむね第5回から最終第7回までが教育勅語に関する会議である(『続・現代史資料9』)。

 この報告書は「秘」扱いとなっているが、当時の要人たちの教育勅語観がよく分かる。

 林博太郎会長を筆頭に、委員は和辻哲郎・久松潜一・吉田熊次・諸橋徹次・山田孝雄(よしお)・紀平正美(きひら・ただよし)・近藤寿治(ひさじ)・宇野哲人(てつと)ら20名、幹事・書記は倉野憲司ら9名であった。そして決定事項は「教育に関する勅語の全文解釈」「勅語の語義釈義」「勅語の述義につき主なる問題に関する決定事項」である。

 和辻哲郎は議論を封じ込めるような発言を行っている。

 つまり、皇祖皇宗の遺訓は「父母に孝に」以下の御訓の部分であり、すべて忠の内容をなすものでこれが「斯の道」、人倫の道であると語り、元来これまでの文部省の解釈は数十年間大した反対もなく行われて来たものであり、それに今変更を加えるにはよほど重要な理由がなくてはならぬ、と述べている。またそういう理由が見つかったとすれば、在来のごとき解釈を立てていた文部省の責任が問われなくてはならぬと思う、と述べ、ここで聞いた意見のなかにはとくに解釈を変えねばならぬ理由として納得できるものはなかった、というのである。

 結局、「語義釈義」では「斯の道」は皇国の道であって、直接には「父母に孝に」以下、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」までを指す、であり、「中外」は「我が国及び外国」とされたのである。教育勅語の第二段落の部分である。基本的には井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』と同じである。

 紀平正美などは「斯の道」が全文をうけるとしたいと述べ、今まで狭く解していたから、天壌無窮の神勅も「斯の道」に入らないことになる、と主張したがそれまでだった。


◇7 不毛な議論にとどまった

 天皇統治の本質である「しらす」について井上毅が憲法第一条にその意味を入れるのに苦心した話も出てはいるが、反応はない。したがって第一段落の「徳」に関する議論もなければ「中外」にも何の疑問も出されていない。ただ皇運扶翼と「中外に施して悖らず」との矛盾は感じられたと見えて、結論のない奇妙な議論が行われている。

 そして全体として『勅語衍義』や重野安繹(やすつぐ)・末松謙澄(けんちょう)あるいは今泉定助(さだすけ)らの解説書に拘束されて、明治天皇と井上毅・元田永孚の思いに至らなかったのが教育勅語解釈の実態だったのである。

 「徳」と「中外」の解釈に誤りをただせなかった協議会であるから、その議事要録の内容はまったく不毛で謬見(びゅうけん)に満ちている。当時のわが国最高レベルの知識人とはいえ、官定解釈とも公定註釈書とも言われた『勅語衍義』を見直すこともなく、最終的には「みな皇運扶翼に帰一せしめるように」述義していただきたい、と締め括(くく)られたのである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤雉鳴さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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天皇学への課題 その7 by 斎藤吉久───身もだえる多神教文明の今後 [天皇学]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 当メルマガはこのところ毎週末、畏友・佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」をお届けしています。
教育勅語@官報M231031
 教育勅語は、冒頭、「朕(ちん)惟(おも)ふに、我が皇祖皇宗国を肇(はじ)むること宏遠に、徳を樹(た)つること深厚なり」で始まりますが、佐藤さんの指摘によれば、驚くべきことに、この解釈が当初から一貫して誤ってきたというのです。

 つまり、「徳を樹つる」の「徳」とは、天皇統治の本質が「しらす」政治であること、つまり、国民の声なき声を聞くこと、民意を知って統合することを示しているのに、教育勅語の解説書を最初に書いた東京帝国大学教授(哲学)の井上哲次郎にして、そのことが理解できなかったのでした。

 明治政府は当世随一の碩学に解説を書かせ、検定のうえ、教科書にしようと予定し、解説者として白羽の矢が立ったのが井上でした。ところが、持てる知識を総動員して期待に応えようとしたはずの井上の原案に対して、明治天皇はご不満を漏らし、結局、井上の解説書は私書扱いに格下げされ、教科書になることもありませんでした。

 最高のインテリでさえ天皇の本質が理解できなかった、というのはそれだけで深刻ですが、問題はそのことにとどまりません。その後の日本の歴史に影響を与え、未曾有の戦争と敗戦の悲劇をもたらし、現代にも尾を引いています。当メルマガがしつこく追及している空知太神社訴訟問題とも、政教分離問題というかたちでつながっています。


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天皇学への課題 その7 by 斎藤吉久
───身もだえる多神教文明の今後
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▽1 多神教文明の発展に成功しなかった近代化

 天皇学の構築を目下のテーマとする当メルマガは、当面、空知太神社訴訟最高裁判決を主なテキストに用いて、学問的な追究に何が必要なポイントとなるのか、を追っています。これまで指摘してきたのは、以下の6点です。

(1)情緒に流れる観念的な天皇論であってはならない。
(2)「伝統と近代」の一次元モデルではなく、「一神教文明と多神教文明」の座標軸を加えた二次元モデルで、近代の天皇史を実証的に検証する。
(3)一神教文明批判の視点を持つ。
(4)多神教文明を再評価する視点を持つ。
(5)日本の宗教伝統に対する深い理解を持つ。
(6)日本人自身が一神教化している現実を見すえる。

 今日は、いま目の前で何が起きているのか、これから何が起きようとしているのか、について、私の思うところを書きます。

 歴史を振り返ると、明治の日本は、誰でも知っているように、一神教文明の文化を積極的に受容し、近代化を進めました。その先頭に立ったのは、古来、多神教文明の中心である天皇です。

 天皇を先頭にした日本の近代化は、一神教文明圏の先進的文化を取り入れることには成功しました。しかし多神教文明を豊かに発展させたかといえば、疑問です。教育勅語の歴史はその典型です。一神教文明に学ぶことに巧みだった皮肉な結果ともいえます。


▽2 一神教文明に衣替えした戦後

 朝鮮神宮に天照大神を祀ることや日韓併合に神道人が猛反対した歴史が示すように、植民地支配や戦争の悲劇という日本近代史のカゲの部分は、多神教文明からの逸脱でした。ところが、戦後の歴史論では逆に、天皇、神道といった日本の伝統がもっぱら矢面に立たされ、濡れ衣を着せられています。

 それは日米戦争中、アメリカ政府が「国家神道」こそ「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉である、と考えていたことに端を発しています。占領軍が、戦時国際法にあえて違反して、神道撲滅運動に血道を上げ、「国家神道」の中心施設であると理解する靖国神社を焼却処分にしようとまで考えたのはその結果です。

 多神教文明の中心である宮中祭祀を「天皇の私事」として閉じ込め、駅の神棚やしめ縄をはずさせる、という神道圧迫政策が進められた一方で、銀座のデパートではクリスマス商戦が敗戦のその年から始まったと聞きます。

 端的にいえば、戦前の近代化は多神教的近代化の不成功ですが、戦後の現代化は、多神教文明を否定し、一神教文明に衣替えする、文字通りの一神教化です。

 当メルマガの読者ならご存じのように、アメリカは数年を経ずして、自分たちの「国家神道」観の誤りに気づきます。だからこそ、たとえば松平参院議長の参議院葬は、議長公邸に祭場を設け、神式で行われています。神道撲滅政策は緩和されました。

 しかし、戦後体制の基本的枠組みである憲法も宗教法人法も存続しています。その結果、日本の多神教文明は身もだえしています。


▽3 公有地を追われた信州大学構内神社

 ところが、空知太神社訴訟問題が示すように、きわめて好戦的な原告はまだしも、被告とされた行政側も、裁判を審理した司法当局者も、「文明のもだえ」に気づきません。日本の宗教伝統を見失い、ものの考え方が一神教化してしまっているからです。

 その結果、何が起きているのか? 何が起きようとしているのか?

