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「廃止の手続きを取っていない」──なぜ有識者に意見を求めるのか? 5 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「廃止の手続きを取っていない」
──なぜ有識者に意見を求めるのか? 5
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 私は運動家ではありませんが、わが国の現状と行く末を憂い、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を切に求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第3章 伝統を拒絶する官僚たちの暴走

第1節 なぜ有識者に意見を求めるのか?──依命通牒の「破棄」


▽5 「廃止の手続きを取っていない」
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 じつをいうと、矛盾するようですが、依命通牒はいまも生きています。

「(依命通牒の)廃止の手続は取っておりません」

 と宮内庁次長が国会で答弁しています。そして、この発言が重要なのです。

 それは平成3年4月25日の参院内閣委員会でのことでした。

 この日の議題は政府が提出した行政事務に関する国と地方の関係等の整理及び合理化に関する法律案で、午後、質問に立った共産党の吉岡吉典議員は、廃止が提案された許可認可等臨時措置法を取り上げ、かつて東条内閣の時代に戦時立法された大東亜戦争完遂のための法律がなぜいままで続いてきたのか、などと政府を追及したのでした。

 そのうえで、

「戦後、当時の日本の政府、これがいかに戦前の体制を温存しようとしてあらゆる努力をしたかということの証拠文献というのはたくさん出ている」

「何とかしてそういうものを温存しようということのあらわれだと私が思う一つの事実がある」

 と前置きしたうえで取り上げたのが、昭和22年5月の依命通牒でした。

 吉岡議員はこう問い質します。

「旧皇室令は廃止されたけれども、かわりの法令ができていないものは旧法令に従え。これは旧法令は実質上生きていることと同じことになるわけです。廃止された法律が生きているのと同じような通牒が堂々と出されているというのは、私にはこれも解せないことなんです。
 宮内庁、この通牒があることはもう紛れもない事実ですからお認めにならざるを得ないと思いますが、この通牒は今は効力はどういうふうになっていますか?」

 宮内庁の宮尾盤次長が、政府委員として答弁に立ちました。

「今、御質問がありました、これ(依命通牒)が効力を持っているか、こういうお尋ねでございますが、この通牒は、皇室令がいわゆる新憲法の施行とともに効力を失った当時におきまして、宮内庁、当時は宮内府と言っておりましたが、その宮内府内部における当面の事務処理についてのいわゆる考え方を示したものでありまして、これは法律あるいは政令、規則というようなものではございません。そういう考え方を示したものでありますが、その後現在まで廃止の手続はとっておりません」

 宮尾次長の答弁からは、

(1)依命通牒は新憲法施行当時の宮内府内部の文書であること
(2)廃止の手続きは取られていないので、文書はいまも生きていること

 の2点が読み取れます。

 吉岡議員は依命通牒が廃止されていないことに強く反応し、今度は法制局に矛先を向け、

「私は古いものを残していこうという心理的な状況があらわれているというふうに考えざるを得ません」

「戦後、憲法を改正して主権者がかわったんです。主権者が天皇から国民にかわるほど、これほど大きい憲法の改正が行われた今、太政官布告だ、勅令だ、朕だ、帝国議会だと、こういう法律は内容も、同時に形式も私は検討に値するものだと思います。…(中略)…
 新しい憲法に則して法律の形式、内容とも整備していくことが当然のことであり、戦後新憲法が制定された当時からこういう作業は開始していくのが本来の新しい憲法のもとでの平和国家、民主国家だと言っている日本にふさわしい法律のあり方じゃないかと思います」

 と熱弁を振るいました。天皇の存在を「戦前の君主絶対の名残」「民主主義の時代には合わない時代錯誤」(『新日本共産党宣言』)と決めつけ、「戦後民主主義」の旗手を自任する、いかにも共産党議員ならではの主張です。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります


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依命通牒の全文──なぜ有識者に意見を求めるのか? 4 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2017年7月21日)からの転載です


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依命通牒の全文
──なぜ有識者に意見を求めるのか? 4
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 私は運動家ではありませんが、わが国の現状と行く末を憂い、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を切に求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第3章 伝統を拒絶する官僚たちの暴走

第1節 なぜ有識者に意見を求めるのか?──依命通牒の「破棄」


▽4 依命通牒の全文
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 以下、「宮内府関係法令集」「宮内庁関係法規集」に掲載されていた規定を、漢字使用、仮名遣いなど、できるだけ忠実に転記します。もちろん原文は縦書きです。