 日本の多神教文明のシンボルである神社を守る人が見当たらない。とすれば、日本の風景に溶け込んでいた鳥居や祠(ほこら)などが早晩、少なくとも公有地から消えていく、ということではありませんか? 日本の風景が一神教化し、さらに非宗教化する。日本人の精神は伝統から離れ、すさんでいくことになりはしないかと心配します。

 すでに実例があります。空知太神社と同様、公有地にあることの法的是非を裁判で問われた結果、公有地から追われた、信州大学構内の稲荷神社のケースです。

 信州大学旭キャンパス(松本市)には以前、江戸時代に地主が創建したという稲荷神社がありました。戦前はこの土地に松本歩兵第50連隊の駐屯地がおかれ、神社は連隊の守り神とされました。しかし敗戦で連隊が解散したあと、松本医学専門学校(信州大学医学部の前身)が移ってきたとき、神社は占領軍の神道圧迫政策で構外に移転させらました。

 戦後、国家管理の廃止を受けて、一般の多くの神社は国有境内地の無償譲渡などを受けましたが、空知太神社と同様に神職がいないだけでなく、氏子もいないこの神社は、この扱いにもれてしまったようです。

 それでもサンフランシスコ条約で日本が独立を回復したあと、大学側の依頼を受けて、出入り業者などで組織される任意団体によって神社は旧地に復しました。それ以後、この任意団体によって毎年、お祭りが行われ、受験生には学問の神様として、患者には病気平癒の神として信仰を集めてきたそうです。

 ところが、にわかに訴訟が持ち上がり、神社はいわば追放されました。


▽4 神社を本気で守る人間がいない

 平成15年、キャンパスの近くに住む、経済理論を専攻するという私大教授が「国立大学に神社があるのは政教分離違反。信教の自由を侵害された」などと主張し、国などを訴えます。地裁も高裁も請求を棄却し、敗訴となりました。けれども、高裁は傍論で「神社の存置は憲法の精神に反する」と批判したことから、マスコミは「憲法違反」と伝えました。

 大学は対応を協議し、他方、くだんの私大教授は課税を要求する訴訟や監査請求などを執拗に繰り返し、結局、社殿は解体され、350年の歴史を持つ聖地は更地になりました。

 裁判には勝ったはずなのに、「国有地の神社が合憲なら、靖国神社の境内を国有化できる。国家神道の復活が避けられない」と訴える、歴史的偏見に満ちた原告らの裁判闘争に屈したのです。訴えられた国や大学側に、本気で神社を守ろうとする思いより、厄介者扱いする気持ちが優ったからでしょう。

 空知太神社のケースも同様でしょう。

 行政は日本の宗教伝統を格別に深く理解しているわけではありません。むしろ基本的には事なかれ主義です。「(鳥居や祠など)神社物件に宗教性は希薄」というのが砂川市側の上告理由だったくらいですから、裁判を正面から受けて立ち、日本人の宗教心のシンボルとしての神社を本気で守ろうとするような気概は感じられません。

 だとすると、結論は決まっています。いかに由緒正しい歴史があろうとも、神社を守る人間がいなければ、静かに消えていくだけでしょう。栄枯盛衰は世の常です。

 それだけではありません。市有地にある空知太神社のありようが憲法上、許されないというのなら、同様のケースは北海道だけでさえ、何千とあります。何が起きるのか、想像がつくでしょう。

 私の悲観論に対して、むろん反論もあるでしょう。神社を守っている神職がいる。祭りを続けてきた地域の氏子がいるではないか、と。しかし、それが難しいのです。どういうことか、くわしくは次回お話しします。



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オバマ新戦略の狙い「核不拡散」by hiromichit1013(Yahoo! ブログ「海洋戦略研究」4月10日号から転載) [オバマ政権]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 2 オバマ新戦略の狙い「核不拡散」 by hiromichit1013
   (Yahoo! ブログ「海洋戦略研究」4月10日号から転載)
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◇1 核テロからアメリカを守る

 オバマ大統領は、「核無き世界」を追求するため、具体的な第一歩として、核兵器の役割を減らす指針「核戦略態勢見直し」を発表し、核戦略兵器を削減する核軍縮条約をロシアと署名した。

 オバマ大統領は、理想と現実を結びつけて、理想に向かって第1歩を踏み出した訳であるが、当然、そこには最も重要な国益、つまり米国の安全を守ることを考えている。

 オバマ大統領が、自ら認めているように「核無き世界」も「私が生きている間は実現しないかもしれない目標」に過ぎないのである。それまでの過程では安全を守るため、現実的に考えなければならない。

 冷戦時代であれば、米ソの核の共倒れによる「恐怖の均衡」が成り立ち、対称戦争として核戦争を抑止したが、非対称戦争の時代になると、失うべき国家も、失うものも無いテロ組織には対しては、核抑止が効かなくなってきた。

 ということで核テロを防ぐためには、核開発の制限と核の拡散を阻むしかないことになる。

 そこで核拡散防止条約(NPT)の強化が必要となる。


◇2 非核国の不満に対処

 ところが米国が望むような核拡散防止の強化策は進まなかったどころか、逆に北朝鮮の核保有やイランの核開発を招いた。

 この背景には、NPTの大国特権(核保持)と核軍縮努力の欠如に対する非核国の不満があった。

 このためオバマ大統領は、核軍縮に率先して取り組む必要があった。

 プラハで「核無き世界」を打ち上げ、不要となった核を減らすためロシアと新核軍縮条約を結び、核戦略態勢見直しで、核使用を制限し、代わりに通常兵器を使用する方針を打ち出した。

 オバマ大統領は、この後の核安全保障サミット等々の会議を通じて、NPTの強化を図っていくつもりであろう。

 各国の指導層は、オバマ流の米国安全保障論を冷静に見ながら自国の国益(安全と利益)を考えている。


◇3 鳩山首相の本末転倒

 ところで鳩山首相は、オバマ大統領の核軍縮を手放しで囃(はや)しているが、日本の安全をどこまで深く考えているのか不明である。というより考えているのであろうか。

 核軍縮については手放しであるが、安全保障論となると、対米追従と言われるのを恐れ、対米対等を意識しすぎ、言いたいことも言えず、素直に協力することもできず、一言多くなってフリーズしてしまう。フリーズの次は逃げるか、戦うのか。

 「核無き世界」に陶酔して「日本の安全」を忘れてしまっては、本末転倒となる。


[参考文献]
(1)大塚隆一「米の核戦略と核軍縮条約」=『読売新聞』2010年4月10日
(2)hiromichit1013「米露新核条約に署名したが」=Yahoo! ブログ「海洋戦略研究」同年4月9日号〈 http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/61292414.html
(3)hiromichit1013「米核体制の見直し核の大幅削減」=「海洋戦略研究」同年3月2日号〈 http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/61153555.html
(4)hiromichit1013「オバマ外交の世界観」=「海洋戦略研究」同年1月18日号〈 http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/60996174.html
(5)hiromichit1013「オバマ・クリントン外交」=「海洋戦略研究」2009年7月28日号〈 http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/60298441.html


[斎藤吉久から]hiromichit1013さんのご了解を得て、Yahoo!ブログ「海洋戦略研究」2010/・4/10「米国の狙い」から転載しました。読者の便宜を考慮し、小見出しを付けるなど、若干の編集を加えてあります。


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尊敬される「皇室らしさ」が消えていく by太田宏人───南米日系人社会から考える愛子内親王「いじめ」報道 [皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月17日)からの転載です


 今日は、2本立てです。

 1本は、太田宏人さんが、昨今、伝えられる愛子内親王殿下の「登校拒否」報道などについて書いてくださいました。

 太田さんは長年、南米の日系人社会を取材してきたフリーライターで、『日本人ペルー移住110周年/ペルー人日本移住20周年記念誌』(現代史料出版)の編著者として知られます。

 海外ののど自慢大会で、日本人の血を引く日系人が、生粋の日本人以上に日本人の心である演歌をみごとに歌い上げるということがよくあるように、海外に住む日系人だからこそ、皇室の価値が見えるということがあります。

 太田さんの記事には、日系社会と間近に接してきた太田さんならではの深い憂いが伝わってきます。

 もう1本は、hiromichit1013さんのご了解を得て、Yahoo! ブログ「海洋戦略研究」から「オバマ新戦略の狙いは「核不拡散」(4月10日号)〈 http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/archive/2010/04/10 〉を転載させていただきます。

 オバマ新核戦略は、米中の相互依存、アジアでの核抑止力の縮小、トマホークの廃棄が謳われていますが、中国の軍事力増強、北朝鮮の核開発、普天間基地移転騒動などを考え合わせると、日本の安全保障にどう影響してくるのか、が注目されます。

 さて、本文です。


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 1 尊敬される「皇室らしさ」が消えていく by太田宏人
   ───南米日系人社会から考える愛子内親王「いじめ」報道
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◇1 消滅した学習院のコーポレート・アイデンティティ