  ○皇室令及び附屬法令廢止に伴い、事務取扱に關する通牒

宮内庁長官官房
文  書  課發第四五號
 昭和二十二年五月三日
      宮内府長官官房文書課長 高 尾 亮 一
  各部局長官殿

   依命通牒
皇室令及び附屬法令は、五月二日限り、廢止せられることになつたについては、事務は、概ね、左記により、取り扱うことになつたから、命によつて通牒する。

   記
一、新法令ができているものは、當然夫々、その條規によること。(例、皇室典範、宮内府法、宮内府法施行令、皇室經濟法、皇室經濟法の施行に關する法律、皇統譜令等)
二、政府部内一般に適用する法令は、當然、これを適用すること。(例、官吏任用敍級令、官吏俸給令等)
三、從前の規定が廢止となり、新らしい規定ができていないものは、從前の例に準じて、事務を處理すること。(例、皇室諸制典の附式皇族の班位等)
四、前項の場合において、從前の例によれないものは、當分の内の案を立てゝ、伺いをした上、事務を處理すること。(例、宮中席次等)
五、部内限りの諸規則で、特別の事情のないものは、新規則ができるまで、從來の規則に準じて、事務を處理すること。特別の事情のあるものは、前項に準じて處理すること。(例、委任規定、非常災害處務規定等)

 以上です。

 皇室祭祀令の廃止後も宮中祭祀が存続できたのは、この依命通牒があるからです。皇室喪儀令が廃止されたにもかかわらず、昭和26年の貞明皇后の大喪儀が喪儀令に準じて斎行されたのはこの第3項があるからです。

 もうひとつ、補足したいのは、依命通牒が「法令集」に掲載されているのは、

「昭和二十二年五月三日現行の法令のうち、宮内府の事務に必要なもの」

 として選ばれたということです。

 この依命通牒の第3項によって天皇の祭祀はかろうじて維持されました。

 ところが、終戦30年の昭和50年8月15日、ときまさに宇佐美宮内庁長官、富田次長の時代、宮内庁長官室における、いわば密室の会議で、この依命通牒が「廃棄」されたことが、宮内庁関係者の証言や側近の日記などによって明らかになっています。

 たとえば、昭和天皇の祭祀に携わった永田忠興元掌典補はこう証言します。

「依命通牒は『宮内庁関係法規集』から、50年9月突然、消えました。どのような経緯があったのか、詳細は分かりませんが、このとき天皇陛下の祭祀は明文法的根拠を完全に失ったのです」(「『昭和天皇の忠臣』が語る『昭和の終わり』の不備──永田忠興元掌典補に聞く」=「文藝春秋」2012年2月号。聞き手は私です)

 こうして依命通牒は「宮内庁関係法規集」からはずされ、実際、毎朝御代拝など宮中の重要な祭祀などが大きく改変されました。

 125代の皇室の伝統は、占領期に占領軍によってではなく、ここに至って、戦後30年目にして、日本政府の官僚の独断専行によって、密かに失われることとなったのです。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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昭和22年「宮内府関係法令集」 ──なぜ有識者に意見を求めるのか? 3 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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昭和22年「宮内府関係法令集」
──なぜ有識者に意見を求めるのか? 3
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 私は運動家ではありませんが、わが国の現状と行く末を憂い、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を切に求めます。
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第3章 伝統を拒絶する官僚たちの暴走

第1節 なぜ有識者に意見を求めるのか?──依命通牒の「破棄」


▽3 昭和22年「宮内府関係法令集」

 国立国会図書館には、依命通牒が掲載された、昭和22年当時の『宮内府関係法令集』が所蔵されています。
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 同図書館に納本されている唯一の『宮内府関係法令集』で、深い緑色の固い表紙に複写禁止を示す「×複写」の紙片が張られ、背表紙には「宮内府関係法令集 昭和22年12月4日現在」と表記されています。厚さは4センチ弱で、全部で四百数十ページ。各ページの紙は変色して赤茶けています。

「はしがき」には、

「一、この法令集は、昭和二十二年五月三日現行の法令のうち、宮内府の事務に必要なものを選んで収録した。
 二、この法令集の第一部には、皇室及び宮内府に関する法令を、第二部にはその他の法令を掲げた」