 南米の日系社会を長年、取材してきた立場から、愛子内親王殿下の「登校拒否報道」や眞子内親王殿下のICU(国際キリスト教大学)入学などについて考えてみたい。

 この問題では、葦津泰國氏が当メルマガvol.122(3月15日号)に「日本の皇室が『私なき』存在であるという日本人の伝統的な信頼感が大きく傷つけられることになった」と書いている(http://www.melma.com/backnumber_170937_4792107/ )。同感だ。

 登校拒否報道の問題点は端的に言って、(1)皇室の信頼感へのダメージ、(2)学習院側の対応への不信感、(3)皇室による子弟教育そのものへの懐疑――である。これらの負のイメージが、国民の間に惹起(じゃっき)してしまった。

 戦後、学習院は皇族子弟の教育機関ではなくなったことは、同メールマガジンvol.133(4月12日号。 http://www.melma.com/backnumber_170937_4820450/ )にも詳しい。しかしながら、法的根拠が消滅したとはいえ、皇族、そして国民の側にも「学習院」という固有名詞に内包される「格別な何か」はあったはずである。昨今のビジネス用語でいえば、CI(コーポレート・アイデンティティ)というものだ。

 しかし、事態は変わった。学習院のCIは消滅した。


◇2 皇室不要論を助長させかねない

 憚(はばか)りなく言えば、学習院も在野の教育機関に成り下がったわけだ。まさに学習院の失墜である。

 一方、学校の「ブランド力」によって学生は集まるものの、学生の質の低下に悩む各校では、他校との差別化を図るためにも、今後は「皇族獲得」に躍起になり、ひとたびご入学を果たされれば、厚遇で迎えるだろう。

 とはいえ眞子様のICUご入学を「国体の危機」と捉える人は多いし、愚生もその一人ではあるが、ヨーロッパへの留学の多い皇族方にとって、キリスト教文化・英語への意識的な垣根は、それほど高くないのかもしれない。

 仄聞(そくぶん)するところによると、一部の皇族方は欧州御留学中に羽目を外しすぎたそうだ。学習院の失墜はあくまで学習院の失策だろうが、皇族の子弟が皇室にとっては必ずしも最上とは言えそうにない他の教育機関を選ばれたり、某カルト教団の影響やらがあるとか、留学中の恥ずかしい御振る舞いがあるなどという報道に接すると、どうも、いまの皇室もしくはその周辺には「私」というか、妙な個人主義が跋扈(ばっこ)しているのではないかと危惧してしまうのは、私だけだろうか。

 しかし、もしそうであるならば、醜聞まみれの各国王族と何ら変わりがない。

 反権力に酩酊(めいてい)し、対案もなく、国家の方向性を議論することもせず、いたずらに権威に反抗することが良いことであるかのように(まるで子供のように)浅慮する、多くの「言論人・知識人」が盛んに喧伝するように、「皇室などいらない」というプロパガンダを助長させるだけである。

 学習院の失墜に見え隠れする問題は、ひとり学習院の危機ではない。古来、皇室を戴いてきた「日本」のありようを左右しかねないほど深刻な問題であると思う。


◇3 海外で皇室に敬意を抱くのは日系人だけではない

 天皇・皇室の存在を否定したがる日本の「言論人・知識人」に知って欲しいのは、外国、とくに南米で皇族方が受ける憧憬、尊敬の眼差しである。彼らは、日本の歴史と伝統を体現する皇族方が熱烈に歓迎を受けるその現場においても、「皇室はいらない」などと叫ぶ自信はあるのだろうか?

 ここで南米を例に挙げるのは、筆者の体験に基づく。ほかの欧米文化圏でも、一部の者が皇族方の歴訪に際して抗議運動を起こしたこともあるようだが、それは、まさに、皇族が日本の象徴、いや、日本の代表であると認めたうえでの蛮行でああろう。皇室制度を批判したものではない。

 南米にはブラジルやペルーをはじめ、各国で日系移民が奮闘した歴史がある。そして、移住国での日系人の評価は高い。

 日本に住む日本人は、日系人を自分たちの同胞とは見なさない傾向があるようだが、しかし国外においては、日系人への評価は日本人の評価へと直結する。北米でも同じことがいえるのだが、日系人を日本人と明確に区別する意識は、一般的ではないのだ。

 戦後、日本製品が海外で受け入れられたのは、無論、製品それ自体の品質の良さもあるだろうが、各国の日系人への高い信頼を抜きには語れない。また、とくに南北アメリカ大陸では日本製品の販路拡大に日系人がどれだけ貢献したかを、日本の日本人はもっと知るべきだろう。


◇4 紀宮様ペルー訪問を好意的に報道した現地マスコミ

 近年、南米の各移住先では、日系移民の記念祭が相次いでいる。ペルーおよびペルーからの転住があったボリビアでは平成11(1999)年、ブラジルでは平成20(2008)年にそれぞれ日本人移住100周年を祝った。

 ペルーでの100周年の際には、筆者は「ペルー新報」の記者として同国で生活していた。そのとき、ペルーを御訪問された紀宮清子内親王殿下(当時)を迎える日系人はいうに及ばず、ペルー国民の畏敬の念と熱狂を目の当たりにした。

 100周年式典では、フジモリ大統領(当時)やファースト・レディーである娘のケイコさんらといっしょに、会場となったラ・ウニオン運動場(日系人が作った同国1、2を争う運動場)のグランドを一周された。

 筆者は、記者席ではなく、あえて一般席で取材をしていた。その方が、一般の人々の息吹が感じられるからである。

 フジモリ氏らにとっては失礼だが、紀宮様の放つ神々しさや清浄としか表現しようのないオーラのようなものは、まさに「別次元」であった。いつもは、権威に屈しないことを信条とするペルーのマスコミも、このときばかりは非常に好意的な報道をしていた記憶がある。

 伝え聞いたところによると、紀宮様は両国へのご出発前に、両国のこと、移民のことをかなり真剣に学んでいたという。


◇5 「日本のプリンシペ(王子)は心がきれいだ!」

 ブラジルの100周年の際には、皇太子殿下が御訪問された。

 筆者は、記念式典が行われたパラナ州のホーランジャ市に、その直後、(別件の)取材で訪れている。どこへ行っても、記念式典と皇太子殿下を熱く語るブラジル国民に接することしきりであった。

 ある写真館に寄ったときのことである。店主は日系人ではなかったが、開口一番、「日本のプリンシペ(王子)は凄い!」と語る。

 何が凄いのかという点を、話好きなブラジル人らしく、彼が熱く語ったところによると、記念式典でスピーチした州統領は、予定時間を過ぎても長々としゃべっていた。しかも、どうも自己宣伝が臭う話しぶりであったのに対して、プリンシペは簡潔に、移住者を受け入れたブラジルに感謝し、両国の友好を願い、移住者をねぎらうだけであった、という。

 これに、ブラジル人は感動したというのだ。「清々しい(心がきれいだ)」。

 投票で選ばれる政治家は、大なり小なり自己を宣伝しなくてはいけない。だが、皇族方にはそれはない。まさに、皇太子殿下の「無私」の精神が、ブラジル国民に感動を与え、日系人を感涙させたのだろう。

 付け加えるなら、皇族方が体現する「歴史の重み」というものは、世界にも例がないものである。それだけで、畏怖の対象になるのだ。


◇6 慰霊塔に刻まれた「日本臣民ここに眠る」

 再度、憚(はばか)りながら申し上げるが、紀宮様と皇太子殿下の御訪問に際して、日本政府からの関係国に援助などがあったわけではない。美辞麗句もなく、バラマキODAもなく、日本を象徴する皇族方が、その存在のみで、かくも盛大な尊敬の念を抱かれたのである。このことを我々は深く考えねばならない。

 日本が大国として世界に貢献できるとしたら、それは経済面だけではない。礼節や相互宥和(ゆうわ)、多宗教を認め合うといった「人間が人間であるために必要な部分」を示す、文化大国としての役割だ。これを体現しているのが、皇室外交なのかもしれない。

 「天皇に私なし」といわれるが、「滅私」はとかく評判が悪い。しかし、この美徳は海外にも通じるものだ。無論、南北米州大陸においては、日系人が血で築いた信頼がベースにあるからこそなのだが、いまだに南米各国では(ほかの国でもそうかもしれないが)、天皇陛下が国を統治していると思われている。

 たとえば、ペルーのとある日本人慰霊塔を探訪した際、驚いたのだが、「日本臣民ここに眠る」とスペイン語で書かれていた(ペルー北部のランバイェケ県トゥマン日本人慰霊塔。画像はこちら。 http://www.geocities.jp/tontocamata/File0006.jpg )。

 草も生えない荒涼とした砂丘のうえに、ひとり立つその十字架状の慰霊塔の台座に刻まれた「SUBDITOS(臣民たち)」というスペイン語を見たとき、自己を強烈に再認識した。いつか機会があれば、これからの世代の皇族方にも見ていただきたい慰霊塔である。

 愛子内親王殿下の「登校拒否」問題など、最近の皇室に関する「ニュース」は、諸外国でもかなりの頻度で報道されていると聞く。しかし、その「ニュース」の文脈に現れるのは、個人主義的な「思い」ばかりである。個人主義的な私心の示すベクトルは、南米で皇族方が受けた尊敬の念とは真逆を指している。

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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴   第4回 誤りの角質化 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月17日)からの転載です


 今日は佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」第4回をお届けします。

 教育勅語の誤った解釈のスタートは、佐藤さんによれば、当時随一の碩学・東京帝国大学教授井上哲次郎の『勅語衍義』でしたが、やがてその誤解は角質化していきます。その要因を作ったのは、伊藤博文の側近で、枢密顧問官などを歴任し、日本大学(日本法律学校)初代学長ともなった金子堅太郎だといいます。

 それでは本文です。


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 「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
  第4回 誤りの角質化
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◇1 海外で高く評価されたといわれるが……

 教育勅語は海外での評価も高かった、と伝聞されて今日に至っている。しかし実際にどの部分がどのように評価されたかを検証する必要があるだろう。その点について、平田諭治(ゆうじ)『教育勅語国際関係史の研究』に、以下の鋭い指摘がある。
教育勅語@官報M231031

「このように末松は、……第一段落および第三段落に関しては全くペンディングするか、その主旨を略述する程度であった。……金子堅太郎の場合にも共通していたに相違ない」

 末松とは教育勅語を外国語訳した末松謙澄(けんちょう)であり、ほかには菊池大麓(だいろく)、神田乃武(ないぶ)、新渡戸稲造、そして時の文部大臣牧野伸顕に英語訳をつくるよう促した金子堅太郎ら錚錚(そうそう)たる人たちがこの事業に参画している。

 じつに興味深いことに、当初、彼らが海外で主張したのは「徳目」部分が主だったのである。ここに天皇の「徳」を理解できなかった井上哲次郎の『勅語衍義』の影響と教育勅語の外国語訳に加わった末松らの教育勅語観が如実に表れていると言ってよいだろう。

 では、教育勅語に対する海外の評価はいかなるものだったか?

「そして『ここには資本主義的道徳のごくごく陳腐な表現以外には何もない……』と難じるのである」

 これは世界産業労働者組合の述べたものであるが、資本主義云々(うんぬん)はともかく、キリスト教徒の彼らにとって第二段落の徳目は特別のものではなかったはずである。

 高い評価を受けたことは事実であるが、上記のような冷ややかな受け止め方とのコントラストはどうだろう。日露戦争後の我が国要人に対するリップサービスと、主張の中身が主に徳目だったことは無視できない事実である。


◇2 58年間で正反対の評価に変わった理由は?

 平田は次のようにも指摘する。

「教育勅語のインターナショナルな装いは実行力の乏しいものでもあったといえる」

『教育勅語国際関係史の研究』の出版は平成9年である。それまでの教育勅語の海外における評価については、『金子堅太郎著作集』にあるセオドア・ルーズベルト大統領などの話に代表されるようなものが語り草となっていたのである。『教育勅語国際関係史の研究』にある事実は貴重であり、またのちの教育勅語の朝鮮や台湾統治における位置づけの考察も、教育勅語の解釈に関して非常に興味深いものがある。

「もともと教育勅語にインターナショナル云々は存在しない。丁寧に追究すればその事実がないことに行き着くのである。」

 教育勅語は日清日露戦争後の海外で高い評価を受け、朝鮮・台湾統治ではさまざまな議論を呼び起こし、終戦後はGHQの圧力などにより排除・失効確認決議がなされている。明治23(1890)年の渙発(かんぱつ)からわずか58年後の昭和23(1948)年にはまるで正反対の評価となったのである。

 いわゆる五倫という範囲のみで教育勅語を考えた場合、この事実には納得しがたいものがある。終戦直後の我が国知識人やGHQの議論にもさまざまな齟齬(そご)がある。やはり渙発から排除まで、教育勅語の捉え方に大きな変化があったと見なければこれらの事実の持つ意味が明らかにはならないだろう。


◇3 井上毅の相談と金子堅太郎の回答のズレ

 すでに述べたように、教育勅語解釈の誤りは、井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』に始まるが、その後、誤解は氷解するどころか、角質化していった。

 誤解を角質化させた要因のひとつに、金子堅太郎の講演やその記録がある。教育勅語渙発40周年記念や50周年記念におけるそれである。それぞれ昭和5年と昭和15年である。

 昭和5年11月3日、金子堅太郎は明治節(明治天皇誕生日)における全国向けラジオ放送でマイクの前に立った。講演速記には次のような記述がある。

「或日、井上氏は私を訪問して、起草したる教育勅語の草案を見せて、此中(このなか)に『中外ニ施シテ悖(もと)ラス』といふ一句があるが、是(これ)は御承知の通り支那人又(また)は漢学者が中外に施して悖らずと云ふやうなる句は常に用ゐ来って居るから、或(あるい)は帝威(ていい)を中外に輝かすとか、又国威を中外に宣揚(せんよう)するとか云ふことは、漢文を起草する時には常に慣用して居るから、さまで世人の注意を惹(ひ)くまいと思ふけれども、此(この)教育勅語は陛下の御言葉であって是が若(も)し翻訳されて、欧米諸国に知れ渡った時に、茲(ここ)にある中外に施して悖らずと云ふ文句が若し欧米の教育の方針に矛盾すると云ふやうなことがあっては是は由々敷(ゆゆし)き一大事であって、吾々(われわれ)起草者は、陛下に対し恐懼(きょうく)の至りであるから、君に相談する、君は米国で永(なが)らく彼(か)の国の教育を受けられたが為(ため)に、此草案全部を熟読して、是が果たして欧米の教育の方針に矛盾せざるや否やを研究して戴(いただ)きたいと言ふて、其(その)草案をみせられました。」

 そして金子堅太郎は、少しも世界の道徳に背(そむ)かない、これを御沙汰になって中外に施しても少しの悖るところが無い、と答えたとある。

 ここに井上毅の相談あるいは質問と金子堅太郎の回答にズレがあると言わざるを得ない。むろん40年前のことであるから正確に言葉が再現されているかどうかの問題はある。


◇4 お言葉が政事的命令となるか否かを相談したのに

 むろん井上毅が「教育の方針」に関する相談をしたことはその通りだろう。

 起草七原則には、(1)君主は臣民の心の自由に干渉しない、がある。前年には大日本帝国憲法が発布されており、その第28条は信教の自由条項である。「本心の自由は人の内部に存する者にして、固(もと)より国法の干渉する区域の外に在り」(伊藤博文『憲法義解』)であるし、道徳についてはキリスト教なら教会が担っているとの判断があったはずである。

 君主のお言葉が政事命令と受け取られ、欧米諸国の教育の方針からしてそこに矛盾がないかどうか、というのが井上毅の相談あるいは質問だったのではないか。

 一方、金子堅太郎は、伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治(みよじ)らとともに、大日本帝国憲法の起草に貢献した明治の賢人である。

 帝国憲法でいえば、第28条に関連し、各国政府は「法律上一般に各人に対し信教の自由を予へざるはあらず」(『憲法義解』)であるから金子堅太郎に相談した、というのが実情だろう。

 教育勅語は国務大臣の副署がない。文部省に下付されず学習院か教育会へ臨御(りんぎょ)のついでに下付せらるかたちを、井上毅が望んでいた事実を考えれば、金子が受け止めたような、徳目が海外で通用するか否かではなく、君主のお言葉が政事上の命令となるか否かを相談したと考えて妥当である。

 金子堅太郎は昭和15年の記念放送で、「教育勅語の中に、是々の箇条は耶蘇の教義に悖ると云ふ者があった時には由々しき大事だから」と井上毅から相談を受けた、と述べている。