 などと記され、最後に

「昭和二十二年五月 宮内府長官官房文書課」

と記されています。

「目次」を見ると、「第一部」に

「日本国憲法」
「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」
「日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令」
「皇室典範」
「皇統譜令」

 などが並び、掲載される20本の法令の17番目に、

「皇室令及び附属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒(昭和二十二年五月三日宮内府長官官房文書課発第四五号依命通牒)」

 が載っています。

「奥付」には

「昭和廿二年七月五日 印刷納本 宮内府關係法令集(第一分冊)」
「非売品」

とあります。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります
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依命通牒の起案書 ──なぜ有識者に意見を求めるのか? 2 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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依命通牒の起案書
──なぜ有識者に意見を求めるのか? 2
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 私は運動家ではありませんが、わが国の現状と行く末を憂い、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。このままでは悪しき先例がそのまま踏襲されるでしょう。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を切に求めます。
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第3章 伝統を拒絶する官僚たちの暴走

第1節 なぜ有識者に意見を求めるのか?──依命通牒の「破棄」


▽2 依命通牒の起案書
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 以下、できるだけ忠実に、起案書の全文を書き写します。
(注。原文は正字が使われています。PCの環境によっては正確に表示されない可能性がありますが、ご了承ください。以下同じ)

(1枚目)
立案 昭和二十二年五月三日
決裁 昭和〃年〃月〃日   文書課長(「高尾〈斎藤吉久注。のちに昭和新宮殿建設時の管理部長・高尾亮一〉」の印)

長官(花押)
次長(「加藤〈斎藤吉久注。のちに済生会理事長・会計検査院長などを務めた加藤進〉」の印)
皇室令及び附属法令は、五月三日限り、廢止せられることになつたについては、事務は、概ね、左記により、取り扱うことにしてよいか、伺います。
    記
一、新法令が、できているものは、当然夫々、その條規によること。(例、皇室典範、宮内府法、宮内府法施行令、皇室経済法、皇室経済法の施行に関する法律、皇統譜令等)
二、政府部内一般に適用する法令は、当然、これを適用すること。(例、官吏任用敍級令、管理俸給令等)
三、從前の規定が、廢止となり、新しい規定

(2枚目)
が、できていないものは、從前の例に準じて、事務を処理すること。(例、皇室諸制典の附式、皇族の班位等)
四、前項の場合において、從前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること。(例、宮中席次等)
五、部内限りの諸規則で、特別の事情のないものは、新規則ができるまで、從來の規則に準じて、事務を処理すること。特別の事情のあるものは、前項に準じて処理すること。(例、委任規定、非常災害処務規定、宿直処務規定等)

宮内府長官官房文書課発第四五号
 依命通牒案
 昭和二十二年五月三日 宮内府長官官房文書課長
 各部局長官

(3枚目)
    依命通牒
皇室令及び附属法令は、五月三日限り、廢止せられることになつたについては、事務は、概ね、左記により、取り扱うことになつたから、命によつて通牒する。
    記
(前同文)


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない ──平成の御代替わり「2つの不都合」 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない
──平成の御代替わり「2つの不都合」 6
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 即位の礼と大嘗祭の日程について、続けます。

 平成の御代替わりでは、平成2年11月12日に即位礼正殿の儀が行われ、その10日後、22日から23日にかけて、大嘗祭が挙行されました。

 昭和の御代替わりもそうでした。昭和3年11月10日に即位の大礼が行われ、その4日後、14日夕刻から大嘗祭が行われました(『昭和大礼要録』昭和6年)。

 なぜ「10日後」あるいは「4日後」なのでしょうか。

「昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです」

 昭和から平成の御代替わりに携わった永田忠興元掌典補が問題点を指摘するのは道理です。

 即位の礼・大嘗祭の「期日」に関する赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)の解説を読んでみます。

「つつしみて按ずるに、大礼を行はるる期日は、宮内大臣・国務大臣の連署をもって中外に公告し、かつ同時に賢所、皇霊殿、神殿ならびに神宮、神武天皇等の山陵にこれを告げたてまつらるるなり。
 さて、このたびの大礼の期日は、いまだ公告なければ、いづれの日に行はるるやを知らず、民間に伝ふるところにては11月23日、例年新嘗祭の日に大嘗祭を行はれ、その数日後前に即位の礼を行はるべしとも、また11月3日、今上天皇立太子の日に即位の礼を行はれ、13日の卯の日に大嘗祭を行はるべし、などとも伝ふ。
 そのいづれの日に決せらるるやを知らねど、記して参考に備ふ」

 赤堀は本文にはそう書いていますが、実際に本が刊行される段階では期日は定まっていました。巻頭に期日が定まったことを知らせる官報号外が引用されています。

 じつは赤堀の『御即位及大嘗祭』は少なくとも大正3年版と翌年の再版とがあるようで、前者には大正3年1月17日官報号外が次のように引用されています。(原文は漢字片仮名交じり。以下同じ)

 即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
即位の礼 大正3年11月10日
大嘗祭  同  年同 月13日
 大正3年1月17日  国務各大臣宮内大臣連署

 しかし実際にはこの期日には行われませんでした。すでに申し上げましたように、昭憲皇太后が3年3月に崩御され、大正の即位礼・大嘗祭が延期されたからです。

 4年5月に再販された赤堀の本には、あらためて定められた期日を告知する大正4年4月19日官報(号外)が引用されています。

即位の礼および大嘗祭の期日、左の通り定めらる
  即位の礼 大正4年11月10日
  大嘗祭  同  年同 月14日
 大正4年4月19日 内閣各大臣連署

 大正天皇の大嘗祭は即位の礼の、じつに4日後でした。なぜ相次いで執り行う必要があったのでしょうか。

 かつてはどうだったのでしょう。赤堀の解説を読んでみましょう。

「古例、即位の礼を行はるる日は、定まれることなし。ただし、中古以来は、陰陽道の説をこれらのことに採用せられたれば、陰陽頭に命じて、これを勘(かんが)へ申さしめらるる例なり。
 寛永7年中御門天皇、即位の礼を行はれしときには、陰陽頭安倍泰連、その年の『11月11日巳の時』をもって大礼を行はるるに宜しき吉日、吉時と選定して上申し、これを採用ありし類いなり」

 大嘗祭はどうでしょうか。

「大嘗祭を行はれし日、往古のことは詳らかならず。
 中古以来、11月下の卯の日を例とす。もし11月中に3か度、卯の日あれば、中の卯の日を用ひられし例なり。新嘗祭も卯の日に行はれたり。卯の日と定められし理由はこれを知らず」

 明治の皇室典範は第11条に

「即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ」

 と定め、登極令の第4条は

「即位の礼および大嘗祭は秋冬の間において、これを行ふ。大嘗祭は即位の礼を訖(おは)りたるのち、続いてこれを行ふ」

 と規定していました。これには今日とは異なる、交通機関の未発達が背景にあるものと想像されます。明治末年なら新橋・神戸間が13時間かかりました。即位の礼・大嘗祭を引き続いて執り行わざるを得ない事情があったということでしょう。

 しかし京都で挙行するという規定もない今日では、もっと時間的余裕をもって挙行してよろしいのではないでしょうか。

タグ:御代替わり
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戦後も続いてきた祭祀の伝統 ──なぜ有識者に意見を求めるのか? 1 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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戦後も続いてきた祭祀の伝統
──なぜ有識者に意見を求めるのか? 1
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 私は運動家ではありませんが、やむにやまれぬ思いから、組織も資金もないなか、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。現状では悪しき先例がそのまま踏襲されるに違いありません。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を心から求めます。
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 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第3章 伝統を拒絶する官僚たちの暴走

第1節 なぜ有識者に意見を求めるのか?──依命通牒の「破棄」


▽1 戦後も続いてきた祭祀の伝統
koukyo01.gif
 政府はなぜ、皇室の制度に関することについて、有識者ヒアリングを実施し、意見を求めるという手法を採ったのでしょうか?

 皇室の制度に関連して、政府が有識者に参考意見を求め、ものごとを決めた最初のケースは、私の知るところ、昭和天皇の崩御のあと、御代替わりの諸行事について、だったかと思います。政府の準備委員会で、15人の参考人が意見を述べています。

 すでに述べたように、当時のキーパーソンの1人である石原信雄内閣官房副長官によれば、当時の最大の懸案事項は大嘗祭で、「行うか行わないかが大問題になった」(『官邸2668日─政策決定の舞台裏』平成7年)のでした。

 そこで石原氏は、海部総理や森山眞弓官房長官とも相談し、賛成・反対の、各方面の意見を聞くことにしました。意見は十分に言ってもらい、

「最後は政府の責任でやらせてもらう」

 という姿勢で、議論を収めたのでした。

 それなら、なぜ「各方面の意見を聞く」ことになったのでしょうか?