 しかし、いわゆる五倫は人として当然のことと「五倫と生理との関係」などにあるから、井上毅の考え方と金子堅太郎の受け取り方には基本的な矛盾があると言わざるを得ない。

 井上毅はあくまでも「教育の方針」について質問したのであり、信教の自由条項に抵触するか否かの相談である。それを金子堅太郎は教育勅語の徳目がキリスト教の教義に悖るかどうかの質問だと勘違いをしたのである。

 井上毅や元田永孚(もとだ・ながさね)の教育勅語関連資料にキリスト教の教義を調査検討したものは存在しない。こうして教育勅語解釈の誤りは角質化していくのである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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他人任せ by 荒木和博([調査会NEWS 914](平成22年4月12日)から転載) [拉致問題]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 2 他人任せ by 荒木和博
   ([調査会NEWS 914](平成22年4月12日)から転載)
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 三浦小太郎・守る会代表が同会のホームページに書かれている「黄長ヨプ氏講演会批判」(http://hrnk.trycomp.net/index.php)を読んで気付いたことがありました。

 詳しくは原文を読んでいただきたいのですが、先日東京で行われた黄氏の講演の趣旨が日米韓が中国に北朝鮮の改革を求めるべきとするものであり、肯定することはできないという内容でした。

 確かにそれもその通りと思いながら、これを読んで思いだしたのがある脱北者(仮に金氏とします)と交わした会話です。その人は北朝鮮の高位層とつながりがあります。金氏によれば現在の北朝鮮の指導層は中心的位置にある張成沢(金正日の義弟)と呉克烈(国防委員会副委員長)はどちらも中国の支援を求めており、植民地化に近い状態になっても構わないと思っている、一方金正日は米国との関係を持つことに期待をかけている、とのことでした。

 これを聞いて、私は金氏に言いました。「もし今度北朝鮮の幹部に会うことがあったら伝えて欲しい。『世の中そんなにうまくはいかないよ』と」

 大国の狭間にあって生き残ってきたコリアは、生き残るためにどこかの影響下に入るしかありませんでした。李朝時代は中国、その後は日韓併合、戦後になると北はソ連、南はアメリカ。しかしわが国も含め周辺国がみな大国ですから、これはある程度仕方なかったのかも知れませんが。

 是非はともかく、他人に国の運命を任せれば、結局は任せた国の都合の良いようにされるのは当然です。だから今の韓国は歯を食いしばっても、基本的には自力で北朝鮮の自由化・民主化(つまり体制転換から吸収統一に至るプロセス)を実現しなければならないはずです。

 しかし今の韓国では保守派の集会では韓国の国旗と合わせて星条旗が打ち振られます(不思議な話ですが韓国では左が民族派、右が国際派です)。そして黄氏は中国。結局反金正日も他人頼みではないかという感じをぬぐえません。

 でも、日本も人のことは言えません。拉致問題の解決にアメリカ頼み、中国頼み、外国頼みという意味ではあまり変わりないと言えるでしょう。多数の日本人が主権を侵害されて連れて行かれているのです。救うために何らかの犠牲が必要なことは当然です。それは他人任せにはできません。自力でやる努力をしていかなければなりません。

 その前提の上で、黄さんたちとも、アメリカとも、連携のできることはしていくということではないでしょうか。

 なお、私たちも自力でやるため下記の「金正日による金日成暗殺疑惑に関する中央研究集会」を明後日開催します。奮ってご参加下さい。


■調査会役員の参加する講演会等の予定(一般公開の拉致問題に関するイベントのみ)

★4月14日(水)18:30「金正日による金日成暗殺疑惑に関する中央研究集会」(216委員会主催)
●拓殖大学文京キャンパス(文京区小日向3-4-14 地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅徒歩5分)
●代表荒木が参加
●問い合わせ:荒木 03-5684-5058

★4月24日(土)14:00「新潟JCフォーラム」(新潟青年会議所主催)
●新潟小学校(新潟市中央区東大畑通1-679・025-228-3059)
●代表荒木が参加
●問い合わせ:新潟青年会議所025-229-0874

★4月25日(日)14:00「拉致被害者の早期救出を求める国民大集会」(家族会・救う会・拉致議連主催)
●日比谷公会堂(千代田区日比谷公園1-3 Tel 03-3591-6368 地下鉄霞が駅B2・C4 出口、内幸町駅A7出口、日比谷駅徒歩3分)
●代表荒木が参加
●問い合わせ:救う会全国協議会(03-3946-5780)

★5月15日(土)13:30「茨城県民大集会イン水戸」(救う会いばらき主催)
●水戸市民会館(JR水戸駅南口より徒歩10分)
●理事村尾が参加
●問い合わせ:救う会いばらき 090(1212)8084

★5月16日(日)14:00「特定失踪者家族を支援する藤沢市民集会」(救う会神奈川主催)
●藤沢産業センター(JR藤沢駅北口より徒歩5分・藤沢郵便局隣り)
●常務理事杉野が参加
●問い合わせ:救う会神奈川 090(9816)2187 又は sukukaikanagawa@hotmail.com


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特定失踪者問題調査会ニュース
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〒112-0004 東京都文京区後楽2-3-8第6松屋ビル401
Tel 03-5684-5058Fax 03-5684-5059
email: chosakai@circus.ocn.ne.jp
調査会ホームぺージ: http://www.chosa-kai.jp
戦略情報研究所ホームページ: http://www.senryaku-jouhou.jp
発行責任者荒木和博 (送信を希望されない方、宛先の変更は
kumoha351@nifty.com 宛メールをお送り下さい)
●資金カンパのご協力をよろしくお願いします。
郵便振替口座00160-9-583587口座名義:特定失踪者問題調査会
銀行口座ゆうちょ銀行 019店 当座預金 0583587 トクテイシッソウシャモンダイチョウサカイ
(銀行口座をご利用で領収書のご入用な場合はメールないしFAXにてご連絡願います)
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将来に託さざるを得ない皇族教育改革 by 葦津泰國 [皇族教育]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月12日)からの転載です


 先般の愛子内親王殿下の「不登校」騒動は、学習院が戦後60年余を経て、いじめも学級崩壊もある、いかにも普通の学校になってしまったな、という印象を強くしました。

 そしてこんどは、秋篠宮殿下の第一女子、眞子内親王のICU(国際基督教大学)ご入学です。入学式は大学内の礼拝堂で行われたと伝えられます。
http://mainichi.jp/select/today/news/20100402k0000e040029000c.html

 秋篠宮殿下は学習院のキャンパスで、経済学部教授を父に持つ妃殿下と出会い、結婚されました。いわば学習院の学舎が両殿下を生み、育てたのでした。

 しかし眞子内親王のICU入学だけではなく、いずれ皇位を継承されるだろう、秋篠宮殿下の第一男子、悠仁親王殿下も幼稚園は学習院ではありません。

 もちろん学習院でなければならないということはありません。戦後の学習院は宮内省の外局であった戦前の華族学校、学習院とは違います。

 けれども、キリスト教精神にもとづいて設立され、クリスチャンの教員が、英語で授業を行う大学に、現行の制度では皇位に即くことのない内親王とはいえ、日本の皇族が通うことを、皇族自身の自由意思に任せて、容認されるべきものなのかどうか。

 その一方で、将来の皇位継承を見通し、悠仁親王について、あるいは愛子内親王について、帝王学教育の必要性を主張する人々もいます。一般の学校教育では期待できない皇族教育の重要性が指摘されているということですが、日本の歴史と伝統のシンボルである皇室の子弟教育は、現実にはキリスト教の学校にまで振り子が振れてしまっています。

 これらのことをどうお考えるべきなのか、今日は問題提起として、葦津泰國さんのエッセイをお届けします。

 それともう1本、荒木和博特定失踪者問題調査会代表のご了解を得て、調査会NEWS 914](平成22年4月12日)から「他人任せ」を転載させていただきます。 


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 1 将来に託さざるを得ない皇族教育改革 by 葦津泰國
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 桜の花が国土をいろどるこの時期、子供たちが希望に胸を膨らませて幼稚園、小学校、中学高校大学へと進学、進級する4月。幼い親王、内親王たちが相次いでその時を迎えられた。

 将来の皇位継承者のお一人である悠仁(ひさひと)親王は幼稚園に進まれ、愛子内親王は小学校3年に進級、佳子内親王は高校生に、眞子内親王は大学生になられた。お元気で進学進級されるお姿は、国民にとってもいかにも春を飾るにふさわしい。