 それは、政府関係者は説明していませんが、125代にわたって皇室に伝わってきた、御代替わりの諸儀礼の伝統を重んずべき法的基準が、昭和の時代に、昭和天皇の側近たちの一方的判断によって、失われていたからでしょう。

 皇室に関する諸制度が大きく変わった歴史的転換点は、70年前の敗戦・占領であると一般には考えられています。GHQによって皇室制度が一変させられたという理解です。

 たしかに憲法は変わり、皇室典範も変わり、皇室令は廃止されましたが、占領軍によって皇室の伝統すべてが一変させられたというわけではありません。

 というのは、昭和22年5月3日の新憲法施行とともに、宮内府長官官房文書課長高尾亮一名による各部局長官宛の依命通牒(皇室令及び付属法令廃止に伴い事務取扱に関する通牒)が発せられ、これによって、

「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)

 とされ、宮中祭祀など皇室の歴史と伝統が、辛うじてではあるにしても、新憲法施行後の占領下でもずっと生きていたからです。

 22年5月3日に現行皇室典範が日本国憲法とともに施行され、その前日に皇室令は廃止されましたが、皇室の伝統はほとんどそのまま維持されたのです。

 このときの依命通牒の起案書が残されています。

 起案書は、赤線に縁取られた、宮内府のさらに前身である宮内省の事務用箋、B4判、3枚に、毛筆でしたためられています。もちろん縦書きです。

 1枚目の欄外には「文議第二号」とあり、同じく欄外に「御覧済」の朱印が押され、付箋でしょうか、「御覧モノ」と墨字で書いた紙が付されているようです。昭和天皇が起案書を御覧になったということでしょう。


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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即位の礼と大嘗祭が相次いで挙行されるのは新例 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 5 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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即位の礼と大嘗祭が相次いで挙行されるのは新例
──平成の御代替わり「2つの不都合」 5
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 さて、もうひとつの不都合、つまり、即位の礼と大嘗祭の日程について、です。

 永田忠興元掌典補は問題点を、次のように指摘しています。

「即位礼の10日後に大嘗祭が行われるという日程も、再考する必要がありそうです。
 昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです。
 即位礼と大嘗祭とを、もっと期間を空けるべきだ、と民俗学者の柳田国男が書いているのを読んだことがあります」

 赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)が、即位の礼および大嘗祭が行われる「時期」と「期日」について解説していますので、ご紹介します。

 まず「時期」です。

「つつしみて按ずるに、登極令によれば、即位の礼と大嘗祭とは同時に相次いで挙行せられ、相離るべからざるものと定められたり。しかして大嘗祭には新穀を用ゐらるる例なれば、そのために秋冬のあいだに行はるることとなれるなり」

 ご承知の通り、登極令は、即位の礼・大嘗祭について。以下のように定めています。

第4条 即位の礼および大嘗祭は秋冬の間において、これを行ふ。大嘗祭は即位の礼を訖(おは)りたるのち続いてこれを行ふ。

 けれども、これは新例だったようです。

「古例は、即位の礼と大嘗祭とを必ずしも相続いて行はれしにはあらず。即位にはもとより定まれる時なく、大嘗祭は、新穀供進の関係よりして、7月以前に即位あれば、その年に大嘗祭を行はれ、8月以後に即位のときには、翌年、大嘗祭を行はれし例なり」

 すでに平安前期の儀式書にそのことが記されています。

「貞観儀式に、『7月以前の即位には当年ことを行ひ、8月以後には明年ことを行ふ。諒闇の登極を謂ふにはあらず』といへる、これなり」

 大行天皇の服喪期間に即位の礼・大嘗祭が行われないのはいうまでもありません。

「諒闇は凶事にして上下謹慎のなかにあり。その間に神事は行はざることなり。登極令第18条に、『諒闇中は、即位の礼および大嘗祭を行はず』と載せられしは、貞観儀式に伝へるところと同義なり」

 それなら譲位の場合はどうなのか。

「いにしへは譲位の例ありしかば、諒闇登極ならぬ例あれど、いまはその慣例を改められて、天皇崩ずるときは皇嗣すなはち践祚あることに規定せられたれば、こののちはすべて諒闇登極のみとなりたり。ゆゑに践祚ののち1カ年以上を経たる秋冬のあいだに、即位の礼および大嘗祭は挙行せらるるなり」

 こうして登極令のもとで行われた大正天皇の即位の礼、大嘗祭は大正4年の秋冬に行われることとなりました。明治天皇が崩御されたのは7月でしたから、当初は3年の予定でしたが、3年3月に昭憲皇太后が亡くなられ、一年延期されたのでした。

 昭和天皇の場合は、大正天皇が崩御されたのが12月で、1年の服喪を経て、昭和3年秋に即位の大礼が行われました。

 今上天皇の場合は、昭和天皇が崩御されたのが1月で、即位の礼・大嘗祭は翌2年秋に行われました。登極令も皇室服喪令も日本国憲法施行とともに廃止されましたが、これらの規定に準じて、挙行されたということでしょう。

 さて、となると、次の御代替わりはどうでしょうか。伝えられるように、今上陛下の譲位にもとづく皇位継承が来年暮れだとすれば、即位の礼および大嘗祭は再来年の秋という日程になるのでしょうか。

タグ:御代替わり
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衣の裾から鎧が見える ──支離滅裂な「論点整理」 4 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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衣の裾から鎧が見える
──支離滅裂な「論点整理」 4
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 私は運動家ではありませんが、やむにやまれぬという思いから、組織も資金もないなか、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。現状では悪しき先例が踏襲されるに違いありません。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を心から求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む

第7節 支離滅裂な「論点整理」──変更された制度改革の目的意識


▽4 衣の裾から鎧が見える
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 さらに、「論点整理」には、「別添2」の参考資料に、「2 天皇皇后両陛下・皇族殿下の御活動」が、じつに12ページにわたって説明されています。

「文仁親王同妃両殿下(秋篠宮)の御活動」
「正仁親王同妃両殿下(常陸宮)の御活動」
「崇仁親王同妃両殿下(三笠宮)の御活動」
「寛仁親王同妃両殿下の御活動」
「宜仁親王殿下(桂宮)の御活動」
「憲仁親王妃久子殿下(高円宮)の御活動」

 が解説され、「総裁職など」の肩書きが列記されています。

 政府の発想としては、国民との絆を強固にしてきたこれらのご活動が、将来、皇族の規模が縮小した場合、どうなるのか、と心配しているかに見えます。

 けれども、第一に、皇族方の社会活動は、「天皇の御活動」を「分担」しているのではありません。各財団法人、社団法人にとっては名誉職でしょうから、宮様総裁が不在なら組織が成り立たないということはないでしょうし、将来、不都合が生じるなら、それは各団体が考えるべきことです。

 既述したように、日本オリンピック委員会は旧皇族の子孫を会長とし、伊勢神宮では元内親王が臨時祭主をお務めですが、それぞれの事務や経費の負担については、それぞれが考えるべきことであって、政府が介入すべきことではないでしょう。

 それぞれの団体の活動は、行政とは直接関係のない形で行われているはずです。たとえば、皇族方の社会福祉の分野でのご活動が高く評価されるのは当然ですが、政府がすべきことは社会福祉政策のいっそうの充実であって、行政とは一線を画すべき皇族方のご活動の維持を目的として、皇族の規模を確保することではないでしょう。

 ましてや、これらの団体の活動維持のために、皇室制度を改革する必要など、まったくあり得ません。

 制度改革が必要だとすれば、男統の絶えない皇室制度をこそ、真剣に、慎重に模索するのが、先決です。

 政府はいったい、何のために、過去の歴史にない皇室制度改革に挑んでいるのでしょうか。「論点整理」は「終わりに」で、次のように棚上げしたはずの皇位継承論に言及しています。

「なお、今回の検討では、皇室の御活動維持の観点から、緊急性の高い女性皇族の婚姻後の身分の問題に絞って議論を行ったが、現在、皇太子殿下、秋篠宮殿下の次の世代の皇位継承資格者は、悠仁親王殿下お一方であり、安定的な皇位の継承を確保するという意味では、将来の不安が解消されているわけではない。安定的な皇位の継承を維持することは、国家の基本に関わる事項であり、国民各層の様々な議論も十分に踏まえながら、引き続き検討していく必要がある」