 だが、そんなご様子を過去の皇室のそれと比較すると、大きな変化が起こっていることが注目されている。センセーショナルな表現をすれば、「学習院離れ」ともいうべき現象か。

 先般来、大きな国民的関心事ともなった「愛子内親王の学習院初等部への不登校」報道、それに悠仁親王、眞子内親王が学習院以外の学校を選ばれたことなどと重ね合わせて、国民にとっても重大な関心事ともなっているのだ。

 単純化すれば、「学習院の質が一般学校と同じようになったので、皇族方が学習院を避け始めたのではないか」などという憶測が流行しているように思われる。


◇1 皇族の唯一の教育機関でなくなった学習院

 学習院は幕末に、公家の師弟養成のために京都御所の門前に設けられた学習所が、明治17(1884)年に宮内省所轄の官立学校となり、同40年に乃木希典が明治天皇の思し召しにより院長となり、学内の空気を一新、大正15(1926)年の皇族就学令により皇族方の学習所に指定された。

 それは昭和22(1947)年、敗戦直後まで宮内省の外局として維持されてきたが、その後、新たに私立の民間学校として現在の学習院に継続している。

 制度はこのように根本的に変わったのだが、皇族子弟が通う学習所としては、その後も引き継がれ、国民も学習院を皇族子弟の教育機関として意識する格好となってきていた。

 それが学習院とは格別に縁の深い秋篠宮家の悠仁親王が、お茶の水女子大の幼稚園に通われ、学習院の高校を卒業された眞子内親王は、わざわざキリスト教系のICUに進学され、礼拝堂で入学式を行われた。学習院は必ずしも、皇族方が通われる唯一の指定校とはいえないかたちになってきた。

 悠仁親王は「学習院に三年保育の制度がないのでお茶の水を選ばれた」、眞子内親王も「お進みになりたい学科がなかったからICUを選ばれた」と説明されてはいる。だが、国民の受け取り方は必ずしもそうではない。

 学習院には、戦前の伝統を引き継いでいるとの国民の思い入れがあったのに、愛子内親王が同級生の乱暴におびえて登校拒否されたと発表される(この発表によって皇室のイメージが損なわれることに、宮内庁側が無関心なのにはまったくあきれる)など、従来、国民が日本の皇室にいだいてきた意識を根底から覆すような話題は、学習院に対するイメージダウンを招き、皇室への信頼の失墜させる効果を生じさせた。

 それに続いて今度は、眞子内親王が「異教の学校」へご入学され、悠仁親王は学習院以外の幼稚園に入られた。これを結び付けて、国民が「やはり」と思ってしまうのはやむをえまい。


◇2 一般国民とは異なる人格形成が求められるけれど

 連続するこれらの報道により、国民の間には、皇族方の子弟教育に関して、「このままでよいのだろうか」との疑問の声も起こってきている。

 なかには、「戦後の学習院が、いじめも学級崩壊もある普通の学校を目指しているように見える方針をここで改め、戦前の宮内省の外局時代のようなものに戻るべきだ」との意見や、「皇族方が一般の施設に通われる制度を改めて、宮中ご学問所のようなものを新設し、皇族子弟のご養育にあたるのが筋だ」との意見、そのほか、「一般の国民子弟をご学友に加えながらも、将来の皇族に立派に育つ独自の養育施設を設けるべきだ」との声などがあがっている。

 私自身も報道を見て、関係者から実情を聞き、確かに現在の皇族子弟の養育制度には、将来の皇室の在り方を考えるとき、問題が山積している点には同感をする。

 皇族は一般の国民とはまったく次元の違う独自の人格形成が求められる。それはもちろん、学校教育において身につけられるものではない。逆に、青少年期の学校教育が人間の思考法、価値観、徳性、人格形成などに与える影響は計り知れない。

 日本の皇族方には、独特の無私のお立場でひたすら皇祖皇宗はじめ神々に祈り、祭りをなさる陛下とともに、伝統的な「みやび」の心を持たれることが望まれる。それが伴わなければ、いくら国民と同様の知性を身につけられていても、皇族にお相応しいお人柄とは言えないだろう。

 だが、そのような皇室の伝統と理想を深く知る関係者が、現在の日本のどこにいるのだろうか。

 知識人たちは日本の皇室の育んできた悠久の姿の本質をほとんどまったく考えようともせず、公布からたかだか60年ほどにしかならない新憲法の上辺だけで眺めて、あたかも日本の皇室を知悉(ちしつ)しているかのように得意げに語り、国民は外国の王制の「覇権」と日本の皇室の「みやび」の違いすら知ろうとしない。

 そのなかで、皇族教育のあるべき姿を模索することは不可能に近い。


◇3 妨げになることだけはしないで

 いまや日本の皇室は、過去から継続する皇室の価値を部分的にでも知る皇族方や、伝統に基づく不断の生活のなかで皇室を崇拝する数少ない国民によって支えられている。つまり、わずかに残る歴史の断片が皇室を支えているのが現実であろう。

 そんな時代にこれ以上、おかしな歪(ゆが)めは進めたくない。

 だから今は、制度そのものを変更するのではなく、少なくともいま以上には皇室が日本の歴史と伝統から浮き上がったものにならないよう、学校、宮内当局の慎重な打ち合わせにより、学校教育としての質の確保に目的がしぼられるべきであろう。

 もとより一般国民への学校教育と皇族子弟への皇族教育はおのずから違う。そして現段階では皇族子弟養成の十分条件は、学校教育などでは得ることができない。そのことをよくよく認識しなければならない。

 皇族の条件は一流の学問知識を身につけることでも、一流の社交技術を身につけることでもない。皇族子弟のご養育は、ただ国民すべてのことをつねに思い、全国民の状況を知ろうとつねに努力され、国民の幸せをみずからの幸せと考えることを理想とする精神姿勢をつねに心がけられ、国民に信頼されるお人柄を身につけられる、これを目標に進められるべきだと思うが、いまはその環境がない。

 学習院、そしてその他の皇族方を受け入れられる学校に望むのは、皇族子弟の広い心を育てる妨げになることや、あらゆる層の国民を大切に思うことに妨げとなる教育だけは絶対にしないことである。国の将来のためにも心がけてもらいたい。

 世の中は大きく変わりつつある。日本の国の将来の発展のためには、日本らしさをもう一度見直して、連綿と続いてきた歴史の流れの先に、特徴ある日本文化を位置付けなければならない。やがてそのことを国民の多くが気付くときがくる。いまは黎明(れいめい)期なのだと私は時を見ている。そのような新しい動きが出てくるまで、焦らずにじっと待つほかはない。


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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴第3回 「中外に施す」の「中外」の意味 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 病の床にある人生の大先輩を訪ねました。

 学徒出陣で海軍航空隊士官となり、特攻隊に志願したものの、戦友たちに続けなかった「負い目」を胸に刻み、「おつりの人生」に全力投球してきたという大先輩は、文字通り自分の命をささげようとした祖国の65年後の現実を、病院の個室で深く憂えていました。

 そして、「日本のために頑張って欲しい」と、私の手をかたく握るのでした。

 以前、この大先輩は、「千里の馬はつねにあれども、伯楽(はくらく)はつねにはあらず」と唐の文人・韓愈(かんゆ)を引用し、過分にも私を「千里を駆ける馬」に見立てて、不遇を嘆き、慰めてくれたことがあります。

 世の中に逸材は多いが、逸材を見出して登用できる指導者がいない。しかし、それは私個人の問題ではなく、いまの日本社会が直面している閉塞感の最大の原因かと思います。

 タレントはたくさんいるのに、プロデューサーがいないのです。優秀な筆者はいるけれど、腕利きの編集者がいない。研究者はいるけれども、学術的指導者がいない。教師はいるが、教育指導者がいない。宗教家はいるが、宗教指導者がいない。政治家はいても、政治指導者がいない、という具合です。

 ジャーナリズムもアカデミズムも宗教界も政界も、既得権益を守るための職業集団と化し、業界化し、活力を失っています。時代の閉塞感を打ち破れないのは当然です。

 たとえば、いま永田町では保守新党結成の動きが急です。大いに期待し、応援したいところですが、設立の手続きに違和感を覚えるのは私だけでしょうか。国会議員が5人集まれば、法的には「政党」を作れます。しかし国民の切実な声に耳を傾けることを出発点としなければ、国民の期待に応え得る存在とはなり得ないでしょう。大政治家の不在をあらためて痛感します。