 衣の裾から鎧が見える、ということではないのでしょうか。もともと「女性宮家」創設論は10年以上前に、女性天皇・女系継承容認論と一体のかたちで生まれたのです。

 今回の「女性宮家」創設を直接的に提唱したと目される前侍従長(いまは元職。以下同じ)は

「皇位継承問題とは別の次元の問題」

 と文庫本の後書きに明記し、民主党政権は皇室制度ヒアリングを行うに当たって、

「皇位継承問題とは切り離して行う」

 と念押ししましたが、それらは真っ赤なウソだったことになります。

 ごくふつうの人なら、よもや側近が悠久なる皇室の伝統とはまったく異質の天皇観に取り憑かれ、皇室の歴史に終止符を打つような謀叛を企てていることなど、およそ想像だにしないことでしょう。

 しかし、ジャーナリズムやアカデミズムからも、そのような指摘も批判も聞かれません。「女性宮家」創設に反対する有識者から、提唱者である前侍従長に対する批判の言葉さえ聞いた試しがありません。

 それどころか、「まえがきにかえて」で言及したように、マスメディアは前侍従長を重用し、前侍従長は皇室の歴史と伝統に相違する「1.5代」天皇論を小脇に抱えて全国を行脚しておいでです。

 前侍従長の体験的天皇論は多くの国民に感動を与え、魅了しているようです。けれども、私にはむしろ、謀叛隠しのアリバイ工作のように見えます。つくづく日本の官僚は優秀だと驚嘆します。

 しかしそれほど卓抜なる能力をお持ちならば、長い歴史をかけて形成されてきた天皇統治の意義は何か、わが祖先たちはいかなる志をもって世界にまれなる天皇制度を築いてきたのか、あらためて歴史を読み直していただけないものでしょうか?


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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臨時職員が任命された大嘗祭の古例 ──平成の御代替わり「2つの不都合」 4 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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臨時職員が任命された大嘗祭の古例
──平成の御代替わり「2つの不都合」 4
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 赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)は、大礼使官制を掲載したあと、古例について説明しています。
昭和の大嘗宮.png
 以下、これを全文引用します。(漢字を開くなど、適宜編集しています)

「古例、即位の礼は、臨時のことなれども、その儀式だいたい正月元日の恒例の朝賀と同じければ、とくに職員を任命せらるること少なく、大臣、叡旨を承りて、殿上に侍する侍従4人と少納言2人とを定め、その当日、門外のことは外弁1名、閤外(こうげ)大臣、門内のことは内弁1名閤内大臣これを掌り、百官の進退は典儀これを令し、賛者ありてこれをたすく。
 事務は式部省その他に掌る。これ中古のさまなり。
 近世は即位も大嘗祭も、摂政関白にてこれを総裁し、伝奏(てんそう)にて事務を統括し、行事官等をもって調度を備へしものの由なり。即位の礼に内弁典儀等をもって式場を整理せられしは、中古と同じかりしなり。
 大嘗祭は、臨時の儀式にして、かつその事務、即位よりもなほ繁雑なれば職員を任命せらるることも夥しかりき。
 中古には大納言、中納言のなかにて2人と、参議1人とを悠紀所、主基所の検校に補せらるるは大礼使長官の如く、四位五位のなかにて4人の行事をおかるるは事務官、典礼官等のごとし。
 その神事に親しく仕ふるものは、みな卜(うらなひ)をもって定められしは、今日と大いに事情の異なるところ、悠紀、主基の両国に重きをおかれしは費用支出の関係より起こりたるなり。
 しかして徳川時代、武人は、表面にはけっして大礼に関係なかりしものなり。その由は前の条に述べしがごとし」

 以上、赤堀によれば、歴史的にみると、即位の礼では特別の機関が置かれなかったが、大嘗祭では職員が臨時に採用されたようです。

 このような歴史に倣い、大正の御代替わりでは大礼使が置かれることになったということでしょうか。

 大正の大礼では、大礼使官制に基づき、大礼使総裁に貞愛親王殿下(伏見宮)が、長官には原敬が勅命されました。

 昭和の御代替わりも同様で、総裁には閑院宮載仁親王、長官は近衛文麿が就任し、ある書物によると、大礼使職員は総裁以下510人を数えたとのことですが、日本国憲法下で初めてとなる平成の御代替わりでは、大礼使は置かれませんでした。

 憲法と同格の法的地位にあった明治の皇室典範には「第11条 即位の礼および大嘗祭は京都において、これを行ふ」と定められていましたが、一法律に過ぎない戦後の皇室典範には「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と規定するのみで、大嘗祭への言及すらありません。