 さて、今日は佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」第3回をお届けします。

「日日のこのわがゆく道を正さむとかくれたる人の声をもとむる」とお詠みになったのは昭和天皇ですが、天皇の政(まつりごと)とは本来、国民の声なき声を聞くこと、民意を知って統合すること、つまり、「しらす」政治でした。

 ところが、佐藤さんによると、教育勅語の解説書を書いた明治の碩学、井上哲次郎東京帝国大学教授にしてそのことが理解できなかったようです。誤解はそればかりではありませんでした。そしてやがて国運を誤ることにもなったのです。大先輩の嘆きの原因もそこにあります。

 それでは本文です。

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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
第3回 「中外に施す」の「中外」の意味
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◇1 明確にされてこなかった「斯の道」の範囲

 前回、書いたように、教育勅語の第一段落「徳を樹(た)つること深厚なり」の「徳」は仁義礼譲孝悌忠信などではなく、君徳の「徳」である。この解釈に反する事実は存在しない。逆に仁義礼譲孝悌忠信と解釈することには、これを支持する事実さえ見当たらない。あるのは事実に立脚しない思いこみの論説ばかりである。

 そして、この思い込みが第二段落以降、教育勅語全体の解釈を誤らせてきた。

「爾(なんじ)臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し……」で始まる第二段落は、第一段落で確認された君徳に対する臣民の忠孝をさらに分かりやすく述べられたものである。いわゆる五倫五常の類である。井上毅(こわし)の勅語衍義(えんぎ)稿本への修正意見にはこの第二段落に関するもので決定的なものは記されていない。

 続く第三段落は「斯(こ)の道は実(じつ)に我が皇祖皇宗の遺訓にして……咸(みな)其(その)徳を一(いつ)にせんことを庶(こい)幾(ねが)ふ」である。ここにある「斯の道」がどの範囲を受けているかは後の議論にもあったことである。しかしどの議論でも「斯の道」の範囲が正しく示されたことはない。その原因はやはり第一段落の「徳」の解釈にある。

 もし「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を、第二段落にあるいわゆる五倫五常だと解釈すれば、「斯の道」は第二段落の「爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し……皇運を扶翼(ふよく)すべし」となる。しかし第一段落の「徳」が「しろしめす」という意義の君徳だとすれば、「斯の道」は第一段落から第二段落までのすべてを受けると考えて妥当である。

 けれども前者では、「斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所……」の「倶に」の意味が分からない。「爾臣民……」に始まる第二段落は臣民の遵守すべき徳目である。皇統を承け継ぐのが皇祖皇宗の子孫であるから、臣民の徳目を「倶に」では意味が通じない。第一段落の「徳」に意識のない解釈である。

 一方、後者は皇祖皇宗から伝わる「しろしめす」という天皇統治の妙(たえ)なるお言葉と、それに対する臣民の忠孝の姿と捉えているので、「倶に」の持つ意味が明瞭になるのである。子孫臣民がそれぞれの「君徳」と「徳目」を遵守することが「倶に」の意味である。


◇2 解釈を誤らせたもうひとつの原因

 いまひとつ教育勅語の解釈を誤らせた原因の一つは、第三段落にある「之を中外に施して悖(もと)らず」の「中外」の語義にある。

 明治は欧米化の時代である。国学や儒学は停滞していた時期である。辞書を引けば、「中外」を解説した当時の『広益熟字典』は「日本と外国のこと」であるし、『新撰字解』でも「我が国と外国」だけである。『言海』に「中外」はなく、大正二年の『大字典』では教育勅語を例文にとって、やはり日本と外国の意味のみである。

 しかし「中外」には、『管子』に「中外不通」とあるように、「宮廷の内と外」、広くいえば「朝廷と民間」の意味がある。しかもこれは宮廷の秩序について述べている「君臣 下」に出てくるものである。井上毅や元田永孚(もとだ・ながさね)が読んでいた可能性は十分にある。なぜなら明治14(1881)年の「大臣・参議及び各省の卿等に下されし勅語」には「惟(おも)うに維新以来、中外草創の事業、施行方に半ばなる者あり」とあって、この「中外」は文脈から「朝野」と読み替えて妥当だからである。

 以下のような事例もある。

 明治11年8月30日から同年11月9日までの北陸東海両道巡幸から戻られた天皇は、各地の実態をご覧になったことから、岩倉右大臣へ民政教育について叡慮(えいりょ)あらせられた。

 それは勤倹を旨とするものであって、侍補たちは明年政始の時に「勤倹の詔」が渙発されることを岩倉右大臣に懇請した。「12月29日同僚相議して、曰勤倹の旨、真の叡慮に発せり。是誠に天下の幸、速に中外に公布せられ施教の方鍼(ほうしん)を定めらるべし」。

 そして文章についての様々な議論の後、明治12年3月、「興国の本は勤倹にあり。祖宗実に勤倹を以て国を建つ。」という内容の「利用厚生の勅語」が渙発されたのである。

 この勅語はその内容のとおり、国民に勤倹を促すものであるから、「中外に公布」は「全国(民)に対し公的に広める」である。外国はまったく関係がないし、教育勅語にある「中外に施して」の「中外」がこれと異なるとする根拠はどこにも存在しない。

 井上哲次郎『勅語衍義』の発行は明治24年9月であるが、同年1月にはすでに那珂通世(なか・みちよ)・秋山四郎『教育勅語衍義』が出版されている。第一段落の「徳」の解説は『勅語衍義』よりも正鵠(せいこく)を射ているものである。「天祖の蒼生(そうせい)を愛養し給へる大御心(おおみこころ)に倣(なら)ひて、仁政を行ひ給ひしかば、臣民皆観感して、二様の誠心を起したり」として、皇上の仁恩に感じての忠、皇上の孝徳に感じての祖先に対する孝を述べている。「君徳」と「忠孝」がほぼ正しく捉えられていると言ってよいだろう。

 ただし、『教育勅語衍義』の著者たちは『管子』を読んだことがなく、そのため宣命(せんみょう)における「中外」が「宮廷の内と外」としても用いられていることに意識がない。したがって「中外」は「中は日本、外は外国にして」と誤って解釈したのである。

 けれども、この「中外」を「日本と外国」と解釈する根拠は存在しない。むしろ「日本と外国」と解釈することに反する事実が存在する。


◇3 「上下」以外に解釈できない

「斯の道は実に祖宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に守るべき所、凡(およ)そ古今の異同と風気の変遷とを問はず、以て上下に伝へて謬(あやま)らず、以(もっ)て中外に施(ほどこ)して悖(もと)らざるべし」

 これは教育勅語の初稿としてよく引用されるものである。この「以て上下に伝へて謬らず、以て中外に施して悖らざるべし」の「上下」と「中外」は、中国の古典・曲礼(きょくらい)にある「君臣上下、父子兄弟、礼に非ざれば定まらず」、あるいは易経(えききょう)にある「君臣有りて、然る後に上下有り。上下有りて、然る後に礼義錯(お)く所有り」から解釈されるのが妥当である。天皇のお言葉である勅語に用いるので、「君臣と上下」を「中外と上下」としたことは容易に推測できるのである。

 さらに、福沢諭吉『文明論の概略』は明治8年であるが、ここにも典型的な文章がある。

「開闢(かいびゃく)以来君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別と言ひしもの、今日にいたりては本国の義となり、本国の由緒となり、内外の名分となり、内外の差別となりて、幾倍の重大を増したるにあらずや」

 この上下と教育勅語の草稿にある上下は同じ意味である。もちろん「上下」には「今と昔」という意味もある。しかし稲田正次『教育勅語成立過程の研究』にある明治23年8月10日頃の草稿とされているものには、「以て上下に推して謬らず……」とある。文脈からして、君臣上下の上下以外に解釈することには無理がある。

 この初稿は「中外」を「国の内外」「我が国と外国」と解釈することに反する事実である。またこの草稿を初稿とするか否かは別として、海後宗臣(かいご・ときおみ)『教育勅語成立史』や稲田正次『教育勅語成立過程の研究』に写真資料として掲載されている。動かない事実である。