 そして職員はひたすら眠い目をこすり、長時間勤務に耐えつつ、御代替わりに携わることになったのです。

 東京・横網の都慰霊堂は、都の外郭団体によって管理され、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む春秋年2回の慰霊法要には、都の職員が多数協力しているようです。また、阪神淡路大震災の被災地・兵庫県では、県知事を会長とする県民会議が組織され、官民合同で「安全の日のつどい」などが行われています。

 前者は仏式の法要で、都内の5つの仏教寺院の持ち回りで行われています。皇族代表や都知事も焼香に訪れます。後者の追悼式典ではキリスト教音楽が奏でられ、一昨年の20式典は天皇陛下が皇后陛下を伴い、ご臨席になりました。

 だとしたら、即位の礼・大嘗祭を「国の行事」とし、官民を挙げてお祝いする現代的な方法が見出せないものでしょうか。

タグ:御代替わり
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近代化に伴う改革 ──支離滅裂な「論点整理」 3 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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近代化に伴う改革
──支離滅裂な「論点整理」 3
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 私は運動家ではありませんが、やむにやまれぬという思いから、組織も資金もないなか、「御代替わり諸儀礼を『国の行事』に」キャンペーンを、1人で始めました。現状では悪しき先例が踏襲されるに違いありません。改善への一歩を踏み出すために、同憂の士を心から求めます。
https://www.change.org/p/%E6%94%BF%E5%BA%9C-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81-%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A%E8%AB%B8%E5%84%80%E7%A4%BC%E3%82%92-%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E4%BA%8B-%E3%81%AB

 さて、以下、拙著『検証「女性宮家」論議──「1・5代」天皇論に取り憑かれた側近たちの謀叛』からの抜粋を続けます。一部に加筆修正があります。


第2章 有識者ヒアリングおよび「論点整理」を読む

第7節 支離滅裂な「論点整理」──変更された制度改革の目的意識


▽3 近代化に伴う改革
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 このような改革はなぜ起きたのでしょうか。

『皇室制度史料』は、明治19年の皇族叙勲内規制定に関する『明治天皇紀』の文章を引用しています。

「皇族叙勲のこと、従来、成法なし。欧州諸国にありては皇族の品秩おのずから備わり、生まれながらにしてその国最高勲位を帯ぶるものとす。しかれども本邦においてはまたおのずから皇族待遇の慣例あり。概して欧州の法にならうべからずといえども、外交、日に熾旺なるに際し、彼我の権衡を得しむることまた必要なりとす……」

 日本の皇位継承とヨーロッパの王位継承を比較すると、ともに世襲でありながら大きく異なるのは、父母の同等婚という原則の有無です。

 たとえばイギリスやスペインで女子の王位継承を可能にしているのは、父母がともに王族だからで、女系子孫に王位が継承されれば王朝が交替し、新たな父系の継承が始まります。

 しかし日本の天皇は父母の同等婚を要求しない代わりに父系の皇族性を厳格に求めてきたのです。万世一系という原則上、女系が認められるはずはないからです。

 別ないい方をすれば、日本では臣家の女子が皇太子妃や皇后となる可能性が大いにあります。近代の日本はその場合、欧米列強に伍していくために、たとえ臣家の出身であったとしても皇族待遇とした歴史に学んで、皇后や皇太子妃を皇族扱いとし、近代の皇室制度を整備したものと思われます。

 宮内庁のHPも同じですが、政府の「論点整理」は「天皇皇后両陛下の御活動」として、「国事行為など」「行幸啓」「外国御訪問」などを説明し、「宮中祭祀」までが「両陛下の御活動」とされています。伝統的概念からの逸脱はいうに及ばず、現行憲法にも違反する疑いがあります。

 すでに指摘したように、たとえば平成24年2月、今上陛下がご入院されたとき、「見なし皇族」であるはずの皇后陛下がお一人で、フィジーなどに赴任する日本大使夫妻と「お茶」に臨まれ、3月には離任するペルー大使を「ご引見」になりました。

 その延長線上に、皇族身分を失った女性皇族による「皇室の御活動」の「御分担」論が生まれているのでしょう。

 そして、「まとめ」では、こう結論づけられています。

「象徴天皇制度の下で、皇族数の減少にも一定の歯止めをかけ、皇室の御活動の維持を確かなものとするためには、女性皇族が一般男性と婚姻後も皇族の身分を保持しうることとする制度改正について検討を進めるべきであると考える」


以上、斎藤吉久『検証「女性宮家」論議』(iBooks)から抜粋。一部に加筆修正があります

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