◇4 誤った「中外」解釈に基づく「八紘一宇」

「斯の道」が第一段落の「徳=君徳(「しらす」という意義)」と臣民の遵守すべき「徳目」の両方を含んでいることは先に述べたところである。したがって「斯の道」すなわち「之」は「君徳」と「徳目」である。それらを「我が国だけでなく、外国でとり行っても」とする根拠は存在しない。井上毅が「君徳」を外国に施すと想定していた事実は見当たらない。起草七原則や「梧陰存稿」などにも存在しない。

 しかし「斯の道」を臣民の徳目と解し、「中外」を「国中と国外」という意味にとる誤った解釈が浸透した。

 たとえば「八紘一宇(はっこういちう)」を世に広めた田中智学に『明治天皇勅教物がたり』(昭和5[1930]年)がある。「君徳が反映しての民性」と語ってはいるが、「しらす」は一言もない。「中外」は「国中と国外」である。そうして「斯道(このみち)」は決して一国一民族の上のものではなく、中外に悖らざると喝破(かっぱ)せられたのは、「神武天皇のご主張たる「人類同善世界一家」の皇猷(こうゆう)を直写せられた世界的大宣言と拝すべきであらう」と述べるのである。

 これはある種の超国家主義的思想と教育勅語「中外」の誤った解釈が重なって出来た、田中智学独特のイデオロギーと考えるのが正しいのではないか。

「八紘一宇」は明治30年代に田中智学が造語したとされているが、その時期が明治24年の『勅語衍義』以後であり、さらに日清戦争以後であることは偶然ではないだろう。井上毅に「世界的大宣言」を連想させるものは見当たらない。数々の草稿にはその片鱗(へんりん)さえも見つけられない。

『明治天皇勅教物がたり』は『勅語衍義』を燃料として発展させたひとつの観念論ともいうべきものであって、事実に立脚した解釈の上に立つものではない。


◇5 新聞「日本」に掲載された井上毅の記事

 誤解を生じさせるような文言は前述した陸羯南(くが・かつなん)の新聞「日本」に掲載された井上毅「倫理と生理学との関係」にもある。

 新聞「日本」は「其の結論」として、「倫理は普通人類の当に講明す可(べ)き所にして、之を古今に通じ、之を中外に施して、遁(のが)れんと欲して遁るること能はず、避けんと欲して避くること能はざるものなり」と記したのである。

 一読では「之を古今に通じ、之を中外に施して」の主語を特定しにくい。「之」は「倫理」であり、「施して」の目的語であるが、漢文調のこの文章は慎重に読む必要がある。

「倫理は普通人類の当に講明すべきところにして、教育勅語に天皇が、之を我が国の歴史に照らして誤るところがなく、之を宮廷の内外、全国民に示して間違いのないものである、とお諭しになられたように、私たち国民はそのことから逃れようとして逃れられるものではなく、避けようとしても避けることのできないものである」と読むべきだろう。

 あくまで「之を古今に通じ、之を中外に施して」は教育勅語の天皇のお言葉である。

 したがって「施して」の主語は天皇である。天皇が外国で実践して逃れられないとは意味不明である。やはりここは「全国民に示して間違いがない」と解釈してその意味が判然とする。


◇6 「中外」は「全国民」の意味

 拙著『繙読「教育勅語」』や『国家神道は生きている』では、対象が五倫のみなので「倫理と生理学との関係」のこの「中外」は「東西・世界中でよく」としたのだが、これは訂正が必要である。上記のように天皇のお言葉であるから、この「中外」はやはり「宮廷の内と外」「朝廷と民間」、つまり全国民が正しい解釈である。

 また、この場合の「之」は「斯ノ道」であるが、「君徳」と「徳目」のうちの「徳目」つまり倫理について、それは儒教主義の占有物ではないとすることを目的として書かれたものである。起草七原則の(3)哲学理論は反対論を呼ぶので避ける、(5)漢学の口吻と洋学の気習とも吐露しない、に関連する。「之」や「斯ノ道」の全体を語ったものではない。

 そしてなにより、この「倫理と生理学との関係」には、皇祖皇宗が徳目としての徳を樹てられたとは一言も述べられていない。これは「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「徳目」とする解釈に反する事実である。新聞「日本」は「倫理の関係は元来人身の構造より生じたる造化自然の妙用に起るものにして」とまとめている。

 陸羯南はそのフランス語の実力を買われ、井上毅のもとで『奢是吾敵論(しゃぜごてきろん)』の翻訳に協力したといわれている。井上毅の考え方を十分理解していたことはほぼ間違いないだろう。

 明治23年11月3日の新聞「日本」の記事「斯道論」では、「斯の道は古今に通じて謬らず中外に施して替らず、上(か)み 天皇より以て下も匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)に至る迄皆な共に其の道として之を奉ずるに足る、国体の精華教育の淵源豈(あ)に斯の道を措(お)きて他に求る所あらんや」と述べている。

「中外」は正しく「朝廷と民間」つまり全国民である。ただこのあとの明治23年11月7日の新聞「日本」はもう少し丁寧な解説が必要だったのではないかと思われる。

 また井上哲次郎「勅語衍義稿本」を修正した井上毅「勅語衍義(修正本)」にもいくつか紛らわしい文章があるが、いずれも決定的なものではない。


◇7 「日本固有の道」は「宇宙の根本原理」ではない
「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「徳目」とし、「斯の道」をその「徳目」の実践のみとすることに根拠がなく、それに反する事実が存在することは述べたとおりである。「徳」は「君徳」であり、「斯の道」は「君徳」と臣民の「徳目」の両方を包含するので「朕爾臣民と倶に」とある「倶に」の意味が明瞭になるのである。したがって「之を中外に施して悖らず」に外国はまったく意識されておらず、この「中外」は「宮廷の内と外」、つまり文脈上は広い意味の「全国民」とするのが正しい解釈である。

 草稿段階の「爾臣民、宜(よろ)しく本末の序を明らかにし内外の弁を審(つまびら)かにして、教育の標準を愆(あやま)ることなかるべし」(「六修正」)にあるように「内外の弁を審かにして」の意思も明確である。「中外」を「国の内外」と解釈すると矛盾する。

 しかしそれでも、我が国固有の道は普遍性をもつものである、との言説がある。

 井上哲次郎は『東洋文化と支那の将来』において、「『教育勅語』に「斯ノ道」とあるのも決して儒教の道を意味されたものでなくして、日本固有の道である。日本固有の道の基礎根本は世界遍在の道で、即ち宇宙の根本原理である。宇宙の根本原理は普遍妥当性のもので、何も日本に限ったものではない。然しながら、それが日本といふ特殊の境遇を透して行はれる時に『惟神の道』又は『敷島の道』となり、日本固有とも云ふべき性質を帯びて来る」と語っている。

 教育勅語の「斯の道」が我が国固有のものであるとしても、それが世界遍在の道で即ち宇宙の根本原理とは分かりにくい。もともと教育勅語は維新以来の急激な欧米化の中で、道徳の紊乱(びんらん)が問題とされ、明治23年2月の地方長官会議における「徳育涵養(かんよう)の義につき建議」等を経て渙発(かんぱつ)されたものである。そしてその建議の文章は次のとおりである。

「我国には我国固有の倫理の教あり。故に我国徳育の主義を定めんと欲すれば、宜(よろし)く此固有の倫理に基(もとづ)き其教を立つべきのみ……冀(こいねがわ)くば今日猶(なお)狂瀾頽波の勢を挽回し以て我国固有の元気を維持することを得べし」

 この文章からは「宇宙の根本原理」が期待されていたとは考えられない。井上哲次郎『東洋文化と支那の将来』は昭和14年刊で東亜新秩序建設が叫ばれていた頃である。日清日露戦争に勝利してこの頃は我が国の「世界史的使命」が語られた頃である。それらを考慮しても「日本固有の道の基礎根本は世界遍在の道で、即(すなわ)ち宇宙の根本原理」は恣意(しい)的な解釈と言わざるを得ない。

 教育勅語の「斯の道」が宇宙の根本原理であるとは、明治天皇の周辺や井上毅の著作にはひとつも見当たらない。井上毅の起草七原則といわれるものに、(3)哲学理論は反対論を呼ぶので避ける、とあって、むろん教育勅語の本文に哲学理論は存在しない。教育勅語にはこの「宇宙の根本原理」や「世界的大宣言」が語られる根拠は全くないと言わざるを得ないのである。これらは「中外」の誤った解釈をもとに付会(ふかい)された謬見(びゅうけん)である。(つづく)


斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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